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最後の審判 28

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(5)最後の審判は、すべての者が1緒にいるところ、このように地上でなく、霊界でなければならない

28 「最後の審判」について、主は、その時、天の雲の中に天使とともに栄光の中に見られ、またすべての者を、だれでも創造の最初から生きた者を、墓から生き返らせ、そして霊魂を彼らの身体に着せ、このように一つに呼び集めた者を、善い生活を送った者は、永遠のいのち、すなわち、天界へ、また悪い生活を送った者は、永遠の死、すなわち、地獄へと裁く、と信じられています。
[2]教会の中に、この信仰が、みことばの文字どおりの意味からあり、これは、みことばの中に言われるそれぞれの事柄に霊的な意味が内在することが知られないかぎり、取り除かれることもできません。またその意味は、みことばそのものであり、それに文字どおりの意味は基礎または土台として役立ち、このような文字どおりの意味なしに、みことばは神的なものであること、そして天界でも世でも、いのち(生活)と信仰の教えとして、結合として役立つことができません。
そこで、みことばの中の自然的なものに、霊的なものの対応があることを知る者は、「天の雲の中での主の来臨」によって、その方のこのような出現でなく、みことばの中の出現が意味されることを知ることができます。というのは、「主」は、神的な真理であるので、みことばであるから。その中にやって来る「天の雲」は、みことばの文字どおりの意味です。「栄光」は、その霊的な意味です。「天使」は天界であり、そこから出現し、そしてまた神的な真理に関する主です(*1)。ここから、何がそれらのことばによって意味されるか明らかです。すなわち、主は、教会の終わりの時に、みことばの霊的な意味を、このように本質的な神的な真理を開かれ、そのように、これが最後の審判が迫っていることのしるしであることです。
[3]みことばの中で言われるそれぞれの事柄に、それぞれのことばに、霊的な意味が内在し、それがどんなものであるかは、『天界の秘義』の中に見られ、それらの中に、その意味にしたがって「創世記」と「出エジプト記」に含まれるすべてと個々のものが説明されています。みことばとその霊的な意味について、それらからの「抜粋」は、小著『黙示録の白い馬について』の中に見られます。


*1 主は、天界の神的な真理であるので、みことばである(2533, 2813, 2859, 2894, 3393, 3712番)。
主は、みことばである。みことばは主からであり、主について〔扱っている」からである(2859番)。そして、主おひとりについて、特に、その方の人間性の栄化について、みことばの最内部の意味で、そのようにそこに主ご自身が〔扱われているからである(1873, 9357番)。
主の来臨は、みことばの中でのその方の臨在であり、啓示である(3900, 4060番)。
みことばの中の「雲」は、文字の中のみことばを、すなわち、その文字どおりの意味を意味する(4060, 4391, 5922, 6343, 6752, 8106, 8781, 9430, 10551, 10574参照)
みことばの中の「栄光」は、天界の中にあるような、また霊的な意味の中にあるような神的な真理を意味する(4809, 5922, 8267, 8427, 9429, 10574番)。
みことばの中の「天使」によって主からの神的な真理が意味される。天使はそれを受け入れるものであるからである。それを自分自身から話さないで、主から話す(1925, 2821, 3039, 4085, 4295, 4402, 6280, 8192, 8301)。
その時、天使の「らっぱ」または「角笛」は、天界の中の神的な真理や天界からの啓示を意味する(8815, 8823, 8915番)。