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神の摂理

目 次

訳者まえがき
〔1〕神的な摂理は主の神的な愛と神的な知恵の統治である  1〜26
(1)全世界は、すべてのものと個々のものとともに、神的な愛から神的な知恵を通して創造されている 3
(2)神的な愛と神的な知恵は、一つのもの(個体)として主から発出している 4
ーー(一)個体は形なしに存在しない、しかし、形そのものが個体をつくる 4[2]
ーー(二)形は、形を構成するものが、区別され、それでも結合された他のものであればあるほど、それだけますます完全に一つをつくる 4[4]
(3)この一つのもの(個体)は、ある種の映像の中に、すべての被造物の中にある 5
(4)すべての被造物が共通のものの中と部分の中でこのように一つであるように、また一つでないなら、そうなるように、神の摂理が存在する 7
(5)愛の善は、知恵の真理と結合していないかぎり善ではなく、知恵の真理は、愛の善と結合していないかぎり真理ではない 10
(6)知恵の真理と結合していない愛の善は本質的に善ではなく、外観上の善であり、愛の善と結合していない知恵の真理は本質的に真理ではなく、外観上の真理である 14
(7)主は、何かが分割されていることを許されない。それゆえ、善と同時に真理の中になくてはならない、あるいは悪と同時に虚偽の中になくてはならない 16
(8)善と同時に真理の中にあるものは、何らかのものとして存在する。悪と同時に虚偽の中にあるものは、何らかのものとして存在しない 19
(9)主の神的な摂理は、悪と同時に虚偽を、均衡・関係・浄化として、このように他の者のもとの善と真理の結合として、役立つようにすることである 21

〔2〕主の神的な摂理は、人類からの天界を目的としている 27〜45
(1)天界は主との結合である 28
(2)創造から、人間は主に近くさらに近く結合されることができるようなものである 32
ーー(一) 人間は、どのように近くさらにまた近く主に結合されるか 33[1]
ーー(二) その結合はどのようにさらに近く見えるか 33[4]
(3)人間は、主に近く結合されるほど、ますます賢明になる 34
(4)人間は、主に近く結合されるほど、ますます幸福になる 37
(5)人間は、主に近く結合されるほど、ますますはっきりと自分自身のものであるように自分自身に見る、そしてさらに明らかに主のものであるものを認める 42

〔3〕主の神的な摂理は、造るものすベてのものの中に、「無限なもの」と「永遠なもの」を眺めている 46〜69
(1)本質的に「無限なもの」と本質的に「永遠なもの」は、神性と同一である 48
(2)本質的に「無限なもの」と本質的に「永遠なもの」は、有限なものの中にそれ自体から無限なものと永遠なものに目を向けることしかできない 52
(3)すべてのものの中で生ずる神の摂理は、特に人類の救いの中で、本質的に無限なものと永遠なものに目を向ける 55
ーー(一) すべての変化の中の無限なものと永遠なものの映像 56[2]
ーー(二) すべての結実と増加の中の無限なものと永遠なものの映像 56[3]
(4) 「無限なる者」と「永遠なる者」の映像が天使の天界に存在する 60
(5)天使の天界の形成の中で、主の前にその方の映像である一人の人間であるように、無限なもの」と「永遠なもの」に目を向けることが、神の摂理の最内部のものである 64

