霊魂と身体の交流 7
5その熱と同じくその光も人間の中に流入する。熱はその意志の中に流入し、そこに愛の善を生み、光はその理解力の中に流入し、そこに知恵の真理を生む
7. すべてのものはあまねく善と真理に関係すること、またそれらの二つのものに関係しない単独の存在物はないことがよく知られています。
ここから、人間の中には、一つは善の容器であって、〝意志〟と呼ばれ、もう一つは真理の容器であって、〝理解力〟と呼ばれる二つのいのちの容器があります。善は愛のもの、真理は知恵のものであるので、意志は愛の容器であり、理解力は知恵の容器です。
善が愛のものであることは、人間は、意志するものを愛し、そのために働くとき、それを善と呼ぶからです。また、真理が知恵のものであることは、すべての知恵は真理からのものであり、それどころか、賢明な者が考える善は真理であり、またそれを欲して、行なうとき、これは善となるからです。
[2]意志と理解力であるそれらのいのちの二つの容器の間を正しく区別せず、それらについて明らかな概念を形成しない者は、霊的な流入を知ろうとしてもむだな骨折りをすることになります。なぜなら、意志の中への流入があり、理解力の中への流入があり、人間の意志の中へは愛の善の流入であり、彼の理解力の中への流入は知恵の真理の流入であり、両方とも、神エホバから、〔神エホバが〕その中心におられる太陽によって直接に、また天使の天界によって間接に流入するからです。
これらの二つの容器である意志と理解力は、熱と光のように区別されます。なぜなら、前に述べたように、意志は、その本質では愛である天界の熱を受け入れ、そして理解力は、その本質では知恵である天界の光を受け入れるからです。
[3]人間の心から、話すことの中への流入、また行動の中への流入が存在します。話すことの中への流入は意志から理解力によって生じます、けれども、行動の中への流入は理解力から意志によって生じます——単に理解力の中への流入だけで、同時に意志の中への流入を知らず、それから推論し、結論する者は、眼が一つの者のようです。その者は、ただ一つの側面の対象を見るだけで、同時にもう一つの側面を見ません。そして、具合の悪い一つの手だけで働く不具者のようです——そして、杖とともに一つの足で跳ぶように歩く者のようです。
これらのわずかなことから、霊的な熱が人間の意志の中へ流入し、愛の善を生むこと、また霊的な光が彼の理解力に流入し、知恵の真理を生むことがはっきりします。