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続 最後の審判について 14

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(3)改革派教会の者の上への最後の審判について

14 前の小著『最後の審判』の中で、「バビロン」によって意味される者に関する審判について、なおまたイスラム教徒や異教徒に関する何らかの審判について扱われました。しかし、改革派教会の者に関する審判については扱われていません。
真ん中に改革派教会の者が、そこに祖国にしたがって配列されていて、彼らの周囲にローマカトリック教徒が、これらの周囲にイスラム教徒が、またこれらの周囲にいろいろな宗教からの国民と民族がいることだけが言われました。
改革派教会の者が真ん中または中央の領域を構成したことの理由は、彼らによりみことばが読まれ、主が礼拝され、ここから彼らのもとに最大の光があり、その本質では神的な愛である太陽としての主から発出する霊的な光が、(それ自体を)あらゆる方向へ広げ、そして周囲の周辺の領域の中にいる者もまた照らし、受け入れられることができるかぎり、宗教からの真理を理解する能力を開くからです。
というのは、霊的な光はその本質では神的な知恵であり、受け入れた知識から知覚する能力の中にいるかぎり、人間のもとのその理解力の中に入るからです。〔その光は〕世の光のように空間でなく、真理の情愛と知覚を通って進みます。そのように、瞬く間に、天界の最外部の末端まで進みます。
これらから、その世界の中の空間の外観があります。
これらについて、多くのものが『聖書についての教え』の中に見られます(104–113番