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続 最後の審判について 霊界について

まえがき◀︎目次▶︎3

続 最後の審判について

(1)最後の審判は、なし遂げられた

1 前の小著『最後の審判』の中でこれらについて扱われました――

〔1〕最後の日によって世の滅亡は意味されない(1–5番)。
〔2〕人類の生殖は決して終らない(6–13番)。
〔3〕天界と地獄は人類から存在する(14–22番)。
〔4〕創造の最初から、生まれ、死んだ人間がどれほど多くても、すべての者は天界の中あるいは地獄の中にいる(23–27番)。
〔5〕最後の審判は、すべての者が一緒にいるところ、このように地上でなく、霊界でなければならない(28–32番)。
〔6〕最後の審判は教会が終わる時に起こる、仁愛がないので信仰がない時が、教会の終わりの時である(33–39番)。
〔7〕「黙示録」に予言されているすべてのものは、今日、成就した(40–44番)。
〔8〕最後の審判は、なし遂げられた(45–52番)。
〔9〕バビロニアとその滅亡について(53–64番)。
〔10〕前の天とその破壊ついて(65–72番)。
〔11〕今後の世と教会の状態について(73, 74番)。

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1◀︎目次▶︎3

2
 最後の審判について続けたのは、特に、最後の審判前に世と教会の状態がどんなものであったか、またその後、世と教会の状態はどんなものとなったか、なおまた、最後の審判は改革派教会の者の上にどのようになし遂げられたか、知られるためです。

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2◀︎目次▶︎4

3
 目に眺められる全天と人間の住む全地が、最後の審判の日に滅び、新しい天と新しい地がそれらに代わって存在するようになること、その時、人間の霊魂は自分の身体に受け入られ、このように人間は前のような人間になることが、キリスト教会世界で普通の見解です。
みことばを文字どおりの意味にしたがってしか理解しなかったことから、この見解が信仰のものとされました。その霊的な意味が明らかにされる前にはこれと異なって理解されることもできませんでした――さらにそのことから、多くの者は、霊魂が人間から吐き出される単なる息(発散物)であり、そして霊と同様に天使は風(息)からの物質であるという信念を推論しました。
霊魂について、そして霊や天使について、さらなる理解しないかぎり、最後の審判についてこれと異なって考えることはできませんでした。
しかし、人間は死後に、その時、前のように自然的な身体を着せられていないで、霊的な身体を着せられるという相違だけで、世であったような人間であること、また、自然的である者の前で自然的な身体が見られるのと同様に、霊的な身体が霊的である者の前で見られことを理解するようになる時、最後の審判は自然界の中ではなく、霊界の中で起こることを理解できます。というのは、かつて生まれ、死んだすべての人間は、一緒にこの世界の中にいるからです。

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3◀︎目次▶︎5

4
 このことが理解される時、死後の霊魂の状態について、腐敗した身体との再結合について、また創造された全世界の破壊について、そのように最後の審判について、人間が考えてしまう背理は追い散らされることができます。
死後の霊魂の状態について次の背理を考えてしまいます――人間はその時、空中を飛ぶか、あるいは「プ 」と呼ばれるある場所の中に止まり、発散気または風のように、またはエーテルのようになる。そして目がないので何も見ず、耳がないので何も聞かず、口がないので何も話ささず、そのように盲目、耳しい、おし・・ になり、それらから、いのちのすべての楽しさがある霊魂のそれらの機能を最後の審判の日に受け入れることを常に期待して悲しんでいることしかできない――また同様の悲惨な状態の中にいて、最初の創造から五十ないし六十世紀生きたすべての人間の霊魂が、審判を期待しながら依然として同様に空中を飛ぶ、または「プー」の中にとどまる――さらに他の悲しむべき背理です。


注釈
「プー」はギリシア語で「どこ?」を意味し、死後の霊魂がいると信じられている場所です。

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5 死後の人間は以前のように人間であり、そのことを知らない者が、全世界の破壊について考えてしまうような背理やそれと同じような多くの背理は省きます。
けれども、死後、人間は息または風でなく、霊であり、そしてもし善く生きたなら、天界の中の天使となり、霊と天使たちは完全な形をした人間であることを知る時、死後の人間の状態について、また最後の審判について、理解力から分離した信念からでなく、理解力から考えることができます、その信念から単なる伝説が生じています――そしてまた、その理解から、みことばの中で予言されている最後の審判は、自然界の中でなく、そこにすべての者が一緒にいる霊界の中で存在するようになること、さらにまた、最後の審判が起こる時、みことばへの信仰〔が保たれる〕ために、〔その前に〕啓示されなければならないことを確かな事実として結論することができます。

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5◀︎目次▶︎7

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 霊魂について、蒸気のようであるという観念を切り離しなさい、またその時、あなたの状態、または親しい者の状態、または死後のあなたがたの幼児の幼児の状態について考えなさい。あなたは、自分が人間として生き、彼らも同様である、と考えませんか?
感覚がなくて、いのちであるいのちは存在しないので、彼らもまた見、聞き、話すとしか考えることができません――(葬式の)賛辞を述べる者は、そのようにもまた、死んだ者について書き、彼らを天界の中の天使の間に、白い衣服で、楽園の中に置きます。
しかし、その後、霊魂は蒸気であって、最後の審判後でないなら前の感覚とともに生きることはないという観念の中に戻るなら、あなたは、「私はどんなものになるのですか? その間に、どこにいるのですか? 私は空中を飛ぶのですか、あるいは「プー」の中にとどまるのですか?」と考えて、狂ってしまうのではないでしょうか。
それでも、説教する者は、「もしあなたが善く信じ、また善く生きたなら、死後、あなたは幸福な者の間にやって来ます」と教えています。
そこで、あなたは、自然的なものと霊的なものの間にある相違だけとともに、自分が死後、〔その死の〕前のような人間であることを〝真理〟として信じてよいでしょう――そのように、永遠のいのちを信じ、霊魂について仮説である伝承について何も知らないすべての者もまた考えています。

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6◀︎目次▶︎8

7 今まで言われたこれらから、最後の審判は、自然界の中では起こることができないで、霊界の中であることを明らかにすることができます。
さらにまたその世界の中で起こったことは、前の小著『最後の審判』(45–72番)の中に、見られたことから記録されているそれらから、そしてもっと先に、続くものから見ることができます。それらは改革派教会の者の審判について見られ、記されたものです。
注意深い者は、今や、天界・みことば・教会について啓示されている新しいことからもまた見ることができます。
人間のだれが、このようなことを自分自身から得ることができますか?

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7◀︎目次▶︎9

(2)最後の審判の前とその後の世と教会の状態について

8 最後の審判が霊界の中でなし遂げられたことは、今や、前述されたことから明らかにすることができます――しかし、その前とその後の世と教会の状態について何らかのものが知られるために、これらがすべて知られなければなりません――

(1)過ぎ去った「前の 」と「前の地」によって何が意味されるか(黙示録21:1)。
(2)「前の天」と「前の地」にいた者は、だれであり、どんなものであったか。
(3)最後の審判が彼らに行なわれる前に、天界と世の間の、そのようにまた主と教会の間の多くの伝達は妨害された。
(4)最後の審判の後、伝達は回復された。
(5)ここから、最後の審判の前にでなく、その後に、新しい教会のために啓示がなされる。
(6)最後の審判の前に世と教会の状態は夕と夜のようであった。けれども、その後は朝と昼のようであった。


注釈
「前の天」について
ここから過ぎ去った「前の天(prior caelum)」の解説が始まります。『最後の審判』(2番66番以降)では「最初の天」(prium caelum)と言われており、これは同一のものです。どういうわけか、スヴェーデンボリは表記を変えています。なお、英訳では「前の天」は former heaven 「最初の天」は first heaven です。
ラテン語でこの違いは、比較級と最上級の違いであり、ギリシア原典(「黙示録」21:1)では最上級が使われています。それで字義どおりなら「最初の天」が正しいです。新改訳聖書は「以前の天」と訳しています。表記が異なるだけなので、統一するならスヴェーデンボリが後から用いた「前の天」がよいでしょう。

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  (1)「黙示録」(21:1)の中の過ぎ去った「前の天」と「前の地」によって何が意味されるか
そこの「前の天」と「前の地」によって、世の人間の目の前に見られる天も、人間により住まわれる地も意味されません。最初の創造から善く生きたすべての者がいる「前の天」も意味されません――しかし、霊たちの集団が意味され、その者は天と地の間に、自分たちにいわば天界をつくりました――また、すべての霊と天使たちは人間と等しく地の上に住んでいるので、ここから「前の天」と「前の地」によってそれらが意味されます。
その天とその地が過ぎ去ったことが、〔私に〕見られ、また見られたものから〔そのことが〕小著『最後の審判』の中に述べられています(45–72番)。

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  (2) 「前の天」と「前の地」にいた者は、だれであり、どんなものであったか
このことは、小著『最後の審判』の中に述べられています。しかし、だれであり、どんなものであったか、その知識により続くもののが理解されるので、それらについてもまたここに言います。
自分たちを天界の下に集め、いろいろな場所に自分たちにいわば天界を形成し、それらもまた天界と呼んだすべての者は、最も低い天界の天使たちと結合しました、しかし、外なるものに関してだけであり、内なるものに関しては結合していませんでした――大部分の者は、ヤギとその一味であり、その者について「マタイ福音書」(25:41–46)に述べられています。確かに、その者は世の中で悪を行ないませんでした、というのは、道徳的に善く生きたから、しかし、善の起源から善を行ないませんでした、というのは、信仰を仁愛から分離し、ここから悪を罪として見なかったからです。
これらの者は外なるものの中でキリスト教徒として生きたので、外なるものの中で彼らに似ている最も低い天界の天使たちと結合しました。しかし、内なるものの中では似ていません、というのは〔その天使たちは〕信仰の中に、しかし仁愛からの信仰の中にいる「羊」であるからです。
その結合のために、存在が許されたのです。なぜなら、最後の審判の前に彼らを分離することは、最も低い天界の中にいた者に危害を加えることになったであろうから、というのは、これらの者は彼らとともに破滅の中に引きずり込まれたであろうからです。
このことが、主が「マタイ福音書」で予言されたことです――

イエスは、たとえを言われた――
天の王国は、自分の畑に善い種を蒔く人間に似ています――しかし、人間が眠った時、彼の敵が来て、毒麦を蒔き、立ち去った。苗が芽を出し、実を結んだ時、毒麦もまた現われた。
けれども、家長のしもべたちが近づいて、言った、『主人さま、あなたの畑の中に善い種が蒔かれませんでしたか? ……出かけて、私たちがそれらを集めるのを、あなたは望まれませんか?』
 けれども、その方は言った、「いいえ〔望まない〕、おそらく、あなたがたは毒麦を集め、それらとともに小麦を根こぎに〔するかもしれない。そう〕しないように、両方とも収穫まで一緒に生長させておきなさい。収穫の時に、私は収穫する者に言います、『最初に毒麦を集めなさい、それらを焼くために束に結びなさい。けれども、小麦は穀物倉の中に集めなさい』。
……善い種を蒔いた者は人の子です。畑は……世です。……種は王国の息子たちです。毒麦は……悪の息子たちです。……収穫は世代の完了です。……それゆえ、毒麦が集められ……焼かれるように、世代の完了の中でこのようになります(13:24–30, 37–40)。

