カテゴリー

最後の審判

まえがき◀︎目次▶︎2

(1)最後の日によって世の滅亡は意味されない

1 みことばの霊的な意味を知らない者は、最後の審判の日に、世の中で目の前に見られるすべてのものが滅びること以外に、他のことを理解しません。なぜなら、「その時、天は地とともに滅び、神は新しい天と新しい地を創造する」と言われているからです――この見解もまた、「その時、すべての者は墓から起き上がり、その時、善い者は悪い者から分離されること、等々」と言われていることによって確信しています――しかし、みことばの文字どおりの意味は、自然的であり、神的な秩序の最後のものの中にあるので、みことばの文字どおりの意味でこのように言われていても、そこのすべてと個々のものは霊的な意味をそれ自体の中に含んでいます。そのために、単に文字どおりの意味だけにしたがってみことばを把握している者は、それぞれの者がみことばから確信されているいろいろな見解の中に駆り立てられてしまいます、キリスト教世界の中でもまた起こっているように、ここからその世界にはこのように多くの異端があります。
[2]しかし、だれも依然として、みことばのすべてと個々のものに霊的な意味が内在することを知らなかったので、何が霊的な意味か何か決して知っていません、それゆえ、最後の審判についてこの見 解を得た者は容赦されるべきです。しかしそれでも、今や、彼らは、目の前に見える天も住める地も滅 びないで、両方とも存続することを、また「新しい天と新しい地」によって、天界にも地上にも、新しい教会が意味されることを知るべきです。
天界の中の新しい教会と言われるのは、地上と同様にそこに等しく教会があるからです。なぜなら、そこに地上のように、等しくみことばがあり、等しく説教があり、同様の神礼拝があるからです。しかし、そこのすべてのものは自然界の中になく、霊界の中にあるので、そこのすべてのものはさらに完全な状態の中にあるという相違があります。ここから、そこのすべての者は霊的な人間であり、世の中であったような自然的な人間ではありません(そのようであることは、著作『天界と地獄』に、特に、そこの「みことばによる人間と天界の結合」(303-310番)、「天界の神礼拝」(222-227番)について扱われているところ参照)。

最後の審判

1◀︎目次▶︎3

2 みことばの中で、そこに天と地の滅亡が言われている個所は次のものです――

あなたがたの目を天に上げよ。下方の地を見つめよ。……天はあたかも煙のように滅び、地は布切れのように古くなる(イザヤ516)。
見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。前のものは思い出されない(イザヤ65:17)。
新しい天と新しい地を、わたしはつくる(イザヤ66:22)。
天の星が地に落ちた……天は巻き上げられる巻き物のように去った(黙示録6:13,14)。
私は、大きな……王座とそこに座っている者を見た。その視野から地と天は逃げ、その場所は見られなかった(黙示録20:11)。
私は新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去った(黙示録21:1)。

これらの箇所で「新しい天」によって、私たちの目の前に見られる天でなく、人類が集められている天界そのものが意味されます。というのは、天界は、キリスト教会の始まりからずっと、すべての人類から集められているからです、しかし、そこにいた者は天使ではなく、多くの宗教からの霊でした。この天界が滅ぶべき「最初の天」によって意味されますしかし、これらの霊がどのようであったかは、続くものの中で特に言われます。ここでは、滅ぶべき「最初の天」によって何が意味されるか知られるために、そのことだけを述べます。
何らかの照らされた理性から考えるだれでも、星座の天ではなく、創造されたこれほどに広大無辺な天空ではなく、霊的な意味で天使と霊たちがいる天が意味されることを知覚することができます。

最後の審判

2◀︎目次▶︎4

3「新しい地」によって地上の新しい教会が意味されることは、それぞれの者が、みことばの中の「地」によって地を理解したので今まで知られていませんでした。そのときそれでも、その「地」によって教会が意味されます。自然的な意味で「地」は地です、しかし、霊的な意味で教会です――その理由は、霊的な意味の中にいる、すなわち、天使のように霊的である者は、みことばの中で「地」のことが言われるとき、地そのものを理解しないで、そこにいる国民を、その神礼拝を理解するからです。ここから、「地」によって教会が意味されます。このようであることは左欄〔↓〕の「『天界の秘義』から」に見られます(*1)
みことばから、一つあるいはもう一つの箇所を提示します。それらからある程度、「地」によって教会が意味されることを把握することができるでしょう。

高いところからの瀑布が開かれ、地のもといは揺り動かされた。地は粉砕されに粉砕された。……地は揺り動かされに揺り動かされた。地は酔いどれのようによろめきによろめいた。小屋のようにぐらついた。その〔地の〕上にそのそむきの罪は重かった(イザヤ24:18-20)。
わたしは人間を純金よりもまれにする。……このために、わたしは天を揺り動かす。(エホバの)怒りの憤りの日に、地はその場所から揺り動かされる(イザヤ13:12, 13)。
その方の前で地は振られた。天は揺れ、太陽と月は暗くされ、星はその輝きを引き締めた(ヨエル2:10)
地は揺り動かされ、振られた。山々の基は震え、揺り動かされた(詩篇18:7, 8)。
(また非常に多くの他の箇所の中に。)

 


『天界の秘義』から
*1  みことばの中の「地」によって主の王国と教会が意味される(662, 1066, 1067, 1262, 1413,1607, 2928, 3355, 4447, 4535, 5577, 8011, 9325, 9643番)。
その理由は、特に、「地」によってカナンの地が意味され、そこに最古代の時代から教会があったからである。ここからもまた、天界が天のカナンと言われる(567, 3686, 4447, 4454, 4516, 4517, 5136, 6516, 9325, 9327番)。
また、霊的な意味で「地」によってそこの国民とその礼拝が意味されるからである(1262番)。
ここから「地」は教会のものであるいろいろなものを意味した(620, 636, 1066, 2571, 3368, 3379, 3404, 8732番)。
「地の民」は霊的な教会からの者である(2928番)。
「地震」は教会の状態の変化である(3355番)。
「新しい天と新しい地」は教会を意味する(1733, 1850, 2117, 2118, 3355, 4535, 10373番)。
洪水前にあった最古代教会と洪水後にあった古代教会はカナンの地にあった(567, 3686, 4447, 4454, 4516, 4517, 5136, 6516, 9327番)。
その時、そこの場所のすべてのものは主の王国と教会の中にあるようなものを表象するものであった(1585, 3686, 4447, 5136番)。
それゆえ、アブラハムはそこへ行くことを命じられた。ヤコブからの彼の子孫のもとに表象的な教会が設立され、そして、みことばが書かれ、その最終的な意味はそこの表象的なものと表意的なものから成り立っていたからである(3686, 4447, 5136, 6516番)。
ここから、「地」と「カナンの地」によって教会が意味される(3038, 481, 3705, 4447, 4517, 5757, 10559番)。

最後の審判

3◀︎目次▶︎5

4 さらにまた、「創造すること」によって、みことばの霊的な意味で、形成し、設立し、再生させることが意味されます。そのように「新しい天と新しい地を創造すること」によって、次の箇所から明らかにすることができるように、天界の中と地上に新しい教会を設立することが意味されます――

創造された民が、ヤーを賛美しますように(詩篇102:18)
あなたは霊を遣わす…….彼らは創造され、あなたは地の面を新しくする(詩篇104:30)。
ヤコブよ、あなたの創造者工ホバは、イスラエルよ、あなたの形成者工ホバは、このように言われた「(恐れるな。)なぜなら、わたしはあなたを贖ったから、わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの……わたし名により呼ばれるすべての者を、わたしの栄光の中で、わたしは創造し、彼を形成し、そしてまた造った」(イザヤ43:1, 7)。
(さらに他の箇所に)

ここから、人間の「新しい創造」は、新しくするので、すなわち、自然的なものから霊的なものにするので、彼の改心です。ここから、「新しく創造された者」は改心した人間です(*2)


*2  「創造すること」は新しく創造すること、すなわち、改心することと再生することである(16, 88, 10373, 10634番)。
「新しい天と新しい地を創造すること」は新しい教会を設立することである(10373番)。
「創世記」第1章の中の「天と地の創造」によって、霊的な意味で、最古代教会であった天的な教会の設立が描かれている(8891, 9942, 10545番)。

ーーーーーーー
★「わたしの」についてここは原文では「あなたの」です。ここは『天界の秘義』10373番の[2]とほぼ同一内容であり、引用されたみことばも同一です。そこでは「わたしの」であり、ヘブル原文も「わたしの」です、おそらく、その前の部分に「あなたの」とあることから、スヴェーデンボリがうっかりした誤記でしょう。

最後の審判

4◀︎目次▶︎6

5 みことばの霊的な意味については、「黙示録」の『白い馬について』の小著に見られます。

最後の審判

5◀︎目次▶︎7

(2)地上で人類の出生は決して終わらない

6 最後の審判について、「その時、天と地にあるすべてのものが滅び、代わりに新しい天界と新しい地が現われる」という信念を受け入れた者は、事柄の関連から、その後、人類の生殖と出生は終わると信じています。というのは、「今やすべてのものが滅び、人間は以前の状態でなく他の状態になる」と考えるからです――しかし、前章に示されているように、最後の審判の日によって世の滅亡は意味されないので、さらにまた人類が永続すること、出生が終わらないことがいえます。

最後の審判

6◀︎目次▶︎8

7 人類の出生が永遠に存続することは、多くのものから明らかにすることができます。それらの何らかのものは『天界』についての著作の中に示されています、特にこれらから――

(1)人類は、その上に天界が建てられる土台である。
(2)人類は天界の苗床である。
(3)天使のための天界の範囲は、永遠に満たされることができないほどに広大無辺である。
(4)今までに天界にいる者は相対的にわずかである。
(5)天界の完全性は数の多いことにしたがって増大する。
(6)神的なすべての働きは無限なものと永遠なものに目を向けている。

最後の審判

7◀︎目次▶︎9

8 (原著に通し番号9はありません)

最後の審判

8◀︎目次▶︎10

9(1)人類は、その上に天界が建てられる土台である
このことは、人間が最後に創造され、最後に創造されたものは、先行するすべてのものの土台であるからです。
創造は、神性からであるので、最高のものまたは最内部のものから始まり、最後のものまたは最外部のものへ進み、その時、初めて存続するようになりました――創造の最後のものは自然界であり、その水の地球とその上にあるすべてのものです。
これらがなし遂げられた時、人間が創造され、その中に神的な秩序のすべてのものが最初のものから最後のものまで集められました。その最内部の中に、秩序の最初のものの中にあるものが、その最後のものの中に、〔秩序で〕最後のものが集められました。このように形の中で、人間は神的な秩序になりました。
ここから、人間の中に、また人間のもとにあるすべてのものは、天界からも世からも存在します、天界からは彼の心にあるもの、世からは彼の身体にあるものです。というのは、天界にあるものが彼の思考と情愛の中に流入し、そして彼の霊による受け入れにしたがってそれらを示すから。また世にあるものが彼の感覚と快楽に流入し、彼の身体の中への受け入れにしたがって、しかし、彼の霊の思考と情愛の適合するものにしたがって適切に示すからです。
[2]このようであることは、『天界と地獄』に扱われている多くの章の中に見られます、特にこれらの中に――

全天界は一つの統一体として一人の人間を表わす(59–67番)。
天界のそれぞれの社会は一人の人間を表わす(68–72番)。
ここから、それぞれの天使は完全な人間の形をしている(73–77番)。
このことは主の神的人間性からである(78–86番)。
そしてさらに、人間のすべてのものと天界のすべてのものの対応についての章の中に(87–102番)。
地のすべてのものとの天界の対応について(103–115番)。
また天界の形について(200–212番)。

[3]この創造の秩序から、最初のものから最後のものまで、同時に一つのものを構成すると見られ、その中で前のものは後ろのものから分離されることができ、原因から結果が、霊界から自然界があるように保つような結びつきがあることを明らかにすることができます。したがって、人類からの天使の天界はなく、天使の天界からの人類もありませんそのために、あるものが他のものに、すなわち、天使の天界が人類に、また人類が天使の天界に相互の働きを行なうように、このように主により備えられています。
[4]ここから、天使の住まいは確かに天界の中にあり、視覚には人間がいる住まいから分離して、しかしそれでも、人間のもとに、彼の善と真理の情愛の中にあります――著作『天界と地獄』の中の、天界の中の空間について扱われている章(191–199番)から明らかにすることができるように、外観から、視覚には分離して見られます。
[5]天使の住まいが人間のもとに、彼らの善のまた真理の情愛の中にあることは、主の次のことばによって意味されます、

わたしを愛する者は、わたしのことばを守ります。わたしの父は彼を愛し、わたしたちはその方のところに来て、その方のもとに住まいをつくります(ヨハネ14:23)。

「父」と「主」によってそこにもまた天界が意味されます、なぜなら、主がおられるところに天界があり、主から発出する神性は天界をつくるからです(著作『天界について』7–12番、また116–125番参照)――そしてまた主の次のことばによって、

パラクレートス、真理の霊が「あなたがたのもとにとどまり、あなたがたの中にいます」(ヨハネ14:17)。

[6]「パラクレートス」は主から発出する神的な真理であり、ここからもまた「真理の霊」と呼ばれます。そして、神的な真理が、そしてまたそれを受け入れるものであるので天使が、天界をつくります(主から発出する神性が神的な真理であり、ここから天使の天界があることは、著作『天界と地獄』126–140番参照)。
似たことが主の次のことばによってもまた意味されます、

神の王国はあなたがたの內部にあります(ルカ17:21)

[7]「神の王国」は、神的な善と真理であり、それらの中に天使がいます。人間のもとに天使と霊たちがその情愛の中にいることが、私のもとに彼らが居合わすこととその住まいから、私に千回も見ることが与えられました。しかし、天使と霊たちはどの人間のもとにいるか、人間も自分のもとに天使と霊たちが一緒に住んでいるのか知りません、というのは、このことを主だけが知り、配置されるからです。
一言でいえば、善と真理のすべての情愛が天界の中に拡大し、そこの似た情愛の中にいる者との伝達と結合があります。また、悪と虚偽のすべての情愛が地獄の中に拡大し、そこの似た情愛の中にいる者との伝達と結合があります|霊界の中で情愛が拡大するのは、自然界の中に見られるのとほとんど似ています。どちらの場所にもほとんど似た伝達があり、それでも相違があって、自然界の中には対象物がありますが、霊界の中には天使の社会があります。
[8]これらから、天使の天界と人類に、一方がもう一方から存続するような結びつきがあること、また人類なしの天使の天界は基礎なしの家のようであることが明らかです、なぜなら、その中に天界は終結し、その上に休むからです。
これらのことは、個々の人間自身のもとでもそのようです。彼の思考と意志のものである霊的なものは、彼の感覚と行動のものである自然的なものの中に流入し、そこで終わり、存続します。人間は、これらのものもまた授けられないなら、すなわち、これらの限界または最外部のものなしであったなら、彼の霊の思考と情愛のものである霊的なものは、制限または土台がないもののように崩壊します――
[9]人間が自然界から霊界に移るとき、それは死ぬときに生じ、同様になります。その時、霊であるので、自己の基礎の上でなく、人類である共通の基礎の上に存続します。
天界のアルカナ(秘義)を知らない者は、天使は人類なしに存続し、天使なしに人間が存続する、と信じてしまうかもしれません。しかし、私は天界についてのすべての経験から、また天使とのすべての会。話から、「天使または霊は、人間なしにだれも存続しない。人間は、霊と天使なしにだれも存続しない。相互の往復する結合がある」ことを断言できます。
これらから、人類と天使の天界は一つのものをつくっていること、それ自体から相互にまた交替に存続すること、このように一方はもう一方から取り除かれることができないことを初めて明らかにすることができます。

最後の審判

9◀︎目次▶︎11

10(2)人類は天界の苗床である
このことは、続く章〔14–22番〕から明らかにされ、そこには天界と地獄は人類からであること、このように人類は天界の苗床であることが示されています。
ここまでのように、すなわち、創造の最初から、天界は人類からつくられたこと、このように今後、つくられ、豊かにされることをあらかじめ述べておかなければなりません。
[2]確かに、人類自身が神性から完全に分離するとき、そのとき人類が一つの地球上で滅びることがありえます。なぜなら、その時、人間にもはや霊的ないのちがなく、獣のような自然的ないのちだけがあるからです。また人間がこのようなものであるとき、社会が形成され、法律によって抑制の中に保たれることができません。
[3]しかし、たとえ人類が神性からの分離によって一つの地球の上から滅びても、そのことはそれでもなお起こらないように神性により備えられていますが、それでもやはり他の地球上に残存します。
というのは、宇宙の中に数百の数千の倍の地球があるからです(小著『惑星と呼ばれている私たちの太陽系の諸地球について、また星空の中の諸地球について』参照)。
私に天界から、「主が世にやって来て、この地球の上で人間性をまとい、そしてそれを神的なものにされなかったなら、そしてまた、主がここに天使の天界の基礎のために、結合のために、このようなみことばを与えられなかったなら、今日、人類はこの地球上で、一人も存在しないほどにまでも滅んでしまったであろう」と言われました(みことばによって人間との天界の結合があることは、著作『天界と地獄』(303–310番参照)。
しかし、そのようであることは、霊的に考える者でないなら、すなわち、神性の承認によって天界に結合している者でないなら把握されることができません、なぜなら、この者だけが霊的に考えることができるからです。

最後の審判

10◀︎目次▶︎12

11(3)天使のための天界の範囲は、永遠に満たされることができないほどに広大無辺である
このことは、著作『天界と地獄』の中に、そこの「天界の無辺について」の章(415–420番)の中に言われていることから、また(4)今までに天界にいる者は相対的にわずかである
このことは、小著『宇宙間の諸地球』(126番)の中に言われていることから明らかです。

最後の審判

11◀︎目次▶︎13

12(5)天界の完全性は数の多いことにしたがって増大する
このことは、その形から明らかであり、その交わりにしたがってそこに配列され、伝達が流れ出て、すべての最も完全なものがあります。また最も完全な形の中に、多くのものがあればあるほどそれだけ一つのものに向けて多くのものへの方向付けと一致が存在し、それだけさらに密接なさらに一致した結合があります。一致とここからの結合は数の多いことから増大します、なぜなら、それぞれのものがそこに、二つまたは多くのものの中間の親類のように導入され、導入されるものはこれを確立させ、結合させるからです。
[2]天界の形は人間の心の形に似ていて、その完全性は真理と善の増大にしたがって増大し、そこから知性と知恵があります。人間の心の形が、天界的な知恵と知性の中にあり、天界の形に似ているのは、心がその形の最小の映像であるからです。ここから、あらゆる点で、このような人間と天使のもとに善と真理の思考と情愛の伝達(交通)があり、天界の社会の周囲に、知恵の増大にしたがって拡大があります。このように理解力に植え付けられている真理の知識の数が多いことにしたがって、意志に植え付けられている善の情愛の豊富さにしたがって、このようにそれらは心に植え付けられています。なぜなら、心は理解力と意志から構成されているからです。
[3]人間と天使の心は、永遠に豊かにされ、豊かにされるほど完成されることができるようなものです。そのことは特に人間が主により導かれるときに生じます。なぜなら、その時、純粋な真理の中に導き入れられ、それらは理解力の中に植え付けられ、純粋な善の中に導き入れられ、意志の中に植え付けられるから、なぜなら、主は、その時、心のこのようなすべてのものを天界の形の中に、それでも最後に最小の形の中の天界であるように配列させられるからです。この比較から、似た性の事柄であるので、天使の数が多いことは天界を完成させることが明らかです。
[4]さらにまた、すべての形はいろいろなものから構成されます。いろいろなものから構成されない形は性がありません、何らかの変化の状態もないので形ではありません――それぞれの形の性は、そこのそれ自体の間のいろいろな配列から、また相互のそれらの関係から、そして一つのものへの一致からであり、そのことからすべての形は一つのもののように見なされます。このような形は、そこの多くのものがさらにこのように配列されればされるほど、ますます完全にされます。なぜなら、それぞれのものは、前に言われたように、確立させ、強くし、結合し、このように完成するからです。
[5]しかし、これらは著作『天界と地獄』の中に示されているものからいっそうよく明らかにすることができます、特にそこに扱われている「天界のそれぞれの社会は小さい形の天界であり、それぞれの天使は最小の形の天界である」(51–58番)、なおまたそこに扱われている「天界の形、それにしたがってそこに交わりと伝達がある」(200–212番)、「天界の天使の知恵」について(265–275番)からです。

最後の審判

12◀︎目次▶︎14

13(6)神的なすべての働きは無限なものと永遠なものに目を向けている
このことは、天界の中にも世の中にも存在する多くのものから明らかにすることができます。どちらの場所にも、他のものと完全に似るかまたは同じものは決して存在しません。他のものと完全に似るかまたは同じ顔は存在しませんし、永遠に存在することもありません。同じく、完全に他のものに似ているアニムス(心)は存在しません。それゆえ、このように多くの顔またこのように多くのアニムス(心)〔を持つ〕それほど多くの人間、なおまたそれほど多くの天使〔がいます〕。ある人間の中に、その中にそれでも身体を構成する無数の部分があり、心(アニムス)を構成する無数の情愛がありますが、それらは、完全に似ているかまたは同じものが、他の者の中にあることは決してありません。ここから、〔人間は〕他の生活から区別されたそれぞれの生活を送ります。似た事柄が自然のすべてと個々のものの中にあります。このような無限の多様性がすべてと個々のものの中にあることは、原因のすべての起源を無限なものである神性から得ています。ここからどこでも、目的のために、すべてのものがご自分の働きのとして神性から見られるように、同時に、すべてのものがその働きとして神性に目を向けるように、無限なもののある種の映像があります。
それぞれのものがどのように無限なものと永遠なものに目を向けるか、ある軽い証拠が実例に役立ちます――どんなものでも種は、あるいは木の実、あるいは収穫物の種、あるいは花の種は、無限に増え、永遠に存続することがことができるように創造されています。というのは、一つの種から五、十、二十、百までも多くの種が生まれるから。これらの個々のものからもまた、一つの種からこのような結実が絶えず続き、百年内だけで一つの地球の表面だけでなく、無数の地球の表面もまた満たすことができ、それだけ多くのものが生まれます――同じ種がその継続が永遠なものであるように創造されています――ここから、これらの中に、同様に他のものの中に、どのように無限と永遠の観念があるか明らかです。
天使の天界は、そのことのために全世界のすべてのものが創造されました。なぜなら、天使の天界は目的であり、そのことのために人類が創造され、人類は目的であり、そのことのために目に見える天が、そこに地球が創造されたからです。そのために、その神性の働き(わざ)は、すなわち、天使の天界は、もっぱら無限なものと永遠なものに目を向け、したがって終わりなしにその増えることに目を向けます。なぜなら、そこに神性そのものが住むからです――ここからもまた、人類が決して終わらないことを明らかにすることができます。なぜなら、もし終わりになるなら、神的な働き(わざ)は確定した数で終わりになり、このように無限なものへの観点は失われてしまうからです。