〔4〕神的な摂理の法則があり、それらは人間に知られていない 70〜190
〔4の1〕神的な摂理の法則は、人間が自由から理性にしたがって行動することである 71〜99
(1)人間に理性と自由、すなわち、推理力と自主性がある、また二つのそれらの能力が主から人間のもとにある 73
(2)どんなものでも人間が自由から行なうものは、理性のものであろうとあるいは理性のものでなかろうと、彼の理性にしたがっているかぎり、それは彼のもののように見える 74
(3)どんなものでも人間が自由から自分の思考にしたがって行なうものは、彼に、彼のものであるように自分のものとされ、存続する 78
(4) 人間はそれらの二つの能力によって、主により改心し、再生する。それらがなくて改心し、再生することはできない 82
ーー(一) 人間の有罪の状態である第一の状態 83[2]
ーー(二) 人間の改心の状態である第二の状態 83[4]
ーー(三) 人間の再生の状態である第三の状態 83[6]
(5)人間はそれらの二つの能力によって、考え、行なうすべての善と真理が主からであり、自分自身からではないと、それらによって認めることができればできるほど、それだけ改心し、再生することができる 87
(6)人間との主の結合と、主との人間の相互の結合は、それらの二つの能力によって行なわれる 92
(7)主はそれらの二つの能力を人間のもとで損なわれず、そしてすべてのご自分の神的な摂理の進行の中で聖なるもののように守られる 96
ーー(一)それらの二つの能力なしに人間に理解力と意志はなく、このように彼は人間でなくなったであろう 96[2]
ーー(二)人間はそれら二つの能力なしに主と結合されることができず、このように改心し、再生することができない 96[5]
ーー(三) それらの二つの能力なしに人間に不死性と永遠のいのちがなくなったであろう 96[7]
(8)それゆえ、人間が自由から理性にしたがって行動するために、神的な摂理がある 97
〔4の2〕 神的な摂理の法則は、人間が外なる人の中の罪として悪を自分自身からのように遠ざけなくてはならないことである。主が内なる人の悪を遠ざけることは、そのとき同時に、外なる人の中の悪が遠ざけられるようにしてでなければ、おできにならない 100〜128
(1)人間のだれにも思考の外なるものと内なるものがある 103
(2)人間の思考の外なるものは、本質的にその内なるものがどんなものであるかによる 106
(3)悪が外なる人の中で遠ざけられないかぎり、妨げるので、内なる人は悪の欲望から清められることができない 111
(4)外なる人の中の悪は、人間によってでなければ、主により遠ざけられることができない 114
(5)それゆえ、人間は自分自身からのように悪を外なる人から遠ざけなくてはならない 118
(6)その時、主は人間を、内なる人の中で悪の欲望から、外なる人の中で悪そのものから、清められる 119
(7)人間をご自分に、ご自分を彼に結合させ、彼に永遠のいのちの幸福を与えることができるように、絶え間のない主の神的な摂理があり、このことは、悪がそれらの欲望とともに遠ざけられていないかぎり、行なわれることができない 123
ーー(一)主は、人間の個々のもののもとの何らかの細部の中で、同時にすべてのものの中でないなら決して働かれない 124
ーー(二) 主は最内部と最外部から同時に働かれる 124[4]
〔4の3〕 神的な摂理の法則は、人間が外なる手段によって考え、意志することへ向けて、このように、宗教のものを信じ、愛することへ向けて強制されないこと、しかし、人間が自分自身で引き起こし、時には強制しなければならないことである 129〜153
(1)だれも奇跡やしるしによって改心されない、それらは強制するから 130
(2)だれも幻によって、死んだ者との会話によって改心されない、それらは強制するから 134
(3)だれもおどしや罰によって改心されない、それらは強制するから 136
ーー(一)外なるものは内なるものを強制することができない、しかし、内なるものは外なるものを強制することができる 136[2]
ーー(二)内なるものはそれ自体を背けるように外なるものによる強制を拒絶する 136[3]
ーー(三)外なる快さは内なるものを、同意へ、そしてまた愛へ誘う 136[5]
ーー(四)強制された内なるものと自由な内なるものが存在する 136[9]
(4) 推理力や自主性のない状態の中で、だれも改心されない 138
ーー(一) 恐れの状態の中で 139
ーー(二) 不幸の状態の中で 140
ーー(三) 心の病の状態の中で 141
ーー(四) 身体の病気の状態の中で 142
ーー(五) 無知の状態の中で 143
ーー(六) 理解力の盲目の状態の中で 144
(5)自分自身を強制することは、推理力と自主性に反していない 145
(6)外なる人は内なる人によって改心され、逆ではない 150
〔4の4〕 神的な摂理の法則は、人間が、みことばとそれからの教えと説教によって、主により天界から導かれ、教えられ、このことがすべての外観の中で自分自身からのように行なわれることである 154〜174
(1) 人間は、主おひとりにより導かれ、教えられる 155
ーー(一)唯一の本質・唯一の実体・唯一の形があり、それらから創造されたすべての本質・実体・形が存在する 157[2]
ーー(二)唯一のその本質・実体・形は、神的な愛と神的な知恵であり、それらからすべてのものがあり、それらは人間のもとの愛と知恵に関係する 157[5]
ーー(三)同様に、善そのものと真理そのものがあり、それらにすべてのものが関係する 157[6]
ーー(四)それらはいのちであり、それらからすべてのいのちといのちに属するすべてのものがある 157[7]
ーー(五) この唯一そのものは、遍在・全知・全能である 157[8]
ーー(六) この唯一そのものは、永遠からの主、すなわち、エホバである 157[9]
(2)人間は、主おひとりにより、天使の天界を通して、天界から導かれ、教えられる 162
(3)人間は、主により流入を通して導かれ、照らしを通して教えられる 165
(4)人間は、主により、みことばを通して、それからの教えと説教を通して、このようにその方だけから直接に教えられる 171
ーー(一)みことばは主からのもの、またその方について述べられているので、主はみことばである 172[2]
ーー(二)主はみことばである、それは神的な善の神的な真理であるからである172[3]
ーー(三) このように、みことばから教えられることは、その方から教えられることである 172[5]
ーー(四) 説教によって間接的に行なわれるものは、直接的なものを排除しない 172[6]
(5)人間は、主により外なるものの中で、すべての外観の中で自分自身からのように導かれ、教えられる 174
〔4の5〕 神的な摂理の法則は、神的な摂理の働きについて人間が何らかのものを知覚し、感じてはならない、しかしそれでも、それを知り、認めなくてはならないことである 175〜190
(1)人間が神的な摂理の働きを知覚し、感じるなら、理性にしたがって自由から行動しないし、彼には何も自分自身からのように見えないであろう。出来事を前もって知るなら同様である一七六
(2)人間が明らかに神的な摂理を見るなら、その進行の秩序と進路へ自分自身を移動させ、そしてそれを曲げ、破壊する一八〇
ーー(一)外なるものは、すべての働きの中で一つとなるように、 内なるものとそのような結びつきをもっている 一八〇[2]
ーー(二)同時に内なるものの中にいたなら、神的な秩序の進行のすべての秩序と進路を曲げ、破壊した一八〇[6]
(3)人間が明らかに神的な摂理を見るなら、神を否定するかあるいは自分自身を神にする 一八二
(4)人間には神的な摂理を顔からでなく背後から、なおまた自然的な状態の中でなく霊的な状態の中で、見ることが与えられる一八七