世代の完了」は教会の最後の時であり、「毒麦」は内的に悪い者、「小麦」は内的に善い者であり、「焼かれるために束の中に彼らを集めること」は彼らの上の最後の審判です。最後の審判の前の分離によって危害が善い者に加えられないように〔ということが〕、「毒麦を集め、あなたがたがそれらとともに小麦を根こそぎにしないように、両方とも収穫まで一緒に生長させておきなさい」によって意味されています。

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10◀︎目次▶︎12

11(3)最後の審判が彼らに行なわれる前に、天界と世の間の、そのようにまた主と教会の間の多くの伝達は妨害された
すべての照らしは主から天界を通って人間にあり、そして内なる道を通って入ります。このような集団が天界と世の間に、すなわち、主と教会の間にあるかぎり、人間は照らされることができませでした。太陽の光線が間に置かれた黒い雲によって消散させられるようなもの、または太陽が間に置かれた月によって食を被り、そしてその光は中途妨害されるようなものでした——それゆえ、もしその時、何らかのものが主により啓示されたにしても、これは理解されません、あるいは理解されてもそれでも受け入れられません、もし受け入れられても、その後、窒息させられるかのようになったでしょう。
今や、間に置かれたそれらのすべての集団が最後の審判によって追い散らされたので、(4)「最後の審判の後、天界と世の間の伝達、すなわち、主と教会の間の伝達は回復された」ことが明らかです。

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11◀︎目次▶︎13

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 (5)ここから、最後の審判の前にでなく、その後に、新しい教会のために啓示がなされる
なぜなら、最後の審判の後、伝達が回復され、人間は照らされ、改心されることができるから、すなわち、みことばの神的な真理を理解し、その理解されるものを受け入れ、そして受け入れたものを保持することができるから、というのは、障害物が取り去られたからです。それゆえ、ヨハネは、前の天と前の地が過ぎ去った後に、自分自身に言いました、

 私は新しい天と新しい地を見た。また、その時、神より天界から下って来る聖なる都、花嫁のようにその夫の前に整えられた新しいエルサレムを〔見た〕。また王座の上に「座っておられる方」が言うのを聞いた、「見よ、わたしはすべてのものを新しくする」(黙示録21:1, 2, 5)。

エルサレム」によって教会が意味されることは、『主についての教え』の中に(62–64番)、そして、その新しいものについて(そこの65番に)見られます。

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012◀︎目次▶︎014

13(6)最後の審判の前に世と教会の状態は夕と夜のようであった。けれども、その後は朝と昼のようであった
真理の光が見られず、真理が受け入れられない時、世の中の教会の状態は夕と夜のようです。最後の審判の前、このような状態であったことは、前述のことから明らかにすることができます(11番)。けれども、真理の光が見られ、真理が受け入れられる時、世の中の教会の状態は朝と昼のようです。
ここから、教会のその二つの状態は、みことばの中で「夕と朝」、さらにまた「夜と昼」と呼ばれます。例えば、これらの中に――

 聖なる者は私に言った、「二千三百の夕と朝まで。その時、聖所は義とされる」(ダニエル8:14)。
  夕と朝の幻は真実である(ダニエル8:26)。
一つの日があり、それはエホバに知られている。昼も夜もなく、夕の時のころに光がある(ゼカリヤ14:7)。
  セイルから、私に叫ぶ者。「夜回りよ、夜について何か?」……夜回りは言った、「朝が来る、そしてまた夜が〔来る〕」(イザヤ21:11, 12)。

イエスは教会の最後の時について、

 「目覚めていなさい……というのは、あなたがたは、家の主人がいつやって来るか、夕か、真夜中か、おんどりの鳴く時か、朝か知らないからです」(マルコ13:35)。
 イエスは言われた、「わたしによって働かなければなりません……昼の時です。夜が来ます、その時、だれも働くことができません」(ヨハネ9:4)。

また他の箇所に(例えば、イザヤ17:14, エレミヤ6:4, 5, 詩篇30:6, 詩篇65:9, 詩篇90:6)。

「夕」と「夜」によってこのようなものが意味されるので、それゆえ、主は、みことばを成就するために、夕に葬られ、その後、朝に復活しました。

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13◀︎目次▶︎15


(3)改革派教会の者の上への最後の審判について

14 前の小著『最後の審判』の中で、「バビロン」によって意味される者に関する審判について、なおまたイスラム教徒や異教徒に関する何らかの審判について扱われました。しかし、改革派教会の者に関する審判については扱われていません。
真ん中に改革派教会の者が、そこに祖国にしたがって配列されていて、彼らの周囲にローマカトリック教徒が、これらの周囲にイスラム教徒が、またこれらの周囲にいろいろな宗教からの国民と民族がいることだけが言われました。
改革派教会の者が真ん中または中央の領域を構成したことの理由は、彼らによりみことばが読まれ、主が礼拝され、ここから彼らのもとに最大の光があり、その本質では神的な愛である太陽としての主から発出する霊的な光が、(それ自体を)あらゆる方向へ広げ、そして周囲の周辺の領域の中にいる者もまた照らし、受け入れられることができるかぎり、宗教からの真理を理解する能力を開くからです。
というのは、霊的な光はその本質では神的な知恵であり、受け入れた知識から知覚する能力の中にいるかぎり、人間のもとのその理解力の中に入るからです。〔その光は〕世の光のように空間でなく、真理の情愛と知覚を通って進みます。そのように、瞬く間に、天界の最外部の末端まで進みます。
これらから、その世界の中の空間の外観があります。
これらについて、多くのものが『聖書についての教え』の中に見られます(104–113番

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14◀︎目次▶︎16

15 しかし、改革派教会の者の上への最後の審判について、次の順序で述べます――

(1)改革派教会の者からのだれに最後の審判が行なわれたか。
(2)最後の審判の前の「しるし」と「視察」について。
(3)全般的な審判がどのように行なわれたか。
(4)羊の救いについて。

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15◀︎目次▶︎17

16(1) 改革派教会の者からのだれに最後の審判が行なわれたか
最後の審判は、改革派教会からの者で、世で神を告白し、みことばを読み、説教を聞き、聖餐の典礼に出席し、教会の習慣的な礼拝を無視しなかったけれども、それでもなお、姦淫・いろいろな種類の盗み・うそ・復讐・憎しみ、それと同様なものを許されたものかのように思った者についてだけ行なわれました――これらの者は、たとえ神を告白しても、それでも、その方に対する罪を何ものでもないとしました。みことばを読んでも生活の戒めを何ものでもないとし、説教を聞いてでも何も気に留めず、聖餐の典礼に出席しても以前の生活の悪をやめませんでした。そして教会の習慣的な礼拝を無視しなかったけれども、生活を何も改善しませんでした。そのように、外なるものの中では宗教からのように生きたけれども、内なるものの中で彼らに宗教は何もありませんでした。
[2] これらの者は、「黙示録」(第12章)の中の「竜」によって意味される者です。なぜなら、そこの竜について、天の中に見られ、天の中でミカエルと戦ったこと、天から星の三分の一を引き下ろしたことが言われているからです。それらが言われたのは、これらの者が、神の告白と、みことばを読むことによって、また外なる礼拝によって、天界と連絡したからです。
同じ者が「マタイ福音書」(第25章)の「ヤギ」によってもまた意味されます。それらの者は、悪を行なったとは言われないで、善を行なわなかったと言われています。また、それらすべての者は、悪を罪として避けないので、善である善を行なうことをしません。たとえ悪を行なわなかったにしても、それでも許されたものと思い、このように霊でそれを行ない、そしてまた、許された時、身体で行ないます。

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16◀︎目次▶︎18

17
 最後の審判は改革派教会からのすべての者の上に行なわれました、けれども、神を信じず、みことばを軽蔑し、教会の聖なるものを心で退けた者の上にではありません。なぜなら、これらすべての者は、自然界から霊界の中にやって来た時、地獄の中に投げ込まれたからです。

続 最後の審判について 霊界について

17◀︎目次▶︎19

18
 外なるものの中でキリスト教徒のように生き、キリスト教徒〔として〕の生活を何も行なわなかったすべての者は、外的に天界と一つでしたが、内的に地獄と一つでした。天界との彼らの結合からすぐに引き離されることができなかったので、天界と地獄の間に中間のものである霊たちの世界の中に引き留められませんでした。また、彼らに、社会をつくり、世の中のように一緒に生活し、そこに世の中で知られていない技術によって光り輝くものを見せ、それによって自分自身と他の者に天界の中にいることを確信させることが許されました――それゆえ、その外なる外観から自分たちの社会を天界と呼びました。
彼らが住んだそれらの天界と地は、過ぎ去った「前の天と前の地」によって意味されています(黙示録21:1)。

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18◀︎目次▶︎20

19
 そこにとどまったとき、その間、彼らの心の内的なものは閉ざされ、外的なものが開かれていました。そのことによって彼らの悪は見られず、その悪によって地獄と一つとなっていました。
しかし、最後の審判が差し迫ったとき、内的なものが開かれ、その時、すべての者の前に彼らがどんなものであったか見られました――その時、地獄と一つのものとして活動したので、もはやキリスト教徒の生活を偽り装うことができず、楽しみからすべての種類の悪と邪悪な行為の中に突進し、そして悪魔に変えられ、そしてまた彼らは、ある者は黒い者、ある者は火のような者、ある者は死体のような鉛色の者のように見られました――自己の知性の高慢の中にいた者は、黒い者に見られ、すべての者の上に支配しようとする狂った愛の中にいた者は、火のような者に見られ、真理の無視や軽蔑の中にいた者は、死体のような鉛色の者に見られました。
そのように、それらの劇場の舞台は変わりました。

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19◀︎目次▶︎21

20 天界と地獄の間の中間にある霊たちの世界の改革派教会の者たちは、その最内部を構成し、すなわち、中心領域をつくり、またそこに祖国にしたがって配列されました。
その中心領域の中央にイギリス人、オランダ人が南と東に、ドイツ人が北に、スウェーデン人が西と北に、デンマーク人が西にいます――しかし、その中心領域に、仁愛とその信仰の生活を送った者以外の他の者はいません。そこに多くの社会があります。
彼らの周囲に信仰と仁愛の生活を過ごさなかった改革派教会の者がいます――これらの者が、自分自身に天界のようなものをつくった者です。
しかし、天界の中の、そしてまた地獄の中のすべての社会の配列は別です。
改革派教会の者がそこに中心領域をつくるのは、彼らのもとで、みことばが読まれ、主もまた礼拝され、そのことからそこに最大の光があり、そこからのその光が中心からのように、すべての周辺の領域の中に広がり、照らすからです。
というのは、霊と天使たちがその中にいる光は、太陽としての主から発出し、その方はその本質の中で神的な愛であり、ここから発出する光はその本質では神的な知恵であるからです。ここから、その世界のすべての霊的なものがあります。
霊界の中の太陽としての主について、またそれからの光と熱については、著作『天界と地獄』(116–140番)に見られます。

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20◀︎目次▶︎22

21
 その世界の中のすべての社会の配列は、愛の相違にしたがった配列です。その理由は、愛は人間のいのちであり、神的な愛そのものであられる主が、それらの社会をその受け入れにしたがって配列されるからです。そして愛の相違は無数であり、その相違を、主おひとりでないなら、だれも知りません。
〔主は〕社会を、すべての者があたかも人間のいのちに、天界の社会が天的な愛と霊的な愛のいのちに協力して活動するかのように、地獄の社会が悪魔的な愛と地獄的な愛に協力して活動するかのように結合され、天界と地獄を対立によって結合されます。
このような配列があるので、それゆえ、それぞれの人間は、死後、自分の愛が属する社会へと出かけ、他のところへ出かけることができません、というのは、彼の愛が逆らうからです。
ここから、霊的な愛の中にいる者は天界の中にいます、けれども、自然的な愛の中にだけいる者は地獄の中にいます。
霊的な愛はもっぱら仁愛の生活(いのち)によって植え付けられ、もし仁愛の生活(いのち)が捨てられるなら、自然的な愛は自然的な愛にとどまります。また自然的な愛は、もし霊的な愛に服従しないなら、それに対立します。