最後の審判

13◀︎目次▶︎15

(3)天界と地獄は人類から存在する

14 キリスト教界に、天界と地獄は人類から存在することはまったく知られていません。というのは、天使は始めから、またそこから天界も創造されており――そして悪魔またはサタンは光の天使でしたが、反逆者となったので、自分たちの集団とともに投げ落とされ、そこから地獄ができた、と信じられているからです。
このような信仰がキリスト教界にあることに、天使は最大に驚き、また天界について、そのことは教会の中の主要な教えであるのに、まったく何も知らないことに、さらに大きく驚きました――またこのような無知が支配しているので、天使は、主が今やキリスト教界の者に天界についてそしてまた地獄について多くのことを啓示することを喜びとされたこと、またそのことによって、教会はその終局に達したので日ごとに増大している暗やみを可能なかぎり追い散らすことを心から喜んでいます――それゆえ、彼らは、「全天界の中に始めから天使に創造された者は一人もいない。地獄にも光の天使に創造され、投げ落とされた何らかの悪魔はいない。しかし、すべての者は、天界と同じに地獄も人類から存在し、天界の中には世で天界の愛と信仰に生きた者が、地獄の中には地獄の愛と信仰に生きた者がいる。また地獄は全体として悪魔とサタンと呼ばれるものであり、後部にある地獄には悪鬼・悪魔と呼ばれる者がいて、前部にある地獄には悪霊・サタンと呼ばれる者がいる」ことを彼らの口から私が〔直接に聞いたと〕断言するよう欲しました(*1)(一方の地獄がどのようなものか、もう一方の地獄がどのようなものか、著作『天界と地獄』の終わりあたり参照)。
彼らは、「天界の中の者や地獄の中の者について、キリスト教界がこのような信仰を受け入れたことは、みことばの中の何らかの個所について、文字どおりの意味にしたがってだけ理解され、みことばからの純粋な教えによって照らされ、説明されていないからである。そのときそれでも、みことばの文字どおりの意味は、純粋な教えが道を照らさないかぎり、心をいろいろに散らし、ここから、無知・異端・誤りが生じる」と言いました。(*2)〔ここは『天界と地獄』321番と同じです〕


*1 地獄はひとまとめにして、すなわち、地獄的なものはひとまとめにして、悪魔とサタンと言われる(694番)。
世の中で悪魔であった者は、死後、悪魔になる(968番)。
*2 教会の教えは、みことばからでなくてはならない(3464, 5402, 6832, 10763, 10765番)。
みことばは、教えなしに理解されない(9021, 9409, 9424, 9430, 11324, 10431 ,10582番)。
真の教えは、みことばを読む者にランプの明かりである(10400番)。
純粋な教えは、主からの照らしの中にいる者からでなくてはならない(2510, 2516, 2519, 9424, 10105番)。
教えなしの文字どおりの意味の中にいる者は、神的な真理についての理解が何もない中にやって来る(9409, 9410, 10582番)。
彼らは多くの誤りへ導かれる(10431番)。
みことばから教会の教えから、教え、学ぶ者と、みことばの文字どおりの意味だけから、教え、学ぶ者の間の相違はどのようなものか(9025番)。

最後の審判

14◀︎目次▶︎16

15
 教会の人間がこのように信じているさらなる理由は、最後の審判の時よりも前に、人間はだれ$も天界または地獄に行くことはない、と信じているからです。最後の審判について受け入れられている見解は、「その時、目の前のすべてのものが滅んで、新しいものが存在し、霊魂はその時、自分の身体の中に戻り、人間はその結合から再び生きる」というものです! この見解は、「天使は始めから創造された」、という天使についての信仰を含みます。なぜなら、世が終わるよりも前に、人間はだれも天界や地獄に行かないことが信じられるとき、天界と地獄は人類からであることが信じられないからです。
[2]しかし、そのようでないことを人間が納得するために、天使との交わりを持ち、そしてまた地獄の中にいる者と話すことが私に与えられ、このことが今や多くの年月の間、時々は朝から晩まで絶えず続き、このように天界と地獄について教えられています。そしてこのことは、教会の人間が、審判の時の復活について、その間の霊魂の状態について、さらに天使について、悪魔について自分の間違った信仰の中にこれ以上とどまらないようにという理由のためです――その信仰は虚偽の信仰であるので、暗やみを含みます。また、それらについて自己の知性から考える者のもとで、疑いを、ついには否定をひき起します―というのは、彼らは心で、「どのようにして、それほど大きい天がこんなにも多くの星座とともに、また太陽や月とともに破壊され、消滅することが可能なのか? どのようにして、その時、天から星が、それは地より大きいのに、地に落ちることができるのか? どのようにして、虫によって食い尽され、腐敗して滅び、すべての風で散らされた身体が、自分の霊魂へ再び集められることができるのか?その間、霊魂はどこにいて、身体の中にあった感覚がなくなってしまったとき、どんな状態であるのか?」と言い、ほかにも同じような多くのことを言うからです。それらは理解できないことなので信仰の中に落ち込まないで、多くの者のもとで死後の霊魂のいのちについての信仰を、天界と地獄についての信仰を、それらとともに教会の信仰のものであるその他のものを破壊します。
[3]彼らが滅ぼしたことも、「だれが天界から私たちのところに来て、そのようであると語ったか? 地獄とは何か? 存在するのか? 人間が永遠に火で苦しめられることとは何か? 審判の日とは何か? それは数世紀の間、むなしく期待されなかったか?」と言う者がいることから明らかです。その他にも多くのことが言われますが、それらはすべて否定です。
そこで彼らが(多くの者によくあるように、その者たちは世俗的なものから賢明であり、博学で学問があると呼ばれています)、このように考え、さらに信仰と心で単純な者を混乱させ、惑わせ、そして神・天界・永遠のいのちについて、またこれらによる他のものについて、地獄の暗やみをひき起すことがないように、私の霊である内的なものが主により開かれ、このようにかつていのちが身体の中にあったときに私がよく知ったすべての者とその死んだ後に語ることが与えられました。ある者とは数日間、ある者とは数か月間、ある者とは一年間です。さらにまた他の者と、十万人と言っても少ないくらいの多くの者とです。それらの多くの者は天界の中に、また地獄の中にいました――さらにまた私は、死から二日後のある者たちと話し、私は、「今、あなたがたの埋葬のために、葬儀と葬式が行なわれています」と語りました。そのことに彼らは、「自分たちに身体とその機能として世に役立ったものは捨てるほうがよであろう」、と言いました。そして私に、「われわれは死んでいない。今や人間として以前のように等しく生きている。一つの世界からもう一つの世界へ移住しただけである。身体とその感覚の中に以前のようにいるので、以前のように理解力と意志の中に、世の中と同じような思考と情愛、同じような感覚、同じような願望の中にいるので、何かを失ったとは思わない」と言うよう欲しました。
[4]死から間もない大部分の者は、自分自身が人間として以前のように生きて、同じような状態の中にいることを見るとき(なぜなら、死後、最初のいのちの状態は、彼にとって世であったもののようであるからです、しかし、それは連続的に天界または地獄に変わります)、生きていることに新しいうれしさで感動し、そして、「このことを信じていなかった」と言います――自分たちの死後のいのち状態についてこのような無知と盲目の中にいたことに大いに驚き、そしてさらに、教会の人間が、彼らは地の全世界の中のすべての者にまさってそれらについて光の中にいることができるのに、そのような状態の中にいることに驚きます。(*3)
盲目と無知の理由は、その時、彼らは初めてそれを知ったのですが、世と身体である外なるものが、彼らの心を占め、満たしたからであり、占め、満たすほどそれだけ天界の光の中に揚げられることができず、教会の教えの事柄を越えて熟視することができないことです――というのは、人間が天界の事柄について自分の教会にある信仰の教えの教令を越えて、考えることを欲しても、身体的なものと世的なものが今日のように愛されるほど、それらから、ますます暗やみだけが流入するからです。〔これは『天界と地獄』312番と同じです〕


*3 今日、キリスト教国の中で、人間が死後、直ちに復活することを信じる者は少ない(「創世記」第16章への序文、また4622, 10758番)。
しかし、最後の審判の時、目に見える世界が滅びるとき〔復活すると信じている(10595番)。
このように信じられていることの理由(10594, 10758番)。
それでも、人間は死後、直ちに復活し、その時、すべてと個々のものに関して人間である(4527, 5006, 5078, 8939, 8991, 10594, 10758番)。
死後に生きる霊魂は、人間の霊であり、それは人間の中で人間そのものであり、そしてまた来世でも完全な人間の形である(322, 1880, 1881, 3633, 4622, 4735, 5883, 6054, 6605, 6626, 7021, 10594番)。
経験から(4527, 5006, 8939番)。
みことばから(10597番)。
聖なる都の中で死人が見られたことによって何が意味されるか説明されている、「マタイ」27.53(9229番)。
どのように人間は死人から復活するか、経験から(168–189番)。
復活後のその状態について(317, 318, 319, 2119, 5070, 10596番)。
霊魂とその復活についての間違った見解(444, 445, 4527, 4622, 4658番)。

最後の審判

15◀︎目次▶︎17

16
 キリスト教界の学者からの非常に多くの者は、死後、自分たちが世の中でのように、身体の中に、衣服の中に、家の中にいるのを見るとき驚き、また、死後のいのち・霊魂・霊・天界と地獄について考えたことを記憶に思い出すとき、恥に満たされ、「自分たちは愚かに考えていた。単純な信仰をもつ者自分たちよりもはるかに賢明である」と言います。
このようなものを確信し、すべてのものを自然に帰した学者が調べられました。彼らの内的なものは完全に閉ざされ、外的なものが開かれており、このように天界へ目を向けず、世へ、したがって地獄へ目を向けたことがわかりました。なぜなら、内的なものが開かれれば開かれるほど、それだけ人間は天界へ目を向けます、けれども、内的なものが閉ざされて外的なものが開かれれば開かれるほど、それだけ地獄へ目を向けるからです。というのは、人間の内的なものは天界のすべてのものを受け入れるように、外的なものは世のすべてのものを受け入れるように向けて形作られており、世を受け入れて、同時に天界を受け入れない者は、地獄を受け入れるからです。(*4)〔これは『天界と地獄』313番と同じです〕


*4 人間の中で霊界と自然界が結合している(6057番)。
人間の内なるものは天界の映像へ形作られている、けれども、外なるものは世の映像へ形作られている(3628, 4523, 4524, 6057, 6314, 9706, 10156, 10472番)。

最後の審判

16◀︎目次▶︎18

17
 身体から解放の後、人間の霊が人間であり、似た形をしていることは、多年にわたる日々の経験によって私に明らかなものとなっています。なぜなら、私は千回も彼らを見、聞き、彼らと話し、そしてまた、世の中の人間はこのようであることを信じないこと、信じている者は学識のある者から単純な者のように見なされることについても話したからです。
霊たちは、このような無知が今なお世界に続くこと、教会内で最大に続いていることを心から悲しみました――しかし、彼らは言いました。「この信仰は特に学識のある者から広がった。彼らは霊魂について身体の感覚から考え、そこから霊魂について単なる思考のような観念としか理解しなかった。そのとき霊魂は、その中に何らかの主体なしに、またそこから眺められるとき、何か飛び去りやすい純粋なエーテルのようなものであって、それは身体が死ぬとき、消散さざるをえないものである――しかし、教会では、みことばから霊魂の不滅が信じられているので、思考のようなものである何か生命力のあるものを付加し、しかしそれでも、人間にあるような感覚的な能力は再び身体と結合がある以前には付加することはしなかった」。
この見解に基づいて、復活についての教えが、そして最後の審判が行なわれる時、霊魂と身体が結合されるという信仰があります。なぜなら、霊魂について与えられたこの仮説から、人間の永遠のいのちについて教会の信仰と結合されたものに何も結論することができないからです――ここから、だれかが、教えからそして同時に仮説から霊魂について考えるとき、それが霊であり、それは人間の形をしていることをまったく理解しなくなります。付け加えれば、今日のほとんどの者は、霊的なものが何であるか知らず、ましてすべての霊や天使である霊的な者が何らかの人間の形をしていることを知りません。
ここから、世からやって来るほとんどすべての者が最大に驚くことは、〔自分が〕生きていること、以前と等しく人間であり、まったく何も異ならないことです――しかし、自分自身に驚くことがやんだ後、教会が死後の人間のこのような状態について何も知らないことに驚きます――そのときそれでも、世で生きていた者がどれほど多くても、すべての者は来世にいて、人間として生きています。そしてまた、なぜこのことが、幻によって人間に明らかにされなかったか不思議に思ったので、天界から彼らに次のことが言われました。「このことを行なうことができること、なぜなら、主が喜ばれるとき、これ以上に容易であるものは何もないから、しかし、それでも、自分自身がそれらに反した虚偽の中にいて、これを確信した者は、たとえ彼ら自身が見たとしても信じるようにならないこと。さらに、世俗的なものと身体的なものの中にいる者に天界から明らかにすることは危険であること、なぜなら、このように最初に信じ、そしてその後、否定し、そしてそのように、そのこと自体は真理を冒涜することになるから――なぜなら、冒涜することは、信じ、またその後、否定することであるからである。冒涜する者は、外すべての地獄の中で、最低の最もきびしい地獄に押し下げられる」。次の主のことばによって意味されるものはこの危険です、

主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。彼らが目で見、心で理解し、回心し、わたしが彼らをいやすことがないためである(ヨハネ12:40)。

また、世俗的な愛や身体的な愛の中にいて、やはり信じようとしない者は、これらによって〔意味されます〕、

アブラハムは地獄の富んだ者に言った、「彼らにはモーセと預言者がある、彼らに聞くがよい」。しかし、彼は言った。「いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者から彼らのところに行くなら、回心させられます」。しかし、アブラハムは彼に言った。「もし、彼らがモーセと預言者を聞かないなら、だれかが死んだ者から生き返ったとしても、彼らは信じない」(ルカ16:29-31)。

〔これは『天界と地獄』456番とほぼ同じです〕

最後の審判

17◀︎目次▶︎19

18 天界は人類からであることは、天使の心と人間の心が似ていることからもまた明らかにすることができます。二つ〔の心」とも、理解し、知覚し、意志する能力を授けられています。二つとも、天界を受け入れることへ向けて形作られています―なぜなら、人間の心は天使の心と同等に賢明であるからです。しかし、世の中ではそれほど賢明ではありません。その理由は地的な身体の中にいて、その中でその霊的な心は自然的に考えるからです。なぜなら、彼の霊的な思考は、それもまた天使と等しく彼にありますが、その時、霊的なものに対応する自然的な観念の中に流れ下り、このようにそこに知覚されるからです。けれども、人間の心はその身体との拘束から解かれるときは異なります。その時もはや自然的でなく、霊的に考え、霊的に考える時、自然的な人間には理解できないことや言葉にできないことを考え、このように天使のように賢明です。
これゆえ、人間の内なるものは、彼の霊と呼ばれ、その本では天使であることを明らかにすることができます。(*5)(天使が完全な形の人間であることは、著作『天界と地獄』(73-77番)参照)――けれども、人間の内なるものが上方に開かれていないで、下方にだけ開かれている時、やはりそれは身体から解放された後、人間の形ですが、しかし、恐ろしくて、悪魔のような形です。なぜなら、上の天界に向けて目を向けることができず、下の地獄に向けてしか目を向けることができないからです。

〔これは『天界と地獄』314番とほぼ同じですが、付加や削除された箇所があります〕


*5 人間の中に天界と同じ数のいのちの段階があり、その段階は、死後、彼の生活(いのち)にしたがって開かれる(3747, 9594番)。
天界は人間の中にある(3884番)。
愛と仁愛の生活に生きた人間は、自分自身の中に天使の知恵がある、しかしその時、隠されている。死後、その知恵の中に入る(2494番)。
主から愛と信仰の善を受ける者は、みことばの中で天使と言われる(10528番)。

最後の審判

18◀︎目次▶︎20

19 教会もまた、天界からの照らしを入れることを許し、強盗への主の〔次の〕ことばに留意したなら、天界と地獄が人類からであることを、みことばから知ることができ、このことをその教えとすることができたはずです、

きょう、わたしとともにパラダイスにいます(ルカ23:43)。

また、主が金持ちとラザロについて言われたことに、

金持ちは地獄にやって来て、ここからアブラハムと語った。〔貧乏人の〕ラザロは天界へ行った(ルカ16:19–31)。

なおまた、主がサドカイ人たちに復活について話したこと、

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です(マタイ22:32)。

そしてさらに、善く生きているすべての者の共通の信仰から、特に、死の時に近く、もはや世俗的なものや物質的なものの中にいないで、身体のいのちを出るとすぐに自分が天界に行くと信じている者の信仰からです。天界と地獄が人類からであることを教会もまた、みことばから知り、そしてそのことを その教えにすることができました。この信仰は、教会の教えから最後の審判の時の復活について考えない時、すべての者のもとで支配しています――そのようであるかどうか調べなさい、するとあなたは確信するでしょう。

〔これは『天界の秘義』5078番[5]にやや似ています〕

最後の審判

19◀︎目次▶︎21

20 神的な秩序について教えられる者は、さらにまた人間が天使になるように創造されていること を理解することができます。人間の中に秩序の最終的なものがあり(前の9番参照)、その中に天界的な 知恵や天使的な知恵に属するものが形作られることができ、回復され、増大されることができるからで す。
神的な秩序は、途中で、そこに最終的なものでない何らかのものをつくって立ち止まることは決して ありません、それには充満と完全さがないからです。最終的なものにまで進みます――しかし、その最 終的なものの中にあるとき、形作って、そこに集められた手段によってそれ自体を回復させ、さらに先 へ進みますが、それは生殖を通して行なわれます――それゆえ、最終的なものの中に天界の苗床が存在します。
このこともまた、「創世記」第一章の中に、人間についてとその創造について言われていることによっ て意味されます(26-28節)、

神は言われた。「わたしたちは、わたしたちの映像に、わたしたちの似姿にしたがって人間を造 ろう……」。神は人間をご自分の映像に創造し、神の映像に彼を創造された。男と女に彼らを創造 された。神は彼らを祝福し、神は彼らに言われた。「生めよ、増えよ」。

「神の映像に、神の似姿に創造すること」は最初から最後まですべての神的な秩序を人間の中に授け ること、このようにその心の内的なものに関して、天使をつくることです。

〔これは『天界と地獄』315番をもとにして追加があります〕

最後の審判

020◀︎目次▶︎022

21 主は霊に関してだけでなく、身体に関してもまた復活されたことは、主は、世におられたとき、ご自分の人間性全体を栄化された、すなわち、神的なものにされたからです――というのは、父からのものである霊魂は、それ自体から神性そのものであり、身体は霊魂と似たものに、すなわち、父と似たものにされ、このように神的なものにもされたからです――ここから、その方はどの人間とも似ないで、 〔霊魂と身体の〕それぞれに関して復活されました(*6)。さらにまた、主を見たとき、霊を見ていると信じた弟子たちに、〔次のように〕言われて、明らかにされています、

わたしの手とわたしの足を見なさい。 それはわたしそのものです。わたしにさわり、見なさい、 なぜなら、霊にはあなたがたがわたしに見るような肉と骨がないからです(ルカ24:36-39)。

このことによって、霊に関してだけでなく、身体に関してもまた人間であられることをはっきり示されたのです。

〔これは『天界と地獄』316番と同じです〕


*6 人間は霊に関してだけ復活する(10593, 10594番)。
主おひとりが身体に関しても復活された(1729, 2083, 5078, 10825番)。

最後の審判

21◀︎目次▶︎23

22
 さらに、天界と地獄が人類からであることは、著作『天界と地獄』の中の多くの章の中に示されています。例えば、次のこれらのものの中に――

天界の異邦人と教会の外の人々について(318–328番
天界の幼児について(329–345番
天界の賢明な者と単純な者について(346–356番
天界の富める者と貧しい者について(357–365番)
それぞれの人間は自分の内的なものに関して霊であること(432–444番
死後、人間は完全な人間の形をしていること(453–460番
死後、人間は、世の中でもっていたすべての感覚・記憶・思考・情愛をもち、自分の地的な身体を除いて、何もあとに残さないこと(461–469番
人間の死後の最初の状態について(491–498番
人間の死後の第二の状態について(499–511番
第三の状態について(512–517番
またさらに地獄について(536–588番

それらのすべてのものから、特に、天界は最初から創造された何らかの天使から、地獄も何らかの悪魔とその仲間から成り立つのではなく、人間に生まれた者だけから成り立つことを明らかにすることができます。

最後の審判

22◀︎目次▶︎24

(4)創造の最初から、生まれ、死んだ人間がどれほど多くても、すべての者は天界あるいは地獄の中にいる

23 このことは次のことからいえます、

第一、前章の中で言われ、示されたこと、すなわち、天界と地獄は人類からである。
第二、すべての人間は、世の中の生活の後、永遠に生きる。
第三、このように世の創造からずっと、人間に生まれ、死んだすべての者は天界あるいは地獄の中にいる。
第四、今後、生まれるすべての者もまた、霊界の中にやって来るので、その世界は、地上の人間がいるような自然界と比較されることができないほどに大きい。

