カテゴリー

最後の審判と世の終わり 第二部 46

045◀︎目次▶︎047

46 [4638] 「その時、天の王国は……十人の娘と同様である」は、旧い教会の最後の時と新しい教会の最初の時を意味します。教会は地上の主の王国です。「十人の娘」は、教会の中の、すなわち、善と真理の中にも、悪と虚偽の中にもいるすべての者です。内意で「」は、残りのもの、そしてまた十分なもの、このようにすべてのものです。また「」は、教会の中の者です。このように、みことばの中の他の箇所でもまたこのようなものが意味されています。
[2]「自分の明かりを握っている者」は、霊的なものの中に天的なものがあるその霊的なものを、すなわち、真理の中に善があるその真理を、または同じことですが、信仰の中に隣人に対する仁愛があるその信仰を、また仁愛の中に主への愛があるその仁愛を意味します、というのは「」は愛の善であるから、そのことについては後で続けます。しかし、「その中に油のない明かり」は、信仰と仁愛の中に善がない同じものです。
[3]「花婿の出迎えに出て来る」は、彼らが受け入れたことを意味します。
けれども、彼女らからの5人は賢かった、しかし、五人は愚かだった」は、彼らの一部の者を意味します、その者は真理の中にいて、それらの中に善があります、また一部の者を意味します、その者は真理の中にいて、それらの中に善がありません。前者は「賢い」者です、けれども、後者は「愚かな」者です。内意で「」は、ある者であり、ここでは彼らの一部の者です。
それらの愚かな者は、自分の明かりを握っていても、自分自身に油を受け入れていなかった」は、自分の真理の中に仁愛の善を持たなかったことを意味します。内意で「」は、仁愛の善、愛の善です。
けれども、賢い者は、自分の明かりとともに自分の器の中に油を受け入れていた」は、自分の真理の中に仁愛の善を、愛の善を持ったことを意味します。「」は、信仰の教えの事柄です。

[4]「けれども、花婿が遅れて、すべての者が眠り、眠り込んだ」は、遅れ(時の経過)を、またここからの疑いを意味します。「眠る」ことは、内意で、遅れ(時の経過)から教会のものの中で不活発になることであり、「眠り込む」ことは疑いを、「賢い者」は、その中に肯定的なものがある疑いを、「愚かな者」は、その中に否定的なものがある疑いを抱くことです。
けれども、真夜中に叫び声が起こった」は、旧い教会の最後の時と新しい教会の最初の時を意味します。この時が、みことばの中で教会について扱われるとき「」と呼ばれるものです。「叫び声」は変化です。
見よ、花婿が来る、その方の出迎えに出て来い」は、審判、すなわち、受け入れと拒絶を意味します。
[5]「その時、そのすべての娘たちは起き、自分の明かりを整えた(ランプの芯を切りそろえた)」は、すべての者の準備を意味します、なぜなら、それらの中に善がない真理の中にいる者は、それらの中に善がある真理の中にいる者と比べて、自分も等しく受け入れられると信じるからです。というのは、仁愛がないところに信仰は何もないことを知らないで、信仰のみが救うと思うからです。
しかし、愚かな者は言った、『私たちにあなたがたの油をください、私たちの明かりは消えるからです』」は、〔彼らが〕自分の無益な真理によって、すなわち、空虚な自分の信仰によって、他の者から善が伝達されることを欲したことを意味します。というのは、すべての霊的なものと天的なものは来世の中で相互に伝達されます、しかし、善によってでないなら伝達されないからです。
[6]「けれども、賢い者たちは言った、『ことによると、私たちに、またあなたがたに、十分でないかもしれません』と言って、答えた」は、彼らにわずかにある善が取り去られるので伝達されることができないことを意味します。というのは、このように、来世の中で、善のない真理の中にいる者との善の伝達については、あたかも他の者から善を取り去り、自分自身に適用し、また他の者に伝達しないで、それを汚すかのように振る舞い、そのために、彼らに善の何らかの伝達は生じないからです(これらについては、続く〔創世記〕第37章の終わりに〔述べた〕経験参照)。
[7]「しかし、むしろ売る者のところへ出かけなさい、あなたがた自身で買いなさい」は、功績の善を意味します。そのことを自慢する者は、「売る者」です。さらにまた、その中に善のない真理の中にいる者は、来世で、他の者よりもそのすべてのものを功績のものとし、外見上、外なる形の中で善のようにします、それでも内なるものの中に悪があります。主が「マタイ福音書」で言われています、

