霊魂と身体の交流 6
4その太陽から熱と光が発出しており、そこから発出している熱はその本質では愛であり、そこからの光はその本質では知恵である
6. みことばの中で、またそこから説教者の通常の説教の中で、「天界の火が心を満たす」、「神の崇拝への神聖な願いが火をともす」というように、神の愛が火によって表現されていることがよく知られています。その理由は、火が愛に対応し、そこからそれを意味するからです。
ここから、神エホバはモーセの面前で柴(イバラの茂み)の中の火として見られ、同様にシナイ山の上でイスラエルの子孫たちの面前で見られ、また、火が祭壇の上に絶えず守られること、毎夕、幕屋の中で燭台のあかりが点火されることが命じられました。これは、火が愛を意味したからでした。
[2]その火から熱が存在することは、熱中する中で、または怒りに激昂している中で、人間は自分の愛が高められるように、火をつけられ、熱くなり、燃え上がるという、愛の結果からきわめて明らかです。血液の熱は、すなわち、人間やまた一般的に動物の生命の熱は、愛から以外のものではありません、愛はそれらの生命を構成します——地獄の火もまた天界の愛に対立する愛以外の何ものでもありません——そこでここから、前に述べたように、神の愛が天使に彼らの世界の太陽の火のように、私たちの太陽の火のように見られます。天使は、その太陽によって、神エホバから愛を受け入れるのにしたがって熱の中にいます。
[3]ここから、そこの光はその本質では知恵であることになります、というのは、愛と知恵は、エッセとエキシステレのように、分離されないものであり、愛は知恵によって、知恵にしたがって存在するようになるからです。このことは私たちの世界の中のように、春の時の熱がそれ自体を光と結合させて、発芽させ、最後に結実を生むことと同様です——さらに、だれでも、霊的な熱が愛であり、霊的な光が知恵であることを知っています。というのは、人間は愛するほど熱くなり、そして賢明であるほどその理解力は光の中にあるからです。
[4]私はその霊的な光をしばしば見ました。その光の白光りそしてまた輝きは自然的な光を測り知れないほど超えていました。というのは、本質的に、白光りそのものと輝きそのもののようであり、輝いてきらめく雪のように見えるからです。そのように、主が御姿を変えられたとき、その衣服は見られました(マルコ 9・3、ルカ 9・29)。光は知恵であるので、それゆえ、主はご自分を、すべての人間を照らす光と呼ばれています(ヨハネ 1・9)。また、他のところにも、光そのものであられること、すなわち、神の真理そのものであるものは、みことばであり、したがって知恵そのものであることが述べられています(ヨハネ 3・19、8・12、12・35、36、46)。
[5]自然的な光(*)(ルーメン)は、理性の光でもあり、私たちの世界の光からのものであると信じられています。しかし、霊界の太陽の光(*)(ルークス)からのものです、なぜなら、心の視覚は目の視覚に流入し、そのように光もまた流入し、この逆ではありません。もしこの逆なら、それは物質的な流入であり、霊的な流入ではありません。
「ルーメン」と「ルークス」について
原語はlumenとluxです。Frank Rose著“WORDS IN SWEDENBORG”には——
LUMEN = light (sometimes used of physical light or deceptive light)
LUX = light (sometimes used of a more spiritual or purer kind of light in contrast to LUMEN)
lumenが自然的な光を、luxが(自然的な光も含めた)精神的な光、霊的な光を意味するとみなしてだいたいのところそれでよいようです。すなわち、スヴェーデンボリは厳密には使い分けていなかったけれども、lumenとluxをそれぞれ「自然的な光」と「霊的な光」として用いている傾向が認められます。
本書16[8]参照(『黙示録講解』970番、スヴェーデンボリ出版『宗教と生活』32番も参照)