しかし、これらすべてのものがさらに明確に知覚され、さらにはっきりと明らかとなるように、私はそれらを個々に説明し、述べたいと思います。

最後の審判

23◀︎目次▶︎25

24
(1)創造の最初から、生まれ、死んだ人間がどれほど多くても、すべての者は天界あるいは地獄の中にいることは、「前章の中で言われ、示されたこと、すなわち、天界と地獄は人類からであること」から説明なしに明らかです。今まで、人間は霊魂がその身体の中に帰り、このように身体に固有であるようなものを享受すると信じられる時である最後の審判の日よりも前に天界または地獄の中にやって来ることはない、という一般の信仰がありました。
この信仰の中へ単純な者は、知恵があると表明され、人間の内的な状態について探究したと表明された者により引き寄せられました。
これらの者は自然界についてだけで霊界については、そのように霊的な人間についても何も知りませんでした。ここから、それぞれの人間の自然的な人間の中にある霊的な人間を、自然的な人間のように等しく人間の形をしていることを知りませんでした――ここから、彼らには自然的な人間が自分の人間
の形を自分の霊的な人間から得ていることが、たとえ、意のままに霊的な人間が自然的な人間のすべてると個々のものの中で働くこと、自然的な人間が自分自身からはまったく何も働かないことを見ることが
できたにしても心に浮かびません。
[2]考え、意志するのは霊的な人間です、なぜなら、自然的な人間は自分自身からはできないからです。思考と意志は自然的な人間のすべてのものの中のすべてです、というのは、自然的な人間は霊的な人間が欲するように行動し、そしてまた彼が考えるように話すからであり、行動が意志以外の何ものでもなく、話すことが思考以外の何ものでもないように、これほどに完全にです。なぜなら、もしあなたが思考と意志を取り去るなら、その瞬間に話すことと行動は止むからです。
これらから、霊的な人間は真に人間であることと自然的な人間のすべてと個々のものの中にいることが明らかです。そのようにその似姿は似ています、なぜなら、自然的な人間の部分または小部分では、すその中で霊的なものは働かないし、生きないからです。
しかし、霊的な人間は自然的な人間の前に見られることはできません、なぜなら、自然的なものは霊~的なものを見ることができないからです、しかし、霊的なものは自然的なものを見ることができます。というのは、このこと〔霊的なものが自然的なものを見ること」は秩序にしたがっているけれども、そのこと〔自然的なものが霊的なものを見ること」は秩序に反しているから、というのは、自然的なものの中への霊的なものの流入があり、視覚もそのようであるから、なぜなら、視覚もまた流入です、けれども、逆ではないからです。
人間の霊と呼ばれる者が霊的な人間であり、その者は完全な人間の形の中で霊界の中で見られ、その者が死後、生きます。
[3]前に言われたように、知的な者は霊界について何も、それで、人間の霊についても何も知らなかったので、それゆえ、人間は彼の霊魂が身体の中に戻り、その感覚を再び着る前に生きることができないという考えを得ました。ここから、人間の復活についてこれほどに空虚な考えが生じました、すなわち、「たとえ身体が虫や魚により食い尽くされ、ちり・・ へとまったくこなごなになっても、全能の神により再び集められ、霊魂に再結合される、このことは、目に見える全世界が滅びる時である世の終わりの中でしか起こらない」という考えです。ほかに似た多くのこと、それらのすべては理解力を越えています、それらは一目で、不可能なこと、神的な秩序に反していることが心に浮かびます。ここからもまた多くの者の信仰を弱めます。なぜなら、賢明さから考える者は、何らかの方法で理解できないなら、また不可能という信念、すなわち、人間がそれらは不可能なものであると考えるような信念があるとき、信じることができないからです――ここからもまた、死後のいのち(生活)を信じない者は否定的な論証を引き出します――しかし、人間は死後、直ちによみがえること、またその時、完全な人間の形の中にであることは、著作『天界と地獄』の中に、そこの多くの章の中に見られます。
これらは、天界と地獄が人類からであり、そのことから、創造の最初から生まれ、死んだ人間がどれほど多くてもすべての者は天界の中あるいは地獄の中にいる、ということがさらに確信されるために言われました。

最後の審判

24◀︎目次▶︎26

25(2)すべての人間は、世の中の生活の後、永遠に生きる
このことは、人間が霊的であり、もはや自然的ではない時、自然的な人間から分離した霊的な人間は永遠の中にあるようなものにとどまることから明らかです。なぜなら、人間の状態は死後、変えられることはできないからです。
さらに、それぞれの人間の霊的なものは神性との結合の中にあるからです、それは神性について考え、そしてまた神性を愛することができ、教会が教える神性からのものであるすべてのものに感動させられるからです。それゆえ、霊的な人間の二つの能力である思考と意志で神性に結合され、彼のいのち(生活)をつくります。このように神性に結合されることができるものは永遠に死ぬことができません、というのは、神性が彼のもとにあり、自分自身に神性を結合させるからです。
[2]人間もまたその心の形に関して天界の形に創造されていて、天界の形は神性そのものからであることは、著作『天界と地獄』の中で示されており、明らかにすることができます、

主の神性が天界をつくり、形作っている(7–12また78–868番)。
人間は最小の映像の天界であるように創造されている(57番)。
天界は全体として一人の人間を表わす(59–66番)。
ここから天使は完全な人間の形である(114番)。

天使は自分の霊的なものに関して人間です。
[3]この事柄についてもまた数回、私は天使と話しました。彼らは、「キリスト教界の中で知性ある者と言われ、そしてまた他の者から知的であると信じられている者で、自分に信仰から自分のいのちの不死性をまったく退け、人間の霊魂は獣の霊魂と等しく消滅させられることができる。人間と獣の間のいのちの相違を知覚しないで、人間は自分自身を越えて、神・天界・愛・信仰・霊的な善や道徳的な善・真理、また同様のものについて、このように神性そのものへ高揚される。その方に、それらすべてのものによって結合されることができる」と信じている者が非常に多いことに非常に驚きました。しかし、獣は、自分の自然的なものを越えて、このようなものを考えることへ高揚されることができません、したがって、人間の霊的なもののように、獣の霊的なものはその自然的なものから分離され、そしてそれらによって生きることができません(*1)。そのこともまた、獣の生 がその自然的な生命とともに消散させられることの原因です。
[4]キリスト教界の中で、いわゆる知性のある多くの者が、自分のいのちの不死を信じていない理由を、天使は、「心で神性を否定し、神性の代わりに自然を認めたからである」と言い、「このような原理から考える者は神性との結合によって何らかの永遠について、したがって獣の状態からなった人間の状態についても考えることができない、なぜなら、思考から神性を退けるとき、永遠もまた退けるから」と言いました。
[5]さらに彼らは、「それぞれの人間のともにいのちの最内部または最高の段階があること、すなわち、ある種の最内部のものまたは最高のものがあり、その中に主の神性が最初にまたは最も近く流入し、そのものから内的な他のものを、人間の霊的なものと自然的なものを整え、秩序の段階にしたがってそれらに続く――この最内部のものまたは最高のものを彼らは人間のための主の入り口と呼び、そして人間のもとのその方のまさに住居そのものと呼んだ。この最内部のものまたは最高のものによって人間は人間であり、それを持たない獣のような動物から区別される」と言いました。ここから、人間は心と気(アニムス)のものである内的なものに関して動物とは違っていて、主によりその方自身へ高揚され、その方を信じることができ、その方への愛へと感動させられ、知性と知恵を受け入れ、理性から話すことができます。
[6]神性を否定し、神性そのものと人間のいのちの結合させる神的な真理を否定し、それでも永遠に生きるとする者に問しました。彼らは、「自分たちに、神性を認める者と等しく考え、意志する能力-があり、それゆえ、神性からのものであるようなものを信じ、愛し、等しく永遠に生きる」と答えました。彼らは、その能力はその最内部のものまたは最高のものからであり、それはそれぞれの人間に内在することを言い足しました。それについては前に言われました。地獄の中にいる者にもまた、その能力があり、ここから彼らに神的な真理に反して推理し、話す能力があることも、多く示されました。ここから、すべての人間は、どんな種類であっても、永遠に生きます。
[7]すべての人間は死後、永遠に生きるので、それゆえ、天使のだれも、霊のだれも、決して死について考えません、それどころか、死ぬことが何であるかまったく知りません。そのために、みことばの中で「死」が言われるとき、天使は、霊的な意味で、死である断罪を、あるいはいのち(生活)の連続と復活を理解します(*2)
これらは、創造の最初から生まれ、死んだすべての人間が、どれほど多くても、ある者は天界の中で、ある者は地獄の中で生きていることが確信されるために言われました。


*1 霊界から獣の生命の中へもまた流入がある、しかし、人間のもとに「あるような〕特別なものではなく、全般的なものである(1633, 3646番)。人間と獣との間に区別がある。人間は自分自身を越えて、主へ向けて高揚され、神性について考え、それを愛し、このように神性に結合されることができ、そこから彼に永遠のいのちがあるが、獣は異なっていて、それはこのようなものに向けて高揚されることができない(4525, 6323, 9231番)。
*2 みことばの中で「死」が、そこに悪について言われるとき、天界の中で断罪が意味され、それは霊的な死、なおまた地獄である(5407, 6119, 9008番)。善と真理の中にいる者は、「生きている者」と呼ばれる、けれども、悪と虚偽の中にいる者は「死んでいる者」と呼ばれる(81, 290, 7494番)。善い者の死について述べられているそこの「死」によって、天界の中でいのちの復活と連続が意味される。そのとき人間は復活し、自分のいのち(生活)を続け、そして永遠へ入るからである(3498, 3505, 4618, 4621, 6036, 6222番)。

ここに「生命」とありますが、「霊魂」とすべきでしょう。

最後の審判

025◀︎目次▶︎027

26(3)創造の最初から、生まれ、死んだ人間がどれほど多くても、すべての者は天界あるいは地獄の中にいる
このことを私が知るために、私に、洪水前に生きた者、そしてまた洪水後に生きた者、旧約聖書からよく知られたユダヤ国民からのある者、主の時代に生きた者、今日の人々まで続く時代の中に生きた多くの者、そしてほかにも、いのちが身体の中にあったとき私がよく知っていたすべての者と、その死んだ後に、またさらに幼児と、また異邦人からの多くの者と話すことが与えられました。
その経験から私は、これまでに、この地球の最初の創造から、人間に生まれ、天界あるいは地獄の中にいない者は一人もいないことを十分に確信しました。

最後の審判

026◀︎目次▶︎028

27(4)今後、生まれるすべての者もまた、霊界の中にやって来るので、その世界は、地上の人間がいるような自然界と比較されることができないほどに大きい
このことは、創造の最初から、霊界に移って来て、そこに一緒にいる計り知れない人間の群衆から、なおまたその後、絶え間のない増大から、人類から彼らに加えられ、このことが終わりなしに、前の章の中に示されていること(6–13番)、すなわち、諸地球の中の人類の生殖は決して終わらないことしたがっていることから明らかです。
[2]私に目が開かれたとき、どれほど計り知れない人間の群衆がすでにそこにいるか、数回、見ることが与えられました。ほとんど数えられることができないほどでした。無数であり、これは一つの方向の一つの場所の中だけでした――他のものの中では、どれほどでしょうか?
というのは、そこにすべての者が諸社会の中に集められ、諸社会の数は多く、それぞれの社会はその場所の中に三つの天界を、またそれらの下に三つの地獄を形成しているから。それゆえ、そこに高いところにいる者、中間のところにいる者、その下にいる者、またそれらの下に、最も低いところに、すなわち、地獄の中にいる者がいます。上にいる者は自分たちの間で都市の中に人間が住むように住んでいて、それらの中に一緒にいる者は数十万です――ここから、地上の人間がいる自然界は、その世界に人類の数に関して比較されることができません。そのために、人間が自然界から霊界に移るとき、村から大きな都市の中に移るようなものです。
[3]自然界はに関しても霊界と比較されることができないことは、自然界の中のすべてのものがそこに存在するようになるだけでなく、加えて、この世の中では決して見られず、視覚に示されることもできない無数に多くのものがあることからもまた明らかにすることができます。なぜなら、そこの霊的なすべてのものは、いわば自然的なものの外観の中に、また個々のものが無限の変化をもって、その象徴に向けて映し出されるからです。なぜなら、霊的なものは、自然的な感覚に出現させられることができるものがわずかであるように、それほどに、優秀さで自然的なものにまさるからです。なぜなら、自然的な感覚は霊的な心が感知するものを数千のものから一つすら感知しないし、霊的な心に属するすべてのものが、彼らの視覚の前に形の中でもまた示されるからです――ここから、霊界は、その壮大さに関して、その驚くべきものに関してどんなものであるか述べられることができません。
これらもまた天界の中の人類の増加にしたがって増大します、なぜなら、愛と信仰に関して、ここから知性と知恵に関して、それぞれの状態に対応する形の中に、すべてのものがそこに示されるからです。そのように変化とともに、数の大きいことの増大にしたがって絶えず増大します。
ここから、天界の中に上げられた者から、「そこで見、そこで聞くことは、それらは決してだれの目も見ず、だれの耳も聞かないものである」と言われています。
[4]これらから、霊界は、それに自然界は比較されることができないようなものであることを明らかにすることができます。さらに、どのようなものであるかは著作『天界と地獄』の中に見られます、

天界の二つの王国について(20–28番)。
天界の社会について(41–50番)。
天界での表象と外観について(170–176番)。
天界の天使の知恵について(265–275番)。

――しかし、そこに述べられたものは非常にわずかです。

最後の審判

027◀︎目次▶︎029

(5)最後の審判は、すべての者が1緒にいるところ、このように地上でなく、霊界でなければならない

28 「最後の審判」について、主は、その時、天の雲の中に天使とともに栄光の中に見られ、またすべての者を、だれでも創造の最初から生きた者を、墓から生き返らせ、そして霊魂を彼らの身体に着せ、このように一つに呼び集めた者を、善い生活を送った者は、永遠のいのち、すなわち、天界へ、また悪い生活を送った者は、永遠の死、すなわち、地獄へと裁く、と信じられています。
[2]教会の中に、この信仰が、みことばの文字どおりの意味からあり、これは、みことばの中に言われるそれぞれの事柄に霊的な意味が内在することが知られないかぎり、取り除かれることもできません。またその意味は、みことばそのものであり、それに文字どおりの意味は基礎または土台として役立ち、このような文字どおりの意味なしに、みことばは神的なものであること、そして天界でも世でも、いのち(生活)と信仰の教えとして、結合として役立つことができません。
そこで、みことばの中の自然的なものに、霊的なものの対応があることを知る者は、「天の雲の中での主の来臨」によって、その方のこのような出現でなく、みことばの中の出現が意味されることを知ることができます。というのは、「主」は、神的な真理であるので、みことばであるから。その中にやって来る「天の雲」は、みことばの文字どおりの意味です。「栄光」は、その霊的な意味です。「天使」は天界であり、そこから出現し、そしてまた神的な真理に関する主です(*1)。ここから、何がそれらのことばによって意味されるか明らかです。すなわち、主は、教会の終わりの時に、みことばの霊的な意味を、このように本質的な神的な真理を開かれ、そのように、これが最後の審判が迫っていることのしるしであることです。
[3]みことばの中で言われるそれぞれの事柄に、それぞれのことばに、霊的な意味が内在し、それがどんなものであるかは、『天界の秘義』の中に見られ、それらの中に、その意味にしたがって「創世記」と「出エジプト記」に含まれるすべてと個々のものが説明されています。みことばとその霊的な意味について、それらからの「抜粋」は、小著『黙示録の白い馬について』の中に見られます。


*1 主は、天界の神的な真理であるので、みことばである(2533, 2813, 2859, 2894, 3393, 3712番)。
主は、みことばである。みことばは主からであり、主について〔扱っている」からである(2859番)。そして、主おひとりについて、特に、その方の人間性の栄化について、みことばの最内部の意味で、そのようにそこに主ご自身が〔扱われているからである(1873, 9357番)。
主の来臨は、みことばの中でのその方の臨在であり、啓示である(3900, 4060番)。
みことばの中の「雲」は、文字の中のみことばを、すなわち、その文字どおりの意味を意味する(4060, 4391, 5922, 6343, 6752, 8106, 8781, 9430, 10551, 10574参照)
みことばの中の「栄光」は、天界の中にあるような、また霊的な意味の中にあるような神的な真理を意味する(4809, 5922, 8267, 8427, 9429, 10574番)。
みことばの中の「天使」によって主からの神的な真理が意味される。天使はそれを受け入れるものであるからである。それを自分自身から話さないで、主から話す(1925, 2821, 3039, 4085, 4295, 4402, 6280, 8192, 8301)。
その時、天使の「らっぱ」または「角笛」は、天界の中の神的な真理や天界からの啓示を意味する(8815, 8823, 8915番)。

最後の審判

028◀︎目次▶︎030

29 最後の審判は霊界の中で起こり、自然界、すなわち、地上でないことは、前の二つの章からそしてまた続く章から明らかです。
前の二つの章の中に、天界と地獄は人類からであること、また創造の最初から、生まれ、死んだ人間がどれほど多くても、すべての者は天界あるいは地獄の中にいること、このようにすべての者はそこに一緒にいることが示されていますけれども、続く章で、最後の審判がすでになし遂げられたことが示されます。

最後の審判

029◀︎目次▶︎031

30
 さらに、だれも自然的な人間から、そのように自然的な世界の中に生きているかぎり、裁かれません、なぜなら、その時、人間は自然的な身体の中にいるからです。しかし、霊的な人間の中で、そのように霊的な世界の中にやって来た時、裁かれます、なぜなら、その時、人間は霊的な身体の中にいるからです。
けれども、裁かれるものは、人間のもとの霊的なものであって、自然的なものではありません、というのは、それ自体から生きていないので、これに何らかの責任または罪悪はなく、単なる仕えるものや道具であって、それによって霊的な人間が行動するからです(前の24番参照)。さらにまたここから、審判は、人間が自然的な身体を脱ぎ、そして霊的なものを着た時に行なわれます。
この身体の中で、人間は、愛と信仰に関してもまたどんなものであるか見られます、なぜなら、それぞれの者は、霊的な世界の中で、顔と身体だけでなく、話すことと行動に関してもまた自分の愛の像であるからです(著作『天界と地獄』481番参照)ここから、主が喜ばれる時、すべての者がどんなものであるか知られ、そしてすぐさま分離されます。これらからもまた、審判は霊界の中で行なわれ、自然界または地上でないことが明らかです。

最後の審判

030◀︎目次▶︎032

31
 人間のもとの自然的ないのちは何も行ないません、彼の自然的ないのちの中の霊的ないのちが行ないます。自然的なものはそれ自体からではいのちを欠いているからです。その自然的なものの中に見られるいのちは人間の霊的ないのちからであり、このようにこれが裁かれ、さらにまた人間の霊的なものが「行為によって裁かれること」によって意味されることが、著作『天界と地獄』の中に見られ、そこの章「死後、人間は世で生活したように生きること」(470–484番)に書かれています。

最後の審判

031◀︎目次▶︎033

32
 これらに私は、著作『天界と地獄』の中に記されていても、まだ述べられていない天界のある秘義(アルカナ)を付け加えます。
それぞれの者は、死後、ある社会に結びつけられており、霊界にやって来るとすぐに結びつけられます(その著作の427497番参照)――しかし、霊は自分の最初の状態の中でそのことを知りません、なぜなら、その時、自分の外なるものの中にいて、まだ内なるものの中にいないからです。このようである時、あちらこちらへ行きます、そこへ彼の心(アニムス)の願望が導きます。しかしそれでも、実際にはそこに自分の愛があります、すなわち、〔自分に〕似た愛の中の社会の中にいます。
[2]霊がこのような状態の中にいるとき、その時、他の多くの場所の中に、さらにまたどこでも身体とともに現在しているように見られます、しかし、このことは単なる外観です。そのために、主により自分の支配愛の中に導かれるとすぐに、直ちに他の者の目から消えます、結びつけられている社会の中の自分の者〔仲間〕のもとにいます――このことが霊界の中に特別にあり、原因を知らない者には不思議です。
今や、ここから、霊たちは集められるとすぐに、分離され、さらにまた裁かれ、それぞれの者が直ちに自分の場所の中に、善い者は天界の中に、その社会の中の自分の者〔仲間〕のもとに、そして悪い者は地獄の中に、その社会の中の自分の者のもとにいることになります。
[3]これらからもまた、最後の審判は霊界以外の他のところに存在するようになることができないことを、それぞれの者が自分のいのちの像の中にいることからも、似た生活(いのち)の中にいる者とともにいることからも、明らかにすることができます。そのようにそれぞれの者が自分の者〔仲間〕とともにいます。「自然的な世界の中では異なっています。そこでは善い者と悪い者が一緒にいることができ、ある者は他の者がどんなものか知らないし、自分のいのちの愛にしたがって互いに分離もしません。それどころか、人間はだれでも自然的な身体とともに天界の中にも地獄の中にもいることができません。それゆえ、人間が一方またはもう一方にやって来るために、自分の自然的な身体を出て、脱いだ後、霊的な身体の中で裁かれなければなりません。ここから、前に言われたように、霊的な人間が裁かれ、自然的な人間は裁かれません。

最後の審判

32◀︎目次▶︎34

(6)最後の審判は教会が終わる時に起こる
仁愛がないので信仰のない時が教会の終わりの時である

33 教会が終わりである時、最後の審判が起こることには多くの原因があります。おもなものは、その時、天界と地獄の間の均衡が失われ、均衡とともに人間の自由そのものが失われ始めることです。人間の自由が失われるとき、その時、もはや救われることができません。というのは、その時、自由〔な状態〕から地獄へ運ばれ、また自由の中でなくては天界へ導かれることができないから。なぜなら、自由なしにだれも改心されることができず、天界と地獄の間の均衡から人間のすべての自由があるからです。このようであることは著作『天界と地獄』の二つの章から明らかにすることができます――そこの「天界と地獄の間の均衡について」(589–596番)、「人間は天界と地獄の間の均衡によって自由の中にいること」(597–603番)、そしてまた、そこに、だれも自由の中で以外に改心されることができないことが扱われているところです。

最後の審判

33◀︎目次▶︎35

34 天界と地獄の間の均衡が教会の最後の中で失われ始めることは、前の「天界と地獄が人類からであること」についての章の中に見られ、そのことから明らかにすることができます。天界にやって来る人間がまれであり、多くの人間が地獄にやって来るとき、一つの領域からの悪が、もう一つの領域からの善にまさって増大します。なぜなら、地獄が増大すればするほど、それだけ悪が増大し、人間のすべての悪は地獄からであり、人間のすべての善は天界からであるからです――教会の最後の中で悪が善にまさって増大するので、そのために主により、その時すべての者が裁かれ、悪い者は善い者から分離され、すべてのものが秩序の中に整えられ、そして新しい天界が、そしてまた新しい教会が地上に設立され、このように均衡が回復されます。今や、これが、最後の審判と呼ばれるものであり、それについて多くのことを続きの中で〔述べます〕。

最後の審判

34◀︎目次▶︎36

35 教会の終わりがもはや教会内に信仰がない時であることは、みことばからよく知られています、しかし、もし仁愛がないなら、何らかの信仰がないことはまだよく知られていません。そのために、この事柄の何らかのものについて今から続くものの中で述べます。
教会の終わりの中で何も信仰がないことは、主により予言されています、

人の子がやって来たとき、その方は地に信仰を見つけるでしょうか?(ルカ18:8)。

そしてまた、その時、何も仁愛がないことは、世代の完了の中で、

不法は増し加えられ、多くの者の仁愛は冷えます。その福音が全地の世界に宣べ伝えられます……その時、終わりがやって来ます(マタイ24:12, 14)。

世代の完了とは教会の最後の時です。
その章の中で主により、愛と信仰に関して、教会の継続的な衰退の状態が述べられています、しかし、そこに対応そのものによって述べられています。それゆえ、そこに主により予言されているそれらは、そこの個々のものに対応する霊的な意味が知られないなら、理解されることができません。そのために、私に主によりその章の中のすべてのものを、また続く章の中で言われている何らかのものを説明することが与えられました。世代の完了、その方の来臨、そして教会の継続的な荒廃について、また最後の審判についてであり、それらは『天界の秘義』に見られます(3353–3356, 3486–3489, 3650–3655, 3751–3757, 3897–3901, 4056–4060, 4229–4231, 4332–4335, 4422–4424, 4635–4638, 4661–4664, 4807–4810, 4954–4959, 5063–5071番)。