〔5〕プロプリウムからの思慮分別は何もない、ただあるように見られるだけであり、さらにまた、そのように見られるべきである。
しかし、神的な摂理は、最も個々のものから、普遍的に存在する
 191〜213
(1)人間のすべての思考は彼のいのちの愛の情愛からのものであり、それらなしで、まったく思考は何もなく、存在することもできない一九三
(2)人間のいのちの愛の情愛は、主だけに知られている 一九七
(3)人間のいのちの愛の情愛は、主によりその方の神的な摂理を通して導かれ、同時に、思考が導かれ、それらから人間の思慮分別がある二〇〇
(4)主はご自分の神的な摂理によって全人類の情愛を一つの形に作り上げ、それは人間の形である二〇一
(5)天界と地獄は、このような形の中にある 二〇四
(6)自然と人間の思慮分別だけを認めた者は地獄をつくり、神とその方の神的な摂理を認めた者は天界をつくる二〇五
ーー(一)プロプリウムの思慮がどこからで、何か 二〇六
ーー(二)神的な摂理がどこからで、何か 二〇七
ーー(三)神とその方の神的な摂理を認める者、それと自然とプロプリウムの思慮分別を認める者が、だれで、どんなものであるか 二〇八
(7)自分自身から考え、自分自身から配列させることが人間に見られないなら、これらすべてのものは生ずることができない二一〇

