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天界と地獄

目次▶︎2

序 文

1 主は、教会の最後の時である世代の完了(*1)について弟子たちの前で話されたとき、それは愛と信仰に関してその教会の継続的な状態(*2)についての予言であって、その終わりで、次のように言われました——

その日の苦難の後、直ちに、太陽は暗くされ、月はその光を与えず、星は天から落ち、天の力は揺り動かされます。その時、人の子のしるしが天の中に現われます。またその時、地のすべての種族は泣き叫び、人の子が力と大いなる栄光をもって天の雲の中に来るのを見ます。〔人の子は〕大きな音のらっぱをもったご自分の天使たちを送り出され、〔天使たちは〕その方の選ばれた者たちを、天の端から端まで、四つの方向から集めます(マタイ24:29–31)。

文字どおりの意味にしたがって、これらのことばを理解する者は、それらすべてのものが、記述されたその意味にしたがって、〝最後の審判〟と呼ばれる最後の時に起こるとしか信じません。このように、太陽と月が暗くされ、星が天から落ち、主のしるしが天に現われ、らっぱをもった天使たちと一緒にその方が雲の中に見られることだけでなく、他の箇所の予言にもまたしたがって、目に見える全世界が滅び、その後、新しい天が新しい地とともに存在するようになるとしか信じません——今日の教会内には、この見解をもつ者が極めて多数います。
しかし、このように信じる者は、みことばの個々のものの中に隠れているアルカナ(秘義)を知りません。というのは、みことばの個々のものの中に内意(内なる意味)があるからです。そこには、文字どおりの意味にあるような自然的なものや世俗的なものではなく、霊的なものや天的なものが意味されています。このことは多くの言葉からなる語句の意味についてだけでなく、それぞれの言葉についても言えます(*3)。みことばは、個々のものの中に内意があるようにという目的のために、対応そのものによって書かれているからです(*4)
その意味がどんなものであるかは、『天界の秘義』の中でその意味について述べ、示したすべてのものから、またここから集められた「黙示録」の中の白い馬について〔解説するため〕の〔小著〕『白い馬について』の解説の中に見られるものからも、明らかにすることができます。
前に引用した、主が天の雲の中にご自身が来られることについて語られた部分も、同じ意味にしたがって理解しなくてはなりません。暗くされたそこの「太陽」によって愛に関する主が意味され(*5)、「」によって信仰に関する主が(*6)、「」によって善と真理の知識が、または愛と信仰の知識が(*7)、「天の中の人の子のしるし」によって神的真理の出現が、「地の種族」によって真理と善のすべてが、または信仰と愛のすべてが(*8)、「天の雲の中に力と栄光をもって主が来られること」によって、みことばの中のその方の臨在と啓示が(*9)、「雲」によって、みことばの文字どおりの意味が(*10)、「栄光」によって、みことばの内意が意味され(*11)、「大きな音のらっぱをもった天使たち」によって、神的真理がやって来る天界が意味されます(*12)
ここから、主のこれらのことばによって意味されることを明らかにすることができます。それは、もはや愛がなく、それゆえ信仰もない時である教会の最後の時に、主が、みことばのその内意を開かれ、天界のアルカナ(秘義)を啓示されることです——そこで、このあとに啓示されるものは、天界と地獄について、同時に死後の人間の生活についてのアルカナです。
今日の教会の人間は、たとえ、みことばの中にすべてのことが書かれて示されていても、天界や地獄について、ほとんど何も知らず、死後の自分の生活についても知りません。それどころか教会の内部に生まれている多くの者もまた、心の中で「だれがそこからやって来て、語ったか?」と言って、それらのことを否定します。
そこで、世からの多くのものに熟達している者に特に支配的であるこのような否定的な原理が、心また信仰において単純な者を汚し、害わないように、私に、人間と話すように天使と話すことが、また天界の中のものを、さらに地獄の中のものを見ること、そしてこのことがこの十三年間続いており、それゆえ、今や、こうして無知が照らされて、不信が消散されることを期待して、それらを「見たことと聞いたこと」から記述することが与えられました。
今日、このような直接の啓示が存在するのは、これが主の来臨によって意味されることであるからです。


*1 世代の完了、それは教会の最後の時である(4535, 10622)。
*2 主は、世代の完了について、またご自身の来臨についても、このように教会の継続的な荒廃と最後の審判について、「マタイ福音書」第24、25章で予言され、そのことが「創世記」の第26章から第40章の始めに解説されている。(3353–3356, 3486–3489, 3650–3655, 3751–3759 [3751–3757], 3897–3901, 4056–4060, 4129–4231 [4229-4231], 4332–4335, 4422–4424, 4535, 4635–4638, 4661–4664, 4807–4810, 4954–4959, 5063–5071)。
*3 みことばのすべてと個々のものの中に、内意(内なる意味)、すなわち、霊的な意味がある(1143, 1984, 2135, 2333, 2395, 2495, 4442, 9049, 9086 )。
*4 みことばは対応そのものによって書かれており、それゆえ、そこのすべてと個々のものは霊的なものを意味する(1404, 1408-1409, 1540, 1619, 1659, 1709, 1783, 2900, 9086)。
*5 みことばの中の「太陽」は、愛に関する主を、ここから主への愛を意味する( 1529, 1837, 2441, 2495, 4060, 4696, 4996 [4966?], 7083, 10809)。
*6 みことばの中の「月」は、信仰に関する主を、ここから主への信仰を意味する(1529-1530, 2495, 4060, 4996 [4696?], 7083)。
*7 みことばの中の「星」は、善と真理の知識を意味する(2495, 2849, 4697)。
*8 「種族」は、統一体としてのすべての真理と善を、そのようにすべての信仰と愛を意味する(3858, 3926, 4060, 6335)。
*9 「主の来臨」は、みことばにおけるその方の臨在と啓示である(3900, 4060)。
*10 みことばの中の「雲」は、文字〔どおり〕のみことばを、すなわち、その文字どおりの意味を意味する(4060, 4391, 5922, 6343, 6752, 8106, 8781, 9430, 10551, 10574)。
*11 みことばの中の「栄光」は、天界の中にあるような、みことばの内意の中にあるような、神的真理を意味する(4809, 5292 5922, 8267, 8427, 9429, 10574)。
*12 「らっぱ」または「角笛」は、天界の中の神的真理を、天界からの啓示を意味する(8815, 8823, 8915)。このことは「声」によっても同様〔なものが意味される〕(6971, 9926)。

 

天界と地獄

1◀︎目次▶︎3

1 主は天界の神であられる

2 最初に、天界の神がだれであるか知らなくてはなりません、他のものはこのことにかかっているからです。全天界では、天界の神として主おひとりしか認められていません。主が教えられたように、天界で、天使は次のように言っています、

主は御父と一つです。主の中に御父が、御父の中に主がおられます。主を見る者は御父を見ます。すべての聖なるものは主から発出します(ヨハネ10:30, 38, 14:9–11, 16:13–15)。

私は天使としばしばこの事柄について話しましたが、彼らは常に、「天界では神を三つに分けることはできません。神性が一つであることを知り、知覚しているので、主の中で一つです」と言いました——さらにまた、「教会に属して、神性の三一性の観念をもって世から来た者は、その思考はあるものから他のものへとさ迷うので、天界に入ることはできません。また、天界では三を考えて、一を言うことは許されません(*1)」とも言いました。天界ではそれぞれの者が思考から話すからであり、そこの話し方は思考に属し、思考のままに語るからです。それゆえ、世で神性を三つに区別し、それぞれの神に分離した観念を取り入れて、その観念を主の中で一つとし、集中させなかった者は、天界に受け入れられることはできません。天界ではすべての思考が伝達し、それゆえ、もし三を考えて、一と言う者がそこへ来るなら、直ちに識別され、追い払われるからです。
しかし、知らなくてはならないことがあります。真理を善から、または信仰を愛から分離しなかった者はすべて、来世で、主が全世界の神であることを教えられるとき、主についての天界での観念を受け入れ、これと反対に信仰を生活から分離した者は、すなわち、信仰の真理の戒めにしたがって生きなかった者は、これと異なることです。


*1 キリスト教徒は、来世で、唯一の神についてどんな観念をもっているか調べられ、三つの神の観念をもっていることがわかった(2329, 5256, 10736, 10738, 10821)。
天界では、主の中に神的三一性が認められている(14–15, 1729, 2005, 5256, 9303)。

天界と地獄

2◀︎目次▶︎4

3 教会内にいて、主を否定し、ただ御父だけを認めて、このような信仰を強固にした者は天界の外にいます。彼らに、主おひとりが崇拝される天界からは何の流入もないので、どんな事柄についても真のことを考える能力を徐々に奪われ、ついにおしのように黙るか、愚かに話し、関節の力が抜けたかのように、腕は垂れ下がり、揺れ動きます。
けれども、ソッツィーニ主義者のように、主の神性を否定して、その方の人間性だけを認めた者は、同様に天界の外にいて、右の方向の少し前方に導かれ、そして深淵に降ろされます。こうしてキリスト教界の他の者から完全に分離されます。
すべてのものが存在するようになるもとの目に見えない神を〝全世界の存在者〟と呼んで、その神を信じると言いながらも、主についての信仰を拒否する者は、神を信じていないことが経験からわかりました。目に見えない神性は、彼らにとって自然の根源のようなものであり、それに対して信仰と愛はあてはまらず、思考の対象とならないからです(*2)——彼らは自然主義者と呼ばれる者の間に追放されます。
教会外に生まれて、異邦人と呼ばれる者は異なります。彼らについては、あとで述べます。


*2 何らかの観念で知覚できない神性は、信仰で受けれられることができない(5110, 5633, 6982, 6996, 7004, 7211, 9359, 9972, 10067)。

天界と地獄

3◀︎目次▶︎5

4 天界の三分の一を占めているすべての幼児は、主が彼らの父であることを教えられ、その後、すべての者の主であること、そのように天地の神であることを承認し、信じます。
幼児は天界で成長し、知識を通して、天使の知性と知恵にまで完成させられます、〔このことも〕あとで述べます。

天界と地獄

4◀︎目次▶︎6

5  教会に属す者は、主が天界の神であられることを疑うことができません。主ご自身が教えられているからです、

御父のすべてのものは、自分のものであること(マタイ11:27, ヨハネ16:15, 17:2)。
天と地におけるすべての力は、自分にあること(マタイ28:18)。

天を支配する者は地もまた支配するので、「天と地」と言われています、一方はもう一方によるからです(*3)
天と地を支配することは、愛に属すすべての善と信仰に属すすべての真理を、したがってすべての知性と知恵を受け取ることであり、またこうしてすべての幸福を、要するに、永遠のいのちをその方から受け取ることです。
このこともまた、主は次のように言われて、教えられました、

御子を信じる者は、永遠のいのちを持つ。しかし、御子を信じない者は、いのちを見ない(ヨハネ3:36)。

他の箇所に、

わたしはよみがえりであり、いのちです。わたしを信じる者は、死んでも、生きます。生きて、わたしを信じる者はすべて、永遠に死ぬことがありません(ヨハネ11:25, 26)。

また他の箇所に、

わたしは道であり、真理であり、いのちです(ヨハネ16:6)。


*3 全天界は主のものである(2751, 7086)。その方に天と地での力がある(1607, 10089, 10827)。主は天界を支配されるので、これによるすべてのものも支配され、そのように世のすべてのものを支配される(2026, 2027, 4523, 4524)。主おひとりに、地獄を遠ざけ、悪を妨げ、そして善に保ち、そのように救う力がある(10019)。

天界と地獄

5◀︎目次▶︎7

6 世で生きた間に、御父を告白し、主については、他の人間がもつような考えしかなく、ここからその方が天界の神であると信じなかった霊がいました。それで、主の天界以外に何らかの天界があるかどうか、その者が望むならどこでも、あちこち歩きまわり、捜し求めることが許されました。それで数日の間、捜し求めてみましたが、どこにも見つけ出せませんでした。
彼らは、天界の幸福を称賛と支配することにあるとした者でした。彼らは望むものを得ることができないで、「天界はそのようなものから成り立っていない」と言われたので憤り、世でのように、自分たちが他の者を支配して、称賛を得ることができる天界を得ようと欲したのです。

天界と地獄

6◀︎目次▶︎8

主の神性が天界をつくっている

7 ひとまとめにされた天使が天界を構成するので、天使は天界と言われます。しかしそれでも、全体的にも部分的にも、天界をつくっているものは主から発出している神性であり、それが天使に流入し、彼らにより受け入れられています。
主から発出している神性は、愛の善と信仰の真理です。それで、主から善と真理を受け入れれば受け入れるほど、それだけ天使となり、天界がつくられます。

天界と地獄

7◀︎目次▶︎9

8 天界の中のだれもが、〝自分自身から欲し、行なう善は何もない。自分自身から考え、信じる真理も何もない。善と真理は神性からのもの、そのように主からのものである。自分自身からの善と真理には神性からのいのちが内在しないので善と真理ではない〟と知り、信じており、それどころか知覚しています。
最内部の天界の天使もまた、流入を明らかに知覚し、感じています。その流入とは、受け入れれば受け入れるほど自分が天界の中にいると思える流入です。なぜなら、受け入れるほど、愛と信仰の中に、知性と知恵の光の中に、ここから天界の楽しさの中にいるからです——それらすべては主の神性から発出し、天界の天使はそれらの中にいるので、主の神性が天界をつくるのであって、天使が何らかの自分のプロプリウム(固有のもの)からつくるのではないことが明らかです(*1)
ここから、みことばの中で、天界は「主の住まい」そして「その方の御座」と言われます。また、天界の中にいる者は主の中に存在すると言われます(*2)
けれども、どのように主から神性が発出し、天界を満たすかは、あとで述べます。


*1 天界の天使は、すべての善が主から存在し、自分自身からは何もないことを、また主が自分たちのもとのご自分のものの中に住まわれ、自分たちのプロプリウム(固有のものの)中には住まわれないことを認めている(9338, 10125, 10151, 10157)。
それゆえ、みことばの中では、天使によって主の何らかのものが意味される(1925, 2821, 3093, 4085, 8192, 10528)。
またそれゆえ、天使は、主からの神性を受け入れることから神々と呼ばれる(4295, 4402, 7268, 7873, 8301, 8192)。
さらにまた、善であるすべての善は、そして真理であるすべての真理は、したがってすべての平和・愛・仁愛・信仰は主から存在する(1614, 2016, 2751, 2882-2883, 2891-2892, 2904)。
また、すべての知恵と知性〔も〕(109, 112, 121, 124)。
*2 天界の中にいる者は、主の中にいると言われる(3637-3638)。

天界と地獄

8◀︎目次▶︎10

9 天使は自分の知恵からさらに先へ進めて、「すべての善と真理だけでなく、すべてのいのちもまた主からのものです」と言い——このことを次のことから確信しています。何であれ、すべてのものはそれ自体から存在することはできず、それ以前のものから存在するのであり、そのようにすべてのものは、すべてのいのちの〝エッセ(存在)そのもの〟と呼ばれる〝最初のもの〟から存在するようになり、また同じく存続すること、そして存続することは絶えず存在するようになることであるので、中間のものを通して〝最初もの〟と常なる結びつきの中に保たれないなら、それは直ちに分解し、完全に消散することです——これに加えて、「唯一のいのちの泉が存在し、人間のいのちはそこからの流れです。人間のいのちがその泉から絶えず存続しないなら直ちに消滅します」と言っています。
[2]さらに、「主である唯一のいのちの泉からは、神的善と神的真理以外に何も発出せず、それらは、それぞれの者が受け入れるのにしたがって働きかけます。それらを信仰と生活で受け入れる者は、彼らの中に天界があるが、それらを退けるかまたはそれらを窒息させる者は、それらを地獄に変えてしまいます。彼らは善を悪に、真理を虚偽に、このようにいのちを死に変えるからです」と言いました。
さらにまた、全世界の中のすべてのものは善と真理に関係し、人間の愛のいのちである意志のいのちは善に関係し、人間の信仰のいのちである理解力のいのちは真理に関係することから、すべてのいのちは主からのものであることも確信しています。それゆえ、すべての善と真理が上方からやって来るとき、すべてのいのちもまた上方からやって来ることがいえます。
[3]天使はこのように信じているので、それゆえ、自分たちが行なう善に対する感謝のすべての行為を拒み、もしだれかが善を自分たちに帰するなら、憤り、引き下がってしまいます——〝自分自身から賢い〟、〝自分自身から善を行なう〟と信じる者に驚きます——自分自身のために行なう善は、自分自身から行なうので、善とは呼びません。しかし、善のために善を行なうとき、その善を神性からの善と呼んでいます。その善は主であるので、天界をつくるものはこの善です(*3)


*3 主からの善は本質的に内部に主をもっている、けれども、プロプリウム(固有のもの)からの善はそうではない(1802, 3951, 8478)。

天界と地獄

9◀︎目次▶︎11

10 世で生きた間に、〝行なう善や信じる真理は自分自身からものである。または自分のものとして自分自身に占有する〟といった信念に凝り固まり、その信念の中で、功績を善行に置き、義を自分自身に要求した霊は、天界に受け入れられません。天使は彼らを愚鈍な者として、また泥棒として眺め、避けます。愚鈍な者として眺めるのは、常に目を自分自身へ向けて、主へ向けないからであり、泥棒として眺めるのは、主から、その方のものを取り去るからです。
これらの者は、主の神性が天使たちのもとに天界をつくる、という天界の信仰に反しています。

天界と地獄

10◀︎目次▶︎12

11 天界の中に、また教会の中にいる者は、主の中にいて、主もまた彼らの中におられることを、主は、次のように言われ、教えられています、

わたしにとどまりなさい、わたしもあなたがたの中にとどまります。枝は、もしぶどうの木にとどまらないなら、枝だけから実を結ぶことができないように、そのようにあなたがたもまた、もしわたしにとどまらないなら、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。わたしにとどまり、わたしもその中にとどまる者は、多くの実を結びます。わたしなしに、あなたがたは何もすることができません(ヨハネ15:4-7)。

天界と地獄

11◀︎目次▶︎13

12 そこで、これらのことから、次のことを明らかにすることができます。主は天界の天使のもとのご自分のものの中に住まわれ、こうして主は天界のすべてのものの中のすべてであられることです。またこのことの理由は、主からの善が彼らにとって主であるからです。主からのものは主であり、したがって、主からの善は天使にとって天界であり、彼らのプロプリウム(固有のもの)は何ものでもないからです。

天界と地獄

12◀︎目次▶︎14

3 天界での主の神性は、主への愛と隣人に対する仁愛である

13   天界では主から発出する神性は神的真理と呼ばれ、その理由は次のものです。
この神的真理は、主により、その方の神的愛から天界の中へ流入します。
神的愛とそこからの神的真理は、世の太陽の火とそこからの光にたとえられ、愛は太陽の火のようなもの、そこからの真理は太陽からの光のようなものです――対応からも、火は愛を、光はそこから発出する真理を意味します(*1)
ここから、主の神的愛から発出する神的真理がどのようなものか明らかにすることができ、それは本質的には神的真理に結合した神的愛です。結合しているので、光と結合した世の太陽の熱が、春と夏の時に地のすべてのものを繁殖させるように、天界のすべてのものを生かします。熱が光と結合しない他の時は、そのように光が冷たい時は、すべてのものは無活動であり、消えたように横たわります。熱にたとえられる神的善は、天使のもとの愛の善です。そして光にたとえられる神的真理は、それを通して、そこから愛の善がやって来るものです。


*1 みことばの中で「火」は、〔善と悪〕両方の意味の愛を意味する(934, 4906, 5215)。
聖なる「火」と天界の「火」は、神的愛を、またその愛に属すすべての情愛を意味する(934, 6314, 6832)。
「天界の光」は神的真理であるので、そこからの「光」は、愛の善から発出する真理を意味する(3195, 3485, 3636, 3643, 3993, 4302, 4413, 4415, 9548, 9684)。

天界と地獄

13◀︎目次▶︎15

14  天界をつくる天界の神性が愛であるのは、愛は霊的な結合であるからです——愛は天使を主に結合させ、天使を自分たち相互の間で結合させます。すべての天使が主の目の前にひとりの者であるかのように結合します。
さらに、だれにとっても、愛はいのちのエッセ(存在)そのものです。それゆえ、愛から天使に、そしてまた人間にいのちがあります。
人間の最内部の生命力が愛からであることは、熟考する者ならだれでも知ることができます。というのは、愛があれば熱くなり、なくなれば冷たくなり、奪われれば死ぬからです(*2)
しかし、それぞれの人間の愛がどのようなものかによって、その者のいのちはそのようなものであることは知っておくべきです。


*2 愛はいのちの火であり、いのちそのものは実際にそこからのものである(4906, 5071, 6032, 6314)。

天界と地獄

14◀︎目次▶︎16

15  天界には区別される二つの愛である主への愛と隣人に対する愛があります。最内部のまたは第三の天界には主への愛があり、第二のまたは中間の天界には隣人に対する愛があります——両方とも主から発出し、両方とも天界をつくります。
どのように二つの愛が互いに区別されるか、どのように互いに結合するか、天界の中の明らかな光の中でははっきりしていますが、世では不明確でしかありません。
天界では、主を愛することによってその方を人物として愛するのではなく、その方からの善を愛することが意味され、善を愛することは、愛から善を欲し、行なうことです。隣人を愛することによって仲間を人物として愛するのではなく、みことばからの真理を愛することが意味され、真理を愛することは真理を欲し、行なうことです——ここから、これらの二つの愛は、善と真理のように区別され、善と真理のように結合されることが明らかです(*3)
しかし、これらのことは、愛とは何か、善とは何か、隣人とは何かを知らない者の観念の中には、ほとんど入ってきません(*4)


*3 主と隣人を愛することは、主の戒めにしたがって生きることである(10143, 10153, 10310, 10578, 10648)。
*4 隣人を愛することは人物を愛することではなく、彼のもとにある「彼を彼とするもの」を、そのように真理と善を愛することである(5028, 10336)。
人物を愛して、彼のもとにある「彼を彼とするもの」を愛さない者は、悪と善を等しく愛する(3820)。仁愛は、真理を意志し、真理のために真理に動かされることである(3876, 3877)。
隣人に対する仁愛は、すべての働きとすべての職務で、善・公正・正義を行なうことである(8120-8122)。

天界と地獄

15◀︎目次▶︎17

16  何度か、私は天使とこの事柄について話しました。彼らは、「主と隣人を愛することは善と真理を愛することであり、それらを欲することからそれらを行なうことであって、このことを教会の人間が知らないことに驚かされました。それでもそのときだれでも、他の者が欲することを自分も欲して行なうことによって、自分の愛を証言し、こうして逆に愛され、その者と結合されることを、また彼を愛すると言うだけで彼の意志を行なわないのなら、その本質は愛することではないことを知ることができます――そしてまた、主から発出する善は、その中にその方がおられるので、その方に似たものであることも知ることができます。欲することと行なうことによって、善と真理を自分の生活で行なう者は、その方に似たものになり、その方と結合されます。さらにまた、欲することは行なうことを愛することです」と言いました。
このようであることは、主もまたみことばの中で、言って、教えられています、

わたしの戒めを保ち、それを行なう者は、わたしを愛する者です。……わたしは彼を愛し、彼に住まいをつくります(ヨハネ 14:21, 23)。

また他の箇所に、

もしあなたがたがわたしの命令を行なうなら、あなたがたはわたしの愛にとどまります(15:10, 12)。

天界と地獄

16◀︎目次▶︎18

17  主から発出し、天使を感動させ、天界をつくる神性は愛であり、このことは天界でのすべての経験により実証されます。そこにいるすべての者は、愛と仁愛の形であり、言葉にできない美しさで見られます、彼らの顔から、話しぶりから、彼らのいのちの個々のものから愛が輝き出ているからです(*5)
さらに、それぞれの天使とそれぞれの霊から発出するいのちの霊的なスフェアがあって、それが彼らを取り巻き、それによって、時には遠く離れていても、愛の情愛に関して彼らがどのようなものであるかが知られます。なぜなら、それらのスフェアは、情愛とそこからの思考のいのちから、すなわち、それぞれの者の愛とそこからの信仰のいのちから流れ出るからです。
天使から出てくるスフェアは、彼らのそばにいる者たちのいのちの最内部を感動させるような愛に満ちています。私はこれを何度か知覚し、そのように感動させられました(*6)
愛から天使が自分のいのちをもつことは、来世ではそれぞれの者が自分の愛にしたがって自分の向きを変えることからもまた明らかです。主への愛に、また隣人に対する愛にいる者は、絶えず自分を主へ向けます。けれども、自己愛にいる者は、絶えず自分を主から後ろ向きに向きを変えます――彼らが身体をどのように方向転換してもこうなります。なぜなら、来世では、空間は、同じく方位も、彼らの内部の状態にしたがっており、そこでは世のように定まっていないで、彼らの見ている顔の向きにしたがうからです――けれども、天使が自分自身を主へ向けるのではなく、主が、ご自分からのものを行なうことを愛する者を、ご自分へと向けられるのです(*7)
しかし、これらの多くのことについては、あとで来世での方位のところで述べます。


*5 天使は愛と仁愛の形である(3804, 4735, 4797, 4985, 5199, 5530, 9879, 10177)。
*6 霊的なスフェアは、それぞれの人間・霊・天使から流れ出て、わき出て、彼らを取り囲む、いのちのスフェアである(4497, 5179, 7454, 8630)。
このスフェアは、彼らの情愛とそこからの思考のいのちから流れ出る(2489, 4464, 6206)。
*7 霊と天使は自分自身を常に自分の愛へ向ける、天界にいる者は自分自身を変わらずに主へ向けている(10130, 10189, 10420, 10702)。
それぞれの者にとって、来世での方位は顔の見る方向にしたがい、ここから決定され、世の中のものと異なる(10130, 10189, 10420, 10702)。

天界と地獄

17◀︎目次▶︎19

18  主の神性が天界の中で愛であることは、愛が、天界のすべてのものである平和・知性・知恵・幸福の容器であるからです。愛はそれ自体に適合するすべてと個々のものを受け入れ、それらを望み、それらを探し求め、自発的であるかのようにそれらに浸透しますが、それは、愛が絶えずそれらにより豊かにされ、完全にされることを欲するからです(*8)――このことは人間にもまた知られています。なぜなら、人間のもとにある愛は、記憶の事柄からその愛に一致するすべてのものを、いわば調べ、汲み取り、集め、その愛の中とその愛の下に配置するからです。〝その中〟とは愛であるように、〝その下〟とは愛に仕えるようにということです。しかし、愛と一致しない他のものは、退け、追い払います。
愛には、愛それ自体に適合する真理を受け入れる能力と、その真理をそれ自体に結合させる願望が内在します。このことは、天界に上げられた者によってもまた極めて明らかとなりました。世では単純な者でしたが、天使の間に来たとき、それでも天使の知恵の中に、天界の幸福の中に入れられました――その理由は、善と真理を善と真理のために愛し、それらを自分のいのちに植え付け、そのことによって、言葉にできないような天界のすべてのものとともに、その天界を受け入れる能力を得たからでした。
けれども、自己愛と世俗愛の中にいる者は、それらを受け入れる能力がなく、それらを顧みず、それらを退け、それらが接触し、流入するとすぐさま逃げ去り、彼らの愛に似た愛の中にいる地獄の者と交際します。
天界的な愛にそのようなものが内在することを疑い、そうであるのか知ることを望んだ霊がいました。それゆえ、天界的な愛の状態へ入れられ、その間、妨げとなるものは遠ざけられて、遠く隔てた前方の天使の天界へ運ばれ、そこから私と語りました。彼らは、「言葉で表現することのできない内的な幸福を感じており、以前の状態に戻ることを大いに悲しんでいる」と言いました。
他の者もまた天界に上げられ、彼らは、内部にまたは高みに上げられるようにして、知性と知恵の中に引き入れられ、以前には彼らに理解できなかったような知性と知恵を知覚しました。
ここから、主から発出する愛が天界とそこのすべてのものの容器であることが明らかです。


*8 愛に無数のものが内在し、愛はそれ自体に一致するすべてのものを受け入れる(2500, 2572, 3078, 3189, 6323, 7490, 7750)。

天界と地獄

18◀︎目次▶︎20

19  主への愛と隣人に対する愛は、それ自体の中にすべての神的な真理を包含します。このことは、主ご自身がこれらの二つの愛について語って、言われているものから明らかにすることができます、

あなたは愛しなさい……あなたの神をあなたの全部の心から、あなたの全部の精神から……。これは最大で第一の戒めです。第二は……これと同じ〔に大切〕ですが、あなたの隣人をあなた自身のように愛することです。この二つの戒めに律法と預言者がかかっています(マタイ22:37–40)

律法と預言者」とは、みことばの全体、したがって、すべての神的な真理です。

天界と地獄

19◀︎目次▶︎21

4 天界は二つの王国に分かれている

20  天界には無限の多様性があり、ある社会が他の社会と似ることはまったくなく、ある天使でさえ他の天使と似ていないので (*1)、それゆえ、天界は、全般的に、特定的に、部分的に区別され、全般的には二つの王国に、特定的には三つの天界に、そして部分的には無数の社会に区別されます――個々のものについては今から述べます。
王国と言われます、天界が「神の王国」と呼ばれるからです。


*1 無限の多様性があり、他のものと同じものは何もない(7236, 9002)。
天界の中にもまた無限の多様性がある(684, 690, 3744, 5598, 7236)。
天界の中の多様性とは善の多様性である(3744, 4005, 7236, 7883, 7836, 9002)。そのことによって、天界の中のすべての社会は、また社会の中のそれぞれの天使は自分自身から相互に分かれている(690, 3241, 3519, 3804, 3986, 4067, 4149, 4263, 7236, 7833, 7836)。
しかし、それでもすべての者は主からの愛によって一つのものとなっている(457, 3986)。

天界と地獄

20◀︎目次▶︎22

21   主から発出する神性をさらに内的に受け入れる天使とそれほど内的に受け入れない天使がいます。さらに内的に受け入れる者は天的な天使と呼ばれ、それほど内的に受け入れない者は霊的な天使と呼ばれます――ここから天界は二つの王国に区別され、その一つは天的な王国、もう一つは霊的な王国と呼ばれます。(*2)


*2 天界は全体として天的な王国と霊的な王国の二つの王国に分かれている(3887, 4138)。
天的な王国の天使は主の神性を意志の部分に受け入れ、このように理解力の部分に受け入れる霊的な天使よりも内的に受け入れる(5113, 6367, 8521, 9936, 9995, 10124)。

天界と地獄

21◀︎目次▶︎23

22   天的な王国を構成する天使は、主の神性をさらに内的に受け入れるので、内的な天使そしてまた高い天使と呼ばれます。ここから、彼らの構成する天界もまた、内的な天界そして高い天界と呼ばれます。(*3)
高い、また低いと言われるのは、内的なものと外的なものはこのように呼ばれるからです。(*4)


*3 天的な王国を構成する天界は、高いものと呼ばれる。けれども、霊的な王国を構成する天界は、低いものと呼ばれる(10068)。
*4 内的なものは高いものによって表現され、高いものは内的なものを意味する(2148, 3084, 4599, 5146, 8325)。

天界と地獄

22◀︎目次▶︎24

23   天的な王国にいる者は、天的な愛と呼ばれる愛の中に、霊的な王国にいる者は、霊的な愛と呼ばれる愛の中にいます――天的な愛は主への愛であり、霊的な愛は隣人に対する仁愛です。
すべての善は愛に属します、なぜなら、ある者が愛するものは、これがその者に善であるからです。それゆえ、一つの王国の善は天的と呼ばれ、もう一つの王国の善は霊的と呼ばれます。
ここから、これらの二つの王国が、主への愛の善と、隣人に対する仁愛の善のように、互いに区別されることが明らかです (*5) ――主への愛の善は内的な善であり、その愛は内的な愛であるので、それゆえ、天的な天使は内的な天使であり、高い天使と呼ばれます。


*5 天的な王国の善は主への愛の善である、霊的な王国の善は隣人に対する仁愛の善である(3691, 6435, 9468, 9680, 9683, 9780)。

天界と地獄

23◀︎目次▶︎25

24 天的な王国は、主の〝祭司の王国〟とも呼ばれ、みことばの中で「その方の住まい」と呼ばれます。また霊的な王国は、その方の〝王の王国〟と呼ばれ、みことばの中で「その方の王座」と呼ばれます——世でもまた、主は天的な神性から「イエス」と呼ばれ、霊的な神性から「キリスト」と呼ばれています。

天界と地獄

24◀︎目次▶︎26

25  主の天的な王国の中の天使は、霊的な王国の中にいる天使と比べて、知恵と栄光で大いにまさっています。その理由は、その方への愛の中にいて、その方にさらに近く、さらに結合しているので、主の神性を内的に受け入れるからです。(*6)
天的な天使がこのようであるのは、彼らが神的真理を直ちに生活の中に受け入れたから、また受け入れているからであり、霊的な天使のように、先に記憶と思考の中に受け入れるのではないからです。それゆえ、自分の心(cor)に書きつけた神的真理をもっており、あたかも自分自身の中に見るかのように、それらを知覚しており、決してそれらについて、「そうである、そうではない」などと推論しません (*7)――彼らがどのようであるか「エレミヤ書」に記されています、

わたしはわたしの律法を彼らの精神に与え、それを彼らの心に書き記す。……もはやだれも自分の友に、だれも自分の兄弟に、「エホバを知れ」と言って、教えない。……彼らの最小の者から彼らの最大の者まで、わたしを知る(31:33, 34)。

また、「イザヤ書」に、「エホバにより教えられた〔者〕」(54:13)と呼ばれています。
エホバにより教えられた者が主により教えられた者であることは、主ご自身が「ヨハネ福音書」で教えられています(6:45, 46)。


*6 天的な天使は、霊的な天使に比べて計り知れないほど賢明である(2718, 9995)。
天的な天使と霊的な天使の間の相違はどんなものか(2088, 2669, 2708, 2715, 3235, 3240, 4788, 7068, 8521, 9277, 10295)。
*7 天的な天使は、信仰の真理について、それらを自分自身の中に知覚しているので推論しない。しかし霊的な天使は、それらについて、そうであるか、または、そうでないか、と推論する(202, 337, 597, 607, 784, 1121, 1384, 1398, 1919, 3246, 4448, 7680, 7877, 8780, 9277, 10786)。

天界と地獄

25◀︎目次▶︎27

26 「神的真理を直ちに生活の中に受け入れた者、また受け入れている者は、他の者よりも知恵と栄光がある」と言われました。というのは、それらを聞くとすぐに、それらを意志し、行ない、記憶の中に蓄えてから、その後、そうなのかどうか、と考えないからです。
そのような者は、聞いたことが真理であるかどうかを、主からの流入によって直ちに知ります。主は人間の意志することの中に直接に流入され、意志することを通して彼の考えることの中へ間接に流入されるからです。また同じことですが、主は善の中に直接に流入され、善を通して真理の中に間接に流入されるからです。(*8) なぜなら、意志に属し、ここから働きに属すものは善と言われますが、記憶に属し、ここから思考に属すものは真理と言われ――さらにまた、すべての真理は、意志に入るとすぐに善へ変えられ、愛に植えつけられるからです。それでも、真理が、記憶とそこからの思考の中にあるかぎり、善とはならず、生かされもせず、人間のものともなりません。人間は意志とそこからの理解力から人間であり、意志から分離した理解力からは人間ではないからです。(*9) 


*8 主の流入は、善の中へ、善を通して真理の中へであって、その逆ではない。このように、意志の中へ、それを通して理解力の中へであって、その逆ではない(5482, 5649, 6027, 8685, 8701, 10153)。
*9 人間の意志は彼のいのちのエッセ(存在)であり、愛の善の容器である。また理解力はそこからのいのちのエキシステレ(実在)であり、信仰の真理と善の容器である(3619, 5002, 9282)。
このように、意志のいのちは人間の主要ないのちであり、理解力のいのちはそこから発出する(585, 590, 3619, 7342, 8885, 9282, 10076, 10109, 10110)。
意志で受け入れられたものは、いのちに属すものとなり、人間に自分のものにされる(3161, 9386, 9393)。
人間は意志とここからの理解力から人間である(8911, 9069, 9071, 10076, 10106, 10110)。
さらにまた、よく意志し、よく理解する者はだれでも他の者から愛され、尊重される。しかし、よく理解するが、よく意志しない者は退けられ、さげすまれる(8911, 10076)。
さらにまた、人間は死後、彼の意志とそこから理解力のあったままにとどまり、理解力に属す、同時に意志に属さないものは、その人間の中に存在しないので、その時、消える(9069, 9071, 9282, 9386, 10153)。

天界と地獄

26◀︎目次▶︎28

27  天的な王国と霊的な王国の間にはこのような相違があるので、それゆえ、彼らが一緒にいることも、互いの交わりもありません。霊的な天的社会と呼ばれる中間の天使の社会を通して、伝達が存在するだけです。その社会を通して天的な王国は霊的な王国へ流入します (*10)――ここからです、たとえ天界が二つの王国に分かれていても、それでも一つとなっています。
主は常にこのような中間の天使を備えられ、彼らを通して伝達と結合があります。


*10 二つの王国の間に、霊的な天的社会と呼ばれる天使の社会によって、伝達と結合がある(4047, 6435, 8796, 8802)。天的な王国を通して霊的な王国への主の流入について(3969, 6366)。

天界と地獄

27◀︎目次▶︎29

28  これら二つの王国の天使については、このあと多くのことを扱うので、ここでは個々のものは省きます。

天界と地獄

28◀︎目次▶︎30

5 三つの天界がある

29  最内部のまたは第三の天界、中間のまたは第二の天界、最外部のまたは第一の天界、これら三つの天界があり、それらは互いに完全に分離しています。それらは互いに続いており、頭と呼ばれる人間の最上部、身体であるその中間部、足である最低部のように、また家の最上の部分、その中間の部分、その最低の部分のように存続します――主から発出し、下っている神性もまたこのような秩序の中にあります。この秩序の必然性から、天界は三つに分かれています。

天界と地獄

29◀︎目次▶︎31

30  人間の心(mens)とアニムス(外的な心)に属す内的なものもまた似た秩序の中にあります。そこにも最内部・中間部・最外部があるのは、創造の時から人間の中に神的な秩序のすべてのものが授けられ、形の中で神的な秩序となり、ここから天界の最小の似姿となるようにされているからです(*1)――それゆえ、人間もまた内的なものに関して天界とつながっています。そしてまた、世で生きたときに主から神的善と神的真理を受け入れたことにしたがって、死後、最内部の天界、または中間の天界、または最外部の天界の天使の間にやって来ます。


*1  人間の中に神的秩序のすべてのものが授けられており、人間は創造から神的秩序の形である(4219, 4222, 4223, 4523, 4524, 5114, 5168, 6013, 6057, 6605, 6626, 9706, 10156, 10472)。
人間のもとで、その内なる人は天界の映像に、また外なる人は世の映像に形作られており、それゆえ、人間は古代人により小宇宙と言われた(4523, 5115 , 6013, 6057, 9279, 9706, 10156, 10472)。
このように人間は創造からその内的なものに関して、最大の映像にしたがって最小の似姿の天界であり、主から新しく創造されたまたは再生された人間もこのようなものである(911, 1900, 1928, 3624-3631, 3634, 3884, 4041, 4279, 4523, 4524, 4625, 6013, 6057, 9279, 9632)。

天界と地獄

30◀︎目次▶︎32

31  主から流入し、第三または最内部の天界で受け入れられる神性は、天的と呼ばれ、ここからそこの天使は天的な天使と呼ばれます。主から流入し、第二または中間の天界で受け入れられる神性は、霊的と呼ばれ、ここからそこの天使は霊的な天使と呼ばれます。けれども、主から流入し、最外部または第一の天界で受け入れられる神性は、自然的と呼ばれます。しかし、その天界の自然的なものは世の自然的なもののようではなく、それ自体の中に霊的なものと天的なものがあり、それゆえ、その天界は自然的な霊的な天界、自然的な天的な天界と呼ばれ、ここからそこの天使は自然的な霊的な天使、自然的な天的な天使と呼ばれます(*2)。霊的な天界である中間または第二の天界から流入を受け入れる者は、自然的な霊的な天使と呼ばれます。天的な天界である第三または最内部の天界から流入を受け入れる者は、自然的な天的な天使と呼ばれます――自然的な霊的な天使と自然的な天的な天使とに分かれていますが、それでも一つの段階の中にいるので彼らは一つの天界を構成します。


*2  最内部・中間部・最外部の、または第三・第二・第一の、三つの天界がある(684, 9594, 10270)。
さらにまた、善はそこに三重の順序で続く(4938, 4939, 9992, 10005, 10017)。
最内部のまたは第三の天界の善は天的と言われ、中間のまたは第二の善は霊的、最外部のまたは第一の善は自然的霊的と言われる(4279, 4286, 4938, 4639, 9992, 10005, 10017, 10068)。

天界と地獄

31◀︎目次▶︎33

32  それぞれの天界に内なるものと外なるものがあります――そこの内なるものにいる者は内なる天使と呼ばれ、そこの外なるものにいる者は外なる天使と呼ばれます。
それぞれの天界の中の外なるものと内なるものは、人間の意志とその理解力のように振る舞います。内なるものが意志で、外なるものが理解力です――すべての意志は、それ自体の理解力をもっており、一方なしにもう一方は存在しません。比べれば、意志は炎のようであり、その理解力はそこからの光のようです。

天界と地獄

32◀︎目次▶︎34

33  天使の内的なものが、天使をある天界の中かまたは他の天界の中にいるようにしていることは、よく知っておかなくてはなりません――内的なものが主へ向けて開かれていればいるほど、彼らはますます内的な天界にいるからです。
三つの内的な段階は、天使と同じく霊にも、また人間のそれぞれの者にもあります。最内部の天界にいる者には、第三の段階が開かれています。中間の天界にいる者には第二の段階、また最外部の天界の中にいる者には第一の段階だけが開かれています。
内的なものは、神的善と神的真理を受け入れるのにしたがって開かれます――神的真理に感動し、それらを直ちに生活(いのち)に、したがって意志とそこからの行動に取り入れた者は、最内部のまたは第三の天界にいて、真理の情愛から善を受け入れるのにしたがってその天界の中にいます。けれども、真理を直ちに意志の中に入れないで、記憶とそこから理解力の中に入れ、そのことから意志し、それを行なう者は、中間のまたは第二の天界にいます――しかし、道徳的に生き、神的なものを信じていて、教えられようとそれほど思わない者は、最外部のまたは第一の天界にいます(*3)
ここから、内的な状態が天界をつくること、また天界はそれぞれの者の内にあって、その外にないことを明らかにすることができます。主もまた次のように言って、教えられています、

神の王国は目に見えてやって来るのではありません、「見よ、ここを」、「見よ、そこを」、と言うものでもありません。というのは、見よ、神の王国はあなたがたの中にあるからです(ルカ 17:20, 21)。


*3  人間の中に天界と同数のそれだけ多くのいのちの段階があり、死後、彼のいのち(生活)にしたがって開かれる(3747, 9594)。
天界は人間の中にある(3884)。
ここから、世で天界を自分自身の中に受け入れた者は、死後、天界にやって来る(10717)

天界と地獄

33◀︎目次▶︎35

34  すべての完全さもまた、内的なものに向けて増大し、外的なものに向けて減少します。内的なものは神性に近く、本質的にさらに純粋です、けれども、外的なものは神性から遠く、本質的にさらに粗悪であるからです(*4)
天使の完全さは、知性・知恵・愛、そしてすべての善の中にあり、ここから幸福の中にあります、けれども、それらのない幸福の中にはありません。なぜなら、それらのない幸福は外なるものであり、内なるものではないからです。
最内部の天界の天使の内的なものは、第三の段階に開かれているので、それゆえ、彼らの完全さは、内的なものが第二の段階に開かれている中間の天界の天使の完全さに、計り知れないほどまさっています。同様に、中間の天界の天使の完全さは、最外部の天界の天使の完全さにまさっています。


*4  内的なものは、神的なものに近いので、さらに完全である(3405, 5146, 5147)。
内なるものの中には数千また数千のものがあり、それらは外なるものの中で共通の一つのもののように見える(5707)。
人間が外なるものから内的なものに向けて上げられれば上げられるほど、それだけ光の中に、したがって知性の中にやって来る。その高揚は、雲から明るさの中へ上がるようなものである(4598, 6183, 6313)。

天界と地獄

34◀︎目次▶︎36

35  このような相違があるので、ある天界の天使が他の天界の天使のところに入ることはできません、すなわち、ある者が低い天界から上ることや、高い天界から下ることもできません――低い天界から上る者は、苦痛を感じるほどの不安に襲われ、そこの者を見ることも、まして彼らと話すこともできません。高い天界から下る者は、自分の知恵を奪われ、声はつかえ、絶望します。
天界が天使の内的なものから構成されることをまだ教えられていなかった最外部の天界の者がいました。その者は、ただ上方の天使の天界に入るだけで、そこの天界の幸福に入れるだろうと信じていました。〔そこで〕彼らの間に入ることを許されました、しかし、そこに行ったとき、どれほど捜しても、だれも見つけ出せませんでした。それでも大群衆がいたのです。その到着者の内的なものは、そこの天使の内的な段階にまで開かれていないので、それゆえ、視覚も開かれていなかったからです。間もなく、自分のいのちがあるのか、ないのか、ほとんどわからないほどの心の苦悶に襲われました。そのために、急いでそこから、これまでいた天界へ戻り、自分の仲間の間に来て、喜び、もう自分のいのちに一致しないような高いものを望まないと約束しました。
さらにまた私は、高い天界から降ろされ、自分の天界がどんなものであったかわからなくなるようにまでも自分の知恵を奪われた者を見ました。
しばしばあることですが、主がある者を低い天界から高い天界へ、そこの栄光を見せるために上げられるときは異なります。その時、彼らは最初に準備され、仲介する天使に囲まれて、彼らを通して交わります。
これらから、それらの三つの天界は互いに完全に分かれていることが明らかです。

