続 最後の審判について 16
16
(1) 改革派教会の者からのだれに最後の審判が行なわれたか
最後の審判は、改革派教会からの者で、世で神を告白し、みことばを読み、説教を聞き、聖餐の典礼に出席し、教会の習慣的な礼拝を無視しなかったけれども、それでもなお、姦淫・いろいろな種類の盗み・うそ・復讐・憎しみ、それと同様なものを許されたものかのように思った者についてだけ行なわれました――これらの者は、たとえ神を告白しても、それでも、その方に対する罪を何ものでもないとしました。みことばを読んでも生活の戒めを何ものでもないとし、説教を聞いてでも何も気に留めず、聖餐の典礼に出席しても以前の生活の悪をやめませんでした。そして教会の習慣的な礼拝を無視しなかったけれども、生活を何も改善しませんでした。そのように、外なるものの中では宗教からのように生きたけれども、内なるものの中で彼らに宗教は何もありませんでした。
[2] これらの者は、「黙示録」(第12章)の中の「竜」によって意味される者です。なぜなら、そこの竜について、天の中に見られ、天の中でミカエルと戦ったこと、天から星の三分の一を引き下ろしたことが言われているからです。それらが言われたのは、これらの者が、神の告白と、みことばを読むことによって、また外なる礼拝によって、天界と連絡したからです。
同じ者が「マタイ福音書」(第25章)の「ヤギ」によってもまた意味されます。それらの者は、悪を行なったとは言われないで、善を行なわなかったと言われています。また、それらすべての者は、悪を罪として避けないので、善である善を行なうことをしません。たとえ悪を行なわなかったにしても、それでも許されたものと思い、このように霊でそれを行ない、そしてまた、許された時、身体で行ないます。