〔6〕神的な摂理は永遠なものに目を向ける、 一時的なものには、永遠なものと調和するかぎり目を向ける 214〜220
(1) 一時的なものは、世の中の地位と富に、このように名誉と利益に関係する 二一五
ーー(一)地位と富とは何か、どこからなのか 二一五[2]
ーー(二)地位と富のためのそれらへの愛がどんなものか、役立ちのための地位と富への愛がどんなものか 二一五[6]
ーー(三)二つのそれらの愛は互いの間で地獄と天界のように分離している 二一五[10]
ーー(四)それらの愛の相違は、ほとんど人間に知られていない 二一五[12]
(2)永遠なものは、天界の中の愛と知恵のものである霊的な名誉と富に関係する 二一六
ーー(一)名誉と富は祝福であり、呪いである 二一七[1]
ーー(二)名誉と富は、祝福である時、霊的であり、永遠である、しかし、呪いである時、一時的なものであり、はかないものである二一七[3]
ーー(三)呪いである名誉と富は、祝福である名誉と富と比較すれば、すべてと比べて何ものでもないようなもの、そして、本質的に存在するものに比べて本質的に存在しないようなものである二一七[6]
(3) 一時的なものと永遠なものは人間により分離されるが、しかし、主により結合される 二一八
ーー(一)何が一時的なものか、何が永遠なものか 二一九[1]
ーー(二)人間は本質的に一時的なものであり、主は本質的に永遠なものである。ここから、人間からは一時的なものしか発出することができず、主からは永遠なものしか発出しない二一九[2]
ーー(三)一時的なものは、それ自体から永遠なものを分離し、永遠なものはそれ自体に一時的なものを結合させる二一九[4]
ーー(四)主は外観によって人間をご自分に結合される 二一九[5]
ーー(五) 主は対応によって人間をご自分に結合される 二一九[6]
(4)人間のもとの一時的なものと永遠なものの結合が主の神的な摂理である 二二〇

(一)人間が死によって自然的なものと一時的なものを捨て、

そして霊的なものと永遠なものをまとうのは、神的な摂理からである二二〇[2]

(二)主はご自分の神的な摂理によって、役立ちにしたがって、

ご自分を霊的なものによって自然的なものに、

そして永遠なものによって一時的なものに結合される二二〇[4]

(三)主は、ご自分を対応によって役立ちに、

このように人間による外観の確信にしたがって結合される二二〇[6]

(四) このような一時的なものと永遠なものの結合が神的な摂理である 二二〇[8]

 

〔7〕人間は、信仰の真理と仁愛の善の中に、生涯の終わりまで保たれることができないかぎり、それらの中に内的に入れられない 221〜233

(1)人間は霊的な事柄の知恵の中に、それらの愛の中にも入れられることができるが、

それでも改心されることができない二二二

(2)その後、人間がそれらから去り、正反対のものの中へ逸れるなら、聖なるものを冒涜する 二二六

(一)どんなものでも人間が意志から考え、話し、行なうものは、

善でも悪でも、彼に自分のものとされ、残る二二七[1]

(二)しかし、主はご自分の神的な摂理によって、悪がそれ自体によって、善がそれ自体に

よって、このように分離されることができるよう絶えず備え、整えられる二二七[2]

(三)しかし、このことは、もし人間が最初に信仰の真理を認め、それにしたがって生き、

またその後、それをやめ、それを否定するなら、行なわれることができない二二七[3]

(四)その時、善と悪を分離されることができないほどにまでも混ぜる 二二七[4]

(五)また、善と悪はそれぞれの人間のもとで分離されなければならず、

そのような者のもとで分離されることができないので、

それゆえ、すべての真の人間性に関して破壊される二二七[5]

(3) 多くの種類の冒涜がある、しかし、この種類のものはすべてのうちで最悪である 二二九

(一)みことばから、またみことばについて、あるいは

教会の神的なものから、またそれらについて、冗談を言う者二三一[1]

(二) 神的な真理を理解し、認め、それでもそれらに反して生きる者 二三一[2]

(三) みことばの文字どおりの意味を悪の愛と虚偽の原理を確信するために用いる者 二三一[3]

(四)敬虔なことや聖なるものを口で話し、そしてまた声と振る舞いで、

自分の愛の情愛を偽り装うけれども、心ではそれらを信じないし、愛さない者二三一[4]

(五) 神的なものを自分自身に帰する者 二三一[5]

(六) みことばを認め、それでも主の神性を認めない者 二三一[6]

(七)最初に神的な真理を認め、それらにしたがって生き、その後、去り、それらを否定する者 二三一[7]

(4)それゆえ、人間が知恵の真理の中と同時に愛の善の中に、生涯の終わりまで

保たれることができないかぎり、主は人間をそれらの中に内的に入れられない二三二

(一)人間のもとの内的なものの中に、悪は善と同時に、ここから悪の虚偽も

善の真理と同時に存在することができない二三三[1]