天界と地獄

35◀︎目次▶︎37

36  同じ天界にいる者は、そこのだれとも交わることができますが、しかし、交わりの快いものは彼らの中の善の類似性にしたがっています――しかし、このことについては、あとの章の中で述べます。

天界と地獄

36◀︎目次▶︎38

37  たとえ、ある天界の天使が他の天界の天使と交際を結ぶことができないように天界が分かれていても、それでもやはり主はすべての天界を直接と間接の流入によって、すべての天界の中へご自分からの直接の流入によって、またある天界から他の天界の中へ間接の流入によって、結合されています(*5)。こうして、三つの天界が一つであり、すべてのものが〝最初のもの〟から最後のものまで結びつきの中にあり、結びつかないものが何も存在しないようになっています。中間の媒介するものを通して〝最初のもの〟と結びつかないものは、存続しないで、散らされ、無となってしまいます(*6)


*5  主からの流入は、ご自身からの直接のもの、そしてまたある天界を通して他の天界への間接のものがある。人間のもとの内的なものへの流入も同様である(6063, 6307, 6472, 9682, 9683)。
主からの神的なものの直接の流入について(6058, 6474–6478, 8717, 8728)。
霊界を通って自然界への間接的な流入について(4067, 6982, 6985, 6996)。
*6  すべてのものはそれ以前のものから、このように「最初のもの」から存在するようになり、同様に存続する、存続は絶え間のない存在であるから。それゆえ、ばらばらのものは存在しない(3626-3628, 3648, 4523, 4524, 6040, 6056)。

天界と地獄

37◀︎目次▶︎39

38  段階に関する神的な秩序がどのようであるか知らない者は、どのように天界が分けられているか、内なる人と外なる人とは何かでさえ、理解することができません。
世の中の大多数の者は、内的なものと外的なものについて、または上にあるものと下にあるものについて、純粋なものから粗悪なものへと続く連続性かまたは結合の緊密性のような概念しかもっていません。しかし、内的なものと外的なものは連続していないで、別ものです。
二種類の段階があります。連続の段階と非連続段階です。
連続の段階は、光が炎からその不明瞭なものにまで減少するような段階です。または視覚が光の中にあるものから陰の中にあるものにまで減少するような段階、または大気の純粋さが最低のものからその最高のものにまで至るような段階です。隔たりがこれらの段階を決定します。
[2]しかし、連続でなく分離の段階は、前のものと後のもののように、原因と結果のように、生み出すものと生み出されるもののように区別されます――全世界の中のすべてと個々のものを調べる者は、その中に、どんなものであれ、産出と合成の段階があることを知るようになります。一つのものからもう一つのもの、またもう一つのものから第三のもの、このようにさらにといったようにです
[3]これらの段階を知覚しない者は、各天界の相違も、人間の内的な性質と外的な性質の相違も、霊界と自然界の相違も、人間の霊とその身体との相違も、決して知ることができません。それゆえ、対応するものと表象するものが何であり、どこからなのか、また流入がどんなものかも理解することができません。感覚的な人間は、これらの相違を把握していません、この段階に従う連続するものもまた、増大し、減少するからです。それゆえ、彼らは霊的なものを自然的なものが純粋になったものとしか考えることができません――それでまた、彼らは知性から離れて、その外にいます(*7)


*7  内的なものと外的なものは連続していない、しかし、別々の、分離した段階にしたがっており、それぞれの段階にその境界がある(3691, 4145, 5114, 5145,  8603, 10099)。
あるものは他のものから形作られ、こうして形作られたものは、連続的に、さらに純粋にまたさらに粗悪になったものではない(6326, 6465)。
このような段階にしたがって内的なものと外的なものが分離していることを知覚しない者は、内なる人と外なる人も、内的な天界と外的な天界も、把握できない(5146, 6465, 10099, 10181)。

天界と地獄

38◀︎目次▶︎40

39  最後に、三つの天界の天使について、あるアルカナ(秘義)を記すことが許されています。段階について理解しなかったので、以前にはだれの心の中にも入ってきたことのないものです――すなわち、それぞれの天使、そしてまたそれぞれの人間のもとに、最内部のまたは最高の段階、または最内部のものとある種の最高のものがあり、その中に主の神性が最初にまたは最も近く流入して、そこから、そのもとに継続する秩序の段階にしたがって他の内的なものを配列することです。この最内部のものまたは最高のものは、天使や人間へ入る〝主の入り口〟、そして彼らのもとのまさに〝主の住居〟そのもの、と呼ばれることができます。
この最内部のものまたは最高のものによって、人間は人間であり、獣から区別されます、なぜなら、獣にはないからです。ここから、人間は、動物と異なって、心(mens)とアニムス(外的な心)に属す内的なものすべてに関して、主により、主ご自身へと上げられることが、その方を信じること、その方に愛を感じること、こうしてその方を見ること、また知性と知恵を受け入れること、また理性から話すことができます。永遠に生きることもまたここからです。
けれども、主によりその最内部に何が配列され、備えられるかは、天使の思考を超えており、その知恵を上回っているので、天使のだれかの知覚の中へ、はっきりと流入することはありません。

天界と地獄

39◀︎目次▶︎41

40  さて、以上が三つの天界について全般的なものですが、特にそれぞれの天界については、あとで述べます。

天界と地獄

40◀︎目次▶︎42

6 天界は無数の社会から成る

41  それぞれの天界の天使は、一つの場所に一緒にいるのではなく、彼らの中にある愛と信仰からの善の相違にしたがって、大小の社会に分かれています。似ている善の中にいる者は、一つの社会を形作ります。
天界の中の善は無数に変化しており、それぞれの天使は自分自身の善のような存在となっています(*1)


*1  無限の多様性があり、あるものは決して他のものと同じではない(7236, 9002)。
天界の中にもまた無限の多様性がある(684, 690, 3744, 5598, 7236)。
天界の中の多様性は、無限であり、善の多様性である(3744, 4005, 7236, 7833, 7836, 9002)。
これらの多様性は、多数の真理によって存在するようになり、そこからそれぞれの善がある(3470, 3804, 4149, 6917, 7236)。
それゆえ、天界の中のすべての社会は、また社会の中のそれぞれの天使は、お互いに自分自身から分かれている(690, 3241, 3519, 3804, 3986, 4067, 4149, 4263, 7236, 7833, 7836)。
しかし、それでも、すべてのものは主からの愛を通して一つとして働く(457, 3986)。

天界と地獄

41◀︎目次▶︎43

42  天界の中の天使の社会もまた、全般的にまた特定的に、善が相違するように、互いに離れています。なぜなら、霊界の中の距離は、内的な状態の相違から、ここから天界の中では愛の状態の相違から生じ、それ以外の他の源泉からは生じないからです。相違の大きい者どうしは遠く離れ、相違の少ない者どうしは、離れ方も少なくなっています。類似性が一緒であるようにしています(*2)


*2  天界のすべての社会は、いのちの状態の相違にしたがって、このように愛と信仰の相違にしたがって不変の位置にある(1274, 3638, 3639)。
距離・位置・場所・空間・時間について、来世での、すなわち、霊界での驚くべきこと(1273–1277)。

天界と地獄

42◀︎目次▶︎44

43 一つの社会の中でも、すべての者は同様に互いに離れています——さらに完全な者は、すなわち、善に秀でる者は、したがって愛・知恵・知性に秀でる者は中央にいます。秀でることの少ない者は、周囲におり、完全さの減少に応じた段階にしたがって遠く隔っています。
このことは、光が中央から周辺へ減少するようなものです——中央にいる者は、最大の光の中にもいます。周辺へ向かって、そこの者たちの光は、だんだんと少なくなっています。

天界と地獄

43◀︎目次▶︎45

44  似た者はあたかも自分自身からかのように似た者へ導かれます。なぜなら、似た者と一緒のときは自分自身と一緒にいるようなもの、また、その者は自分の家にいる者のようですが、似ていない者と一緒のときは他人と一緒にいるようなもの、また、その者は外にいる者のようであるからです――似た者と一緒にいる時、自分自身の自由の中にもいて、それゆえ、いのち〔生活〕のすべての快さの中にいます。

天界と地獄

44◀︎目次▶︎46

45  ここから、善が天界の中のすべての者を交わらせ、その性質にしたがって区別していることが明らかです――しかしそれでも、互いに交わらせるのは、天使ではなく、善の源であられる主です。その方が彼らを導き、彼らを結合させ、彼らを区別し、善の中にいるかぎり、彼らを自由の中に保たれ、このようにそれぞれの者を自分自身の愛のいのち〔生活〕・自分の信仰・自分の知性と知恵の中に、ここから幸福の中に保たれます(*3)


*3  人間は愛することを自由に行なうので、すべての自由は愛と情愛に属す(2870, 3158, 8987, 8990, 9585, 9591)。
自由は愛に属すものなので、それゆえ、それぞれの者のいのちとその快さである(2873)。
自由からのものでないなら、何もプロプリウム(自己)のものとして見られない(2880)。
主により導かれることはまさに自由そのものである、善と真理の愛により導かれるからである(892, 905, 2872, 2886, 2890, 2891, 2892, 9096, 9586–9591)。

天界と地獄

45◀︎目次▶︎47

46  さらにまた、善で似ている者はすべて、この世での自分自身の親族・自分の姻戚・自分の友のように完全にお互いを、たとえ以前に彼らを決して見たことがなくても知っています。その理由は、来世では親族関係・姻戚関係・友情は霊的なものであり、したがって愛と信仰に属すもの以外の何ものでもないからです(*4)
このことを私は、身体から引き出されて霊の中にいた時、こうして天使との交わりの中にいた時、ときどき知らされました――その時、私に、彼らの中のある者が子供時代から知っている者のように、しかし、他の者は完全に知らない者のように見えました。私が子供時代から知っている者のように見えた者は、私の霊の状態と似た状態の中にいた者でした。けれども、私が知らなかった者は、異なった状態の中にいました。


*4  天界の中のすべての近縁・親類・姻戚・血族のようなものは、善から存在し、その適合(似合い)と相違にしたがっている(685, 917, 1394, 2739, 3612, 3815, 4121)。

天界と地獄

46◀︎目次▶︎48

47  一つの天使の社会を形作るすべての者は全般的に似た顔をしていますが、しかし、個別には似ていません。
全般的な類似と個別的な変化がどのようであるかは、世の中のそのようなものからいくらか把握することができます――各氏族にはある種の全般的に似たものが顔と目にあり、それによって他の氏族から区別されることが知られています。さらに、ある家族は他の家族から区別されます。そして、このことは天界でははるかに完璧なものとなっています、天界ではすべての内的な情愛は見られ、顔から輝き出ています、顔は情愛の外なる形や表象するものであるからです。天界では自分の情愛以外の他の顔を持つことはありません。
さらにまた、全般的な類似が、一つの社会の中にいる個々の者の中で特にどのように変化するかも示されました――天使のような顔が私に見られ、その顔が、一つの社会の中にいる者の善と真理の情愛にしたがって変化しました。長い間、その変化は続き、そのとき私は、全般的に同じ顔が舞台のように持続し、残りのものはそこからの単なる派生するものと伝播するものであることを――このようにさらにまたこの顔によって、社会全体の情愛が示され、情愛によってそこの者の顔が変化することを認めました。なぜなら、前述したように、天使の顔は自分の内的なものの形であり、このように愛と信仰に属す情愛の形であるからです。

天界と地獄

47◀︎目次▶︎49

48  さらにまたここから、知恵ですぐれている天使は、他の者がどのような者であるかを顔から見分けます。だれもそこでは、顔つきで、内的なものを隠し、偽ることはできず、狡猾さや偽善で、装い、欺くことはまったくできません。
何度か〔天使の〕社会の中へ偽善者が入り込んだことがありました。その者は自分の内的なものを隠し、外的なものをその社会の中にいる者の善の形に見えるように作り上げることを、このように光の天使を偽り装うことを教え込まれていました。しかし、この者が長い間そこにとどまることはできません、というのは、内なる痛みが始まり、苦しんで、顔は鉛色になり、あたかもいのちを奪われるかのようになります――このように変えられるのは、対立するいのちが流入し、働きかけるからです。それゆえ、自分と似た者のいる地獄へ自分自身を急いで投げ落とし、もはやあえて上ることをしません。
これらの者が、招待されて食事の席についている者の間で、婚礼の衣装を着ていないのを見つけられ、外の暗やみに投げ出された者によって意味されます(マタイ22:11以降)。

天界と地獄

48◀︎目次▶︎50

49  天界のすべての社会は互いに伝達し合います。開かれた交流によってではありません、というのは、自分の社会から他の社会へ出て行く者は少ないからです。なぜなら、社会から出て行くことは、自分自身からまたは自分のいのちから出て行くことであり、このように他の適合しないものの中に移るようなものであるからです。それでも、すべてのものは、それぞれのいのちから発出するスフェアの拡大によって伝達します――いのちのスフェアとは情愛のスフェアであり、愛と信仰に属すものです。このスフェアは周囲の社会へ遠く、横へ、情愛が内的で完全であればあるほど、それだけさらに遠く、さらに横へ広がります(*5)
天使の知性と知恵はその拡大にしたがっています――最内部の天界の中にいる者は、またそこの真ん中にいる者は、全天界へ拡大するスフェアを持っています。ここから、天界のすべての者にはだれとも伝達があり、だれにもすべての者との伝達があります(*6)
しかし、この拡大については、あとで、天界の形について、その形にしたがって天界の社会は配列されるのですが、そこのところで、さらにまた、天使の知恵と知性についてのところで、さらに十分に述べます。なぜなら、情愛と思考のすべての拡大は、その形にしたがって進むからです。


*5  霊的なスフェアは、いのちのスフェアであって、それぞれの人間・霊・天使から流れ出て、彼らを取り囲んでいる(4464, 5179, 7454, 8630)。
それは彼らの情愛と思考のいのちから流れ出る(2489, 4464, 6206)。
それらのスフェアは、善の性質と量にしたがって天使の社会の中へ遠く広がっている(6598–6612, 8063, 8794, 8797)。
*6  天界的な愛はそのすべてのものを他と共有するので、すべての善は天界の中に伝達して存在する(549, 550, 1390, 1391, 1399, 10130, 10723)。

天界と地獄

49◀︎目次▶︎51

50  天界の中に大小の社会があることは前述しました。大きいものは数万の天使から、小さいものは数千の天使から、最小のものは数百の天使から構成されます。
さらにまた、いわば家ごとに、家族ごとに、孤立して住んでいます。これらの者は、たとえそのように広がっていても、それでも社会の中にいる者と同じように配列されています、すなわち、彼らの賢い者は真ん中に、単純な者は辺境にいます――主の神的な導きの近くにいる者は、天使のうちで最良の者です。

天界と地獄

50◀︎目次▶︎52

7 それぞれの社会は小さい形の天界であり、それぞれの天使は最小の形の天界である

51  それぞれの社会が小さい形の天界であり、それぞれの天使が最小の形の天界であることは、愛と信仰の善が天界をつくるものであり、その善が天界のすべての社会の中に、社会のすべての天使の中に存在するからです。
その善がどこかで相違し、変化しても決して重要なことではありません、やはり天界の善です。相違は、ここではこのような天界である、そこではそのような天界である、という天界の相違です。
それゆえ、だれかが天界の何らかの社会に上げられるとき、「天界に来る」と言われることがあります。またそこにいる者について、〝天界の中にいる。それぞれが自分の天界の中にいる〟と言われることがあります――このことを来世にいるすべての者が知っています。それゆえ、天界の外または下に立って、遠方から天使の集団を眺める者は、「天界がそこに、そしてまたあそこにある」と言います。
このことは、一つの王宮または一つの宮廷の中の長官・官吏・召使いにたとえられます。たとえ、自分の住まい、または自分の部屋に、ある者は上に、ある者は下に、別々に住んでいても、それでも一つの宮殿に、または一つの宮廷の中に、それぞれの者がそこで王に仕えるために自分の任務にいます。
ここから、次の主のことばによって何が意味されるか明らかです、

父の家には多くの住まいがあります(ヨハネ 14:2)。

また「預言書」の「天界の住まい」によって、「天の天」によって〔何が意味されるか明らかです〕。

 

天界と地獄

51◀︎目次▶︎53

52  それぞれの社会が小さい形の天界であることは、それぞれの社会の中に、全天界の中にあるような天界の形に似たものがあることからもまた明らかにすることができます――全天界の中で、他の者より秀でる者は真ん中にいます、秀でることの少ない者は、その減少する順に、周囲に、辺境にまでいます、これは前章で見られるとおりです(43)。そしてまた、このことから、主は全天界の中にいるすべての者をあたかもひとりの天使であるかのように導き、同様に、それぞれの社会の中の者も導かれます――ここから、時々、天使の社会全体が天使の形でひとりの者のように現われます、このこともまた主により私に見ることが与えられました。
主もまた天使たちの真ん中に現れるとき、多くの者に取り囲まれてではなく、天使の形をしておひとりで現われます――ここから、主はみことばの中で天使と言われています。そしてまた社会全体も天使と言われます。ミカエル、ガブリエル、ラファエルは天使の社会以外のものではなく、その任務からこのように名づけられています(*1)


*1  みことばの中で、主は天使と言われる(6280, 6831, 8192, 9303)。
天使の社会の全体が天使と言われる。ミカエルとラファエルは機能からそのように言われる天使の社会である(8192)。
天界の社会と天使たちに何も名前がない、しかし、善の性質から、またそれについての観念から見分けられる(1705, 1754)。

天界と地獄

52◀︎目次▶︎54

53   社会全体が小さい形の天界であるように、天使もまた最小の形の天界です。なぜなら、天界は天使の外ではなく、彼の内にあるからです。というのは、心に属すものである天使の内的なものは、外にある天界のすべてのものを受容するために、天界の形に配列されているからです。それら外にあるものもまた、主から彼の中にある善の性質にしたがって受け入れます。ここから天使もまた天界です。

天界と地獄

53◀︎目次▶︎55

54  「だれかの外に天界がある」と言うことは決してできません、天界は内にあります。すべての天使は内にある天界にしたがって、外にある天界を受け入れるからです。
ここから、「自分の内的ないのちがどんなものであっても、天界に入ることは、単に天使たちの間に上げられることである。したがって、直接の慈悲からだれにでも天界が与えられる」と信じる者は、どれほど欺かれているか明らかです(*2)。だれかの内に天界がないなら、外にある天界は決して流入しないし、受け入れられません。
このような見解を抱いた多くの霊がいました。そしてその信念ゆえに、天界へ上げられました。しかし、そのとき、彼らの内的ないのちは天使のいのちに反していたので、自分の知性に関して盲目になり始め、愚か者のようにまでもなり、自分の意志に関して気が狂うかのように振る舞って苦しめられました――一言でいえば、悪く生きたのに天界へ来た者は、そこでは、水の外に出された大気中の魚のように、また、空気ポンプで空気を抜き取り、エーテルの中に残された動物のように、あえぎ、苦しめられます。
ここから、天界はだれかの外になく、その者の内にあることを明らかにすることができます(*3)


*2  天界は直接の慈悲からではなく、生活(いのち)にしたがって与えられる。主により人間が天界へと導かれる生活(いのち)のすべては、慈悲からのものであり、そのことが慈悲の意味である(5057, 10659)。
もし天界が直接の慈悲から与えられるなら、それはすべての者に与えられるであろう(2401)。
天界から投げ落とされたある悪い者について、その者は天界がだれにでも直接の慈悲から与えられると信じていた(4226)。
*3  天界は人間の中にある(3884)。

天界と地獄

54◀︎目次▶︎56

55  すべての者は、外にある天界を彼の内にある天界の性質にしたがって受け入れます、それゆえ、同様に主を受け入れます、主の神性が天界をつくるからです――ここから、主がある社会の中に現在されるとき、そこの善の性質にしたがって現われます。その善の中に社会は存在し、したがって、ある社会と他の社会の中で同じように現在されることはありません――その同じでないことは、主にではなく、それぞれの善にしたがってその方を見る者の側にあります。さらにまた、その方を自分の愛の性質にしたがって見て、感動します。主を深く愛する者は、深く感動し、愛することの少ない者はそれほど感動しません。天界の外にいる悪い者は、その方の現在に苦しめられます。
主が何らかの社会に現われるとき、そこに「天使」のように現われます。しかし、他の天使とは光り輝く神性によって区別されます。

天界と地獄

55◀︎目次▶︎57

56   天界はまた、主が認められ、信じられ、愛されるところに存在します。ある社会や他の社会で善が多様であることから、その方への礼拝も多様であることは、害とはならないで、益となります。なぜなら、天界の完全性はこの多様性によるからです。
天界の完全性がこの多様性によることは、すなわち、個体が多様なものからどのようにして完全性をもつものに形作られるかは、学界で習慣的によく使われる表現を利用して、その助けによって解釈されるのでなければ、理解されるように説明されることはほとんどできません――すべての個体は多様なものから存在するようになります、なぜなら、多様なものからでない個体は、何ものでもなく、形はなく、それゆえ、性質もないからです――けれども、個体が多様なものから存在するようになるとき、多様なものが完全な形の中に存在し、その中でどんなものでも、友のようにそれ自体を他の連続するものの中に一致させ、その時、完全な性質を持ちます――天界もまた、最も完全な形に整えられた多様なものからなる個体です。なぜなら、天界の形はすべての形の最も完全なものであるからです。
すべてのものの完全性がここからであることは、感覚と同じく心(animus)も感動させるすべての美しさ・楽しさ・快さから明らかです。なぜなら、それらは、多くのものの和合と一致であって、一致と調和から以外の、あるいは秩序の中でそれらが共存するか秩序の中で続くかする以外の、別の場所からは存在しないし、流れ出ないからであり、また一つのものからでなくて、多くのものからであるからです――ここから「変化は人を喜ばす」と言われ、喜びはその性質にしたがっていることが知られます。
これらから、天界の中でもまた、多様なものから完全性が存在することを、鏡の中のように見ることができます。なぜなら、自然界の中に存在するものから霊界の中のものを鏡の中のように見ることができるからです(*4)


*4  すべての個体は、多くのものの調和と一致から存在する。そうでなければ、それに性質は存在しない(457)。
ここから全天界は一つのものである(457)。
また、このことは、そこのすべてのものが一つの目的を眺めていることからであり、その目的は主である(9828)。

天界と地獄

56◀︎目次▶︎58

57  天界について言えるのと同様のことを教会について言うことができます、なぜなら、教会は地上の主の天界であるからです。
教会は多くありますが、それでもそれぞれが教会と呼ばれ、そこに愛と信仰の善が支配するかぎり教会です。さらにまた、主は天界でいろいろなものから一つのものをつくられるように、多くの教会から一つの教会をつくられます(*5)
全般的に教会について言えることは、教会の人間にも個別的に同様のことを言うことができます。すなわち、教会は人間の外でなく、内にあること、どんな人間も、その中に主が愛と信仰の善の中に現在されるなら、教会であることです(*6)
内に天界がある天使について言えるのと同様のことが、内に教会がある人間についても言えます、天使が最小の形の天界であるようにその人間が最小の形の教会であることです――そのうえさらに、内に教会がある人間は、天使と等しく、天界です。なぜなら、人間は天界に来て、天使となるように創造されているからです。それゆえ、彼は、主からの善をもつ天使人間〔天使的な人間〕です(*7)
人間は天使と共通に何をもつか、また天使にまさって何をもつか、記述することが許されています――人間が天使と共通にもつものは、その内的なものが等しく天界の映像に応じた形をしていること、また愛と信仰の善の中にいればいるほど天界の映像となることです。人間が天使にまさってもつものは、その外的なものが世の映像に応じて形作られていることです――善の中にいるほど、彼のもとにある世は、天界に従属させられ、天界に仕えます(*8)。その時、主は、ご自分の天界の中におられるかのように、彼のもとで両方の世界に現在されます。というのは、主は秩序であられるので、ご自分の神的な秩序の中のどちらの場所にもおられるからです(*9)


*5  もし善のない真理ではなくて、善が教会の特徴と本質的な部分となるなら、教会は一つとなる(1285, 1316, 2982, 3267, 3445, 3451, 3452)。
さらにまた、すべての教会は善から主の前に一つの教会となっている(7396, 9276)。
*6  教会は人間の中にあり、その外にはない。普遍的な教会は、その者の中に教会がある人間から存在する(3884)。
*7  教会である人間は、最大の映像に応じた最小の形の天界である。心に属す彼の内的なものは天界の形に応じて配列され、ここから天界のすべてのものを受け入れることに応じて配列されているからである(911, 1900, 1928, 3624-3631, 3634, 3884, 4041, 4279, 4523, 4524, 4625, 6013, 6057, 9279, 9632)。
*8  人間に内なるものと外なるものがあり、その内なるものは創造から天界の映像に応じて形作られており、またその外なるものは世の映像に応じて形作られており、ここから人間は古代人により小宇宙と言われた(4523, 4524, 5368, 5115,  6013, 6057, 9279, 9706, 10156, 10472)。
それゆえ、人間は、彼のもとの世が天界に仕えるように創造された。さらにまたそのことは善い者のもとに生じる、しかし悪い者のもとでは逆である、そこでは天界が地に仕える(9283, 9278)。
*9  神的善と神的真理は主から発出し、秩序をつくるので、主は秩序であられる(1728, 1919, 2211, 2258, 5110, 5703, 8988, 10336, 10619)。
神的な真理は秩序の法則である(2247, 7995)。
人間が秩序にしたがって生きれば生きるほど、そのように神的な真理にしたがって善の中に生きれば生きるほど、それだけ人間であり、彼の中に教会と天界がある(4839, 6605, 8513)。

天界と地獄

57◀︎目次▶︎59

58  最後に、自分自身の中に天界をもつ者は、天界を自分の最大のものまたは全般的なものの中にもつだけでなく、自分の最小のものまたは個々のものの中にももち、その最小のものは、最大のものの映像を映し出していることを述べなくてはなりません。
このことは、それぞれの者が自分自身の愛であり、その支配愛のようなものとなっていること、この支配するもの〔愛〕が個々のものに流入し、それらを配列し、どこでも自分自身に類似のものをひき起すことに由来します(*10)――天界では主への愛が支配しており、そこでは主がすべてにまさって愛されるからです。ここから、主はそこのすべてのもののすべてであり、すべてと個々のものに流入し、それらを配列し、ご自分に類似のものを生じさせ、天界をそこにご自分がいるようにされています――ここから、天使は最小の形の天界であり、社会はさらに大きい形の天界、またすべての社会はひとまとめにして最大の形の天界です。
主の神性が天界をつくること、すべてのもののすべてであられること、これらは前に述べました(7-12)。


*10  それぞれの者のもとで支配愛または支配的な愛は、彼のいのちのすべてと個々のものの中に、このように思考と意志のすべてと個々のものの中にある(6159, 7648, 8067, 8853)。
人間は、彼のいのちを支配している性質のようなものとなっている(918, 1040, 1568, 1571, 3570, 6571, 6935, 6938, 8853-8858, 10076, 10109, 10110, 10284)。
愛と信仰は、支配しているとき人間のいのちの個々のものの中にある、それでもそのことは知られていない(8854, 8864, 8865)。

天界と地獄

58◀︎目次▶︎60

8 全天界は一つの統一体としてひとりの人間を表わす

59  天界は全統一体としてひとりの人間を表わすことは、世にまだ知られていないアルカナ(秘義)です、けれども、天界ではきわめてよく知られています。このことを、そしてこのことについて特定的にまた個別的に知ることは、そこの天使の知性の主要なものです。それゆえ、多くのものが依存する全般的な原理のように、そのことを知らなくては、天使の心の観念に、区別された、はっきりとしたものは入ってきません。
天使は、〝すべての天界がその社会とともにひとりの人間を表わす〟と知っているので、それゆえまた天界を〝最大の神的人〟と呼んでいます(*1)。神的と呼ぶのは、主の神性が天界をつくるからです(前の7~12番参照)。


*1  天界は全統一体として〝人間〟のような形で見られ、ここから天界は〝最大の人〟と言われる(2996, 2998, 3624-3649, 3636-3643, 3741-3745, 4625)。

天界と地獄

59◀︎目次▶︎61

60  霊的なものや天的なものについて正しい観念をもたない者は、天的で霊的なものが人間の形や映像の中に秩序づけられ、結合されていることを知覚することができません。彼らは、人間の最も外部のものを構成している地的なものや物質的なものが人間をつくっており、それらがなくては、人間は人間とならない、と考えています――しかし、人間はそれらのものから人間ではなく、真理を理解し、善を意志することができることから人間であり、これらは霊的なものと天的なものであって、それらが人間をつくることを知らなくてはなりません。
さらにまた、人間はだれでも、どのような人間であるかは、理解力と意志に関してどのようであるかによることが知られています。そしてまた、人間の地的な身体は、世で理解力と意志に仕えるために、最も外部の自然の領域の中で理解力と意志の役立ちに一致して実行するように形作られていることも知ることができます。それゆえまた、身体は、それ自体からは決して行動しないで、人間が考えるものを何でも舌と口で語り、意志するものを何でも身体や四肢で行なうように、理解力と意志の意のままに従順であるように動かされます。そのように理解力と意志が行なっており、身体は、それ自体からは何も行ないません――ここから、意志と理解力が人間をつくり、それらが人間と似た形で存在することが明らかです、それらが、外なるものの中で内なるものが働いているように、意志と理解力が、身体の最も個々のものの中で働いているからです。それで、このことから人間は内なる人や霊的な人と呼ばれます。
最大のまた最も完全な形をしたこのような人間が天界です。

天界と地獄

60◀︎目次▶︎62

61  人間について天使の観念はこのようなものです。それゆえ、天使は、人間が身体で行なうことには決して注目しないで、身体が行なうもとである意志に注目します――意志を人間自身と呼び、理解力はこれが意志と一つとなって働くかぎり人間自身と呼びます(*2)


*2  人間の意志はそのいのちのエッセ(存在)そのものであり、理解力はそこからのいのちのエキシステレ(実在)である(3619, 5002, 9282)。
意志のいのちは、人間のいのちの主要なものであり、理解力のいのちはそこから発出する(585, 590, 3619, 7342, 8885, 9282, 10076, 10109, 10110)。
人間は、意志とそこからの理解力から人間である(8911, 9069, 9071, 10076, 10109, 10110)。

天界と地獄

61◀︎目次▶︎63

62  全天界が天使のだれかの視野に落ち込むことはないので、確かに、天使は天界を全統一体のような形として見ません、しかし時々、数千の天使たちから一つの形に構成されている社会を遠くから離れて見ることがあります。部分である社会から、普遍的な天界について結論しています。なぜなら、最も完全な形の中では、共通なものは部分のようであり、部分は共通なもののようであって、相違は単に似たものの大きいものと小さいものの間のようであるからです。
ここから、彼らは、「神性はすべてのものを最内部から、最高のものから見るので、全天界は主の視野の中でこのような形です」と言っています。

天界と地獄

62◀︎目次▶︎64

63  天界はこのような形であるので、それゆえまた、それは主によりひとりの人間のように、したがって一つのもののように支配されています――なぜなら、たとえ人間が無数のいろいろなものから構成されていても、全体と同様に部分でも、全体としては四肢・器官・内臓から、部分としては繊維・神経・血管から、このように四肢の四肢から、部分の部分から構成されていても、それでも人間がある行動をするとき、それらは一つのように行動することがよく知られているからです――さらにまた、主の統制と導きの下で、天界はこのようなものです。

天界と地獄

63◀︎目次▶︎65

64  人間の中の全部のいろいろなものが一つとして働くことは、そこには、共通の事柄に対して何も行なわないもの、役立ちを果たさないものは何もないからです。共通なものはその部分のために役立ちを実行し、部分は共通なものの役立ちを果たします、なぜなら、共通なものは部分から構成され、部分は共通なものを構成し、それゆえ、相互に供給し、互いに眺め合い、すべてと個々のものが共通なものとその善に関係するような形に結合されるからです。ここから、一つとして働いています。
[2]天界の中の交わりもこれと似ています。天界では役立ちにしたがって、似た形となって結合されています。それゆえ、共同体の善を果たさない者は、異質であるとして天界から追い出されます。
役立ちを果たす者は、公共(共通)の善のために、他の者によいようにと欲する者であり、役立ちを果たさない者は、公共(共通)の善のためではなく自分自身のために、他の者によいようにと欲する者です。後者はすべてのものにまさって自分自身を愛する者ですが、前者はすべてのものにまさって主を愛する者です――ここから、天界の中にいる者は一つとして働きますが、このことは自分自身からでなく主からです。彼らはその方を、すべてのもののもとである〝唯一のもの〟として、そしてその方の王国を、共同体のように、それに利益をはからなくてはならないものとして見ているからです。
このことが次の主のことばによって意味されます、

最初に神の国とその義を求めなさい。そうすれば……すべてのものがあなたがたに加えられます(マタイ 6:33)。

「その義を求めること」は、その善を求めることです(*3)
 [3]世で祖国の善を自分自身よりも愛し、隣人の善を自分自身のように愛した者は、来世で主の王国を愛し、求める者です、なぜなら、そこでは主の王国が祖国に代わるからです。自分自身のためでなく善のために、他の者に善を行なうことを愛する者は、隣人を愛します、なぜなら、そこでは善が隣人であるからです(*4)――このような者はすべて、〝最大の人〟の中に、すなわち、天界にいます。


*3  みことばの中では、義(正義・公正)は善について、審判は真理について言われ、ここから義と審判を行なうことは善と真理を行なうことである(2235, 9857)。
*4  主は最高の意味で隣人であり、ここから主を愛することは、その方からのものすべての中に、したがって善と真理の中に、その方がおられるので、その方からのものを愛することである(2425, 3419, 6706, 6711, 6819, 6823, 8123)。
ここから、主からのすべての善は隣人であり、その善を意志し、行なうことは隣人を愛することである(5028, 10336)。

天界と地獄

64◀︎目次▶︎66

65   全天界はひとりの人間を表わし、また最大の形と映像をした神的霊的(な)人間であるので、ここから天界は、人間のように四肢と部分に区別され、同じように名づけられています――さらにまた天使は、ある社会がどの四肢の中に、他の社会がどの四肢の中にあるか知っていて、「その社会は頭の部位または領域の中にあります。その社会は胸の部位または領域の中に、それは腰の部位または領域の中にあります、等々」と言っています。
全般的に、最高または第三の天界は頭から首までを形作り、中間または第二の天界は胸から腰とひざまでを形作り――最外部または第一の天界は足から足の裏までを、また腕から指までを形作ります。なぜなら、腕と手は、身体の脇にあるにしても、人間の最外部であるからです。
ここから再び、なぜ三つの天界があるか、明らかです。

天界と地獄

65◀︎目次▶︎67

66  天界の下にいる霊は、天界が上と同じく下にもあることを聞き、見るとき、非常に驚きます。なぜなら、天界は上以外の場所にはない、という世の人間と似た信仰と見解の中にいて、天界の位置が人間の中の四肢・器官・内臓の位置のように、あるものは上に、あるものは下にあり、それぞれの四肢・器官・内臓の中で、あるものは内に、あるものは外にあることを知らないからです。ここから、天界について彼らの観念は混乱しています。

 

天界と地獄

66◀︎目次▶︎68

67  〝最大の人〟としての天界についてこれらのことを述べたのは、それらの先立つ知識なしに、これから続く天界についての観念を決して把握することができないからです。天界の形・天界との主の結合・人間との天界の結合・霊界から自然界への流入について理解すること、また対応についても何らかの明確な観念をまったくもつことができないでしょう。それでもそれらについて、このあとで扱います。それで、これらのことに光を与えるために、このことを先に述べたのです。

天界と地獄

67◀︎目次▶︎69

9 天界のそれぞれの社会はひとりの人間を表わす

68  私は、何度か、天界のそれぞれの社会もまたひとりの人間を表わし、人間の似姿であるのを見たことがあります。
光の天使を装うことを知っている多くの者が入り込んだ社会がありました。その装う者は偽善者でした。
これらの者が天使から分離されつつあるとき、私は、社会全体が最初に一つの暗いもののように見え、その後、暗いながらも徐々に人間の形となり、ついに光の中で人間のように見えました。
その人間の中にいて、その人間を構成した者は、その社会の善の中にいた者でした。その人間の中にいないで、構成しなかった他の者は偽善者でした。後者は退けられ、前者は引き留められるようにして分離がなされました。
偽善者は、よいことを語り、よいことを行ないもします、しかしその個々のものの中で自分自身を眺める者です――主・天界・愛・天界の生活について、天使のようによいことを語り、よいことを行ないもしますが、それは、そのような者であると見られるためです――しかし、考えることは異なり、自分の語っていることを何も信じていませんし、自分以外の者のためには、何も善を欲しもしません。善を行なっても、自分自身のためです。もし他人のために行なうなら、見られるためであり、こうしてまた自分自身のためです。

 

天界と地獄

68◀︎目次▶︎70

69  私は、主が現在してご自身を示されるとき、天使の社会全体がひとりの人間の形をした者として現われることもまた見ることを与えられました。
その社会は東に向かって高いところに現われ、小さな星に囲まれて、白光りする色から赤くなっている雲のように降りてきました。それは降りるまで徐々に輝きを増し、ついに完全な人間の形で見られました――雲の周囲の小さな星は天使たちであり、主からの光によりこのように見られたのでした。

天界と地獄

69◀︎目次▶︎71

70  たとえ天界の一つの社会の中にいるすべての者が、一緒にひとりの人間としてその似姿の中に現われる時でも、それでも、他の人間と似た人間がだれもいないように、他の社会と似た社会は一つもなく、一つの家系の人間の顔のように互いに区別されることを知らなくてはなりません。その理由は前に述べたことと同じです(47番)。すなわち、社会は、善の変化にしたがって変化し、その善の中で、彼らは形作られます。
最内部または最高の天界の真ん中にある社会は、最も完全で最も美しい人間の形で現われます。

天界と地獄

70◀︎目次▶︎72

71  天界の一つの社会の中で、一つとして働く者が多ければ多いほど、ますますその人間の形が完全になることは記しておく価値があります。なぜなら、前に示したように(56番)、天界の形に配列された変化は完全性をつくり、変化は多くのものがあるところに存在するからです。
さらにまた、天界の社会は日々、数を増しています。また増すかぎり、さらに完全になります――こうして社会が完全になるだけでなく、社会が天界を構成するので、全般的に天界もまた完全になります。
天界は数の増加から完全なものになるので、天界は充満すると閉ざされる、と信じている者がどれほど欺かれているか明らかです。反対に、決して閉ざされることはなく、満たされれば満たされるほど、そのことから完全になります――それゆえ、彼らにとって、新しい天使の訪問者がやって来ること以上に望ましいものは何もありません。

天界と地獄

70◀︎目次▶︎73

72  前章で示され、そこに見られるように、それぞれの社会が一緒に一つとして見られるとき人間の似姿であることは、全天界がその似姿を持っているからです。天界の形のように最も完全な形をしたものは、部分が全体と類似し、また小さいものが最大のものと類似しています。天界の小さいものと部分は社会であり、それらから天界が構成され、それらはまた小さい形での天界であることは前に見られます(51-58番)。
このような類似は、天界の中のすべての善が一つの愛から、このように一つの起源から存在するので、永続します。そこのすべての善が存在する起源である一つの愛とは、主への愛であり、それは主からのものです。
ここから、全天界は全般的にその方に類似し、それぞれの社会はそれほど全般的にではなく、また、それぞれの天使は特定的にその方に類似しています。
このこともまた前に見られ(58番)、そこにこれらの事柄について言われています。

天界と地獄

72◀︎目次▶︎74

10 ここから、それぞれの天使は完全な人間の形をしている

73  前の二つの章の中で、天界は全統一体としてひとりの人間を表わすこと、天界の中のそれぞれの社会も同様であることを示しました――そこに提示された関連する理由から、それぞれの天使も同じく人間を表わすことがいえます。

天界は最大の形の人間であり、天界の社会は小さい形の人間、このように天使は最小の形の人間です、なぜなら、天界の形のような最も完全な形の中には、全体に類似のものが部分の中にあり、部分に類似のものが全体の中にあるからです――このようであることの理由は、天界は交わりであり、自分のすべてのものをそれぞれの者と共有し、それぞれの者はその共有のものから自分のすべてのものを受け取るからです。前の章でも示されているように、天使は容器であり、ここから最小の形の天界です。
人間もまた、天界を受け入れれば受け入れるほど、それだけ容器であり、天界であり、天使です(前の57番参照)。
このことは「黙示録」の中に次のように述べられています、

聖なるエルサレムの「城壁が測られた」、「人間の尺度で百四十四ペーキュス、それは天使の尺度でもある」(21:17)。

そこの「エルサレム」は、主の教会であり、さらにすぐれた意味では天界です (*1)。「城壁」は、虚偽と悪の攻撃から守る真理です (*2)。「百四十四」は、統一体としてのすべての真理と善です (*3)。「尺度」は、その性質です (*4)。「人間」は、自分の中に真理と善のすべてのものが全般的にも部分的にも、このように自分の中に天界がある者です。そして、天使もまた真理と善から人間であるので、それゆえ、「人間の尺度で、それは天使の尺度でもある」と言われます。
これがそれらのことばの霊的な意味です。
その意味がなくて、聖なるエルサレムの城壁が人間の寸法で、それは天使の寸法でもあったことを、だれが理解するでしょうか? (*5)


*1  「エルサレム」は、教会である(402, 3654, 9166)。
*2  「城壁」は、虚偽と悪からの攻撃を守る真理である(6419)。
*3  「十二」は、全体としてのすべての真理と善である(577, 2089, 2129, 2130, 3272, 3858, 3913)。
百四十四は、それ自体に十二を掛けることから生じるので、「七十二」と「百四十四」も同様である(7973)。
みことばの中で、すべての数は事柄を意味する(482, 487, 647, 648, 755, 813, 1963, 1988, 2075, 2252, 3252, 4264, 4495, 5265)。
単純な数を掛けることによって生じる掛けられた数は、もとの単純な数と似たことを意味する(5291, 5335, 5708, 7973)。
*4  みことばの中の「尺度」は、真理と善に関する事柄の性質を意味する(3104, 9603)。
*5  みことばの霊的な意味、すなわち、内意については、「黙示録」の中の『白い馬』について、また『天界の教えへの付録』の解説を見よ。

天界と地獄

73◀︎目次▶︎75

74  しかし、今、経験から述べます。
天使が人間の形または人間であることを私は千回も見ました――私は彼らと人間と人間のように、ある時はひとりと、またある時は交わりの中で多くの者と話し、彼らは形に関して人間と何も異なっていないのを見たからです。ときどき、私は天使がそのようなものであることに驚いたことがあります――私が感覚の欺きの中に、または幻覚の中にいたと言われないように、それらを見ることは、私が十分に目覚めた中で、すなわち身体のすべての感覚の中で、明らかな知覚の中にいたときに与えられました。
さらにまたしばしば、私は彼らに「キリスト教界の中の人間が、天使と霊について、彼らは形のない心であり、純粋な思考の存在であって、生命をもつエーテルである、といった観念しかもっていません。このようなものなので、天使と霊に人間の思考以外の何ものも属させないで、彼らは目がないので見ない、耳がないので聞かない、口と舌がないので話さないと信じています。このような盲目の無知の中にいます」と語りました。
[2]これについて天使は、「このような信仰が世の多くの者にあること、学者たちを支配していること、また驚くべきことに祭司たちをも支配していることを知っています」と語りました。
理由もまた言いました。「天使と霊についてそのような観念を最初に考え出した主唱者であった学者たちは、そのことについて外なる人の感覚的なものから考えました。また感覚的なものから考えて、内的な光から考えず、それぞれの者に生来のものである普遍的な観念から考えない者は、このようなものしか案出することができません。外なる人の感覚的なものは、自然の中にあるものしか感知せず、上方にあるのもの、このように霊界については決して何も感知しません(*6)――これらの指導者から、天使についての誤った考えが、自分自身から考えずに指導者の言うことから考える者へ伝わりました。最初に他人の考えから考えて、自分の信仰をつくり、その後で、自分の理解力でその信仰を熟考する者は、そこから抜け出すことがほとんどできません。それゆえ、極めて多くの者がそれらを確信して満足しています」。
 [3]さらに彼らは言いました。「信仰と心において単純な者は、天使についてそのような観念をもたず、天界にいる人間というような観念をもっています。その理由は、天界からの生来のものを学問によって自分のもとで消滅させておらず、形のないものを考えもしないからです――ここから、神殿の中の天使は、彫刻にしろ絵画にしろ、人間としてしか示されていません。
天界からの生来のものとは、信仰と生活の善の中にいる者のもとに流入する神性です」。