続 最後の審判について 霊界について

21◀︎目次▶︎23

22
 これらから、改革派教会の者からのだれの上に最後の審判が行なわれたか明らかにすることができます。中心領域にいる者の上ではなく、その周囲にいる者の上にです。その者は、言われたように、外なる礼儀正しさからキリスト教徒のように見えました、しかし、霊的ないのち(生活)が何もないことから、内的にキリスト教徒ではありませんでした。

続 最後の審判について 霊界について

22◀︎目次▶︎24

23
 (2)最後の審判の前の「しるし」と「視察」について
自分自身に天界のようなものをつくった者の上にもや・・ のようなものが見られました。そのことは、彼らの上の天使の天界の中に主の臨在から、特に、最も低い天界の中にその方の臨在から見られ、彼らからのだれかが〔彼らの間の〕結合のために取り去られ、一緒に滅びないためでした。
さらに上の天界もまたさらに近く、彼らのもとに運び下ろされ、そのことによって審判がやって来ようとしていた者の内的なものが開かれました――それらが暴露されて、もはや前のような道徳的なキリスト教徒のように見えず、悪鬼のように見られました。彼らは乱れ騒ぎ、自分たちの間で、神・主・みことば・信仰・教会について言い争いました――その時、悪への欲望もまた自由の中に送り出されたので、それらのすべてのものを軽蔑とあざけりとともに退け、すべての種類の邪悪な行為の中に突進しました。
そのようにその天界の住民の状態は変えられました。
その時、同時に、世の中で知られていない技術によって自分たちにつくった彼らのすべての光り輝くものは消え、彼らの宮殿は卑しい小屋に、庭園は池に、神殿はがれき・・・に、そして彼らがそれらの上に住んだ丘そのものは岩の山に、また彼らの邪悪な心と欲望に対応している他の似たものに変えられました。
なぜなら、霊界で見えるすべてのものは、霊と天使たちのもとにある情愛に対応するものであるから。
これらが、審判がやって来るしるしでした。

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23◀︎目次▶︎25

24
 内的なものの暴露が増大するように、住んでいる者の間の秩序も変化し、ひっくり返されました。教会の聖なるものに反する推論で最も強力であった者は、中央へ突進し、支配を得ました。そして、その推論が強力でなかった残りの者は、周囲の脇へ退き、中央にいた者を自分たちの守護天使として認めましたーーそのように彼らは自分たちを地獄の表面に集めました。

続 最後の審判について 霊界について

24◀︎目次▶︎26

25
 これらの彼らの状態の変化と関連して、彼らのもとに住居と地のいろいろな揺れが生じ、それらに、〔彼らの〕離反にしたがっておびただしい地震が続きました――そしてまた、あちこちに彼らの下にあった地獄へ向かう割れ目が生じ、このように〔地獄と〕彼らとの伝達手段が開かれました。その時、火花を混ぜ合わせた発散気が煙のように昇ってくるのが見られました。
これらもまた先行するしるしでした――それらもまた、「福音書」に、主のみことばによって、世代の完了について、またその時の最後の審判について、意味されるものです――

  国が国に対して立ち上がり……いろいろな場所に大地震があり……恐ろしいことや天について大きなしるしもまたあります。……海と波がどよめいて……国民の悩みがあります〔(ルカ21:10, 11, 25, マタイ24:7, マルコ13:8)〕。

続 最後の審判について 霊界について

25◀︎目次▶︎27

26 「視察」もまた天使たちによって行なわれました。なぜなら、悪が分離されない何らかの社会が滅びる前に、常に視察が先行するからです。
天使は、彼らがやめるように勧告し、やめないなら、彼らに破滅をおどして宣告しました。
さらにまたその時、彼らにだれか善良な者が混じっていないか捜し出し、それらの者を分離しました。
しかし、自分たちの指導者たちによりかき立てられた群衆は、彼らを侮辱し、広場の中に彼らを連れてくるために突進し、おそるべき方法で苦しめました――そこではソドムのように行なわれました〔「創世記」第18、19章参照〕。
彼らからの大部分の者は、仁愛から分離した信仰からの者であり、そしてまた、ある者は、仁愛を言明しても邪悪な行為に生きた者でした。

続 最後の審判について 霊界について

26◀︎目次▶︎28

27 (3)全般的な審判がどのように行なわれたか――
彼らの心を不埒な行動から、そしてまた主を天地の神として認め、神聖さをみことばに抱き、仁愛の生活を送った者に対する暴動の陰謀から、視察とやって来る審判の予告のしるしによって、逸らせることができなかった後、最後の審判が起こりました。
このことは次のように生じました。

続 最後の審判について 霊界について

27◀︎目次▶︎29

28
 主が天使たちとともに白く輝く雲の中に見られ、そこから、らっぱのような音が聞こえました。それは主からの天界の天使による保護とあらゆる方向から善良な者を集めることを表象するしるしでした。というのは、主はだれにも破滅をひき起こさず、単に悪い者との伝達から引き離して、ご自分に属す者を守られるからです。引き離されて、悪い者は自分の欲望の中へやって来て、それらからすべての種類の邪悪なことの中に突進します。
その時、一緒に滅ぼうとしているすべての者が、曲がっている尾を伸ばしている大きな竜のように、天に向けて上げられ、高いところへいろいろと曲げて、天を破壊し、それを引きずり落とそうとしていることが見られました。しかし、むだな努力でした、なぜなら、尾は投げ落とされ、その時、高く上げて見られた竜もまた沈んだからです。
「黙示録」の中の「竜」によって何が意味されるか私が知り、よく知られたものにするために、私にこの表象を見ることが与えられました。すなわち、「竜」によって、みことばを読み、説教を聞き、教会の聖なる儀式に出席し、そして悪の欲望を、それらに誘惑されたけれども何も行なわず、それでも内部に盗みや欺瞞・姦淫やわいせつなこと・憎しみと復讐・うそや冒涜を考え、そしてそのように霊では悪魔のように、身体では天使のように生きたすべての者が意味されることです。これらの者が竜自体を構成した者です。けれども、尾を構成した者は世の中で仁愛から分離した信仰の中にいて、思考と意図に関して前の者に似ている者でした。

続 最後の審判について 霊界について

28◀︎目次▶︎30

29
 その時、私は、彼らがそれらの上にいた岩々を見ました。ある岩は底にまで沈み、ある岩は遠くへ移され、ある岩は真ん中が開かれ、その洞穴を通って、その上にいた者が投げ落とされました。ある岩は洪水のように水に覆われました。そして、悪の種と属にしたがって集団の中に、束のように集められ、あちこちの沼地・湿地・池・荒地の中に、それだけ多くの地獄の中に投げ込まれている多くの者を見ましたーー岩の上にいないで、あちこちに散らされ、それでも似た悪の中にいた他の者は、びっくりして、ローマカトリック教徒・イスラム教徒・異教徒のもとへ逃げ去り、その宗教を告白しました。このことを彼らに何も宗教がなかったので、心の感情なしに行なうことができました。しかしそれでもまた、彼らを惑わさないように、追い払われ、地獄の中の自分の仲間の中へ押し下げられました。
これは一般的に述べられた彼らの滅亡でした。私が見た個々のものは、ここに述べられることができないような多くのものです。

続 最後の審判について 霊界について

29◀︎目次▶︎31

30(4)羊の救いについて
最後の審判がなし遂げられた後、その時、天界の中に楽しさが生じ、そしてまた霊たちの世界の中に以前になかったような光が生じました――竜が投げ落とされた後の天界の中の楽しさがどんなものかは、「黙示録」の中に述べられています(12:10–12)。霊たちの世界の中に光が生じたのは、竜の地獄の社会が雲のように間に置かれ、それらが地を暗くしたからです――その時、世の中の人間にもまた似た光が出現し、その光から新しい照らしがあります。

続 最後の審判について 霊界について

30◀︎目次▶︎32

31
 その時、私は下方から上ってきて、天界の中へ上げられる多数の天使的な霊を見ました、その者は羊でした。そこでは何世紀も以前から、竜からの有害なスフェアの中にやって来ないように、また彼らの仁愛が窒息させられないように、主により守られ、保たれていました。
これらの が、みことばの中で「墓から出てくる者」、なおまた、目ざめていて「イエスの証しのために殺されたたましい」によって、また「その者は最初の復活からである」によって意味される者です。


注釈
「これらのもの」については「マタイ」27:52、「黙示録」20:5など参照。

続 最後の審判について 霊界について

31◀︎目次▶︎33

続 霊界について

(1)霊界について

32 霊界については、特に著作『天界と地獄』の中に扱われていて、その中にその世界の多くのものが述べられています。また、すべての人間は、死後、その世界の中にやって来るので、そこにもその時の彼の状態もまた述べられています。
人間は神の像へと創造されて生まれているので、また主はご自分のみことばの中でそのことを教えられているので、人間が死後に生きることをだれが知りませんか?
しかし、彼にどんな将来の生活があるか、今まで知られていませんでした。
その時、霊魂であると信じられ、他の観念は受け入れられません。その霊魂は、目にあるような視覚なしに、耳にあるような聴覚なしに、口にあるような話すことなしに、その中に思考の何かが住んでいる空気またはエーテルです――そのとき、それでも、人間は死後も等しく人間であり、その人間は依然として前の世界の中にいるとしか知らないで、前の世界の中のように見、聞き、話します。前の世界の中のように歩き、走り、座ります。前の世界の中のように食べ、飲みます。前の世界の中のように眠り、目覚めます。前の世界の中のように結婚の楽しさを享受します。一言でいえば、すべてと個々のものに関して人間です。
このことから、死は単にいのち(生活)の連続であり、また単に通過であることが明らかです。

続 最後の審判について 霊界について

32◀︎目次▶︎34

33
 人間が死後の自分のこの状態を知らないことには多くの理由があります。照らされることができなかったこと、これほどに霊魂の不滅について彼らのもとに信仰がわずかであったこともその理由です。多くの者や学識のある者からもまた明らかにすることができるように、その者は自分自身に獣と同様である、または単に話すことができるので獣よりも完全である、と信じています。またそれゆえ、自分の心では死後の生活を否定しますが、それでもそれを口で認めます――彼らのその考えから、死後の人間を自分の目で見ないので、人間が死後にも人間であること考えることができないほどに感覚的になります。というのは、彼らは、「どのようにして霊魂はそのようであることができるのか?」と言うからです。
自分自身が死後に生きることを信じている者は異なっています。彼らは内的に自分自身の中で、天界の中にやって来ること、天使とともに楽しむこと、天界の楽園を見ること、また白い衣服で主の前に立つことなど多くのことを考えています。これは彼らの内的な思考です。学識のある者の仮説から霊魂について考える時、外的な思考がその内的な思考から迷い出るかもしれません。

続 最後の審判について 霊界について

33◀︎目次▶︎35

34 人間が死後も等しく人間であり、それでも目の前に見られないことは、アブラハム、ギデオン、ダニエル、また他の予言者たちに見られた天使から、また主の墓の中で、そしてその後、多くの機会に、「黙示録」の中でヨハネに見られた天使から、特に、主ご自身から、その方は人間であることを弟子たちに、触れることと食べることによって示し、それでも、彼らの目の前で目に見えないようにされたことから明らかにすることができます。
彼らが見たのは、その時、彼らの霊の眼が開かれ、開かれていたとき、霊界の中にあるものが、自然界の中にあるものと等しく、そのようにはっきりと見られたからです。