(二)主により人間の内的なものの中に、そこに悪と悪の虚偽が遠く離されて

いないかぎり、善と善の真理はもたらされることができない二三三[3]

(三)もし、善がその真理とともに、悪がその虚偽とともに遠く離れる前かまたは

さらに多くもたらされるなら、人間は善から去り、そして自分の悪へ戻る二三三[4]

(四)人間が悪の中にいるとき、彼の理解力に多くの真理がもたらされ、これらは記憶の

中にたくわえられることができる、それでも冒涜されることはできない二三三[7]

(五)しかし、主はご自分の神的な摂理によって、その記憶が意志により、前かまたはさらに多く

ここから受け入れられないように、人間が自分自身からのように外なる人の中で

悪を遠ざけるかぎり、その記憶を最大に用心される二三三[9]

(六)もし、前かまたはさらに多くなら、その時、善と真理に悪とそこからの虚偽を混ぜて、

意志は善を不純化し、理解力は真理を虚偽化する二三三[10]

(七)それゆえ、人間が知恵の真理の中と愛の善の中に、生涯の終わりまで

保たれることができないかぎり、主は人間をそれらの中に内的に入れられない二三三[13]

〔8〕許しの法則もまた神的な摂理の法則である 234〜274

単に自然的な人間は、神の代わりに自然を、神的な摂理の代わりに人間の思慮分別を確信することが二三六番に要約されている 二四一〜二四八

(1)人間の最も賢明な者であるアダムと妻は、ヘビにより自分たちが惑わされることを許した。

神はこのことを神的な摂理によって妨げられなかった二四一

(2)彼らの最初の息子カインは、その弟アベルを殺した。神はその時に彼に語ることを

差し控え、行為の後に呪われただけであった二四二

(3)イスラエルの国民は荒野の中で金の子牛を礼拝し、それをエジプトの地から

彼らを導き出した神として認めた。そのときそれでも、エホバはこのことを

シナイ山から近くで見て、警戒されなかった二四三

(4)ダビデは民を数え、このために疫病が送られ、そのことからこのように多くの数千の人間が

死んだ。神は行為の前でなく後に、彼に預言者ガドを送り、罰を威嚇された二四四

(5) ソロモンに偶像崇拝の礼拝を制定することが許された 二四五

(6) ソロモンの後、多くの王に神殿と教会の聖なるものを冒涜することが許された 二四六

(7) 主をはりつけにすることがその国民に許された 二四七

 