*6  人間は、外なる人の感覚的なものから高揚されないなら、少しも賢くない(5089)。
賢い人間は、それらの感覚的なものを超えて考える(5089, 5094)。
人間は、それら感覚的なものを超えて高揚されるとき、さらに明るい光の中に、ついには天界の光の中にやって来る(6183, 6313, 6315, 9407, 9730, 9922)。
これらの感覚的なものからの高揚と離脱は古代人に知られていた(6313)。

天界と地獄

74◀︎目次▶︎76

75  そこで、多年にわたる経験のすべてから、私は天使がその形に関して完全に人間であり、彼らに顔があり、目・耳・胸・腕・手・足があること、互いに見、聞き、彼らの間で話すこと、一言でいえば、物質的な身体を上に着ていないことを除いて、人間にあるものが彼らにまったく欠けていないことを述べ、断言することができます。
私は彼らを彼らの光の中で見ましたが、その光は世の真昼の光よりも数段階もまさっていました。その光の中で、彼らのすべて顔は、地上で見られる人間の顔よりもさらに区別され、さらに明瞭でした。
さらにまた、最内部の天界の天使を見ることも与えられました――彼の顔は低い天界の天使よりも、きれいで、輝いていました。私は彼を観察しましたが、彼はすべての点でまったく人間の形をしていました。

天界と地獄

75◀︎目次▶︎77

76  しかし、天使は肉眼によって人間に見られることができないで、人間の中にある霊の目によって見られることを知らなくてはなりません(*7)。なぜなら、身体のすべてのものは自然界の中にあり、霊の目は霊界の中にあるからです。似たものは、似ているから、似たものを見るのです――さらに、身体の視覚の器官である目は、だれにも知られているように、自然の小さいものを、もし拡大鏡によらないなら決して見ることがないように、このように粗雑です。ここから、霊界にあるすべてのもののような自然の領域を超えたものは、なおさら見ることはありません――しかし、これら霊界にあるものでも、人間が身体の視覚から引き出され、霊の目を開かれるとき見られ、さらにまたこのことは、これらのものを見ることを主が喜ばれるとき、一瞬にして起こります。その時、人間は、それらを身体の目で見ているとしか思いません――このようにして、天使は、アブラハム、ロト、マノア、預言者たちに見られました。主もまたこのようにして復活後に弟子たちに見られました――さらにまた似た方法で、私に天使が見られました。
預言者たちはこのように見たので、それゆえ「見る者」や「目を開かれた者」と呼ばれました(サムエル記I 9:9、民数記 24:3)。彼らが見るようにされることは、「目を開くこと」と言われ、エリシャの若者に起こったことであり、そのことについて次のように書いてあります、

エリシャは祈って言った。「エホバよ、どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください」。エホバがその若者の目を開かれたとき、彼は見た。見よ、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いてその山に満ちていた(列王記Ⅱ6:17)。


*7  人間は、自分の内的なものに関して霊である(1594)。
その霊は人間自身であり、身体は霊から生きている(447, 4622, 6054)。

天界と地獄

76◀︎目次▶︎78

77  この事柄について私が話した正直な霊は、天界の状態について、また霊と天使について、教会内にこのような無知があることを心から悲しみました。また憤りながら、「われわれは形のない心ではなく、エーテルのようなプネウマ(霊)でもなく、人間の姿をして、世にいる者と等しく、見て、聞いて、感じている。(*8)このことのすべてを物語ってほしい」と私に言いました。


*8  それぞれの天使は、主からの神的秩序の容器であるので、人間の形であり、受容にしたがって完全で美しい(322, 1880, 1881, 3633, 3804, 4622, 4735, 4797, 4985, 5199, 5530, 6054, 9879, 10177, 10594)。
神的真理は、それによって秩序が存在し、神的善は秩序の本質的なものである(2451, 3166, 4390, 4409, 5232, 7256, 10122, 10555)。

天界と地獄

77◀︎目次▶︎79

11 天界は全体的にも、部分的にも、主の神的人間性から、人間を表わしている

78  天界が全体的にも部分的にも人間を表わしているのは主の神的人間性からであることは、前章で言われ、示されたことのすべてから結論としていえます。
前章までに示されたことは次のものです、

(i)  主は天界の神であられる。
(ii)  主の神性が天界をつくる。
(iii)  天界は無数の社会から成る。それぞれの社会は小さい形の天界であり、それぞれの天使は最小の形の天界である。
(iv)  全天界は一つの統一体としてひとりの人間を表わす。
(v)  天界のそれぞれの社会もまたひとりの人間を表わす。
(vi)  ここから、それぞれの天使は完全な人間の形をしている。

これらのすべてから、神性が天界をつくるので、その神性は人間性の形をしていることが結論されます。
これが主の神的人間性であることは、『天界の秘義』から選び、集めて、〔本章の末尾の〕付録の中に要約してあるので、さらに明らかに見ることができます。
主の人間性は神的なものであって、その方の人間性は神的なものではないという教会内で信じられているようなものではないこともまた、それらの抜粋から、また『新しいエルサレムとその天界の教え』の終わりのほうで主について扱った箇所からも見ることができます。

天界と地獄

78◀︎目次▶︎80

79  このようであることは、多くの経験から私に証明されましたが、そのことについていくつかを今から述べます。
天界の中にいるすべての天使は、神性を〝人間〟以外の他の形では決して知覚しません。また驚くべきことに、さらに高い天界にいる者は、神性についてこれと異なって考えることができません。このように考えなくてはならないのは、流入する神性そのものからであり、また天界の形から、その形にしたがって自分たちの思考が周囲に広がるからです。というのは、天使のものであるすべての思考は、天界の中に拡大し、その拡大にしたがって彼らに知性と知恵があるからです――ここから、神的人間性はその方以外に与えられないので、そこのすべての者は主を認めています。
これらのことは、天使が私に言ったからだけでなく、天界の内的な領域に私が高揚された間に知覚したことからもまた与えられました。
ここから、天使が賢明であればあるほど、ますますそのことをはっきりと知覚することが明らかです。また、主が彼らに現れるのはここからです。目に見える神性を認め、信じる者に、主は〝人間〟である神的な天使の形で現われますが、目に見えない神性を信じる者には現われないからです。前者は自分たちの神性を見ることができますが、後者はできないからです。

天界と地獄

79◀︎目次▶︎81

80  天使は、目に見えない神性は〝形のない神性〟と呼んで知覚しないで、目に見える神性を人間の形で知覚するので、それゆえ、「主おひとりが人間であられ、自分たちは主から人間です」と言うことは、彼らにとって普通のことです。また、それぞれの者は、その方を受け入れれば受け入れるほど、それだけ人間です。
彼らは、〝主を受け入れることは、その方からの善と真理を受けることである〟と理解しています、主はご自分の善の中に、ご自分の真理の中におられるからです。これを知恵や知性と呼んでおり――「知性や知恵が人間をつくり、それらがなくては人間がつくられないことはだれもが知っています」と言っています。
そのようであることは、内的な天界の天使からもまた見られます。彼らは、主からの善と真理の中に、ここから知恵と知性の中にいるので、最も美しく最も完全な人間の形をしています。低い天界の天使は、その完全性と美しさが少なくなっています――しかし、地獄の中では逆です。そこの者は、天界の光の中では、ほとんど人間として見られないで、怪物として現われます。悪と虚偽の中に、善と真理の中にいないで、知恵と知性に対立するものの中にいるからです。それゆえまた、彼らのいのちは、いのちと呼ばれないで、霊的な死と呼ばれます。

天界と地獄

80◀︎目次▶︎82

81  天界が全体的にまた部分的に主の神的人間性からの人間を表わしているので、それゆえ、天使は、「自分たちは主の中にいます」、またある天使は、「その方の身体の中にいます」と言い、そのことによって、彼らはその方の愛の善の中にいることを理解しています――そのように、主ご自身もまた、〔次のように〕言われ、教えられています、

わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまらないなら、枝はそれ自体から実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにとどまらないなら、実を結びません。……わたしの愛の中にとどまりなさい。……もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛の中にとどまります(ヨハネ 15:4-10)。

天界と地獄

81◀︎目次▶︎83

82  天界では神性についての知覚はこのようなものであるので、それゆえ、天界から何らかの流入を受けるそれぞれの人間に、神について人間の姿で考えることが植えつけられており、古代人はこのように考えました。今日の人々もまた、教会の内外で、このように考えています。単純な者は、その方を輝きの中の「古老」のように考え、見ています。
しかし、この植えつけられたものである天界からの流入をプロプリウム(自己)の知性によって、また悪の生活によって遠ざけた者は、そのすべてを消滅させました――プロプリウム(自己)の知性によって消滅させた者は、目に見えない神を崇拝します。しかし、悪の生活によって消滅させた者は、決して神を崇拝しません――両者とも、このような植えつけられたものが、自分のもとにないので、それが存在することを知りません。それでも、それは天界から人間に流入する主要なものであり、天界の神性そのものです。なぜなら、人間は天界へと生まれており、だれも神の概念がなくては天界に来ないからです。

天界と地獄

82◀︎目次▶︎84

83  ここから、天界の観念をもたない者は、すなわち、天界を存在させる方である神についての観念をもたない者は、天界の最初の入り口にすら上げられることができません。そこに来ると直ぐに、反動と強い抵抗を覚えます――その理由は、天界が受け入れようとする彼の内的なものは、天界の形をしていないので、閉ざされていたからです。その内的なものは、実に天界の近くに来れば来るほど、それだけぴったりと閉ざされます。
教会内で、主を否定した者の運命、またソッツィーニ主義者のようにその方の神性を否定した者の運命はこのようです――しかし、教会の外に生まれ、みことばを持たないので、主を知らない者の運命がどんなものであるかは、あとで述べます。

天界と地獄

83◀︎目次▶︎85

84  古代人が神性について人間としての観念をもっていたことは、アブラハム、ロト、ヨシュア、ギデオン、マノア、彼の妻、その他の者の前に出現した神から明らかです。その者たちは神を人間として見ても、それでもその方を天地の神、そしてエホバと呼んで、全世界の神として崇拝しました。
アブラハムに見られた者が主であったことは、主が「ヨハネ福音書」(8:56)で教えられています。他の者からもまた見られたことは、次の主のことばから明らかです、

だれも父を、その方の姿を見なかった、その方の声を聞かなかった(ヨハネ 1:18; 5:37)。

天界と地獄

84◀︎目次▶︎86

85  しかし、外なる人の感覚的なものからすべてを判断する者は、神が人間であられることをほとんど把握することができません。感覚的な人間は、神性について世から、世にあるものからしか考えることができません、したがって神的な人や霊的な人について形体的で自然的な人間のようにしか考えることができないからです――ここから彼は、「もし神が人間であるなら、宇宙のような大きさであったであろう。もし天と地を支配するなら、世の王のように多くの者によって行なったであろう」と結論します。
もし彼に、天界には世のような空間の拡張がないことが言われるなら、彼はまったく理解しません。自然とその光だけから考える者は、目の前にあるような広がり以外のものからは決して考えないからです。しかし、天界について同様に考えるなら、何と欺かれていることでしょう。そこの広がりは、世の広がりのようではありません。世では、広がりは限られており、それゆえ、測ることのできるものです。けれども、天界では、広がりは限られていません、それゆえ、測ることのできないものです。しかし、天界の中の広がりについては、あとで霊界の空間と時間について扱う箇所で述べます。
さらに、だれもが目の視界がどれだけ広がっているか知っています、すなわち、遠く離れている太陽にまで、星にまで広がっていることです。さらにまた、深く考える者なら、思考に属す内なる視覚はいっそう広く、またそれゆえ、さらに内なる視覚はさらに広く、広がっていることを知っています。すべてのものの最内部にあり、最高のものである神的な視覚にとって、その視界の及ばない何かがありえるでしょうか?
思考はこのように拡大しているので、それゆえ、天界のすべてのものは天界のそれぞれの者に伝えられています。そのように天界をつくり、そこに満ちているすべての神性は、前章で示されたように、それぞれの者に伝えられています。

天界と地獄

85◀︎目次▶︎87

86  天界にいる者は、神について考えるとき、目に見えないものについて、すなわち、何らかの形で把握できないものについて考えている人間が自分自身に知性があると信じていることに、また、これと異なって考える者は、知性がなく、単純な者と呼んでいることに驚きました。それでもこのことは正反対です。
彼らは、「もし、自分自身に知性があると信じる者が自分自身を調べるなら、自然を神として見ていることに気づかないか? ある者は目の前にある自然を、ある者は目の前にない自然を神として見ていないか? また、神とは何か、天使とは何か、霊とは何か、死後に生きる自分の霊魂とは何か、人間のもとの天界の生活とは何か、知性に属す多くのものを知らないように、それほどに盲目なのではないのか? そのときそれでも、単純な者と呼ばれる者は、これらすべてを自分なりの方法で知っている。われわれのもっている神の観念は人間の形をした神性であり、天使についてもっている観念は天界の人間であり、死後に生きる自分たちの霊魂については、それは天使のようなものであり、人間のもとの天界の生活についてもっている観念は神的な戒めにしたがって生きることである」と言っています。
そこで、天使は後者を知性ある者、天界に適した者と呼び、これに反して、前者を知性のない者と呼んでいます。

主とその方の神的人間性について

天界と地獄

86◀︎目次▶︎87

[2]主の神性は受胎そのものから存在した(4641, 4963, 5041, 5157, 6716, 10125)。
主おひとりに神的な種が存在した(1438)。
その方の霊魂はエホバであった(1999, 2004, 2005, 2018, 2025)。
このように主の最内部は神性それ自体であり、包んでいるものは母から発した(5041)。
神性それ自体は、主のいのちのエッセ(存在)であり、そこからその後、人間性が発生し、そのエッセ(存在)からエキシステレ(実在)となった(3194, 3210, 10269, 10372)。

[3]みことばがあり、それによって主が知られている教会内では、主の神性も、その方から発出する聖性も否定されてはならない(2359)。
教会内で主を認めない者に神性との結合はない。教会外にいる者は異なる(10205)。
主の神性と、父とその方との合一性を認めることは、教会の本質的なものである(10083, 10112, 10370, 10730, 10738, 10816-10820)。

[4]主の栄化について、みことばの中に多くのことが扱われている(10828)。
みことばの内意には、どこでも扱われている(2249, 2523, 3245)。
主は、ご自分の人間性を栄化されたのであって神性を栄化されたのではない、神性は本質的に栄化されていたからである(10057)。
主は、ご自分の人間性を栄化するために世に来られた(3637, 4287, 9315)。
主は、受胎のときからあったご自分の人間性をご自分の中の神的愛によって栄化された(4727)。
全人類に対する主の愛は、世での主のいのちであった(2253)。
主の愛は、人間のすべての理解力を超えている(2077)。
主は、ご自分の人間性を栄化することによって、人類を救われた(4180, 10019, 10152, 10655, 10659, 10828)。
そうでなければ、全人類は永遠の死のうちに滅んでしまった(1676)。
主の栄化の状態と卑下の状態について(1785, 1999, 2159, 6866)。
栄化は、主について述べられているところでは、神性とその方の人間性の結合であり、栄化することは、神的なものにすることである(1603, 10053, 10828)。
主は、ご自分の人間性を栄化されたとき、母からのすべての人間性を、ついにその息子ではないまでに脱ぎ捨てられた(2159, 2574, 2649, 3036, 10830)。

[5]永遠からの神の子は、天界の中の神的真理であった(2628, 2798, 2803, 3195, 3704)。
主もまた、世におられたとき、ご自分の中の神的善からその人間性を神的真理とされた(2803, 3194, 3195, 3210, 6716, 6864, 7014, 7499, 8127, 8724, 9199)。
その時、主は神的真理にしたがっているご自分のすべてのものを天界の形に配列された(1928, 3633)。
それゆえ、主はみことばと言われ、それは神的真理である(2533, 2813, 2859, 2894, 3393, 3712)。
主おひとりに、ご自身からの知覚と思考があられ、それらは天使的なすべての知覚と思考にまさっていた(1904, 1914, 1919)。
主は、ご自身である神的真理を、ご自分の中の神的善と結合された(10047, 10052, 10076)。
結合は交互的であった(2004, 10067)。

[6]主は世から立ち去るとき、ご自分の人間性もまた神的善とされた(3194, 3210, 6864, 7499, 8724, 9199, 10076)。
これが、父から出て、また父へ戻られることによって意味されることである(3194, 3210)。
このように父と一つとなられた(2751, 3704, 4766)。
結合の後、神的真理は主から発出している(3704, 3712, 3969, 4577, 5704, 7499, 8107, 8241, 9199, 9398)。
どのように神的真理は発出しているか、その説明(7270, 9407)。
主は、ご自分に固有の力から人間性を神性に結合された(1616, 1749, 1752, 1813, 1921, 2025, 2026, 2523, 3141, 5005, 5045, 6716)。
ここから、主の人間性は、受胎が神性そのものからであったので、他の人間の人間性のようではなかったことを明らかにすることができる(10825, 10826)。
父からその方の霊魂が存在し、父とその方の結合は、ふたりの間のようなものではなく、霊魂と身体の間のようなものであった(3737, 10824)。

[7]最古代人は神的エッセ(存在)を崇拝できず、神的人間性である神的エキシステレ(実在)を崇拝できた。それゆえ、主は神的エッセ(存在)からの神的エキシステレ(実在)になるために、世に来られた(4687, 5521)。
古代人は、彼らに〔神性が〕人間の形で現われたので、〔その〕神性を認め、これが神的人間性であった(5110, 5663, 6846, 10737)。
無限のエッセ(存在)は、神的人間性によってでないなら、天界の中の天使のもとにも、人間のもとにも流入することはできない(1676, 1990, 2016, 2034)。
天界では、神的人間性以外の神性は何も受け入れられない(6475, 9303, 9267, 10067, 10267)。
永遠からの神的人間性は、天界の神的真理であり、天界を通って通り過ぎ、こうして神的エキシステレ(実在)であった。その後、主の中でそれ自体から神的エッセ(存在)となり、そこから天界の中に神的エキシステレ(実在)となった(3061, 6280, 6880, 10579)。
主の降臨の前、天界の状態はどんなであったか(6371-6373)。
神性は、天界を通り過ぎたときでないなら、知覚できるものでなかった(6282, 6996, 7004)。

[8]すべての地球の住民は、神性を人間の形の下に、このように主を崇拝する(6700, 8541-8547, 10736-10738)。
彼らは神が実際に人間となられたことを聞くとき喜ぶ(9361)。
主は、善の中にいる者を、また神性を人間の形の下に崇拝するすべての者を受け入れられる(9359)。
人間の形でないなら、神について考えることはできず、理解できないものは、何の観念にも、そのように信仰の中にも落ち込まない(9359, 9972)。
人間は何らかの観念をもつものについて礼拝できるが、何も観念をもたないものについて礼拝できない(4733, 5110, 5663, 7211, 10067, 10267)。
それゆえ、全地球の大部分の者から、神性は人間の形の下に礼拝され、このことは天界からの流入によっている(10159)。
生活に関して善の中にいるすべての者は、主について考えるとき、神的人間性について考え、神性から分離した人間性について考えない。生活に関して善の中にいない者は異なる(2326, 4724, 4731, 4766, 8878, 9193, 9198)。
今日、教会の中で、生活に関して悪の中にいる者は、なおまた仁愛から分離した信仰の中にいる者は、神性のない主の人間性について考え、さらにまた神的人間性とは何か理解しない。その原因(3212, 3241, 4689, 4692, 4724, 4731, 5321, 6872, 8878, 9193, 9198)。
主の神性は、その方の霊魂である父のエッセ(存在)からのものであるので、神的である。父に類似のものが子の中にあることによる説明(10269, 10372, 10823)。
また、神的愛からのものなので、それは受胎から、その方のいのちのエッセ(存在)そのものであった(6872)。
それぞれの人間は、その愛のようなものであり、その者の愛である(6872, 10177, 10284)。
主は、外なるものと同じく内なるものもすべての人間性を神的なものとされた(1603, 1815, 1902, 1926, 2803, 2093)。
それゆえ、主は、どの人間とも異なり、全身に関して復活された(1729, 2083, 5078, 10825)。

[9]主の人間性が神的なものであることは、聖餐の中にその方が遍在されることから認められる(2343, 2359)。
また、三人の弟子たちの前でのその方の変容からも(3212)。
また、旧約聖書からも、そこでは神と呼ばれている(10154)。
また、エホバと呼ばれている(1603, 1736, 1815, 1902, 2921, 3035, 5110, 6282, 6303, 8864, 9194, 9315)。
文字どおりの意味では、父と子の間は、すなわち、エホバと主の間は、区別されている、しかし、みことばの内意では区別されていない、その〔内意の〕中に天界の天使たちがいる(3035)。
キリスト教界で、主の人間性は神性と認められていない、そのことは法王がその方の代理人として認められるために、法王のための会議でなされた(4738)。

[10]キリスト教徒たちは、来世で、唯一の神についてどのような観念をもっているか調べられ、三つの神の観念をもっていることがわかった(2329, 5256, 10736-10738, 10821)。
三一性は、すなわち、三つの位格の中の神性ではなく、一つの位格の中の三つの神性は、このように唯一の神の考えは、抱かれることのできるものである(10738, 10821, 10824)。
主の中の神的三一性は、天界の中で認められている(14, 15, 1729, 2004, 5256, 9303)。
主の中の三一性は、父と呼ばれる神性そのもの、子と呼ばれる神的人間性、聖霊と呼ばれる発出する神性であり、この神的三一性は一つのものである(2149, 2156, 2288, 2319, 2329, 2447, 3704, 6993, 7182, 10738, 10822, 10823)。
主ご自身が、父とご自分は一つであることを教えられた(1729, 2004, 2005, 2018, 2025, 2751, 3704, 3736, 4766)。神的な聖性はその方から発出し、その方のものである(3969, 4673, 6788, 6993, 7499, 8127, 8302, 9199, 9228, 9229, 9264,  9407, 9818, 9820, 10330)。

[11]神的人間性が天界に流入し、天界をつくる(3038)。
主は天界の中のすべてであられ、天界のいのちであられる(7211, 9128)。
主は天使のもとのご自分のものの中に住まわれる(9338, 10125, 10151, 10157)。
ここから、天界の中にいる者たちは主の中にいる(3637, 3638)。
天使との主の結合は、その方からの愛と仁愛の善の受け入れにしたがっている(904, 4198, 4205, 4211, 4220, 6280, 6832, 7042, 8819, 9680, 9682, 9683, 10106, 10810)。
全天界は主と関係する(551, 552)。
主は天界の共通の中心であられる(3633, 3642)。
そこのすべての者は、自分自身を天界の上方へ、主へ向ける(9828, 10130, 10189)。
それでも、天使が自分自身を主へ向けるのではなく、主が彼らをご自分へ向けられる(10189)。
主のもとに天使が現在するのではなく、天使のもとに主が現在される(9415)。
天界の中に、神性そのものとの結合はなくて、神的人間性との結合がある(4211, 4724, 5663)。

[12]天界は主の神的人間性に対応する。ここから天界は全般的にひとりの人間のようであり、それゆえ、天界は〝最大の人〟と呼ばれる(2996, 2998, 3624, 3649, 3636-3643, 3741-3745, 4625)。
主はひとりの人間であられ、その方から神的なものを受ける者だけが人間である(1894)。
彼らは受ければ受けるほど、それだけ人間であり、その方の映像である(8547)。
それゆえ、天使は人間の形の愛と仁愛の形であり、このことは主からのものである(3804, 4735, 4797, 4985, 5199, 5530, 9879, 10177)。

[13]全天界は主のものである(2751, 7086)。
天界の中と地上のすべての力はその方にある(1607, 10089, 10827)。
主は全天界を支配されるので、それに依存するすべてのものを、したがって世のすべてのものをもまた支配される(2026, 2027, 4523, 4524)。
主おひとりに、地獄を遠ざけ、悪を押しとどめ、善の中に保ち、このように救う力があられる(10019)。

天界と地獄

86◀︎目次▶︎88

12 天界のすべてのものの対応が人間のすべてのものとある

87 対応が何か、今日では知られていません——知られていないことには多くの原因があります。その主要なものは、人間が自己愛と世俗愛によって天界から遠ざかったことです。というのは、すべてにまさって自己と世を愛する者は、世俗のもの以外の他のものを眺めないからです。自己と世は外部の感覚にとって魅惑的であり、性向を楽しませ、霊的なものは内部の感覚にとって魅惑的であり、心(mens)を楽しませるので、生まれながらの性向は自己と世によって楽しまされます。それで〝霊的なものは思考の程度を超えている〟と言って、自分のもとから投げ返し、これを眺めないのです。
古代人は異なっていました——彼らにとって、対応の知識はすべての知識の主要なものであり、それらによって知性と知恵を吸収しました——教会に属す者には、それらによって天界との伝達がありました。
天的な人であった最古代人は、対応そのものから天使のように考え、それゆえ、天使とも話しました。それゆえ、主は彼らにたびたび見られ、彼らを教えられました。
しかし、今日では、対応が何か知られないほどに、それらの知識は完全に失われています(*1)


*1 対応の知識は他の知識にどれほどまさっているか(4820番)。
対応の知識は古代人たちに主要な知識であった、しかし、今日では消し去られている(3021, 3419, 4280, 4749, 4844, 4964, 4966, 6004, 7729, 10252)。
対応の知識は、東洋人のもとで、またエジプトで栄えた(5702, 6692, 7097, 7779, 9391, 10407)。

天界と地獄

87◀︎目次▶︎89

88 それで、対応が何か知られていないので、光の中で、霊界について、自然界の中へのその流入についても知ることのできるものは何もありません。自然的なものと比べて霊的なものが何であるかも、霊魂と呼ばれる人間の霊についても、また身体の中でのその活動についても、死後の人間の状態についても、まったく何も光の中にありません。それゆえ、対応が何か、その性質がどんなものか述べなくてはなりません、このようにこのあとのものへの道が準備されます。

天界と地獄

88◀︎目次▶︎90

89 最初に、対応が何か、述べます。
全自然界は霊界と対応しています。自然界が全般的にだけでなく、個々のものもまた対応しています。それゆえ、霊界から存在する自然界のものは何であっても、対応するものと呼ばれます。
自然界が霊界から存在し、存続することは、まさに結果がその有効原因から生じるようなものである、と知るべきです。
太陽の下に存在し、その太陽から熱と光を受け入れ、そこに広がるすべてのものは自然界と呼ばれ、そこから存続するすべてのものはその世界に属します——けれども、霊界は天界であり、天界の中のすべてのものはその世界に属します。

 

天界と地獄

89◀︎目次▶︎91

90  人間は最大の映像にしたがった最小の形としての天界であり、また世でもあるので(前の57参照)、それゆえ、彼のもとに霊界と自然界があります——人間の心に属し、理解力と意志に関係する内的なものは、彼の霊界をつくります。けれども、彼の身体に属し、感覚と行動に関係する外的なものは、彼の自然界をつくります——そこで、彼の自然界の中のどんなものでも、すなわち、彼の身体とその感覚と行動の中のどんなものでも、彼の霊界から、すなわち、彼の心とその理解力と意志から存在するようになっており、対応するものと呼ばれます。

天界と地獄

90◀︎目次▶︎92

91  対応がどんなものかは、人間の顔の中に見ることができます——偽り装うことを教えられていない顔の中に、心のすべての情愛は、象徴するかのように、自然的な形の中に見られ、それ自体を現わします。ここから、顔は心の指標と呼ばれ、このように彼の霊界が彼の自然界の中に見られます——同様に、理解力に属すものは、話しの中に、意志に属すものは、身体の振る舞いの中に見られます。
そこで、身体の中に生じるものは、あるいは顔・話し方・あるいは振る舞いの中であろうと、対応するものと呼ばれます。

天界と地獄

91◀︎目次▶︎93

92  ここからまた、内なる人が何か、また外なる人が何か、知ることができます。すなわち、内なる人は霊的な人、外なる人は自然的な人と呼ばれます——さらにまた、天界が世から区別されるように、一方はもう一方から区別されます——そのようにまた、外なるまたは自然的な人の中に生じ、存在するようになるすべてのものは、内なるまたは霊的な人から生じ、存在するようになります。

天界と地獄

92◀︎目次▶︎94

93  これまで、人間の内なるものまたは霊的なものとその外なるものまたは自然的なものとの対応について述べました。しかしそれで、このあとでは、人間の個々のものと天界全体の対応について扱います。

天界と地獄

93◀︎目次▶︎95

94  全天界はひとりの人間を表わすこと、人間の映像をしていること、それゆえ、〝最大の人〟と呼ばれることを示しました。また、天界を成り立たせている天使の社会は、人間の四肢・器官・内蔵のように配列されていることも示しました。ある社会が頭の中に、ある社会が胸、腕の中に、こうして社会がそれらの個々の部分の中にあることです(前の59-72番参照)。
そこで、何らかの四肢の中にある天界の社会は、同じく人間の四肢に対応します。例えば、頭の中にある天界の社会は、人間の頭に対応します。胸の中にあるものは人間の胸に対応し、腕の中にあるものは人間の腕に対応します。残りのものの中にあるものも同様です——その対応から人間は存続します。なぜなら、人間は天界以外の別の源泉からは存続しないからです。

天界と地獄

94◀︎目次▶︎96

95  天界が二つの王国に分けられ、それらの一つが天的な王国、もう一つが霊的な王国と呼ばれることは前の章に見られます。
天的な王国は、全般的に、心臓に、それと全身の中で心臓の支配するすべてのものに対応します。霊的な王国は、肺に、それと全身の中で肺の支配するすべてのものに対応します。さらにまた、心臓と肺は人間の中で二つの王国をつくっています。心臓は人間を動脈と静脈を通して、肺は神経と運動の繊維を通して支配し、両者はそれぞれ力と行動で支配します。
それぞれの人間の中にもまた、彼の霊的な人と呼ばれるその霊的な世界の中に二つの王国があります。一つは意志の王国であり、もう一つは理解力の王国です。意志は善の情愛によって、理解力は真理の情愛によって支配します。これらの王国もまた、身体の中の心臓と肺の王国に対応します。
天界の中でも同様です。天的な王国は、天界の意志に属し、天界で愛の善を支配します。また霊的な王国は、天界の理解力に属し、天界で真理を支配します——これらの王国は、人間の心臓と肺の機能に対応するものです。
この対応から、みことばの中で、「心臓」が意志と愛の善を意味し、そして肺の「息」が理解力と信仰の真理を意味します——ここから、情愛は心臓にも、心臓からも存在しませんが、その情愛は心臓に帰せられています(*2)


*2 〝最大の人〟との心臓と肺の対応について、それは天界である。経験から(3883-3896)。
心臓は天的な王国にいる者に対応する、けれども、肺は霊的な王国にいる者に対応する(3885-3887)。
天界の中に心臓のような鼓動があり、肺のような呼吸がある、しかし、内的なものである(3884, 3885, 3887)。
そこの心臓の鼓動は愛の状態にしたがって、呼吸は仁愛と信仰の状態にしたがって変化している(3886, 3887, 3889)。
みことばの中の「心(心臓)(cor)」は、意志であり、したがって「心(心臓)から」は、意志からである(2930, 7542, 8910, 9113, 10336)。
さらにまた、みことばの中で「心(心臓)」は、愛であり、したがって「心(心臓)から」は、愛からである(7542, 9050, 10336)。

天界と地獄

95◀︎目次▶︎97

96  天界の二つの王国と心臓と肺との対応は、天界と人間との全般的な対応です。けれども、その四肢・器官・内蔵の個々のものとの対応は、さらに小さな規模の全般的な対応です。それがどんなものであるか、さらに述べます。
天界である〝最大の人〟の頭の中にいる者は、他の者よりもすべての善の中にいます。愛・平和・無垢・知恵・知性、またここから楽しさと幸福の中にいるからです。これらは人間の頭の中へ、そして頭に属すものの中へ流入し、それらに対応します。
天界である〝最大の人〟の胸の中にいる者は、仁愛と信仰の善の中にいて、人間の胸の中へ流入し、それに対応します。
けれども、〝最大の人〟または天界の腰の中に、そしてその中の生殖器官に割り当てられた者は、結婚愛の中にいます。足の中にいる者は、霊的な自然的な善と呼ばれる天界の最も低い善の中にいます。
腕と手の中にいる者は善からの真理の力の中にいます。
目の中にいる者は理解力の中に、耳の中にいる者は傾聴することと服従の中に、鼻の中にいる者は知覚の中に、口と舌の中にいる者は理解力と知覚から話すことの中にいます。
腎臓の中にいる者は、調べ、分離し、矯正する真理の中にいます。
肝臓・膵臓・脾臓の中にいる者は、いろいろな善と真理を清めることの中にいます。
他の者は、異なるものの中にいます。
彼らは人間の類似のものの中に流入し、それらのものに対応します。
天界は四肢の機能と役立ちの中へ流入し、役立ちは、霊界から存在するので、自然界の中に存在するものによってそれ自体を形成し、こうして結果の中に永続します。ここから対応が存在します。

天界と地獄

96◀︎目次▶︎98

97  ここから、これらの四肢・器官・内蔵によって、みことばの中で同様のものが意味されます。みことばのすべてのものは対応にしたがっているからです——ここから「頭」によって知性と知恵が意味され、「胸」によって仁愛が、「腰」によって結婚愛が、「腕」と「手」によって真理の力が、「足」によって自然的なものが、「目」によって理解力が、「鼻」によって知覚(知覚力)が、「耳」によって服従が、「腎臓」によって真理を調べることなどが意味されます(*3)
またここから、人間によく知られたことですが、知性と知恵について〔この〕場合、〝彼に頭がある〟と語り、仁愛の中にいる者の場合、〝胸中の友である〟、知覚(知覚力)の中にいる者については、〝鋭い鼻である〟、知性の中にいる者は、〝鋭いまなざしである〟、力のある者は、〝伸びた手を持っている〟、愛から欲する者は、〝心から欲する者である〟と語ります。
人間の話しの中のこれらや他の多くのものは対応から存在します。というのは、このようなものは、たとえ人間がそのことを知らなくても霊界から存在するからです。


*3 みことばの中の「胸」は仁愛を意味する(3934, 10081, 10087)。
「腰」と「生殖器官」は結婚愛を意味する(3021, 4280, 4462, 5050-5052)。
「腕」と「手」は真理の力を意味する(878, 3091, 4931-4937, 6947, 7205, 10019)。
「足」は自然的なものを意味する(2162, 3147, 3761, 3986, 4280, 4938-4952)。
「目」は理解力を意味する(2701, 4403-4421, 4523-4534, 6923, 9051, 10569)。
「鼻」は知覚を意味する(3577, 4624, 4625, 4748, 5621, 8286, 10054, 10292)。
「耳」は従順を意味する((2542, 3869, 4523, 4653, 5017, 7216, 8361, 8990, 9311, 9397,  10061)。
「腎臓」は真理の吟味と叱責を意味する(5380-5386, 10032)。

天界と地獄

97◀︎目次▶︎99

98  天界のすべてのものと人間のすべてのものとにこのような対応があることが、多くの経験によって私に示されました。またこのように多くの経験から、この事柄について明白で、まったく疑いがないほどに確信しました。しかし、それらの経験をすべてここに持ち出すことは必要ないし、多くて許されません——『天界の秘義』の中の、「対応」について、「表象」、自然界の中への霊界の「流入」、「霊魂と身体の交流」について扱っている箇所に示しておいたので見てください(*4)


*4 全般的にまた特定的に、〝最大の人〟、すなわち、天界と身体のすべての四肢の対応について。経験から(3021, 3624-3649, 3741-3750, 3883-3896, 4039-4054,  4218-4228, 4318-4331, 4403-4421, 4523-4533, 4622-4633, 4652-4660, 4791-4805, 4931-4953, 5050-5061, 5171-5189, 5377-5396, 5552-5573, 5711-5727, 10030)。
自然界の中への霊界の流入について、すなわち、世の中への天界の流入について、身体のすべてのものの中への霊魂の流入について。経験から(6053-6058, 6189-6215, 6307-6327, 6466-6495, 6598-6626)。
霊魂と身体の交流について。経験から(6053-6058, 6189-6215, 6307-6327, 6466-6495, 6598-6626)。

天界と地獄

98◀︎目次▶︎100

99  しかし、たとえ人間の身体に関するすべてのものが天界のすべてのものに対応していても、それでもやはり人間は外なる形に関して天界の映像ではなく、内なるものに関して天界の映像です。人間の内的なものは天界を受け入れ、その外的なものは世を受け入れるからです。それで、人間の内的なものが天界を受け入れれば受け入れるほど、それだけ人間は内的なものに関して最大の映像にしたがった最小の形の天界です。けれども、彼の内的なものが天界を受け入れなければ受け入れないほど、それだけ天界と最大の映像ではありません。それでもやはり、世を受け入れる外的なものは、世の秩序にしたがった形になり、ここからいろいろな美となることができます。というのは、身体に属す外なる美は、両親と子宮の中で形成されることが原因であり、その後、世からの全般的な流入によって保持されるからです——ここから、人間の自然的な形はその人間の霊的な形とは大いに異なっています。
私は何度か、人間の霊がどんな形をしているか示されたことがあります。そのとき、美しく魅力的な容貌をした者の中に、あなたが、天界でなく地獄の映像と呼ぶような、醜くて、黒い、怪異なものを見ました。けれども、美しくない者の中に、形のよい、白光りする天使を見ました——さらにまた、死後、人間の霊は、世で生きたとき身体の中にあったような身体で現われます。

 

天界と地獄

99◀︎目次▶︎101

100  しかし、対応は人間よりもさらに広がっています——天界の間に互いに対応があるからです。第三または最内部の天界は、第二または中間の天界と対応します。第二または中間の天界は、第一または最も低い天界と対応します。またこの天界は、四肢・器官・内蔵と呼ばれる人間の身体の形と対応します——人間の身体は、その中に天界が最終的に終止し、土台のようなものであって、その上に天界が存続します。
しかし、このアルカナは他の箇所で、さらに十分に述べます。

天界と地獄

100◀︎目次▶︎102

101  天界と対応するすべてのものが主の神的人間性と対応するものであることは、知っておくべき全般的な真理です。前の章の中で示されたように、天界は主から存在し、主は天界であられるからです。なぜなら、神的人間性が天界のすべてのものの中に、また対応にしたがって世のすべてのものの中に流入しなかったなら、天使は存在しないし、人間も存在しないからです。
ここから再び、なぜ主が〝人間〟となられ、ご自分の人間性の最初のものから最後のものにまで神性をとられたか明らかです。天界の土台である人間が秩序を揺り動かし、滅ぼしたので、主の来臨前に天界を支えた神的人間性は、もはやすべてのものを支えるのに十分でなかったからです。
主の来臨前の神的人間性が何であり、どんなものか、そしてその時の天界の状態がどんなものかは、前章の「抜粋」を見てください。

天界と地獄

101◀︎目次▶︎103

102  天使は、「すべてのものを自然に帰し、まったく神に帰さない人間がいる。また、このように多くの天界の驚くべきものがまとめられている自分の身体が自然から集められたと信じ——さらにまた、人間の理性も自然から存在すると信じる人間がいる」と聞くとき、唖然とします。そのときそれでも、いくらか心を高揚させるだけで、このようなものが、自然からでなく、神から存在すること、また、自然は単に霊的なものを装うものであり、霊的なものを秩序の最後のものの中に対応させるために創造されていることを見ることができます——天使は、このような者を暗やみの中では見ても光の中では決して見ないフクロウにたとえています。

天界と地獄

102◀︎目次▶︎104

13 天界の対応が地上のすべてのものとある

103  対応とは何か前章で述べました。またそこに、生きている身体のすべてと個々のものは対応するものであることも示しました——そこで、順序として、地球のすべてのものは、また全般的に世のすべてのものは対応するものであることを示します。

 

天界と地獄

103◀︎目次▶︎105

104  地球にあるすべてのものは、三つの種類の「界」と呼ばれるものに区別されます。すなわち、動物界・植物界・鉱物界です。
動物界の中のものは、生きているので、第一の段階における対応するものです。植物界の中のものは、ただ生長するだけなので、第二の段階における対応するものです。鉱物界の中にあるものは、生きていないし、成長もしないので、第三の段階における対応するものです。
動物界で対応するものは、地上を歩くもの、這うもの、同じく空中を飛ぶものといったいろいろな種類の動物です。それらの名前は知られているので特に挙げません。
植物界で対応するものは、庭園・森・畑・平地の中で生長し、花が咲くすべてのものです。それらの名前もまた知られているので挙げません。
鉱物界で対応するものは、貴金属や卑金属、貴重な石、また普通の石、いろいろな種類の土、さらにまた水です。さらにまた、それら鉱物界のものから人間の活動により役立ちのために備えられるすべての種類の食べ物・衣服・家・建物、その他多くのものにも対応するものがあります。

天界と地獄

104◀︎目次▶︎106

105  地球の上方にあるもの、例えば、太陽・月・星、また大気の中のもの、例えば、雲・霧・雨・稲光・雷鳴もまた対応するものです。
太陽の出没により生じるもの、例えば、光と陰、暑さと寒さもまた対応するものです――同じく、これに続いて、例えば、春・夏・秋・冬と呼ばれる一年の期間や、朝・昼・夕・夜といった一日の時間も対応するものです。

天界と地獄

105◀︎目次▶︎107

106   一言でいえば、自然の中に存在するすべてのものは、その最小のものからその最大のものまで、対応するものです(*1)
対応するものであるのは、自然界がそのすべてのものとともに霊界から、またその二つの世界とも神的なものから存在し、存続するからです――存続すると言ったのは、すべてものは存在するものから存続し、さらにまた存続は不断の存在であるからです。また何らかものはそれ自体から存続することができないで、それ自体よりも前のものから、こうして〝最初のもの〟から、存続するからです。そこで、もし前のものから分離されるなら、完全に滅び、消えます。


*1  世とその三つの界のすべてのものは天界にある天的なものに対応する、すなわち、自然界の中にあるものは霊界の中にあるものと対応する(1632, 1881, 2758, 2760-2763, 2897-3003, 3213-3227, 3483, 3624-3649, 4044, 4053, 4116, 4366, 4939, 5116, 5377, 5428, 5477, 9280)。
対応によって自然界は霊界と結合されている(8615)。
ここから全自然は主の王国を表象する劇場である(2758, 2999, 3000, 3483, 3518, 4939, 8848, 9280)。

天界と地獄

106◀︎目次▶︎108

107   自然の中で神的な秩序から存在し、存続するすべてのものは、対応するものです。
主から発出する神的善が神的な秩序をつくります。神的な秩序はその方から始まり、その方から発出し、天界を通って連続的に世の中へ、そして世の最終的なものの中で終わります。
対応するものはその秩序にしたがっています。
善であり、役立ちに向けて完全になっているものすべては、その秩序にしたがっています、なぜなら、すべての善は役立ちにしたがった善であるからです。真理は善の形であるので、形は真理に関係します。
ここから、神的な秩序にしたがって全世界の中と自然の世界にあるすべてのものは、善と真理に関係します(*2)


*2 秩序にしたがっている全世界の中のすべてのものは、天界と同じく世の中のものも、善と真理に関係する(2451, 3166, 4390, 4409, 5232, 7256, 10122)。
また、何らかのものであるために、〔善と真理の〕両方の結合に関係する(10555)。

天界と地獄

107◀︎目次▶︎109

108  世の中のすべてのものが神的なものから存在するようになり、自然の中に存在し、役立ちを果たし、こうして自然の中で対応することができるようなものを着せられていることは、動物界と同じく、植物界に見られる個々のものからきわめて明らかです。もし内的なものから考えるなら、両方の界にこのようなものがあり、それらは天界から存在することを、だれもが見ることができます。
無数にあるものから、説明のために少しばかり記述しておきます。最初に、〝動物界〟の中のものからです。
どの動物でも、あたかも植えつけられたかのような知識をもっていることが、多くの者に知られています。
ミツバチは花から蜜を集め、蜜蝋から小室を作り、その中に蜜をたくわえ、このように自分自身や仲間の群れに、さらにまたこれから来る冬のために、食べ物を備えることを知っています。女王バチは卵を産み、他のハチは仕え、それらの卵をおおいで包み、ここから新しい子孫が生まれるようにします。すべてのハチは、植えつけられたものから、ある王国の形の中に生きて、役に立つハチを守り、役立たないハチの羽を奪って追い出すことやその他にも驚くべきことを知っています。それらは彼らに天界から役立ちのために与えられています。全世界の人類に、蝋はろうそくとして、蜜は食べ物の味つけのために役立つからです。
[2]動物界で最下等である小さい虫には何があるでしょうか?
虫は、自分に適する葉の液汁から滋養物をとり、その後、定まった時に、いわば胎内に入るかのようにして、自分のまわりにおおいを着せ、このように自分たちの種族の子孫を孵化することを知っています。
あるものは最初に若虫やさなぎに変わり、糸を作り出し、苦労を重ねた後、羽で装飾された別のからだで飾り、その虫の天界かのように、空中を飛び、結婚を祝い、卵を産み、自分たちの子孫を備えます。
[3]これらの他に特に、空を飛ぶ動物は全般的に、滋養物となる自分の食べ物を、その食べ物がどんなものであるかだけでなく、どこにあるかも知っています。他とは異なった自分の巣を作ること、そこに卵を産み、その上に座り、ひなを孵化すること、育てること、ひなが自分の責任でできるようになったとき家から追い出すことを知っています。さらにまた、避けなければならない敵や仲間となれる友を最初の幼いときから知っています――卵そのものの中の驚くべきことについては言わないことにします。そこには、ひなが形成され始めるためのすべての滋養物が、秩序のうちに、準備されています――この他にも、無数のものがあります。
[4]何らかの理性的な知恵から考える者が、「これらは霊界以外の別のところからのものである」などと言うでしょうか? 自然的なものは、霊界からのものにそれ自体を着せるために、すなわち、身体として仕え、原因である霊的なものが結果の中にあるようにするために仕えます。
地上の動物や空を飛ぶ動物は、それらのすべての知識の中に生まれています。それでもそれらの動物よりもすぐれている人間はそれらの知識に生まれていません。その理由は、動物は自分のいのちの秩序の中にいて、理性的なものはないので、霊界から自分の中にあるものを滅ぼすことができないからです――霊界から考える人間は異なっています。人間は、理性に賛同して、霊界から自分のもとにあるものを秩序に反した生活によって滅ぼしたので、それゆえ、無知の中に生まれることしかできないで、その後、神的な手段によって天界の秩序の中に戻されるのです。

