生活の教え 86
86 人間には自然的な心と霊的な心があります。
自然的な心は下にあり、霊的な心は上にあります。
自然的な心は世での彼の心であり、霊的な心は天界での彼の心です。
自然的な心は動物的な心、しかし、霊的な心は人間の心と呼ぶことができます。
さらにまた、人間は霊的な心があることによって動物から区別されます。このことによって世にいる間に天界にいることができます――死後、人間が生きることもこのことによっています。
[2]人間は理解力により霊的な心の中に、ここから天界の中にいることができますが、悪を罪として避けないなら、意志により霊的な心の中に、ここから天界の中にいることができません。意志によって天界の中にいないなら、理解力によってもいません。なぜなら、意志は理解力を引き下ろし、理解力を自然的なものや動物的なものに等しいものとするからです。
[3]人間は庭園に、理解力は光に、意志は熱に、たとえることができます。
冬の時、庭園は光の中にありますが、同時に熱の中にはありません。しかし、夏の時、光の中と同時に熱の中にあります――そこで、理解力の光の中だけにいる者は、冬の時の庭園のようです。しかし理解力の光の中と同時に意志の熱の中にいる者は、夏の時の庭園のようです。
さらにまた、理解力は霊的な光から賢明であり、意志は霊的な熱から愛します。なぜなら、霊的な光は神的知恵であり、霊的な熱は神的愛であるからです。
[4]人間は悪を罪として避けないかぎり、悪の欲望が自然的な心の内的なものを意志の側からふさぎます、そこの暗い幕のようであり、霊的な心の下にあって、開かれないように妨げる暗い雲のようです――しかし、それでも人間が悪を罪として避けるとすぐに、その時、主が天界から流入し、幕を取り除き、雲を追い散らし、霊的な心を開き、このように人間を天界の中へ入れます。
[5]悪の欲望が自然的な心の内的なものをふさぐかぎり、前に言われたように、それだけ長い間、人間は地獄にいます。けれども、これらの強い欲望が主により追い散らされるとすぐに、人間は天界の中にいます。
なおまた、悪の欲望が自然的な心の内的なものをふさぐかぎり、それだけ長い間、人間は自然的です。けれども、これらの強い欲望が主により追い散らされるとすぐに、人間は霊的です。
なおまた、悪の欲望が自然的な心の内的なものをふさぐかぎり、それだけ長い間、人間は動物です。考え、話すことができ、見ないようなものについてもまた考え、話すことができることだけが〔動物と〕異なっていて、理解力を天界の光の中に高揚させる能力からそれらを引き出しています。けれども、これらの欲望が主により追い散らされるとすぐに、その時、意志の中の善からの理解力の中で真理を考えるので、人間は人間です。
なおまた、悪の欲望が自然的な心の内的なものをふさぐかぎり、それだけ長い間、人間は冬の時の庭園のようです。けれども、これらの強い欲望が主により追い散らされるとすぐに、彼らは夏の時の庭園のようです。
[6]人間のもとの意志と理解力の結合は、みことばの中の「心」と「霊魂」によって、また「心」と「霊」によって意味されます――
例えば、主を「全心と全霊魂」で愛さなくてはならないこと(マタイ22・37)。
また主は「新しい心と新しい霊」を与えられることです(エゼキエル11・18、36・25、27)。
「心」によって意志とその愛が、そして「霊魂」と「霊」によって理解力とその知恵が意味されます。