 自分自身と自然を崇拝するすべての者は、神的な摂理に反対して

確信することが二三七番に要約されている 二四九〜二五三

(1)自分自身と自然を崇拝するすべての者は、世の中にこれほど多くの不信心な者を、

これほど多くの彼らの不信心を、また同時に、彼らに賛美が与えられ、またそれでも神により

このためにそれらの何らかの罰がないのを見るとき、神的な摂理に反対して確信する二四九

(2)自分自身と自然を礼拝する者は、不信心な者が称賛される地位へ昇進し、そして高官や

高位聖職者になり、さらにまた、富に満ちあふれ、そして、ぜいたくに、堂々として生き、

神の崇拝者が軽蔑と貧困の中に生きるとき、神的な摂理に反して確信する二五〇

(3) 自分自身と自然を礼拝する者は、戦争が許され、その時、これほど多くの人間が死に、

彼らの財産が略奪されることを考えるとき、神的な摂理に反対して確信する二五一

(4)自分自身を崇拝する者と自然を崇拝する者は、自分の知覚にしたがって、勝利は思慮分別

する側にあり、時々、正義の側になく、さらにまた、統治者が正直であるかあるいは

不正直であるにしても何も生じない、と考えるとき、神的な摂理に反して確信する二五二

同じ自然的な人間がいろいろな国民の宗教を眺めるとき、神的な摂理に反して

確信することが二三八番に要約されている 二五四〜二六一

(1)単なる自然的な人間は、神をまったく知らない者が存在すること、そして、太陽や月を、

なおまた、偶像と彫像を崇拝する者が存在することを眺めるとき、

いろいろな国民の宗教を、神的な摂理に反して確信する二五四

(2)単なる自然的な人間は、イスラムの宗教的信念がこれほど多くの帝国と王国に

受け入れられていることを眺めるとき、神的な摂理に反して確信する二五五

(3)単に自然的な人間は、キリスト教が地球の中のヨーロッパと呼ばれる

住むに適した小さい部分にだけあること、またそこで分裂していることを見るとき、

神的な真理に反して確信する二五六

(4)単に自然的な人間は、キリスト教が受け入れられている多くの王国の中に、

神的な力を自分自身に要求し、神々として崇拝されることを欲する者がいること、

また、死んだ人間に祈ることから、神的な摂理に反して確信する二五七

(5)単に自然的な人間は、キリスト教を公言する者たちの間に、救いを、

考えて話す、ある言葉の中に置き、行なわなくてはならない何らかの善の中に置かない者がいる

ことから、神的な真理に反して確信する二五八

(6)単に自然的な人間は、キリスト教世界の中に、例えば、クエーカー派、

モラヴィア派、再洗礼派、その他のように多くの異端があったこと、

また今でもあることから、神的な摂理に反して確信する二五九

(7)単なる自然的な人間は、ユダヤ教が依然として存在し続けることから、

神的な真理に反して確信する二六〇

自然と人間の思慮分別だけを賛成して内的に考える者は、

さらに確認することが二三九番に要約されている 二六二〜二七四

(1)全キリスト教世界が、三つの位格(ペルソナ)、すなわち、三つの神のもとに一つの神を崇拝

していること、またこれまで、神が一つの位格(ペルソナ)と本質であること、

その中に三一性があること、その神は主であることを知らなかったことから、

神的な摂理に反する疑いをもたらすことができる二六二

(2)みことばの個々のものの中に霊的な意味があり、ここからその神聖さがあることを

今まで知らなかったことから、神的な摂理に反する疑いをもたらすことができる二六四

(一)みことばの霊的な意味が以前に啓示されなかったのは、もし前になら、教会はそれを冒涜し、 それによってみことばの神聖さそのものを冒涜したであろうからである 二六四[2]

(二) みことばの霊的な意味が含まれる純粋な真理が主により啓示され、「聖なるエルサレム」に

よって意味される新しい教会が主により設立される以前でもないからである二六四[4]

(3)悪を罪のように避けることがキリスト教そのものであることをここまで知らなかった

ことから、神的な摂理に反する疑いをもたらすことができる二六五

(4)人間が死後に生きることをここまで知らなかったこと、このことが前に言われなかった

ことから、神的な摂理に反する疑いをもたらすことができる二七四

〔9〕悪は救う目的のために許されている 275〜284

(1)すべての人間は悪の中にいる、改心されるためには悪から導き出されなくてはならない 二七七a

(2)悪は、見られないなら、遠ざけられることができない 二七八a

(一)自分自身にすべての罪があることを告白しても、

何らかのものが自分自身のもとにあるか調べない者について二七八b[1]

(二)宗教から調べることを放棄する者について 二七八b[2]

(三)世俗的なことのために罪について考えず、ここからそれらを知らない者について 二七八b[3]

(四)罪に好意をもつ、それゆえ、それらを知ることができない者について 二七八b[4]

(五)彼らのもとに罪は見られない、それゆえ、遠ざけられることができない 二七八b[5]

(六)それらの調査、出現、承認、告白、そして抵抗なしに、

なぜ悪が遠ざけられることができないか、今まで閉ざされていた理由二七八b[6]

(3)悪は、遠ざけられれば遠ざけられるほど、それだけ許される 二七九

(一)悪は赦された時、人間から分離された、それどころか追い出された、

と信じることは現代の誤りである二七九[2]

(二)人間のいのちの状態は瞬間に変えられることができること、このように悪から善になること、

したがって地獄から連れ出され、すぐさま天界の中に移されることができ、

このことは主の直接の慈悲からである、と信じることは、現代の誤りである二七九[4]

(三)そのように信じる者は、何が悪で何が善か、何も知らない 二七九[5]

(四)瞬間の救いと直接の慈悲を信じる者は、意志のものである情愛が心の有機体の純粋な

実体の変化の状態にほかならず、理解力のものである思考がそれらの形の変化と相違に

ほかならず、記憶がこれらの変化の残存している状態であることを知らない二七九[6]