天界と地獄

108◀︎目次▶︎110

109  植物界にあるものがどのように対応するか、多くのものから明らかにすることができます——例えば、小さな種が木に生長し、葉を出し、花を、その後、実を生み、その中に再び種をもたらしますが、これらのことは、簡単に記述することができないような驚くべき秩序で、連続的に生じ、存在するようになっています。何冊もの本によっても、それでもそれらの役立ちの内的なアルカナについて、その知識に近づき、その知識を余すところなく述べることはできません。
これらのものもまた霊界から、または人間の形をしている天界からのものであるので(そのことは前章で示しました)、ここから、植物界の個々のものもまた、人間のもとにあるようなものと関係をもっており、学界の中にも、このことを知っている者がいます。
植物界にあるすべてのものもまた対応するものであることは、私にとって多くの経験から明らかです――私はしばしば庭園にいて、木・実・花・野菜を観察し、天界の中のそれらに対応するものに気づいたからです。私は天界にいた者と話し、対応するものがどこからか、どのようなものであるか教えられました。

 

天界と地獄

109◀︎目次▶︎111

110  しかし、世の自然的なものが対応している天界の霊的なものを知ることは、対応の知識が今日ではまったく失われているので、天界から知らされるのでないなら、今日ではだれにもできません――けれども、自然的なものと霊的なものとの対応がどのようなものであるか、いくつかの例によって説明します。
地上の動物は全般的に情愛に対応し、おとなしくて役に立つものは善の情愛に、獰猛で役に立たないものは悪の情愛に対応します。
特に、牛と若い牛は自然的な心の情愛に、羊と子羊は霊的な心の情愛に対応します。けれども、飛ぶ動物はその種類にしたがって、自然的な心と霊的な心の両方の知的なものに対応します(*3)――ここから、表象的な教会であったイスラエル教会では、いろいろな動物から、例えば、牛・若い牛・雄羊・羊、雌ヤギ・雄ヤギ・子羊と雌の子羊、同じくハトとキジバトもまた、いけにえと全焼のいけにえとされ、聖なる役立ち〔礼拝〕の中で受け入れられました。その役立ちの中で、それらは霊的なものに対応しており、天界では対応にしたがって理解されたからです。
さらにまた、動物がその種と属にしたがって情愛であることは、生きていて、それぞれのいのちは情愛以外のどこからのものでもなく、情愛にしたがっているからです。ここから、どんな動物にも、そのいのちの情愛にしたがって生来の知識があります――人間もまた自分の自然的な人間に関しては動物に似ています。それで、普段の話しの中で、動物にたとえることがあります、例えば、おとなしい人なら羊または子羊と呼ばれ、残酷な人ならクマまたはオオカミ、狡猾ならキツネまたはヘビ、このように多くの動物にたとえられています。


*3 動物は対応から情愛を意味する。おとなしくて役に立つ動物はよい情愛を、獰猛で役に立たない動物は悪い情愛を意味する(45, 46, 142, 143, 246, 714, 716, 719, 2179, 2180, 3519, 9280)。霊界からの経験による説明(3218, 5198, 9090)。
獣のいのちの中への霊界の流入について(1633, 3646)。
牛と若い牛は対応から自然的な心の情愛を意味する(2180, 2566, 9391, 10132, 10407)。
羊とは何か(4169, 4809)。小羊とは何か(3994, 10132)。
飛ぶ動物は知的なものを意味する(40, 745, 776, 778, 866, 988, 993 [991?] 5149, 7441)。

天界と地獄

110◀︎目次▶︎112

111   植物界のものとも同様の対応があります。
庭園は全般的に知性と知恵に関して天界に対応し、それゆえ、天界は神の庭園や楽園と呼ばれ(*4)、人間からもまた天界の楽園と呼ばれています。
木はその種類にしたがって善と真理の知覚と知識に対応し、それらから知性と知恵がもたらされます。ここから、対応の知識の中にいた古代人は、自分たちの聖なる礼拝を杜の中で行ないました(*5)。またここから、みことばの中にはしばしば木の名前が挙げられ、天界・教会・人間がそれらの木に、例えば、ぶどうの木・オリーブの木・杉その他にたとえられ、行なう善は実にたとえられています。
木からの食べ物は、特に畑の穀物からの食べ物もまた、善と真理の情愛に対応します。その理由は、自然的なものが地の食べ物で養われるように、霊的ないのちがそれらの情愛により養われるからです(*6)
ここから、パンは全般的にすべての善の情愛に対応します、パンは他のものにまさっていのちを支え、パンによってすべての食べ物が意味されるからです――その対応ゆえに、主もまたご自分をいのちのパンと呼ばれました――そしてまたパンはイスラエル教会で聖なる役立ち〔礼拝〕に用いられました。というのは、幕屋の中の机の上に置かれ、供えのパンと呼ばれたからです――いけにえと全焼のいけにえによって行なわれた神的な礼拝のすべてもまたパンと呼ばれました。その対応ゆえに、キリスト教会の中の最も聖なるものである聖餐でもまたパンとぶどう酒が与えられます(*7)
これらのわずかなものから対応がどのようなものか明らかにすることができます。


*4 庭園と楽園は対応から知性と知恵を意味する(100, 108)。経験から(3220)。
対応するすべてのものは、みことばの中でもまた同じものを意味する(2896,  2987, 2989, 2990, 2991, 3002, 3225)。
*5 木は知覚と知識を意味する(103, 2163, 2682, 2722, 2972, 7692)。
それゆえ、古代人は神的礼拝を杜の中の木の下で、その対応にしたがって行なった(2722, 4552)。
植物界の主体の中への天界の流入について、例えば、木や植物の中へ(3648)。
*6 対応から、食べ物は霊的ないのちを養うようなものを意味する(3114, 4459, 4792, 4976, 5147, 5293, 5340, 5342, 5410, 5426, 5576, 5582, 5588, 5655, 5915, 6277, 8562, 9003)。
*7 パンは人間の霊的ないのちを養うすべての善を意味する(2165, 2177, 3478, 3735, 3813, 4211, 4217, 4735, 4976, 9323, 9545, 10686)。
幕屋の中の机の上に置かれたパンも同様のものを意味した(3478, 9545)。
いけにえは全般的にパンと言われた(2165)。
パンはすべての食べ物を含んだ(2165)。
このように、天的なまた霊的なすべての食べ物を意味する(276, 680, 2165, 2177, 3478, 6118, 8410)。

天界と地獄

111◀︎目次▶︎113

112  対応によって世と天界がどのように結合するかもまた簡単に述べておきます。
主の王国は目的の王国であり、その目的は役立ちです、すなわち、同じことですが、役立ちの王国であり、その役立ちが目的です――それゆえ、全世界は、役立ちが行動の中または結果の中のどこにでも、最初に天界の中に、その後、世の中に、このように段階によって連続的に自然の最後のものの中にまで現われることができるように、神的なものから創造され、形作られています――ここから、霊的なものと自然的なものの対応は、すなわち天界と世の対応は、役立ちを通して存在し、それらを一つに結合することが明らかです。そして役立ちが着けている形は、役立ちの形であればあるほど、それだけ対応するものであり、それだけ結合するものです。
自然界の中で、その三つの界の中で、秩序にしたがって存在するようになるすべてのものは、役立ちの形です、すなわち、役立ちにより役立ちに向けて形作られた結果です。それゆえ、そこに存在するものは、対応するものです。
けれども、人間のもとでは、彼が神的な秩序にしたがって生きれば生きるほど、したがって主への愛と隣人に対する仁愛の中に生きれば生きるほど、それだけその行動は形の中の役立ちであり、またそれによって天界と結合される対応するものとなります――主と隣人を愛することは、役立ちを全般的に実行することです(*8)
さらに、人間は自然界と霊界を結合する存在であること、すなわち、結合の媒介であることを知らなくてはなりません。なぜなら、人間の中に自然界が存在し、霊界もまた存在するからです(前の57番参照)。それゆえ、人間が霊的であればあるほど、それだけ結合の媒介です。けれども、自然的であって、霊的でなければないほど、それだけ結合の媒介でなくなります――それで、人間の媒介がなくては、神的なものは世の中へ、続いて世から人間のもとにあるものの中へ、人間の理性の中へ、流入しません。


*8 すべての善は、その快さを役立ちから、また役立ちにしたがって、その性質もまた得ている。ここから、役立ちがどのようなものかによって、そのような善がある(3049, 4984, 7038)。
天使の生活は、愛と仁愛の善の中に、このように役立ちを果たすことの中にある(454)。
主からは、またここから天使からは、人間のもとの目的しか見られない、それは役立ちである(1317, 1645, 5854)。
主の王国は役立ちの王国、そのように、目的の王国である(454, 696, 1103, 3645, 4054, 7038)。
主に仕えることは役立ちを果たすことである(7038)。
人間の中のすべてと個々のものは役立ちへと形作られている(3626, 4104, 5189, 9297)。また役立ちから形作られている。このように役立ちが人間のもとに役立ちのもととなる有機的な形よりも先のものであるのは、役立ちが天界を通って主の流入から存在するからである(4223, 4926)。
人間の心に属すその内的なものもまた、成長するとき、役立ちからまた役立ちへと形作られる(1964, 6815, 9297)。
ここから、人間は彼のもとの役立ちがどのようなものであるかによって、そのようなものである(1568, 3570, 4054, 6571, 6934, 6938, 10284)。
役立ちは〔活動の〕そのための目的である(3565, 4054, 4104, 6815)。
役立ちは人間の最初のものと最後のものであり、そのように、すべてのものである(1964)。

天界と地獄

112◀︎目次▶︎114

113  神的な秩序にしたがっているすべてのものが天界に対応するように、神的な秩序に反するすべてのものは地獄に対応します――天界に対応するものは善と真理に関係し、地獄に対応するものは悪と虚偽に関係します。

天界と地獄

113◀︎目次▶︎115

114 対応の知識について、またその役立ちについて今から述べます。
前に、霊界は、天界であって、対応によって自然界と結合し――ここから対応によって人間に天界との伝達が存在する、と述べました。天界の天使は、人間のように自然的なものからは考えないからです。それゆえ、人間が対応の知識の中にいるとき、その心の思考に関して天使と一つであることができ、このように天使と自分の霊的な人または内なる人に関して結合されることができます。
人間と天界が結合するために、それゆえ、みことばは対応そのものによって書かれています。みことばのすべてと個々のものは対応しているからです(*9)――それゆえ、人間に対応の知識があれば、みことばをその霊的な意味で理解して、そのアルカナを知ることができます。その霊的な意味は、文字どおりの意味の中には何も見られません――みことばには文字どおりの意味と霊的な意味があるからです。文字どおりの意味は世にあるようなものから成り立ちますが、霊的な意味は天界にあるようなものから成り立ちます。また世と天界の結合は対応によるので、それゆえ、このようなみことばが与えられ、みことばの中の個々のものは一点一画までも対応しています(*10)


*9 みことばは対応そのものによって書かれている(8615)。
みことばによって人間に天界との結合がある(2899, 6943, 9396, 9400, 9401, 10375, 10452)。
*10 みことばの霊的な意味については小著『黙示録の白い馬について』の中に見られる。

天界と地獄

114◀︎目次▶︎116

115 私は天界から以下のことを教えられました。
天的な人であった私たちの地球の最古代人は、対応そのものから考え、目の前にある世の自然的なものは、このように考えるために彼らに仕えるものであった。最古代人はこのようであったので、天使と交わり、彼らと話し、このように彼らを通して天界は世と結合し――そのことから、その時代は黄金時代と呼ばれた。このことについては古代の著者たちもまた、「天界の住民は人間とともに住んだ。また友と友のように人間と交わった」と言っている。
しかし、それらの時代の後、対応そのものからでなく、対応の知識から考えた者が続き、その時も人間と天界の結合はあったが、最内部の結合ではなく――彼らの時代は白銀時代と呼ばれた。
その後、対応は知っていたけれども、その知識から考えなかった者が続き――これらの時代は銅時代と呼ばれた。考えなかった理由は、自然的な善の中にいて、前の者のように霊的な善の中にいなかったからである。
これらの時代の後、人間は連続的に外なるものに、ついに物質的になり、その時、対応の知識は完全に失われ、それとともに天界について、それと天界に属す多くのものについての知識も失われた。
これらの時代が、金・銀・銅に因んで呼ばれたのは対応からであり(*11)、金は対応から天的な善を意味し、その中に最古代人がいたからである。しかし、銀は霊的な善を意味し、その中に彼らの後の古代人がいた。銅は自然的な善を意味し、その中に続く子孫がいた。しかし、最後の時代と言われた鉄は善のない硬い真理を意味する。


*11 金は対応から天的な善を意味する(113, 1551, 1552, 5658, 6914, 6917, 9510, 9874, 9881)。
銀は霊的な善を、すなわち、天的な起源からの真理を意味する(1551, 1552, 2954, 5658)。
銅は自然的な善を意味する(425, 1551)。鉄は秩序の最後ものの中の真理を意味する(425, 426)。

天界と地獄

115◀︎目次▶︎117

14 天界の太陽

116   天界に世の太陽は見えないで、その太陽から出ているどんなものも見えません、それはすべて自然的なものであるからです。自然はその太陽から始まるので、それによって生み出されるものは何でも自然的なものと呼ばれます――けれども、霊的なものは、その中に天界があって、自然の上にあり、自然的なものから完全に分離していて、対応による以外にそれらの間に伝達もありません。
分離がどんなものであるかは、段階について前に述べたことから(38)、伝達がどんなものであるかは、前の二つの章で、対応について述べたものから理解することができるでしょう。

 

天界と地獄

116◀︎目次▶︎118

117   しかし、たとえ天界に世の太陽は見えないで、その太陽から出ているどんなものも見えなくても、それでもそこに太陽があり、光があり熱があり、そして世の中のすべてのものが、無数の多くのものがあります、しかし、同じ起源からではありません。なぜなら、天界の中にあるものは、霊的であり、世の中にあるものは自然的であるからです。
天界の太陽は主であり、そこの光は神的真理、そこの熱は神的善であり、それらは太陽としての主から発出します。天界の中に存在するようになり、見られるすべてのものは、その起源からです。
しかし、光と熱について、またそこから天界に存在するようになるものについては、あとの章で述べますので、ここでは太陽についてだけ述べます。
主が天界の中で太陽として見られるのは、神的愛であり、それからすべての霊的なものが存在するようになり、また、世の太陽によって、すべての自然的なものが存在するようになるからです――太陽として輝くものは主の愛です。

天界と地獄

117◀︎目次▶︎119

118 主が実際に天界の中で太陽として見られることは、天使から私に言われただけでなく、私は何度か見ることが与えられました。それで、太陽としての主について、私が聞き、見たことを、ここに手短に述べます。
主は太陽として、天界の中ではなく、天界の上方の高いところに——頭の上方または天頂でもなく、天使の顔の前に、中間の高さの二つの場所に、一つは右目の前に、もう一つは左目の前に、かなり隔たって見られます——右目の前には、完全に太陽のように、いわば世の太陽の火のように、大きさも似て見られます。けれども、左目の前には、太陽のようにではなく月のように、私たちの地球の月に似た大きさで白く輝くように、さらにきらめいて見られます、しかしその周囲には小さな月のような多くのものがあり、そのそれぞれが同じように輝き、きらめいています。
主が二つの場所にこのような相違をもって見られるのは、それぞれの者がどのようにその方を受け入れるかにしたがって見られるからであり、それゆえ、その方を愛の善で受け入れる者と、その方を信仰の善で受け入れる者で異なっています。
主を愛の善で受け入れる者には、受け入れにしたがって火と炎のような太陽として見られます。それらの者はその方の天的な王国にいます——しかし、主を信仰の善で受け入れる者には、受け入れにしたがって、白く輝く、きらめく月として見られます。これらの者はその方の霊的な王国にいます。
その理由は、愛の善は火に対応するからです。ここから、火は霊的な意味で愛であり、信仰の善は光に対応し、そしてまた光は霊的な意味で信仰です。
目の前に見られるものは、心に属す内的なものであり、それを目を通して見ます。右目を通して愛の善から、左目を通して信仰の善から見ます。なぜなら、天使そしてまた人間のもとの右側にあるすべてのものは、真理のもとである善に対応し、そしてまた左側にあるすべてのものは善からの真理に対応するからです。信仰の善はその本質では善からの真理です。

天界と地獄

118◀︎目次▶︎120

119  ここから、みことばの中で、主は愛に関して太陽に、信仰に関して月にたとえられ、主からのものである主への愛が「太陽」によって意味され、主からのものである主への信仰が「月」によって意味されています。例えば、次の箇所のように――

月の光は太陽の光のようになる、けれども太陽の光は七倍に、七つの日の光のようになる(イザヤ 30:26)。
わたしがあなたを消すとき、わたしは天をおおい、星を暗くする。わたしは太陽を雲でおおう、月はその光を輝かさない。わたしは天の中の光のすべての光源をあなたの上に暗くし、あなたの地の上に暗やみを与える(エゼキエル 32:7, 8)。
わたしは太陽をその昇る中で暗くする、月はその光を輝かさない(イザヤ 13:10)。
太陽と月は暗くされ、星はその輝きを引っ込める。……太陽は暗やみに、月は血に変わる(ヨエル 2:2, 10, 31;4:15)。
太陽は毛の麻布のように黒く、月は血のようになり、星は……地に落ちた(黙示録6:12, 13)。
それらの日々の苦悩の後、直ちに、太陽は暗くされ、月はその光を与えず、星は天から落ちる(マタイ24:29)。

他の箇所にもあります。

これらの箇所で「太陽」によって愛が意味され、「月」によって信仰が、「星」によって善と真理の知識が意味されます(*5)。それらはもはや存在しないとき、暗くされ、光を失い、天から落ちる、と言われます。
主が太陽として天界の中に現われることは、主がペテロ、ヤコブ、ヨハネの前で変容されたことからもまた明らかです、

その方の顔は太陽のように輝いた(マタイ 17:2)。

弟子たちが身体の中から引き上げられ、天界の光の中にいたとき、主は、このようにご自分の弟子たちに見られました。
ここから、表象的な教会の中にいた古代人は、神礼拝の中にいたとき、東の太陽へ顔を向けました――神殿を東向きにしたのはこのことからです。


*5 みことばの中の「星」と「星座」は、善と真理の知識を意味する(2495, 2849, 4697)。

天界と地獄

119◀︎目次▶︎121

120  神的愛がどれほど大きくて、またどんなものであるかは、最高度に燃えるものである世の太陽と比較することから明らかにすることができます。もしあなたがたに信じられるなら、それよりもさらに燃えるものです――それゆえ、太陽としての主は直接に天界の中へ流入されないで、その方の愛の熱さは途中で段階的に緩和されます。緩和するものが太陽の周囲に輝く帯のように現われます――それに加えて、天使は、流入により害われないように適当な薄い雲でおおわれます(*6)。それで、天界は受け入れにしたがって離れています。最高の天界は、愛の善の中にあるので、太陽としての主の最も近くにあります。けれども、低い天界は、信仰の善の中にあるので、太陽から遠ざかっています――けれども、地獄の中にいる者のように、善の中にいない者は、最も遠ざかっており、善に反した対立するものの中にいればいるほど、それだけ遠く離れています(*7)


*6 主の神的愛はどんなもので、どれほど大きいか、世の太陽の火との比較による説明(6834, 6849, 8644)。
主の神的愛は、全人類を救うための彼らに対する愛である(1820, 1865, 2253, 6872)。
主の愛の火から発出する最も近い愛は、天界へ入らないで、輝く帯のように太陽の周囲に見られる(7270)。
天使たちもまた、燃える愛の流入により害われないように、[a] 対応する薄い雲でおおわれる(6849)。
注a  『天界の秘義』6849番を見よ、そこには本文のように「適当な」と書かれている。
*7 天使たちのもとに主が現在されるのは、その方からの愛と信仰の善の受け入れにしたがっている(904, 4198, 4320, 6280, 6832, 7042, 8819, 9680, 9682, 9683, 10106, 10811)。
主は、それぞれの者にその性質にしたがって見られる(1861, 3235, 4198, 4206)。
地獄は、主からの神的愛が臨在することに耐えることができないことによって天界から遠ざけられている(4299, 7519, 7738, 7989, 8137, 8265, 9327)。
ここから、地獄は天界から最も遠ざかっており、そのことが巨大な割れ目である(9346, 10187)。

天界と地獄

120◀︎目次▶︎122

121  けれども、主が天界に見られるとき、そのことはしばしば起こりますが、太陽に囲まれて見られないで、顔から輝き貫いてくる神性よって他の天使とは区別された天使の形で見られます。なぜなら、主ご自身は変わらずに太陽に囲まれているので、そこにご自身は存在されず、しかし、見ることによって現在されるからです。天界の中では、視線が定められるかまたは終わる場所に、たとえその場所が自分たちの実際にいる場所からはるかに遠く離れていても、現在するように見られるのは普通のことであるからです。その現在は内なる視覚による現在と呼ばれ、そのことについてはあとで述べます。

さらに、私は、主を太陽の外に、天使の形で太陽の少し下の高いところに見たことが、また太陽の近くに、同じ形の中に、輝く顔で見たことが、さらにまた一度は、天使たちの真ん中に炎の光輝として見たことがあります。

天界と地獄

121◀︎目次▶︎123

122  天使に、世の太陽は天界の太陽と反対の位置に何か暗いものとして見られ、〔世の〕月は天界の月と反対の位置に何か暗いものとして見られ、そのようであることはいつも変わりません――その理由は、世の火は自己愛に対応し、またそこから照らされたものはその愛からの虚偽に対応するからです。自己愛は神的愛と正反対のものであり、その愛からの虚偽は神的真理と正反対のものです。主の愛や主の真理と正反対のものは、天使にとって暗黒です。
世の太陽と月を崇拝し、それらに腰をかがめることはここからであり、みことばの中では、自己を愛し、自己愛からの虚偽を愛することを意味し、それらは完全に滅ぼされなければなりませんでした(*8)(申命記 4:19; 17:3-5、エレミヤ8:1, 2、エゼキエル 8:15, 16, 18、黙示録 16:8、マタイ13:6)。


*8 自己愛と世俗愛の中にいる者は、主から後ろ向きに向きを変える(10130, 10189, 10420, 10702)。
主への愛と隣人に対する仁愛は天界をつくる。また自己愛と世俗愛は、正反対のものであるので、地獄をつくる(2041, 3610, 4225, 4776, 6210, 7366, 7369, 7490, 8232, 8678, 10455, 10741-10745)。

天界と地獄

122◀︎目次▶︎124

123. 主は、ご自分の中にあって、ご自分から出るものである神的愛から、太陽として天界の中に見られるので、それゆえ、天界の中にいるすべての者は、絶えずその方に〔顔を〕向けます。天的な王国の中の者は太陽としてのその方に、霊的な王国の中の者は月としてのその方に〔顔を〕向けます――しかし、地獄にいる者は、対立から存在する暗黒と暗やみに向け、このように主から後ろ向きになっています。その理由は、地獄の中のすべての者は、自己愛と世俗愛の中にいて、このように主に対立しているからです。
暗黒は世の太陽の場所にあって、それに向ける者は、背後の地獄の中にいて、悪鬼と呼ばれます。しかし、暗やみは月の場所にあって、それに向ける者は、前部の地獄の中にいて、〔悪〕霊と呼ばれます。ここから、地獄の中にいる者は、暗やみの中にいると言われ、天界の中にいる者は光の中にいると言われます。「暗やみ」は悪からの虚偽を、「光」は善からの真理を意味します。
来世の中のすべての者がこのように向ける理由は、彼らが自分の内的なものを支配しているものを眺め、そのように自分自身の愛を眺め、その内的なものが天使と霊の顔をつくるからです。自然界の中のように明確な方位は霊界の中になくて、決定するものは顔〔の向き〕です。
人間もまた、自分の霊に関して同様に向けています。自己愛と世俗愛の中にいる者は主から後ろ向きに、主への愛と隣人に対する愛の中にいる者は主へ顔を向けています。しかし、人間は、方位が太陽の出と入りにしたがって決定される自然界にいるので、このことを知りません――しかし、このことは人間にほとんど理解することができないので、あとで天界の中の方位・空間・時間について扱う中で説明します。

天界と地獄

123◀︎目次▶︎125

124. 主は天界の太陽であられ、主からのすべての者はその方を眺めるので、それゆえ、主はまた共通の中心であられ、その中心からすべての者の方向と位置が定まります(*9)
またそれゆえ、天界の中にあるものと同じく地にあるものも、主の臨在と指導のもとにあります。


*9 主は共通の中心であられ、そこへ天界のすべての者が向いている(3633)。

天界と地獄

123◀︎目次▶︎126

125. それでこれらから、前の章の中で主について言われ、示されたことを、さらにはっきりと光の中で見ることができます、すなわち――

その方は天界の神であられる(2-6)。
その方の神性が天界をつくっている(7-12)。
天界の中の主の神性は、その方への愛と隣人に対する仁愛である(13-19)。
世のすべてのものは天界と対応し、そして天界を通して主と対応する(87-115)。
さらに世の太陽と月も対応する(105)。

天界と地獄

125◀︎目次▶︎127

15 天界の光と熱

126 自然だけから考える者は、天界に光があることを理解することができません。それでも天界には、世の真昼の光に数段階もまさるような明るい光が存在します。私はそれらをしばしば、夕方や夜間にも見ました。
天使が、「世の光は天界の光に比べるならほとんど陰以外の何ものでもありません」と言うのを聞いたとき、最初は驚きました。しかし、私は見たので、そのことを証言することができます。その白い輝きと明るさは、描写することができないようなものです。
天界で私が見たものは、世の中のものよりもさらにはっきりとした明瞭なその光の中で見たものです。

天界と地獄

126◀︎目次▶︎128

127  天界の光は、世の光のように自然的ではなくて霊的です、その光は太陽としての主からのものであり、前章で示されたように、太陽は神的愛であるからです。
太陽としての主から発出するものは、天界で神的真理と呼ばれますが、それでもその本質は神的真理と結合した神的善です。ここから天使に光と熱があり、神的真理から天使に光があり、神的善から熱があります。
天界の光は、このような起源からのものなので、自然的でなく霊的であって、熱も同様であることをここから明らかにすることができます(*1)


*1 天界の中のすべての光は太陽としての主からのものである(1053, 1521, 3195, 3341, 3636, 3643, 4415, 9548, 9684, 10809)。
主から発出する神的真理は、天界の中で光として見られ、天界のすべての光をもたらす(3195, 3222, 3223, 5400, 8644, 9399, 9548, 9684)。

天界と地獄

127◀︎目次▶︎129

128 神的真理が天使に光であるのは、天使は自然的でなく霊的であるからです。霊的な者は霊的な太陽から、自然的な者は自然の太陽から見ます。天使に理解力があるのは神的真理からであり、理解力は彼らの内なる視覚であって、それが外なる視覚に流入して、その視覚を生んでいます。ここから、天界で太陽としての主から見られるものは、光の中に見られます(*2)
天界には光の源泉が存在するので、それゆえ、そこの光は、主からの神的真理の受容にしたがって、または同じことですが、天使の知性と知恵にしたがって変化しています——天界の光は、天的な王国と霊的な王国とでは別であり、それぞれの社会の中でも別々です。天的な王国の中の光は炎のように見られます、そこの天使は太陽としての主から光を受けるからです。けれども、霊的な王国の中の光は白く光ります、そこの天使は月としての主から光を受けるからです(前の118番参照)。
ある社会と他の社会とで光は似ていません——それぞれの社会の中でも異なっていて、その社会の真ん中にいる者は多くの光の中に、周囲にいる者は少ない光の中にいます(43番参照)。
一言でいえば、神的真理の容器である天使は、すなわち、主からの知性と知恵の中にいる天使は、それと同じ段階の光の中にいるのです(*3)
ここから、天界の天使は光の天使と呼ばれます。


*2 天界の中の光は天使と霊の視覚と理解力を照らす(2776, 3138)。
*3 天界の中の光は天使の知性と知恵にしたがっている(1524, 1529, 1530, 3339)。
天界の中の光には天使の社会と同数のそれだけ多くの相違がある。善と真理に関して、したがって知恵と知性に関して、絶え間のない変化が天界の中にあるからである(684, 690, 3241, 3744, 3745, 4414, 5598, 7236, 7833, 7836)。

天界と地獄

128◀︎目次▶︎130

129. 主は天界の中で神的真理であられ、そこでは神的真理は光なので、それゆえ、みことばでは次の箇所のように、主は光と呼ばれ、同じく主からのすべての真理も光と呼ばれています――

イエスは言われた、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、やみの中を歩くことがなく、いのちの光を持ちます」(ヨハネ 8:12)。
わたしが世にいる間、わたしは世の光です(ヨハネ 9:5)。
イエスは……言われた……「まだしばらくの間、光はあなたがたとともにあります。あなたがたに光がある間に、歩きなさい。やみがあなたがたを捕えないように。……あなたがたに光があるとき、光を信じなさい、あなたがたが光の子どもであるために。……わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、やみの中にとどまらないためです」(ヨハネ 12:35, 36, 46)。
光は世に来た。しかし、人間たちは光よりもむしろやみを愛した(ヨハネ 3:19)。

ヨハネは主について、

これはまことの光です、それはすべての人間を照らします(ヨハネ 1:4, 9)。
暗やみに座っていた民は、偉大な光を見た。彼らに……死の陰に座っていた者たちに、光が昇った(マタイ 4:16)。
わたしは、あなたを民の契約として、異邦人の光として与える(イザヤ42:6)。
わたしは、あなたを異邦人の光として立てた。あなたが地の果てにまで、わたしの救いとなるためである(イザヤ 49:6)。
救われた国民は、その方の光の中を歩く(黙示録 21:24)。
あなたの光とあなたの真理を送り、それらで私を導いてください(詩篇 43:3)。

これらやまた他の箇所で、主は神的真理から光と呼ばれ、同じく、主からの真理そのものも光と言われています。
光は天界の中に太陽としての主から存在するので、それゆえ、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの前で変容されたとき、

その方の顔は太陽のように見られ、その方の衣は光のようで、雪のように輝き、白く光り、地のさらし屋が白くすることができないほどであった(マルコ9:3、マタイ17:2)。

主の「衣」がこのように見えたのは、衣が天界の中で主からのものである神的真理を表象したからでした――さらにまた、みことばで「衣」は真理を意味します(*4)。ここから、ダビデの書で言われています、

エホバよ、あなたは〝光を衣のように〟着られます(詩篇 104:2)。


*4 みことばの中で「衣服」は、善をおおうので、真理を意味する(1073, 2576, 5248, 5319, 5954, 9216, 9952, 10536)。
変容のときの主の衣は、その方の神的愛から発出する神的真理を意味した(9212, 9216)。

天界と地獄

129◀︎目次▶︎131

130. 天界の中の光は霊的なものであり、その光が神的真理であることは、人間にもまた霊的な光があり、神的真理から知性と知恵の中にいるかぎり、彼にその光からの照らしがあることからもまた結論することができます――人間の霊的な光は彼の理解力の光であり、その対象は真理であって、それを秩序の中で分析的に整え、論証へと形作り、それらから連続的に物事を結論します(*5)
自然的な人は、理解力がこのようなものを見るのは真の光からであることを知りません、目でその光を見ないし、思考の中にも受け入れないからです――それでも、多くの者は霊的な光について知っており、そしてまた、それを自然的な光から区別してもいます。霊的でなく自然的に考える者は、自然的な光の中にいます――世だけに目を向け、すべてのものを自然に帰す者は、自然的に考えます。けれども、天界に目を向け、すべてのものを神性に帰す者は、霊的に考えます。
心を照らし、自然の光と呼ばれる光から明白に区別されたものが真の光であることを、私は何度も知覚し、見ました――私はその光の中に、内的に、段階を通して高揚されたことがあります。私が高揚されるにつれて、理解力は照らされ、以前には知覚しなかったものまでも知覚し、ついにこのような自然的な光からの思考では決して把握できなかったものまでも知覚しました。時々、私は、天界の光の中ではっきりと明確に知覚されたものが〔あとになって〕把握できないことにいら立ちました(*6)
理解力には光があるので、それゆえ、目について言えることと似たことが理解力についても言えます。例えば、知覚するとき、「見る、光の中にある」と言い、知覚しないとき、「それには暗いものや陰がある」と言い、また似たような多くのことが言えます。


*5 天界の光は人間の理解力を照らす。それゆえ、人間は理性的である(1524, 3138, 3167, 4408, 6608, 8707, 9128, 9399, 10569)。
理解力は真理を受け入れるものであるので、照らされる(6222, 6608, 10659)。
理解力は人間が主からの善の中の真理を受け入れるほど照らされる(3619)。
理解力は善からの真理がどのようなものであるかによってそのようなものであり、それらの真理から形作られる(10064)。
世からの光が視覚にあるように、天界からの光が理解力にある(1524, 5114, 6608, 9128)。
主からの天界の光は常に人間のもとにある。しかし、人間が善からの真理の中にどれだけいるかによってそれだけ流入する(4060, 4214)。
*6 人間は感覚的なものから高揚されるとき、穏やかな光の中へ、ついには天界の光の中へやって来る(6313, 6315, 9407)。
人間が知性の中へ高揚されているとき、実際に天界の光の中へ高揚されている(3190)。
私が世俗の考えから導き出されたとき、どれほど大きな光を受けたか(1526, 6608)。

天界と地獄

130◀︎目次▶︎132

131  天界の光は神的真理なので、それゆえまた、その光は神的知恵と神的知性です。ここから、天界の光の中に高揚されることによって、知性と知恵の中に高揚され、明るくされることと同じことが意味されます。それで、天使の光は、彼らの知性と知恵にしたがってまったく同じ段階にあります。
天界の光は神的知恵なので、それゆえ、すべてのものはどんなものであるか天界の光の中で知られ、それぞれの内的なものがどんなものであるか、そこでは顔の中にはっきり見え、最小のものも隠れていません。
さらにまた、内的な天使は、善以外に欲しないので、自分たちのすべてのものがはっきり見えることを愛しています――善を欲しない低い天界の者は異なっていて、彼らは天界の光の中で見られることを非常に恐れます――驚くべきことですが、地獄の中にいる者は、彼らの間では人間のように見られ、天界の光の中では、恐ろしい顔と恐ろしい身体の怪物のように、完全に自分の悪の形をして見られます(*7)
人間もまた自分の霊に関して、天使に眺められるとき、同様に見られます。もし善良であるなら、その善にしたがって美しい人間として見られ、もし邪悪であるなら、怪物として、その悪にしたがって醜く見られます。
ここから、すべてのものは天界の光の中で現わされることが明らかです。天界の光は神的真理であるので、現わされるのです。


*7 地獄の中で自分自身の光の中にいる者は、その光は石炭の火からのような光であるが、自分自身が人間のように見える。しかし、天界の光の中では怪物のように見える(4531, 4533, 4674, 5057, 5058, 6605, 6626)。

天界と地獄

131◀︎目次▶︎133

132   神的真理は天界の光であるので、それゆえ、すべての真理はどこにあっても、天使の中にあるいは外に、さらに天界の中にあるいは外にあっても、輝いています――それでも、天界の外の真理は、天界の中の真理のようには輝きません。天界の外の真理は、天界の中の真理のように本質を善から得ていないので、冷たく、熱のない雪のように輝きます。それで、それらの冷たい光は天界の光が注がれると消え、もし悪が隠れているなら、暗やみに変わります。私は真理の輝きについて他にも数回、多くの注目すべき出来事を見たことがありますが、それらについて、ここでは割愛します。. 神的真理は天界の光であるので、それゆえ、すべての真理はどこにあっても、天使の中にあるいは外に、さらに天界の中にあるいは外にあっても、輝いています――それでも、天界の外の真理は、天界の中の真理のようには輝きません。天界の外の真理は、天界の中の真理のように本質を善から得ていないので、冷たく、熱のない雪のように輝きます。それで、それらの冷たい光は天界の光が注がれると消え、もし悪が隠れているなら、暗やみに変わります。私は真理の輝きについて他にも数回、多くの注目すべき出来事を見たことがありますが、それらについて、ここでは割愛します。

天界と地獄

132◀︎目次▶︎134

133   今から、天界の熱について述べます。
天界の熱の本質は愛です。太陽としての主から発出する熱は、主の中の神的愛、主からの神的愛であることは前章で示しました――ここから、天界の熱は、天界の光と等しく、霊的であり、同じ源泉からのものであることが明らかです(*8)
太陽としての主から発出する二つものである神的真理と神的善があり、天界の中では、神的真理は光として、神的善は熱として現存します。しかし、神的真理と神的善は、二つではなく一つの存在であるかのように結合しています。それでも、天使のもとで分離しています、神的真理よりも神的善を多く受ける天使と神的善よりも神的真理を多く受ける天使がいるからです――神的善を多く受ける者は主の天的な王国の中に、神的真理を多く受ける者は主の霊的な王国の中にいます。最も完全な天使は、二つとも同じ程度に受けています。


*8 世の太陽と天界の太陽から、二つの熱源があり、二つの光源もまたある(3338, 5215, 7324)。
太陽としての主からの熱は、愛に属す情愛である(3636, 3643)。
ここから、霊的な熱は、本質では愛である(2146, 3338, 3339, 6314

天界と地獄

133◀︎目次▶︎135

134   天界の熱は、天界の光のように、どこでも変化していて、天的な王国と霊的な王国とでは別であり、そこのそれぞれの社会の中でも別々であって――段階だけでなく性質もまた異なっています。主の天的な王国の中では、さらに強烈で、さらに純粋です、そこの天使は神的善をより多く受けるからです。主の霊的な王国の中では、強烈さと純粋さは少なくなっています、そこの天使は神的真理をより多く受けるからです。それぞれの社会の中でもまた、受け入れにしたがって異なります。
熱は地獄の中にもまたありますが、不潔です(*9)
天界の中の熱は〝聖なる火や天界の火〟によって意味され、地獄の熱は〝不浄な火や地獄の火〟によって意味されます。両者によって愛が意味され、天界の火によって主への愛と隣人に対する愛が、またその愛からのすべての情愛が意味され、〝地獄の火〟によって自己愛と世俗愛が、またその愛からのすべての欲望が意味されます(*10)
愛が霊的な起源からの熱であることは、愛にしたがって熱くなることから明らかです。人間は愛の量と質にしたがって火をつけられ、熱くなり、攻撃されるときその熱が示されるからです。ここから、善の愛からの情愛について、また悪の愛からの欲望について語るときはいつでも、〔その情愛や欲望が〕「火をつけられる、熱くなる、燃える、沸騰する、燃え出す」と言うことが一般に受け入れられています。


*9 地獄の中に熱がある、しかし不潔である(1773, 2757, 3340)――ここからの臭いは、世の中の糞や排泄物の臭いのようであり、最悪の地獄の中では死体の臭いのようである(814, 819, 820, 943, 944, 5394)。
*10 ここには118番の*2と同じ記号が振られている。

天界と地獄

134◀︎目次▶︎136

135   太陽としての主から発出する愛が天界の中で熱として感じられることは、天使の内的なものが主からの神的善からの愛の中にあり、そこから外的なものも熱の中にあって熱くなるからです――それは、天界の中で熱と愛が互にこのように対応しているからです。天界のそれぞれの者は、すぐ前に述べられたことにしたがって、どのような愛の中にいるかによって、そのような熱の中にいます。
世の熱は、あまりに粗野であり、自然的であって霊的でないので、まったく天界に入りません。しかし、人間のもとでは異なります、人間は霊界にいるのと同じく自然界にもいるからです。人間は、自分の霊については完全に自分の愛にしたがって熱くなります、しかし、身体については自分の霊の熱と同じく世の熱から、この両方の熱から熱くなります。対応する霊の熱が世の熱の中に流入します。
両方の熱に対応するものがどんなものであるかは、動物から明らかにすることができます。それらの愛は、その主要なものはその種族の子孫を生み出すものであって、世の太陽からの熱が現存し、流れ込むのにしたがって勢いよく出てきて、働きます。その熱は春と夏の時だけに存在するものです。
流入する世の熱が愛をひき起すと信じる者は、最大に欺かれています。なぜなら、霊的なものの中へ自然的なものは流入しないで、自然的なものの中へ霊的なものが流入するからです――前者の流入は神的な秩序に反しています、けれども、後者の流入は神的な秩序からのものです(*11)


*11 物質的な流入でなく、霊的な流入がある。このように、自然界から霊界の中へではなく、霊界から自然界の中への流入がある(3219, 5119, 5259, 5427, 5428, 5477, 6322, 9110)。

天界と地獄

135◀︎目次▶︎137

136   天使に、人間のように理解力と意志があります。天界の光は神的真理であり、ここから神的知恵であるので、天界の光は天使の理解力のいのちをつくります。天界の熱は神的善であり、ここから神的愛であるので、天界の熱は天使の意志のいのちをつくります――天使のいのちそのものは、熱からであり、光に熱が内在しないかぎり、光からではありません。いのちが熱からであることは明らかです、なぜなら、熱を取り去ると、いのちは消えるからです。
愛のない信仰も、すなわち、善のない真理も同様です。なぜなら、信仰のものと呼ばれる真理は光であり、愛のものと呼ばれる善は熱であるからです(*12)
これらは天界の熱と光に対応する世の熱と光からさらにはっきりと明らかです。光と結合した世の熱から、地上のすべてのものは生気を与えられ、栄えます。春と夏の時にその熱と光は結合しています。しかし、熱から分離した光からは、すべてのものは何も生気を与えられないで、栄えず、無活動であり、死にます。冬の時に熱と光は結合していません、その時、熱はなくて光が存在し続けます。
地上の春の時の熱に結合した光のように、天界では、真理は善と、すなわち、信仰は愛と結合しているので、その対応から天界は楽園と呼ばれます。
それでこれらから、以前の章(13~19)で述べた「天界での主の神性は、主への愛と隣人に対する仁愛である」ことについて、その真理が、はっきりと明らかです。


*12 善のない真理は、いのちがないので、本質的に真理ではない。というのは、すべての真理のいのちは、善からであるから(9603)。
このように、あたかも霊魂のない身体のようなものである(3180, 9154)。
善のない真理は、主により受け入れられない(4368)。
善のない真理がどんなものか、そのように愛のない信仰がどんなものか、善からの真理がどんなものか、あるいは愛からの信仰がどんなものか(1949-1951, 1964, 5830, 5951)。
真理は信仰のものであり、善は愛のものであるので、あなたが真理または信仰と言っても、あるいは善または愛と言っても同じことになる(2839[注a], 4352, 4997, 7178, 7623, 7624, 10367)。
注a その後、「2839番」は著者自身により削除された。著作『最後の審判』の中の39番に続く、意志と理解力についての抜粋を見よ。

天界と地獄

136◀︎目次▶︎138

137 「ヨハネ福音書」に言われています、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。……すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方に、いのちがあった。このいのちは人の光であった。……この方は世におられ、世はこの方によって造られた。……ことばは肉となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た1:1, 3, 4, 10, 14)。