最後の審判

35◀︎目次▶︎37

36 さて、もし仁愛がないなら、何も信仰はないことについて何らかのものを述べます。
教会の教えの事柄が信じられているかぎり、このように信じる者のもとに信仰があると思われています。起しかし、単に信じることは信仰ではありません、信じられるものを欲することと行なうことが信仰です。
教会の教えの事柄は、単に信じられている時、人間のいのち(生活)の中にありません、彼の記憶の中にだけ、ここから人間の思考の外的なものの中にあり、彼の意志の中に、またここから行為(活動)の中に入る前には彼のいのち(生活)の中に入りません。その時、初めて(何らかのものが)人間の霊の中にあります。なぜなら、人間の霊は、そのいのち(生活)は人間のいのち(生活)そのものであり、彼の意志からです、そして意志から発出すればするほど、それだけ思考から形成されます――人間の記憶は、またここからの思考は、単に張り出し玄関であり、それを通って、導入が生じます。
[2]あなたが意志あるいは愛と言っても同じです、だれもが愛するものを意志し、意志するもの愛します。そして、意志は愛の容器であり、理解力は考えることであって、信仰の容器です。.人間は多くのものを知り、考え、理解することができます、しかし、彼の意志または愛と一致していないものは、自分ひとりにされて、自分の意志からまたは自分の愛から熟考するとき、自分自身から捨てます。それゆえ、身体の生活の後、霊の中で生きるときも、それらを捨てます。なぜなら、すぐ前に言われたように、彼の意志または愛の中に入るものだけが人間の霊の中に残るからです。他のものは、それらは彼の愛に属するものでないので、他に属するもののように見られ、死後、家から投げ出され、そして顧みられません。
[3]もし、人間がみことばからである教会の教えの事柄を信じるだけでなく、それらを意志し、それらを行なうなら、別の事柄であり、その時、信仰となります――というのは、信仰は、真理であるので真理を意志することによる真理への情愛であるから。なぜなら、真理であるので真理を意志することは人間の霊的なものそのものであるからです。というのは、真理のためでなく、自分の栄光・名声・利益のために真理を意志することである自然的なものから引き離されているから――というのは、そのようなものから引き離されて見られた真理は、その本で神的であるので、霊的なものであるからです――それゆえ、真理であるので真理を意志することは、神性を認めることと愛することです――これら二つのものは完全に結合しており、そしてまた天界の中で一つのもののように見られます、神性は天界の中の主から発出する神的な真理であるからです(著作『天界と地獄』128–132番参照)。それを受け入れ、自分のいのち(生活)のものにする者は天界の中の天使です。これらは、信仰は信じることだけでなく、欲することを行なうことであること、それゆえ、もし仁愛がないなら、何も信仰はないことが知られるために言われました――仁愛または愛は、欲することと行なうことです。

最後の審判

36◀︎目次▶︎38

37 今日、教会内に、ほとんど何らかのものが言われることができないように、これほどに信仰がまれであることは、学問のある者も単純な者も、多くの者から明らかです、その者の霊が、死後、世の中でどんな信仰であったか調べられます。また、それぞれの者が、信仰は単に信じ、自分自身にそのようであることを確信させることであると思っていたこと、また、さらに学問のあった者は、信頼または信任から、主の受難とその方の執り成しによって救われると信じるだけのことであったこと、また、ある者が仁愛または愛がないなら信仰は何もないことをほとんど知らず、それどころか、何が隣人に対する仁愛かも知らるなかったこと、考えることと意志することの間のその相違も知らなかったことがわかりました。起彼らからの大部分の者は、「仁愛は重要ではない、しかし信仰だけが重要である」と言って、仁愛を後ろに投げ返しました。
彼らに、仁愛と信仰は、意志と理解力のように一つのものであること、また仁愛は意志の中に、信仰は理解力の中に住むこと、一つをもう一つから分離することは、意志と理解力を分離するようであることが言われたとき、彼らはこのことを理解しませんでした。
ここから、今日、ほとんど何らかの信仰が存在しないことが明らかです。
このこともまた彼らに生き生きと示されました――信仰を持っているという信念の中にいた者が、そこに純粋な信仰があった天使の社会へ連れて来られ、その時、自分たちに何も信仰がないという伝達が与えられたことを明らかに知覚しました。その後、多くの者の前でもまた告白しました。
さらにまた同じことが他の方法で、彼らの面前で、信仰を告白した者が、信じていたことを自分自身に思い、仁愛である信仰の生活を生きなかったことが示されました。彼らからのそれぞれの者は、自然界の中に生きたとき、信仰が何らかの思考の中にだけ、生活の外にだけあって、彼らの霊のいのち(生活)の中になかったので、自分たちに何も信仰がなかったことを告白しました。

最後の審判

37◀︎目次▶︎39

38 今日の教会はこのような状態です、すなわち、仁愛がないのでそこに信仰がないことです。また仁愛がないところに、そこに何らかの霊的な善もありません、なぜなら、その善はひとえに仁愛からであるからです――天界から、「ある者のもとに依然として善がある、しかし、それは霊的な善と言われることができず、自然的な善である。その理由は、神的な真理そのものはやみ・・の中にあり、神的な真理が仁愛へ導くからである、というのは、仁愛を教え、仁愛を善への目的として眺めるから。ここから仁愛は、それらから真理があるような仁愛以外の他のものは存在することができない」と言われました――神的な真理は、それらから教会の教えがありますが、信仰だけに目を向けています、そのために、信仰の教えと呼ばれ、またいのち(生活)に目を向けています。真理は、信仰だけに目を向け、いのち(生活)に目を向けず、人間を霊的なものにつくることができません。いのち(生活)の外にあるかぎり、他の事柄のように、単に知られ、考えられる単に自然的なものです――ここから、今日、霊的な善は存在しないで、ある者のもとに単に自然的な善が存在します。
[2]さらに、すべての教会は、最初は霊的です、というのは、仁愛から始まるからです。しかし、時の経過とともに仁愛から信仰へ逸れ、その時、内なる教会から外なる教会になりました。外なる教会になる時、その終わりがあり、その時、すべてのものを知識と見なし、いのち(生活)の中にわずかなものを、もしかしたら何も見いださないからです――また人間が内なるものから外なるものになればなるほど、それだけ彼のもとで霊的な光は、神的な真理を真理そのものから、すなわち、天界の光から見ないまでも、暗黒の中に置かれます、というのは、天界の光は神的な真理であるのに、自然的な光だけからしか見ないから。自然的な光は、単独なとき、霊的な光から照らされていないとき、このようなものであり、神的な真理を夜の中のように見て、高位聖職者からこのようであると言われ、そして一般の集団に受け入れられたので、真理であるかどうか別の出所から知ることもありません――ここから、彼らの理解力は主から照らされることができません。なぜなら、自然的な光が理解力の中で輝けば輝くほど、それだけ霊的な光は暗くされるからです。
世俗的で物的で地的なものが、霊的で天的で神的なものよりも愛される時、自然的な光は理解力の中で輝きます。それだけ、人間もまた外なるものです。

最後の審判

38◀︎目次▶︎40

39
 しかし、キリスト教界の中に、仁愛がないなら信仰がないこと、隣人に対する仁愛が何かも知られておらず、意志が人間そのものをつくること、そして意志から得れば得るほど、それだけ彼の思考をつくることさえも知られていないので、それゆえ、それらの事柄が理解力の光の中にやって来るために、それらについて、私は、それらを明らかにすることに役立つことができる『天界の秘義』からの「抜粋」をここに付け加えます。

『天界の秘義』から

信仰について

何かが生み出されるために、全世界のすべてのものは真理と善に、またその二つのものの結合に関係することを知らない者は、教会が人間のもとに存在するために、教会のすべてのものは信仰と愛に、その二つのものの結合に関係することを知らない(7752–7762, 9186, 9224番)。
全世界のすべてのものは、真理と善に、その二つのものの結合に関係する(2452, 3166, 4390, 4409, 5232, 7256, 10122, 10555番)。真理は信仰に属し、善は愛に属する(4352, 4997, 7178, 10367番)。
[2]人間が人間となるために、人間のすべてと個々のものは理解力と意志に、その二つのものの結合に関係することを知らない者は、教会が人間のもとに存在するために、教会のすべてのものは信仰と愛に、その二つのものの結合に関係することを知らない(2231,7752-7754, 9224, 9995, 10122番)。人間に二つの能力があり、その一つは理解力、もう一つは意志と呼ばれる(641, 803, 3623, 3539番)。理解力は真理を受け入れ、このように信仰のものを受け入れるように割り当てられ、意志は善を受け入れ、このように愛のものを受け入れるように割り当てられている(9300, 9930, 10064番)。
ここから、信仰のみでなく、すなわち、仁愛から分離された信仰でなく、愛または仁愛が教会をつくることがいえる(809, 916, 1798, 1799, 1834, 1844, 4766, 5826番)。

[3]仁愛から分離した信仰は決して信仰ではない(654, 724, 1162, 1176, 2049, 2116, 2343, 2349, 2417, 3849, 3868, 6348, 7039, 7342, 9783番)。
このような信仰は来世で滅びる(2228, 5820番)。
信仰のみについての教えは仁愛を滅ぼす(6353, 8094番)。
信仰を仁愛から分離する者は、みことばの中のカイン、ハム、ルベン、エシプトの初子、ペリシテ人によって表象された(3325, 7097, 7317, 8093番)。
仁愛がやめばやむほど、それだけ信仰のみについての宗教(宗派)が強くなる(2231番)。
教会は時間の経過〔とともに〕仁愛から信仰へ、最後に信仰のみへ逸れる(4683, 8094番)。
教会の最後の時、仁愛が何もないので信仰は何もない(1843, 3488, 4689番)。
信仰のみが救うとする者は、悪の生活を許す。悪の生活にいる者には、仁愛がないので、何も信仰がない(3865, 7766, 7778, 7790, 7950, 8094番)。
彼らは内部で自分自身の悪の虚偽の中にいる、たとえこれを知らなくても(7790, 7950番)。
それゆえ、彼らに善は結合されることができない(8981, 8983番)。
来世でもまた彼らは善に反対し、善にいる者に反対する(7097, 7127, 7317, 7502, 7545, 8096, 8313番)。
賢明な者よりも心で単純な者は、生活の善が何か、このように仁愛が何か知っており、分離した信仰が何か知らない(4741, 4754番)。

[4]善はエッセであり、真理はここからのエキシステレである。このように信仰の真理は自分のエッセを仁愛の善から持つ(3049, 3180, 4574, 5002, 9154番)。
ここから、信仰の真理は仁愛の善から生き、そのように信仰の生活は仁愛である(1589, 1947, 2571, 4070, 4096, 4097, 4736, 4757, 4884, 5147, 5928, 9154, 9667, 9841, 10729番)。
信仰に属するものを単に知り、考えるだけのとき、信仰は人間のもとで生きていない、しかし、それらを欲し、欲することからそれらを行なうとき、生きている(9224番)。
人間との主の結合は信仰によってではなく、仁愛である信仰の生活によってである(9380, 10143, 10153, 10578, 10645, 10648番)。
仁愛の善からの礼拝は真の礼拝である。しかし、仁愛の善なしの信仰の真理から〔の礼拝〕は外的な活動である(7724番)。

[5]信仰のみ、すなわち、仁愛から分離した信仰は、冬の光のようであり、その中では地のすべてのものが麻痺し、何も生み出されない。しかし、仁愛と一緒の信仰は、春と夏の光のようであり、その中で、すべてのものが花咲き、生み出される(2231, 3146, 3412, 3413番)。
仁愛から分離した信仰のものである冬の光は、来世の中で、天界から光が流入するとき、濃い暗やみに変わる。その信仰の中にいる者は、その時、盲目と愚鈍の中にやって来る(3412, 3413番)。
仁愛から信仰を分離する者は、暗やみにおり、そのように真理の無知の中に、ここから虚偽の中に〔いる」、なぜなら、これらは暗やみであるから(9186番)。
彼らは自分自身を虚偽の中に、そこから悪の中に投げ込む(3325, 8094番)。
誤りと虚偽、その中へ自分自身を投げ込む(4721, 4730, 4776, 4783, 4925, 7779, 8313, 8765, 9224番)。
みことばは彼らに閉ざされている(3773, 4783, 8780番)。
彼らは主が愛と仁愛について、これほど何度も語られたそれらのすべてを見ないし、留意もしない(それらについては1017,3416番)。彼らは善が何かも、天界的な愛が何かも、仁愛が何かも知らない(2517, 3603, 4136, 9995番)。
[6]仁愛は教会をつくる、仁愛から分離した信仰は〔つくら]ない(809, 916, 1798, 1799, 1834, 1844番)。
仁愛が第一の位置に見られるなら、どれほど多くの善が教会の中に〔あるだろうか〕(6269, 6272番)。
仁愛がその本的なものであったなら、一つの教会であり、多くのものに分裂しなかった〔であろう〕。
その時、信仰の教えの事柄や外的な礼拝が異なっても、何も問題とならなかったであろう(1285, 1316, 2385, 2853, 2982, 3267, 3445, 3451, 3452)
すべての者は天界の中で仁愛から見られ、だれも仁愛なしの信仰から見られない(1258, 1394, 2364, 4802番)。

[7]主の十二弟子は、同様にイスラエルの十二の種族もまた、すべての信仰と仁愛の統一体としての教会を表象した(2129, 3354, 3488, 3858, 6397番)。
ペテロ、ヤコブ、ヨハネは、その順序で、信仰、仁愛、仁愛の善を表象した(3750番)。
ペテロは信仰を〔表象した〕(4738, 6000, 6073,6344, 10087, 10580番)。ヨハネは仁愛の善を〔表象した〕(「創世記」第18章と第22章の序言)。
〔教会の〕最後の時には、仁愛がないので、主への信仰もないことは、にわとりが二度鳴く前に、ペテロが三度、主を否定したことによって表象された。というのは、そこにペテロは表象的な意味では信仰であるから(6000, 6073番)。
「夜明け」と等しく「おんどりの鳴く時」は、みことばでは教会の最後の時を意味する(10134番)。
「三」または「三度」は終わりまで完成したものを意味する(2788, 4495, 5159, 9198, 10127番)。
同様のことが、主がペテロに言われたことによって意味される、ペテロが主に従ったヨハネを見たとき、「ペテロよ、〔それは〕あなたにとって何か」、「ヨハネよ、あなたはわたしに従いなさい」。というのは、ペテロはヨハネについて、「これは何か〔この人はどうなのか〕」と言ったからである(ヨハネ21:21, 22)(10087番)。
ヨハネは仁愛の善を表象したので、主の胸に寄り掛った(3934, 10081番)。
みことばの中の人物と場所のすべての名前は、それらから抽象された事柄を意味する(768, 1888, 4310, 4442, 10329番)。

仁愛について

[8]天界は二つの王国に区別され、それらの一つは天的な王国、もう一つは霊的な王国と呼ばれる。天的な王国の中の愛は主への愛であって、天的な愛と呼ばれ、霊的な王国の中の愛は隣人に対する愛であって、霊的な愛と呼ばれる(3325, 3653, 7257, 9002, 9835, 9961番)。
(天界はこれら二つの王国に区別されていることは著作『天界と地獄』20–28番、また天界における主の神性はその方への愛と隣人に対する仁愛であることは同書13–19番参照。)
[9]主への愛と隣人に対する愛が何か知られないなら、善が何か、真理が何か知られない。すべての善は愛のものと仁愛のものであり、すべての真理は善のものであるからである(7255, 7366番)。
真理のために、すなわち、真理であるので、真理を知り、真理を欲し、真理に感動することは仁愛である(3876, 3877番)。
仁愛は真理を行なう内なる情愛の中にあり、それらなしの外なる情愛の中にない(2429, 2442, 3776, 4899, 4956, 8033番)。
そのように、仁愛は役立ちのために役立ちを実践することにあり、その性は役立ちにしたがっている(7038, 8253番)。
仁愛は人間の霊的ないのち(生活)である(7081番)。
みことば全体は愛と仁愛の教えである(6632, 7262番)。
今日、仁愛が何か知られていない(2417, 3398, 4776, 6632番)。
それでも、人間は自分の理性の光から愛と仁愛が人間をつくることを知ることができる(3957, 6273番)。
なおまた、善と真理とは一致し、そして、一方はもう一方のものに属し、愛と信仰もそのよう〔である〕(7627番)。
[10]主は最高の意味における隣人である、その方はすべてのものにまさって愛されなくてはならないからである。ここから、その方からのもの、その方がその中におられるすべてのものは、そのように善と真理は、隣人である(2425, 3419, 6706, 6819, 6823, 8124番)。
善の性にしたがって、そのように主の臨在にしたがって、隣人の相違がある(6707–6710番)。
すべての人間は、すべての社会は、なおまた祖国と教会は、そして普遍的な意味で、主の王国は隣人であり、それらの状態の性にしたがって、愛の善からそれらに善を行なうことは、隣人を愛することであり、そのように、隣人はそれらの善であって、それに意を用いなくてはならない(6818–6824, 8123番)。
さらにまた、公正である市民的な善と社会の中の生活の善である道徳的な善は、隣人である(2915, 4730, 8120–8122番)。
隣人を愛することは人物を愛することではない。しかし、彼のもとにあって、そこからその人物〔が隣人]となっているものを、そのように善と真理を愛することである(5028, 10336番)。
人物を愛して、その人物のもとにあって、そこからその人物〔が隣人」となっているものを愛さない者は、善と悪を等しく愛する(3820番)。
また、彼らは善い者と等しく悪い者にも善を行なう、そのときそれでも、悪い者に善を行なうことは、善い者に悪を行なうことであって、それは隣人を愛することではない(3820, 6703, 8120番)。
悪い者が矯正されて、善い者が彼らにより汚されないように、悪い者を罰する裁判官は隣人を愛する(3820, 8120, 8121番)。

[11]隣人を愛することは、すべての働きの中で、すべての職務の中で、善・公正・正直を行なうことである(8120–8122番)。
ここから、隣人に対する仁愛は人間が考え、欲し、行なうすべてと個々のものにひろがっている(8124番)。
善と真理のために善と真理を行なうことは隣人を愛することである(1010, 11336番)。
このことを行なう者は、最高の意味における隣人である主を愛する(9210番)。
仁愛の生活(いのち)は主の戒めにしたがった生活(いのち)である。そのように神的な真理にしたがって生きることは主を愛することである(10143, 10153, 10310, 10578, 10645番)。

[12]純粋な仁愛は功績を求めるものではない(2027, 2343, 2400, 3887, 6388-6393番)――内なる情愛から、そのように善を行なう快さからであるから(2373, 2400, 3887, 6388–6393番)。
仁愛から信仰を分離する者は、来世で、信仰を、また外なる形の中で行なった善い働きを、功績を求めるものにする(2373番)。
[3]古代教会の教えは生活(いのち)の教えであった。それは仁愛の教えである(2385, 2417, 3419, 3420, 4844, 6628番)。
教会からの古代人は、仁愛の善を秩序づけ、種類に区別し、個々のものに名前をつけた。そこから、彼らに知恵が〔あった(2417, 6629, 7259–7262番)。
世の中で仁愛の生活に生きた者のもとにある知恵と知性は、来世で無限に増大する(1941, 5859番)。
主は、人間のいのち(生活)そのものの中へ流入されるので、神的な真理とともに仁愛の中へ流入される(2036番)。
仁愛と信仰の結合した者のもとで、そのとき人間は庭園のようである、しかし、結合していない〔者のもとで〕そのとき荒野のようである(7626番)。
人間は、仁愛から去れば去るほど、それだけ知恵から去る(6630番)。
仁愛の中にいない者は、どれほど自分を賢明であると信じても、神的な真理について無知の中にいる(2417, 2435番)。
天使の生活は、役立ちである仁愛の善を実践することにある(454番)。
霊的な天使は仁愛の形である(553, 3804, 4735番)。

意志と理解力について

[14]人間には二つの能力があり、一つは意志と呼ばれ、もう一つは理解力と呼ばれる(35, 641, 3539, 3623★1 , 10122番)。
その二つの能力は人間そのものをつくる(10076, 10109, 10110, 10264, 10284番)。
人間のもとのそれら二つの能力がどのようなものであるかによって、彼はそのようなものである(7342, 8885, 9282, 10264, 10284番)。
それらのものによって人間は獣から区別される。その理由は、人間の理解力は主により高揚されて、神的な真理を見、同じく意志も〔高揚されて〕、神的な善を知覚し、このように人間は人間をつくる自分の二つの能力によって主に結合されることができるからである。けれども、獣は異なって〔いる〕(4525, 5114, 5302, 6323, 9231番)。
また、人間は獣よりもそれらの能力の中にいるので、彼の霊である自分の内的なものに関して死ぬことができない、しかし、永遠に生きる(5302番)。

[15]全世界のすべてのものは善と真理に関係する(ように)、そのように人間のもと〔のすべて〕のものは意志と理解力に関係する(803, 10122番)。
理解力は真理の容器であり、そして意志は善の容器であるからである(3332, 3623, 5232★2 , 6065, 6125, 7503, 9300, 9930番)「あなたが真理と言うも、あるいは信仰と言うも、同じことになる、なぜなら、信仰は真理に属し、真理は信仰に属するからである。また、あなたが善と言うも、あるいは愛と言うも、同じことになる、なぜなら、愛は善に属し、善は愛に属するからである。というのは、人間は信じるものを、これを真理と言い、愛するものを、これを善と言うから(4353, 4997, 7178, 10123, 10367)
ここから、理解力は信仰の容器であること、また意志は愛の容器であることがいえる(7179, 10122, 10367番)。
人間の理解力は主への信仰を受け入れ、そして意志は主への愛を受け入れることができるので、信仰と愛によって主に結合されることができる。信仰と愛とによって主に結合されることができる者は永遠に死ぬことができない(4525, 6323, 9231番)。

[16]人間の意志は、愛のまたは善の容器であるので人間のいのちのエッセそのものである。理解力は信仰または真理の容器であるので、そこからいのちのエキシステレである(3619, 5002, 9282番)。
このように意志のいのちは人間の主要ないのちである。理解力のいのちはそこから発出する(585, 590, 3619, 7342, 8885, 9282, 10076, 10109, 10110番)同様に、火または炎からの光のよう〔である〕(6032, 6314番)。
理解力に入ると同時に意志に入るものは、人間のものとされる。けれども、単に理解力に〔入る〕もの〔は、そうなら〕ない(9009, 9069, 9071, 9133, 9182, 9386, 9393, 10076, 100109, 101104番)。
意志に受け入れられるものは、それは人間のいのち(生活)に属するものになる(3161, 9386, 9393番)。
ここから、人間は意志から、ここからの理解力〔から〕人間であることがいえる(8911, 9069, 9071, 10076, 10109, 10110番)。
人間はだれでも自分の意志の善とそこからの理解力〔の善」にしたがって他の者から愛され、尊重される。というのは、善く意志し(欲し)、善く理解する者は愛され、尊重される、しかし、善く理解するが、善く意志しない(欲しない)者は拒否され、さげすまれるから(8911, 10076番)。