(4)このように、悪の許しは、救いという目的のためにある 二八一

〔10〕神的な摂理は、等しく善い者と悪い者のもとにある 285〜307

(1)神的な摂理は全般的な最も個々のものの中に、善い者のもとにだけでなく、

悪い者のもとにもある。それでも、彼らの悪の中にはない二八七

  自分自身から考えず、主による天界からの流入から考えることを表明した者について 二八九

(一) 悪を行なうことは、このように過失とならない 二九四[2]

(二) このように、 悪は主からであるように見られる 二九四[5]

(三) すべての者がこのように異なって考えるように、

主だけが行なうことができることは理解できない二九四[6]

(2)悪い者は絶えず自分自身を悪の中へ導き入れる、

しかし、主は絶えず彼らを悪から導き出される二九五

(一)それぞれの悪の中に無数のものがある 二九六[1]

(二)悪い者は、自分の悪の中へ、絶えず自分から自分自身をさらに深く導き入れる 二九六[3]

(三)悪い者のもとの神的な摂理は、〔悪から〕絶え間なく連れ去られることを目的とする

絶え間のない悪の許しである二九六[7]

(四)悪から連れ去ることは、千もの最も神秘的な方法で、主により行なわれる 二九六[10]

(3)悪い者は、プロプリウムの知性がすべてであり、神的な摂理は何ものでもない、と信じて

いるかぎり、主により悪から導き出され、善の中へ導かれることがまったくできない二九七

(一)プロプリウムの知性は、意志が悪の中にあるとき虚偽しか見ない、

また何らかのものを見ることを欲しないし、できない二九八[1]

(二)プロプリウムの知性が、真理を見るなら、その時、背を向けるか、

あるいはそれを虚偽化する二九八[3]

(三)神的な摂理は絶えず人間が真理を見るようにし、それを知覚する情愛もまた与える 二九八[4]

(四) 人間はそのことによって自分自身からでなく、主により、悪から導き出される 二九八[5]

(4)主は地獄を正反対のものによって支配され、世にいる悪い者を内的なものに関して

地獄で支配される、しかし、外的なものに関しては支配されない二九九

(一)主は地獄を正反対のものによって支配される 三〇七[1]

(二)主は、世の中にいる悪い者を地獄の中で支配される 三〇七[2]

(三)主は悪い者を世の中で内的なものに関して支配され、

外的なものに関してはそのようではない 三〇七[3]

〔11〕神的な摂理は、だれにも悪を、善も、自分のものとさせない、しかし、プロプリウムの思慮分別が両方のものを自分のものとする 308〜321

(1) 何がプロプリウムの思慮分別か、何がプロプリウムでない思慮分別か 三一〇

(2) 人間はプロプリウムの思慮分別から、すべての善と真理は、同様にすべての悪と虚偽は、

自分自身から、また自分自身の中にあることを自分自身に説きつけ、

自分自身のもとで確信する三一二

(3) 説きつけられ、確信したすべてのものはプロプリウムのように人間のもとに残る 三一七

(一) 確信されることができないものは何もなく、虚偽が真理よりも確信される 三一八[2]

(二) 虚偽の確信からは真理は見られず、真理の確信から虚偽が見られる 三一八[5]

(三)何でも好むものを確信することができることは知性ではなく、単なる才気であり、

最悪の者のもとにもまたありうる三一八[8]

(四)意志の確信と同時にではなく理解力からの確信が存在する、

しかし、意志からのすべての確信は理解力の中にもまたある三一八[9]

(五)意志と同時に理解力からの悪の確信は、プロプリウムの思慮分別がすべてであり、

神的な摂理は何ものでもない、と人間が信じるようにする。

けれども、理解力だけからの確信なら、このことは行なわれない三一八[10]

(六)意志と同時に理解力からのすべての確信は永久に残る。

けれども、理解力だけから確信されるものは残らない三一八[11]

(4)人間が、すべての善と真理は主からであり、すべての悪と虚偽は地獄からであることを

〝真理〟であると信じていたなら、自分自身に善を帰さず、その善を功績ともせず、

自分自身に悪も帰さず、自分自身がそのことを行なうこともなかった三二〇

(一)知恵と思慮分別が人間から存在し、ここから彼らの中に自分のものであるとの外観を

自分自身のもとに確信する者は、そうでなければ〔人間は〕人間ではなく、

獣あるいは彫像としか見ることができないが、そのとき、それでも正反対である三二一[1]