続 最後の審判について 霊界について

34◀︎目次▶︎36

35
 主は、私の霊の目を開け、そして開いて今や十九年間保つことを喜ばれたので、私に霊界の中にあるそれらを見、そしてまたそれらを述べることが与えられました。
私は、それらが幻でなく、すっかり目覚めている中で「見られたもの」である、と断言できます。


注釈
本書の発行は1736年(アムステルダム)なのでこの年を含めて19年間なら始まりは1745年となります。すなわち、スヴェーデンボリがはっきりと霊界に入れられたのは1745年4月中旬のロンドンです。このことについてスヴェーデンボリ自身の記録文書はなく、カール・ロブサームの筆によります(『スヴェーデンボリ叙事詩』329ページ参照。なお『スヴェーデンボリ叙事詩』第三部「神の国」は、この1745年から始まり没年の1772年までです)。

続 最後の審判について 霊界について

35◀︎目次▶︎37

36
 自然界の中の人間と霊界の中の人間の間の相違は、後者が霊的な身体を着ているけれども前者が自然的な身体を着ていること、また自然的な人間が自然的な人間を見るのと等しく、霊的な人間は霊的な人間をはっきりと見ていますが、自然的なものと霊的なものの間の相違のために、自然的な人間は霊的な人間を、霊的な人間も自然的な人間を見ることができないことです。それがどんなものか述べることができます、しかし、手短にはできません。

続 最後の審判について 霊界について

36◀︎目次▶︎38

37 このように多年にわたって見られたことから、私は次のことを述べることができます――自然界と等しく霊界に、大地、そして丘と山、さらに平野や谷、そしてまた泉や川、なおまた湖や海、楽園や庭園、木立ちや森、宮殿や家があること、なおまた書かれたものや本があり――そして任務と取引があり、宝石・金・銀があることです。――一言でいえば、どんなものでも自然界の中のすべてと個々のものがあり、それらは天界の中で無限にさらに完全であることです。

続 最後の審判について 霊界について

37◀︎目次▶︎39

38
 しかし、全般的な相違はこれらですーー霊界の中にあるすべてのものは、霊的な起源からであり、ここから本に関して霊的であり、純粋な愛であるそこの太陽からです。自然界の中にあるすべてのものは、自然的な起源からであり、ここから本質に関して自然的です、というのは、純粋な火であるそこの太陽からであるからです。
そのことから、自然的な人間が自然的な起源からの食物で養われなければならないように、霊的な人間は霊的な起源からの食物で養われなければなりません。
多くのものが著作『天界と地獄』の中に見られます。

続 最後の審判について 霊界について

38◀︎目次▶︎40

(2)霊界のイギリス人について

39 人間のもとに外なるものと内なるものの思考の二つの状態があります。人間は自然界の中で外なるものの中に、霊界の中で内なるものの中にいます――これらの状態は善良な者のもとで一つとなっています、しかし、悪い者のもとで一つではありません。
人間が自分の内なるものに関してどんなものであるかは、自然界の中で明らかとなるのはまれです、幼年期から道徳的であることを欲し、また〔そのように〕見られることを学んだからです。しかし、霊界の中でどんなものであるかはっきりと見られます――霊的な光がこのことを明かします。そしてまた、人間は、その時、霊であり、霊は内なる人です。
今や、私にその光の中にいること、またその光から、ある王国や他の王国からの内なる人がどんなものであるか、このことが天使と霊たちとの多くの年の交流を通して見ることが与えられ、重要なことなので、私はそれを明らかにしなければなりません――ここに、イギリス国民で高貴な者について何らかのものだけを述べます。

続 最後の審判について 霊界について

39◀︎目次▶︎41

40
 イギリスの国民からのさらに善い者は、すべてのキリスト教徒の中心にいます(前の20番参照)。中心にいる理由は、彼らに内的な知性の光があるからです――このことは自然界の中のだれにも見られません、しかし、霊界の中で明白に見られます。〔彼らは〕考える自由(自主性)からこの光を得て、ここから話し、書く自由の中にいます――このような自由(自主性)の中にいない他の者のもとで、知性の光は、出口を持たないので、のみ込まれます。
けれども、その光はそれ自体から活動的ではありません、しかし、他の者から、特に、彼らのもとの有名で権威ある人々から活動的になります。これらの者から何かが言われると、またはそれらの者に賛同されたものが読まれると、すぐにその光が輝き出ます、まれにはそれ以前にです。
この理由のために、彼らには霊界の中で監督官が置かれ、また学識と高度に発達した能力から評判で有名な聖職者が与えられ、彼らの命令と警告に、自分の生来の性質から、好意をもって従います。

続 最後の審判について 霊界について

40◀︎目次▶︎42

41〔彼らが〕自分の社会から出るのはまれです、世で祖国を愛するようにその社会を愛するからです。
心が似ていることも彼らの間にあり、そのことから彼らの祖国からの友と親交を結びます、まれに他の者と〔結びます〕――相互の助けも互いに行ない、そして誠実を愛します。

続 最後の審判について 霊界について

41◀︎目次▶︎43

42 ロンドンに似た二つの大きな都があり、死後、その中へ大多数のイギリス人がやって来ます。それらの都を見ること、そしてまた歩きまわることが与えられました。
その都の中心に、そこに「取引所」と呼ばれるロンドンのイギリス商人の集会所があります。そこに監督官が住んでいます。
[2] その真ん中の上に東、その下に西があり、右側に南、左側に北があります。
東の方位に他の者よりも仁愛の生活を送った者が住んでいて、そこに荘厳な宮殿があります――南の方位に賢明な者が住んでいて、彼らのもとに多くの光り輝くものがあります――北の方位に他の者よりも話す自由と書く自由を愛する者が住んでいます――西の方位に信仰を告白する者が住んでいます。この方位の右に、この都の中への入り口と出口があります。悪く生きる者はそこに送り出されます。
西にいる聖職者は、その者は信仰を告白すると言われましたが、都に入るとき、あえて大きな街路を通らないで、狭い路地を通って入ります、仁愛の信仰の中にいる者以外の他の住民は都そのものの中にその存在が許されないからです。
[3] 私は、西の説教者たちについて不平を聞きました。〔彼らが〕自分たちの説教を巧妙さと同時に雄弁さで作り上げ、知られていないものである信仰による義認〔神が人を、罪なしとして,ゆるして受け入れること〕をそれらに含み入れ、善を行なうべきかどうかわからないようにすることです。〔彼らは〕内在的な善を語り、それを外面的な善から分離し、いつでも功績を得るためのものと呼び、このように神に受け入れられないものとします。しかしそれでも、役立つものなので善と呼んでいます――しかし、都の東と南の方位の中に住んでいる者は、このような神秘的な説教を聞くとき、教会(神殿)から去ります。その後、説教者たちは祭司職を剥奪されます。

続 最後の審判について 霊界について

42◀︎目次▶︎44

43
 ロンドンに似たもう一つの大きな都は、キリスト教徒の中央になく(それについては20番)、その外の北にありますーーその中に内的に悪い者が死後にやって来ます。
その真ん中に地獄との交通が開かれていて、時々、そこからもまた、のみ込まれます。

続 最後の審判について 霊界について

43◀︎目次▶︎45

44
 かつて私はイギリスからの長老が自分たちの間で信仰のみについて話しているのを聞き、彼らにより作られた信仰のみを表象している像を見ました。
これは暗い光(ルーメン)の中で大きな巨人のように見え、彼らの目の前で美しい人間のように見えました。しかし、天界から光(ルークス)が入れられたとき、それは上部が怪物のように、下部はヘビのように見え、ペリシテ人のダゴンの像の記述どおりのものに似ていましたーーその像を見ると彼らは去り、それはそばに立っていた者により池の中に投げ込まれました。

続 最後の審判について 霊界について

44◀︎目次▶︎46

45 霊界の中のイギリスからの者から、彼らに一つは信仰の教えから、またもう一つは生活の教えから二重の神学のようなものがあることが知覚されました。祭司職に導かれる者に信仰の教えからのものがあり、祭司職に導かれないで、平信徒と呼ばれる大衆に生活の教えからのものがあります。
この教えは、教会で聖餐の礼典に臨む者の前で、安息日ごとに朗唱される祈りの中に示されています。その中に、もし悪を罪として避けないなら、自分自身を永遠の断罪の中へ投げ込むこと、また悪を罪として避けないで、聖餐式に近づくなら、悪魔がユダの中へのように彼らの中に入ることがはっきりと言われています。
この生活の教えが彼らの信仰の教えと一致しないことについて、時々、私は聖職者たちと話しました。その者は何も答えませんでしたが、しかし、あえて口に出そうとしないことを考えていました。
その祈りは『新しいエルサレムのための生活の教え』(5–7番)にあります。


注釈
聖餐に臨む会衆の前で読まれる「祈り」は、次のものです  

聖餐をあずかるのにふさわしい者となるための方法であり、手段であるものは——
最初のものは、神の戒めを基準として、自分の生活の行為と交際を調べることである。意志または話すことあるいは行動のどんなものの中であれ、違反していることに気づくなら、その時、自分の性質の欠点を悔やんで、生活を改善しようとする十分な意図とともに、それを全能の神の前に告白をしなければならない。
また、神に反しているだけでなく、隣人にもまた反しているような罪に気づいたなら、その時、彼と和解し、自分の力のかぎり、すぐにも他の者に行なった損害と悪のためのつぐないと謝罪をしなくてはならない。同様に、自分の罪が神から赦されることを望むように、すぐにも他の者に罪を赦すようにしなければならない——さもないと、聖餐を受けることは断罪を重くすることにしかならない。
それゆえ、もしあなたがたのだれかが、神を冒涜する、その方のみことばをそしる、侮辱する、または姦淫する、あるいは悪意またはねたみまたは何らかの他の憎むべき罪悪の中にいるなら、罪からの悔い改めを行なえ。そうしないなら、聖餐に近づいてはならない。さもないと、聖餐を受けた後、悪魔がユダに入ったように、あなたの中に入ってきて、あなたをすべての不法で満たし、身体と霊魂を滅ぼすであろう。 

続 最後の審判について 霊界について

45◀︎目次▶︎47

46 私は、数年前に出版した本によって称賛されたあるイギリス人をしばしば見ました。その者はその〔本の〕中で聖霊の内的な流入と働きによって信仰と仁愛の結合を確立することに努めました。「その流入は言い表わせない方法で、人間に気づかれないで働きかける。しかし影響を及ぼさず、許されないなら、自分自身からのように何かを行なうことへ、ましてはっきりと動かさない、または人間の思考を刺激しないで、神の許しによらないなら、人間に神的な摂理の中の何らかのものが一緒に入らないためである。なお、このように悪は神の前に見られない」と述べています。そのように何らかの救いのための外なる仁愛の実践を締め出しています、しかし、公共の善のためのそれらに賛同しています。
彼の論証は才気があり、草の中にヘビが見られなかったので、彼の本は最も正統的なもののように受け入れられました。
[2] その著者は世から去った後、同じような教義を保持し、自分自身のもとで確信したのでそれから去ることができませんでした。
天使は彼と話し、「それは〝真理〟ではなく、しかし、単なる能弁と一種の才気です。人間は自分自身からのように、それでも主からであることの承認とともに、悪を避け、善を行なわなければならないことが〝真理〟です。信仰は、ましてなおさら信仰と呼ぶその思考は〔それ〕以前にありません」と言いました――このことは彼の教義に抵触したので、このような知られていない流入と内なる働きが、人間の外なる働きなしに存在するかどうか、彼に自分の賢明さから、さらに探究することが許されました。
その時、彼は、「人間はそうでなければ回復されず、救われない」と常に確信しながら、その思考の道を進むことが見られました。しかし、道の終わりにやって来るたびごとに、彼に目が開かれ、自分がさ迷っているのを見、居合わせた者の前で告白もしました。
私は二年間にわたって彼がそのように歩き回り、道の終わりで、外なる人間の中で悪が遠ざけられていないかぎり、このような流入は与えられないこと、このことは自分自身からのように悪を罪として避けることによって起こることを認めるのを見ました。私は彼がついに、「その異端を確信するすべての者はプロプリウムの知性の高慢から狂う」と言っているのを聞きました。