人間は死後もまた、彼の意志とそこからの理解力であるようにとどまる(9069, 9071, 9386, 10153番)。
理解力に属し、同時に意志に属さないものは、その時、人間の中に存在しないので消える(9282番)。
あるいは、同じことになるが、人間は死後、彼の愛とそこからの信仰のように、または彼の善とそこからの真理のようにとどまる。信仰に属し、同時に愛に属さないものは、すなわち、それは真理に属し、同時に善に属さないものは、その時、人間の中になく、そのように人間に属さないので消える(553, 2363, 10153番)。

人間は、意志から行なわないものを理解力で把握することができる、すなわち、彼の愛に反するので意志することができないものを理解することができる(3539番)。
人間は考えることと意志することの間を区別することをほとんど知らない、その理由(9995番)。

[17]理解力と意志が一つのものとして働かない者は、どれほどゆがんだ状態であるか(9075番)。
偽善者・欺く者・追従者・偽る者のもとにそのような状態がある(2426, 3573, 4799, 8250番)。

[18]善の意志とここから真理の理解力のすべてものは主からである。そのように、善の意志から分離した真理の理解力〔は主から」ではない(1831, 3514, 5482, 5649, 6027, 8685, 8701, 10153番)。
主から照らされるものは理解力である(6222, 6608, 10659番)。
理解力は、人間が真理を意志に受け入れるかぎり、すなわち、その真理にしたがって行動することを意志する(欲する)かぎり、照らされる(3619番)。
世からの光が視覚に〔ある〕ように、理解力に天界からの光がある(1524, 5114, 6608, 9128番)。
理解力は、善からの真理のようなものであり、それらから形作られる(10064番)。
理解力は善からの真理にからものである、けれども、悪からの虚偽からのものではない(10675番)。
理解力は、経験と知識に属するものから、真理・物事の原因・関連・連鎖の中で結果を見ることである(6125番)。
理解力は、確信する前に、真理かどうかを、見ることや知覚することである、けれども、どんなものでも確信することができることではない(4741, 7012, 7680, 7950, 8521, 8780番)。
確信する前に、真理であるかどうかを、見ることや知覚することは、真理のために真理に感動する者にだけに与えられる、そのように、霊的な光の中にいる者に〔だけに与えられる〕(8780★3 番)。
確信の光は自然的な光であり、悪い者のもとにもまたありうる(8780番)。
すべての教義は、虚偽もまた、真理のように見えるまでにも、確信されることができる(2385, 4741, 5033, 6865, 7950番)。


★1 ここに3623を追加するとよいと思います。
★2 ここに5332とあり、誤植と思えます。一字違いの5232がよいと思います。
★3 ここに8521とありますが、この番号のほうが内容としてふさわしいです。

最後の審判

39◀︎目次▶︎41


(7)「黙示録」に予言されているすべてのものは、今日、成就した

40 「黙示録」の中に含まれているそれらすべてのものが何を意味し、含んでいるか、みことばの内的な意味、すなわち、霊的な意味を知らないなら、だれも知ることができません。なぜなら、何でもそこにあるものは、旧約の預言と似た文体で書かれているおり、それらの中でそれぞれのことばは霊的なものを意味し、それは文字どおりの意味の中に見られないからです――さらに、「黙示録」の中にあるそれらは、霊的な意味に関して、教会がその終わりまで通過したとき、どのように〔なる〕か知る者からでないなら、説明されることもできません、これは天界の中でないなら知られることができません、「黙示録」の中に含まれているものです――というのは、みことばのどこでも霊的な意味では霊界について、すなわち、天界の中でも地上でも教会の状態について、扱われているから。ここから、みことばは霊的なものと神的なものです――その状態が、適切な順序で、そこに説明されています。
ここから、「黙示録」の中に含まれているものは、天界の中の連続的な教会の状態について、啓示されている者でないなら、ある者により決して説明されることができないことを明らかにすることができます――というのは、天界の中と等しく地上に教会があるからであり、それについては続くものの中で何らかのものが言われます。

最後の審判

40◀︎目次▶︎42

41
 地上の主の教会がどんなものであるか、まして時の進行とともにどのように善から悪へ逸れたか、人間のだれかにより見られることは、彼が世の中で生きるかぎりできません――その理由は、人間が、世の中で生きる時、外なるものの中にいて、それらがその自然的な人間の前に明らかでないなら見ないからです。けれども、教会がその内なるものである霊的なものに関してどんなものであるか、世の中で見られません。しかし、天界の中で、明るい日の光の中のように、天使は霊的な思考の中に、そしてまた霊的な視覚の中にいるので、見られます。ここから天使は霊的なものしか見ません。さらに、前に示されたように、創造の最初から世の中に生まれたすべての人間はそこに一緒にいます、そしてまた、そこのすべての者は愛と信仰の善にしたがって社会の中に区別されています(著作『天界と地獄』(41–50番)参照)。ここから、教会の状態は、そしてまたその進行は、天界の中で天使の前に明ら。かです。
[2]さて、愛と信仰に関する教会の状態が「黙示録」の中に、その霊的な意味の中で述べられているので、それゆえ、ある者に天界から啓示されていないなら、同時に、みことばの内意、すなわち、霊的な意味を知ることが与えられていないなら、その者に、そこにすべてのものが連続して何が含まれているか知ることができません。
このことを私は断言できます、そこの個々のものは、それぞれのことばまでも、本的に霊的な意味を含んでいること、その意味の中に、教会のすべてのものが、その霊的な状態に関して、最初から終わりまで十分に述べられていること――それぞれのことばは、そこに霊的なものを意味するので、それゆえ、どのことばも、内意の中で事柄の連鎖がここから変化を被るので、欠けることができないことです。それゆえに、その書の終わりに言われています、

もし、だれかがこの預言の書のことばから取り去るなら、神は、いのちの書から、その聖なる都から、その「書」の中に書かれているものから、彼の分を取り去る(22:19)。

[3]旧約の「みことばの書」も同様です。
それらの中にもまた、それぞれの事柄は、それぞれのことばは、内意、すなわち、霊的な意味を含んでいます。そのために、そこに何らかのことばは取り去られることができません。
ここから、主の神的な摂理からそれらの書は、その書かれた時からイオタ(一点)までも完全に保存され、多くの者の苦労によって、そこに最も個々のものをの数を確かめました。このことは主により、イオタ(一点)・文字・ことば・事柄それぞれのものに、そこに内在する神聖さのために備えられました。

最後の審判

041◀︎目次▶︎043

42
「黙示録」の中のすべてのことばに、同様に内意、すなわち、霊的な意味が内在し、その意味は天界の中と地上の教会の状態のアルカナを含み、それらは、その意味を知った者、同時に、天使と交わりを持ち、彼らと霊的に話すことが与えられている者でないなら、その者に啓示されることができないので、それゆえ、そこに書かれているものが人間の前に隠されないように、また今後、理解されないために見捨てられないように、私に、そこに含まれているものが明らかにされました。それらは大量なので、この小著の中で述べることができません。それゆえ、私はその書〔黙示録〕の全部を最初から最後まで解説し、その内部にある秘義(アルカナ)を明らかにしたいと思っています――その解説は「ダニエル書」の中の何らかのものと一緒に二年以内に出版しま 。それらは霊的な意味が知られなかったために、これまで隠されていたものです。


★ 本書『最後の審判』の出版は1758年です。これは『黙示録講解』のことを述べており、この著述の開始は(おそらく)1757年から(1759年まで)です。これは出版されず、その後、1766年に『啓示された黙示録』となって出版されました。

最後の審判

042◀︎目次▶︎044

43
 内意、すなわち、霊的な意味を知らない者は、「黙示録」の中の「竜」によって、ミカエルとその天使と竜との「戦い」によって、天界から星の三分の一を引き下ろした竜の「尾」によって何が、男の息子を生んだ「女」によって――その息子は神へ取り上げられ、その者を竜が迫害した―このように多くの角をもつ「海から上がって来た獣」、「地から上がって来た獣」によって何が、地の王たちと淫行した「淫婦」によって何が、第一と第の「復活」によって、そして「千年」によって何が、竜・獣・偽預言者が投げ込まれた「硫黄と火の池」によって何が、「白い馬」によって、なおまた過ぎ去った「最初の天や最初の地」によって何が―前のものに代わって「新しい天と新しい地」によって何が、そしてもはやない「海」によって、なおまた「天から下って来た新しい都エルサレム」によって、そしてその「尺度」、「壁」、「門」、また「貴重な石からの土台」によって何が、いろいろな「数」によって何が意味されるか、決して推量することができません。加えて他のものも、それらは、みことばの霊的な意味について何も知らない者にとって最も深いアルカナです。しかし、その書〔黙示録]の個々のものについて約束された解説の中で明らかにされて見られるでしょう。


「第2の復活」について
「黙示録」20:5に「これが第一の復活である」とあります。そして「第二の復活」についてはどこにもありません。『啓示された黙示録』851番には「いのちへの復活は一度以外になく、第二のものは存在しない。それゆえ、第二の復活はどこにも言われていない」とあります。「黙示録」20:6, 21:8には「第二の死」があるので、これと取り違えたか、言葉足らずだったのかもしれません。本書の59[4]参照。

最後の審判

043◀︎目次▶︎045

44
 天界的な意味で、そこに含まれているすべてのものが、今や、成就したことをあらかじめ述べました。
私は、この小著の中で最後の審判について何らかの全般的なものを述べます。滅ぼされたバビロニア、過ぎ去った最初の天と最初の地、新しい天と新しい地、新しいエルサレムについて、すべてのものが今やなし遂げられたことが知られるためにという理由からです――しかし、特定のものについては「啓示の書」の記述にしたがって個々のものが解説されないなら、述べることはできません。

最後の審判

44◀︎目次▶︎46

(8)最後の審判はなし遂げられた

45 前に、最後の審判は地上でなく、すべての者が創造の最初から一緒にいる霊界の中で存在するようになることが、その章の中に示されました。最後の審判が完成したとき、そのようであることは、人間のだれかの思考にやって来ることができないからです、というのは、それぞれの者がそのことを地上に、一緒にその時、目の前の天の中に、また地上に、そこの人類とともに〔目に見える〕すべての変化を期待しているからです。
そこで、人間が無知の中に生きて、このような信念の中にいないように、最後の審判について考える者が、それを永久に待ち、ここからそれらについて、みことばの文字どおりの意味で言われたその信念が滅び、おそらく、それゆえついに、多くの者がみことばからの信仰から引き下がらないように、私に自分の目で、最後の審判が今や完成し、悪い者が地獄の中に投げ込まれ、そして善い者が天界の中に上げられたこと、このようにすべてのものが秩序の中に戻され、ここから善と悪の間に、すなわち、天界と地獄の間にある霊的な均衡が回復されたことを見ることが与えられました。
どのように最後の審判が完成したか、最初から最後まで、なおまた、どのようにバビロニアが滅ぼされたか、そのようにまた「竜」によって意味される者がどのように深淵の中に投げ込まれたか、なおまた、どのように新しい天が形成され、天界の中に「新しいエルサレム」によって意味される新しい教会が設立されたかも、私に見ることが与えられました。これらすべてのものが私に、私が証言することができるようにとの目的のために自分の目で見ることが与えられました。この最後の審判は前年の1757年の最初に始められ、その年の終わりに完全になし遂げられました。

最後の審判

45◀︎目次▶︎47

46
 しかし、最後の審判は主の時からこの日まで生きた者の上に行なわれ、それ以前に生きた者に行なわれたのではないことを知らなくてはなりません。
というのは、この地球上に最後の審判は、以前、2度存在したからです。一つは、みことばの中で「洪水」によって描かれているもの、もう一つは、主ご自身により世の中で行なわれたものであり、主のことばによってもまた意味されています、

今がこの世のさばきです、今、この世の君主が外へ投げ出されます(ヨハネ12:31)。

また他のところに、

あなたがたがわたしにあって平和を持つように、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました……信頼しなさい。わたしは世に勝ちました(ヨハネ16:33)。

そしてまた、「イザヤ書」のこれらによって、

エドムからやって来る者……自分の大いなる力の中で進んで行く……救うに力強い、この者はだれか?わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ….このために、わたしはわたしの怒りの中で彼らを踏んだ……ここから彼らの勝利〔の血〕がわたしの衣の上に降りかかった。なぜなら、わたしの心の中に復讐の日が[あり]、わたしのあがないの年がやって来るから。……それゆえ、救い主となられた(イザヤ63:1–8)。

またもっと多く他のところに。
[2]この地球上に、以前、二度、最後の審判が存在した理由は、(前の章の中で示されたように)すべての審判は教会の終わりの中で存在するようになるからです。この地球上に二つの教会がありました。第一の教会は洪水前、第二の教会は洪水後です。
洪水前の教会は「創世記」第一章の中に、天と地の新しい創造と楽園によって、その終わりは知識の木から食べることによって、そしてその後、詳細に描かれています。また、最後の審判は洪水によって、そのすべてのものは純粋な対応によってみことばの文体にしたがって、その内意、すなわち、霊的な意味で描かれました。「天と地の創造」によって、新しい教会の設立が意味されます(前の第一章に見られます)。「エデンの中の楽園」によってその教会の天的な知恵が、「知識の木」によっての教会を破壊した記憶知が、似たものがそこの「ヘビ」によって、「洪水」によってその教会からの者の上の最後の審判が意味されます。
[3]けれども、洪水後にあった第二の教会は、みことばの箇所の中の何らかのものによってもまた描かれています(例えば、「申命記」32:7–14、また他の箇所に)――これがアジアの多くの世界を通して広がり、またヤコブからの子孫のもとに続きました。その終わりは、主が世の中にやって来たときでした。その方により、その時、その教会の設立の最初からのすべての者の上に、また一緒に、その時、最初の教会からの残りの者の上に最後の審判が行なわれました。
主は、天界の中のすべてのものを、天界によって地のすべてのものを秩序づけ、同時に、ご自分の人間性を神的なものにする目的のために世に来られました。それが行なわれなかったなら、だれも救われることができませんでした。
主の来臨の前に、この地球の中に二つの教会があったこ*1 、主が世の中に、天界の中のすべてのものを秩序づけ、それによって地のすべてのものを、そしてご自分の人間性を神的なものにするためにやって来られたこ*2は『天界の秘義』の中のいろいろな箇所に示されており、それらからの抜粋がこの章の終わりに見られま**
この地球の第三の教会は、キリスト教の教会です。この教会の上に、また同時に、主の時から最初の天の中にいたすべての者の上に最後の審判が行なわれ、そのことについて今から扱います。


*1 この地球上にあった最初で最古代の教会は、「創世紀」の最初の数章の中に描かれており、天的な教会であり、すべての教会の主要なものであった(607, 895, 920, 1121–1124, 2896, 4493, 8891, 9942, 10545番)。
その教会からの者は、天界の中でどんなものであるか(1114–1125番)。
彼らはそこの最高度の光の中にいる(1117番)。
洪水後にいろいろな教会があり、それは一つの言葉で古代教会と呼ばれた(1125–1127, 1327, 10355番)。
古代教会そのものが、どれほど多くのアジアの王国を通してひろまったか(1238, 2385番)。
古代教会の人間はどんなものであったか(609, 895番)。
古代教会は表象的な教会であった(519, 521, 2896番)。
古代教会は、わきへ逸れることが始ったときどんなものであったか(1128番)。
最古代教会と古代教会との間の相違(597, 607, 640, 641, 765, 784, 895, 4493番)。
エベルから始まった教会について、それはヘブル教会と呼ばれた(1238, 1241, 1343, 4516, 4517番)。
古代教会とヘブル教会との間の相違(1343, 4874番)。
ヤコブの子孫、すなわち、イスラエル民族のもとに設立された教会について(4281, 4288, 4310, 4500, 4899, 4912, 6304, 7048, 9320, 10396, 10526, 10535, 10698番)。
イスラエル民族のもとに命じられた法令・判決・法は、一部に関して古代教会の中のものと似ていた(4449番)。
イスラエル民族のもとに設立された教会の表象的な儀式は、古代教会の表象的な儀式から、どのように異なったか(4288, 10149番)。
最古代教会では天界から直接の啓示があった。古代教会では対応によって、イスラエル民族のもとの教会では生きた声で、キリスト教会では、みことばによって啓示があった(10355番)。
主は最古代教会の、そしてまた古代教会の神であり、エホバと呼ばれた(1343, 6846番)。

*2 主は世におられたとき、天界の中と地獄の中のすべてのものを秩序づけられた(4075, 4287, 9937番)。
その時、主は霊界を洪水以前の者から解放された(1266番)。
彼らはどのようなものであったか(310, 311, 560, 562, 563, 570, 581, 586, 607, 660, 805, 808, 1034, 1120, 1265–1272番)。
主は試練と勝利を通して地獄を征服し、そしてすべてのものを秩序づけ、同時にご自分の人間性を栄化された(4287, 9937番)。
主はご自分から、すなわち、プロプリウムの力から、それを行なわれた(1692, 9937番)。
主おひとりが戦われた(8273番)。
ここから主おひとりが義(公正)と功績になられた(1813, 2025–2027, 9715, 9809, 10019番)。
主はこのようにご自分の人間性を神性と結合された(1725, 1729, 1733, 1737, 3318, 3381, 3382, 4286番)。
十字架の受難は最後の試練と完全な勝利であり、それによって、ご自分を栄化された、すなわち、ご自分の人間性を神性にされ、そして地獄を征服された(2776, 10655, 10659, 10828番)。
主は神性それ自体に関して誘惑されることはおできにならなかった(2795, 2803, 2813, 2814番)。
それゆえ、〔主は]母から人間性をとられ、その中に試練を許された(1414, 1444, 1573, 5041, 5157, 7193, 9315番)。
母から受け継いだすべてのものを追い出し、ついにその息子でなかったようにまで、それらからの人間性を脱ぎ捨て、神的人間性をまとわれた(2159, 2574, 2649, 3036, 10830番)。
主は、地獄の征服によって、またご自分の人間性の栄化によって、人間を救われた(4180, 10019, 10152, 10655, 10659, 10828番)。

** これらの抜粋(*1と*2)はこの部分に移しました。

最後の審判

46◀︎目次▶︎48

47
 どのようにこの最後の審判が行なわれたかは、長くなるので、この小著の中で詳細に述べることはできません。しかし、『黙示録についての解 』の中で述べます。
というのは、審判はキリスト教会からのすべての者の上に行なわれただけでなく、この地球上のイスラム教徒のすべての者、そしてまた、異教徒のすべての者の上に、この順で行なわれたからです――最初にローマカトリック教からの者、その後、イスラム教徒、その後、異教徒、最後に改革派教会の者の上にです。
ローマカトリック教からの者への審判については、これに続いて「滅ぼされたバビロニアについて」の章で、改革派教会の者への審判については、「過ぎ去った前の天について」の章に見られます。けれども、イスラム教徒と異教徒への審判は、この章で言います。


★ 当時スヴェーデンボリは『黙示録講解』を執筆中でした。

最後の審判

47◀︎目次▶︎49

48 審判が行われたすべての国民と民族の配列は、霊界の中で、以下のように見られました。
改革派と呼ばれる者が中央に集められて、そこに彼らの祖国にしたがって分けられているのが見られました。ドイツ人はそこの北方、スウェーデン人はそこの西方、デンマーク人は西、オランダ人は東方と南方、イギリス人は中央です。
この中央の場所にすべての改革派教会の者がいたその全体の周囲に、ローマカトリック教からの者が集められ、その最大の部分の者は西の方位に、ある者は南に見られました。
彼らを越えてイスラム教徒がいて、さらにまた、彼らの祖国にしたがって分けられました。その時、すべての者は南に近い西に見られました。彼らを越えて、莫大な数の異教徒が集められ、それらはこのように周囲そのものを構成しました。これらの外に、海のようなものが見られ、それは境界でした。国民がこのような方位にしたがった順序であったことは、神的な真理を受け入れているそれぞれ者の共通な能力にしたがっていました。そのため、霊界の中で、それぞれの者が住んでいるそこの方位と場所から、そしてまた多くの者とともに社会の中に滞在している相対的な方位から知られます(それらの事柄については著作『天界と地獄』(148, 149番)参照)。
場所から場所へ行くときも同様です。その時、彼らのプロプリウムのいのちのものである思考と情愛の連続的な状態にしたがって、すべての進行の方位が生じます――これから後の者について、それらの状態にしたがって、彼らは自分の場所へ導かれました。
一言でいえば、霊界の中で、それぞれの者が歩く道は、決定された心の思考です。ここから、みことばの中で「道」、「歩く行為」また同様のものは、霊的な意味で、霊的ないのちの決定と進行を意味します。

最後の審判

48◀︎目次▶︎50

49
 みことばの中で四つの方位は「四つの風」、彼らの集まりは「四つの風による集まり」と呼ばれています。例えば、「マタイ福音書」の最後の審判について扱われているところに、

ご自分の天使たちを遣わす…..選ばれた者が集められる….四つの風により、天の端から端まで(24:31)。

また他の箇所に、人の子の前に、

すべての国民が集められ、羊飼いが羊をヤギから分けるように、彼らを分け、羊を右に、ヤギを左に置きます(25:32, 33)。

これは、主が、真理の中と同時に善の中にいる者と、真理の中にいて善の中にいない者を分けたことを意味します、なぜなら、みことばの霊的な意味の中で「」によって善が、「」によって真理が、同様に、「」によって善が、「ヤギ」によって真理が意味されるからです――他の者の上に審判は行なわれません。なぜなら、何も真理がない中にいる悪い者は、すでに、ずっと前から地獄の中にいるから的です、というのは、このように審判の前に、心で神性を拒み、〔自分の〕信仰から教会の真理を退けたすべての悪い者が、死後、そこに投げ込まれるからです。
真理の中にいて、善の中にいなかった者から、過ぎ去った「最初の天」が存在し、真理と同時に善の中にいる者から「新しい天」が形成されました。

最後の審判

49◀︎目次▶︎51

50
 この章の中でのイスラム教徒と異教徒の審判については、以下のように行なわれました。イスラム教徒は自分の場所から、西の中の南に近かったところに集められ、キリスト教徒の周囲の道を通って、西から、南を通って東へ、そこに南の境界にまで導かれ、そして途中で悪い者は善い者から分離されました。
悪い者は沼沢と池の中に投げ込まれました。さらにまた多くの者は、それを越えて、ある荒野の中に追い散らされましたけれども、善い者は東を通って南に近い大きな空間の地へ導かれ、そしてそこに彼らに住居が与えられました。
ここへ導かれた者は、世の中で主を最大の預言者としてまた神の子として認め、その方を、人類を教えるために父から送られたと信じ、同時に自分の宗教的信念にしたがって道徳的で霊的な生活を送った者でした。
[2]彼らからの大部分の者は、教えられたとき、主への信仰を受け入れ、その方を父と一つであることを認めました――さらにまた、彼らに主からの流入を通して、キリスト教の天界との伝達が与えられ
ました、しかし、宗教が分離するので、混ぜられませんでした。
その宗教からのすべての者は、来世の中で自分たちの間にやって来ると直ぐに、最初にムハンマドを捜します、しかし、彼は見られません、けれども、彼の代わりに自分をムハンマドと呼ぶ他の二人がいます――これらの者は、キリスト教の天界の下の真ん中に、そこの左に席を得ています。
彼ら二人がムハンマドの代わりにいることの理由は、すべての者が、どんな宗教からであっても、死後、世の中で礼拝していた者へ導かれるからです、というのは、それぞれの者に自分の宗教が付着しているからです。しかし、何も助けをもたらすことができないことを知覚するとき、彼らから去ります。というのは、最初にその宗教へ入れられるようにしてでしか、だれも自分の宗教から引き出されることができないからです。
ムハンマド自身がどこにいて、彼がどのような者か、なおまた、ムハンマドの代わりの彼ら二人がどこからか、「黙示録」を解説するの中で述べます。


