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生活の教え 91

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91 今日の一般的な見解は、「救われることは教会の教えるあれこれを信じることである。狭い意味や広い意味で〝殺すな〟〝姦淫するな〟〝盗むな〟〝偽りの証言をするな〟という十戒の戒めを行なうことは救われることではない。というのは、神により、働きは見られないが、信仰が見られると言われているから」というものです。そのときそれでも、だれかがこれらの悪の中にいればいるほど、それだけ信仰を持っていません(前の42―52番に見られます)。
人殺し・姦淫者・盗人・偽証する者のだれかが、それらの欲望の中にいながらも、信仰を持つことができるかどうか、さらになおまた、それらの欲望が、罪であるからと、すなわち、地獄のものや悪魔のものであるからと、それらを行なうことを欲しないことによる以外に、追い散らされることができるか、理性にはかり、熟視してみなさい――それゆえ、救われることは、教会の教えるあれこれを信じることであるという信念を抱く者は、「マタイ福音書」(12・26) の主のみことばにあるような愚かな者でしかありません。
このような教会は、「エレミヤ書」に次のように述べられています、

エホバの家の門に立ち、そこでこのことばを宣言せよ――……イスラエルの神、万軍のエホバはこのように言われた――あなたがたの道とあなたがたの行ないを改めよ。……あなたがたは、「あれはエホバの神殿、エホバの神殿、エホバの神殿」と言う偽りのことばを信頼してはならない。……盗み、殺し、姦淫し、偽りによって誓っていないか……その後、あなたがたは、わたしの名前がつけられているこの家の中のわたしの前に来て、立ち、これらの忌まわしいことをあなたがたが行なう時に、あなたがたは、「私たちは救い出された」と言うのか?この家を強盗の巣とするのか?見よ、わたしもまた見た。エホバは言われる(7・2―4、9―11)。