最後の審判と世の終わり 第二部 52
52 [4809] 「人の子がご自分の栄光の中にやって来る時」は、神的真理がその光の中に見られる時を意味し、それは人間のそれぞれの者に死ぬとき生じます。というのは、その時、天界の光の中にやって来て、その中で、何が真理と善か、またここから〔それが〕どんなものであるか認めることができるからです。「人の子」は、みことばの内意で、神的真理に関する主、このように主からの神的真理です。「栄光」は、知性と知恵であり、それらはここから、光のように、また天使たちの前に光の輝きのように見られます。この光の輝きが、その中に主からの神的真理であって、みことばの中で「栄光」と呼ばれるものです。内意で「人の子」は神的真理です(2159,2803,2813,3704番照)。
[2]「すべての聖なる天使たちがその方とともに」は、天使たちの天界を意味します。「聖なる天使たち」は主の神的善からの真理です、なぜなら、みことばの中の「天使」によって天使たちではなく、主からのものが意味されるからです(1925,4085番照)。というのは、天使たちは主の神的善から発出している真理のいのちを受け入れるものであるから。ここから、「天使たち」はそれらの真理であることが明らかです。ここに、死後、それぞれの者の状態が、そして生活にしたがったそれぞれの者の審判について扱われているのは、「すべての聖なる天使たちがその方とともに」と言われていて、そのことによって、天界を通して審判があることが意味されるからです。というのは、神的真理のすべての流入は天界を通して生じ、直接の流入は、だれによっても受け入れられることができないからです。
[3]「その時、その方は栄光の王座の上に座ります」は、審判を意味します、というのは「王座」は主の王権について言われ、そして主の王権が神的真理であるから(1728, 2015, 3009, 3670番)、また神的真理は、そこから、またそれにしたがって審判があるからです。
[4]「その方の前にすべての国民が集められる」は、すべての善と真理が明らかになることを意味します。というのは、みことばの内意で、「国民」によって善が、また正反対の意味で悪が意味されるから。このように善と悪が神的な光の中で見られることが、すなわち、神的真理からの光の中で、「その方の前にすべての国民が集められる」ことによって意味されます。
[5]「それらを、羊飼いが羊を山羊から分離するようにお互いから分離します」は、悪からの善の分離を意味します。というのは、「羊」は善の中にいる者、また「山羊」は悪の中にいる者であるから。「羊」は仁愛の中に、またここから信仰の中にいる者、「山羊」は信仰の中にいても、仁愛の中にいない者と正しく(適切に)言われています。その両者についてここに扱われています。「羊」は、仁愛の中に、またここから信仰の中にいる者です(2088, 4169番照)。「山羊」は信仰の中にいて、仁愛の中にいない者です(4769番)。
[6]「実に、羊を自分の右側に、しかし、山羊を左側に置きます」は、善からの真理にしたがった分離を、また悪からの虚偽にしたがった分離を意味します。実際、来世の中で、善からの真理の中にいる者は右側に、悪からの虚偽の中にいる者は左側に見られます。ここから、右側にと左側に置かれることは、生活にしたがって秩序づけられることです。