★ この「本」は、おそらく当時執筆中の『黙示録講解』でしょう。しかし、このように書いてあっても、『黙示録講解』にそのような箇所は見あたりません。本書の続編である『続最後の審判について』の68番以降にやや詳しい記事があります。

最後の審判

50◀︎目次▶︎52

51
 異教徒への審判は、イスラム教徒への審判とまったく同様の方法で行なわれました。しかし、同様の方法で回り道を通ってではなく、単に西の道をいくらか通って導かれ、そこで悪い者は善い者から分離されました。悪い者はそこで斜めに深淵の中に向かっている二つの大きな裂け目の中へ投げ込まれました、けれども、善い者は、そこにキリスト教徒がいる中央の上方へ、イスラム教徒がいた東の方位の地に向かって導かれ、また住居がその後ろに、そしてさらに遠く南の方位の中に大いに拡張して割り当てられました。
けれども、世の中で人間の形の下に神を礼拝し、自分の宗教的信念にしたがって仁愛の生活を送った異教徒からの者は、天界の中でキリスト教徒に結合されます、なぜなら、主を他の者よりも認め、崇拝するからです――彼らのうち最も知性ある者はアフリカからです。
異教徒とイスラム教徒の大群衆が、もしそれを一万単位で数えないなら、数えられることができないほど見られました。
それほどの大群衆への審判が数日間で行なわれました。なぜなら、それぞれの者が自分の愛と信仰の中に入れられるとき、直ちに運命を定められ、似た者のところへ移動するからです。

最後の審判

51◀︎目次▶︎53

52 これらから、「最後の審判」について、主の次の予言の“真理”が明らかです。

その時、彼らは東と西から、また北と南からやって来て、神の国の中で食卓につく(ルカ13:29)

最後の審判

52◀︎目次▶︎54

(9)バビロニアとその滅亡について

53 「黙示録」の中に予言されているすべてのことが、今日、成就したことは、前に見られます(40–44番)。なおまた最後の審判がすでになし遂げられたことは、前章の中に、そこにイスラム教徒と異教徒に、どのように審判が行なわれたかも示されています――今やここに続けて、「黙示録」の中の「バビロニ 」によって意味されるローマカトリック教徒にどのように審判が行なわれたか示します、またその滅亡については特に第18章の中で多く扱われており、それはこのように述べられています――

天使は、激しく、大きな声で叫んだ……「倒れた、バビロ が倒れた……悪鬼の居住地、すべての汚れた霊の牢獄、すべての不潔な憎むべき鳥の牢獄になった」(第2節)。

しかし、どのようにそれが滅ぼされたか語られる前に、あらかじめ言われなければならないことがあります、

(1)「バビロニア」によって何が意味されるか、それがどんなものか。
(2)バビロニアからの者が来世の中でどんなものであるか。
(3)彼らの住居は今までどこにあったか。
(4)なぜ、最後の審判の日までそこに存在が許されたか。
(5)どのように滅ぼされ、彼らの住居が荒野とされたか。
(6)善からの真理への情愛の中にいた者が守られたこと。
(7)今後、地からそこにやって来る者の状態について。


バビロニアとバビロンについて
ここにバビロニア(Babylonia)とバビロン(Babylon)が出てきます。原著にあるとおりに、すなわち、スヴェー注デンボリが用いた言葉をそのまま訳してあります。見たところ違いがないように思えます。その通りで、同1視して(すなわち、バビロニア=バビロン)読んで差し支えありません。聖書でもバビロニアとバビロンを区別しないでバビロンと呼んでいます。
その違いは、本書54番のバベルに由来する古代都市「バビロン」が他の都市国家を制覇してその地域が「バビロニア」と呼ばれたことです。すなわち、バビロンが都の名前、バビロニアがバビロンを首都とする国(地域)の名前です。

最後の審判

53◀︎目次▶︎55

54(1)「バビロニア」によって何が意味されるか、それがどんなものか
「バビロニア」によって、宗教的信念によって支配することを欲するすべての者が意味されます。宗教的信念によって、人間の霊魂を、このように彼の霊的ないのちそのものを、そして手段として、宗教的信念の中のそれら神的なものを用いることによって支配します――支配を目的とし、宗教的信念を手段として持つ者はすべて、全般的に「バビロニア」です。
「バビロニア」が言われるのは、古代にこのような支配が始まり、その最初に滅ぼされたからです。その始まりは「町」によって、その頂が天の中にある「塔」によって、またその滅亡が唇(言語)の混乱によって描かれています。「バベル」の名前はその混乱〔語源バラル〕からです。(創世記11:1–9)。
みことばの内意、すなわち、霊的な意味で、それらの個々のものによって何が意味されるか、『天界の秘義』の中に説明が見られます(1283–1328番)。
[2]このような支配がバベルの中で始まり、設立されたことは、「ダニエル書」のそこにネブカデネザルについて言われていることから明らかです。
彼が像を立て、それをすべての者が崇拝したことです(3:1–終わりまで)――そしてまた次によって意味されることです、

ベルシャツァルは貴族たちとネブカデネザルがエルサレムの神殿から選び出した金また銀の器から飲み、同時に、そのとき、金、銀、銅、鉄の神々を礼拝した。それゆえ、壁の中に、「数えた、はかりにかけた、分けた」と書かれた、王自身はその夜に殺された(5:1–終わりで)。

「エルサレムの神殿の金と銀の器」によって教会の善と真理が意味されます。「それらから飲むこと、同時に、金・銀・銅・鉄の神々を礼拝すること」によって、冒涜が意味されます。そして「壁の上に書かれたもの」によって、また「王の死」によって、荒廃と滅亡、手段として神的な善と真理を用いる者へのおどしの宣告が意味されます。
[3]「バビロニア」と言われる者がどんなものであるかは、「預言書」にもまたしばしば述べられています――例えば「イザヤ書」に、

あなたはバビロニアの王についてこのたとえ話を言う。「……エホバは不信心な者の杖を、支配者のしゃくを折られた。……明けの明星は、天から落とされた……。あなたは地にまで切り倒された。……あなたは自分の心で言った。『私は天に上る、神の星々の上に私の王座を上げる、私は北側にある集会の山の中に座る……私は最も高い者のようになる』。それでも、あなたは地獄の中に、穴の脇へ投げ込まれる。….わたしはバビロニアの名前と残りの者を打ちのめす…..またそれを、猛の相続する領地であるように配列する」(14:4, 5, 12–15, 22, 23)。

また、同書の他の箇所に、

獅子が言った、「倒れた、バビロンは倒れた。その神々のすべての彫像は投げ落とされた」(21:9)。

またさらに同書に(47:1–終わりまで、48:14–20,また「エレミヤ書」50:1–3)。

[4]これらから、今や「バビロニア」が何か明らかです。
教会は、仁愛と信仰がやみ、またそれに代わって自己愛が支配することが始まるとき、バビロニアになることを知らなくてはなりません。というのは、この愛はその抑制がゆるめられるほど、それだけ、このようにすべての者を支配するだけでなく、自分に服従することができる者が地にどれほど多くても、天上でもまた突進し―その時、やめないからです。神の王座にまでも上り、そして神的な力そのものを自分自身に移します。
このことが主の来臨の前にもまた行なわれたことは、前に提示されたみことばからの箇所から明らかです。
しかし、まったくの偶像崇拝となったそのバビロニアは、世の中にいたときの主によっても、その時、霊界の中での彼らの最後の審判によっても滅ぼされました。そのことが、そこにバビロニアである「明けの明星」が地獄へ投げ落とされ、バビロンが倒れたことの預言によって、そしてまた、壁の上に書かれたものによって、またベルシャツァルの死によって、なおまたネブカデネザルが夢に見た像を破壊した岩から切り出された石によって意味されます〔「ダニエル書」第2章〕。

最後の審判

54◀︎目次▶︎56

55
 しかし、「黙示録」の中で扱われているバビロニアは、主の来臨の後に始められた今日のバビロニアです。それは、ローマカトリック教徒のもとに存在することが、よく知られています。
これは主の来臨の前にあったものよりも、主が、その方ご自身とともに、世で啓示した教会の内なる善と真理を冒涜したので、さらに有害で邪悪です。どれほど有害で内的に邪悪であるかは、要約した形で、続くものから明らかにすることができます。
[2]彼らは、何も救う力がない主を認め、崇拝します。彼らはその方の神性をその方の人間性からまったく分離し、そしてその方の人間性によって生じたその方の神的な力を、自分自身の中に移しまし*1 。というのは、彼らは、罪を赦し、地獄の中に投げ入れ、欲する者をだれでも赦し、救いを売り、このように、神的な力だけに属するようなものを自分自身に主張するからです――それらを実行するので、だれもが自分の場所で、彼らの最高位の者から、後継者への移動によって、その者をキリストの代理人と’呼んで、自分自身を神にします。このように自分自身を主と見なし、そしてその方を崇拝します、その方のためでなく、自分自身のためにです。
[3]みことばを不純化し、虚偽化するだけでなく、真理の何らかの光の中に入らないように、みことばを人々から取り除きます。このことに満足するだけでなく、さらにまた、みことばからの神的なものの上にローマ〔教皇の所在地〕からの法令の中に神的なものを認めてそれを無へと減じます。そのようにすべての者から天界への道を閉ざしました、というのは、天界への道は、主の承認、その方への信仰と愛、そして道を教えるみことばであるから。そこから、主なしに、みことばの手段なしに救いは何もありません。
神的な真理からのものである天界の光を消し、そしてそれに代わって無知があるようにするために、すべての熱意で努力し、無知が濃ければ濃いほどますます喜びます――彼らは天界の光を、みことばを読むこと、みことばからの教えがある本を読むことを禁止することによって消しています。礼拝を、単純な者から理解されない言の中に、それらの中に神的な真理のないミサによって制定しています。またさらに、自分の世界を、暗やみそのものである虚偽で満たします。それらが光を遠ざけ、消散させます。さらにまた、大衆に、自分たちの信仰の中に、このように自分の中ではなく他の者の中に、いのちを持つように説きつけます。
[4]特に、すべての礼拝を内なるもののない外なる聖なるものの中に置き、内なるものを空虚なものにします、その礼拝に善と真理の知識がないからです。それでもなお、神的な礼拝は、内なるものであればあるほど、それだけ外なるものです、というのは、後者から前者が発出するから。
加えて、それらの礼拝は多くの種類の偶像崇拝もまた導き入れています。聖徒をつくり、増やし、彼らへの崇拝を、そしてまた、彼らへの祈りを、ほとんど神への祈りのように見て、許容します。彼らの偶像をあらゆる方向へ展示し、彼らからのおびただしい量の奇跡を見せびらかし、偶像を都・神殿・修道院に置き、墓から取り出された彼らの骨を、それらはこれほどに最も捨てるべきものですが、聖なるものにします。このようにすべての者の心を神への礼拝から人間への礼拝に向けます。
[5]さらに、ある者がその暗やみから光の中に、偶像崇拝の礼拝から神的なものの礼拝にやって来ないように、多くの策略で警戒しています。というのは、修道院を増やし、それらからどこでも偵察者と見張りを置くからです。心の告白を、それらもまた思考と意図のものですが、無理強いします、もし告白を行なわないなら、心を地獄の火で、煉獄の中の拷問で怖がらせます。また、教皇の座に反して、彼らの支配権に反して、あえて話す者を、「(異端審査の)宗教裁判所」と呼ばれる身震いするような牢獄に閉じ込めます。
[6]これらすべてのことを、世を得、その宝物を所有し、そして放縦な生活を楽しみ、彼らが最大の者であり、そして他の者が仕える者であるという目的のためにだけ行ないます。
しかし、このような支配は地獄を制する天界のものではなく、天界を制する地獄のものです。なぜなら、支配する愛が人間のもとで、特に教会の人間のもとで、まさればまさるほど、それだけ地獄が支配するからです。(その愛が地獄の中で支配し、そして地獄をつくることは、著作『天界と地獄』(551–565番)参照)。
これらから、そこに教会がなく、バビロニアがあることを明らかにすることができます。なぜなら、主ご自身が礼拝され、みことばが読まれるところに教会があるからです。


* 教会が主に二つの性〔神性と人間性」を帰し、またこのようにその方の神性をその方の人間性から分離し、そのことが教皇のために会議の中で行なわれたのは、〔教皇が]その方の代理人として認められるためであった。このことが天界から『天界の秘義』の中で示された(4738番)。

★ ミサはラテン語で行なわれます。

最後の審判

055◀︎目次▶︎057

56
 (2)バビロニアからの者が来世の中でどんなものであるか
このことは、主から霊界にいる彼らと一緒であることが与えられた者以外に、明らかにすることができません。
このことが私に許されたので、私は経験から話すことができます、なぜなら、私は彼らを見、彼らから聞き、彼らと話したからです。
それぞれの人間は、死後、世の中でいたのと似た生活(いのち)の中にいます。これは変えられることができません、ただ愛のものである快さに関してだけ、それらは対応するものに変えられます。例えば、著作『天界と地獄』の中の二つの章(470–484番588番)から明らかにすることができます――これらの生活(いのち)は、それらについて今や扱われていますが、それらは、その時、彼らの心に隠されていたものがあらわにされるという相違とともに、まったく世の中のようなものです。というのは、彼らは霊の中にいるからであり、その中に思考と意図のものである内的なものが住んでいて、それらを世の中で隠し、外なる聖なるもので閉じ込めていたからです。
[2]これらは、その時、明らかにされるので、彼らからの半分を越える者が、天界を開け、閉ざす力を用いたまったくの無神論者であることが認められました――しかし、心に世の中のような支配権が堅く宿り、またそれは、「父からそのすべての力が主に与えられ、そしてそれをペテロに、また順番に継承することによって教会の長たちの中に移した」という原理の上に基づいているので、それゆえ、彼らの無神論に結びついた主についての口頭の告白が残存しています。しかし、それでもこのことは、それによって何らかの支配の中にいるよりも長くはありません。
けれども、無神論者ではない他の者は、人間の霊的ないのち(生活)・救いの手段・天界へ導く神的な真理・天界的な信仰と愛について、天界はだれにでも、どんな種類の人間であっても、教皇の恩恵から何らかのものが与えられることができると信じて、まったく何も知らないほどに空っぽの者です。
[3]著作『天界と地獄』の中で示されて見られるように(453–480番)、それぞれの者が天界あるいは地獄の中にいないかぎり、そのとき何も相違なく、霊界の中で自然界の中でいたのと似た生活(いのち)の中にいるので、また霊界は外なる外観に関してまったく自然界と似ているので(170–176番)、それゆえ、彼らに似たような霊的な生活と市民的な生活が、特に似たような礼拝があり、それは人間に彼の最内部に根付いて、こびりついているので、ある者は、死後、真理からの善の中に、善からの真理の中にいないなら、それから連れ去られることができません。
けれども、この国民は、それについて今や扱われていますが、真理からの善の中に、まして善からの真理の中にいないので、他の国民以上にその礼拝から導き出されることがほとんどできません。というのは、彼らの真理は、みことばからではなく、ただわずかな真理だけがありますが、それらを支配へ向けて適用することによって虚偽化したから。ここから彼らに、にせもの以外でないなら善はありません。なぜなら、どのような真理であるかによって、そのような善になるからです。
これらは、この国民の礼拝は、自然界の中であったのとまったく同様なものが霊界の中でもあることが知られるために言われました。
[4]これらをあらかじめ言っておいて、今や、そこの彼らの礼拝について、そして彼らの生活について何らかのものを述べます。
ローマの評議会または教会会議の代わりに、彼らはそこに彼らの長たちが集まるある類いの評議会があり、いろいろなことについて相談します、それらは彼らの宗教に属することであり、特に、どのように大衆を盲目の服従の中に保つべきか、どのように彼らの支配を拡大すべきかです。
この評議会の場所は東に近い南の方向にあります――しかし、世の中でローマ教皇であった者は、枢機卿であった者もあえて入ることをしません、自分たちの心に神的な権限のようなものを据え付け、そのことから、世の中で主の力を自分自身に主張した理由のためです。そのために、自分自身の臨在をそこに示すと直ぐに、取り去られ、荒野の中の似た者のもとに追い払われます――けれども、彼らのうち心が正直であった者は、またこのような権力を確信した信念から用いなかった者は、その評議会の後、ある種の暗い部屋の中にいま
[5]他の集会が北に近い西の方向にあります――そこの任務は、信じやすい大衆を天界の中へ入れることです。彼らはそこに自分たちの周囲に、いろいろな外なる快さの中にある多くの社会を配置します。ある社会では遊び、ある社会では踊り、ある社会では顔をいろいろな種類の快活さと喜びに作り上げ、ある社会では、ある所で市民的な事柄について、ある所で宗教的な事柄について、ある所でみだらなことについて親しげに話します、等々。これらの社会から、ある社会の中に、それを天界と呼んで、それぞれの願いにしたがって、隷属者を入れます。しかし、すべての者は、少しの時間の後、そこにいたとき退屈を感じ、立ち去ります、それらの快さは内なるものでなく外なるものであるからです――このようにして、多くの者は、天界の中に入ることについての彼らの信仰の教えから連れ出されま
[6]特に、彼らの礼拝については、世の彼らの礼拝とまったく似ています。
それは世のようなミサで構成され、それらは霊たちの普通の言語の中に現われません、しかし、大きく鳴り響く言葉から作り上げたものであり、それらは外なる神聖さと身震いをひき起こし、まったく理解されません。
同様に、聖徒を崇拝し、そして偶像を展示します――しかし、彼らの聖徒はどこにも見られません。なぜなら、神として礼拝されることを求めた彼らからのすべての者は、地獄の中にいるからです。礼拝されることを求めなかった他の者は、普通の霊たちの間にいます。
彼らの高位聖職者たちはそのことを知っています、なぜなら、彼らを捜し、見いだし、それゆえ、彼らをさげすむからです。しかし、このことを、それでも守護の神々のように、しかし、人々に長に任じられた高位聖職者自身が、天界の主として礼拝されるために、人々に隠しま
[7]同様にまた、世でしたように、彼らは神殿と修道院を増やします――同様に、富をかき集め、高価なものを蓄積し、そして貯納室の中に隠します。なぜなら、霊界の中に、自然界の中のように、等しく高価なものが、そしてはるかに多くのものがあるからです。
同様に、自分の宗教的な信念へ誘うために、彼らを自分の支配へ服従させるためにそこに修道士を送り出します。
通常、集会の真ん中に物見の塔を建築し、それらから視野をすべての近隣の中に広げることができます。近くや遠くの者との伝達手段もまたいろいろな方法と策略で、自分たちにつくり、自分の側に引き寄せます。
[8]彼らの状態は全般的にこのようなものです――けれども、特に、彼らの宗教の大部分の長たちは主のすべての権力を取り去り、それを自分自身に要求しました。またこのことを行なうので、何らかの「神性を認めません。やはり外なる神聖さを装いますが、それでもその神聖さは、彼らの内なるものの中に何らかの神性の承認がないので本的に冒涜的です――ここから、天界の最も低い何らかの社会と外なる聖なるものよって、また地獄と内なる冒涜的なものによって連絡(交通)し、そのように、どちらの場所にもいます――そのために、さらにまた単純で善良な霊を誘います、彼らに自分たちの近くに住まいを与え、悪意のある者を集め、彼らを集団の周囲に配置します。さらにまたこのように単純で善良な者によって自分自身を天界に、悪意のある者によって地獄に結合させます。ここから、極悪なことを働くことができ、それらを地獄から遂行します。というのは、最も低い天界の中にいる単純で善良な者は、外なる聖なるものに向けて、外なるものの中での彼らの最も聖なるものである主の崇拝に向けて、それ以外に越えて眺めず、彼らの邪悪な行為を見ず、そのために彼らに好意を持つからです。ここから、彼らに最大の保護があります。しかしそれでも、時間の経過とともに、彼らのすべての者は、外なる聖なるものから去り、その時、天界から分離され、地獄の中に投げ込まれます。
[9]これらから、来世の中でバビロニアからの者がどんなものであるか、多少知られることができます。しかし、私は、世にいる者が、また人間の死後の状態について、そして天界と地獄について、無意味で空虚なものを除いて何らかの観念を持たない者が、そこにこのようなものが存在することを怪しむことを知っています。しかし、人間は死後も等しく人間であり、世の中のように交わりの中で生き、家の中に住み、教会で説教を聞き、職務を果たし、そして前の世の中に残したものと似たものをその世界の中で見ることを、「見て、聞いたことから」の著作『天界と地獄』の中で言われ、示されたことから明らかにすることができます。


★[4][5][6]は『真のキリスト教』819番に再録されています。

最後の審判

056◀︎目次▶︎058

57
 その国民からのある者たちと、ペテロに与えられたかぎ・・ について、天界と地獄の上への主の力が彼に移されたどうか話しました。それは彼らの宗教の根本的なものであったので、「そのことについては、はっきりと言われているので何も疑いがない」と言って、猛烈に主張しました。
しかし、みことばの個々のものに、天界の中のみことばの意味である霊的な意味が内在することを知っているかどうか、問を向けました。彼らは最初、「知らない」と言いました、しかしその後、「調べられるべきだ」と言いました。また、彼らが調べたとき、みことばの個々のものの中に、霊的なものが自然的なものから異なるように文字どおりの意味から異なっている霊的な意味があることを教えられました。また、他に、みことばの中に名前を挙げられたある人物は天界の中で名前を挙げられないこと、しかし、その代わりに、何らかの霊的なものがそこに意味されることを教えられました――最後に、みことばの中の「ペテロ」の代わりに、同様に、その時、ペテロとともに名前を挙げられている「 」によって、善からの仁愛のものである教会の信仰の真理が意味されることを教えられました。なぜなら、言われているからです、

あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます(マタイ16:18以降)。

それらによって、ペテロに何らかの力が与えられたことでなく、善からの真理が意味されます、なぜなら、天界の中のすべての力は善からの真理に、すなわち、真理を通して善にあるからです。また、すべての善と真理は主からであるので、何も人間からでなく、すべての力は主にあるからです。
これらを聞いて、「それらのことばの中に霊的な意味があるかどうか知りたい」と憤慨して言いました。そのために彼らに、自然的な意味がなく、霊的な意味をもつ天界の中のみことばが与えられました、そのみことばは霊的な者である天使のためのものです(このようなみことばが天界の中にあることは、著作『天界と地獄』(259, 261番)参照)。また彼らがそれを読んだとき、そこにペトロの名前が挙げられていないで、それに代わって、主からのものである善からの真理があるのを、はっきりと見まし*2 ――これを見て、怒りから、それを投げ返しました。すぐに取り去られなかったなら、歯で引き裂かんばかりでした。ここから、たとえ納得させられたくなくても、神的な力であるので主おひとりにその力があること、まして人間のだれかにないことを納得させられました。


*2 主の十二弟子は、イスラエルの十二部族と同様に、真理と善の、すなわち、信仰と愛の、すべてのものに関する教会を表象した(2129, 3354, 3488, 3858, 6397番)。
ペテロ、ヤコブ、ヨハネは、信仰・仁愛・仁愛の善を表象した(3750番)。
ペテロは信仰を〔表象した(4738, 6000, 6073, 6344, 10087, 10580)。
ペテロに天界の王国のかぎが与えられたことは、すべての力が善からの真理であることを、すなわち、主からのもの〔である〕仁愛からの信仰を、このようにすべての力は主にあることを意味した(6344番)。「かぎ」は、開け、閉ざす力である(9410番)。
すべての力は真理を通して善に、すなわち、主からの善からの真理にある(3091, 3563, 6344, 6423, 6948, 8200, 8304, 9327, 9410, 9639, 9643, 10019, 10182番)。
みことばの中で「岩」は神的な真理に関する主を意味する(8581, 10580番)。
みことばの中の人物と場所のすべての名前は事柄と状態を意味する(768, 1888, 4310, 4442, 10329番)。
それらの名前は天界の中に入らない、しかしそれらが意味する事柄の中に変えられる。それらの名前は天界の中で発声されることもできない(1876, 5225, 6516, 12216, 10282番)。
みことばの内意は、そこに単なる名前だけ〔述べられていても]どれほど優雅か、例から説明される(1224, 1264, 1888番)。

★ ギリシア語で「ペテロ」はペトロス(Terpos)、「岩」はペトラ(itpa)です。

最後の審判

57◀︎目次▶︎59

58(3)彼らの住居は今まで霊界の中のどこにあったか
すべての国民と民族の配列は、霊界の中で、続くように見られたことが前に言われました(48番)――中央に改革派教会の者と呼ばれる者が集められ、この中央の周囲にローマカトリック教からの者、彼らの向こうにムハンマドの〔宗教〕の者、最後に、いろいろな異教徒が見られました。
ここから、ローマカトリック教徒が中央の改革派教会の者の周囲に最も近い周縁部をつくっていたことを明らかにすることができます――彼らが最も近い理由は、中央にいる者は、みことばからの真理の光の中にいるからです。みことばからの真理の光の中にいる者は、天界の光の中にもいます、なぜなら、天界の光は神的な真理からであり、そしてみことばは天界からのその光の中にあるからです。(著作『天界と地獄』、天界の光が神的な真理からであること(212番)、みことばが神的な真理であること(303–310番)参照)。中央からもまた光が周縁部へ向かって発出し、照らします。ここから、中央の周囲の近くに、ローマカトリック教からの者がいます、なぜなら、みことばを持っていて、そしてまた、たとえ大衆からでなくても教会の支配者たちにより読まれているからです――これが、ローマカトリック教徒の国民が霊界の中で、みことばからの真理の光の中にいる者の周囲に、自分の住居を得た理由です。
[2]さて、彼らの住居が完全に破壊され、そして荒野にされる前に、どのように住んでいたか、述べます。
大部分の者は南と西に住み、ある者だけが北と東に住んでいました。「南」の中に住んでいた者は、世の中で他の者よりも才能を授けられ、自分の宗教的信念を確信していました。一緒にそこに、多数の高貴な者と富んだ者が住んでいました。そこの地上にではなく、強盗を恐れて、地下に、入り口に見張りを置いて住んでいました。
その方位にもまた大きな都があり、その広がりはほとんど東からそこの西へ、そしてまた少しばかりに西に、そこの位置は改革派教会の者たちの中央の最も近くです。
その都の中に無数の人間、すなわち、霊が滞在しています。神殿と修道院に満ちていました。さらにまた、聖職者たちはすべての高価なものをいろいろな策略でかき集めることができ、その都の中に運び集め、自分たちの小部屋や地下室の中に、たくわえました。その地下室は、だれも入ることができないようにつくられたものであり、迷宮の中を連れまわされる形をしていました。
そこに積み上げた宝物の中に彼らの心がありました、そしてどんな場合でも永遠に破壊されない、といった信頼がありました―私は地下室を見たとき、それらを造る技術に、またそれが終わりなしに拡大されることに驚きました。「自分たちをイエズス会士と呼んだそこにいた大部分の者は、周囲にいた富んだ者と友好的な交わりを保ちました。
その方位の中の東に向かって評議会があり、そこでは自分たちの支配の拡大について、そして大衆を盲目の服従の中に保つ方法について相談しました(それについては前の56番)――これらが、南の方位の中の彼らの住居についてです。
[3]「北」に、才能で汚すことが少なく、自分の宗教的信念を確認することも少なく、そのことから鋭く見る能力で暗く、ここから盲目の信仰の中にいた者が住んでいました。
そこには南の中ほど多くありませんでした――彼らからの大部分の者は、東の隅から西へ縦に長く、そしてまた西へは少しばかりである大きな都の中にいました。その都もまた神殿と修道院に満ちていました。東に近いその最も外側に、いろいろな宗教からの多くの者、そしてまた改革派教会からの者がいました都を越えてその方位に少しの場所もまたローマカトリックの国民に占められていました。
[4]「東」に住んでいた者は、その〔ローマカトリックの〕国民からの者であり、世で支配することの最大の快さの中に、そしてまた何らかの自然的な光の中にいました。そこの山の中に見られました、しかし、北に向かう方位の中にだけであり、南に向かう他の部分にはいません。
北へ向かう隅に山があり、そのてっぺんに心の制御がきかない者を置きました。その者に、霊界の中でよく知られ、しかし自然界の中で知られていない思考の伝達によって何でも欲する〔ことを〕押しつけ、彼が人間の形の下に現われている天の神そのものであること、このように彼に神的な礼拝を付加したことを公けにして、吹き込むことができました。このことの理由は、人々が偶像崇拝の彼らの礼拝から去ることを欲し、それゆえ、服従の中に保たれるためにそれを手段として考え出したからです――
[5]その山が、「イザヤ書」に「北側の集会の山」(第14章13節)によって、またそこの山の中にい口る者が、「明けの明星」(12節)によって意味されます。なぜなら、東に他の者よりも光の中にいたバビバロニアの集団からの者がいて、その光もまた自分たち自身に技巧で用意したからです。
天使のいる天の中にまで達した塔を建てていた者もまた見られました。しかし、これは彼らの陰謀の8単なる表象でした。というのは、霊界の中で、陰謀は遠く離れて立つ者の目の前に多くのものによって示されるからです。それでもそれら〔遠くから見えるもの〕は陰謀の中にいる者のもとに実際に存在しません。このことはそこでは普通です――その外観によって、それでも私に、「その塔のてっぺんは天の中にあった。ここからその場所はバベルと言われた」(創世記11:1–10)ことによって何が意味されるか知ることが与えられました。これらは東の中の彼らの住居についてです。
[6]「西」の前部に住んでいた者は、自分の宗教的信念から暗い時代の中に生き、大部分の者は、そこに地の下に、ある世代がもう一つの世代の下にいました。
北を眺める正面の全地域は、あたかも空洞のようであり、修道院で満ちていました。それらへの入り口は、上が被覆で隠された洞穴によって開かれていて、それらを通って出入りしました。しかし、続く世代の中に生きた者と話すのはまれでした、というのは、性が異なり、それほど悪意がなく、ここから憎しみと復讐からのそれほどの欺きと悪意もなかったので、彼らの時代に改革派教会の者と何も論争がなかったからです。
その地域を越えた西の方位に多くの山がありました、それらの上にその国民からの最も悪意のある者がいて、その者は心で神性を否定し、それでもそれを口で、他の者よりもにさらにうやうやしく告白し、身振りで崇拝しました。
そこにいた者は、極悪な策略で、自分たちの支配のくびきの下に大衆を保つことを工夫し、そしてまたそのくびきに服従することへ向けて他の者を強要しました――それらの策略は、極悪なものであるの
で、述べることが許されません。全般的に彼らがどんなものであるか、著作『天界と地獄』(580番)に記されています。」
[7]彼らが上にいた山は、「黙示録」の中で「七つの山」によって意味されるものであり、またそこの彼らは、「緋色の獣に座っている女」によって述べられています、これらのことばで――

私は、冒涜の名前で満ち、七つの頭と十の角を持つ緋色の獣に座っている女を見た。……額に、「奥義、大バビロン、淫行と地の忌まわしいものの母」と書かれた名前を持っていた。……七つの頭は、女がそれらの上に座っている七つの山である(17:3, 5, 9)。

」によって霊的な意味の中で教会が意味され、そこでは正反対の意味で冒涜的な宗教的信念が、「緋色の獣」によって天界的な愛の冒涜が、また「七つの山」によって、支配しようとする冒涜的な愛が意味されます――これらが西の彼らの住居についてです。
[8]方位にしたがって別々に住むことの理由は、霊界の中のすべての者が、彼らの情愛と愛に対応し、何も他のものに対応しない方位の中に、方位の場所の中に導かれるからです(それらについて著作『天界と地獄』(141–153番)参照、そこに天界の四方位について扱われています)。
[9]全般的に、このバビロニアの国民の協議は、天の上だけでなく、しかしまた全地の上を支配するアために、このように天と地を、天によって地を、これによってそれを獲得するために向けられています。口そのことをなし遂げるために、絶えず新しい法令と新しい教えの事柄を考え出し、工夫しました。
来世の中でもまた、世の中にあるのと似たものに励みました、なぜなら、それぞれの者が、死後、世の中であったようなものに、特に、宗教的な事柄に励むからです。
長たちからのある者たちが人々に規則としたいものであった教えについて協議しているのを聞くことが私に与えられました。
多くの箇条がありました、しかし、すべてのものが、天の上にまた地の上に支配を獲得するために、また、彼らにすべての力があり、しかし、何も主にないように向けられていました。
それらの教えの事柄は、その後、そばに立っている者の前で読まれ、読まれたとき、たとえそのことを知らなかったにしても、天から、「それらは最も深い地獄から言われた」という声が聞こえました。さらにまた、その地獄からの、まっ黒で、最も恐ろしい外観であった悪魔の集団が、それらの教えの事柄を彼らから手でなく歯でかきむしり、そして自分たちの地獄の中へ運び下ろしたことによって確信しました――これを見た人々は唖然としました。

最後の審判

58◀︎目次▶︎60

59(4)なぜ、最後の審判の日までそこに存在が許されたか
その理由は、神的な秩序から、存在が保たれることができるどれほど多くても、またこのことがもはや善良な者の間にいることができないまで、すべての者の存在が保たれるからです。そのために、存在が保たれるすべての者は外なるものの中で霊的な生活をまねすることができ、そしてそれをどんな種類であっても、内なるものの中で信仰と愛に関して道徳的な生活の中で、そこにあったかのように、示すことができます。なおまた、外なる聖なるものの中にいて、それでも何も内なるものがないものの中にいる者もまた存在が保たれました。
その国民からの多くの者はこのような者でした、というのは、大衆とともに敬虔に話し、信心深く主を崇拝し、宗教的信念を心に植え付け、天界と地獄について考えることへ導き、そして働きの説教によって、善の行なうことの中に保つことができたからです。ここから多くの者を善の生活へ、このように天界への道の中に導くことができました。そのために、多くの者もまたその宗教的信念から救われました、それでも、教える者からはわずかでした。
というのは、これらの者が、主により偽預言者によって意味される者であるから、

その者は羊の衣服でやって来るが、內部で貪欲な狼です(マタイ7:15)。

[2]「預言者」によって、みことばの内意で、真理を教える者とその真理によって善へ導く者が、そして、「偽預言者」によって、虚偽を教える者とそれによって惑わす者が意味されます。
さらにまた、律法学者とパリサイ人たちのような者であり、その者は主により次のことばで述べられています――

彼らはモーセの席に座っています……。彼らがあなたがたに、あなたがたが仕えるようにと言うすべてのことに、あなたがたは仕え、〔そのことを〕行ないなさい、しかし彼らの行ないしたがって行なってはなりません。彼らは言うが、行なわないからです。……自分たちのすべての行ないを、人々から見られるために行なっています。……人々から天界の王国を閉ざします、自分たちも入りません。……外見では長い祈りを唱えて、やもめの家を食い尽くしています。

あなたがたにわざわいあれ……偽善者たち。あなたがたは杯と皿の外の部分をきれいにするが、內部は強奪と不正で満ちています。……最初に杯と皿の内側をきれいにしなさい、外側もまたきれいであるために。……あなたがたは白くした墓に似ている、それらは外側で美しく見えるが、內部は死者の骨で満ちています……このように……あなたがたは外で正しい人に見えるが、内部は偽善と不正で満ちています(マタイ23.1–34)。

[3]存在もまた許されたことの理由は、それぞれの者が、死後、自分の宗教的信念を保持するからです。そのために、来世の中にやって来ると直ぐにその中に入れられます。これらの国民のもとの宗教的信念は、口と身振りで聖なる外観を装い、そしてまた、自分たちを通して救われることができるという信仰を刻みつけたような者により植え付けられました――ここからもまた、このような者は彼らから取り除かられ、自分たちの間に保たれました。
[4]おもな理由は、外なるものの中で霊的なものと似た生活を送り、内なるもののような敬虔で聖なるものをまねるそれらの者から、単純な者は教えられ、導かれることができ、すべての者は、一つの審判からもう一つの審判まで保たれることです。というのは、信仰と心で単純な者は、外なるものに向けて、目の前に見えるよりもさらに進んで見ないからです――ここから、キリスト教会の始まりの時から審判の日までいたすべての者が存在を許されました。
最後の審判が以前に二度起こったこと、また今や、三度目であることは、前に示されました。「最初の天」を構成したすべての者は、「黙示録」(20:5, 6)の中で、「第一の復活からはじき出された者」よって意味される者です。しかし、彼らは前に述べられたような者であったので、それゆえ、その天は破壊され、彼らは第二の復活から追い払われました。
[5]しかし、市民的な法によっても霊的な法によっても、自分自身が抑制の中に保たれるのに耐えた者だけが保たれたことを知らなければなりません、これらの者は社会の中で1緒にいることができたからです。それでも、それらの法律によって抑制の中に保たれることができなかった者は保たれませんでした。これらの者は最後の審判の日のはるかに以前に地獄の中へ投げ込まれました、なぜなら、社会はこれらの者から絶えず清められ、浄化されなければならないからです。
ここから、彼らは、その者は邪悪な生活を送り、大衆に悪を行なうように誘い、地獄の中にいる者のもとにあるようなおそるべき策略を身につけた者は(それらについて著作『天界と地獄』580番)、社会から追い払われ、またこのことは時々行なわれました。
[6]同じく、内的に善良な者であったもまた、内的に悪い者から汚されないように、社会から取り除かれます。なぜなら、善良である者は、内的なものを知覚し、それゆえ、外的なものには、内的なものに調和しないかぎり目を向けないからです――これらの者は、時々、審判以前に教育の場所に入れられ(それらについて著作『天界と地獄』512–520番参照)、ここから天界の中へと取り除かれます。というのは、それらの者から「新しい天」があり、その者が「第一の復活から」の者が意味されるからです。
これらは、ローマカトリック教徒の宗教的信念からであった者が、なぜこのように多く、最後の審判の日まで存在が許され、保たれたか、知られるために言われました―しかし、同じ事柄について多くバのものが、そこに過ぎ去った「前の天」について続く章の中で扱われます。

最後の審判

59◀︎目次▶︎61

60(5)どのように滅ぼされ、彼らの住居が荒野とされたか
私はここでは簡単に述べ、多くのものについて『黙示録についての解説』の中で述べます。そこに扱われているバビロニアが滅ぼされたことについて、見た者以外にだれも知ることができません。最後の審判がすべての者に、特にバビロニアからであった者にどのように行なわれ、なし遂げられたか私に見ることが与えられ、それゆえ、私は記述します。このことが私に与えられたのは、特に、それらは「黙示録」の中に予言されているすべてのことが、神から吹き込まれたものであり、みことばの預言の書物であることが世に啓示されなければならないという理由のためでした。なぜなら、そのことが、また同時にそこの個々のものの中に、旧約の預言者の個々のものの中にあるような内意が世に啓示されないなら、その書物は理解されないために捨てられてしまったでしょう。自分自身でそれを信じようとしないことを心に抱き、そこに言われていることは信仰に値しない、それどころか、何らかの最後の審判はやって来ないこと、その信仰を、バビロニアからの者は他の者よりも確信したでしょう――このことが起こらないように、主は、私を目撃の証人とすることを喜ばれました。
しかし、バビロニアからの者の最後の審判について、すなわち、バビロニアの滅亡について見られたすべてのことは、ここに提示することができません、本ができてしまうであろうほど、それほど多いからです。そのために、私はここにいくつかの全般的なものを伝え、細目は『黙示録についての解説』にとっておきます。
バビロニアの国民は霊の世界の中の多くの地域の上に定住し、拡大し、自分たちに社会を(前の58番に示されているように)そこのすべての方位の中に形成したので、私は、どんな方位の中でもどのように滅ぼされたか個別に述べます。

最後の審判

60◀︎目次▶︎62

61
 視察の後、破壊が行なわれました。なぜなら、常に視察が先行するからです。
視察は、彼らがどのようなものであるかの調査、そしてまた、悪から善の分離です。そして、善良な者はここから連れ去られ、悪い者は残されます。
それがなし遂げられて、大地震が起こりました。それらから彼らは、最後の審判が迫ったことを認め、その時、すべての者は震えました。
その時、私は、「南の方位」の中に、特にそこの大きな都に住んでいた者を見ました(それについて前の58番)。彼らはあちらこちらへ、ある者は逃避へ突進するために、ある者は地下室に身を隠すために、ある者は自分たちの宝物のある小部屋や穴の中へ、ある者は手に入るどんなものでもここから持ち出すために走りまわりました――しかし、地震の後、下方から泡立つことが突発し、それは都と周囲の地域の中のすべてのものをひっくり返しました―泡立つことの後、東から猛烈な風がやって来て、それは、すべてのものを根本から裸にし、揺さぶり、ひっくり返しました。その時、そこにいたすべての者は、すべての場所から、すべての隠れ場所から連れ出され、海の中に投げ込まれました。その水は黒く、その中に投げ込まれた者は無数でした。
[2]その後、その地域全体から、火災後のような煙がのぼり、そして最後に濃厚なちり・・が東の風によって海へ運ばれ、まき散らされました。というのは、彼らの宝庫は、また所有したので聖なるものと彼らが言ったすべてのものは、ちり・・に変えられたから――そのちり・・が海にまき散らされたのは、このようなちり・・は(地獄へと)断罪されたことを意味するからでした。
[3]最後に彼らの地域全体の上を飛んでいる黒いものが見られ、熟視すると竜のように見えました。
それはその大きな都全体からまたその地域全体から、荒野になったことのしるしでした――それが見られたのは、「竜」によってこのような宗教的信念の虚偽が意味され、「彼らの住居」によって転覆後の荒野が意味されるからでした(例えば「エレミヤ書」9:11, 10:22, 49. 33,「マラキ書」1:3)。
[4]さらにまた、ある者がひき臼を左腕で抱えて持っているのが見られ、それは、みことばから恐るべき教義を確信したことの表象でした。「ひき臼」はこのようなことを意味します――ここから、「黙示録」の中でこのことによって何が意味されるか明らかです――

天使が大きなひき臼らしい石を取り上げ、「このように、強打でもって、バビロンは投げ込まれ、その大きな都はもはや見られない」と言って、海の中に投げ込んだ(18:21)。

[5]けれども、同じ方位の中にもまた、しかし東にさらに近くいた者は、評議会の中にいて(その評議会について前の58番照)、その中で支配を拡大する方法について、人々を無知の中に、またここから盲目の服従の中に保つ方法について相談しましたが、彼らは黒い海の中に投げ込まれませんでした。しかし、彼らの下に、また彼らの周囲に、長くまた深くそれ自体を開けていた沼地の中に投げ込まれました。このように南の方位の中のバビロニアの上に最後の審判がなし遂げられました。
[6]けれども、「西の方位の中の前部に」また「北の方位」にいた者の最後の審判は、そこにもまた大きな都がありましたが、次のように行なわれました。
大地震の後(みことばの中で、「マタイ」24:7,「ルカ」21:11,そして同様のもの、「黙示録」6:12, 8:5, 11:13, 16:18、旧約の預言書の中に意味されるそれらの地震であり、それはまたこの地の地震ではありません)、そこにあったすべてのものを土台まで根こぎにし、東の風が南から西を通って北の中に進み、そしてそのすべての領域を裸にしました。最初に、西の方位の中の前部にあったものを、そこの地の下に暗い時代の中に生きた者が住んでいました。その方位から北を通って東まで広がっていた大きな都を、それらの地域からすべてのものが裸にされて見られました。しかし、そこにそれほどの宝がなかったので、何らかの泡立つことと宝庫を滅ぼす硫黄の火は見られないで、ひっくり返すことと破壊だけが、その後、煙の中にすべてのものが発散するのが見られました。というのは、東の風が、行ったり戻ったりして進み、ひっくり返し、破壊し、そしてまた取り除いたからです。
[7]無数の修道士が庶民とともに連れ出され、一部〔の者〕は黒い海の中に西に面している側から、一部の者は南の大きな裂け目の中に(それについて前に)、一部の者は西の沼地の中に、一部の者は異教徒の地獄の中に投げ込まれました。なぜなら、暗い時代からの者は、一部の者に関して異教徒に似た偶像崇拝者であったからです。
ここからもまた煙が上るのが、海まで広がり、その上を飛んで、黒い外皮を被せているのが見えました。なぜなら、海のその部分は、ちり・・と煙で表面に外皮をつくられ、その中に彼らの住居と富は溶けたからです。それゆえ、その海はもはや視覚に存在しません、しかし、それに代わって黒い地面のようなァものが見え、その下に彼らの地獄がありました。
[8]「東の方位」の中の山々の上に住んでいる(それらについてもまた58番参照)者の最後の審判は、次のようになし遂げられました。
彼らの山々が深淵の中に沈み、それらの上のすべての者がのみ込まれるのが見られました――そして、彼らがある者を一つの山の上に置き、彼を神として宣言し、彼が黒くなり、その後、火のようになったこと、また彼らとともに地獄の中へ真っ逆さまに投げ込まれたのが見られました――というのは、いろいろな教団からの修道士は、それらの山の上にいた者を「神」、また自分自身を「キリスト」と言い、彼らはどこでも行き、自分自身がキリストであるという恐るべき信念を抱いたからです。
[9]遠く離れて「東の方位」の中に、そこに山々の上に住んだ者、その者は「緋色の獣に座っている女、その者に七つの頭、それらは七つの山」(その女についても前の58番に述べました)によって意味され、その者にもまた最後の審判が行なわれました。
彼らの山もまた見られました。ある山が真ん中で開かれ、そこにとぐろ巻きに回転している巨大な裂け目ができ、それらの上の者は、それらの中に投げ込まれました――ある山々は底から引き離され、そこの最高のものが最低のものになったように完全に逆さまにされました。そこの平地にいた者は、洪水のように水で覆われ、他の方位からであった者は沼地の中に投げ入れられました。
しかし、今や言われたそれらすべてのものは、私が見たものからすればわずかでした。多くのものが『黙示録についての解説』の中で述べられるでしょう。これらは1757年の初めに行なわれ、なし遂げられました。
[10]黒い海の中へ投げ込まれた者を除いてすべての者が投げ込まれた「沼地」については、その数は多いのですが、私に四つの沼地が示されました。一つの大きな沼地が、南の方位の中に、そこに東へ向かってあり、もう一つのものが西の方位の中に、南に向かってあり、第三のものが西の方位の中に、そこに北に向かっ
てあり、第四のものがさらに遠く、西と北の間の隅の中にありました――沼地と海は彼らの地獄です。
これらが見られました、しかし、それらのほかに見られない他の多くのものがあります。というのは、バビロニアの地獄は、教会の善と真理のものである霊的ないろいろなものの冒涜にしたがって区別されているからです。

