生活の教え 72
72 人間がもはや殺人の悪の中にいないで、隣人に対する愛の善の中にいる時、彼の行なうどんなものでも、この愛の善のものであり、結果として、善の働きです。
その善の中にいる祭司は、教え、導くたびごとに、霊魂を救う愛から行なうので、善の働きをします。
その善の中にいる行政長官は、統制し、判断するたびごとに、祖国・社会・同胞の市民を思いやる愛から行なうので、善の働きをします。
商人も同様に、その善の中にいるなら、彼の仕事のすべては善の働きです。その中には隣人愛があります。隣人とは、祖国・社会・同胞の市民、そしてまた家の召使いであり、自分自身とともに彼らを思いやります。
その善の中にいる労働者もまた、その善から、自分自身のためのように他の者のために、自分自身の損害のように隣人の損害を恐れて、忠実に働きます。
彼らの行ないが善の働きであるのは、全般的な法則にしたがって、だれかが悪を避ければ避けるほど、それだけ善を行ない(前の21番)、悪を罪として避ける者は、自分自身からでなく、主から善を行なうからです(18―31番)。
敵意・憎しみ・復讐、またその他多くの種類の殺人を罪と見なさない者のもとでは正反対です――祭司であれ、あるいは行政長官であれ、あるいは商人であれ、あるいは労働者であれ、彼らの行なうどんなものでも、善の働きではありません。そのすべての働きは内部にある悪と関わっています、というのは、その内なるものが生み出すからです。外なるものは、善でありえます、しかし〔その外なるものは〕他の者のためのものであって、自分自身のためのものではありません。