その日に、多くの者がわたしに言います、「主よ、主よ、あなたの名前によって私たちは預言し、あなたの名前によって私たちは悪魔を追い出し、あなたの名前の中で私たちは多くの力を行使しませんでしたか?」。しかし、その時、わたしは彼らに宣言します、「わたしはあなたがたを知らない、わたしから立ち去れ、不法を働く者たちよ」(7:22, 23)。

また「ルカ福音書」で、
そこで、家長が起き上がり、戸を閉め〔てから〕、その時、あなたがたは戸の外に立ち、「主よ、主よ、私たちに開けてください」と言って、たたき始めますが、しかし、あなたがたに答えて、言います、「私は、あなたがたがどこからであるか、知らない」。その時、あなたがたは、「私たちはあなたの前で食べ、飲み、私たちの街路であなたは教えられた」と言い始めます。しかし、言います、「私はあなたがたに言います、私は、あなたがたがどこからであるか知りません。 私から立ち去りなさい、不法を働くすべての者たち」(13:25, 26, 27)。

このような者が「愚かな者」によってここに意味されている者です、そのために、彼らについて同様に次のことばで言われています、「彼女らもまた、『主よ、主よ、私たちに開けてください』と言って、やって来た。けれども、その方は答えて言った、『まことに、わたしはあなたがたに言う、わたしはあなたがたを知らない』」。
[8]「けれども、買うために彼女らが立ち去っているときに、花婿がやって来た」は、さかさまの適応を意味します。
用意のできた者はその方とともに結婚式場へ入った」は、善の中に、またここから真理の中にいた者が、天界の中に受け入れられたことを意味します。
天界は、善と真理の結婚である天界の結婚から結婚式に、主は花婿にたとえられ、そのとき〔彼らは〕その方に結合されるので、ここから教会は花嫁と呼ばれます。
入り口は閉ざされた」は、他の者たちは入ることができないことを意味します。
[9]「けれどもその後、残りの娘たちもまた、『主よ、主よ、私たちに開けてください』と言って、やって来た」は、仁愛なしの信仰のみから、また、それらの中に主のいのちがなく、しかし、自分自身のいのちある働きから、入ることを欲することを意味します。
けれども、その方は答えて言った、『まことに、わたしはあなたがたに言う、わたしはあなたがたを知らない』」は、拒絶を意味します。内意で「彼らを知らないこと」は、隣人に対する何らかの仁愛の中に、またそれによって主との結合の中にいないことです。結合の中にいない者は、「知られていない」と言われます。
[10]「それゆえ、目を覚ましていなさい、あなたがたは人の子がやって来る日を、時もまた、知らないからである」は、信仰の戒めにしたがった生活を熱望することを意味し、これが「目を覚ましている」ことです。人間に知られていない受け入れの時や状態が「あなたがたは人の子がやって来る日を、時もまた、知らない」によって意味されます。
善の中にいる者は、すなわち、戒めにしたがって行なう者は「賢い者」と言われます、しかし、真理の知識の中にいて、また行なわない者は、「愚かな者」と言われます。さらにまた「マタイ福音書」に、主により言われている他の箇所に、

わたしのことばを聞いて、それを行なうすべての者を、わたしは〝賢い男〟にたとえます……また、わたしのことばを聞いて、しかし、それを行なわないすべての者は、〝愚かな男〟にたとえられます(7:24, 26)。