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最後の審判と世の終わり 第二部 16

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16[3752] これらのことばが何を意味するか、内意によって照らされていないなら、だれも決して把握することができません。エルサレムの破壊について言われているのではないことはその章の中の多くのものから明らかです、例えばこれらから、「それらの日々が縮められないなら、だれも肉は救われません、しかし、選ばれた者のためにそれらの日々は縮められます」、また続くものから、「それらの日の苦難の後、太陽は暗くされ、月はその光を与えず、星は天から落ち、天の力は揺り動かされます。その時、人の子のしるしが見られ、人の子が、力と栄光とともに天の雲の中にやって来るのを見ます」、また他のものから。
世の滅亡について言われているのではないこともまた、同じ章の中の多くのものから明らかです。例えば、先行するものから、「その時、家の屋根の上にいる者は、自分の家から何かを取り上げるために、降りないようにしなさい。また畑の中にいる者は、自分の衣服を取るために、後ろに戻らないようにしなさい」。なおまた、今や示されたこれらから、「あなたがたの逃避が冬でないように、また安息日でないように、祈りなさい」。また続くものから、「その時、ふたりが畑の中にいて、ひとりは選ばれ、ひとりは残されます。ふたりの臼を女がいて、ひとりは選ばれ、ひとりは残されます」。
しかし、教会の最後の時について、すなわち、その荒廃について言われていることが明らかです。その教会は、もはや何も仁愛がないとき、荒廃したと言われます。