「ことば」によって意味されるものが主であることは明らかです、なぜなら、「ことばは肉になった」と言われているからです――けれども、「ことば」によって特に何が意味されるかは、まだ知られていないので、述べます――ここでの「ことば」は神的真理であり、それは主の中のもの、主からのものです(*13)。それゆえ、ここでもまた〝光〟と呼ばれているのです。光が神的真理であることは本章の前の部分で示しました。
すべてのものが神的真理によってつくられ、創造されたことは、今から説明します。
[2]天界の中で、すべての力は神的真理にあり、真理がないなら、力はまったく何もありません(*14)
すべての天使は神的真理から力と呼ばれ、そしてまた真理をどれだけ受け入れているか、その容器となっているかによって、それだけ力があります――その力によって地獄に勝ち、対抗するすべての者に勝ちます。千の敵ですら、神的真理である天界の一つの光線に耐えることはできません。
天使は神的真理を受け入れるから天使であるので、全天界は〔真理とは〕別の源泉から存在するのではないことがいえます、なぜなら、天界は天使から存在するからです。
[3]真理について思考や言葉のような観念しかもたない者は、神的真理にこれほど大きな力が内在することを信じることができません。真理それ自体には、服従からその真理を行なおうとするのでないかぎり、力は内在しません。しかし、神的真理には、それによって天界や世がそれらの中にあるすべてのものとともに創造されたような、そのような力が、それ自体に内在します。
神的真理にこのような力が内在することは、二つの比較によって、すなわち、人間の中の真理や善の力と世の中の太陽からの光や熱の力によって、説明することができます。
人間の真理や善の力によって――
人間が行なうどんなことでもすべて、人間は理解力と意志から行ないます。善によって意志から、真理によって理解力から行ないます。意志の中にあるすべてのものは善と関係し、理解力の中のすべてのものは真理と関係するからです(*15)。そこで人間は善と真理から全身を動かし、全身にある何千ものものが善と真理の指図と意のままに自発的に突進するようになります。ここから、全身は善と真理に役立つために形作られ、その結果、善と真理から形作られていることが明らかです。
[4]世の太陽からの熱や光の力によって――
木・穀物・花・草・果実や種子のような、世で生長するすべてのものは、太陽の熱と光による以外の他の源泉からは存在しません。ここから、それらにどのような生み出す力が内在するか明らかです――まして、神的真理である神的光に、また神的善である神的熱に、生み出す力がないでしょうか? それらから天界は存在し、世もまた存在するからです。なぜなら、前に示したように、世は天界によって存在するからです。
ここから、みことばによってすべてのものが造られたこと、それがなくて造られたものは何もなかったこと、さらにまた主によって、すなわち、主からの神的真理によって世が造られたことは、どのように理解しなくてはならないか、明らかにすることができます(*16)
ここからもまた、「創造の書」の中で、最初に光について、また続く中で、光からのものについて言われているのです(創世記 1:3, 4)。
そしてまたここから、天界と同じく世でも全世界のすべてのものは、何らかのものであるためには、善と真理に、またそれらの結合に関係しています(*17)


*13 聖書の中の「ことば」は、いろいろなことを意味する。すなわち、言葉・心の思考・実際に存在するすべて事柄、さらに何らかのもの、そして最高の意味で神的真理、そして主を意味する(9987)。
「みことば」は、神的真理を意味する(2803, 2894, 4692, 5075, 5272, 9383, 9987)。
「みことば」は、主を意味する(2533, 2859)。
*14 主から発出する神的真理には、すべての力がある(6948, 8200)。
天界の中のすべての力は、善からの真理のものである(3091, 3563, 6344, 6423, 8304, 9643, 10019, 10182)。
天使は、主からの神的真理の受容から、力と呼ばれ、そしてまた力である(9639)。
天使は、主からの神的真理を受け入れるものであり、それゆえ、みことばの中のあちこちで神々と言われる(4295, 4402, 7873, 8192, 8301)。
*15 理解力は真理を受け入れるものであり、意志は善を受け入れるものである(3623, 6125, 7503, 9300, 9930)。
それゆえ、理解力の中のすべてのものは、真理であろうと、あるいは人間が真理と信じるものであろうと、真理に関係する。意志の中のすべてのものは、同様に善に関係する(803, 10122)。
*16 主から発出する神的真理は、唯一の実在するものである(6880, 7004, 8200)。
すべてのものは、神的真理によってつくられ、創造された(2803, 2884, 5272, 7678)。
*17 ここには107番の*2と同じ記号が振られている。

天界と地獄

137◀︎目次▶︎140

139   天界の太陽としての主からの神的善と神的真理は、主の中にはなくて、主から存在することを知らなくてはなりません――主の中には神的愛だけがあり、それはエッセ(存在)であり、そのエッセから神的善と神的真理が存在するようになります。エッセから存在するようになることは発出することによって意味されます。
このこともまた世の太陽との比較によって説明できます――世の熱と光は太陽の中になくて、太陽から存在します――太陽の中には火だけがあり、その火から熱と光は存在するようになり、発出するのです。
*初版にはこのように番号が振られています(138番は見当たりません)。

天界と地獄

139◀︎目次▶︎141

140   太陽としての主は神的愛であり、神的愛は神的善そのものであるので、それゆえ、その方から発出する神性は、天界の中の神性そのものであり、区別のために神的真理と呼ばれますが、それでも神的善は神的真理と結合しています。
この神的真理はその方から発出する聖性と呼ばれるものです。

天界と地獄

140◀︎目次▶︎142

16 天界の中の四方位

141   天界に世のような四方位、東・南・西・北があり、どちらの世界もその太陽により、天界では主である天界の太陽により、世では世の太陽により決定されています。
それでも多くの相違が間に存在します。
最初に、世では太陽が地の上方で最も高い位置にあるそこが南、地の下方で反対側のそこが北、昼夜平分時に太陽が昇るそこが東、その時に太陽が沈むそこが西と呼ばれます――このように世では南により全方位が決定されます。
けれども天界では、太陽としての主の見られるそこが東、反対側に西、天界で〔自分の〕右側が南、またそこの左側が北です。またこのことは彼らの顔と身体を回転させてもすべてそうなっています。このように天界では東により全方位が決定されます。
太陽としての主が見られる場所が東と言われる理由は、すべてのもののいのちの起源は太陽としてのその方からであるからです。また、天使がその方からの熱と光または愛と知性を受け入れれば受け入れるほど、それだけ主は彼らのもとに昇ると言われます――ここからもまた、主はみことばの中で東と言われています(*1)


*1 主は天界の太陽であられるので、最高の意味で東であり、それは常に昇っていて、決して沈まない(101, 5097, 9668)。

天界と地獄

141◀︎目次▶︎143

142   第二の相違は、天使にとって常に、正面が東、背後が西、右側が南、左側が北であることです。しかし、このことは世では理解されることがほとんどできません。その理由は、人間はすべての方位に自分の顔を向けるからであり、それで、説明しなくてはなりません。
全天界はそれ自体を、その共通の中心へ向かうかのように主へ向けています。ここから、すべての天使は自分自身をそこへ向けています――共通の中心へすべてのものが向かうことは地球上でもまた知られています。しかし、天界での方向は世の方向と異なり、天界では前面がその共通の中心へ向けられます、しかし世では下の部分が向けられます。世での方向づけは、求心力また重力とも呼ばれるものです――さらにまた、天使の内的なものは実際に正面に向かっています。内的なものは顔の中に現われるので、それで、顔が方位を決定するものです(*2)


*2 天界の中のすべての者は自分自身を主へ向ける(9828, 10130, 10189, 10420)。
それでも、天使が自分自身を主へ向けるのではなく、主が彼らをご自分へ向けられる(10189)。
主のもとに天使が現在するのではなく、天使のもとに主が現在される(9415)。

天界と地獄

142◀︎目次▶︎144

143   しかし、天使が顔と身体をどれほど方向転換しても、天使の目の前に東があることは、世ではほとんど理解されません。その理由は、人間には方向転換にしたがって目の前にすべての方位があるからであり、それで、このこともまた説明する必要があります。
天使は人間と同様に自分の顔と自分の身体をあらゆる方向へ向け、曲げますが、それでも常に彼らに目の前に東があります。しかし、天使の方向転換は人間の方向転換のようではありません、その起源が異なるからです。確かに同じに見えますが、それでも同じではありません。支配愛がその方向転換の起源であるからです。そこから天使と霊のもとにすべての方向が決定します。なぜなら、直前に言われたように、彼らの内的なものは実際にその共通の中心へ、したがって天界では太陽としての主へ向けられ、それゆえ、愛の対象が常に彼らの内的なものの前にあり、顔は彼らの外なる形であって、内的なものからその外なる顔が存在するようになるので、それで、顔の前には常にその支配愛があることになります。そこで、天界の中では、それは太陽としての主です。彼らの愛の対象はその方であり、彼らの愛はその方からのものであるからです(*3)。主ご自身が天使のもとのご自分の愛の中におられるので、それゆえ、天使がどのように身体を向けても、主が〔天使に〕ご自分を眺めるようにされるのです。
これらのことをこれ以上にわかりやすく説明することはできませんが、しかしこのあとの章の中で、特に「表象するものと外観について」、それと「天界の中での時間と空間について」扱っているところで、〔読者の〕理解力にさらにはっきりと示します。
天使の顔の前には変わらずに主があること、このことは多くの経験から私に知ることが、そしてまた知覚することが与えられました。私は天使と交わっているたびごとに、私の顔の前に主が現在されることに気づき、たとえその方が見えなくても、光の中で知覚したからです。このようであることを、天使もまたたびたび証言しました。
主は変わらずに天使の顔の前におられるので、それゆえ、世でもまた、「目や顔の前に神がおられる。その方を眺める。その方を信じて、愛する者は、その方を見る」と言います。人間がこのように話すのは霊界からです、なぜなら、人間の話し方の中には霊界からの多くのものがあるからです。それでも、人間は霊界からであることを知りません。


*3 霊界のすべての者は、自分の愛するものへ絶えず自分自身を向けており、そこの方位は顔から始まり、決定される(10130, 10189, 10420, 10702)。
顔は内的なものに対応して形作られている(4791-4805, 5695)。
ここから内的なものは顔から輝き出る(3527, 4066, 5796)。
顔は天使のもとで内的なものと一つになっている(4796, 4797, 4799, 5695, 8249)。
内的なものが顔とその筋肉の中へ流入することについて(3631, 4800)。

天界と地獄

143◀︎目次▶︎145

144  このような主へ向かう方向転換があることは、天界の驚くべきことの一つです。なぜなら、多くの者がそこの一つの場所にいて、互いにどれほど顔と身体を別々に方向転換していても、それでもすべての者が自分自身の前に主を見るからであり、それぞれの者にとって自分の右に南、左に北、背後に西があるからです。
さらにまた驚くべきことは、たとえすべての天使の視線が東に向かっていても、それでもやはり彼らが残りの三つの方位を見ていることです。しかし、その三つの方位を見ることは、思考のものである彼らの内的な視覚からです。
さらにまた驚くべきことですが、天界の中では、他の者の後ろに立ち、彼の後頭部を眺めることは決して許されません、その時、主からのものである善と真理の流入が乱されます。

天界と地獄

144◀︎目次▶︎146

145   天使が主を見るのと、主が天使を見られるのとでは見方が異なっています――天使は主を目を通して見ます、けれども、主は天使を額で見られます。額で見られる理由は、額は愛に対応するからであり、主は愛を通して彼らの意志の中に流入し、目に対応する理解力を通して、ご自分を見られるようにされます(*4)


*4 額は天界の愛に対応する。それゆえ、みことばの中の「額」によってその愛が意味される(9936)。
理解力は内なる視覚であるので、目は理解力に対応する(2701, 4410, 4526, 9051, 10569)。
それゆえ、「目を上げること」や「見ること」は、理解すること、知覚すること、認めることを意味する(2789, 2829, 3198, 3202, 4083, 4086, 4339, 5684)。

天界と地獄

145◀︎目次▶︎147

146   しかし、主の天的な王国を構成する者の天界の中の方位は、霊的な王国を構成する天界の中の方位と異なっています。その理由は、主は天的な王国の中の天使に太陽として見られますが、霊的な王国の中の天使に月として見られ、主が見られるところが東であるからです。
そこの太陽と月の隔たりは三十度であり――ここから方位も同様です。
天界が天的な王国と霊的な王国と呼ばれる二つの王国に分かれていることは、その章に見られます(20-28)――また主が天的な王国の中で太陽として、霊的な王国の中で月として見られることも示しました(118)――それでも、天界の方位がこのことによって区別がつかなくなることはありません。霊的な天使は天的な天使のところへ上ることはできず、後者も前者のところへ下ることはできないからです(前の35番参照)。

天界と地獄

146◀︎目次▶︎148

147 ここから、主が天界の中でどのように現在されるか明らかです。(前の12番で言われたように)どこにでもおられ、その方から発出する善と真理の中にいるそれぞれの者のもとに、その結果、天使のもとのご自分のものの中におられるのです。
主が現在されることを、天使は内的なものの中で知覚します。それらから目で、そのようにその方を自分自身の外に見ます、〔視覚は知覚の〕連続であるからです。
ここから〔次の〕主のことばにしたがって、主が彼らの中におられ、彼らが主の中にいることは、どのように理解されなければならないか明らかにすることができます、

わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中に〔とどまります〕ヨハネ15:4)。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちに〔とどまります〕ヨハネ 6:56)。

主の「肉」は神的善を、「血」は神的真理を意味します*5

天界と地獄

147◀︎目次▶︎149

148  天界の中のすべての者は方位にしたがって分かれて住みます。愛の善の中にいる者は東と西に住み、その愛の善を明らかに知覚する者は東に、不明瞭に知覚する者は西に住みます。愛の善からの知恵の中にいる者は南と北に住み、明らかな知恵の光の中にいる者は南に、不明瞭な知恵の光の中にいる者は北に住みます。
主の霊的な王国にいる天使も、主の天的な王国の者と同様に住んでいますが、それでも愛の善とその善からの真理にしたがって相違があります。なぜなら、天的な王国の中の愛は、主への愛であり、ここから真理の光は知恵ですが、霊的な王国の中の愛は、仁愛と呼ばれる隣人に対する愛であり、ここから真理の光は信仰とも呼ばれる知性であるからです(前の23番参照)――さらにまた方位に関しても相違しています、なぜなら、方位は、すぐ前に言われたように(146番)、二つの王国の間で三十度離れているからです。

天界と地獄

148◀︎目次▶︎150

149  天使は、天界のそれぞれの社会の中の自分たちの間でも同様の方位にしたがって住んでいます。そこの東には愛と仁愛の程度の大きいものの中にいる者が、西にはその程度の小さいものの中にいる者が、南には知恵と知性の大きい光の中にいる者が、北には小さいものの中にいる者が住んでいます。
このように分かれて住むのは、それぞれの社会は天界を表わし、最小の形の天界でもあるからです(前の51~58番参照)――彼らの集会の中でも同様です。
彼らは天界の形からこの秩序の中に導かれ、天界の形からそれぞれの者が自分自身の場所を知っています。
さらにまた天界は形に関してどこでもその天界自体に似ているという理由から、主により、それぞれの社会の中にすべての種類の者がいるように備えられています――それでも、全天界の配置は、共通のものが個別のものと異なるように、各社会の配置とは異なります。なぜなら、東方の社会は西方の社会よりも、また南方の社会は北方の社会よりもすぐれているからです。

天界と地獄

149◀︎目次▶︎151

150  この結果として、天界の中の方位はそこに住んでいる者のもとにあるようなものを意味します。すなわち、東は明らかな知覚の中にある愛を、西は不明瞭な知覚の中にある愛を、南は明らかな光の中にある知恵と知性を、北は不明瞭な光の中にある知恵と知性を意味することです。
このようなことが方位によって意味されるので、それゆえ、それらによって、みことばの内意で、すなわち、霊的な意味で同様なものが意味されます(*6)。なぜなら、みことばの内意は、すなわち、霊的な意味は完全に天界の中にあるものにしたがっているからです。


*6 みことばの中で「東」は明らかな知覚の中の愛を意味し(1250, 3708)――「西」は不明瞭な知覚の中の愛(3708, 9653)――「南」は光のまたは知恵と知性の状態(1458, 3708, 5672)――「北」は不明瞭な中のそれらの状態を意味する(3708)。

天界と地獄

151◀︎目次▶︎152

151  地獄の中にいる者には正反対です。
そこにいる者は、太陽としての、または月としての主に目を向けないで、主に後ろを向け、世の太陽の代わりにそこにある暗黒へ、また地球の月の代わりにそこにある暗やみへ目を向けます。世の太陽の代わりにそこにある暗黒へ目を向ける者は悪鬼と呼ばれ、地球の月の代わりにそこにある暗やみへ目を向ける者は〔悪〕霊と呼ばれます(*7)――世の太陽と地球の月は霊界の中では見られないで、天界の太陽と反対の位置に世の太陽の代わりに暗黒が、また天界の月と反対の位置に地球の月の代わりに暗やみが見られることは前に示しました(122番)――ここから、彼らにとって方位は天界の方位と反対です。彼らに暗黒と暗やみのあるところが東です。彼らに天界の太陽があるところが西です。彼らに南は右に、北は左にあります。彼らが身体をどこに向けてもこのことは変わりませんし、他の方向へ向けることもできません、その理由は、彼らの内的なものの方向が、ここから決定されたすべての方向が、そこへ傾き、向かうからです――来世でのすべての者の内的な方向とそこからの実際の方向決定が愛にしたがっています(143番参照)。地獄にいる者の愛は自己愛と世俗愛であり、これらの愛は世の太陽と地球の月によって意味されるものです(122番参照)。そしてまたそれらの愛は主への愛と隣人に対する愛に対立します(*8)。ここから、主から後ろ向きになり、それらの暗やみに向かうことになるのです。さらにまた、地獄にいる者は自分自身の方位にしたがって住みます。
自己愛からの悪の中にいる者は東から西にかけて住み、悪の虚偽の中にいる者は南から北にかけて住みます――しかし、このことについては地獄についてのところでさらに多くのことを述べます。


*7 悪鬼と呼ばれる者が、だれでどんなものか、〔悪〕霊と呼ばれる者が、だれでどんなものか(947, 5035, 5977, 8593, 8622, 8625)。
*8 自己愛と世俗愛の中にいる者は、主から後ろ向きに向きを変える(10130, 10189, 10420, 10702)。
主への愛と隣人に対する仁愛は天界をつくる。また自己愛と世俗愛は、正反対のものであるので、地獄をつくる(2041, 3610, 4225, 4776, 6210, 7366, 7369, 7490, 8232, 8678, 10455, 10741-10745)。

天界と地獄

151◀︎目次▶︎153

152. 善い霊たちの間に、ある悪い霊が来る時、善い者たちがどこに自分たちの東があるのかほとんどわからないほどに、方位を混乱させられることがよくあります。何度か私はこのことに気づき、そしてまたそのことについて不平を言うのを霊たちから聞きました。

天界と地獄

152◀︎目次▶︎154

153. 時々、天界の方位にしたがって自分の身体を向けた悪い霊が現われることがあります。その時、彼らには知性と真理の知覚がありますが、善の情愛はありません。それゆえ、自分の本来の方位へ向きを変えて振り向くと、すぐさま知性と真理の知覚が少しもなくなります。その時、彼らは「われわれが聞き、知覚した真理は真理ではなく虚偽である」と言い、さらに虚偽が真理であることを欲します――私はこの方向転換について以下のことを教えられました。すなわち、悪い者のもとでも知的なものをこのように向けることができ、それでも意志を向けることはできないことです。このことが主により、それぞれの者が真理を見て、認めるようにとの目的のために配慮されています。しかし、だれも、もし善の中にいないなら、それらを受け入れません。善が真理を受け入れるものであり、悪は決して受け入れないからです――なおまたそこで真理によって矯正されることができるようにという理由のために、人間のもとでも似ています、しかしそれでも、善の中にいないかぎり、矯正されません。ここから、人間は同様に主へ向かうことができます、しかし、生活に関して悪の中にいるなら、直ちに向きを変えて振り向き、〔それまでに〕理解し、見た真理に反する自分自身の悪の虚偽を自分自身のもとに確認します。このことは彼らのもとで彼ら自身の内的なものから考えるとき生じます。

天界と地獄

153◀︎目次▶︎155

17 天界の天使の状態の変化

154 天使の状態の変化によって、愛と信仰に関して、ここから知恵と知性に関して、そのように彼らの生活(いのち)の状態に関して、彼らの変化が意味されます。
状態は生活(いのち)について、また生活(いのち)に属すものについて言われます。天使の生活は、愛と信仰の生活であるので、ここから知恵と知性の生活であり、それゆえ、状態はそれらについて言われ、愛と信仰の状態、知恵と知性の状態と呼ばれます。
これらの状態が天使のもとでどのように変化するか、このことを今から述べます。

天界と地獄

154◀︎目次▶︎156

155 天使は、愛に関して常に似た状態の中にいるのではありません、したがって知恵に関しても似た状態の中にいるのではありません、なぜなら、彼らにすべての知恵は愛から存在し、愛にしたがっているからです。ある時は、強烈な愛の状態の中に、またある時は、強烈でない愛の状態の中にいます。その状態は最大のものから最小のものまで段階的に減少します。愛の最大の段階の中にいる時、彼らは自分の生活の光と熱の中に、すなわち、その明るさと快さの中にいます。けれども、最小の段階の中にいる時、彼らは自分の生活の陰と寒さの中に、すなわちその暗さと不快さの中にいます——彼らの生活は最後の状態から再び最初へ戻り、こうしてさらに繰り返します——これらの交替は、変化とともに次から次へと続きます。
これらの状態は、光と陰、熱と寒さの変化の状態のように、または世で、一年間の絶え間のない変化ともに、日々の朝・昼・夕・夜のように続きます——さらにまた、朝は明るさの中にある彼らの愛の状態に対応し、昼は明るさの中にある彼らの知恵の状態に、夕は暗さの中にある彼らの知恵の状態に、夜は愛と知恵のない状態に対応します——しかし、天界にいる者の生活の状態には、夜に対応するものはなく、朝の前である夜明けに対応するものがあることを知らなくてはなりません。夜に対応するものは地獄にいる者にあります(*1)
それらの対応から、みことばの中で「日」と「年」は全般的な生活の状態を意味し、「熱」と「光」は愛と知恵、「朝」は愛の最初と最高の段階、「昼」は光の中にある知恵、「夕」は陰の中にある知恵、「夜明け」は朝に先行する暗い状態、「夜」は愛と知恵を剥奪された状態を意味します(*2)


*1 天界に夜に対応する状態はなく、朝の前の夜明けに対応する状態がある(6110)。
「夜明け」は、最後と最初の間の中間の状態を意味する(10134)。
*2 照らしと知覚に関して天界での交替の状態は、世での一日の時間のようである(5672, 5962, 6110, 8426, 9213, 10605)。
みことばの中で「日」と「年」は、全般的なすべての状態を意味する(23, 487, 488, 493, 893, 2788, 3462, 4850, 10656)。
「朝」は新しい状態や愛の状態の始まりを意味する(7218, 8426, 8427, 10114, 10134)。
「夕」は光と愛の消えてゆく状態を意味する(10134, 10135)。
「夜」は愛と信仰の何もない状態を意味する(221, 709, 2353, 6000, 6110, 7870, 7947)。

天界と地獄

155◀︎目次▶︎157

156 天使の愛と知恵に属す内なるものとともに、彼らの外にあって彼らの目の前に見えるいろいろな物事の状態もまた変化します。なぜなら、彼らの外にあるものは、彼らの内にあるものにしたがって定まるからです——しかし、特にそれらが何であるか、またどんなものか、あとの「天界の中で表象するものと外観」の章で述べます。

天界と地獄

156◀︎目次▶︎158

157 それぞれの天使は、そしてまたそれぞれの社会もまた全般的にこのような状態の変化を経験し、通過します。それでも、そこではあるものは他のものと比べて異なっています。その理由は愛と知恵が異なるからです、というのは、真ん中にいる者は周囲から辺境にかけている者よりもさらに完全な状態の中にいるからです(前の43128番参照)——しかし、その相違を述べることは冗長です。なぜなら、自分の愛と信仰がどんなものかにしたがってだれもが変化を受けるからです。
ここから、ある者が自分の暗さと不快さの中にいるとき他の者が自分の明るさと快さの中にいることが生じます。このことは同じ社会の間で同時に、またある社会と他の社会の間では異なって生じます。そして天的な王国の社会に比べて霊的な王国の社会の中でも異なります。
彼らの全般的な、状態の変化の相違は、地球上の風土帯の異なる土地でのいろいろな日々の状態のようです。なぜなら、そこでは他の者が夕方のとき朝である者がいるし、他の者が寒さの中にいるとき暑さの中にいる者もいて、その逆でもあるからです。

天界と地獄

157◀︎目次▶︎159

158 私は、なぜこのような変化の状態があるのか、天界から教えられました。天使は、多くの理由があると言いました——
第一の理由は、主からのものである愛と知恵から成り立つ自分たちの生活と天界の快さは、もし絶えずその中にいたなら、変化のない歓喜と楽しさの中にいる者に生じるように、徐々に価値がなくなってくることです。
第二の理由は、自分たちに人間と等しくプロプリウム(固有のもの)があり、それは自分自身を愛することであって、天界の中のすべての者は自分のプロプリウムを抑えられており、主によりそれを抑えられれば抑えられるほど、それだけ愛と知恵の中にいます、しかし、抑えられないかぎり、自己愛の中にいて、それぞれの者は自分のプロプリウムを愛するので、それを引き寄せ(*3)、このことによって自分たちに状態の変化または連続的な交替があることです。
第三の理由は、このように主の愛の中に保たれ、自己愛を抑えられることに慣れることで、こうして自分たちが完成され、そしてまた快さと不快さの交替によって、善の知覚と感覚がさらに敏感になることです(*4)
天使たちは付け加えて、「太陽としての主は常に熱と光をもって、すなわち、愛と知恵をもって流入されるので、主が私たちの状態の変化を生み出すのではなく、私たちが自分自身のプロプリウムを愛するので、常に原因そのものはそのプロプリウムに連れ去られることの中にあります」と言いました。
このことを世の太陽と比べて、一年や一日の暑さと寒さ、光と陰の状態の変化の原因は、太陽は動かないで静止しているので、太陽の中になく、その原因は地球にあることによって説明しました。


*3 人間のプロプリウム(固有のもの)は自分自身を愛することである(694, 731, 4317, 5660)。
プロプリウムは、主が現存することができるために、分離されなくてはならない(1023, 1044)。
実際にまた、だれかが主からの善の中に保たれるとき、分離される(9334-9535, 9447, 9452-9454, 9938)。
*4 天使は永久に完成される(4803, 6648)。
天界では、一つの状態がもう一つの状態と完全に似ていることは決してなく、ここから絶え間のない完成がある(10200)。

天界と地獄

158◀︎目次▶︎160

159 太陽としての主が天的な王国の天使に、彼らの第一の状態の中でどのように、第二の状態の中でどのように、第三の状態の中でどのように見られるか、私に示されました。
最初、太陽としての主は、赤くきらめいて、描くことができないような光輝の中に見られました。「太陽としての主は、第一の状態の中の天使にこのように見られます」と言われました——その後、太陽の周囲にさらに暗くするかさ(暈)が見られ、それによって最初の赤くきらめいたものは、その赤くきらめくものによって太陽はそれほどに輝いたのですが、弱くなり始めました。「第二の状態の中で、太陽は彼らにこのように見られます」と言われました——続いて、さらに暗くするかさ(暈)が見られ、ここから太陽はさらに赤さを減らし、それが徐々に行なわれて、ついには白く輝くようになったのが見られました。「第三の状態で、太陽は彼らにこのように見られます」と言われました——この後、その白く輝くものが天界の月に向かって左へ進み、その月に光を増し加え、そのことからその時、月は過度に輝き出すのが見られました——「これが、天的な王国の中の者にとって第四の状態であり、霊的な王国の者にとって最初の状態であって、両方の王国の中の状態の変化はこのように交替します」と言われました。しかし、王国全体の中で同時にではなく、ある社会の中で交替した後に他の社会の中で交替します。さらに、これらの交替は定まったものではなく、遅いにしろ早いにしろ、彼らが知らないうちに起こるものです。
さらに天使は、「太陽はそれ自体ではこのように動かず、このように進行もしません。しかしそれでも、自分たちのもとの継続的な進行の状態にしたがって、このように見られます。主はそれぞれの者にその状態の性質にしたがって見られるので、強い愛の中にいるときは自分たちにこのような赤さで、愛が去るときには赤さが減り、ついには白い輝きとなり——自分たちの状態の性質が暗いかさ(暈)によって表象されたとき、炎と光に関して太陽にそれらの変化の外観をひき起したのです」と言いました。

天界と地獄

159◀︎目次▶︎161

160 天使が最後の状態にいる時、それはその者自身のプロプリウムの中にいる時ですが、悲しくなり始めます。
私は彼らがその状態にいたときに話し、その悲しみを見ました。しかし、彼らは、「やがて最初の状態に戻される希望の中に、こうしてあたかも再び天界に戻されるかのような希望の中にいます」と言いました。なぜなら、天界は彼らのプロプリウムによって押しとどめられていたからです。

天界と地獄

160◀︎目次▶︎162

161 地獄の中にもまた状態の変化がありますが、しかし、それらについては、あとで地獄についてのところで述べます。

 

天界と地獄

161◀︎目次▶︎163

18 天界の時間

162  天界でも世のように、すべてのものは続き、進行しますが、それでも、天使に時間と空間の概念や観念はありません、時間と空間が何であるか何も知らないほどにも、まったく知りません。
ここでは天界での時間について述べ、空間については別の章で述べます。

天界と地獄

162◀︎目次▶︎164

163   天使は何が時間か知りません、とはいえ、彼らのもとですべてのものは世のように、まったく何も相違がないように連続的に進行します。その理由は、天界に年や日はありませんが、状態の変化があるからです。年や日のあるところに時間があり、状態の変化があるところに状態があります。

 

天界と地獄

163◀︎目次▶︎165

164   世には時間が存在しますが、それはそこの太陽が外見上では一つの段階から他の段階へ連続的に進行して年と呼ばれる時間をつくり、それに加えて、地球の周囲を移動して日と呼ばれる時間をつくるからです。その年と日は定まった交替によっています。
天界の太陽は異なっていて、連続的な進行と公転によって年と日をつくることはありませんが、外見上、状態の変化をつくり、これらの変化は前章で示されたように定まった交替によるものではありません――ここから、天使は時間について何らかの観念をもつことはできませんが、その代わりに状態についての観念をもっています。状態については前述しました(154番)。

 

天界と地獄

164◀︎目次▶︎166

165   天使は、世の人間のような時間からの観念をもたないので、それゆえ、時間についての観念も、時間に属すものについての観念ももちません――時間に固有なもの、例えば、年・月・週・日・時間・今日・明日・昨日、これらが何であるか、決して知りません。天使がそれらを人間から聞くとき(天使は主により常に人間に接合しているからです)、その時、それらに代わって状態と状態に属すようなものを知覚します――このように、人間の自然的な観念は天使のもとで霊的な観念に変えられます。
ここから、みことばの中で、時は状態を意味し、前に名称を挙げたような時間に固有なものは、それらに対応する霊的なものを意味します(*1)


*1 みことばの中の時間は状態を意味する(2788, 2837, 3254, 3356, 4814, 4901, 4916, 7218, 8070, 10133, 10605)。
天使は時間と空間の観念なしに考える(3404)。その理由(1274, 1382, 3356, 4882, 4901, 6110, 7218, 7381)。
みことばの中の「年」は何を〔意味するか〕(487, 488, 493, 893, 2906, 7828, 10209)。
「月」は何を(3814)。
「週」は何を(2044, 3845)。
「日」は何を(23, 487, 488, 6110, 7240, 8426, 9213, 10132, 10605)。
「今日」は何を(2838, 3998, 4304, 6165, 6984, 9939)番。
「明日」は何を(3998, 10497)。
「昨日」は何を(6983, 7114, 7140)。

天界と地獄

165◀︎目次▶︎167

166   時間から存在するようになるすべてものも同様です――それらは、春・夏・秋・冬と呼ばれる一年の四つの期間、朝・昼・夕・夜と呼ばれる一日の四つの期間、幼児期・青年期・壮年期・老人期と呼ばれる人間の四つの時期、その他、時間から存在するようになるかまたは時間にしたがって続くものです――人間は、それらについて考えるとき、時間から考えます。けれども、天使は状態から考えます。それゆえ、人間のもとに時間から存在するそれらのものは、天使のもとでは状態の観念に変わります。春と朝は、天使のもとで、第一の状態の中にあるような愛と知恵の状態の観念に変わり、夏と昼は、第二の状態の中にあるような愛と知恵の観念に、秋と夕は、第三の中にあるような状態に、冬と夜は、地獄の中にあるような状態の観念に変わります――ここから、それらの時間によって、みことばの中で同様のものが意味されています(前の155番参照)。
ここから、人間の思考の中にある自然的なものが、人間のもとにいる天使たちのもとでどのように霊的なものになるか明らかです。

天界と地獄

166◀︎目次▶︎168

167   天使は時間の概念を何らもたないので、それで、永遠について、地上の人間とは異なる観念をもっています。天使は、永遠によって、無限の時間ではなく、無限の状態を知覚します(*2)
かつて私は永遠について考え、時間の観念を通して永遠にとは何であるかを、すなわち、終わりのないことを知覚することができました。しかし永遠からとは何か、このように神が創造以前に永遠から成し遂げられた、とは何のことか知覚することができませんでした――ここから不安になったとき、私は永遠について天界のスフェアの中に、こうして天使のものである知覚の中へ揚げられました。その時、永遠について時間から考えてはならず、状態から考えなければならないことを照らされ、その時、永遠からとは何かを知覚しました。このことは私に起こったことです。


*2 人間に、永遠の観念は時間とともにある、けれども、天使に、永遠の観念は時間のないものである(1382, 3404, 8325)。

天界と地獄

167◀︎目次▶︎169

168  天使は、人間と話すとき、人間に固有な自然的な観念によっては決して話さないで、霊的な観念によって話します。自然的な観念のすべては、時間・空間・物質的なもの、それらに類似のものからであり、霊的な観念のすべては、天使の内と外のいろいろなものの状態とそれらの変化からのものです。しかしそれでも、霊的なものである霊的な観念が、人間のもとに流入するとき、一瞬にして、またそれ自体から、霊的なものと完全に対応している人間に固有な自然的な観念に変わります。このようになることを、天使も人間も知りません――人間のもとへの天界のすべての流入もまたこのようです。
私の思考の中へさらに近く入れられ、時間と空間からの多くのものがあった自然的なものの中へまでも入れられた天使がいました。しかし、その時、何も理解しなかったので、急に引き下がりました。引き下がった後、私はその天使が、「自分たちは暗やみの中にいた」と言い、語るのを聞きました。
[2]天使は時間についてどれほど無知であるか、経験から私に知ることが与えられました。
ある者が天界から来ました。彼は人間にあるような自然的な観念の中にもまた入れられることができるような者でした。それゆえ、私はその者と話し、後には人間と人間とのように話しました。
最初、彼は私が時間と名づけるものが何であるか知りませんでした。それで、私は、太陽が私たちの地球のまわりをどのように回転して見えるかを、また年と日をつくり、ここから四つの時期に区別され、さらにまた月と週に、そして日が二十四時間に区分けされ、これらの時間は一定に交替して繰り返され、ここから時間があることを全部教えなければなりませんでした。彼はこのことを聞いて、「このようなものを知りません、しかし、状態が何であるかは知っています」と言って驚きました。
[3]彼との会話の間に、私は「天界の中に時間がないことは世で知られています」と言いました。なぜなら、人間は、死者について、「彼は時をあとに残す、時から去った」と言い、このことによって世から去ることを意味するので、時間がないことを知っているかのように話すからです。
さらにまた私は、「ある者により、時間の起源は状態であり、そのことから、人間の中の情愛の状態に完全にしたがっていることが知られています。時間は楽しさと喜ばしさの中にいる者には短く、不快さと悲しみの中に者には長く、希望と期待の状態の中にいる者にはさまざまであることから――学者たちには、何が時間と空間か調べ、時間は自然的な人に属すものであることを知っている者もいます」と言いました。

 

天界と地獄

168◀︎目次▶︎170

169  自然的な人間は、もし時間や空間の観念、物質的な観念が取り去られるなら、自分に思考が存在しなくなると信じるかもしれません、人間のすべての思考はそれらに基づくからです(*3)――しかし、思考が時間や空間から、物質から得たものであればあるほど、思考はそれだけ限定され、閉じ込められること、またそれらから得ていなければ、それだけ心は物質的なものと世俗的なものの上に高揚されるので、それだけ限定されないで、広げられることを知らなくてはなりません。
天使はこのようなものだけから構成される観念の中に落ち込まないので、ここから天使に不可解なものと呼ばれるような知恵があります。


*3 人間は時間の観念なしに考えることはない、天使に〔そう〕ではなく異なっている(3404)。

天界と地獄

169◀︎目次▶︎171

19 天界の中で表象するものと外観

170 自然的な光だけから考える人間は、世にあるものと似たものが天界にあることを理解できません。このことの理由は、自然的な光から考えて、天使はただ心だけの存在であり、心はいわばエーテルのようなプネウマ(霊)であって、ここから天使には人間にあるような感覚はなく、したがって目もなく、もし目がないなら視覚の対象もない、と確信したからです。それでも、天使には人間にあるすべての感覚が、それどころか、はるかに鋭敏なものがあります。彼らが見るときの光もまた、人間が見るときの光よりも、はるかに明るいものです。
天使が最も完全な形をした人間であり、すべての感覚を授けられていることは、前に述べました(7377番)。天界の光が世の光よりもはるかに明るいことも述べました(126132番)。

天界と地獄

170◀︎目次▶︎172

171 天界の中で天使に見られるものの性質は、手短に述べることはできません。大部分は地上のものと似ていますが、形についてはさらに完全で、量についてはさらに多くなっています。
天界の中にこのようなものがあることは、預言者たちに見られたものから明らかにすることができます——例えば、エゼキエルに見られた新しい神殿と新しい地については第四十章から第四十八章までに、ダニエルに見られたものは第七章から第十二章までに、ヨハネに見られたものは「黙示録」の最初から最後の章までに記述されています。他の者に見られたものについては、みことばの歴史的なものの中と同じく預言的なものの中に記述されています——このようなものは、彼らに天界が開かれたときに見られたのです。人間の霊的な視覚である内的な視覚が開かれるとき、「天界が開かれる」と言われます——なぜなら、天界の中にあるものは、人間の身体の目で見ることはできませんが、霊の目で見ることができるからです。主が喜ばれるとき、目が開かれ、そのとき身体の感覚からの自然的な光の中にいる人間は、その光から引き出され、霊的な光の中に高揚されます、その者自身の霊から霊的な光の中にいるのです。
その光の中で天界の中にあるものが私に見られました。

 

天界と地獄

171◀︎目次▶︎173

172 しかし、天界の中で見られるものは、たとえそれらの大部分が地上のものと似ていても、それでも本質では似ていません、天界の中のものは天界の太陽から存在し、地上のものは世の太陽から存在するからです。天界の太陽から存在するものは霊的なものと呼ばれますが、世の太陽から存在するものは自然的なものと呼ばれます。

 

天界と地獄

172◀︎目次▶︎174

173 天界に存在するものは、世にあるものと同じようには存在していません。天界のすべてのものは、天使の内的なものとの対応にしたがって、主から存在します、天使に内的なものと外的なものがあるからです。彼らの内的なものはすべて愛と信仰に関係し、したがって意志と理解力に関係します。なぜなら、意志と理解力はそれらの容器であり、それでも外的なものが内的なものに対応しているからです——外的なものが内的なものに対応することは前に述べました(87115番)。
このことは前に「天界の熱と光について」言われたことから説明できます。天使には彼らの愛の性質にしたがって熱があり、知恵の性質にしたがって光があることは128134番に述べました。
天使の感覚の前に現われている他のものも同様です。

天界と地獄

173◀︎目次▶︎175

174 私に天使との交わりの中にいることが与えられたとき、そこにあるものが完全に世の中にあるもののように見え、世の中に、王宮の中に、そこに私がいるとしか思えないように知覚されました——さらにまた人間と話すように彼らと話しました。

天界と地獄

174◀︎目次▶︎176

175 内的なものに対応するすべてのものは、内的なものを表象してもいるので、それゆえ、表象するものと呼ばれます。また彼らのもとの内的な状態にしたがって変化するので、それゆえ、外観と呼ばれます。それでも、天界の中で天使の目の前に見られ、その感覚で知覚されるものは、地上で人間により生きいきと見られ、知覚されるよりも、はるかにはっきりと、明確に、知覚できるものです。
天界の中で外観はそのように存在しますが、実際に存在するので真の外観と言われます——真でない外観もまた存在し、それはたとえ見られても内なるものと対応しないものです(*1)。しかし、このことについてはあとで述べます。


*1 天使のもとに見られるすべてのものは、表象するものである(1971, 3213-3226, 3342, 3475, 3485, 9457, 9481, 9574, 9576, 9577)。
天界は表象するもので満ちている(1521, 1532, 1619)。
表象するものは、天界の中で内なるものであるほど、ますます美しい(3475)。
そこの表象するものは、天界の光からのものなので、真の外観である(3485)。
神的な流入は、高い天界の中で表象するものに、ここから低い天界の中でもまた表象するものに変わる(2179, 3213, 9457, 9481, 9576, 9577)。
自然の中にあるような、したがって世の中にあるような形で、天使の目の前に見られるものは、表象するものと呼ばれる(9457)。
内なるものはこのように外なるものに変わる(1632, 2987-3002)。
天界の中の表象するものの性質、いろいろな例による説明(1521, 1532, 1619-1628, 1807, 1973, 1974, 1977, 1980, 1981, 2299, 2601, 2761, 2762, 3217, 3219, 3220, 3348, 3350, 5198, 9090, 10276)。
天界の中に見られるすべてのものは、対応するものにしたがっており、表象するものと呼ばれる(3213-3226, 3342, 3475, 3485, 9457, 9481, 9574, 9576, 9577)。
対応するすべてのものは、表象もし、そしてまたこのようなものを意味する(2896, 2987, 2971, 2989-2991, 3002, 3225)。

天界と地獄

175◀︎目次▶︎177

176 対応にしたがって天使にどんなものが見られるか説明するために、ここでその例を一つだけ提示しましょう。
知性を持つ者に、あらゆる種類の木と花で満ちた庭園と楽園が見られます。
そこの木々は最も美しく配列されており、横枝を組み合わせたアーチ形の入り口があり、周囲には遊歩道があります。これらすべてのものは、描くことができないほど美しいものです——知性を持つ者は、そこを歩き、花を摘み、花輪を編み、その花輪で幼児を飾ります。
そこにはまた、世では決して見られることもなく、存在もしない種類の木や花があります。
木には愛の善にしたがって果実があります。その愛の善の中に知性が存在します。
このようなものが見られるのは、庭園と楽園そしてまた実のなる木と花が知性と知恵に対応するからです(*2)
このようなものが天界の中に存在することは地上でも知られていますが、善の中にいて、自然的な光とその欺きによって自分自身のもとで天界の光を消さなかった者にだけ知られています。というのは、彼らは天界について考えるとき、そこには決して耳で聞いたこともなく、目で見たこともないようなものがある、と考え、言いもするからです。


*2 庭園と楽園は、知性と知恵を意味する(100, 108, 3220)。
「エデンによる園」とは、また「エホバの園」とは何か(99, 100, 1588)。
来世の楽園について、〔それは〕なんと荘厳なことか(1122, 1622, 2296, 4528, 4529)。
「木」は知覚と知識を、それらからの知恵と知性を意味する(103, 2163, 2682, 2972, 7692)。
「果実」は、愛と仁愛の善を意味する(3146, 7690, 9337)。

天界と地獄

176◀︎目次▶︎178

20  天使が着て見られる衣服

177 天使は人間であるので、地上の人間のように、お互いの間で生活します。それで、彼らに衣服があり、住居があり、同じような多くものがあります。それでも、彼らはさらに完全な状態にいるので、彼らにとってすべてのものはさらに完全であるという違いがあります——なぜなら、天使の知恵は、言葉にできないと言われるほど人間の知恵にまさるので、すべてのものはこのように、彼らにより知覚され、見られるからです。それは、天使に知覚され、見られるすべてのものが彼らの知恵に対応するからです(前の173番参照)。

天界と地獄

177◀︎目次▶︎179

178 天使が着ている衣服は、衣服以外の他のものと同様に対応したものであり、対応しているので、実際に存在するようになります(前の175番参照)。
彼らの衣服は彼らの知性に対応します。それゆえ、天界の中のすべての者は知性にしたがった服装で見られます。ある者は他の者より知性ですぐれているので(43番と128番)、それで、その衣服もまた他の者の衣服よりもりっぱです——最も知性のある者は炎からきらめくような衣服を、他の者は光から輝くような衣服を着ています。知性の少ない者は輝きがないけれども白く光る明るい色の衣服を、知性のさらに少ない者はいろいろな色の衣服を着ています——けれども、最内部の天界の天使は裸です。

 

天界と地獄

178◀︎目次▶︎180

179 天使の衣服は、彼らの知性に対応するので、それで、真理にもまた対応します、すべての知性は神的真理からのものであるからです。それゆえ、天使は知性にしたがって衣服を着ていると言っても、神的真理にしたがって着ていると言っても同じことです。
ある者の衣服は炎からきらめき、ある者の衣服は光からのように輝きます。炎は善に、光は善からの真理に対応するからです(*1)——ある者の衣服は輝きがなく、白く光る明るい色をしています。ある者の衣服はいろいろな色をしていますが、それは神的善と神的真理は、知性の少ない者のもとで、ひらめきが少なく、またいろいろに受け入れられるからです(*2)。さらにまた、白く光ることと白は真理に対応します(*3)。色はその多様性に対応します(*4)
最内部の天界の中で裸であるのは、〔そこの天使は〕無垢の中にいて、無垢は裸に対応するからです(*5)


