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生活の教え 24

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24(1)人間が善を意志し、行なっても、悪を罪として避ける前なら、その善は善ではない
このことは、前に述べたように、前もって主の中にいないからです――例えば、貧しい者に与え、乏しい者に助けを行ない、礼拝所や収容所にささげ物をし、教会や祖国や市民に善を行ない、福音を教え、回心させ、裁判では公正に、取り引きでは誠実に、仕事では正直に行なっても、それでも、欺瞞・姦淫・憎悪・冒涜、また他の似たようなものを、罪としての悪は何もないとするなら、その時、内部では悪である善しか行なうことができません。というのは、それらを主から行なうのではなく、自分自身から行なうからです。そのように、それらの中に自分自身がいて、主はいません。人間自身がその中にいる善は、すべて彼の悪で汚されていて、自分自身と世を眺めています。
しかし、前に列挙されているその同じ行為を、欺瞞・姦淫・憎悪・冒涜、また他の似たようなものを、人間が〔それらの〕悪を罪として避けるなら、内的に善です――というのは、主からそれらを行ない、それらは「神において行なわれた」(ヨハネ3・19―21)と言われるからです。