カテゴリー

生活の教え 39

038◀︎目次▶︎040

39 善が真理を愛することは、祭司・兵士・商人・職人と比較することによって明らかにすることができます。
祭司の場合――彼が、霊魂の救いに供すること、天界への道を教えること、そして教えた者を導くことである祭司職の善の中にいるなら、その善の中にいるかぎり、愛とその願いから、教えるべき真理を、それによって導く真理を獲得します――けれども、祭司職の善の中にいないで、自己愛と世俗愛から自分の職務の楽しみの中にいて、そのことだけが〔自分にとって〕善である祭司もまた、愛とその願いから、彼の善である楽しさを吹き込まれるにしたがって、豊かに、自分自身に真理を獲得します。
兵士の場合――軍務の愛の中にいて〔祖国を〕護ることまたは名声に善を感じるなら、彼はその善から、またそれにしたがって、知識を、士官なら、知性を自分自身に獲得します――これらは彼の善である愛の楽しさが養われ、形成されるような真理です。
商人の場合――愛から商売に専心したなら、彼は快さとともにその愛を入れ、作り上げるすべてものを手段として吸収します――これらのものもまた商売が彼の善であるとき、真理のようです。
職人の場合――自分の働きに熱心に励み、それを自分の生活の善のように愛するなら、彼は道具を買い、またその知識のようなものによって、自分自身を理想へと近づけ、これらによって自分の働きを善であるようにします。
これらから、真理は愛の善が存在し、何らかのものになるための手段であること、したがって、善は〔それ自体が〕存在するようになるために真理を愛することが明らかです。
ここから、みことばの中で「真理を行なうこと」によって、善が存在するようになるために行なうことが意味されます。
このことが、
真理を行なうこと(ヨハネ3・21)、
主のことばを行なうこと(ルカ6・47)、
その方の戒めを行なうこと(ヨハネ14・24)、
その方のことばを行なうこと(マタイ7・24)、
神のことばを行なうこと(ルカ8・21)、
法令と審判を行なうこと(レビ記18・5)によって意味されます。

このこともまた「善」を行なうことと「実」を結ぶことです。なぜなら、善と実は存在するようになるものであるからです。