*1 対応から、みことばの中の「衣服」は真理を意味する(1073, 2576, 5319, 5954, 9212, 9216, 9952, 10536)。
なぜなら、真理は善をおおうから(5248)。
「おおい」は知的なものを意味する、なぜなら、知性は真理を受け入れるものであるから(6378)。
「亜麻布からできた輝いた衣服」は神性からの真理を意味する(5319, 9469)。
「炎」は霊的な善を、ここからの「光」はその善からの真理を意味する(3222, 6832)。
*2 天使と霊は、真理にしたがった、このように知性にしたがった衣服を着て現われる(165, 5248, 5954, 9212, 9216, 9814, 9952, 10536)。
天使の衣服は、輝くものがあり、輝きのないものがある(5248)。
*3 みことばの中の「白光り」と「白さ」は、天界の中の光からなので、真理を意味する(3301, 3993, 4007)。
*4 天界の中の色は、そこの光の多彩さである(1042, 1043, 1053, 1624, 3993, 4530, 4742, 4922)。
「色」は知性と知恵に属すいろいろなものを意味する(4530, 4677, 4922, 9466)。
ウリムとトンミムの中の「貴重な石」は、色にしたがって、天界の善からの真理のすべてのものを意味した(9865, 9868, 9905)。
色は赤から起源を得るほど、善を意味し、白から起源を得るほど、真理を意味する(9476)。
*5 最内部の天界の中のすべての者は無垢であり、それゆえ、裸で見られる(154, 165, 297, 2736, 3887, 8375, 9960)。
無垢は天界の中で裸によって示される(165, 8375, 9960)。
無垢な者と貞潔な者に、恥辱がないので、裸は恥ではない(165, 213, 8375)。

天界と地獄

179◀︎目次▶︎181

180 天使は天界で衣服を着ているので、預言者に現われたときのように世で見られたときもまた衣服を着て見られました。主の墓で見られた者は、

姿は閃光であり、衣服は輝き、白かった(マタイ28・3、マルコ16・5、ルカ24・4、ヨハネ20・12、13)。

また、天界でヨハネに見られた者は、

衣服は亜麻布で白かった(黙示録4・4、19・11、13)。

そして知性は神的真理からのものなので、それゆえ、

変容のとき、主の衣服は、光のようにきらめき、白光りした(マタイ17・2、マルコ9・3、ルカ9・29)。

光が主から発出する神的真理であることは前に述べました(129番)——ここから、みことばの中の「衣服」は真理を意味し、またここから知性を意味します——
例えば「ヨハネ福音書」に、

自分の衣を汚さなかった者は、ふさわしい者なので、白い着物で、わたしとともに歩く。勝つ者は、彼は白い衣を着せられる(黙示録3・4、5)。
目覚めて、自分の衣を守る者は幸いである(黙示録16・15)。

真理の中にある教会が意味されるエルサレム(*6)については、「イザヤ書」に、

起きよ、力をまとえ、シオン。あなたの美しい衣をまとえ、イスラエル(52・1)。

また、「エゼキエル書」に、

エルサレム……わたしはあなたに亜麻布を着せた、あなたを絹でおおった……あなたのおおいは亜麻布と絹(16・10、13)——

他にも多くの箇所にあります。
しかし、真理の中にいない者は「婚礼の衣服を着ていない」と言われます、例えば「マタイ福音書」に、

入場された王は……婚礼の衣服を着ていない者を見た。そして彼に言った。「友よ、婚礼の衣服を持たないで、どのようにしてここに入ったのか?」 それゆえ、彼は外の暗やみに投げ出された(22・11、12、13)。

「婚礼の家」によって、ご自分の神性によって真理と結合された天界と教会が意味されます——それゆえ、主は、みことばの中で花婿や夫と呼ばれ、天界は教会とともに花嫁や妻と呼ばれます。


*6 「エルサレム」は、そこに本物の教えがある教会を意味する(402, 3654, 9166)。

天界と地獄

180◀︎目次▶︎182

181 天使の衣服は、衣服のように見えませんが、しかし、実際に衣服であることは、次のことから明らかです。彼らは衣服を見るだけでなく、触れて感じてもいます。さらに、彼らには衣服がたくさんあり、それらを脱いだり、着たりし、また使わないときにはしまっておき、使うときには再び着ます——彼らがいろいろな衣服を着ているのを、私は何千回も見ました。
私は、「どこから衣服を得ているのですか」とたずねました。彼らは、「主から私たちに与えられます。時々、私たちが知らないうちに着せられています」と言いました。
さらにまた、「私たちの衣服は取り替えられます。第一と第二の状態の中で衣服は輝きがあり、白く光っています。第三と第四の状態の中でやや暗い色です。このこともまた対応からです」と言いました。このことは、知性と知恵に関して彼らに状態の変化があるからです(これらについては、前の154161番参照)。

天界と地獄

181◀︎目次▶︎183

182 霊界のそれぞれの者は、知性にしたがって、このように知性のもとである真理にしたがって衣服を着ているので、それゆえ、地獄にいる者は、真理がないので、それぞれの者は自分自身の狂気にしたがって、ぼろぼろで、汚く、忌まわしい衣類を着ているのが見られ、他のものを着ることもできません——裸が見られないように、彼らに着ることが主により許されています。

天界と地獄

182◀︎目次▶︎184

21 天使の住むことと住まい

183 天界に社会があり、人間のように生活しているので、それでまた、彼らに住まいがあり、その住まいもそれぞれの天使のいのち(生活)の状態にしたがっていろいろです。高い状態にいる者には荘厳な住まいが、低い地位にいる者にはそれほど荘厳でない住まいがあります。
天界で住むことについて、何度か私は天使と話しました。私は、「今日ではだれもが、天使に住むところと住まいがあることをほとんど信じようとしません」と言いました。ある者は、それらを見ないとの理由からであり、ある者は、天使が人間であることを知らないからであり、ある者は、天使の天界は自分たちの周囲に目で見える天であると信じ、それが空虚に見えるので、天使はエーテルの形をしていると考え、エーテルの中で生活すると結論し、さらに、霊的なものについて何も知らないので自然界にあるようなものが霊界にもあることを把握していないからです。
[2]天使は、「このような無知が今日、世の中を支配しており、驚くべきことに、教会の間で最大であり、そして単純な者と呼ばれる者のもとよりも、知性のある者のもとで支配していることを知っています」と言い——さらに、「天使が人間であることは、天使が人間として見られ、主も同じく人間として見られたことは、ご自分の人間性のすべてをご自分にまとわれたので、みことばから知ることができます。人間であるので、天使に住まいと住むところがあります。ある者の無知によれば——その無知を天使は狂気と呼んでいます——自分たちは霊と呼ばれていても、空中を飛ぶ息ではありません。そしてこのことは、天使と霊について先入観なしに、また〝このようであるかどうか〟と疑問を抱かないで、単純に考えるなら、把握することができ、まともな思考の中に生じます。なぜなら、人間のだれにも、天使は人間の形をしていて、彼らに住居があり、それらは天界の住むところと呼ばれ、地上の住むところと比べて荘厳である、という一般的な観念があるからです。しかし、天界からの流入であるこれらの一般的な観念は、〝このようであるかどうか〟という考察が心の真ん中を占めるとき、直ちに無へと落ち込み、このことは特に学者のもとで生じます。彼らはプロプリウム(固有のもの)の知性によって天界とそこからの光の道を自分自身に閉ざしたのです」と言いました。
[3]死後の人間の生活についての信仰の場合も同様です。それらについて語り、同時に霊魂について、学者の見解から、また身体との再結合の教えから考えない者は、死後、人間は、もしよく生きたなら天使の間で生活し、その時、荘厳なものを見、楽しみを感じることを信じています。しかし、身体の再結合についての教えの事柄を、または霊魂についての仮説を考慮に入れて、霊魂がこのようなものであるのか、このように存在するものなのか、という思いが浮かぶと、直ちに、以前の観念は追い散らされてしまうのです。

天界と地獄

183◀︎目次▶︎185

184 しかし、経験からの証拠を公けにするほうがよいでしょう。
私は天使と顔を合わせて話したときはいつでも、彼らとともに彼らの住まいの中にいました。
彼らの住まいは完全に地上の住まいのようであり、家と呼ばれますが、さらに美しいものです。その中に多くのいろいろな部屋・寝室・ポーチがあり、周囲には庭・花園・野原があります。
社会が形成されているところでは、そこの住まいは密接していて、隣り合わせであり、街路・道・広場とともに、都市の形に配列され、私たちの地上の都市と完全に似ています——さらにまた私に、それらを歩きまわり、あらゆる方向を見回し、時々、家に入ることも許されました——このことは、すっかり目覚めていて、私に内的な視覚が開かれているときに起こりました(*1)


*1 天使に、都市・宮殿・家がある、それらについて(940-942, 1116, 1626-1628, 1630, 1631, 4622)。

天界と地獄

184◀︎目次▶︎186

185 私は描くことができないような荘厳な天界の宮殿を見ました。
上部は純金から、下部は宝石からできているかのようにきらめいていました。他の宮殿よりも光り輝く宮殿があり——内部も同様であって、部屋は、言葉によっても、知っているものによっても、描くことができないような装飾品で飾られていました。
南に臨む面には楽園があり、そこのすべてのものも同様に、ある場所の葉は銀から、また果実は金からできているようにきらめいていました。花壇の花は、その色によって、いわば虹を表わしていました。視界の終わる端には、またも宮殿が見えます。
天界の建築物は、「技術のあるところ、そこに技術あり」と言われるようなものです。技術そのものが天界からのものなので、驚くことでもありません。
天使は、「このようなものが、またさらに完全である無数の多くのものが、主により自分たちの目の前に示されます。しかしそれでも、それらにより、私たちは目よりも心が喜びます。それはその個々のものの中に対応を見るからであり、対応によって神的なものを見るからです」と言いました。

 

天界と地獄

185◀︎目次▶︎187

186 私は対応についてもまた教えられました。宮殿や家だけでなく、それらの中と外にあるすべてのものや個々のものもまた、彼らのもとにある主からの内的なものに対応することです。家そのものは全般的に彼らの善に対応し、家の中の個々のものはその善からのいろいろなものに対応します(*2)。また家の外のものは、善からの真理に、知覚と思考に対応します(*3)。それらは、主から彼らのもとにある善と真理に対応するので、彼らの愛に、ここから知恵と知性に対応しています。なぜなら、愛は善に属すものであり、知恵は真理と一緒である善に属すものであり、そして知性は善からの真理に属すものであるからです。天使がそれらを眺めるとき、このような対応するものも知覚します。それゆえ、彼らはそれらのものを目よりも心でさらに喜び、感動します。


*2 「家」は、その内部にあるものとともに、人間の心に属すものを、このように彼の内的なものを意味する(710, 2233, 2331, 2559, 3128, 3538, 4973, 5023, 6639, 6690, 7353, 7848, 7910, 7929, 9150)。
それゆえ、善と真理に属すものである(2233, 2331, 2559, 4982, 7848, 7929)。
「部屋」と「寝室」は、そこの内的なものを意味する(3900, 5694, 7353)。
「家の屋根」は、最内部を意味する(3652, 10184)。
「木造の家」は、善に属すものを、「石造の家」は、真理に属すものを意味する(3720)。
*3 ここには176番の*2と同じ記号が振られている。

天界と地獄

186◀︎目次▶︎188

187 ここから、なぜ主はご自分をエルサレムにある神殿と言われたのか(*4)(ヨハネ2・19、21)、また、なぜ新しいエルサレムは純金から、その門は真珠から、土台は宝石からできているのが見られたのか明らかです(黙示録第21章)。なぜなら、神殿は主の神的人間性を表象し、「新しいエルサレム」は、今後、設立されるべき教会を意味し、「十二の門」は善へ導く真理を、「土台」は、その上にその教会が設立される真理を意味するからです(*5)


*4 「神の家」は、最高の意味で神的善に関する主の神的人間性を、けれども、「神殿」は、神的真理に関する主の神的人間性を意味する。また相対的な意味で善と真理に関する天界と教会を意味する(3720)。
*5 「エルサレム」は、そこに本物の教えのある教会を意味する(402, 3654, 9166)。
「門」は、教会の教えへ、また教えを通して教会の中へ導入することを意味する(2943, 4477)。
「土台」は、その上に天界・教会・教えが基礎づけられる真理を意味する(9643)。

天界と地獄

187◀︎目次▶︎189

188 主の天的な王国の天使の大部分は、土からできた山のように見える高い場所に住んでいます——主の霊的な王国の天使は、丘のように見える高さのやや低い場所に住んでいます——けれども、天界の最も低い部分にいる天使は、石だらけの岩地のように見える場所に住んでいます。
これらのものもまた対応から生じています。なぜなら、内的なものは高いものに、外的なものは低いものに対応するからです(*6)
ここから、みことばの中で「山」は天的な愛を、「丘」は霊的な愛を、「岩」は信仰を意味します(*7)


*6 みことばの中で内的なものは高いものによって表現され、高いものは内的なものを意味する(2148, 3084, 4599, 5146, 8325)。
「高いもの」は、そしてまた天界は、内なるものを意味する(1735, 2148, 4210, 4599, 8153)。
*7 天界の中に、まったく世の中のように、山・丘・岩・谷・土地が見られる(10608)。
山の上には愛の善にいる天使が住み、丘の上には仁愛の善にいる天使が、岩の上には信仰の善にいる天使が住む(10438)。
それゆえ、みことばの中の「山」によって、愛の善が意味される(795, 4210, 6435, 8327, 8758, 10438, 10608)。
「丘」によって、仁愛の善が意味される(6435, 10438)。
「岩」によって、信仰の善と真理が意味される(8581, 10580)。
岩のもとである「石」は、同様に信仰の真理を意味する(114, 643, 1298, 3720, 6426, 8609, 10376)。
ここから、「山」によって、天界が意味される(8327, 8805, 9420)。
また「山の頂」によって、最高の天界が意味される(9422, 9434, 10608)。
それゆえ、古代人は聖なる礼拝を山の上で行なった(796, 2722)。

天界と地獄

188◀︎目次▶︎190

189 さらにまた社交を避けて、家と家とが離れているところで生活する天使がいます。これらの者は、天使のうちで最良の者であるので、天界の真ん中に住んでいます。

 

天界と地獄

189◀︎目次▶︎191

190 天使が住む家は、世の家のように建てられるのではなく、主により、それぞれの者が善と真理を受け入れるのにしたがって、彼らにただで与えられます——さらにまた、彼らの内的な状態の変化にしたがって、少しずつ変化しています(そのことについては前の154160番)。
天使が所有するどんなものでも、すべては主から受けたものであり、必要とするどんなものでも与えられます。

天界と地獄

190◀︎目次▶︎192

22 天界の空間

191  たとえ天界の中のすべてのものは完全に世の中のように時間と空間の中に見られても、それでも天使は場所と空間の概念や観念を何ももちません。
このことは矛盾のようにしか見えないので、私はこの事柄を光の中で示します、大いに重要であるからです。

天界と地獄

191◀︎目次▶︎193

192  霊界の中で、進むことは内的な状態の変化によって起こり、それで進むことは状態の変化以外のものではありません(*1)――そのようにまた、私は主により天界の中へ、そしてまた宇宙の中の諸地球へ連れて行かれ、このことは霊に関してであって身体は同じ場所にとどまっていました(*2)――すべての天使はこのようにして進み、ここから彼らに距離はありません。距離がないなら、空間もありません、しかし、それらの代わりに状態とその変化があります。


*1 みことばの中で場所と空間は状態を意味する(2625, 2837, 3356, 3387, 7381, 10580)――経験から(1274, 1277, 1376-1381, 4321, 4882, 10146, 10580)。
距離は、いのちの状態の相違を意味する(9104, 9967)。
霊界の中の運動と場所の変化は、いのちの状態の変化である、ここから起こるからである(1273-1275, 1377, 3356, 9440)。
旅立ちも同様である(9440, 10734)。経験からの説明(1273-1277, 5605)。
ここから、みことばの中で「旅出つこと」は、生きること、そしてまた、いのちの前進を意味し、「在留異国人であること」も同様である(3335, 4554, 4585, 4882, 5493, 5605, 5996, 8345, 8397, 8417, 8420, 8557)。
主とともに行くことは、その方とともに生きることである(10567)。
*2 人間は霊に関して、状態の変化を通して、身体をその場所に残して、遠く離れたところへ導かれることができる、経験からもまた(9440, 9967, 10734)。
「霊により他の場所へ連れ去られること」とは何であるか(1884)。

天界と地獄

192◀︎目次▶︎194

193 このように進むので、接近は内的な状態に関する類似であり、遠隔は相違であることが明らかです。ここから、似た状態の中にいる者は近くにいて、相違の状態の中にいる者は離れています、天界の空間は内なる状態に対応する外なる状態でしかありません。
天界が互いに分かれ、さらに天界のそれぞれの社会も、また社会の中のそれぞれの者も分かれているのは、このことからです。またここから、地獄は天界から完全に分離しています、正反対の状態にあるからです。

天界と地獄

193◀︎目次▶︎195

194 さらにまたこの理由から、霊界では、ある者の現在を強く望むだけで、その者が目の前に示されます。なぜなら、こうして彼を思考で見て、自分自身を彼の状態の中に置くからです。逆に言えば、ある者を拒絶するほど、その者は遠ざかります。また情愛の対立から、思考の不一致から、すべての反感があるので、ここから、多くの者が一致しているかぎり一つの場所に見られますが、相違すると直ぐに消えてしまうことが起こっています。

天界と地獄

194◀︎目次▶︎196

195 さらにまた、ある者が、ある場所から他の場所へ進んで行くとき、自分の都の中へであれ、ポーチ(玄関)あるいは庭園へであれ、あるいは自分の社会の外の他の者へであれ、望んでいるときには速く、望んでいないときには遅く到着します。道そのものは願望にしたがって長くも短くもなります、それでも同じものです。このことを私はしばしば見て、驚きました。
ここから再び、隔たりは、したがって空間は、天使のもとの内的な状態に完全にしたがっていること(*3)、またこのようであるので、彼らのもとに世と等しく空間があっても、それでも彼らの思考の中に空間の概念や観念は入れないことが明らかです。


*3 場所と空間は、天使と霊の内的な状態にしたがって見えるように示される(5605, 9440, 10146)。

天界と地獄

195◀︎目次▶︎197

196 このことは人間の思考によって説明することができます。人間の思考の中に空間は存在しません、なぜなら、思考の中で強く考えるものは彼に現在するものかのように示されるからです。
さらにまた熟考する者なら、視覚にも空間がないことに気づいています。地上で同時に見える中間のものから、またはどれだけ離れているか知っているから、空間があると考えるのです。
このことは〔見えるものと視覚との間に〕連続があるからであり、連続の中にあるものは、連続しないものがその途中にないなら遠く離れて見えることはありません。
このことは天使のもとでさらにそうなります。彼らの視覚は彼らの思考とともに働き、思考は情愛と一つであるからです。前に言われたように、彼らの内的な状態にしたがって、近くのものや遠くのものが見られ、また〔その遠近も〕変化するからです。. このことは人間の思考によって説明することができます。人間の思考の中に空間は存在しません、なぜなら、思考の中で強く考えるものは彼に現在するものかのように示されるからです。
さらにまた熟考する者なら、視覚にも空間がないことに気づいています。地上で同時に見える中間のものから、またはどれだけ離れているか知っているから、空間があると考えるのです。
このことは〔見えるものと視覚との間に〕連続があるからであり、連続の中にあるものは、連続しないものがその途中にないなら遠く離れて見えることはありません。
このことは天使のもとでさらにそうなります。彼らの視覚は彼らの思考とともに働き、思考は情愛と一つであるからです。前に言われたように、彼らの内的な状態にしたがって、近くのものや遠くのものが見られ、また〔その遠近も〕変化するからです。. このことは人間の思考によって説明することができます。人間の思考の中に空間は存在しません、なぜなら、思考の中で強く考えるものは彼に現在するものかのように示されるからです。
さらにまた熟考する者なら、視覚にも空間がないことに気づいています。地上で同時に見える中間のものから、またはどれだけ離れているか知っているから、空間があると考えるのです。
このことは〔見えるものと視覚との間に〕連続があるからであり、連続の中にあるものは、連続しないものがその途中にないなら遠く離れて見えることはありません。
このことは天使のもとでさらにそうなります。彼らの視覚は彼らの思考とともに働き、思考は情愛と一つであるからです。前に言われたように、彼らの内的な状態にしたがって、近くのものや遠くのものが見られ、また〔その遠近も〕変化するからです。

天界と地獄

196◀︎目次▶︎198

197.  ここから、みことばの中では場所と空間によって、また空間から何らかのものを得ているすべてのものによって、例えば「隔たり」・「近接」・「遠隔」・「道」・「旅」・「滞在」によって、「ミリオン」・「スタディオン」によって、「平地」・「畑」・「庭園」・「都市」・「街路」によって、「運動」によって、いろいろな種類の「尺度」によって、「長さ」・「広さ」・「高さ」によって、「深さ」によって、他の無数のものによって、状態であるものが意味されます――なぜなら、世から人間のもとの思考の中にある大部分のものは、空間と時間から得た何らかのものであるからです。
みことばの中で、「長さ」・「広さ」・「高さ」が意味するものだけをここに示すことにします。
[2]世では、空間的に長いものや広いものが、長いものや広いものと言われ、高さも同様です。しかし、空間から考えない天界では、「長さ」によって善の状態が意味され、「広さ」によって真理の状態が、また「高さ」によって段階にしたがったそれらの相違が意味されます(それらについては38番)。
このようなものがそれらの三つの尺度によって意味される理由は、天界で長さは、東から西までであり、そこに愛の善の中にいる者がいるからです。また天界で広さは、南から北までであり、そこに善からの真理の中にいる者がいるからです(前の148番参照)。そして天界の中の高さは、段階にしたがった両方のものであるからです。
ここから、みことばの中で「長さ」・「広さ」・「高さ」によって、そのようなものが意味されます――例えば、「エゼキエル書」第40章から第48章には、そこに長さ・広さ・高さに関して測定されて、新しい神殿と新しい地が、玄関・部屋・門・扉・窓・〔都の〕郊外のものとともに記述されていますが、それらによって新しい教会が意味され、またその教会の善と真理が意味されます。そうでなければ何のために、それらのすべてのものが測定されたのでしょうか?
[3]同様に、「黙示録」の中に新しいエルサレムが次のことばで記述されています――

その都は四角形であり、その長さは、幅ほどである。そして都は葦で十二千スタディオンに測られた。そして長さ、幅、高さは等しい(21:16)。

そこの「新しいエルサレム」によって、新しい教会が意味されており、それゆえ、その尺度によって、教会に属すものが意味されます。「長さ」によってその愛の善が意味され、「広さ(幅)」によってその善からの真理が、「高さ」によって段階に関する善と真理が、「十二千スタディオン」によって統一体としてのすべての善と真理が意味されます。そうでなければ、高さが長さと幅のように十二千スタディオンであったことに何の意味があるのでしょうか?
みことばの中で「広さ」によって真理が意味されることは、「ダビデの書」に明らかです――

エホバよ……あなたは私を敵の手の中に閉じ込められなかった、あなたは広い所に私の足を立たされた(詩篇 31:8)。
苦しみのうちから、私はヤーに呼びかけた。私に広い所で答えられた(詩篇 118:5)。

天界と地獄

197◀︎目次▶︎199

198  これらから、世の中のように天界の中に空間が存在しても、それでもそこでは空間にしたがって何も判断されないで、状態にしたがって判断されることを、したがって、そこでは空間は世の中のように測定されることはできないで、状態だけから、彼らの内的な状態だけにしたがって測定されることを知ることができます(*4)


*4 みことばの中で「長さ」は善を意味する(1613, 9487)。
「広さ(幅)」 は真理を意味する(1613, 3433, 3434, 4482, 9487, 10179)。
「高さ」は段階に関する善と真理を意味する(9489, 9773, 10181)。

天界と地獄

198◀︎目次▶︎200

199  まったくの最初の原因そのものは、主がそれぞれの者に、愛と信仰にしたがって現在されることです(*5)、またすべてのものは、その方が現在されることにしたがって、近くに、また遠くに見られます、なぜなら、ここから天界の中のすべてのものが決定されるからです。
さらにまた、その現在によって、天使に知恵があります、というのは、そのことによって彼らの思考が広がり、またそのことによって、天界の中のすべてのものが伝達されるからです。一言でいえば、主が現在されることによって、彼らは、人間のように自然的に考えるのではなく、霊的に考えるのです。


*5 天使のもとの主の結合と現在は、その方からの愛と仁愛の受け入れにしたがっている(290, 681, 1954, 2658, 2886, 2888, 2889, 3001, 3741-3743, 4318, 4319, 4524, 7211, 9128

天界と地獄

199◀︎目次▶︎201

23 天界の形、その形にしたがってそこに交わりと伝達がある

200  天界の形がどんなものかは、前の章で示されたことから、いくらか明らかにすることができます――例えば、天界は最大のものと最小のものの中で天界自体と似ていることです(72)。
ここから、それぞれの社会は小さい形の天界であり、それぞれの天使は最小の形の天界です(51–58)。
全天界はひとりの人間を表わすように、天界のすべての社会は小さい形の人間を表わし、それぞれの天使は最小の形の天界を表わします(59–77)。
真ん中に最も賢い者がいて、周囲には辺境に向かって知恵の少ない者がいます。それぞれの社会の中でも同様です(43)。
天界では東から西にかけて愛の善の中にいる者が住み、南から北にかけて善からの真理の中にいる者が住んでおり、すべての社会の中でも同様です(148, 149)。
それらすべての者は天界の形にしたがっており、それらから天界の形が全般的にどんなものか結論することができます(*1)


*1 天使の社会に関する全天界は、主の神性が天使のもとに天界をつくるので、主によりご自分の神的秩序にしたがって配列されている(3038, 7211, 9128, 9338, 10125, 10151, 10157)。
天界の形について(4040–4043, 6607, 9877)。

天界と地獄

200◀︎目次▶︎202

201  天界の形がどんなものか知ることは重要です、交わっているすべての者がその形にしたがっているだけでなく、すべての伝達もまたその形にしたがっており、すべての伝達はすべての思考と情愛を広げ、したがって、天使の知性と知恵のすべても広がるからです。
ここから、だれかが天界の形の中にいるほど、このように天界の形であればあるほど、それだけ賢明です。
あなたが天界の形の中にいると言っても、あるいは天界の秩序の中にいると言っても、同じことになります、それぞれのものの形は秩序からのものであり、その秩序にしたがっているからです(*2)


*2 天界の形は神的な秩序にしたがった形である(4040-4043, 6607, 9877)。

天界と地獄

201◀︎目次▶︎203

202  ここで最初に、天界の形の中にいることとは何か、いくつか述べておきます。
人間は天界の映像と世の映像に創造されました。その内なるものは天界の映像に、その外なるものは世の映像に創造されたのです(前の57番参照)――〝映像に〟と言っても、あるいは〝形に〟と言っても同じです。
しかし、人間は自分の意志の悪によって、またそこから思考の虚偽によって、自分自身の天界の映像を、したがってその形を破壊し、それに代わって地獄の映像と形を取り入れたので、それゆえ、その内的なものは出生の最初から閉ざされています。これが、人間がすべての種類の動物と異なって、無知そのものの中に生まれていることの理由です――けれども、人間に天界の映像または形が回復されるために、秩序に属すものが教えられなければなりません。なぜなら、前に言われたように、形は秩序にしたがっているからです。
みことばは、神的な秩序のすべての法則を含みます、なぜなら、神的な秩序の法則は、みことばにある戒めであるからです。そこで、人間がそれらを知り、それらにしたがって生きれば生きるほど、それだけ内なるものが開かれます。そしてそこに新たに天界の秩序または映像が形作られます。ここから、天界の形の中にいることとは何か明らかです、すなわち、みことばの中にあるものにしたがって生きることです(*3)


*3 神的真理は秩序の法則である(2447, 7995)。
人間は秩序にしたがって生きるほど、このように神的真理にしたがって善の中に生きれば生きるほど、それだけ人間である(4839, 6605, )。
人間の中に神的な秩序のすべてのものが集められており、人間は創造から神的秩序の形をしている(3628, 4219, 4222, 4223, 4523, 4524, 5114, 6013, 6057, 6605, 6626, 9706, 10156, 10472)。
人間は善と真理の中に生まれていないで、悪と虚偽の中に、このように神的な秩序に反するものの中に、ここから無知そのものの中に生まれている。それゆえ、新たに生まれること、すなわち、再生することが必要であり、それは主からの神的真理によって行なわれ、〔これは〕秩序の中へ入れられることである(1047, 2307, 2308, 3518, 3812, 8480, 8550, 10283, 10284, 10286, 10731)。
主が人間を新たに形成するとき、すなわち、再生させるとき、彼のもとのすべてのものは秩序にしたがって配列され、それは天界の形である(5700, 6690, 9931, 10303)。

天界と地獄

202◀︎目次▶︎204

203  ある者が天界の形の中にいればいるほど、それだけ天界の中に、それどころか、それだけ最小の天界の形の中にいます(57)。それで、それだけ知性と知恵の中にいます。なぜなら、前に言われたように、彼の理解力であるすべての思考は、また彼の意志であるすべての情愛は、彼の形にしたがって天界の中のあらゆる方向へ広がり、不思議にもそこの社会へと伝達し、また逆にその社会の思考と情愛は彼へ伝達されるからです(*4)
[2]〝思考と情愛は実際には自分の周囲に広がらずに、自分の内にある〟と信じている者がいます。そう信じる理由は、考えるものを自分自身の内部で見て、遠く離れたもののように見ていないからです。しかし、その者は大いに欺かれています――なぜなら、目の視覚の広がりは、遠く離れたものにまであり、それらの順序にしたがって、それらを広がりの中で見て、働きかけられます。理解力である内的な視覚もまた、このように霊界の中に広がります、たとえそのことを前の理由(196)から知覚していなくてもそうです――相違はただ、目の視覚が自然的に、自然界の中のものから働きかけられますが、理解力の視覚は霊的に、霊界の中に存在するものから働きかけられ、それらはすべて善と真理に関係することだけにあります――このようであることを人間が知らないのは、理解力を照らす何らかの光が存在することを知らないからです、そのときそれでも人間は理解力を照らす光がなくては、まったく何も考えることができません。その光については前に述べました(126-132)。
[3]ある霊がいて、その霊は、〝自分自身から考えるのであって、自分自身の外の広がるものは何もない、自分の外の社会と伝達するものはない〟と信じていました。
虚偽の中にいることを彼に知らせるために、最も近い社会との伝達が彼から取り去られました。このことから、彼は思考を奪われただけでなく、生命がなくなったかのように倒れ、生まれて間もない幼児のように腕をバタバタ動かすだけでした――いくらか時が経過した後、彼に伝達が回復され、回復されるにしたがって、彼の思考が戻りました。
[4]これを見た他の霊は、すべての思考と情愛は伝達にしたがって流入すること、またすべての思考と情愛が流入するので、さらにまたすべてのいのちも流入することをあとから容認しました。人間のいのちは、考えることと感じることができることから、あるいは同じことですが、理解することと意志することができることから成り立っているからです(*5)


*4 いのちの伝達は、これはいのちの拡大と呼ばれることができ、天界のそれぞれの者に、善の量と性質にしたがって、天使の周囲の社会の中にある(8794, 8797)。
思考と情愛にこのような拡大がある(2475, 6598-6613)。
それらは支配する情愛にしたがって結合され、分離される(4111)。
*5 唯一のいのちが存在し、そのいのちから天界も地上もすべてのものが生きる(1954, 2021, 2536, 2658, 2886-2889, 3001, 3484, 3742, 5847, 6467)。
そのいのちは、主おひとりからのものである(2886-2889, 3344, 3484, 4319, 4320, 4524, 4882, 5986, 6325, 6468, 6469, 6470, 9276, 10196)。
天使・霊・人間のもとに驚くべき方法で流入する(2886-2889, 3337, 3338, 3484, 3742)。
主はご自分の神的愛から流入され、それは、自分自身にあるものが、他の者にもあるようにと欲するような愛である(3472, 4320)。
それゆえ、いのちは流入するのではなく、人間の中にあるように見える(3742, 4320)。
私への会話を通して知覚され、強められた天使たちの楽しみについて、その楽しみは自分自身から生きることでなく、主から生きることである(6469)。
悪い者は、いのちが流入することを納得しようとしない(3743)。
主からのいのちは、悪い者にもまた流入する(2706, 3743, 4417, 10196)。
しかし、彼らは善を悪に、真理を虚偽に変える、なぜなら、どのような人間かによって、そのようないのちを受け入れるから、その説明(4319, 4320, 4417)。

天界と地獄

203◀︎目次▶︎205

204  しかし、それぞれの者のもとの知性と知恵は、伝達にしたがって変化することを知らなくてはなりません。知性と知恵が本物の真理と善から形作られている者に天界の形にしたがった社会との伝達があります。けれども、知性と知恵が本物の真理と善から形作られていなくて、それでもそれらと一致するようなものから形作られている者に伝達は解消されており、彼らはいろいろな方法で結びついています、なぜなら、天界の形をしている社会と連続していないからです――けれども、悪からの虚偽の中にいるので、知性と知恵の中にいない者に地獄の中の社会との伝達があり――それはどれだけ確信したかにしたがって広がります。
さらに、社会との伝達は、そこにいる者の知覚に明らかとなるような伝達ではなく、そこにいる者の性質とその性質からのものとの伝達であることを知らなくてはなりません(*6)


*6 思考は周囲の霊と天使の社会の中に広がる(6600-6605)。
それでも、〔その〕社会の思考を動かしも、乱しもしない(6601, 6603)。

天界と地獄

204◀︎目次▶︎206

205  天界の中のすべての者は、霊的な親族関係にしたがって仲間となります。その関係は秩序の中にある善と真理に属すものであり、したがって全天界の中に、それぞれの社会の中に、それぞれの家の中にあります。ここから、類似の善と真理の中にいる天使たちは、地上の血族や親族のように、幼児期からよく知っていたかのように、お互いを認めます。
同様に、知恵と知性をつくる善と真理も、それぞれの天使のもとで仲間となります。同様に、お互いを認め、お互いを認めるほどさらにまた互いに結合します(*7)
それゆえ、善と真理が天界の形にしたがって結合している者は、連続したものの中にその結果を見ており、また周囲に広く、どのように結びついているかを見ています。善と真理が天界の形にしたがって結合していない者は異なります。


*7 善はそれ自体の真理を認め、そして真理はそれ自体の善を認める(2429, 3101, 3102, 3161, 3179, 3180, 4358, 5704, 5835, 9637)。
ここから善と真理の結合がある(3834, 4096, 4097, 4301, 4345, 4353, 4364, 4368, 5365, 7623-7627, 7752-7762, 8530, 9258, 10555)。
また、これは天界の流入からのものである(9079)。

天界と地獄

205◀︎目次▶︎207

206  それぞれの天界の中の形はこのようであり、それにしたがって天使に思考と情愛の伝達と広がりがあり、このようにそれにしたがって彼らの知性と知恵があります。しかし、ある天界と他の天界との伝達は別です、すなわち、第三の天界または最内部の天界と第二の天界または中間の天界との伝達、またその二つの天界と第一の天界または最も低い天界との伝達です――けれども、天界の間の伝達は、伝達と言われてはなりません、流入と言うべきです。
このことについて、今から述べます。三つの天界があり、それらは互いに区別されることは、前の章で述べました(29-40)。

天界と地獄

206◀︎目次▶︎208

207  ある天界と他の天界との伝達は、伝達でなく、流入であることは、それらの互いの位置から明らかにすることができます――第三の天界または最内部の天界は上に、第二の天界または中間の天界は下に、第一の天界または最も低い天界はさらに下にあります――それぞれの天界の社会もすべて似ていて、例えば、高い場所にある社会は山のように見られ(188)、その頂上に、最内部の天界の社会に属す者が、その下に第二の天界の社会に属す者が、その下に最も低い天界の社会に属す者が住んでいます。どこでも、高い場所でも高くない場所でも、このようです――高い天界の社会には、対応による以外には、低い天界の社会との伝達手段がありません(前の100番参照)、対応による伝達は流入と呼ばれます。

天界と地獄

207◀︎目次▶︎209

208  ある天界は他の天界と、あるいは天界のある社会は他の社会と、主おひとりにより、直接的な流入と間接的な流入によって結合されています。直接的には主ご自身により、また間接的には高い天界を通って秩序をもって低い天界へ流入することによってです(*8)
流入を通しての天界の結合は主おひとりによるものであるので、それゆえ、高い天界の天使のだれかが低い天界の社会を見おろし、そこのだれかと話すことがないよう、最大限に警戒されています――このことが行なわれると直ぐに、天使は自分の知性と知恵を奪われます。
その理由も述べます――天界に三つの段階があるように、それぞれの天使に、いのちの三つの段階があります。最内部の天界の中にいる者には、第三の段階または最内部の段階が開かれ、第二と第一の段階は閉ざされています。中間の天界にいる者には、第二の段階が開かれ、第一と第三の段階は閉ざされています。最も低い天界にいる者には、第一の段階が開かれ、第二と第三の段階は閉ざされています――そこで第三の天界の天使が第二の〔天界の〕社会を見おろして、そこのだれかと話すと直ぐに、彼の第三の段階は閉ざされます。それが閉ざされることで、自分の知恵を奪われます、なぜなら、彼の知恵は第三の段階の中にあって、第二と第一の段階の中には何もないからです。
これらのことが「マタイ福音書」の主のことばによって意味されるものです――

屋上にいる者は、自分の家の中にあるものを取るために降りてはなりません。畑にいる者は、自分の着物を取るために後ろに戻ってはなりません24:17, 18)。

また「ルカ福音書」には――

その日には、屋上にいて、家の中に自分の器がある者は、それを取り上げるために降りてはなりません。畑にいる者は、自分の後ろへ戻ってはなりません。ロトの妻を思い出しなさい17:31, 32)。


*8 流入は、主からの直接的なものがあり、天界を通って間接的なものがある(6063, 6307, 6472, 9682, 9683)。
主の直接的な流入は、すべての最も個々のものの中へである(6058, 6474-6478, 8717, 8728)。
天界を通っての主の媒介的な流入について(4067, 6982, 6985, 6996)。

天界と地獄

208◀︎目次▶︎210

209  低い天界から高い天界への流入は、秩序に反するので存在しませんが、高い天界から低い天界へは存在します。
さらにまた、高い天界の天使の知恵は、低い天界の天使の知恵に、一に対する一万のように、まさっています。このこともまた、低い天界の天使が高い天界の天使と会話することができないことの理由です。それどころか、低い天界の天使がその場所をb見ても、彼らを見ません。彼らの天界は頭上のもやのように見えます――しかし、高い天界の天使は低い天界にいる天使を見ることができますが、彼らと話しを交えることは許されません、前に述べたように、そうするなら、そのとき自分の知恵を奪われます。

天界と地獄

209◀︎目次▶︎211

210   最内部の天界の天使の思考と情愛は、さらに話すことは、中間の天界では決して知覚されません、それほどにも超越したものであるからです。しかし、主が喜ばれるとき、最内部の天界から低い天界へ炎のようなものが現われ、中間の天界の炎が最の低い天界の中へ光のように現われ、時々は、輝いたいろいろな色の雲として現われます。その雲の上昇・下降・形から、そこに何が話されているかほんの少しだけ知られます。

天界と地獄

210◀︎目次▶︎212

211  これらから、天界の形がどんなものであるか明らかにすることができます。すなわち、最内部の天界の中では、すべてのものが最も完全であり、中間の天界の中でもまた完全ですが、低い段階にあって、また最も低い天界では、完全性はさらに低い段階にあります。ある天界の形は、主による流入によって他の天界の形から存続します。
しかし、流入による伝達がどんなものかは、〝高さの段階〟がどんなものであるか、またそれらの段階は〝長さと広さの段階〟と何が相違しているか知られないかぎり、理解されることはできません。前者と後者の段階がどんなものであるかは38番に述べました。

天界と地獄

211◀︎目次▶︎213

212  天界の形についての詳細は、その形がどのように進み、流れ出るかは、天使にも理解できないことです。
鋭敏で知恵のある者により観察され、研究された人間の身体の中のすべてのものの形によって、ある程度、把握できるでしょう、なぜなら、前の章の中に全天界はひとりの人間を表わすこと(59-72番参照)、また人間の中のすべてのものは天界に対応すること(87-102番)を示しておいたからです。
その形が、どれほど理解しがたい、込み入ったものであるかは、すべてと個々のものが織り交ぜられている神経繊維から、ただ全般的にだけですが明らかです。
神経繊維がどんなものであるか、またどのように脳の中を進み、流れ出るかは、決して目に見えません、なぜなら、そこには、一緒に集まって、連続する柔らかい塊りのように見える織り合わさった無数のものがあるだけだからです。そのときそれでも意志と理解力に属すすべてと個々のものは、それらにしたがって最も明瞭な行動となります。
どのようにそれらの繊維が再び身体の中でつながっているかは、いろいろな網状構造から明らかです、例えば、心臓・腸間膜・その他の網状構造です。すべての領域から多くの繊維が入り込み、内部で混ざり合い、また結合を変えて、機能するために出て行きます、このことが再三繰り返されますが、それはガングリオンと呼ばれる結節からもまた明らかです。他にも、内臓・四肢・器官・筋肉のそれぞれに同様のものがあります。
知恵の目でそれらの繊維を、そこに多くの驚くべきものを調べる者は、すべての点で唖然とするでしょう。それでも、目に見えるものはほんの少しです。目に見えないものは、自然の内的なものの中にあるので、さらに驚くべきものです。
その形が天界の形に対応することは、理解力と意志のすべてのものが形の中にあって、形にしたがって働くことから明らかです。なぜなら、人間が欲するものは何でも、形にしたがって自発的に行動へと変わり、考えるものは何でも、その最初のものから最後のものまで繊維に伝わり、そこから感覚へ広がるからです。また思考と意志の形であるので、知性と知恵の形です。
これが天界の形に対応する形です――ここから、天使のすべての情愛と思考は、形にしたがって広がるようなものであること、またその形の中にいればいるほど、それだけ知性と知恵の中にいることを知ることができます。
天界の形は主の神的人間性からであることは、前に述べました(78-86番)。
これらのことを示したのは、天界の形がこのようなものであること、その全般的なものについても決して究めることができないようなものであること、またこうして、前に述べたように、天使にもまた理解できないものであることが知られるためです。

 

天界と地獄

212◀︎目次▶︎214

24 天界の統治

213  天界は社会に分かれ、大きな社会は数十万の天使から成り立ち(50)、ある社会の中で、すべての者は似た善の中にいても、似た知恵の中にいないので(43)、必然的に統治もまた存在することになります。秩序が守られ、秩序のすべてが遵守されなければならないからです。
しかし、天界の統治はいろいろです。主の天的な王国を構成する社会と主の霊的な王国を構成する社会とでは別ものです。さらにまた、それぞれの社会の機能にしたがっても異なります。
しかし、天界の中に相互愛の統治以外の統治は存在しません、相互愛の統治が天界の統治です。

天界と地獄

213◀︎目次▶︎215

214  主の天的な王国の統治は公正(義)と呼ばれ、そこのすべての者は、主からの愛の善の中に、主への愛の善の中にいて、その善からのものは公正(義)と呼ばれるからです。そこの統治は主おひとりのものであり、主が彼らを導き、生活の事柄を教えられます――審判に属すものと呼ばれる真理は、彼らの心に記されていて、それぞれの者が真理を知り、知覚し、見ています(*1)。そのために、審判の事柄はそこでは決して言い争われないで、生活に属すものである公正の事柄が論じられます――それほど賢明でない者はこのことについて賢明な者にたずね、またその者は主にたずねて、返答がもたらされます。彼らの天界、すなわち、彼らの最内部の楽しさは、主から公正に生きることです。


*1 天的な天使は、主により真理に属すすべてのものの知覚の中にいるので、霊的な天使のように真理から考えず、真理から話さない(202, 597, 607, 784, 1121, 1384, 1398, 1442, 1919, 7680, 7877, 8780, 9277, 10336)。
天的な天使は真理について、「そう、そう」、あるいは、「いいえ、いいえ」、と言う。しかし、霊的な天使は、それらについて、「そうであるか、そうではないか」と推論する(2715, 3246, 4448, 9166, 10786)。そこに主のことばが説明されている、「あなたがたの言葉は、『はい、はい』、『いいえ、いいえ』でありなさい。これらを超えるものは、悪からです」(マタイ5:37)。

天界と地獄

214◀︎目次▶︎216

215  主の霊的な王国の統治は審判と呼ばれます。なぜなら、彼らは隣人に対する仁愛の善である霊的な善の中にいて、この善は本質的に真理であり(*2)、真理は審判に属し、善は公正に属すからです(*3)
これらの者もまた主により導かれますが、しかし、間接的にです(208)。それゆえ、彼らが住んでいる社会の必要にしたがって、少数のまた多くの統治者がいます。
彼らには法律もあり、それにしたがって自分たちの間で生きます。
統治者はすべてを法律にしたがって執行します。彼らは賢明であり、疑わしい事柄では主から照らされるので、法律を理解しています。