続 最後の審判について 霊界について

46◀︎目次▶︎48

47
 私はメランヒトンと話し、その時、彼にどんな状態の中にいるか問しました。彼はそのことに答えようとしませんでした。
それゆえ、他の者から彼の運命について、交互に石造りの丸天井の部屋と地獄にいること、寒さのために部屋の中でクマの毛皮を着ているのが見られ、世からやって来て、彼の名声のためにその丸天井の空間に近づこうとする者が、そこが不潔であるために入れないことが知らされました。
彼は依然として世で他の者以上に確立した信仰のみについて話しています。

続 最後の審判について 霊界について

47◀︎目次▶︎49

(3)霊界のオランダ人について

48 前に、彼らのもとでみことばが読まれ、主が礼拝されるキリスト教徒は全霊界の国民と民族の真ん中にいることが言われました(20番)。その理由は、彼らのもとに最大の霊的な光があり、光はここから中心からかのように、すべての周辺の中に、最も遠く離れたところにまで広められ、そして照らすからであり、その光は『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中で言われていることにしたがっています(104–113番)。
この真ん中に、改革派教会のキリスト教徒が、主からの霊的の受け入れにしたがって場所を割り当てられています。イギリス人はその光を自分自身のもとに知的な部分の中にたくわえて持っているので、それゆえ、その真ん中の最内部の中にいます。オランダ人はその光(ルークス)を自然に固有な光(ルーメン)に結合させて保つので、ここから彼らのもとに光の雪のような白さは見られず、その代わりに、透明でない何らかのものがあり、霊的な光から、同時に霊的な熱から推理力を受け取り、そのキリスト教徒の中央に、東と南の中に住居を得ています。霊的な熱を受け入れる能力から東の中にいて、その熱は彼らには仁愛です。霊的な光を受け入れる能力から南の中にいて、その光は彼らには信仰です。
[2]霊界の中の方位が自然界の中の方位のようではないこと、方位にしたがって住むことは信仰と愛の受け入れにしたがって住むことであること、また東に愛と仁愛でまさる者が、南に知性と信仰でまさる者がいることは、著作『天界と地獄』の中に見られます(141–153番)。
[3]〔彼らが〕中央のキリスト教徒のこれらの方位の中にいる理由は、彼らの目的の愛が商業であり、金銭は仕える中間の愛であり、その目的の愛は霊的であるからでもあります。しかし、そこに金銭が目的の愛であり、商業が仕える中間の愛であるとき、その目的の愛は自然的な愛であり、〔起源を〕貪欲から得ています。
前述の霊的な愛は本質的に眺められるとき公共の善であり、その中に、それからの祖国の善があり、オランダ人は他の者よりもその愛の中にいます。

続 最後の審判について 霊界について

48◀︎目次▶︎50

49
 オランダ人は他の者よりも自分の宗教の原理に固執し、他の者によって動かされません。あれこれが一致しないことを納得させられても、それでも肯定しません、後ろへ向きを変え、不動のままにとどまります。そのように、真理の内的な熟考からもまた引き下がります。というのは、霊的なものについて自分の理性を従順の下に服従させるからです。
彼らはこのような者であるので、それゆえ、死後、霊界の中にやって来る時、神的な真理である天界の霊的なものを受け入れるために、他の者とはまったく異なって準備されます――彼らは受け入れないので、教わりません。しかし、彼らに天界がどんなものであるか述べられ、その後、彼らにそこに上ること、そしてそれを見ることが与えられ、その時、彼らの性向に一致するものが何でも注ぎ込まれます。このように下げられて、自分のところへ、天界への願いに満たされて戻ります。
[2]もしその時、神は位格と本質で一つであり、その神は主であり、その方の中に三一性があるという真理を、また思考と会話での信仰と仁愛は、それらの生活なしに何もつくらないで、悪を罪として避ける時、それらが主から与えられるという真理を受け入れないなら――もしそれらが教えられるとき、背き、それでも神について位格に関して三つであると考え、宗教についてもそうしたものがあるとだけ考えるなら――悲惨さの中に追いやられ、彼らから商業が取り去られ、その時、自分たちが窮地に追いやられているのを見ます。その時、すべてのものに満ち、彼らのもとで商業が栄えている者のもとへ連れて行かれ、そこで彼らに教えられます。天界の考えから、彼らがこのようであるのはどこからなのか、同時に主についての彼らの信仰を、悪を罪として追い払う彼らの生活について熟考します。
さらにまた、少し探究し、自己の思考や熟慮と一致することを知覚します。このことが交互に行なわれます。
最後に、悲惨さから去るために、彼らと同様に信じ、同様に行なわなければならないと自分自身から考えます。
その時、その信仰を受け入れ、その仁愛の生活を生きるほど、彼らに富と生活の快さが与えられます。
この方法で、世の中で何らかの仁愛の生活を送った者は、他の者からでなく自分自身により正され、そして天界へ準備されます。
[3]これらの者は、その後、「志操堅固」〔の典型〕と呼ばれるほどにまでも、他の者よりも不変な者となり、何らかの(誤った)推論・欺き・詭弁により引き起こされた不明瞭さから、また単なる確信からの逆さまの幻覚からも、自分自身が連れ去られることを被りません。

続 最後の審判について 霊界について

49◀︎目次▶︎51

50
 オランダ人は霊界の中で他の者からよく見分けられます。信仰とその霊的な生活を受け入れた相違とともに、自然界の中と似たような服装で、さらにきれいな服装で見られるからです。
似た服装で見られる理由は、自分の宗教の原理の中に変わらずにとどまり、霊界の中ですべての者はそれらにしたがって着せられるからです。それゆえ、神的な真理の中にいる者に、白い亜麻布からの衣服があります。

続 最後の審判について 霊界について

50◀︎目次▶︎53

51
 オランダ人たちが住んでいる都は、特殊な方法で防御されています。それらの都の中のすべての街路に屋根があり、街路に門があります、その理由は周囲の岩や丘から見られないようにするためです。彼らにこのことがあるのは、彼らに植え付けられた思慮分別によって自分の計画が隠され、自分の意図が漏れないためです。なぜなら、このようなものは霊界の中で眺めることによって〔明るみに〕持ち出されるからです。
ある者が彼らの状態を調べる意図で都の中にやって来るとき、彼が去ろうとする時、街路を閉ざされた門へ導かれ、このように多くの門へ戻され、導かれ、またこのことが最も不快になるまでも行なわれ、その時、送り出されます。このことは〔二度と〕戻らないようにとの目的のために行なわれます。
52〕夫に対する支配を求める妻たちは、都の一つの側に住んでいて、礼儀正しい方法で招待されるとき以外に、たびたび会うことはしません。またその時、〔夫たちは〕妻たちもまた、配偶者同士がそこでは一方が他方を支配しないで生活しているの家へ導き、彼らの家がどれほど飾られて清潔であるか、どれほど彼らの生活が快いか、またこれらは相互愛と結婚愛からであることが示されます。
彼女らは、これらに心を向け、心を動かされ、支配をやめ、一緒に生活します。その時、〔都の〕中央のさらに近くに住まいを所有し、天使と呼ばれます。
その理由は、結婚愛が支配することのない天的な愛であるからです。


注釈
原著に通し番号52はありません。以前の英訳書にはここに52が付けられていました。

続 最後の審判について 霊界について

51◀︎目次▶︎54

53
 私は、最後の審判の日に、そこの都から、村や周囲の地から、その国民からの数千の者が追い出されるのを見ました。その者は世の中で、何らかの宗教または良心からは何も善を行なわず、名声と利益のためにだけ、誠実に見えるように行ないました。というのは、このような者は、名声と利益を考慮することが取り去られるとき、霊界の中で起こることですが、その時、すべての邪悪な行為へ突進し、その時、野の中にまた都の外にいて、出会うだれからでも強奪するからです。
私は、東の地域の下に広がる沼地の火の中に、また南の地域の下に広がる洞穴の暗やみの中に投げ込まれた者を見ました。
これらの投げ込まれることを、私は1757年1月9日に見ました。
自分のもとに宗教があり、宗教から良心があった者が残されました。

続 最後の審判について 霊界について

53◀︎目次▶︎55

54
 私はカルヴァンと話しました、しかし一度だけです。
彼は天界の社会の中にいて、それは頭の上方にの前方に見えました。彼は、「信仰のみについてルターやメランヒトンとは一致していない。みことばの中に、こんなにしばしばわざ(働き)が言われ、行なうことが命じられているので、それゆえ、信仰とわざ(働き)は結合しなければならない」と言っていました。
カルヴァンは正直であり、騒動を起こさなかったので、その社会の中で受け入れられていたことを、私はその社会のある監督官から聞きました。

続 最後の審判について 霊界について

54◀︎目次▶︎56

55 ルターの運命がどんなものであるか、私は、何度も彼から聞き、見たので、〔そのことを〕他のところで言います――ここでは、彼がしばしば、自分の信仰のみから去りたがったけれども、むだであったこと、それゆえ、依然として天界と地獄の間にある霊たちの世界の中にいること、時々、そこできびしいめにあっていることをだけ〔言っておきます〕。

続 最後の審判について 霊界について

55◀︎目次▶︎57

(4)霊界のローマカトリック教徒について

56 ローマカトリック教徒について、彼らの上への最後の審判について、小著『最後の審判』の中で扱いました(53–64番)。
霊界の中のローマカトリック教徒は、改革派教会の者の周囲に見られ、越えることが許されない隔たりによって分けられています――しかしそれでも、イエズス会士の教団からの者は、秘密の策略によって自分たちに伝達手段を準備しました。そしてまた、惑わすために、知られていない小道を通って宣教師を送り出しました。しかし、見つけ出され、罰せられた後に、仲間へ送り返されるか、あるいは地獄の中へ投げ込まれます。

続 最後の審判について 霊界について

56◀︎目次▶︎58

57
 最後の審判の後、彼らの状態は、自分たちが以前のように集団の中に集まることが許されないように変化しました。しかし、善いものも悪いものも、それぞれの愛に、道が整えられ、世から到着したものは直ちにその道へ入り、そして彼らの愛に対応する社会へ行きます――このように、悪い者は地獄と結合している社会へ、そして善い者は天界と結合している社会へ導かれます。このように、以前のような人為的な天界を自分自身に形成しないように警戒されました。
天界と地獄の間にある霊たちの世界の中のこのような社会は無数です。というのは、善と悪の情愛の種と属と同数のそれだけ多くものがあるからです――そして天界に上げられるかあるいは地獄に投げ込まれ、その間は、世の人間との霊的な結合の中にいます。その理由は人間もまた天界と地獄の間の真ん中にいるからです。

