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生活の教え 27

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27(3)人間が多くのことを知り、賢明であっても、悪を罪として避けないなら、やはり賢明ではない
このことは、前のものと同様に、自分自身から賢明であり、主から賢明ではないという理由からです。
例えば、自分の教会の教えを、そのすべてを正確に知っても、それらをみことばによって、また推論によって確信することを知っても、数世紀にわたる教会のすべての教えを、それとともに教会会議のすべての布告を知っても、それどころか、真理を知り、さらにまたそれらを認め、理解しても、例えば、信仰とは何か、仁愛・敬虔・悔い改めと罪の許し・再生・洗礼と聖餐・主、そしてあがないと救いとは何かを知っても、それでも、その者は、悪を罪として避けないなら、賢明ではありません――というのは、生活なしの思考であり、単なる理解力のものであって、同時に意志のものではないからです。それらは、前に述べた理由から(15番)、時が経つにつれて滅びるようなものです。死後、その人間自身もまた、彼の意志の愛に一致しないので、それらを追い払います。
しかしそれでも、それらの認識は、人間がどのように行なうべきか教えるので、最も必要なものです。それらを行なうとき、彼のもとで生きたものとなり、それ以前ではありません。