最後の審判と世の終わり 第二部 55
55 [4955] 内意で、これらが何を含むか、続くものから明らかになります。その順序で列挙されているこれらの働きが仁愛そのものであることを、あらかじめ知っておかなければなりません。このことを、みことばの内意を知らない者、すなわち、「飢えている者に食べさせ、渇いている者に飲ませ、異国人として生活した者を迎え入れ、裸の者に着せ、病んでいる者を訪れ、牢の中の彼らにやって来ること」によって何が意味されるか知らないなら、だれも見ることができません。これらについて単に文字どおりの意味から考える者は、それらによって外なる形の中の善の働きが意味され、それらに何の秘義も内在しないと推断します。それでもそのとき個々のものの中に秘義があり、これは主からのものなので神的なものです。しかし、今日では仁愛の教えの事柄は何もないので、その秘義は今日では理解されていません。というのは、〔人々が〕仁愛を信仰から分離した後に、それらの教えの事柄は失われ、それらに代わって、信仰の教えの事柄が受け入れられ、考え出され、それら教えの事柄は、何が仁愛かまた何が隣人かまったく何も教えないからです。
[2]古代人のもとの教えの事柄は、仁愛のすべての種類を、そしてまた、だれが仁愛を行なうべき隣人か、またどのように、あるものが別の段階の中で、また別の相互関係の中で、別の隣人であるか、したがって、他の者に対してどのように仁愛を適応させて、ある者に対して実践すべきか教えました。さらにまたそれらを分類し、また名前を与えました。ある者を貧しい者・乏しい者・哀れな者・苦しむ者、ある者を盲目の者・びっこの者・孤児・やもめのような欠陥のある者、ある者を飢えた者・渇いた者・外国で生活する者・裸の者・病んだ者・縛られた者、等々です。ここから〔彼らは〕、ある者にまた他の者に対してどの義務の中にあるか知りました。しかし、これらの教えの事柄は、言われたように、また、みことばの理解も、また今日ではみことばの中の貧しい者・やもめ・孤児によって、このように呼ばれている者、同様に、ここに、飢えた者・渇いた者・外国で生活する者・裸の者・病んだ者・牢の中の者以外に何も他のものが意味されないことを、だれも知らなくなるほどに失われました。それでも、そのとき、これらによって、その本で仁愛がどのようなものであるか、またその実践がその生活の中でどのようであるべきかが述べられています。