*2 霊的な王国にいる者は真理の中にいる、天的な王国の中の者は善の中にいる(863, 875, 927, 1023, 1043, 1044, 1555, 2256, 4328, 4493, 5113, 9596)。
霊的な王国の善は隣人に対する仁愛の善であり、この善は本質的に真理である(8042, 10296)。
*3 みことばの中で「公正(義)」は善について言われ、「審判」は真理について言われ、ここから「公正(義)と審判を行なうこと」は善と真理である(2235, 9857)。
「大いなる審判」とは神的な秩序の法則であり、そのように神的な真理である(7206)。

天界と地獄

215◀︎目次▶︎217

216.  善からの統治は、主の天的な王国の中にあるようなものであり、公正(義)と呼ばれ、真理からの統治は、主の霊的な王国の中にあるようなものであり、審判と呼ばれるので、それゆえ、みことばの中で「公正(義)と審判」と言われ、そこには天界と教会について扱われています。「公正(義)」によって天的な善が意味され、「審判」によって霊的な善が意味され、その善は、前に言われたように、その本質では真理です。
例えば、次の箇所では――

ダビデの王座の上に、その方の王国の上に、平和は終わりがない、今から永遠にまで、審判と公正(義)の中で、それを確立し、それを支えるためにイザヤ 9:6)。

ここの「ダビデ」によって主が意味され(*4)、また「その方の王国」によって天界が意味され、これは次の箇所からも明らかです――

わたしはダビデに正しい若枝を起こす。王が支配し、知的に行動し、地に審判と公正(義)を行なうエレミヤ 23:5)。
エホバは高められる、高いところに住まわれるからである。シオンを審判と公正(義)で満たされるイザヤ 33:5)。

「シオン」によってもまた天界と教会が意味されます(*5)

わたしは、地に……審判と公正(義)を行なうエホバ〔である〕、なぜなら、これらのことを、わたしは喜ぶからエレミヤ 9:24)。

わたしは永遠にあなたと婚約する、わたしはあなたと公正と審判の中で婚約するホセア2:19)。
天界の中におられるエホバ……あなたの公正は神の山のよう、あなたの審判は大きな深淵のようです詩篇 36:6, 7)。
彼らはわたしに公正な審判をたずね、神への接近を望むイザヤ58:2)。

また他の箇所に。


*4 みことばの預言の中で「ダビデ」によって主が意味される(1888, 9954)。
*5 みことばの中の「シオン」によって教会が、特に天的な教会が意味される(2362, 9055)。

天界と地獄

216◀︎目次▶︎218

217  主の霊的な王国にいろいろな形の統治があり、ある社会の中のものは他の社会のものと同様ではありません――それらの社会が果たす機能にしたがって変化があります。
それらの機能はそれに対応する人間の中のすべての機能にしたがっており、それらがいろいろであることが知られています。というのは、あるものは心臓の機能に、あるものは肺に、あるものは肝臓に、あるものは膵臓と脾臓に、あるものは感覚器官のそれぞれの機能に対応するからです。
身体の中にこれらのいろいろな統制があるように、〝最大の人〟の中の社会にもまたいろいろな統制があります。
天界のすべてのものが人間のすべてのものと対応することは、その章の中に述べました(前の87~102)。
しかし、その中の統治のすべての形は、目的として公けの善を目指し、その公けの善の中のそれぞれの善を目指すことで一致しています(*6)。このことが生じるのは、全天界の中のすべての者は、すべての者を愛する主の導きのもとにあり、神的愛から共通の善が存在し、その共通の善から個々の者が自分自身の善を受けるように整えられるからです。それぞれの者もまた公共の善を愛するかぎり、善を受けます。なぜなら、だれかが共通のものを愛すれば愛するほど、それだけすべての者と個々の者を愛するからです――それは主の愛であるので、それゆえ、それだけ主により愛され、彼に善が生じます。


*6 すべての人間と社会は、さらに祖国と教会は、普遍的な意味で主の王国は隣人である。隣人の状態がどんなものかにしたがって、善の愛から彼らに善を行なうことが隣人を愛することである。そのようにそれらの善が隣人であり、考慮しなくてはならない共通の善でもある(6818-6824, 8123)。
公正である公民的な善もまた隣人である(2915, 4730, 8120-8123)。
ここから、隣人に対する仁愛は人間の生活のすべてと個々のものにまでひろがっており、どんな職務でも、またすべての働きで、善と真理への愛から善を愛して、そしてまた公正への愛から公正を愛して、善を行なうことは隣人を愛することである(2417, 8121-8124)。

天界と地獄

217◀︎目次▶︎219

218  これらから、どのような者が統治者であるか明らかにすることができます。すなわち、彼らは他の者にまさって愛と知恵の中にいて、このように愛からすべての者に善を欲し、知恵から善が生じるように備えることを知っています。
このようである者は、支配も統制もしないで、仕え、奉仕します、なぜなら、善の愛から他の者に善を行なうことは奉仕することであり、善が生じるように備えることは仕えることであるからです。彼らは自分自身を他の者より偉大としないで劣る者とします、なぜなら、社会と隣人の善を第一の場所に置き、自分自身の善を後回しにするからです。第一の場所にあるものは偉大とされ、後回しにされるものは劣るとされます。
それでも、彼らに敬意と栄誉があり、社会の真ん中に、他の者よりも高いところに、荘厳な宮殿に住んでいます。さらにまた、この栄誉と敬意を受けているのは、自分自身のためではなく、従順のためです――そこのすべての者は、その敬意と栄誉は主から自分たちにあり、それゆえ、従順でなければならないことを知っているからです。
これらのことが、弟子たちへの主のことばによって意味されるものです、

あなたがたの間で、だれでも偉大になりたい者は、あなたがたの仕える者でありなさい。あなたがたの間でだれでも最初でありたい者は、あなたがたのしもべです。人の子が来たのは仕えられるためではなく、仕えるためであるからですマタイ20:26, 27, 28)。
あなたがたの間で最大の者は最小の者のようでありなさい、導く者は仕える者のようですルカ 22:26)。

天界と地獄

218◀︎目次▶︎220

219  最小の形に似た統治が、それぞれの家の中にもまたあります――そこには主人がいて、召使いがいます。主人は召使いを愛し、召使いは主人を愛し、それゆえ、愛から互いに仕えます。主人はどのように生活すべきかを教え、何を行なうべきか言います。召使いは服従し、任務を果たします――役立ちを果たすことは、すべての者の生活の快さです。
ここから、主の王国は役立ちの王国であることが明らかです。

天界と地獄

219◀︎目次▶︎221

220  地獄にもまた統治があります、なぜなら、もし統治がないなら、抑制の中に保たれないからです。しかし、そこの統治は天界の統治と正反対です。すべてのものが自己愛からのものです。そこのだれもが他の者を支配し、他の者に卓越することを欲します。自分に賛同しない者を憎み、彼らに復讐を行ない、彼らに激怒します。なぜなら、このようものが自己愛であるからです――それゆえ、悪意のある者が彼らの上に統治者として置かれ、彼らは恐怖からその者に服従します(*7)
しかし、このことについてはあとで、地獄についてのところで述べます。


*7 二種類の支配がある、一つは隣人に対する愛から、もう一つは自己愛からの支配である(10814)。
隣人に対する愛からの支配から、すべての善と幸福がある(10160, 10814)。
天界の中では、だれも自己愛から支配することを欲しないで、すべての者は仕えることを欲する。このことは隣人に対する愛から支配することであり、ここから彼らに大きな力がある(5732)。
自己愛からの支配から、すべての悪がある(10038)。
自己愛と世俗愛が支配し始めた後、人間は、安全であるようにと、支配する者に対して自分自身に服従を強いた(7364, 10160, 10814)。

天界と地獄

220◀︎目次▶︎222

25  天界の神礼拝

221 天界の神礼拝(神の礼拝)は外なるものに関して地上の神礼拝に似ていますが、内なるものに関しては異なります。天界には、地上と等しく、教え・説教・神殿があります。
教えは、本質的な部分に関して一致していますが、高い天界のものには低い天界のものよりもさらに内的な知恵があります——説教は、教えにしたがって行なわれます——天界に家や宮殿があるように(183190番)、神殿もまたあって、その中で説教が行なわれます。
このようなものが天界にもまたあるのは、天使は知恵と愛を絶えず完成させられるからです。人間のように彼らにも等しく理解力と意志があり、理解力は絶えず完成されることができるようなものであるからであり、意志も同様です。理解力は知性のものである真理によって、また意志は愛のものである善によって絶えず完成されます。

天界と地獄

221◀︎目次▶︎223

222 けれども、天界の神礼拝そのものは、神殿をしばしば訪れること、また説教を聴くことではなく、教えにしたがった愛の生活・仁愛の生活・信仰の生活にあります。神殿での説教は、生活の事柄を教える手段のためにだけ役立ちます。
私はこれらの事柄について天使と話して、彼らに、「世では神礼拝は、神殿をしばしば訪れ、説教を聴き、毎年、三回あるいは四回の聖餐の礼典に出席し、教会の法令にしたがって礼拝し、祈りの時間を持つこと、その時、信心深く振る舞うことだけであると信じられています」と言いました。
天使は、「それらのことは行なわなくてはならない外なるものです、しかし、内なるものがないなら、その行為となって出てくるものには何も効力がありません。内なるものとは教えにある戒めにしたがった生活です」と言いました。

天界と地獄

222◀︎目次▶︎224

223 私は神殿の中での彼らの集会がどんなものであるか知るために、何度か、そこに入り、説教を聴くことがありました。
説教者は東の講壇に立ちます。彼の目の前には、他の者にまさる知恵の光の中にいる者が座り、その脇の右と左に、少ない知恵の光の中にいる者が座ります。すべての者が説教者の視野の中にあるように、輪の形に着席し、彼の視野が届かない両脇には、だれもいません。
神殿の東にある講壇の左側の入り口に、教えについての初心者たちが立ちます——だれも講壇の後ろに立つことは許されません。もし、だれかがそこにいると、説教者は混乱します。また、集会の中のだれかが意見を異にしても、同様であり、それゆえ、その者は顔を背けなければなりません。
説教には、世の説教とは比べものにならないような知恵があります。なぜなら、天界の中では、内的な光の中にいるからです。

天界と地獄

223◀︎目次▶︎225

224  さらにまた私は、神殿で説教を聴く者が感じる聖性(聖なるもの)について、ある説教者と話しま した。彼は、「それぞれの者に、愛と信仰のものである彼の内的なものにしたがって、敬虔さ・信心深さ・ 聖性があります。それは、愛と信仰の中に聖性そのものがあり、その聖性の中には主の神性があるからです」 と言い、また、「内的なもののない外なる聖性が何かは知りません」と言いました——また、内的なものの ない外なる聖性について考えたとき、「おそらく、外見あるいは技術で獲得したもの、あるいは偽善によって、 聖性を偽る何らかのものであり、自己愛と世俗愛からの何らかの偽りの火がこのようなものをひき起し、現 わすのでしょう」と言いました。

 

天界と地獄

224◀︎目次▶︎226

225  すべての説教者は主の霊的な王国の者であり、天的な王国の者はだれもいません。霊的な王国の者であることは、そこにいる者は善からの真理の中にいて、真理からすべての説教が行なわ れるからです——天的な王国の者がだれもいないことは、そこにいる者は愛の善の中にいて、その善から真理を見て、知覚しますが、それらの真理については話さないからです。
天的な王国の中にいる天使は、たとえ真理を知覚し、見ていても、それでもそこに説教が行なわれます、 説教によって、知っている真理を照らされ、また、以前に知らなかった多くのものにより完全にされるから です。説教を聴くと直ぐに、それらを認め、こうして知覚します。知覚した真理をさらにまた愛し、それらにしたがって生きることによって、その真理を自分のいのち(生活)のものとします。彼らは、「真理にしたがって生きることは主を愛することです」と言っています。

天界と地獄

225◀︎目次▶︎227

226 すべての説教者は主により任命され、それゆえ、説教の賜物を与えられています。
彼ら以外の者 に神殿で教えることは許されません。
彼らは説教者と呼ばれ、祭司とは呼ばれません。
祭司と呼ばれない理由は、天界の祭司職は天的な王国であるからです。祭司職は主への愛の善を意味し、 その善の中にその王国の者がいるからです——けれども、天界の王権は霊的な王国です。王権は善からの真理を意味し、その真理の中にその王国の者がいるからです(前の24番参照)。

天界と地獄

226◀︎目次▶︎228

227 教えはすべて、生活を目的とし、生活を伴わない信仰を何ら目的としていません。説教はその教 えにしたがって行なわれます。
最内部の天界の教えは、中間の天界の教えよりも知恵に満ちており、中間の天界の教えは最も低い天界の 教えよりも知性に満ちています。教えはそれぞれの天界の中の天使の知覚に適するものであるからです。
すべての教えで、その本質的なものは、主の神的人間性を認めることです。

天界と地獄

227◀︎目次▶︎229

26 天界の天使の力

228  天使に力があることは、霊界について、また自然界へのその流入について、何も知らない者に理解することができません。彼らは、天使は霊的であり、決して目で見ることができないように、それほどに純粋で希薄であるので、天使に力はありえない、と考えます――しかし、物事の原因の内なるものを調べる者は、これと異なって感じています。彼らは、人間にあるすべての力は理解力と意志から存在する、と知っています、なぜなら、それらがなくて、人間は身体の小部分すら動かすことができないからです。
理解力と意志が彼の霊的な人です。霊的な人が、身体とその四肢を意のままに動かします。なぜなら、霊的な人の考えることを口と舌が話し、意志することを身体が行ない、霊的な人は力もまた意のままに与えるからです。
人間の意志と理解力は、主により天使と霊を通して支配されています。意志と理解力が支配されているので、それらからのものである身体のすべてのものもまた支配されています――もし、あなたがたに信じるつもりがなくても〔注「なくても」を付加した〕、人間は天界の流入がなくては一歩も動くことができません。
このようであることを、私は多くの経験から示されました――天使に、私の歩み・私の行動・私の舌と話すことを思ったように動かすことが与えられ、このことは私の意志と思考の中への流入によってなされました。私は、自分からは何もできないことを経験したのです。
その後、彼らは、「それぞれの人間はこのように支配されています。このことは教会の教えとみことばから知ることができます」と言いました。なぜなら、「神がご自分の天使を送られ、その天使が私たちを導き、歩みを支配し、教え、何を考え、何を語るか吹き込んでくださいますように」と、その他多くのこともまた、このように祈るからです。たとえ、教えを離れて、自分自身で考えるとき、これと異なって言い、信じていても〔そうします〕。
これらのことを述べたのは、人間のもとの天使にどのような力があるか知られるためです。

天界と地獄

228◀︎目次▶︎230

229  けれども、霊界の中での天使の力は、私により見られたそれらすべてのものを公けにするなら、信じられないほどのものです。
神的な秩序に反するので取り除かなくてはならない何かがあって、もし抵抗するなら、意志を働かせて、見つめることだけで、それは投げ捨られ、ひっくり返されます――私は、悪い者により占められていた山々が、このように投げ捨てられ、ひっくり返され、時には、一方の端からもう一方の端へ、地震かのように、揺り動かされるのを見ました。岩もまた、真ん中が深みへと開かれ、その上にいた悪い者が、のみ込まれ――さらにまた、天使により、数十万の悪い霊が地獄に追い散らされ、投げ込まれるのを見ました――天使に対して数が多いことや、たくらみ・策略・同盟などは、まったく力となりません。天使は、すべての者を見て、一瞬で追い散らします。
しかし、これらについて多くのことは『〔最後の審判と〕滅ぼされたバビロニア』について語ったものの中に見られます。
霊界の中では天使にこのような力があります。
さらにまた許される時、自然界の中でも同様の力があることは、みことばから明らかです。例えば、全軍隊を絶滅させること、疫病をひき起こし、そのことから七万(七十千)の人間が死んだことです。その天使について、次のように書かれています――

天使は自分の手をエルサレムに対して、これを滅ぼすために伸ばした。しかし、エホバは悪を悔いられて、民を滅ぼしている天使に言った、「十分である、今、あなたの手を戻せ」。〔……〕ダビデは、民を打った天使を見たサムエル記Ⅱ24:16, 17)。

その他にも。
天使にこのような力があるので、それゆえ、力と言われます。「ダビデの書」にあります、

エホバを祝福せよ。力強さで最も力ある天使たち詩篇 103:20)。

天界と地獄

229◀︎目次▶︎231

230  しかし、天使には彼ら自身からはまったく力がなく、彼らの力はすべて主からのものであることを知らなくてはなりません。天使は、そのことを認めれば認めるほど、それだけ力があります――彼らのうちで、力が自分自身からあると信じる者は、直ちに、ひとりの悪霊にさえ抵抗できないほどに弱くなります。これが、天使は功績を自分自身にまったく帰さないこと、何かを行なったことによるすべての称賛と栄誉を拒絶すること、それらを主に帰することの理由です。

天界と地獄

230◀︎目次▶︎232

231  主から発出する神的真理に天界の中のすべての力があります、なぜなら、天界の中の主は神的善に結合した神的真理であられるからです(126-140番参照)。天使にはその真理を受け入れれば受け入れるほど、それだけ力があります(*1)
それぞれの者はその者の理解力と意志がどのようなものであるかによるので、それぞれの者もまたそれ自身の真理とそれ自身の善です。理解力は、そのすべてが真理からのものであるので、真理のものであり、意志は、そのすべてが善からのものであるので、善のものです。なぜなら、だれでも、理解するものを真理と呼び、意志するものを善と呼ぶからです。ここから、それぞれの者は、それ自身の真理であり、それ自身の善です(*2)――それで、天使は神性からの真理と神性からの善となればなるほど、それだけ彼のもとに主が存在するので、それだけ力となります――だれも他の者とまったく同じようなまたは同一の善と真理の中にいないので、なぜなら、天界には世のように絶え間のない不断の変化があるからであり(20番)、それゆえ、ある天使は他の天使と同じの力の中にいません。
〝最大の人〟の中で、すなわち、天界の中で、腕を構成する者たちは最大の力の中にいます、その理由は、そこにいる者は他の者にまさって真理の中にいて、その真理の中へ全天界から善が流入するからです。人間の全部の力もまた腕の中へ移り、腕によって全身はその力を行使します――ここから、みことばの中では「腕」によって、また「手」によって、力が意味されます(*3)
天界では、時々、裸の腕が見られ、その腕にはすべての障害物を、たとえ地上の岩石であったとしても、粉砕することができるほどの力があります。かつて、その腕が私にもまた向けられたことがあります。私は、その腕が私の骨をこなごなに砕くことができる、とわかりました。


*1 天使は「力」と呼ばれ、主から神的真理を受け入れるので力がある(9639)。
天使は主からの神的真理の容器であり、それゆえ、みことばのあちこちで「神々」と言われる(4295, 4402, 7378, 8192, 8301, 9160)。
*2 人間と天使は自分自身の善と真理であり、そのように自分自身の愛と信仰である(10298, 10367)。
自分自身の理解力と自分自身の意志であるのは、すべてのいのち(生活)はここからであり、意志に属し、真理のいのち(生活)は理解力に属すからである(10076, 10177, 10264, 10284)。
*3 〝最大の人〟、すなわち、天界との手・腕・肩の対応について(4931-4937)。
みことばの中の「腕」と「手」によって力が意味される(878, 3091, 4932, 4933, 6947, 10019 )。

天界と地獄

231◀︎目次▶︎233

232  主から発出する神的真理にすべての力があること、また天使が主からの神的真理を受け入れれば受け入れるほど、それだけ彼らに力があることは、前に述べました(137)――しかし、天使は神的善を受け入れれば受け入れるほど、それだけ神的真理を受け入れます。なぜなら、すべての力は善からの真理にあり、善のない真理にはないからです。すべての力もまた真理を通して善にあり、真理のない善にはありません。両者の結合から力が存在するようになります。
信仰と愛についても同様です。なぜなら、真理と言っても、信仰と言っても、信仰のすべてのものは真理であるので、同じであるからです。さらに、善と言っても、愛と言っても、愛のすべてのものは善であるので、同じです(*4)
善からの真理によってどれほどの力が天使にあるかは、悪い霊は天使により見られるだけで気絶し、人間として見られないで、このことが天使が目をそらすまで続くことからもまた明らかです――天使が目で見ることによって、このようなことが生じる理由は、天使は天界の光から見ており、天界の光は神的真理であり(前の126-132番参照)――さらにまた、目は善からの真理に対応しているからです(*5)


*4 天界の中のすべての力は善からの真理に属し、そのように愛からの信仰に属す(3091, 3563, 6423, 8304, 9643, 10019, 10182)。
信仰に属すすべての真理と愛に属すすべての善は主からのものなので、すべての力は主からである(9327, 9410)。
この力はペテロに与えられた鍵によって意味される(6344)。
主から発出する神的真理にすべての力がある(6948, 8200)。
この主の力は、エホバの右に座ることによって意味されるものである(3387, 4592, 4933, 7518, 7673, 8281, 9133)。
「右手」は力である(10019)。
*5 目は善からの真理に対応する(4403-4421, 4523-4534, 6923)。

天界と地獄

232◀︎目次▶︎234

233  すべての力は善からの真理にあるので、悪からの虚偽にはまったく力がありません(*6)
地獄のすべての者は悪からの虚偽の中にいます。それゆえ、彼らに真理と善に対抗する力はありません――しかし、彼らの間で彼らの力はどんなものであるか、また地獄に投げ込まれる前の悪い霊の力はどんなものであるか、あとで述べます。


*6 善からの真理にすべての力があるので、悪からの虚偽に何も力はない(6784, 10481)。

天界と地獄

233◀︎目次▶︎235

27 天使の話し方

234  天使は、まったく世の人間のように互いに話し合い、いろいろな事柄についても話し合っています。例えば、家庭の問題・市民の状態の問題・道徳的な生活の事柄・霊的な生活の事柄についてです――互いに思考から内的に話すので、人間よりもさらに知的であること以外に、他に違いはありません。
私はしばしば、彼らとの交わりの中に入り、友だちどうしのように、また時々は知らない者どうしのように、話すようになりました。その時、私は彼らと似た状態の中にいたので、地上の人間と話しているとしか思いませんでした。

天界と地獄

234◀︎目次▶︎236

235  天使の話し方は、人間の話し方と同じように、言葉に区切られます。同じくまた、音声で表現され、音声で聞かれます。彼らにも同じく、口・舌・耳があるからです。また大気もあり、その中で彼らの話し声がはっきり発音されます。しかし、霊的である天使に適している霊的な大気です――天使もまたその大気の中で呼吸し、人間のように、呼吸を手段として声を出しています(*1)


*1  天界の中に呼吸がある、しかし、内的なものである(3884-3885)。経験から(3884-3885, 3891, 3893)。
そこの呼吸は、彼らの状態にしたがって異なっており、いろいろである(1119, 3886, 3887, 3889, 3892, 3893)。
悪い者は天界の中でまったく呼吸することができない、もし、そこへ来るなら、窒息する(3894)。

天界と地獄

235◀︎目次▶︎237

236  全天界の中で、すべての者の言語は一つであり、すべての者は、近くあるいは遠方の、どんな社会からの者であっても互いに理解しています。
そこでは言語は学ばれないで、それぞれの者に生来のものです。彼らの情愛と思考そのものから流れ出るからです。話し方の中で、音は彼らの情愛に対応し、音声の区切りは、それらは言葉であって、情愛からの思考の観念に対応します。言葉はこれらに対応するので、それらは霊的なものでもあります、なぜなら、音声を出している情愛と話している思考であるからです。
[2]注意深い者は、すべての思考は愛のものである情愛から存在することを、また思考の観念はその中に共通の情愛が分配されているいろいろな形であることを知ることができます。なぜなら、情愛のない思考と観念はまったく存在しないからです。思考と観念の魂といのちは情愛からです。
ここから、天使は他の者がどんなものであるかを話し方だけから、すなわち、音声から彼の情愛がどんなものであるか、音声の区切りまたは言葉から彼の心がどんなものであるか、知ります――賢明な天使は、ひと続きの話し方から、どんな情愛が支配しているかを知ります、なぜなら、彼らは特にそのことに注意深いからです。
[3]だれにもいろいろな情愛があることは、よく知られています。喜び・悲しみ・優しさと慈悲深さ・誠実さと真実・愛と仁愛・熱意または怒り・見せかけと欺き・名誉と栄光を求めること、等々、それらの中にいるときその情愛の中にいます。しかし、それらすべての中に、それらを支配している情愛または愛が存在します――それゆえ、賢明な天使は、このことを知覚しているので、話し方から他の者のすべての状態を知ります。
[4]このようであることを、多くの経験から知るようになりました。
私は、ただ他の者の話し方を聞くだけで彼のいのち(生活)を明らかにする天使のことを聞きました。彼らは、「その天使は、他の者のいのち(生活)のすべてを、その者の思考の何らかの観念から知ります、その観念から、すべてのものが秩序の中で内在している彼の支配愛を知るからです。これが人間の〝いのちの書〟にほかなりません」と言いました。

天界と地獄

236◀︎目次▶︎238

237  天使の言葉には、一種の情愛からの音声である言葉以外に、人間の言葉と共通なものは何もありません。共通なものは言葉そのものではなく、その音声ですが、そのことについてこれからいくつか述べます。
天使の言葉は人間の言葉と何も共通なものがないことは、人間の言葉の一つの語すら天使に発声することが不可能であることから明らかです――このことが試されましたが、彼らにできませんでした。情愛に完全に一致するもの以外のものは発声することができないからです。一致しないものは彼らのいのちそのものに不快です、なぜなら、いのちは情愛のものであり、その情愛から彼らの話し方があるからです。
私は、「私たちの地球の人間の最初の言葉は、天界からのものであったので、天使の言葉に一致していました。ヘブル語はある点で一致しています」と言われました。

天界と地獄

237◀︎目次▶︎239

238  天使の話し方は愛のものである彼らの情愛に対応し、天界の愛は主への愛と隣人に対する愛であるので(前の13-19番参照)、彼らの話し方がどれほど優雅で快いか明らかです。聞く者の耳だけでなく彼らの心の内的なものにも働きかけるからです。
心のかたくなな霊がいて、その者に天使が話しかけたことがあります――その霊は、その話し方からついに涙を流すまでに感動し、「愛が話していたので、反抗することができなかった。以前には決して涙を流したことはなかった」と言いました。

天界と地獄

238◀︎目次▶︎240

239  天使の話し方は、内的な思考から発出するので知恵にも満ちています。彼らの内的な情愛が愛であるように、彼らの内的な思考は知恵です。彼らの愛と知恵は話し方の中に互いに結合しています――ここから、その話し方は、人間が千の言葉で表現できないものを一つの言葉で表現することができるほどの知恵で満ちています。彼らの思考の観念もまた、人間が理解しない、まして話すことができないようなものを含みます。
ここから、天界で聞かれ、見られたものは言語に絶するものと言われます、それらは決して耳で聞かれ、目で見たことのなかったようなものです。
[2]このようであることを、さらにまた経験によって知るようになりました――時々、私は天使がいる状態の中に入れられ、その状態の中で彼らと話し、その時、すべてのことを理解しました。しかし、私が以前の状態に、このように人間に固有な自然的な思考の中に戻ったとき、私は自分の聞いたことを思い出そうとしましたが、できませんでした。天界の多彩な光によらないかぎり、自然的な思考の観念に適さないものが、したがって決して人間の言葉によってでは表現できない何千ものものがあったからです。
[3]天使の思考の観念もまた、それらは彼らの言葉となっていますが、天界の光の変化したものです。また情愛は、それらは言葉の音色となっていますが、天界の熱の変化したものです。天界の光は神的真理または神的知恵であり、天界の熱は神的善または神的愛であるからです(前の126-140番参照)。天使に、神的愛から情愛があり、神的知恵から思考があります(*2)


*2 天使の観念は、それから彼らは話すが、天界の光の驚くべき多彩さによって〔その表現が〕行なわれる(1646, 3343, 3693)。

 

天界と地獄

239◀︎目次▶︎241

240  天使の話し方は彼らの情愛から直接に発出し、(前の236に述べたように)思考の観念はいろいろな形であって、それらの中に共通の情愛が分配されているので、それゆえ、天使は人間が半時間かけても表現できないことを一分間のうちに表現でき、多くのページに書かれることも〔ほんの〕いくつかの言葉で表わすことができます――このこともまた、私に多くの経験によって証明されました(*3)
天使の思考の観念と彼らの話し言葉は、有効な原因と結果のように一つとなっています。なぜなら、原因として思考の観念の中にあることが結果として言葉の中に表わされるからです――ここから、それぞれの言葉はそれ自体の中にこのように多くのものを含みます。
さらにまた、天使の思考の個々のものとそこからの個々の話し方が見られ、それらはまわりへ流れ出る希薄な波または大気のようであり、その中に彼らの知恵からのものが秩序をもって無数にあって、それが他の者の思考に入り、働きかけます。
それぞれの思考の観念は、主が喜ばれる時、天使にも人間にも、天界の光の中で目に見えて示されます(*4)


*3 天使は自分たちの話し方によって、人間が人間の話し方によって半時間かけて表現するよりも多くのことを瞬間に、さらにまた人間の話し言葉の中に落ち込まないようなものもまた表現することができる(1641-1643, 1645, 4609, 7089)。
*4 思考の一つの観念の中に無数のものが内在する(1008, 1869, 4946, 6613-6618 6617-6618)。
人間の思考の観念は来世で明らかにされ、どのようなものであるか、生きいきと目に見えて示される(1869, 3310, 5510)。
どのように見られるか(6200, 8885)。
最内部の天界の天使の観念は光の炎のように見られる(6615)。
最も低い天界の天使の観念は白光りする薄い雲のように見られる(6614)。
天使の観念が見られ、その観念から主へ向けて光の放射があった(6620)。
思考の観念は、天使の社会の周囲へ広範囲に広がっている(6598-6613)。

天界と地獄

240◀︎目次▶︎242

241  主の天的な王国の天使は、主の霊的な王国の天使と同様に話しますが、天的な天使は、霊的な天使よりもさらに内的な思考から話します。天的な天使は主への愛の善の中にいるので知恵から話し、霊的な天使は、本質では真理である隣人に対する仁愛の善の中にいるので(215)、知性から話します、なぜなら、知恵は善からであり、また知性は真理からであるからです――ここから、天的な天使の話し方は穏やかな川のようであり、柔らかくていわば連続しています、しかし、霊的な天使の話し方は少し断音的で分離しています――さらにまた、天的な天使の話し方は〝ウ〟と〝オ〟の母音が多く響きますが、霊的な天使の話し方は〝エ〟と〝イ〟が多く響きます。母音は音声のためにあり、音声の中に情愛があるからです。なぜなら、前に述べたように(236)、天使の話し方の音声は情愛に対応し、音声の区切りは、それらは言葉であって、情愛からのものである思考の観念に対応するからです。
母音は言葉に属さないで、それぞれの状態にしたがっていろいろな情愛の、その言葉の〔音の〕抑揚に属すので、それゆえ、ヘブル語で母音は表現されていません、そしてまたいろいろに発音されます。
ここから、天使は人間の性質を情愛と愛に関して知ります。
さらにまた、天的な天使の話し方に硬い子音はなく、母音から始まる単語を差し挟まないで、子音から子音へと変わることはまれです。
ここから、みことばの中では、みことばをヘブル語で読む者に明らかであるように、しばしば小辞〝そして〟が挿入されます。ヘブル語のその小辞は柔らかいものであり、〔一つの文の〕前後で母音が響きます。
さらにまた、ヘブル語のみことばの中の言葉から、天的な部類に、あるいは霊的な部類に属すかどうかを、このように善を、あるいは真理を包むものであるかどうかをある程度知ることができます――善を包むものは、〝ウ〟と〝オ〟から多くの音を、また多少は〝ア〟からも音を得ています。しかし、真理を包むものは、〝エ〟と〝イ〟から音を得ています。
情愛は特に音声を通して現われるので、それゆえ、人間の会話の中でもまた、偉大なことについて扱われるとき、例えば天界や神について、そこに〝ウ〟と〝オ〟を含む言葉が好まれます――さらにまた音楽の音も、似たものが表現されるとき、それへ向けて高められます。偉大でないことについて扱われるときは異なっています。
ここから、音楽の技術では、いろいろな種類の情愛を表現することが知られています。

天界と地獄

241◀︎目次▶︎243

242  天使の話し方の中に、述べることのできないある種の調和があります(*5)
その調和は、話し方のもとである思考と情愛が天界の形にしたがって分散し、広まり、天界の形にしたがって、すべて者は仲間となり、天界の形にしたがって、すべての伝達があるからです。
天使は、天界の形にしたがって仲間となり、彼らの思考と情愛はその形にしたがって流れ出ることは前に述べました(200-212)。


*5 天使の話し方の中に、調和するものへと変わる一致がある(1648, 1649, 7191)。

天界と地獄

242◀︎目次▶︎244

243  霊界の中にあるのと同様の話し方が、それぞれの人間に植え付けられています、しかし、内的な知的な部分にです。けれども、人間の話し方は、天使のように、情愛に類似した言葉へ穏やかに変化しないので、人間はそのことを知りません――それでもこのことから、人間が来世に来た時、そこの霊と天使と同一の話し方の中にいて、教わらなくてもその話し方を知っています(*6)
しかし、これらの事柄について多くのことはあとで述べます。


*6 霊的なまたは天的な話し方が人間のもとにある、それでもそれは知られていない(4104)。
内なる人の観念は霊的である、しかし、人間は、世に生きるときそれらを自然的に知覚する、その時、自然的なものの中で考えるからである(10236, 10237, 10551)。
死後、人間は自分の内的な観念の中にやって来る(3226, 3342, 3343, 10568, 10604)。
その時、それら〔内的な観念〕が、彼の話し方をもたらす(2470-2479)。

天界と地獄

243◀︎目次▶︎245

244  前に言われたように、天界の中の話し方は、すべての者にとって一つです。しかし、その話し方は変化していて、賢明な者の話し方は内的であり、そしてさらに情愛の変化と思考の観念に満ちています。あまり賢明でない者の話し方は外的であり、このように満ちてはいません、そして単純な者の話し方は、さらに外的であり、ここから、人間が互いに話し合うときのように、言葉から構成されているものから意味を汲み取ります。
顔による話し方もあり、それは観念によって変えられた音声となって終わります――話し方の中には、天界を表象するものが観念に混合されているものや観念から視覚へ向かうものもあります――さらにまた、情愛に対応する身振りによる話し方があり、それは彼らの言葉と同じものを表象します――情愛の全般的なものによる、また思考の全般的なものによる話し方があります――雷のような話し方やその他のものもあります。

天界と地獄

244◀︎目次▶︎246

245  悪い者と地獄の者の話し方も、情愛からなので同じく生得のものですが、しかし、悪の情愛とここからの不潔な観念からのものであり、天使はそれをまったく退けます――地獄の話し方は、このように天界の話し方と正反対です。それゆえ、悪い者は天使の話し方に、また天使は地獄の者の話し方に耐えられません。天使にとって、地獄の者の話し方は鼻を突くような悪臭です。
光の天使を装うことができる偽善者の話し方は、言葉に関して天使の話し方と同じようですが、しかし、情愛に関して、またここから思考の観念に関して、まったく正反対です。それゆえ、彼らの話し方は、知恵のある天使により、それが内部でどのようなものであるか知覚されるとき、歯ぎしりのように聞こえ、恐怖感をひき起します。

 

天界と地獄

245◀︎目次▶︎247

28 人間との天使の話し方

246  人間と話す天使は、自分自身の言葉で話さないで、人間の言葉で話します。人間の知っている他の言葉でも話しますが、その人間に知られていない言葉では話しません。
このようであることの理由は、天使は人間と話すとき、自分自身を人間へ向けて、彼に結合させ、その結合により両者が同じ思考の中にいるようになるからです。人間の思考は記憶に密着しており、ここから話し方が流れ出るので、両者は同じ言葉の中にいます。
それゆえ、天使または霊は人間のもとに来るとき、彼へ向かって方向転換することによって彼と結合し、彼の記憶のすべての中に入り、人間が知ることを、またその言葉も、ほとんど自分自身から知っているとしか思えないほどになります。

[2]私が天使とこの事柄について話したとき、私は、「あなたがた〔天使〕はもしかして、私の母語で、私と話していると思うかもしれません、そのように思われるからです。そのときそれでも話している者はあなたがた〔天使〕ではなく、私です。このことは、天使は人間の言葉を一つも発音することができませんし(237)、さらにまた、人間の言葉は自然的であり、あなたがたは霊的であり、霊的な者は何らかのものを自然的に表明することができないことから、明らかにすることができます」と言いました。
これに応えて彼らは、「私たちは、人間と話すとき、彼の霊的な思考と結合していることを知っています。しかし、その人間の霊的な思考は彼の自然的な思考に流入するので、またその自然的な思考は彼の記憶に密着しているので、それゆえ、その言葉は自分のもののように思え、彼のすべての知識も同様です。このことの生じる理由は、このような結合が人間のもとにあり、いわば天界が挿入されることを主が喜ばれるからです。しかし、今日の人間の状態は別のものであって、それで、もはやこのような結合は、天使との間にはなく、天界にいない霊との間にあります」と言いました。
[3]同じこの事柄について私は霊ともまた話しました。しかし、彼らは人間が話すことを信じようとしないで、人間の中の自分たちが話すことを、さらに自分たちが知っていることを人間は知らないで、自分たちだけが知っており、また人間が知ったことはすべて自分たちからであることを信じていました――私は、そのようではないことを多くのことにより証明したかったのですが、しかし、むだでした。
霊によって特に何が意味され、また天使によって特に何が意味されるか、あとで霊たちの世界について扱うので、そこで語ります。

天界と地獄

246◀︎目次▶︎248

247  天使と霊が、人間にあるものが自分のものであるとしかわからないほどにも密に人間と結合していることの理由は、人間のもとに、あたかも一つであるかのような結合が霊界と自然界の間にあるからです。しかし、人間は天界から自分自身を分離させたので、主は、それぞれの人間のもとに天使と霊がいて、人間が彼らを通してご自分に支配されるように備えられました。これがこのように密な結合があることの理由です。
もし人間が分離させなかったなら、これと異なっていました。その時、人間と接合する霊と天使がいなくても、天界からの全般的な流入によって、主により支配されることができたからです。
しかし、特にこれらの事柄については、あとで人間と天界の結合について扱う中で述べます。

天界と地獄

247◀︎目次▶︎249

248. 天使と霊の人間との話し方は、人間と人間との話し方のように聞こえます、けれども、そばに立つ他の者には聞かれないで、その者だけに聞かれます――その理由は、天使または霊の話し方は最初に人間の思考に、内なる道を通ってその聴覚器官に流入し、このように聴覚器官を内側から動かすからです。しかし、人間と人間との話し方は最初に空気の中に、外なる道を通ってその聴覚器官に流入し、聴覚器官を外側から動かします――ここから、天使と霊の人間との話し方は人間の中で聞かれることが明らかです。また、同じように聴覚器官を動かすので、音でも同じように聞かれます。
天使と霊の話し方が内側から耳の中にまでも降りてくることは、舌にも流入し、舌をわずかに振動させることから、私に明らかになりました。しかし、そのことは人間自身により声で語られて発音されるときのような何らかの運動を伴ってはいませんでした。

天界と地獄

248◀︎目次▶︎250

249   しかし、霊と話すことは危険なので、今日ではまれにしか存在しません(*1)。なぜなら、そうしなければ霊にわからないのに、その時、霊は人間のもとにいることを知るからです。そして、悪い霊は、人間に死をもたらすような憎しみを持ち、霊魂と身体に関して彼を滅ぼすこと以外に何も望まないような者です。自然的な人間に適する快さを自分自身から遠ざけるほど大いに幻想にふける者にこの霊魂と身体の滅びることが起こっています。
さらにまた、孤独の生活を送る者は、ときどき霊が自分と話すのを聞くことがあり、しかも危険のないことがあります。しかし、主により、その霊が人間のもとにいることを知ることがないように、人間から遠ざけられます。なぜなら、大部分の霊は、彼らがいる以外の他の世界が存在することを、したがって他のところに人間がいることもまた知らないからです。それゆえ、逆に、彼らと話すことは人間に許されていません、なぜなら、もし話すなら、彼らは知ってしまうからです。
宗教的な事柄について多くのことを考え、それに固執して、あたかもそれを自分自身の内側に見るようにまでもなった者もまた、霊が自分と話すのを聞き始めます。なぜなら、宗教的な信念は、どんなものであっても、人間が自分自身からそれに固執し、世の中で役立ついろいろなものでそれを中断させない時、内部へ進み、そしてそこにとどまり、人間の全精神を捕らえ、霊界に入り、そこにいる霊を動かします。しかし、このような者は幻視者や狂信者です。また、霊がだれであってもその言うことを聞き、〝聖霊〟であると信じます、そのときそれでも、その霊は狂信的な霊です。
このような霊は、虚偽を真理のように見ています。そのように見ているので、このことを自分自身が納得し、自分が流入する者たちにもまた納得させます。またそれらの霊は、悪の実行へと誘い、さらにまた自分に従属させようとし始めるので、それゆえ、徐々に取り去られます。
狂信的な霊は、自分が〝聖霊〟であり、自分の言うことは神的なものであると信じていることによって、他の霊から識別されます――それらの霊は、人間が自分たちを神的な礼拝をもって尊ぶので、人間に害を加えません。
何度か、私は彼らと話しましたが、その時、彼らが自分の崇拝者たちに注ぎ入れた邪悪なことが明らかにされました――彼らは一緒になって左の見捨てられた場所に住んでいます。


*1 人間は霊や天使と話すことができる。古代人はしばしば彼らと話した(67-69, 784, 1634, 1636, 7802)。
ある地球では、天使と霊は人間の形で見られ、彼らと話す(10751, 10752)。
しかし、この〔私たちの〕地球では、今日、人間が信仰の真理の中にいないなら、また主により導かれるのでないなら、霊と話すことは危険である(784, 9438, 10751)。

天界と地獄

249◀︎目次▶︎251

250  天界の天使と話すことは、善からの真理の中にいる者にだけ、特に、主とその人間性の中にある神性を承認している者にだけ許されます。これは、そのことの中に天界が存在する真理であるからです。なぜなら、前に示されたように、主は天界の神であられ(2-6)、主の神性が天界をつくり(7-12)、天界の中の主の神性は、その方からの、その方への愛と隣人に対する仁愛であり(13-19)、全天界は一つの全体として、同様に、天界のそれぞれの社会は一人の人間を表わし、そして、それぞれの天使は人間の完全な形であり、このことは主の神的人間性からであるからです(59-86)。
これらから、天界の天使と話すことは、内的なものが神的真理によって主にまで開かれている者にだけ与えられることが明らかです。なぜなら、主は人間のもとの真理の中に流入され、主が流入されるとき、天界もまた流入するからです。
神的真理が人間の内的なものを開くのは、人間は内なる人に関して天界の映像であり、外なる人に関して世の映像であるように創造されていて(57)、内なる人は、天界の光と天界のいのちである主から発出する神的真理による以外に開かれないからです(126-140)。

天界と地獄

250◀︎目次▶︎252

251  主ご自身が人間のもとへ流入されるのは、その額へであり、そこから顔全体へ流入されます。人間の額は愛に対応し、顔は彼の内的なすべてのものに対応するからです(*2)
霊的な天使は、人間のもとへ、あらゆる方向からその頭へ、その前頭部と側頭部から、すべての部分へ流入します、頭とその下に大脳がある領域は知性に対応するからです。
けれども、天的な天使は、頭では後頭部と呼ばれ、その下に小脳がある部分へ流入し、耳から周囲のあらゆる方向へ、首にまで流入します、なぜなら、その領域が知恵に対応するからです。
人間との天使の話し方のすべては、その経路を通って彼の思考に入ります。
ここから、私と話した天使がだれであったかわかりました。


*2 額は天的な愛に対応し、ここから、みことばの中でその愛を意味する(9936)。
顔は人間の思考と情愛に属す内的なものに対応する(1568, 2988, 2989, 3631, 4796, 4797, 4800, 5165, 5168, 5695, 9306)。
顔もまた内的なものに対応するものに形作られる(4791-4805, 5695)。
ここから「顔」は、みことばの中で内的なものを意味する(1999, 2434, 3527, 4066, 4796)。

天界と地獄

251◀︎目次▶︎253

252   天界の天使と話す者は、天界の光から見るので、天界の中にあるものも見ます。その光の中に彼らの内的なものがあります。天使もまた、彼らを通して地にあるものを見ます(*3)。彼らのもとで天界は世と結合され、世は天界と結合されるからです。なぜなら、前に述べたように(246)、天使は自分自身を人間に向けるとき、自分自身をその人間のものであるものに、その話し方だけでなく、見られ、聞かれるものもまた、自分自身のものであるとしかわからないように結合するからです。さらにまた逆に、人間は天使を通して流入するものを自分自身のものであるとしか知りません。
この地球の最古代人は、天界の天使とのこのような結合の中にいたので、その時代は黄金時代と呼ばれました――彼らは人間の形のもとに神性を、したがって主を認めたので、自分たちと話すように天界の天使と話し、また逆に、天界の天使は自分たちと話すように彼らと話し、彼らの中で天界と世は一つでした。
しかし、その時代の後、人間は、主よりも自分自身を愛し、また天界よりも世を愛することによって、自分自身を連続的に天界から遠ざけました。ここから、天界の快さから分離した自己愛と世俗愛の快さを感じ始め、そしてついに、この快さ以外の他の快さが何かわからないほどになりました――その時、天界に向けて開いていた内的なものは閉ざされ、世に向けて外的なものが開かれました。このことが起こったとき、人間は世に属すすべてのものに関して光の中にいますが、天界に属すすべてのものに関して暗黒の中にいます。