(二)すべての善と真理は主から、すべての悪と虚偽は地獄からであることを

真理であると信じ、考えることは不可能のように見えるが、それでもなお、

そのことは真の人間性であり、ここから天使のものである三二一[4]

(三)そのように信じ、考えることは、主の神性を認めない者に、悪が罪であることを

認めない者に不可能である、しかし、それら二つを認める者に可能である三二一[6]

(四)これら二つの承認の中にいる者は、自分自身のもとの悪だけを考慮し、それらを

罪として避け、退けるかぎり、その悪を自分自身からもとの地獄へ押し戻す三二一[7]

(五)このように神的な摂理は、ある者に悪を、善もまた、自分のものにさせない、

しかし、プロプリウムの思慮分別がその両方のものを自分のものにする三二一[8]

〔12〕すべての人間は改心することができ、予定は存在しない 322〜330

(1) 創造の目的は人類からの天界である 三二三

(一)すべての人間は永遠に生きるように創造されている 三二四[1]

(二)すべての人間は幸福の状態の中で永遠に生きるように創造されている 三二四[6]

(三)このように、すべての人間は天界にやって来るように創造されている 三二四[7]

(四)神的な愛はそのことを意志する以外にできない、

神的な知恵はそのことを備える以外にできない三二四[11]

(2) それゆえ、それぞれの人間は救われることができ、神を認め、善く生きる者が

救われることは神的な摂理からである三二五

(一)神の承認は人間と神の結合を、神と人間の結合をつくる、神の否定は分離をつくる 三二六[1]

(二)それぞれの者は、自分の生活(いのち)の善にしたがって、

神を認め、その方に結合される三二六[6]

(三)生活(いのち)の善、すなわち、善く生きることは、

宗教に反し、このように神に反することであるからと悪を避けることである三二六[8]

(四)これらはすべての宗教の普遍的なものであって、

それらによってそれぞれの人間は救われることができる三二六[9]

(3)救われないなら、責任は人間自身にある 三二七

(一)すべての宗教は時間の経過とともに衰え、完了する 三二八[1]

(二)すべての宗教は、人間のもとで神の映像の倒置によって、衰え、完了する 三二八[5]

(三)これは世代の中で遺伝悪が絶え間なく増大することから起こる 三二八[7]

(四)それでも、主により、それぞれの者が救わることができるように備えられている 三二八[8]

(五)さらにまた、新しい教会が、

前の荒廃したものに代わって続くように備えられている三二八[10]

(4)このようにすべての者は天界へ予定されており、だれも地獄へ予定されていない 三二九

(一)天界以外への予定は神的な愛とその無限性に反する 三三〇[1]

(二)天界以外への予定は神的な知恵とその無限性に反する 三三〇[3]

(三)教会内に生まれた者だけが救われることは、狂気の異端である 三三〇[5]

(四)人類のある者が予定から断罪されることは、残酷な異端である 三三〇[8]

〔13〕主は神的な摂理の法則に反して行なうことができない、それらに反して行なうことは、ご自分の神的な愛に反して、自分の神的な知恵に反して、 このようにご自分に反して行なうことになるからである 331〜340

(1)人間の救いのための神的な摂理の働きは、彼の出生から始まり、そしてその生涯の終わりまでも、またその後、永遠に続く三三二

(2)神的な摂理の働きは、純粋な慈悲からの手段によって絶えず生ずる 三三五

(3)直接の慈悲からの瞬間の救いは、ありえない 三三八

(一)直接の慈悲からの瞬間の救いについての信仰は人間の自然的な状態から

把握された三三八[2]

(二)しかし、この信仰は、自然的な状態から完全に異なっている霊的な状態の

無知からである三三八[4]

(三)キリスト教世界の中のすべての教会の内部で見られる教えは、

直接の慈悲からの瞬間の救いに反している、しかしそれでも、

教会の外なる人はそれらを確かなものにしている三三八[8]

(4) 直接の慈悲からの瞬間の救いは、教会の中で飛びかける火蛇である 三四〇

(一) それによって宗教が破壊される 三四〇[2]

(二) 純粋な慈悲だけからの瞬間の救いの信仰から生活の油断が引き起こされる 三四〇[4]

(三) その信仰によって断罪が主に帰せられる 三四〇[5]

追加 三四〇[6]

注 釈 572