続 最後の審判について 霊界について

57◀︎目次▶︎59

58
 ローマカトリック教徒であって、まったくの偶像崇拝者ではなかった者、自分の宗教的信念から誠実な心から善を実践した者、主へもまた目を向けたすべての者は、改革派教会の者が設定した境界の中の社会へ連れて行かれ、そこで教えられ、そして彼らの前でみことばが読まれ、主について語られます。〝真理〟を受け入れて、生活に適用させた者は、天界に上げられ、天使になります。
彼らからのこのような社会は、どの方位にも数多くあり、あらゆる方向からの修道士による欺きと狡猾な陰謀から、そしてバビロンのパン種から守られています。
さらに、彼らのすべての幼児は、主の指導のもとで天使により教育され、両親からの宗教の虚偽を知らないので、天界の中にいます。

続 最後の審判について 霊界について

58◀︎目次▶︎60

59
 地から霊界にやって来るすべての者は、最初、信仰を容認し、自分の祖国の宗教の中に保たれます。ローマカトリック教徒もまたそのようですーーそれゆえ、常に、ローマ教皇を象徴する者を自分たちに最初に置く者として持ち、その者を同様に宗教的儀式でも崇拝しますーー世で法王であった者がそこでローマ教皇の役割を果たすのはまれです。しかしそれでも、二十年前にローマ法王であったが、彼らを支配しました。その理由は、彼が自分の心から、みことばは信じられているよりも聖なるものであり、主を礼拝しなくてはならないことを抱いたからですーーしかし、彼は、数年間、教皇の職務を果たした後、それを辞任し、改革派のキリスト教徒のもとへ行きました。今でも彼らの間にいて、幸福な生活を享受しています。
彼と話すことが与えられました。彼は、「主おひとりを、その方は神であり、その方に天と地の上に力があるので崇拝しています。聖徒への祈願は、なおまた彼らへのミサは、たわごとです」と言いました。また、「世の中でその教会を復興することに心を向けました。しかし、〔いくつかの〕理由のためにできませんでした」とも言いました。
私は、教皇がいた北の大きな都が、最後の審判の日に破壊された時、寝台の中の彼が安全な場所に運び出されのを見ました。
彼の後継者には、まったく別のことが起こりました。


注釈
本書出版(1763年)の20年前は1746年となり、その時の教皇はベネディクトゥス十四世(『霊界体験記』5843番参照)となりますが、実際にはその前の教皇クレメンス十二世(在位1730–1740)です。

続 最後の審判について 霊界について

59◀︎目次▶︎61

60
 これらに、ある注目すべき出来事を付け加えることが許されています。
今日、フランスを支配している王の曽祖父ルイ十四世と話すことが与えられました。彼は、世にいた時、主を礼拝し、みことばを読み、教皇を単なる教会の最高位の者と認めました。それゆえ、霊界の中で大いなる威厳を保ち、フランス国民の最良の社会を支配しています。
かつて私は、あたかも階段を降りてくるかのような彼を見ました。降りた後、彼が、「自分はヴェルサイユにいるように見える」と言うのを聞きました。その時、およそ二時間の沈黙が生じました。その時間が過ぎて、「私は、自分のひ孫のフランス王と、ウニゲトゥス大勅について話し、以前の自分の意図から離れており、フランス国民に有害なのでそれを受け入れてはならないことを彼〔ひ孫〕の思考に深くしみ込ませた」と言いました。
このことは1759年12月13日夕方8時ごろに起こりました。


注釈
「ウニゲトゥス大勅書」は、1713年にヤンセン主義者に対して異端を宣告したものです。ルイ十四世は、ウニゲトゥス大勅書に基づいて、国内のヤンセン主義者を弾圧しました。ヤンセン主義者は原罪を強く主張し、運命予定説にも強く傾いたのでスヴェーデンボリから見ても異端です。 

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60◀︎目次▶︎62

(5)霊界のローマカトリック教会の聖徒について

 

61 人間に両親から生来の悪が、すなわち、遺伝の悪があることはよく知られています、しかし、どこに存続するかはほとんど知られていません。
支配する愛の中に存続し、それは、例えば、それに抑制がゆるめらればゆるめられるほど、それだけ突発するような、ついには、神のように祈願され、礼拝されるようなものです。
この愛が、エバとアダムを欺いた蛇です。というのは、女に言ったからです、

神は、あなたがたが木の実を食べるその日に、あなたがたの目が開かれ、その時、神のようになることを知っています(創世記3:4, 5)。

そこで、抑制をゆるめられた人間がこの愛の中に突進すれがするほど、それだけ自分自身を神から背かせ、自分自身に向きを変え、無神論者になります――その時、みことばのものである神的な真理は、手段として仕えることができます。しかし、支配が目的であるので、その手段は仕えるようなものであって、心にそれより多くはありません。
これが、支配する愛の中間の段階の中にいる者と最終的な段階の中にいるすべての者が地獄の中にいる理由です、というのは、そこにその悪魔の愛があり、そこに神について何か聞くのを決して耐えられないような者がいるからです。

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61◀︎目次▶︎63

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 ローマカトリック教会の国民からの者にこの愛があり、彼らは興奮した自分の快さから支配する者であり、みことばを見下し、教皇の教令を優先させました――これらの者は外なるものに関して、もはや教会のものを何も知らないまでも完全に破壊され、その時、地獄の中に投げ込まれ、悪魔になります。
神々として祈願されることを欲する者のために、ある種の分離された地獄があり、そこでは、存在するものを見ないで、存在しないを見るような幻想の中にいます。彼らに、悪性な熱病にかかった者にあるような精神錯乱があり、その者は空気中に、また部屋の中や自分の寝床の覆いの上に、存在しない糸くずを見ます。
この極悪な悪が、蛇の頭によって意味され、それは女の種(子孫)により踏みにじられ、彼のかかとを傷つけます(創世記3:15)。「女の子孫」である主の「かかと」は、最終的なものの中へ発出している神性であり、それは文字どおりの意味のみことばです。

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62◀︎目次▶︎64

63 人間は遺伝から、支配することを欲し、手綱がゆるめられるように、引き続いて、多くの者を、ついにはすべての者を支配し、そしてその愛の最内部のものは神として祈願され、礼拝されるようなものであるので、それゆえ、教皇の大勅書によって聖者の列に加えられたすべての者は、他の者の目から遠ざけられ、隠され、彼らからその礼拝者とのすべての交際が取り去られます――その理由は、彼らのもとのその極悪な悪の根がかき立てられ、精神錯乱の空想の中に引き入れられないためです。〔その〕地獄〔の空想〕がどんなものかは前に述べました。
世の中で生きた時、死後、聖者とされて祈願されることを熱心に求めた者はこのような狂気の中にいます。

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63◀︎目次▶︎65

64 ローマカトリック教徒の国民からの多くの者は、特に、修道士は、霊界にやって来る時、聖徒を、それぞれの自分の教団の聖者を捜し求めます。しかし、見つけません、それゆえ、怪しみます――しかし、後で他の者から、そのそれぞれの者が世での自分の生活にしたがって、天界にいるかあるいは地獄にいる者の間に混ぜられていること、またどちらの場所でも、自分の礼拝や祈願について何も知らないことを教えられます。また、知って、祈願されることを欲する者は、分離された狂気の地獄の中にいます。
聖者への礼拝は、ある人間に礼拝がささげられればささげられるほど、それだけ主への礼拝は取り去られるので、それを聞く間は、身震いするほどに、天界の中で忌まわしいものです。というのは、このように主おひとりを礼拝することができないからです。もし主おひとりが礼拝されないなら、区別が生じ、その区別が交わりを、その幸福な生活からの流れを取り去ります。

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64◀︎目次▶︎66

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 ローマカトリック教徒の聖徒がどのようなものであるか私が知り、よく知られるようにすために、自分が聖徒とされていることを知っている者が、「低い地」から百人も連れ出されました。
彼らのある者たちだけが背後から顔前に上ってきて、私は彼らからの一人と話しました。その者を彼らはシャヴィエ (ザビエル)であると言いました――私と話した時、彼はまったく愚かでした。それでも彼は、「閉じ込められてとどまっている自分の場所の中では愚かではない。しかし、聖徒であることを考えるたびごとに愚かになる」と語ることができました。
同様のブツブツ声を私は背後にいた者から聞きました。


注釈
フランチェスコ・シャヴィエルは1662年に聖徒の列に加えられています。

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65◀︎目次▶︎67

66 聖徒と言われている者は天界の中で異なっています。これらの者は地上で起こっていることについては何も知りません。その事柄について何らかの観念が彼らに入らないように、私は彼らとも話しませんでした。
かつて一度だけ、主の母マリアが通り過ぎ、白い衣服で頭の上方に見られました。またその時、少し立ち止まって、「主の母でした、確かに私から生まれました。しかし、神となられ、私からのすべての人間性を脱ぎ捨てられました。それゆえ、今や、私はその方を自分の神として崇拝しています。その方の中にすべての神性があるので、だれもその方を私の子として認めてほしくありません」と言いました。

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66◀︎目次▶︎68

67 これらに私は次のメモラビリ を付け加えます。
時々、霊界の中の社会の中にいるパリの住人に、ある女が中央の高さの中に、光り輝く衣服で、まるで聖者のような顔で見られ、自分を聖ジュヌヴィエー であると言います――しかし、ある者が彼女を崇拝し始めるとき、その時すぐさま、その顔そしてまた衣服は変えられ、普通の女と似てしまいます。彼女を崇拝しようとすることを、その女は女仲間の中で下女ほどにも尊重されていないので批判し、世の人間がこのようなばかげたことに捕えられていることを怪しみます。
天使は、「人間への礼拝と主への礼拝を分離するために、そこに彼女が見られる」と言いました。


注釈
メモラビリアについて  
ここの原語memorabileは単数形であり、その複数形が memorabilia です。そして「(霊界で見た)注目すべき事柄・記憶すべき事柄」という特別な意味があるので訳さずにこのまま「メモラビリア」でよいと思います。(スヴェーデンボリ出版『著作からの話題』第一話を参照)。
聖ジュヌヴィエーヴは五世紀に生きたパリの守護聖女。 

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67◀︎目次▶︎69

(6)霊界のイスラム教徒とムハンマドについて

68 霊界の中のイスラム教徒は西のローマカトリック教徒の後ろに、あたかも周囲の領域をつくっているように見えます――そこに見られるのは、特に、主が最大の預言者、神の子として、人間を教えるために世に送られたすべての者のうち最も賢い者として認められているからです。
その世界の中のだれもがそこに改革派教会の者がいる中央のキリスト教からある距離を置いて、主と神が一つであるという信仰告白にしたがって住んでいます。なぜなら、それ〔信仰告白〕が心(アニムス)を天界と結合させ、その上に主がいる東からの距離をつくるからです。悪い生活から、心でその告白をしていない者は、彼らの下の地獄の中にいます。

