生活の教え 111
111 人間を外なる形で道徳的であるようにするさまざまな理由があります。しかし内部でもまた道徳的でないなら、やはり道徳的ではありません。
その例として、だれかが姦淫や淫行を、民法とその罰への恐れから――名声とそこから名誉を失うことの恐れから、それらからの病気の恐れから、家で妻からガミガミ言われ、そこから生活の安らぎを失う恐れから、夫または親族から復讐される恐れから、貧困または貪欲から、病気あるいは濫用あるいは年齢あるいは(性的)不能から起こる虚弱から慎む――それどころか、何らかの自然的または道徳的な法からそれらを慎むにしても、同時に霊的な法から慎まないなら、その者はやはり内的に姦淫者であり、淫行者です。というのは、それでもなお、彼は罪でないことを信じ、ここから自分の霊の中でそれらは神の前に許されるとして、このように霊の中でそれらを犯すからです。それでも世の前で、身体の中では犯しません――それゆえ、死後、霊となるとき、公然とそれらを弁護します。
これらから、不信心な者が悪を害として避けることができること、しかし、キリスト教徒でないなら悪を罪として避けることができないことが明らかです。