最後の審判と世の終わり 第二部 49
49[4663] 内意を知らない者は、主により言われた最後の日について、その日に主の前に全地球の中のすべての者が集められ、その時、さばかれ、そしてまた、さばかれることの過程は、文字で述べられているようなものになる、すなわち、彼らを右側と左側に置き、そのように彼らに話す、としか考えることができません。しかし、内意を知っている者は、みことばの中の他の箇所から学んだ者は、主は決してある者を永遠の火へとさばかないこと、しかしだれでも自分自身をさばくこと、すなわち、それらの中に自分自身を投げ込むこと、そしてまた、最後の審判がそれぞれの者に死ぬときにあること、全般的にそれらが何を含むかある程度知ることができます。また内意からまた対応から、ことばの内的なものを知っている者は、それらが特定的に何を意味するか、すなわち、だれもが世の中での自分の生活にしたがって、来世の中で報酬を受けることを知ることができます。
[2]信仰のみによる人間の救いを見せびらかせた者は、主の働きについて〝信仰の実〟であると話したとしか、またこのことの神秘(奥義)を知らない単純な者のために話したとしか、それらを説明することができません。しかし、それらの見解にしたがっていても、それでもここから、〝信仰の実〟が死後、人間を祝福されたものや幸福なものにすることが明らかです。〝信仰の実〟は、信仰の戒めにしたがった生活以外の何ものでもありません、したがって、それにしたがった生活が救います、けれども生活のない信仰は救いません。というのは、人間は死後、自分自身に自分の生活のすべての状態を抱き、身体の中であったように、死後もそのようなものであるからです。すなわち、いのちが身体の中にあったとき、他の者を自分自身に比べて軽蔑した者は、来世の中でもまた他の者を自分自身に比べて軽蔑します。いのちが身体の中にあったとき、隣人を憎んだ者は、来世の中でもまた隣人を憎みます、そして、いのちが身体の中にあったとき、仲間に対して欺きを行なった者は、来世の中でもまた仲間に対して欺きを行ないます、等々。それぞれの者が、いのちが身体の中にあったときおびた性を、来世の中でも保持します。その性が追い払われることができないこと、またもし追い払われるなら、いのちの何ものも残らないこともまたよく知られています。
[3]それで、ここから、仁愛の働きだけが主により言及されています。というのは、仁愛の働きの中にいる者は、すなわち、同じことですが、信仰の生活の中にいる者は、いのちが身体の中にあったときでないなら、それでも来世で信仰を受け入れる可能性の中にいるからです。しかし、仁愛の働きの中にいない者は、すなわち、信仰の生活の中に、信仰を受け入れる何らかの可能性の中に決していない者は、いのちが身体の中あったときも、来世でもいません。というのは、悪は決して真理と一致しないで、1方は他方を退けるからです。そしてもし、悪の中にいる者が真理を話すなら、それらを口から話し、心からではありません、このように〔悪と真理は〕やはり最も遠く互いに離れています。
[4664] 主が最後の審判について、すなわち、死後、それぞれの者の最後の審判について話されていることに含まれている内意が何であるかを、前のようにここで説明するのは、長くなるので、主の神的慈悲から、続く〔創世記の〕章の前〔の部分〕で、順に説明します。