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68◀︎目次▶︎70

(6)霊界のイスラム教徒とムハンマドについて

69 宗教は人間の最内部をつくり、最内部から彼のその他のものがあるので、ムハンマドは彼らの心(アニムス)の中で宗教と一つの位置を定めるので、それゆえ、ムハンマドなる者が常に彼らの視野の中に置かれます。そして自分たちの顔をその上に主がいる東へ向けるように、キリスト教徒の中央の下に彼が置かれます。
その者はクルアーンを書いたムハンマド自身ではありません、しかし、その役目を果たす他の者です。常に同じ者でもなく、代えられます。
かつて、〔その〕一人にザクセンからの者がいました。その者はアルジェリア人により捕えられて、イスラム教徒になったのでした――彼はキリスト教でもあったので、彼らの前で主について世で信じられているように、ヨセフの子ではなく、神の子そのものであることを話すことにかきたてられ、そのことによって、彼らに、父と主の位格と本質の同一性についての観念をしみ込ませました。
そのムハンマドにその後、他の者が続き、その者は同じように話すことにかきたてられました。
ここから彼らからの多くの者が主について真のキリスト教へ近づきました。近づいた者は、そこに天界との伝達が与えられるさらに東に近い社会へ導かれ、その後、その中へもまた上げられました。
ムハンマドの席がある場所の中に、〔そのことが〕知られるために、たいまつのような火が見られます。しかし、その火は、イスラム教徒でないなら見られません。

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69◀︎目次▶︎71

70 クルアーンを書いたムハンマド自身は、今日、視野の中にやって来ません。
彼は私に、「最初の時、彼らの長に任じられた。しかし、神として彼らの宗教のすべてのものを支配することを欲したので、ローマカトリック教徒の下にあった席から追い払われ、南に近い右側に下げられた」と言いました。
かつて、悪意のある者たちから、イスラム教徒のある社会がムハンマドを神として認めるようかき立てられました――暴動が鎮められるために、ムハンマドが下から上げられ、示され、またその時、私にもまた見られました。その者は、内的な知覚が何もなく、物的な霊に似たものに、顔は黒に近いものに見えました。私は彼の話しから、「私はあなたがたのムハンマドである」という言葉だけを聞きました――間もなく、彼はあたかも沈むかのように、自分の場所に戻りました。

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70◀︎目次▶︎72

71 彼らの宗教について。この宗教がこのように許されたのは東洋人の気質にふさわしいからであり、それゆえ、このように多くの国にもまた受け入れられました。同時に、その中で十戒を宗教の事柄としたからです。また、みことばからのあるものもまたその中にありますーー特に、主が神の子として、すべての者のうち最も賢い者と認められたからです。
それによって多くの国民の偶像崇拝もまた消散させられました。
さらに内的な宗教がムハンマドによって彼らに開かれなかったのは、天界へ向けて不潔なものを発散する一夫多妻のためでした。というのは、一人の妻との夫の結婚は主と教会の結婚に対応するからです。

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71◀︎目次▶︎73

72 彼らからの多くの者が、真理を受け入れることができ、公正を理性の中で見ていることを、私は霊界の中での彼らとの会話から気づくことができました。
私は彼らと、ひとりの神・復活・結婚について話しました。
彼らは「ひとりの神」について、「三一性について三つの位格があり、それぞれが神であり、またそれでも神は一つであると話しているキリスト教徒を理解できない」と言いました――しかし、私は彼らに、「彼らからの天界の天使たちは、そのようなことを話しません。しかし、神は位格と本質で一つであり、その中に三一性があり、地上の人間はこの三一性を三つの位格と呼んでいます、その三一性が主の中にあります」と答えました――証明するために、彼らの前で「マタイ福音書」と「ルカ福音書」から、そこに父なる神からの主の受胎について、なおまたそこに主が「父とわたしは一つである」と教えている箇所を読みました。これらを聞いて、このように神的な本がその方にあると述べている事柄を認めました。
[2] 彼らは「復活」について、「死後の人間の状態について霊魂が風または空気のようなものになり、ここから、最後の審判の日に身体との再結合の前には何も楽しみがないと話しているキリスト教徒を理解できない」と言いました――しかし、私は、「ある者だけがそのように言っています、しかし、その宗派からでない者は、自分自身が死後、天界にやって来て、天使たちと話します。天界の楽しさを享受します。同様に彼は世での楽しみから引き離されません、たとえそれを述べなくても信じています。また、今日、彼らに死後の状態について彼らに前に知られなかった多くのことが啓示されています」と答えました。
私は彼らと「結婚」について多くのことを話しました、それらの〔会話の〕間に、結婚愛は天的な愛であること、二人の間に以外にありえず、また多くの妻との結合はその愛の天的なものを入ることを許さないこと〔がありました〕――彼らは〔私の〕論証を聞き、またそれらの中に公正を知覚し、なおまたさらに、彼らに一夫多妻が許されているのは東洋人であるからであり、その許しなしに東洋人はヨーロッパ人よりも不潔な姦淫に燃え上がってしまい、滅んでしまったであろう〔と知覚しました〕。

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72◀︎目次▶︎74


(7)霊界のアフリカ人と異教徒について

73 主について何も知らない異教徒は、〔主を〕知っている者のまわりに見られます。それでも、太陽と月を崇拝するような完全な偶像崇拝者でしかなく、周辺の最も外部をつくっています。
けれども、ひとりの神を認め、十戒にあるような戒めを宗教と生活のものにしている者は、さらに高い領域の中に見られ、このように中央のキリスト教徒とさらに直接に伝達しています。なぜなら、伝達がイスラム教徒やローマカトリック教徒から妨害されないからです。
異教徒もまた主から天界を通しての光を受け入れる性と能力にしたがって区別されています。というのは、彼らには〔その性や能力を〕出生だけからでなく、宗教から得ている内的な者と外的な者がいるからです――アフリカ人は他の者よりもさらに内的です。

続 最後の審判について 霊界について

73◀︎目次▶︎75

74 全世界の創造者であるひとりの神を認め、礼拝するすべての者は、神は人間であるという観念を持っています。彼らは、「だれも神について他の観念を持つことができない」と言います。
彼らが、多くの者が神について小さい雲のような観念を抱いていることを聞くとき、彼らは、「どこにいるのか」と質問し、「キリスト教徒の間にいます」と言われるとき、「ありえません」と否定します。彼らに、「あなたがたにこのような観念があるのは、すべての霊とすべての天使が人間であることを知らないで、神がみことばの中で「霊」と言われ、霊について雲の小部分についてのようなものとしか考えないことからです」と答えられます――しかしそれでも、彼らの霊的な観念と彼らの自然的な観念が似ているかどうか調べられ、主を天地の神として内的に認めている者のもとでは似ていないことがわかりました。
私はキリスト教徒からのある長老が、「だれも神的人間性の観念を持つことができない」と言っているのを聞き、彼がいろいろな異教徒へ移されるのを見ました。継続的に内的な者へまた内的な者へ、また彼らから彼らの天界へ、最後にキリスト教徒の天界へ、またそのどこでも神について彼らの内的な知覚の伝達が与えられました。彼は、「彼らには神が人間であるという観念以外の他の観念がなく、それは神的人間性の観念と同一である」と認めました。

続 最後の審判について 霊界について

74◀︎目次▶︎76

75
 異教徒の、特にアフリカ人からの多くの社会があり、その社会の者は天使たちによって主について教えられる時、「全世界の創造者である神は、私たちを創造し、私たちを愛するので、世の中に現われることしかありえない、その出現は、人間の形で目の視覚に生ずることしかありえない」と言います。
彼らに、「天使によくあるように、そのようにはは見られないで、人間として生まれ、このように見られました」と言われる時、幾分ためらい、「人間の父親から生まれたのか」と質問します。また、「全世界の神から受胎し、処女から生まれました」と聞くとき、「無限でいのちそのものであるので、このようにその方に神的な本質があり、他の者のような人間ではありません」と言います。
その後、天使から、他の者のような目に見える人間であったこと、しかし、世にいたとき、神的な本質そのものは、それは本質的に無限であり、いのちそのものであり、母からの有限な性質とそのいのちを退け、またこのように世で受胎し、生まれた人間性を、神的なものにしたことを教えられます。
アフリカ人たちは、他の者よりも内的に霊的に考えるので、これらを把握し、受け入れました。

続 最後の審判について 霊界について

75◀︎目次▶︎77

76 アフリカ人は世の中でもまたこのようであるので、それゆえ、彼らのもとに、今日、啓示があり、それは中央から始まって周囲へ進みました、しかし、海までではありません。
彼らは私たちの主を天地の神として認めています。そこに近づく修道士を、またキリスト教徒を、「神性の三重の性質について、考えることだけによる救いについて話している」と笑います。その者に何らかの礼拝があり、その者が自分の宗教にしたがって生きない人間はだれもいない、またもし〔そのように生き〕ないなら、その時、天界から何らかのものを受けないので、愚かな悪い者になるしかないと言っています――才気のある悪意もまた、その中にいのちがなく、死があるので愚かさと呼んでいます。
私は天使たちのうれしさを聞きました。その啓示のために、今まで盲目の事柄によって信仰に閉ざすことをひき起こしている理性的な人間性との伝達が彼らに開かれたことです。
私に天界から、「今、出版された『新しいエルサレムの教え 主について』、『新しいエルサレムの教え みことばについて』と『新しいエルサレムのための生活の教え』の中にあるものが、天使的な霊によってその地の住民に、面と向かって言われた」と言われました。

続 最後の審判について 霊界について

76◀︎目次▶︎78

77
 私が霊界の中でアフリカ人と話したとき、彼らは亜麻布からできた縞のある衣服で見られました――彼らは、「自分たちにはこれらの衣服が、自分の女たちには絹からできた縞のある衣服が対応する」と言いました。
彼らの幼児について語りました。彼ら自身が空腹であるとを言って、しばしば、子どもを育てる女から食物を求め、食物が出されるとき、〔求めるものと〕一致しているかどうか眺め、味わい、少し食べます。それらから、純粋な真理を知ろうとする願いである霊的な飢えが、生み出されることが明らかです。というのは、対応があるからです。
真理の情愛と知覚にいることに関してその状態を知ろうと欲するとき、刀を引き抜き、それが輝いているなら、純粋な真理の中にいることを知ります、このことはその輝きにしたがっています。このこともまた対応からです。
結婚について彼らは、「私たちには、多くの妻をめとることが確かに私たちの法律から許されている」と言いました。しかしそれでも、一人をめとります、真の結婚愛は分割されないからです。もし分割されるなら、天的なものであるその本質は滅びます。外なるものになり、ここから好色なものになります。それはやがて性的能力の減少にしたがって価値がなくなり、最後に、その能力が奪われるとき、嫌気がするようになります。けれども、真の結婚愛は内なるものです。また好色から何も得ていないで、永遠にとどまり、そして性的能力は増し、似た段階の中の歓喜も増します。

続 最後の審判について 霊界について

77◀︎目次▶︎79

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 彼らは、ヨーロッパから来る者について、「入るのは許されない」と言いました。ある者が、特に、修道士たちが、内部へ進むとき、何を知っているか質問します。宗教的信念について何らかのものを語るとき、それらを「耳ざわりなたわごと」と呼び、その時、彼らを何らかの役立つことを行なうような仕事へ追放します。もし行なうことを拒否するなら、彼らを奴隷として売り、彼らを自分たちの法律から意のままに懲らしめることが許されており、役立つことへ何も強いることができないなら、最後に、価値のない者としてわずかなもの〔食物や金銭〕のために売られます。

続 最後の審判について 霊界について

78◀︎目次▶︎80

(8)霊界のユダヤ人について

79 ユダヤ人は、最後の審判の前にキリスト教徒の中央の左側の谷間の中に見られました。けれども、その後、北に移され、キリスト教徒との伝達は、都の外で歩き回る者とでないなら禁じられました。
その方位の中に二つの大きな都があり、それらの中にユダヤ人は、死後、導かれ、その都が審判の前、エルサレムと呼ばれました、しかし、その後、他の名前で呼ばれました。審判後、「エルサレム」によって、その中で主おひとりが崇拝される教会が意味されるからです。
自分たちの都に、回心したユダヤ人の長が任じられ、その者は、キリストについて侮辱して話さないよう彼らに警告し、それでもそのことをする者を罰します。
彼らの都の街路は、くるぶしまでも泥で、家は不潔なもので満ちており、さらにまたそれらから悪臭が放たれています。それらのために近づくことができません。

