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天界と地獄456

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456. 身体から解放の後、人間の霊が人間であり、似た形をしていることは、多年にわたる日々の経験によって私に明らかなものとなっています。なぜなら、私は千回も彼らを見、聞き、彼らと話し、また、このようであることを信じないことについて、世の中の人間によって、信じている者は学識のある者から単純な者のように見なされることについても話したからです。
霊たちは、このような無知が今なお世界の中で続くこと、教会内で最大に続いていることを心から悲みました。
[2]彼らは、「しかし、この信仰は特に学識のある者から広がった。彼らは霊魂について身体の感覚から考え、そこから霊魂について単なる思考のような観念であるとしか理解しなかった。そのとき霊魂は、その中に何らかの主体なしに、またそこから眺められるとき、何か飛び去りやすい純粋なエーテルのようなものであって、それは身体が死ぬとき、消散せざるをえないものである――しかし、教会では、みことばから霊魂の不滅が信じられているので、思考のようなものである何か生命力のあるものを付加し、しかしそれでも、人間にあるような感覚的な能力は再び身体と結合する以前には付加させなかった」と言いました。
この見解に基づいて、復活についての教えが、また最後の審判が行なわれる時、霊魂と身体の結合がなされるという信仰があります。ここから、だれかが、教えから、また同時に仮説から霊魂について考えるとき、それが霊であり、人間の形をしていることをまったく理解しなくなります。
付け加えれば、今日のほとんどの者は、霊的なものが何であるか知らず、ましてすべての霊や天使である霊的なものが何らかの人間の形をしていることを知りません。
[3]ここから、世からやって来るほとんどすべての者が大いに驚くことは、〔自分が〕生きていること、以前と等しく人間であり、見、聞き、話し、また自分たちの身体に以前のように触覚が授けられていること、まったく何も違わないことです(前の74番参照)――しかし、自分自身に驚くことがやんだ後、教会が死後の人間のこのような状態について、このように天界と地獄についても何も知らないことに驚きます。そのときそれでも、世で生きていた者がどれほど多くても、すべての者は来世にいて、人間として生きています。
さらにまた、これは教会の信仰の本質的なものであるので、なぜこのことが、幻によって人間に明らかにされなかったか不思議に思ったので、天界から彼らに、「このことをすることができる。なぜなら、主が喜ばれるとき、これ以上に容易であるものは何もないからである。しかし、それでも自分自身がそれらに反した虚偽の中にいて、これを確信した者は、たとえその者自身が見たとしても信じるようにならない。さらに、虚偽の中にいる者を、幻によって確信させることは危険である。こうして最初に信じ、またその後、否定し、このように、そのことが真理そのものを冒涜することになるからである。なぜなら、冒涜することは、信じてその後、否定することであるからである。真理を冒涜する者は、すべての地獄の中で、最低の、また最もきびしい地獄に押し下げられる (*3)」と言われました。
[4]この危険が次の主のことばによって意味されています、

主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心(cor)をかたくなにされた。彼らが目で見、心で理解し、回心し、わたしが彼らをいやすことがないためであるヨハネ 12:40)。

また虚偽の中にいて、やはり信じない者は、次のことばによって意味されます、

アブラハムは地獄の富んだ者に、「彼らにはモーセと預言者がある、彼らに聞くがよい」と言った。しかし、彼は、「いいえ、父アブラハム。もし、死んだ者からだれかが彼らのところに行くなら、回心させられます」と言った。しかし、アブラハムは彼に、「もし、彼らがモーセと預言者を聞かないなら、さらにまた、死んだ者からだれかが生き返っても、信じない」と言ったルカ 16:29-31)。


*3 冒涜は、人間のもとの善と悪の混合、なおまた真理と虚偽の混合である(6348)。
真理と善を、すなわち、みことばと教会の聖なるものを冒涜することは、最初にそれらを認め、そしてさらに、それらにしたがって生きるなら、そしてその後、信仰から去り、それら否定し、自分自身と世俗に生きる者にしかできない(593, 1008, 1010, 1059, 3398, 3399, 3898, 4289, 4601, 10284, 10287)。
もし、人間が心の悔い改めの後、以前の悪に戻るなら、それは冒涜であり、その時、その後の彼の状態は以前の状態よりも悪くなる(8394)。
聖なるものを認めなかった者、ましてそれを知らない者は、冒涜することができない(1008, 1010, 1059, 9188, 10284)。
異教徒は、教会外にいて、みことばを持たないので、冒涜することができない(1327, 1328, 2051, 2284)。
それゆえ、ユダヤ人に内的な真理は明かされなかった。なぜなら、もし明かされ、認められたなら、それを冒涜してしまったであろうから(3398, 3489, 6963)。
来世で冒涜者の運命は、すべてのうちで最悪である。彼らが認めた善と真理が存続し、悪と虚偽も存続し、密着するので、いのちが引き裂かれるからである(571, 582, 6348)。
それゆえ、主により、冒涜が生じないよう、最大に配慮されている(2426, 10287)。