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最後の審判と世の終わり 第二部 19

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19[3755]「けれども、その日、みごもっている者に、また乳を飲んでいる者に、わざわいです」は、主への愛の善と無垢の善に浸されている者を意味します。「わざわいです」は、永遠の断罪の危険を意味する決まり文句です。「みごもる」は、天界の愛の善を抱くことです。「乳を飲む」もまた、無垢の状態です。「その日」は、その時、それらの中にある教会の状態です。
[2] 「しかし、あなたがたの逃避が冬でないように、また安息日でないように、祈りなさい」は、このことがあまりに急いで、過度に冷たい状態の中で、また過度に熱い状態の中で行なわれないように、それらからの移動を意味します。「逃避」は、愛の善と無垢の状態からの移動であり、それらについてはすぐ前に〔述べてあります〕。「冬での逃避」は、あまりに冷たい状態の中でのそれらからの移動であり、自己愛によってひき起こされるそれらに対する反感がある時、冷たさがあります。「安息日での逃避」は、過度に熱い状態の中でのそれらからの移動です。「」は、内部に自己愛と世俗愛があるときの外なる神聖さです。
[3]「というのは、その時、世の始まりから今までなかったような、これからもないような大きな苦難があるからです」は、善と真理に関して、教会の歪曲と荒廃の最高の段階を意味し、それは冒涜です。というのは、聖なるものの冒涜は永遠の死を、また悪の他の状態よりも多くのさらにきびしいものをひき起こすから。また、内的な善と真理であればあるほど、ますますきびしく、それらが冒涜されます。それらの内的なものはキリスト教会の中で明らかに述べられ、よく知られているので、その冒涜が、「その時、世の始まりから今までなかったような、これからもないような大きな苦難があるからです」と言われています。
[4]「また、それらの日々が縮められないなら、だれも肉は救われません。しかし、選ばれた者のためにそれらの日々は縮められます」は、教会からの善と真理の生活の中にいる者が善と真理の内的なものから外的なものへ、彼らが救われることができるまでも移動することが意味されます。「日々が縮められる」によって、移動の状態が意味され、「だれも肉は救われません」によって、そうでなければ、だれも救われることができないことが意味されます。「選ばれた者」によって、善と真理の生活の中にいる者が意味されます。