最後の審判と世の終わり 第二部 50
(13)「マタイ福音書」25:31-33の解説 50-53
50 [4807] 前章〔創世記第37章〕の前の4661-4664番[47-49]に、主が「マタイ福音書」第25章31節から終わりまでの説明を始めました――そこに羊と山羊と呼ばれる善い者と悪い者についての審判について話されたことです。これらのことばの内意が何であるか、まだ説明していません、しかし、今から、この章と続くいくつかの章の前で、説明すべきことを取り上げます。ここから、最後の審判によってそこに世の最後の時が、またその時、初めて死んだ者が復活し、主の前に集められ、さばかれることが意味されないで、世から来世の中に移るそれぞれの者の最後の時が意味されます、というのは、その時が彼の審判であるからです、この審判が意味されるものであることが明らかになります。
しかし、そのようであることは、文字どおりの意味からは見られません、内意から見られます。主がこのように話されたのは、表象するものと表意するものによって、旧約と新約のみことばの中のどの箇所でも、そのように話されたからです。というのは、表象するものと表意するものによって話すことは、同時に世の前と天界の前で、すなわち、人間の前と天使の前で話すことであるからです。このような話し方は、全般的な話し方なので神的であり、ここからみことばに特有です。そのために、世の中にいて、主が最後の審判について話しているものに関心がなく、世俗的なものにしか関心がない者は、復活の時がすべての者に同時にあること、それどころか、主が、その時、栄光の王座の上に座り、集められた者に、そこにあることばにしたがって言われることであると把握します。しかし、天界的なものに関心をもつ者は、死ぬときにそれぞれの者に復活の時があること、またそこの主のことばには、それぞれの者が生活にしたがってさばかれることを知ります。このように、それぞれの者が審判を自分自身にもたらすのは、その審判がその者の生活にしたがっているからです。