続 最後の審判について 霊界について

79◀︎目次▶︎81

80
 ときどき、彼らに、上方の中間の高さに、杖を手にした天使が見られます。〔その天使は〕「私がモーセである」と信じるようにさせ、そしてそこでもまたメシアを期待する狂気から離れるように促します、キリストは彼らとすべての者を支配するメシアであるからです。〔モーセであると信じさせた〕その者自身がそのことを知っており、そしてまた、その方について世にいたとき知っていた〔と言いました〕ーー〔これを〕聞いた者たちは去りました。大部分の者は忘れ、わずかな者が心に留めます。心に留めた者は、回心した者からのシナゴーグ(ユダヤ教会堂)へ送られ、教えられます。教えられて、受け入れた者に、最初のぼろぼろの衣服の代わりに新しい衣服が与えられ、こぎれいに書かれたみことばとなおまた都の中に見苦しくない住居が与えられます。
けれども、受け入れなかった者は、彼らの大きな地域の下の地獄の中へ投げ込まれます、多くの者は森や荒野に送られ、そこで自分たちの間で強盗を働きます。

続 最後の審判について 霊界について

80◀︎目次▶︎82

81 その世界で前の世のように、いろいろなもので、特に宝石で商売します。知られていない方法によって宝石が大量にある天界から、それらを自分自身に獲得します。
彼らが宝石の商売をするのは、みことばをその原語で読み、その文字どおりの意味を聖なるものと見なし、そして宝石がみことばの霊的な意味に対応しているからです。その対応については『新しいエルサレムの教え 聖書について』(42–45番)にあります。
彼らは、周囲にいる北方の異教徒にその宝石を売ります。
さらにまた、技巧で似たものを得て、本物であるという幻想をひき起こすことができます。しかし、これらの者は自分たちの統治者からきびしく罰せられます。

続 最後の審判について 霊界について

81◀︎目次▶︎83

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 ユダヤ人は、霊界の中にいることを他の者よりも知りません、依然として自然界の中にいると信じています。その理由は、まったく外なる人であり、自分の宗教について何らかのものを内的なものから考えないからです。それゆえ、メシアについて前と同様に話します、例えば、ダビデとともにやって来て、輝くダイヤモンドとともに彼らに先立って行き、彼らをカナンの地の中へ導き、途中で、杖を持ち上げて、川を干上がらせて渡ることです。また自分たちの間で異教徒と呼ぶキリスト教徒が、その時、自分たちの衣服のすそをつかみ、同行することが許されるように嘆願して祈り、富んだ者を〔富の〕量にしたがって受け入れ、これらの者もまた彼らに仕えることです――みことばで「カナンの地」によって教会が、その「エルサレム」によって教えに関する教会が、ここから「ユダヤ人」によって主の教会からの者であるすべての者が意味されることを知ろうとしませんーーこれらの者がみことばの中の「ユダヤ人」によって意味されることは、『聖書についての教え』(51番)にあります。
「あなたがたもまたカナンの地にやって来ることを信じていますか」と質問されるとき、「その時、降りて行く」と言います。
「その地はすべての者を収容できません」と言われるとき、「その時、拡大される」と答えます。
「どこにベツレヘムがあるのか、またダビデの根からの者とはいったいだれであるのか、知っているのですか」と言われるとき、「来るべきメシアがそれを知っている」と答えます。
「エホバの子であるメシアがこれほどに悪い者とどのようにして住むことができるのですか」と言われるとき、「〔自分たちは〕悪い者ではない」と答えます――「それでもモーセは自分の歌の中で彼らを述べ(「申命記」第32章)、最も悪い者である、と言っています」と言われるとき、「モーセは、その時、死別することを怒っていた」と答えます、しかし、「モーセはそれをエホバの命令から書きました」と言われるとき、その時、黙り、相談する〔ために〕立ち去ります。
彼らの起源がカナン人からであること、自分の息子の妻とのユダの淫行からであること(「創世記」第38章)が言われるとき、「アブラハムから〔の出〕であれば十分である」と言って、怒ります。
彼らに、「みことばの中に内的に霊的な意味があり、それはキリストおひとりを扱っています」と言われるとき、「そのようではない、しかし、みことばの中にきん以外でないなら、内的なものはない」と答えますーーほかにも同様の多くのこと〔があります〕。

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82◀︎目次▶︎84

(9)霊界のクエーカーについて

83 他のすべての者から分離され、自分が「聖霊」であることを信じるような、これほどに鈍いの狂信的な霊がいます。
クエーカー派が始まったとき、これらの者は、そこの周囲をうろついていた森から引き出され、そして多くの者に取りつき、「聖霊」から働きかけられているという信念を注ぎ込みました。彼らは感覚で〔その〕流入を知覚したので、その宗教的信念の全部をつかみ取り、自分が他の者よりも照らされている者、聖なる者と信じました。それゆえ、自分の宗教的信念からもまた導き出されることができませんでした。
自分自身に確信した者は、死後、似た狂信の中にやって来ます、そして、他の者から分離され、森の中の似た者のところへ追放され、遠くからはそこに森のブタがいるように見えます。
けれども、自分自身に確信しなかった者は、他の者から分離され、南の方の最も遠く離れたところにある荒野に似た場所に追放され、そこにある洞窟が彼らの神殿です。


注釈
この「鈍い鼻」について、チャドウィックの英訳書の注に「この句は最終的にローマの詩人ホラティウスにさかのぼる」(『エポード』12・3)とあります。その意味するものは「鈍感」です。

続 最後の審判について 霊界について

83◀︎目次▶︎85

84
 前の狂信的な霊が彼らから遠ざけられた後で、彼ら(霊)により彼らの身体を侵入した震が、止まりました。今は、左側に動きを感じています。
最初の時から継続的にさらに悪いものの中に、最後に、彼らの聖なる霊の命令から邪悪なものの中に逸れたこと、それらを決して公けにしないことが示されました。
私は彼らの宗教の創始者と、またペと話しました、彼らは、「〔自分たちは〕このような〔邪悪な〕ものの中に何の部分も持っていない」と言いました。
しかし、そのようなものを遂行した者は、死後、暗い場所の中に下ろされ、油かすのように見られて、隅に座ります。


注釈
クエーカーとは震える人
クエーカー(Quaker)は、ジョージ・フォックス創始のイギリスの宗派であり、「主のことばに震える」ことから付けられた俗称です。当人たちは「フレンド会」と称しています。初期のフレンド会では、会合で身体を震わせました。
「ペン」とはウィリアム・ペンです。ペンシルヴェニア(ペンの森)は彼の名前に因んでいます。

続 最後の審判について 霊界について

84◀︎目次▶︎86

85 洗礼と聖餐の二つの礼典を退け、それでもみことばを読み、主を宣べ伝えるので、狂信的な霊に取りつかれて話し、このようにみことばの聖なるものに真理の冒涜的なものを混ぜます、それゆえ、霊界の中では、彼らからどんな社会も形成されません。しかし、引き離された後に、あちらこちらにうろつき、追い散らされ、前述の荒野の中に集められます。

続 最後の審判について 霊界について

85◀︎目次▶︎87

(10)霊界のモラヴィア教徒について

86 私は、ヘレンフート派とも呼ばれるモラヴィア教徒と多くのことを話しました。
彼らは、最初、ユダヤ人から遠くない谷間の中に見られました。その後、調べられ、あばかれ、人の住んでいない場所へに追放されました。
調べられた時、「使徒教会の残りの者である」と言って、巧みにアニムス(心)を捕えることを知っていました、それゆえ、彼らの内的な秘義を受け入れる女たちを母として、また互いに兄弟として挨拶を交わします。なおまた、他の者よりも信仰を教え、十字架〔刑〕を被ったので、主を小羊と呼んで、恵みの座として愛します。ほかに同様の他のもので、それらによってキリストの教会そのものが彼らのもとにあることの信仰をひき起こします。
彼らの快い会話により捕えられて近づく者は、彼らに自分たちの秘義を明かしてもよいような者であるか調べられます。もしそうでない者なら、それら秘義を隠しておき、またもし明かすことができる者であるなら、示します。その時、主について彼らの秘義を公けにする者は警告され、威嚇されます。

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 彼らは霊界の中で同様に行ない、それでも、内的にそのように考えていなかったことが知覚されたので、このことが明らかにされるために、最外部の天界の中に入れられました。しかし、そこの天使の仁愛とここからの信仰のスフェアに耐えられないで、逃げ去りました。
その後、世の中で、彼らだけが生きていること、第三の天界の中にやって来ることを信じていたので、その天界の中にもまた上げられます。しかし、そこに主への愛のスフェアを知覚したとき、心の苦悶に襲われ、そして内的に苦しめられ、死の苦しみの中にいる者のように痙攣けいれんの動きを起こし始め、それゆえ、ここから絶壁からかのように墜落しました。
これらによって、初めて、隣人に対する仁愛を何も、主への愛を何も抱いていなかったがことが明らかにされました。
その後、内的な思考を調べる役目を課せられた者へ送られます。また、その者から、「主をさげすみる、仁愛の生活を忌み嫌うかのように退け、旧約のみことばを役に立たないものにし、福音記者のみことばを軽蔑している。単に意のままに、パウロから、そこに信仰のみについて言われている何らかのものを選び出し、それらが秘義であり、それらを世のために隠しておく」と言われました。

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 その後、アリウス主義の信奉者のように主を承認していること、「預言書」と「福音書」のみことばを軽蔑していること、仁愛の生活に憎しみを持っていることが明らかにされました。そのときそれでも、全天界はそれら三つのもの〔主の承認・みことば・仁愛の生活〕が柱であるかのようにそれらの上に依存します。その時、それらの秘義の思考の中と同時に信仰の中にいた者は、キリスト教の教会の三つの本質的なものを、すなわち、主の神性・みことば・仁愛を退け、反キリスト者と判断を下され、キリスト教界の外の南方の末端に、クエーカーの近くの荒野に投げ込まれました。

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89 最近、死後に霊界の中にやって来て、前に世で行なったのように話すことを許されたツィンツェンドルフのことを聞きました。その主張は、「私は天界の秘義を知っている。私の教えからの者でないなら、だれも天界の中にやって来ない。なおまた、救われるとの理由で善を行なう者は完全に断罪される。彼らよりもむしろ無神論者を自分の会衆に入れたいーー主は、十字架刑を被ったので父なる神からその子として養子とされた、それでもそのまま人間であった」です。
父なる神からみごもられたことが彼に言われたとき、彼は、「そのことについて欲するままに考えているが、ユダヤ人のように大胆には話せない」と答えました。
さらに、私が「福音書」を読んだとき、私は彼の信奉者からの多くの中傷に気づきました。

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90 彼らは、「自分たちには〔ある種の〕感覚があり、ここから自分たちの教義に内的な確信を持っている」と言います――しかし、彼らの感覚は幻視の霊からであったことが彼らに示されました。その霊は、人間にそのすべての宗教的信念を確信させ、自分の宗教的信念を愛し、そのことについて多くのことを考えるような者のもとに、さらに近く入り込みます。
それらの霊もまた、彼らと話し、相互に自分自身を認め合いました。