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続 最後の審判について 13

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13(6)最後の審判の前に世と教会の状態は夕と夜のようであった。けれども、その後は朝と昼のようであった
真理の光が見られず、真理が受け入れられない時、世の中の教会の状態は夕と夜のようです。最後の審判の前、このような状態であったことは、前述のことから明らかにすることができます(11番)。けれども、真理の光が見られ、真理が受け入れられる時、世の中の教会の状態は朝と昼のようです。
ここから、教会のその二つの状態は、みことばの中で「夕と朝」、さらにまた「夜と昼」と呼ばれます。例えば、これらの中に――

 聖なる者は私に言った、「二千三百の夕と朝まで。その時、聖所は義とされる」(ダニエル8:14)。
  夕と朝の幻は真実である(ダニエル8:26)。
一つの日があり、それはエホバに知られている。昼も夜もなく、夕の時のころに光がある(ゼカリヤ14:7)。
  セイルから、私に叫ぶ者。「夜回りよ、夜について何か?」……夜回りは言った、「朝が来る、そしてまた夜が〔来る〕」(イザヤ21:11, 12)。

イエスは教会の最後の時について、

 「目覚めていなさい……というのは、あなたがたは、家の主人がいつやって来るか、夕か、真夜中か、おんどりの鳴く時か、朝か知らないからです」(マルコ13:35)。
 イエスは言われた、「わたしによって働かなければなりません……昼の時です。夜が来ます、その時、だれも働くことができません」(ヨハネ9:4)。

また他の箇所に(例えば、イザヤ17:14, エレミヤ6:4, 5, 詩篇30:6, 詩篇65:9, 詩篇90:6)。

「夕」と「夜」によってこのようなものが意味されるので、それゆえ、主は、みことばを成就するために、夕に葬られ、その後、朝に復活しました。