最後の審判

61◀︎目次▶︎63

62
 そのように、今や霊界はこのような者から解放されました。彼らから解放されたために天使は喜びました、バビロニアからであった者は、どれほど多くてもすべての者を攻撃し、惑わし、またそこでは世の中でよりもさらにできたからです。なぜなら、彼らの策略はそこでは、その時、霊であるので、さらに悪意のあるものであり、それぞれの霊の中ですべての悪意を隠しているからです。なぜなら、考え、意志し、心を向け、もくろむ者は人間の霊であるからです。
彼らからの多くの者が調べられ、そして、まったく何も信じていなかったこと、彼らの心(アニムス)に、富のために富める者を、支配のために貧しい者を惑わそうとする恐るべき欲望が堅く宿っていることが見つけられました。その目的のためにすべての者を最も濃い無知の中に保ち、このように光への道を、したがって天界への道をふさぎました。なぜなら、霊的なものの知識が偶像崇拝的なものによって沈められ、みことばが不純化され、弱められ、取り去られるとき、光への道、天界への道がふさがれるからです。

最後の審判

62◀︎目次▶︎64

63(6)善からの真理への情愛の中にいた者が守られたこと
ローマカトリック教徒の国民からの敬虔に生き、善の中にいて、たとえ真理の中にいなくても、それでも情愛から真理を知ることを望んだ者は、北に近い西の方位の中のある前部の地域に追放され、そこに彼らの住居が与えられ、そして社会が設立されました。その後、彼らへ改革派教会の者から聖職者が送られ、その者は彼らをみことばから教え、教えられるに応じて、天界の中に受け入れられました。

最後の審判

063◀︎目次▶︎065

64(7)今後、地からそこにやって来る者の状態について
今や最後の審判がなし遂げられ、そのことによって主によりすべてのものが秩序の中に戻され、そして内的に善良であったすべての者が、天界の中に上げられ、内的に悪い者は地獄の中に投げ落とされたので、今後、今までのように、天界の下に、また地獄の上に社会へと形成されるような、他の者と共通のものを持つようなことは許されません。しかし、そこへやって来ると直ぐに、それはそれぞれの者に死後に生じ、完全に分離され、霊たちの世界の中で時を送った後、自分の場所の中へ導かれます。それゆえ、聖なるものを冒涜し、天界を開け、閉ざす力を、そして、罪を赦す力を自分自身に要求した者は、それでもその力は主おひとりのものですが、その者は教皇の大勅書をみことばと等しくし、支配を目的とした者ですが、今後、直ちに、黒い海あるいは沼地の中へ運ばれました、そこには冒涜者の地獄があります。
しかし、私に天界から、「それらの者は、その宗教的信念から死後の生活について、その生活を心で否定するので何も考慮しないで、世の中の生活についてだけを考慮し、またここから死後のこのような自分たちの運命を、それでもそれは永遠に残るが、つまらないものと見なし、その生活について無意味な事柄のように嘲笑するような者である」と言われました。

最後の審判

64◀︎目次▶︎66

(10)前の天とその破壊について

65「黙示録」の中に言われています、

私は大きな……王座を、座っている方を見た。その方の視野から、地と天は逃げ去った、それらの〔いた〕場所は見あたらない(20:11)

またその後、

私は新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は過ぎ去った(21:1)。

「新しい天と新しい地」によって、また「前の天と前の地」が移ることによって、目に見える天と私たちの住む地が意味されないで、天使たちの天界と教会が意味されることが、〔本書の〕前の第1章とまた続く章の中に示されています。
というのは、みことばは本的に霊的なものであり、それゆえ、霊的なものについて扱っていて、そして霊的なものとは天界と教会のものであるからです。これらは自然的なものは霊的なものに基礎として仕えるので、文字どおりの意味の中に自然的なものによって示されています。そして、このような基礎なしに、みことばは完備したものではないので神的な働き(わざ)となりません。神的な秩序の中で最後のものである自然的なものは、霊的なものと天的なものである内なるものを、家がその土台の上に存続するように、それらの上に存続するために、満たし、つくっています。
[2]さて、みことばの中にあるものについて、人間は自然的なものから考え、霊的なものから考えないので、それゆえ、それらの箇所や他の箇所の「天と地」によって、それは自然界に存在する天と地以外に、他のものを理解しませんでした――ここから、それぞれの者が、それらの移ることと破壊を、その時、新しいものの創造も期待します――しかし、〔彼らが〕それらを永久に、どれかの世代でむなしく、期待しないように、みことばの中の多くのものによって何が意味されるか知られるために、みことばの霊的な意味が開かれました。それらについて、それと一緒に、過ぎ去るであろう「天と地」によって何が意味されるか、自然的に考えるかぎり、それらは理解力に取り上げられません。

最後の審判

65◀︎目次▶︎67

66 しかし、「最初最初の地」によって何が意味されるか明らかにされる前に、「最初の天」によって、この世の最初の創造からこの時までずっと、天使にされた者からの天(界)が意味されないことを知らなければなりません、なぜなら、その天(界)は不変であり、永久に存続するからです。というのは、天界の中へやって来るすべての者は、主の保護の下にあり、いったん受け入れた者は、主から決して引き離されることができないからです。しかし「最初の天」によって、天使にされた者以外の、天使になれることができなかった非常に多くの他の者から構成されたものが意味されます。彼らがだれであったか、またどんなものか、続くものの中で述べます――それは「過ぎ去った」と言われている天(界)です。
それが天(界)と言われるのは、彼らは岩や山の上の高いところに社会へと形成されて生活し、自然的な快さに似たものの中に、それでも決して霊的なものの中でない快さの中にいたからです。なぜなら、
地上から霊界の中にやって来る大部分の者は、高いところの中にいて、世の中にあったような快さの中に、天界の楽しさの中にいるとき、「天界の中にいる」と信じるからです――ここから、それは天界と呼ばれています、しかし、過ぎ去った最初の天です。

最後の審判

66◀︎目次▶︎68

67 さらに、「最初のもの」と呼ばれているこの天は、主の来臨の前に世の中で生きた者からでなく、その方の来臨の後にすべての者からであったことを知らなければなりません。なぜなら(前の72番に示されているように)、それぞれの教会の終わりの中で最後の審判が行なわれ、その時、最初の天は破壊され、新しいものが創造されるかまたは形作られるからです。というのは、教会の最初から終わりまで、外なる道徳的な生活の中に、また外なる敬虔と神聖さの中に生きたすべての者は、たとえ思考と意図のものである内なるものの中に生きていなくても、市民上と道徳上の社会の法律によって束縛の中に保たれることができるかぎり存在を許されるからです。しかし、教会の終わりの中で内なるものが明らかにされ、その時、彼らの上に審判が行なわれます。
ここから、最後の審判は以前にこの地球の住民の上に二度行なわれました、今や三度目です(前の46番参照)。このように二度、以前にもまた、天と地は過ぎ去り、そして新しい地とともに新しい天が創造されました。というのは(前の15番に示されているように)、天と地のどちらにも教会があるからです。
ここから、旧約聖書の預言書に記録されている「新しい天」と「新しい地」が、主が世におられたときその方から存在するようになったものでなく、今やその方から存在する「新しい天」と「新しい地」であり、それらが「黙示録」の中に記されているものであることが明らかです。それらについて旧約聖書の預言書にあります、

見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する、前のものは思い出されない(イザヤ65:17)。

また他の箇所に、

新しい天と新しい地を、わたしはつくる(イザヤ66:22)。

ほかに、「ダニエル書」に。

最後の審判

67◀︎目次▶︎69

68  今やここに過ぎ去った最初の天について扱われ、だれもそれについて何らかのことを知らないので、私は順に述べます、

(1)最初の天はだれから存在するようになったか。
(2)それはどんなものであったか。
(3)どのように過ぎ去ったか。

最後の審判

68◀︎目次▶︎70

69(1)最初の天はだれから存在するようになったか
最初の天は、最後の審判が行なわれたすべての者から構成されました。というのは、地獄の中の者にも、
天界の中の者にも、霊たちの世界の中の者にも、また依然として生きている人間にも行なわれなかったからです(その霊たちの世界については著作『天界と地獄』(421-520番)参照)――しかし、自分たちに天界に似たものを造った者の上にだけあり、それらの大部分は山と岩の上にありました――これらの者もまた主により左側に置かれた「ヤギ」によって意味されました(マタイ25:32, 33以降)。
ここから、最初の天は、キリスト教徒からだけでなく、イスラム教徒と異教徒からもまた存在し、それらのすべての者が自分たちの場所の中に自分たち自身にこのような天界を形成したことを明らかにすることができます。
[2]彼らがどんなものであったか、手短に述べます。世の中で外なる神聖さの中に生きましたが、それでも決して内なる神聖さの中に生きなかった者です。その者は市民の法律や道徳の法律のために公正で誠実でしたが、神的な法律のためではありませんでした、そのように外なる人または自然的な人であり、そして内なる人または霊的な人ではありませんでした。なおまた、その者はいろいろな任務の中にいて役立ちを行ないましたが、役立ちのためではありませんでした。
主の来臨の後に生きた全地球の中のこれらやこれらに似たすべての者から、「最初の天」が構成されました。
それゆえ、この天は、善を善であるので行なうのではなく、法律を恐れ、名声・名誉・利益を失うこ天とを恐れるので行なったような者からの地の世と教会のようなものでした――その者は他の起源から善を行なわず、彼らは神でなく人間を恐れ、良心も持ちません。
[3]最初の天の中の多くの部分が、改革派教会からであり、その者は信仰のみによって人間が救われることを信じ、仁愛である信仰の生活を生きませんでした。その者は人から見られることを大いに好みました。
内的なものは、仲間となっていたときの彼らのすべての者から見られないように閉ざされていました、しかし、最後の審判が迫ったとき開かれました。その時、内部がすべての種類の悪と虚偽に取りつかれていること、神性に反していたこと、実際に地獄の中にいたことがわかりました――なぜなら、それぞれの者は、死後、直ちに似た者に、善良な者は天界の中の天界の中の似た者に、けれども、悪い者は地獄の中の似た者に結び付けられるからです。しかし、内的なものが明らかにされないうちは彼らのもとにやって来ません。その間は、外なるものの中で似た者と仲間となることができます。
[4]しかし、知らなければなりません。内的に善良であった者、そのように霊的であったすべての者は、彼らから分離され、天界の中に上げられたことです。内的だけでなく外的にもまた悪であったすべての者もまた彼らから分離され、地獄の中へ投げ込まれました。このことは主の来臨の後の最初の時から審判の時である最後の時まで行なわれました。そして、前に述べられたように、自分たちの間に社会を形成するために残された者だけが、最初の天をつくりました。

最後の審判

69◀︎目次▶︎71

70 このような社会またはこのような天界が存在を許されたことには多くの理由があります。
おもなものは、外なる神聖さによって、外なる誠実さと公正によって、最も低い天界の中にいる単純で善良な者と結合されていたこと、またその者は依然として霊たちの世界の中にいて、まだ天界の中に導き入れられなかったことです。なぜなら、霊界の中にすべての者の伝達があり、ここから似た者との結合があるからです。そして、最も低い天界と霊たちの世界の中にいる善良で単純な者は、特に外なるものに目を向けますが、それでも内的に悪い者ではないからです。それゆえ、もし彼らから備えられた時より前に引き離されるなら、天界はその最後のものの中で傷つけられたでしょう。それでもなお、最後のものはその上にさらに高い天界がとどまるようなその土台です。
[2]最後の時まで存在が許されたことのその理由を、主はこれらのことばで教えられています

家長のしもべたちが近づいて、彼に言った……。「あなたは、ご自分の畑の中に善い種を蒔いたのではありませんか?それゆえ、毒麦はどこからですか?」……また彼らは言った、「それゆえ、あなたは私たちが出かけ、それらを集めることを欲しますか?」。
しかし、彼は言った、「いや、毒麦を集めながら、あなたがたはそれらと一緒に小麦を根こぎするかもしれない。そこで、収穫まで両方とも一緒に、生長させておきなさい。収穫の時に、私は収穫する者に言います、最初に毒麦を集めなさい、またそれらを焼くために束に結びなさい。しかし、小麦は穀物倉の中に集めなさい」。
善い種を蒔く者は人の子です。畑は世です。善い種は王国の息子、毒麦は悪い者の息子です。収穫は世代の完了です。それゆえ、毒麦が集められ、火で焼かれるように、この世代の完了の中でそのようになります」(マタイ13:27–30, 115)。

この世代の完了」は教会の最後の時です。「毒麦」は内的に悪い者、「小麦」は内的に善良な者です。
それらを集め、束に結ぶこと」は最後の審判です。
[3]似たことが同章の中に、すべての種類から集められた魚について、善いものは器の中に入れられるけれども、悪いものは外に投げ出された主のたとえによって意味され、それらについてもまた言われています、

世代の完了の中でこのようになります。天使たちが出てきて、悪い者を正しい者たちの真ん中から分離します(47–49番)。

魚にたとえられるのは、みことばの霊的な意味で「」によって善い者も悪い者も自然的な者と外なる者が意味されるからです。「正しい者」よって何が意味されるかは左の欄を見てください。


*1 みことばの中で「東」は、系列の中に人間のもとの真理と虚偽の配列を、そのように真理と善がある人間もまた意味する(4686, 4687, 5339, 5530, 7408, 10303番)。
「人の子」は、神的な真理に関する主である(1729, 1733, 2159, 2628, 2803, 2813, 3373, 3704, 7499, 8897, 9807番)。
「息子」は、善からの里の情愛である(489, 491, 533, 2623, 3373, 4257, 8649, 9807番)――そのように「王国の息子」は善からの真理の情愛の中の者、「悪い者の息子」は悪からの虚偽の情愛の中の者である。ここから、後者が「毒麦」また前者が「善い種」と言われる、なぜなら、「毒麦」によって悪からの虚偽が、「善い種」によって、善からの真理が意味されるからである。「畑の種」は、主から人間のもとに〔ある〕善からの真理である(1940, 3038, 3310, 3373, 10248, 10249番)。
「種」は、正反対の意味で悪からの虚偽である(10249番)。
「畑の種」もまた、みことばからの神的な真理による心の滋養物であり、「(種を)蒔くこと」は教えることである(6158, 9272番)。
「世代の完了」は教会の最後の時である(4535, 10622番)。
*2 みことばの霊的な意味の中で「魚」によって、自然的な人、すなわち、外なる人にある記憶知が意味され、ここから悪い者も善い者も、自然的な人、すなわち、外なる人を意味する(40, 991番)。
すべての種類の動物は、人間のもとにあるようなものに対応する(45, 46, 246, 714, 716, 719, 2179, 2180, 3519, 9280, 10609番)。
主の義と功績が帰せられる者は、みことばの中で「正しい者」と言われる。けれども、プロプリウムの義と自分の功績が帰せられる者は「不正な者」と言われる(9486, 5069, 9263番)。

最後の審判

70◀︎目次▶︎72

71 (2)最初の天はどんなものであったか
これは、今や前に言われたことから、なおまた次のことから結論することができます。それは、神性の承認・善の生活・真理の情愛によって、それでも外なる神聖さによって、神性についての談話によって、自分自身と世のための誠実によって霊的なように見える者が、自分の内なるものにくつろぐ時、自分の欲望にしたがって邪悪なものの中に突進することです、というのは、神への恐れも、信仰も、良心も、何も押しとどめないからです。ここから、最初の天の中にいた者が自分の内的なものの中に入れられると直ぐに、地獄に結合されているのが見られました。

最後の審判

71◀︎目次▶︎73

72 (3)最初の天はどのように過ぎ去ったか
これは、前にイスラム教徒と異教徒(50, 51番)、ローマカトリック教徒(61–63番)の最後の審判について扱われているところで述べました。彼らもまた自分自身の場所の中に最初の天を構成したからです――プロテスタント(新教徒)や福音主義者とも呼ばれる改革派教会の者の最後の審判について、何らかのものが、すなわち、彼らから構成された最初の天がどのように過ぎ去ったか言うことが残っています。なぜなら、前に言われたように、最初の天界があった者以外の他の者に審判は行なわれなかったからです。
これらの者が視察され、そして自分の内的なものの中に入れられた後に、悪とここからの虚偽にしたがって、また虚偽とここからの悪にしたがって切り分けられ、部類に分割され、彼らの愛に対応する地獄の中に投げ込まれました――彼らの地獄は中央の周囲のすべての側にありました。なぜなら、中央に改革派教会の者がいて、それらの周りにローマカトリック教会の者、またこれらの周りにイスラム教徒、また最も外の周囲の中に異教徒がいたからです(前の48番参照)。
地獄の中にいない者は、荒野の中に追い出されましたけれども、ある者は南と北の方位の中の平野に、社会を形成し、そして教えられ、天界へ準備されるために降ろされました――これらの者は、守られた者です。
しかし、これらのすべてのものがどのようになし遂げられたか、詳細に述べることはできません、というのは、彼らの審判はさらに長く続き、変化によって連続的に行なわれたからです。その時、記録に値する多くのものが見られ、聞かれたので、私はそれらを適切な順序で『黙示録についての解説』の中で示します。

最後の審判

72◀︎目次▶︎74

(11)今後の世と教会の状態について

73 世の今後の状態は、今まであったようなものと完全に似ているでしょう。なぜなら、霊界の中で行なわれたその大きな変化は、外なる形に関して、自然界の何らかの変化をひき起こさないからです。それゆえ、今後も等しく、前のように、市民の事柄・平和・協定・戦争、社会に属する他の全般的なものや特定的なものがあります。
最後の時について主が言われたことは、

戦争があります、そしてその時、国民が国民に対して、王国が王国に対して立ち上がり、個々の場所に、飢饉、疫病、地震があります(マタイ24:6, 7)。

これらは自然界の中のこのようなものでなく、霊界の中の対応するものを意味します。
というのは、みことばは預言(予言)の中で地の王国について、そこに国民について、そのように彼らの戦争についても、そしてまた、そこの飢饉・疫病・地震についても扱っていないで、霊界の中でそれらに対応するものを扱っているからです。それらがどんなものであるかは、『天界の秘義』の中に説明されており、それらからの抜粋が左の欄に見られま*1
[2]けれども、教会の状態については、それは今後、似たものとなりません。確かに、外なる外観に関して似ています、しかし、内なるものに関して似ていません――外なる外観に関して前のように分裂した教会があるでしょう、前のように、それらの教えが教えられ、異教徒のもとの宗教的信念も同様でしょう。しかし、教会の人間は、霊的な自由が回復されたので、今後、天界のものである霊的なものについて、信仰の事柄についてさらに自由に考える状態の中にいるでしょう。というのは、天界の中と地獄の中のすべてのものは秩序が回復され、ここから、神的なものまた神性に反するについてのすべての思考が流入するから。そのとき、神的なものについては天界から、神的なものに反するものは地獄から流入します。しかし、この状態の変化を人間は、そのことについて熟考しないので自分自身の中で気づかず、霊的な自由について何らかのものも流入についても知りません。それでも、天界の中でそのことは知覚され、そしてまた人間そのものにより、彼の死後に知覚されます。
人間に霊的な自由が回復されたので、それゆえ、みことばの霊的な意味が今や明らかにされ、そしてそのことによって内的な神的な真理が啓示されました。というのは、人間はそれらを前の状態の中では理解しなかったであろうし、理解したなら、冒涜したであろうからです。(人間に自由が天界と地獄の間の均衡によってあること、人間は自由の中でしか改心されることができないことは、著作『天界と地獄』597番から終わりまで参照)。


*1 みことばの中の「戦争」は、霊的な闘争を意味する(1659, 1664, 8295, 10455番)。
ここから、「弓」、「剣」、「盾」のようにすべての「戦争の武器」は、霊的な闘争の何らかのものを意味する(1788, 2686番)。
「王国」は、真理に関するまた虚偽に関する教会を意味する(1672, 2547番)。
そこの「国民」は、善の中にまた悪の中にいる者を意味する(1059, 1159, 1205, 1258, 1260, 1416, 1849, 4574, 6005, 6306, 6858, 8054, 8317, 9320, 9327番)。
「飢饉」は、善と真理の知識の欠乏を意味する(1460, 3364 ,5277, 5279, 5281, 5300, 5360, 5376, 5893番)――教会の荒廃もまた意味する(5279, 5415, 5576, 6110, 6144, 7102番)。
「疫病」は、善と真理の荒廃と終結を意味する(7102, 7505, 7507, 7511番)。
「地震」は、教会の状態の変化を意味する(3355番)。

最後の審判

73◀︎目次

74 私は天使と今後の教会の状態についていろいろなことを話しました。彼らは、「将来のことを知ることは主だけのものであるので、将来のことは知らない。しかし、教会の人間がこれまでいた奴隷と捕虜の状態は取り去られたこと、また今や取り戻された自由から、もし知覚したいなら、さらによく内的な真理を知覚できること、もしなりたいなら、このように内的になれることを知っている。それでも、キリスト教会の人間について貧弱な希望を、けれども、キリスト教界から遠く離れ、悩ます者から遠く隔てたある国民について、霊的な光を受けることができ、そして天的な霊的な人間になれるといった大いなる希望を持っている」と言いました。また、「今日、その国民のもとに内的な神的な真理が啓示されている。そしてまた、霊的な信仰で、すなわち、生活と心で、受け入れられていて、主を崇拝している」と言いました。