*3 霊は人間を通してこの太陽系の中の何も見ることはできない、しかし、私の目を通して見た。その理由 (1880)。

天界と地獄

252◀︎目次▶︎254

253  その時代の後、天界の天使と話した者はまれです、しかし、天界にいない霊と話した者はいます。なぜなら、人間の内的なものと外的なものは、共通の中心であるかように主へ向かうか(124)、あるいはそのもの自体へ向かい、このように主から後ろ向きになるかするからです。主へ向かうものは、天界へもまた向かいます、けれどもそれ自体へ向かうものは、世へもまた向かいます。また、ここへ向かうものは、ほとんど高揚されることができません――それでも主により高揚されますが、どれだけ高揚されるかは愛の方向転換により、このことは、みことばからの真理によって生じます。

天界と地獄

253◀︎目次▶︎255

254  私は、みことばをもたらした預言者と主はどのように話されたか、知らされました。
彼らとは、古代人と話されたような内的なものへの流入によるのではなく、彼らのもとに遣わした霊を通して話されたのです。主は遣わした霊をご自分の外観で満たし、ことばを吹き込んで、それを預言者に書き取らせました。このように、流入ではなく、命令でした――そのことばは主から直接にやって来たものなので、それゆえ、その個々のものは神性に満たされ、その中に内意を含んでおり、天界の天使はこれを天界的なまた霊的な意味で、人間は自然的な意味で知覚します。こうして主は天界と世をみことばによって結合されました。
どのようにして、霊が主からの外観によって神性で満たされるかもまた示されました。
主からの神性で満たされた霊は、自分が主であり、自分が話しているものは神的なものであるとしか知らないで、このことは話している間、続きます。その後、自分が霊であり、自分自身からでなく、主から話したことに気づき、認めます。
預言者と話した霊の状態はこのようであったので、それゆえ、預言者は、エホバが語ったとも言っています。その霊もまた自分自身をエホバと呼んだことは、みことばの預言的なものからだけでなく、歴史的なものからもまた明らかにすることができます。

天界と地獄

254◀︎目次▶︎256

255  天使と霊の人間との結合がどんなものか知られるために、話しておく価値のあることをいくつか物語ることが許されており、それらから説明し、結論することができます。
天使と霊が自分自身を人間に向ける時、人間の言葉が自分のものであり、他の言葉は自分にはないとしか知りません。その理由は、その時、彼らは自分の言葉の中にいないで、自分の言葉を思い出さないで、人間の言葉の中にいるからです――しかし、自分自身を人間から背けると直ぐに、その時、自分の天使的な霊的な言葉の中にいて、人間の言葉については何も知りません。
私が天使との交わりにいて、彼らと似た状態にいたとき、似たことが私に起こりました。その時、私は彼らと彼らの言葉で話し、自分の言葉については何も知らないで、その言葉を思い出しもしませんでした。けれども、彼らとの交わりの中にいなくなると直ぐに、私は自分の言葉の中にいました。
[2]天使と霊は自分自身を人間に向けるとき、どんな距離であっても話すことができ、そのこともまた話しておく価値があります。彼らは私と、遠方から、近くの音声と同じように話しました。けれども、自分自身を人間から方向転換させ、自分たちの間で話すとき、人間には、何が話されているのか、それが耳のほんのすぐ近くで話されたにしても、まったく何も聞こえませんでした――ここから、霊界の中で、すべての結合は方向転換にしたがっていることが明らかです。
[3]多くの者が一緒になって人間と話すことができること、また人間も彼らと話すことができることもまた話しておく価値があります。彼らは、話したい人間に自分たちのもとからある霊を派遣し、その送り出された霊は自分自身をその人間へ向け、多くの霊たちが自分たちの派遣した霊に向けて自分たちの思考を集中させると、その霊はその思考を発声するからです。その時、その霊は自分自身から話すとしか、また送り出した霊たちも自分たち自身が話しているとしか、知りません。多くの者がひとりの者と結合するときもまた、このようであり、そのこともまた方向転換によって生じています(*4)
しかし、〝派遣霊〟とも呼ばれる、この送り出される霊について、また彼らによる伝達については、あとで多くのことを述べます。


*4 霊の社会から他の社会へ送り出された霊は、派遣霊と呼ばれる(4403, 5856)。
霊界の中の伝達は、このような使者の霊によって行なわれる(4403, 5856, 5983)。
霊は、送り出されるとき、また派遣霊として仕えるとき、自分自身からは考えず、送り出した者から考える(5985-5987)。

天界と地獄

255◀︎目次▶︎257

256  天使や霊は、自分自身の記憶から人間と話すことは許されませんが、人間の記憶から話すことは許されます。なぜなら、天使と霊に、人間と等しく記憶があるからです。
もし、霊が自分自身の記憶から人間と話すなら、その時に人間が考えるものは、それは霊のものであるのに、自分のものであるとしか思えないで、あたかも、その人間が決して聞きも、見もしなかった物事を思い出すようなものになります――このようであることを、私は経験から知るようになりました。
ここから古代人の中には、何千年かの後、前の自分の生活に、またそのすべての行動に戻るであろうという見解を、さらにまた戻ったという見解を持つ者がいました。彼らは、決して見も聞きもしなかった物事を思い出すことが、時々、心に浮かんだことから、このことを結論したのです。このことは、霊が自分の記憶から彼らの思考の観念の中に流入するので起こります。

天界と地獄

256◀︎目次▶︎258

257  さらにまた、自然的な物質的な霊と呼ばれる霊がいます――彼らは人間にやって来るとき、自分自身を他の霊のように彼の思考と結合させないで、彼の身体に入り、その感覚のすべてを占拠し、彼の口を通して話し、彼の四肢によって行動し、その時、人間のすべてのものは自分のものであるとしか知りません。彼らは、人間にとりつく霊です。しかし、この者らは主により地獄に投げ込まれ、こうして完全に遠ざけられています。それゆえ、このようにとりつくことは今日では存在しません(*5)


*5 今日では、以前のように、外なるものに、すなわち、身体にとりつくことはない(1983)。
しかし、以前よりも多く、内なるものに、心(mens)にとりつくことがある(1983, 4793)。
人間は、不潔な思考をもつとき、神に、また隣人に憤慨するとき、また名声・名誉・利益・法律・いのちを失う恐れである単に外なる束縛によって、それらを公表することを押しとどめるとき、内的にとりつかれている(5990)。
特に人間の内なるものにとりつく悪魔の霊について(4793)。
人間の外なるものにとりつくことを欲する悪魔の霊について、〔そうした霊は〕地獄に閉じ込められている(2752, 5990)。

天界と地獄

257◀︎目次▶︎259

29 天界の文書

258   天使に会話があり、その会話は単語による話し方なので、それゆえ、彼らには文書もまたあります。自分の心で感じることを、会話と同じく、文書によって表現します。
何度か、私に文字の書かれた紙が送られたことがあり、それは完全に手で書いたような、また世の活字で印刷されたような紙でした。さらに私はそれらを読むこともできましたが、しかし、そこから一つあるいは二つ以上の意味を汲み取ることは許されませんでした。文書によってでなく、みことばによって天界から教えられることが神の秩序であり、みことばだけによって世と天界の、したがって人間と主の伝達と結合があることがその理由でした。
天界で書かれた紙が、預言者にもまた見られたことは、「エゼキエル書」に明らかです、

私が見ると、見よ、霊から私のほうに手が伸ばされて、その中に一つの巻き物があった。それが私の前で広げられると、表にも裏にも字が書いてあった2:9, 10)。

また、「ヨハネ福音書」に、

私は、御座にすわっておられる方の右の手に、巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた黙示録 5:1)。

天界と地獄

258◀︎目次▶︎260

259  天界に文書があるのは、みことばのために主により備えられたのです。なぜなら、みことばはその本質では神的真理であり、そこから天界のすべての知恵が、天使と同じく人間にもあるからです――それは主により言われたことであり、主により言われることは順にすべての天界を通り過ぎ、人間のもとで終わるからです。
ここから、みことばは天使の中にある知恵と同じく、人間の中にある知性にも適しています。
みことばは天使のもとにもあり、彼らはそれを世の人間と同じように読んでいます。さらにまた、みことばから彼らの教えの事柄があり、そこからそこに説教があります(221)。
みことばは同一です、けれども、私たちにとって文字どおりの意味であるその自然的な意味は天界に存在しません、天界にはその内意である霊的な意味が存在します――この霊的な意味がどのようなものであるかは、「黙示録」の中の白い馬についての小著『白い馬』で述べてあります。

天界と地獄

259◀︎目次▶︎261

260  さらにまたかつて、私のもとに天界から紙が送られ、その中にヘブル文字でいくつかの単語が書かれており、「それぞれの文字に知恵のアルカナ(秘義)が含まれており、そのアルカナは文字の屈曲や湾曲に内在し、ここから音声にも内在します」と言われました。
ここから、次の主のことばによって何が意味されるか、私に明らかになりました、

まことに、あなたがたに告げます。天地が過ぎ去ってしまわないかぎり、律法の中の一点一画でも〔決して〕すたれることはありませんマタイ5:18)。

みことばは、その小点までもすべてについて神的であることは、教会でも知られています――しかし、神的なものがすべての小点のどこに隠れているか、まだ知られていないので、述べます。
最内部の天界の文書は、屈折と曲折のいろいろな形から構成されており、屈曲と曲折は天界の形にしたがっています。
天使は、それらによって、自分たちの知恵のアルカナを、さらにまた言葉で口に出すことができない多くのものを表現します。また、驚くべきことに、その文書を天使は習うこともなく教師がいなくても知っています。彼らには言葉そのものが植え付けられていますが(それについては236)――文書もそのように植え付けられているのです。それゆえ、この文書は天界の文書です。
それが植え付けられているのは、天使の思考と情愛のすべての広がりは、またここから天使の知性と知恵のすべての伝達は、天界の形にしたがって進み(201)――ここから、その形の中へ彼らの文書が流れ出るからです。
私は、「この地球の最古代人にもまた、文字が考え出される前に、このような文書がありました。それがヘブル語の文字の中に移され、その文字は古代ではすべて屈曲していて、今日のように、直線で終わっているものはありませんでした」と言われました――ここから、みことばのイオタ(一点)、小点、小さな突起の中に神的なものと天界のアルカナが存在するのです。

天界と地獄

260◀︎目次▶︎262

261  天界の形をした文字によるこの文書は、他の者にまさる知恵の中にいる天使の最内部の天界で用いられています。
それらの文字によって情愛が表現され、その情愛から思考が流れ出て、扱っている主題の事柄にしたがって順に続きます――ここから、それらの文書は思考では汲み尽くすことのできないアルカナを含んでいます。私は、それらの文書を見ました。
しかし、低い天界にこのような文書はありません――低い天界の文書は世の文書に似ており、文字でも似ています、しかしそれでも、天使の言葉によるものなので人間に理解できません、天使の言葉に人間の言葉と共通なものは何もありません(237)。なぜなら、母音によって情愛が、子音によって情愛からの思考の観念が、それらからの単語によって物事の意味が表現されるからです(前の236, 241番参照)。
さらにまたこの文書は、人間が数ページかけても記述することできないような多くのものを少しの言葉で含んでおり、私はそれらの文書もまた見ました。
このように書かれたみことばが低い天界にあり、最内部の天界には天界の形によって書かれたみことばがあります。

天界と地獄

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262  注目すべき出来事(メモラビリア)があります。天界の文書は、彼らの思考そのものから自然に流れ出て、いわば思考が投げ出されてくるようものであり、書くのは容易な作業です。何かの言葉を選ぶうえで、手にもためらいがありません。彼らの思考の観念に対応する言葉を、話すのと同じように書くからです。またその対応するすべてのものは、生来のもの、自発的なものです。
さらにまた天界には、手によらないで、思考との対応だけによる文書が存在します。しかし、それらの文書は長続きしません。

天界と地獄

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263  さらにまた私は、文字と単語からつくられた文書のように、順に、連続して記されている数字だけからつくられた天界からの文書を見ました。また私は、「この文書は最内部の天界からものであり、彼らの天界の文書は(そのことについて、前の 260, 261番に扱いました)、低い天界の天使のもとで、思考がそれらから流れ下るとき、数で表わされる。数からなるその文書も同じように思考では把握することができず、言葉でも表現されることができないアルカナを含んでいる」と教えられました――すべての数は対応するものであり、対応にしたがって、言葉と同じように、意味するものであるからです(*1)。それでも、数は全般的なものを含み、言葉は個々のものを含む、という相違があります。そして、一つの全般的なものは無数の個々のものを含むので、ここから、数字の文書は文字の文書よりも多くのアルカナを含みます。
これらから、みことばの中の数は言葉と等しく物事を意味することが、私に明らかになりました。
単純な数、例えば、二・三・四・五・六・七・八・九・一〇・一二が何を、また合成数二〇・三〇・五〇・七〇・一〇〇・一四四・一〇〇〇・一〇〇〇〇・一二〇〇〇、またさらに多くの数が何を意味するかは、それらについて扱われている『天界の秘義』に述べてあります。
天界の文書では、常に数が前に置かれ、それを主題とするかのように、続くものが連続し、従属します。なぜなら、その数は扱われている事柄のいわば指標であり、その数から個々の事柄へと続く数が決定されるからです。


*1 みことばの中のすべての数は物事を意味する(482, 487, 647, 648, 755, 813, 1963, 1988, 2075, 2252, 3252, 4264, 4670, 6175, 9488, 9659, 10217, 10253)。
天界から示された(4495, 5265)。
単純な数からの掛け算によってできる掛けられた数は、その単純な数と同様のことを意味する(5291, 5335, 5708, 7973)。
最古代人は、数の中に、いわば教会の事柄(状態)を計算するといった、天界のアルカナ(秘義)をもっていた(575)。

天界と地獄

263◀︎目次▶︎265

264  界について何も知らない者は、それは純粋な大気的なものであって、天使はその大気の中を聴覚や視覚のない知的な心のようなものとして飛んでいる、といったような観念しかもとうとしません。彼らには天使に会話や文書があることを考えることができません。すべての物事の存在を物質的なものの中に置くからです。それでも、天界には世の中にあるものと同じようなものが実際に存在し、そこにいる天使には、生活に役立ち、知恵に役立つすべてのものがあります。

 

天界と地獄

264◀︎目次▶︎266

30 天界の天使の知恵

265  天界の天使の知恵がどんなものかは、人間の知恵を超えていて、超えているものは存在するようには見えないので、ほとんど把握することができません。
さらにまた、それらの知恵を述べるには知らなくてはいけないものがあり、それらがよく知られる前には、理解力の中に陰のようなものがあって、このように物事が本質的にどんなものであるかもまた隠してしまいます。しかしそれでも、心(mens)がそれらを喜ぶなら、それらは知ることができ、知るとき、把握することができます。なぜなら、喜びは愛からのものなので、それ自体に光を持っているからです。神的なものや天界の知恵といったものを愛する者には、光が天界から輝き、照らしがあります。

天界と地獄

265◀︎目次▶︎267

266  天使の知恵がどんなものであるかは、彼らが天界の光の中にいることから、天界の光はその本質では神的真理または神的知恵であり、この光は、心(mens)のものである彼らの内なる視覚と目のものである外なる視覚を同時に照らすことから結論することができます天界の光が神的真理または神的知恵であることは前の126-133番参照)。
さらにまた天使は本質では神的善または神的愛である天界の熱の中にいて、その熱から彼らに賢明であろうとする情愛と願望があります(天界の熱が神的善または神的愛であることは前の133-140番参照)。
天使は〝知恵〟と言われることができるほど知恵の中にいるので、そのことから、知恵を受け入れる彼らの思考と情愛のすべては天界の形にしたがって流れ出ること、その形は神的知恵の形であり、彼らの内的なものはその形へ作り上げられることを結論することができます(天使の思考と情愛は天界の形にしたがって流れ出る、したがって彼らの知性と知恵もまた流れ出ることは前の201-212番参照)。
[2]天使に卓越した知恵があることは、彼らの話し方が知恵の話し方であることからもまた明らかにすることができます。その話し方は思考から、その思考は情愛から直接にまた自発的に流れ出ており、このように彼らの話し方は情愛から外なる形の中へ流れ出る思考であるからです。ここから、彼らを神的な流入から引き離すものは何もなく、人間のもとの会話のように、他の思考から持ち込まれてその会話を妨げる外なるものもありません(天使の話し方が彼らの思考と情愛の話し方であることは234-245番参照)。
天使が目で見、感覚で知覚するすべてのものは対応であるので彼らの知恵に調和し、ここから対象は知恵に属すようなものを表象する形であることもまた、彼らのこのような知恵に一致しています(天界の中に現われるすべてのものは天使の内的なものとの対応であるであること、また彼らの知恵の表象であることは前の170-182番参照)。
[3]さらに天使の思考は、人間の思考のように、空間と時間の思考によって限定されないし、閉じ込められてもいません、なぜなら、時間と空間は自然に固有なものであり、自然に固有なものは霊的なものから心(mens)を連れ去り、知的な視覚の拡大を取り去るからです(天使の観念は時間と空間のないものであり、こうして人間のものに比べて限定のないものであることは前の162-169191-199番参照)。
天使の思考は、地的なものや物質的なものへ引き下げられることも、生活必需品についての心配によって妨害されることもありません。したがって、世の人間の思考のように、それらによって知恵の快さから連れ去られることもありません。すべてのものは彼らに主からただでもたらされ、ただで着せられ、ただで養われ、ただで住むからです(181-190番)。さらに加えて、主からの知恵を受け入れるのにしたがって、快さと楽しさを与えられます。
天使がどこからそれほどの大きな知恵をもつのか知られるためにこれらのことを述べました(*1)


*1 天使の知恵について、それは理解することのできない、言い表わすことができないものである(2795, 2796, 2802, 3314, 3404, 3405, 9094, 9176)。

天界と地獄

266◀︎目次▶︎268

267  天使がこれほどの知恵を受けることができるのは、彼らの内的なものが開かれていて、すべてのものの完成が内的なものに向かって増大するように、知恵は彼らが開かれることにしたがって増大するからです(*2)
それぞれの天使のもとに三つの段階のいのちがあり、それらは三つの天界に対応しています(29-40番参照)。最初の段階が開かれている者は、最初の天界または最外部の天界の中にいます。第二の段階が開かれている者は、第二の天界または中間の天界の中にいます。けれども、第三の段階が開かれている者は、第三の天界または最内部の天界の中にいます――天界の天使の知恵はこれらの段階にしたがっています。ここから、最内部の天界の天使の知恵は、中間の天界の天使の知恵よりも計り知れないほど卓越し、中間の天界の天使の知恵は、最外部の天界の天使の知恵よりも計り知れないほど卓越しています(前の209, 210番参照、段階がどんなものかは38番参照)。
このような相違があるのは、高い段階の中にあるものは個々のものであり、低い段階の中にあるものは全般的なものであり、全般的なものは個々のものの容器であるからです。個々のものは全般的なものに対して、一つに対する千または万のようであり、低い天界の天使の知恵に対して高い天界の天使の知恵は相対的にこのようなものです。
しかし、低い天界の天使の知恵でもやはり同様に人間の知恵よりも卓越しています、なぜなら、人間は身体の中に、またその感覚的なものの中にいて、人間の身体の感覚的なものは最も低い段階の中にあるからです。
ここから、感覚的なものから考える者に、すなわち、感覚的な人間と呼ばれる者にどのような知恵があるか明らかです、すなわち、彼らは何らかの知恵の中にいないで、単なる知識の中にいます(*3)
けれども、思考が感覚的なものの上に高揚されている人間は異なり、内的なものが天界の光の中にまで開かれている者はさらに異なっています。


*2 人間は外なるものから内的な視覚へ高揚されればされるほど、それだけ光の中に、したがってそれだけ知性の中にやって来る(6183, 6313)。
実際の高揚がある(7816, 10330)。
外なるものから内的なものへの高揚は、もやから光の中へのようである( )。
外的なものは人間のもとでは神性からさらに遠く離れており、それゆえ、相対的に暗いものである(6451)。
そしてまた相対的に混乱したものである(996, 3855)。
内的なものは、神性にさらに近いので、さらに完全である(5146, 5147)。
内なるものの中には何千また何千ものものがあり、それは外なるものの中では一つの全般的なもののように見える(5707)。
ここから思考と知覚は、内的であるほどますます明らかなものである(5920)。
*3 感覚的なものは人間のいのちの最外部であり、彼の身体に付着し、こびりついている(5077, 5767, 9212, 9216, 9331, 9730)。
身体の感覚からすべてのものを判断し、結論する者は、また目で見、手で触れるもの以外に何も信じない者は、感覚的な人間と言われる(5094, 7693)。
このような人間は、外的なものの中で考え、本質的に内的に考えない(5089, 5094, 6564, 7693)。
彼の内的なものは、そこに霊的な真理を何も見ないように、閉ざされている(6564, 6844, 6845)。
一言でいえば、その者は粗雑な自然的な光の中にいる、またこのように天界の光からのものを何も知覚しない(6201, 6310, 6564, 6598, 6612, 6614, 6622, 6624, 6844, 6845)。
天界と教会に属すものに、彼は内的に対立する(6201, 6316, 6844, 6845, 6948, 6949)。
教会の真理に反するものを確信した学者は、このような者になる(6316)。
感覚的な人間は、他の者にまさって狡猾であり、悪意がある(7693, 10236)。
彼らは、鋭く、巧みに、しかし、形体的な記憶から推論し、その中にすべての知性を置く(195, 196, 5700, 10236)。
しかし、感覚の欺きから推論する(5084, 6948, 6949, 7693)。

天界と地獄

267◀︎目次▶︎269

268  天使の知恵がどれほど大きいかは、天界の中のすべてのものに伝達があり、ある者の知性や知恵は他の者に伝達し、天界はすべての善の共同体であることから明らかにすることができます――その理由は、天界の愛は、自分自身のものが他の者のものであるようにと欲するようなものであるからです。それゆえ、天界では、自分自身の善が他の者の中にもないなら、だれも自分の中の善を善として知覚しません、ここから天界の幸福があります。このことを天使は主から得ており、その方の神的愛はこのようなものです。
このような伝達が天界の中にあることもまた経験によって知るようになりました――ある単純な者たちが、ときどき天界に上げられます。彼らがそこに着き、さらにまた天使の知恵の中に進んだ時、彼らは以前には把握することができなかったことを理解し、以前の状態では発言することができなかったことを話しました。

天界と地獄

268◀︎目次▶︎270

269  天使の知恵がどんなものであるかは言葉で述べることはできません、しかし、何らかの全般的なものによってだけ説明することはできます。
天使は、一つの言葉で人間が千の言葉で表現できないことを表現することができます――さらに、天使の一つの言葉には、人間の言語で表現することができない無数のものが内在します。天使が話す個々のものの中に知恵のアルカナが絶えず結びついて存在し、人間の知識では決してそれに達しないからです。
さらにまた、天使は自分の話し方の中で、言葉で述べ尽くせないことを音声で補います。その音声には事柄の情愛が適切な順序で内在します、なぜなら、前に述べたように(236, 241番)、音声によって情愛が表現され、言葉によって情愛からの思考の観念が表現されるからです。ここから、天界で聞かれるものは言語に絶するものと言われます。
同様に天使は、何らかの書物に書かれた一つひとつのものを少ない言葉で言い尽くすことができ、それぞれの言葉に内的な知恵へと高揚するようなものを注ぎ込むことができます。彼らの話し方は、情愛と一致し、それぞれの語は観念と一致するようなものであるからです。言葉もまた全体として思考の中にある連続する事柄にしたがって無限の仕方で変化します。
[2]さらにまた、内的な天使は、音声とともに話しているいくつかの言葉から、話している者の全生活を知ることができます。なぜなら、彼らは言葉の中で観念によって変化している音声から、その者を支配している愛を知覚するからです。その愛に、いわば彼の生活(いのち)の個々のものが刻み込まれて内在しています(*4)
これらから、天使の知恵がどんなものであるか明らかです。
彼らの知恵は、人間の知恵に対して、一に対する万のようです――比較すれば、全身の中で運動する無数の力のようなものです、行動を起こしているその力は人間の感覚の前には一つのように見えます。または、肉眼では不明瞭な一つのものに見えるものが、よくできた顕微鏡でその対象物が千にも見えるようなものです。
[3]さらにまた、このことを例で説明します――天使がその知恵から再生ついて述べ、そのアルカナを適切な順序で数百も示し、それぞれのアルカナを観念の中にさらに内的なアルカナをもつ観念で満たし、このことが最初から最後までなされました。どのようにして霊的な人が新たにみごもり、いわば子宮の中に運ばれ、生まれ、成長し、連続的に完成されるか説明したからです。その天使は、「このアルカナの数を数千にまでも増やすことができます。また、述べたことは単に人間の外なる再生についてであり、内なる再生については数え切れない多くのものがあります」と言いました。
天使から聞いたこれらや他の同じようなものから、私は、彼らの知恵がどれほど大きなものか、また相対的に、再生とは何かをほとんど知らず、再生されるときの発達の段階を何も知らない人間の無知がどれほど大きなものか、明らかにされました。


*4 人間のもとであまねく支配しているもの、または統治しているものは、彼の生活(いのち)の個々のものの中にあり、そのように、その思考と情愛の個々のものとすべてのものの中にある(4459, 5949, 6159, 6571, 7648, 8067, 8853-8858)。
人間は、どのような愛が彼を支配しているかによって、そのようなものとなる(917, 1040, 8858)。例による説明(8854, 8857)。
人間をあまねく支配するものは、その人間の霊の生活(いのち)をつくる(7648)。
それは彼の意志そのもの、彼の愛そのもの、彼の生活の目的である。人間は意志するものを愛し、愛するものを目的としてもつからである(1317, 1568, 1571, 1909, 3796, 5949, 6936)。
それゆえ、人間はどのような意志が、またはどのような愛が彼を支配しているか、または彼の生活の目的がどのようなものかによって、そのようなものになる(1568, 1571, 3570, 4054, 6571, 6935, 6938, 8856, 10076, 10109, 10110, 10284)。

天界と地獄

269◀︎目次▶︎271

270  第三の天界または最内部の天界の天使の知恵について、またそれらは第一の天界または最外部の天界の天使の知恵にどれだけまさるか、今から述べます。
第三または最内部の天界の天使の知恵は、最外部の天界の中にいる者にも理解できないものです。
その理由は、 第三の天界の天使の内的なものは第三の段階まで開かれていますが、第一の天界の内的なものは第一の段階までしか開かれていないからです。すべての知恵は、内的なものに向かって増し、それらが開かれることにしたがって完成されます(208, 267)。
[2]第三または最内部の天界の天使の内的なものは第三の段階まで開かれているので、それゆえ、彼らに神的な真理がいわば刻み込まれています。なぜなら、第三の段階の内的なものは、第二や第一の段階の内的なものよりも天界の形の中にあり、天界の形は神的真理からのものであり、このように神的知恵にしたがっているからです。ここから、これらの天使に神的真理が、刻み込まれているように、または植え付けられた生来のもののように見えます――それゆえ、彼らは本物の神的な真理を聞くと直ぐに、それらを認め、知覚し、その後、いわばそれらを自分自身の内部に見ます。
その天界の天使はこのようなものであるので、神的な真理について決して推論しないし、まして何らかの真理について、「そうです」、「そうではありません」などと言い争わないで、信じることまたは信仰を持つことが何であるかも知りません。なぜなら、彼らは、「信仰とは何ですか? なぜなら、そのようであることを、私は知っているし、見てもいるからです」と言うからです。
彼らは、このことを次のたとえによって説明しています。すなわち、ある者が仲間と、家やその中のものを、その周囲のいろいろなものを見て、仲間に、「これらが存在することを信じなければなりません、見ているようなそのようなものであることを信じなければなりません」と言うようなものです。または、だれかが庭園を、そこの木や実を見て、仲間に、「庭が存在し、木や実が存在するという信仰を持つべきです」と言うようなものです。それでもそのとき、その仲間はそれらを自分の目で明らかに見ています。これがそのたとえです――それで、それらの天使は、決して信仰のことを言わないで、それについての何の観念ももちません。それゆえ、神的な真理について推論しませんし、まして何らかの真理について、「そのようです」、「そのようではありません」などと言い争いません(*5)
[3]けれども、第一の天界または最外部の天界の天使は、自分たちにいのちの第一の段階しか開かれていないので、自分の内的なものに刻み込まれたような神的な真理をもちません。それゆえ、彼らはそれらについて推論します。推論する者は、推論する事柄の対象を越えて、ほとんど何も見ません、または主題を越えて進むこともなくて、ただそれらについて何らかのものを確証するだけであり、確証したとき、「これは信仰のものです。信じるべきものです」と言います。
[4]これらのことについて、私は天使と話しました。彼らは、「第三の天界の天使の知恵と第一の天界の天使の知恵の間には、照らされたものと不明瞭なものの間のような相違があります」と言いました。さらにまた、第三の天界の天使の知恵を、周囲に長くて広い楽園があり、そのまわりに多くの種類の荘厳なものがある宮殿にたとえました。その荘厳な宮殿は役に立つすべてのもので満ちています。彼らは、「その天使は知恵の真理の中にいるので、宮殿の中に入ること、すべてのものを見ること、さらにまた楽園のどこでも散歩すること、すべてのものを楽しむこともできます」と言いました。
けれども、真理について推論する者は異なり、それらについて言い争う者はさらに異なります。これらの者は真理を真理の光から見ないで、それらを他の者から、または、みことばを内的に理解していないで文字どおりの意味から見るので、「信じるべきものである。または信仰を持つべきものである」と言い、その後、その中に内的な視覚で入ろうとしません。これらの者について天使は、「彼らは知恵の宮殿の最初の入り口に来ることができません。ましてその中に入り、その楽園を散歩することはできません。最初の一歩で立ち止まってしまうからです」と言いました――真理そのものの中にいる者は異なります。これらの者を妨げるものは何もなく、限界なしに歩きまわり、進みます、なぜなら、彼らの見る真理が、どこへでも進むのを導き、広い平野へ導き、それぞれの真理は無限に広がり、他の多種多様なものと結合しているからです。
[5]さらに彼らは、「最内部の天界の天使の知恵は、特に、個々の対象の中に神的なものと天界的なものを見ることに、多くのものの系列の中に驚くべくものを見ることにあります」と言いました。なぜなら、彼らの目の前に現われるすべてのものは対応するからです――例えば、宮殿や庭園を見るとき、彼らの熟視は目の前にあるようなものにとどまらないで、それらからの内的なものを、それらに対応するものを見ます。またそれらを対象の外観にしたがったいろいろなものすべてとともに、したがって同時に無数のものを順序と関連の中で見ます。その時、彼らはそれらのものに我を忘れると思えるほど心が快くなります。
天界の中に現われるすべてのものは主から天使のもとにある神的なものに対応することは前に述べました(170-176番)。


*5 天的な天使は、無数のものを知っており、霊的な天使と比べて計り知れないほど賢明である(2718)。
天的な天使は、主から信仰に属すすべてのものの知覚の中にいるので、霊的な天使のように信仰から考えず、話さない(202, 597, 607, 784, 1121, 1387, 1384, 1442, 1919, 7680, 7877, 8780, 9277, 10336)。
信仰の真理については、単に「そう、そう」、あるいは「いいえ、いいえ」と言う、しかし、霊的な天使は、そうであるかどうか推論する(2715, 3246, 4448, 9166, 1078)。そこに主のことば、「ことばは、そう、そう、いいえ、いいえ、でありなさい」(マタイ5:37)が説明されている。

天界と地獄

270◀︎目次▶︎272

271  第三の天界の天使がこのようなものであることは、彼らが主への愛の中にいて、その愛により心のものである内的なものが第三の段階にまで開かれ、その愛が知恵のすべてのものの容器であるからです。
さらに、最内部の天界の天使はそれでも絶えず知恵を完成させられており、このこともまた最外部の天界の天使とは異なることを知らなくてはなりません。
最内部の天界の天使は神的真理を記憶の中に蓄えないで、したがってそれらから何らかの知識をつくることもしないで、それらを聞くと直ぐに、それらを知覚し、生活に適用します。ここから、神的真理は彼らのもとに刻み込まれたかのようにとどまります、なぜなら、生活に適用されるものは、このように内在するからです。
けれども、最外部の天界の天使に事実は異なっています。彼らは神的真理を最初、記憶の中に蓄え、そして知識の中にしまい込み、そこからそれらを取り出し、それらによって自分の理解力を完成させ、真理であるかどうかを内的に知覚しないで、それらを意志し、生活に適用します――ここから、彼らにとって〔神的真理は〕相対的に不明瞭なものです。
第三の天界の天使が知恵を完成させられるのは聴覚によるのであって、視覚によるのではないことは話しておく価値があります。彼らが説教から聞くものは、記憶の中に入らないで、直接に知覚と意志の中に入り、生活に属すものになります。けれども、目で見るものは彼らの記憶に入り、それらについて推論し、話します。ここから、彼らにとって聴覚の道が知恵の道であることが明らかです。
このこともまた対応によります、なぜなら、耳は従順に対応し、従順は生活に属すからです。しかし、目は知性に対応し、知性は教えに属すものです(*6)
天使のこれらの状態は、みことばの中のあちこちにもまた記述されています。 例えば「エレミヤ書」に――

わたしはわたしの律法を彼らの精神に植え付け、彼らの心にそれを書きつける。……これからはだれも 、「エホバを知れ」と言って、自分の友に教えず、自分の兄弟にも教えない。なぜなら、彼らの最小の者から彼らの最大の者まで、それほどの数の者がいて、わたしを知るからである31:33, 34)。

また「マタイ福音書」に、

あなたがたのことばは、「そう、そう」、「いいえ、いいえ」でありなさい。これらを超えるものは、悪からのものです5:37)。

これらを超えるものが悪からであることは、主からのものではないからです。なぜなら、第三の天界の天使に内在する真理は、主への愛の中にあるので、主から存在するからです――その天界の中の主への愛は、神的真理を意志し、行なうことです、なぜなら、神的真理は天界の主であるからです。


*6 耳と聴覚の対応について(4652-4660)。
耳は知覚と従順に対応し、ここからそれらを意味する(2542, 3869, 4653, 5017, 7216, 8361, 9311, 9397, 10061)。
耳は真理の受け入れを意味する(5471, 5475, 9926)。
目とその視覚の対応について(4403-4421, 4523-4534)。
ここから、目の視覚は信仰に属す知性そしてまた信仰を意味する(2701, 4410, 4526, 6923, 9051, 10569)。

天界と地獄

271◀︎目次▶︎273

272  天使がこれほど大きな知恵を受けることができる理由は、前に示したもの以外に、彼らに自己愛がないことです。これは天界の中で主要なことです。なぜなら、その愛がなければないほど、それだけ神性において賢明になれるからです――その愛は、主と天界に向けて内的なものを閉ざし、外的なものを開いて、自分自身をそれへ向けさせるものです。それゆえ、その愛が支配しているすべての者は、世のものに関してどれほど光の中にいても、天界のものに関して暗黒の中にいます。
けれどもこれに反して、天使にその愛はないので、彼らは知恵の光の中にいます。彼らが浴している天界的な愛は、主への愛と隣人に対する愛であり、それらの愛は主からのものであり、それらの中に主ご自身がおられるので、内的なものを開くからです(これらの愛が全般的に天界をつくり、それぞれのもとに個別に天界をつくることは前の13-19番参照)。
天界的な愛は主に向けて内的なものを開くので、それゆえ、すべての天使は自分の顔を主に向けて回転させます(142番)。霊界では、愛は、それぞれの者の内的なものを愛自体へ向けさせ、内的なものが向かうそこへ顔もまた向けさせるからです。なぜなら、そこでは顔は内的なものと一つとして働き、内的なものの外なる形であるからです。
愛は内的なものと顔を愛自体に向けさせるので、それゆえ、さらにまた、その愛自体をそれらに結合させます、なぜなら、愛は霊的な結合であるからであり、それゆえまた、その愛自体をそれらに伝達します。
その回転から、そこからの結合と伝達から、天使に知恵があります(霊界の中のすべての結合は回転にしたがっていることは前の255番参照)。

天界と地獄

272◀︎目次▶︎274

273  天使は絶えず知恵を完成させられます(*7)。しかしそれでも、彼らの知恵と主の神的知恵の間に何らかの割合が存在するほどにまで、永遠に完成されることはできません。なぜなら、主の神的知恵は無限であり、天使の知恵は有限であって、無限と有限の間に割合は存在しないからです。


*7 天使は永遠に完成される(4803, 6648)。

天界と地獄

273◀︎目次▶︎275

274  知恵は天使を完成させ、彼らの生活(いのち)をつくり、天界はその善とともに彼の知恵にしたがってそれぞれの者に流入するので、それゆえ、そこのすべての者は、食物に飢えている人間とほとんど変わらないかのように、知恵をほしがります――食物が自然的な滋養物であるように、知識・知性・知恵は霊的な滋養物です。ここにもまた互いに対応があります。

天界と地獄

274◀︎目次▶︎276

275  天使は、一つの天界の中で、また天界の一つの社会の中でも、同じような知恵の中にはいないで、異なる知恵の中にいます。中央にいる者は最大の知恵の中にいて、その周囲から辺境にかけて、そこにいる者の知恵は少なくなります――知恵は中央からの距離にしたがって、光が陰へ向かって減少するように減少します(前の43-128番参照)。
さらにまた彼らのもとの光は、その距離と似た段階にあります。天界の光は神的知恵であり、それぞれの者はその知恵を受け入れるのにしたがって光の中にいるからです(天界の光とそれをいろいろに受けることについては前の126-132番参照)。

 

天界と地獄

275◀︎目次▶︎277

31 天界の天使の無垢の状態

276  無垢とは何か、それはどんなものか、世ではわずかな者に知られていますが、悪の中にいる者にはまったく知られていません――確かに、目に見え、それは特に幼児の顔・話し方・振る舞いから見られますが、それでも、それが何か知られていませんし、まして人間のもとでその中に天界が隠れていることは知られていません。
そこで、知られるために、私は、順に進めて、最初に幼児の無垢について、その後に知恵の無垢について、最後に無垢に関する天界の状態について述べます。

天界と地獄

276◀︎目次▶︎278

277  幼児期のまたは幼児の無垢は本物の無垢ではありません、なぜなら、単に外なる形の中にあって、内なるものではないからです。それでもやはり、彼らの顔から、彼らの振る舞いのあるものから、彼らの最初期の話し方から輝き出て、感動させるので、無垢がどんなものであるか学ぶことができます。すなわち、思考のもととなる善と悪が何なのか、また真理と虚偽が何なのかをまだ知らないので、彼らに内なる思考がないことです。
[2]ここから彼らに、プロプリウム(固有のもの)からの思慮分別はなく――意図や熟考もなく、したがって悪の目的もありません。彼らに自己愛と世俗愛から得られたプロプリウムはありません。自分自身に何も帰さないで、すべてのものを自分の両親から受けたとしています。自分に与えられたわずかなものやちっぽけなもので満足し、それらで喜びます。食物や衣服についての心配も、将来についての心配もありません。世を眺めて、そこから多くのものを望むこともありません――自分の両親・自分の乳母・仲間の幼児を愛し、彼らと無邪気に(無垢の中で)遊びます。導かれるままに、聞き従います――
[3]そしてこの状態の中にいるので、すべてのものをいのちで受け入れます。ここから彼らには、どこからなのか知らなくても、きちんとした行儀や話し方があり、ここから彼らに記憶力と思考の最初の段階があり、それらを受け入れたり、吸収する手段として彼らの無垢の状態が役立っています。
しかし、この無垢は、前に言われたように、外なるものであり、心(mens)に属さないで単に身体に属すものです(*1)。なぜなら、心は理解力と意志であり、ここから思考と情愛があるので、彼らの心はまだ形作られていないからです。
[4]私は天界から、「幼児は特に主の導きのもとにあり、無垢の状態が存在する最内部の天界からの流入があります。流入は彼らの内的なものを通過し、通過する中で、それらの内的なものは無垢によってだけ働きかけられます。ここから、無垢が顔の中や何らかの振る舞いの中にもたらされ、現われます。またそれは両親に深い情愛を感じさせ、親心(ストルゲー)と呼ばれる愛をつくります」と言われました。


*1 幼児の無垢は真の無垢ではない、真の無垢は知恵の中に宿っている(1616, 2305, 2306, 3494, 4563, 4797, 5608, 9301, 10021)。
幼児の善は霊的な善ではない、真理を植え付けられて霊的な善になる(3504)。
それでも、幼児の善は知性が植え付けられる手段である(1616, 3183, 9331, 10110)。
人間は幼児期の無垢の善がないと獣になる(3494)。
幼児期に吸収されたどんなものも、自然的なものに見える(3494)。

天界と地獄

277◀︎目次▶︎279

278  知恵の無垢は、内なるものなので本物の無垢です。なぜなら、心(mens)のものそのもの、したがって意志のものとここから理解力のものそのものであるからです。それらの中に無垢があるとき、知恵もまたあります、なぜなら、知恵はそれらに属すからです。
ここから天界で、「無垢は知恵の中に宿り、天使に無垢があればあるほど、それだけ天使は知恵の中にいる」と言われます――このようであることを天使は、無垢の状態の中にいる者が、自分自身に何も善を帰さないで受けたものすべてを主に帰することによって、自分自身により導かれるのではなくその方により導かれることを欲することよって、確信しています。彼らは、善を愛し、そのようにそれを欲し、行なうことは主を愛すること、真理を愛することは隣人を愛することであることを知り、知覚しているので、善であるものすべてを愛し、真理であるものすべてを喜びます。少しであろうと多くであろうと、自分自身のものに満足して生活しています。役立てば役立つほど、それだけ受けることを知っていて、役立ちが少ない者には少しのものが、役立ちが多い者には多くのものが与えられており、何が自分に役立つか知らないで、主だけが永遠のいのちを目的としたものを知られ、それをすべて備えられると知っているからです――
[2]ここから、将来についても心配していません。将来についての心配を、〝明日のための心配〟と呼んで、「いのちの役立ちに必要でないものを奪われるかまたはこのようなものを受けないことによる悲しみです」と言っています――仲間に対して決して悪の目的から行動しないで、善・公正・誠実から行動します。彼らは、悪の目的から行動することを狡猾と呼び、無垢にまったく反しているので、これをヘビの毒のように避けます。
主から導かれることほど彼らが愛するものは何もなく、また受けたものはすべてその方により受けたとしているので、それゆえ、自分自身のプロプリウムから遠ざかっています、自分自身のプロプリウムから遠ざかるほど、それだけ主が流入します。ここから、みことばによろうと説教によろうと、主から聞くことを記憶の中に蓄えないで、直ちにそれに従います、すなわち、意志し、行ないます。彼らの記憶がそのまま意志です。
彼らの大部分は、外なる形の中で単純な者に見えますが、内なるものの中では賢明で分別のある者です。彼らは主により〔次のみことばで〕意味される者です、

蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさいマタイ10:16)。

無垢はこのようなものであり、知恵の無垢と呼ばれます。
[3]無垢は、それ自体に何も善を帰さないで、すべての善を主に帰し、このように主から導かれることを愛するので、ここから善と真理をすべて受け入れ、そのことから無垢には知恵があります。それゆえ、人間は、幼児のとき外なる無垢の中に、しかし、老人になったとき内なる無垢の中にいて、前者の無垢によって後者の無垢の中にやって来て、後者の無垢から前者の無垢の中に戻るように、このように創造されています――それゆえ、人間は老人になるとき、身体もまた縮小し、新たに幼児のようになります、しかし、分別のある幼児であり、そのように天使となります。なぜなら、分別のある幼児はすぐれた意味で天使であるからです。
ここから、みことばの中で「幼児」は無垢を、「老人」は無垢がある賢明な者を意味します(*2)


*2 みことばの中の「幼児」によって無垢が意味される(5608)。「乳児」によっても意味される(3183)。
老人によって賢明な者が意味され、抽象的な意味で知恵が意味される(3183, 6524)。
人間は、老年に向かうほど幼児のようになり、その時、無垢が知恵の中にあり、そして、その状態で人間は天界に移り、天使になるように創造されている(3183, 5608)。

天界と地獄

278◀︎目次▶︎280

279  再生するすべての者も同様です。
再生は、霊的な人に関して、再び生まれることです――その者は最初に幼児期の無垢の中に導き入れられます、その無垢とは、真理を何も知らず、自分自身からは善を何も行なうことができず、主だけから行なうことができ、ただ真理であり、善であるという理由から、真理と善を望み、ほしがることです。真理と善もまた、年齢が進むに応じて、主から与えられます。彼は最初に真理と善の知識の中に導かれ、その後、知識から知性の中へ、最後に知性から知恵の中へ導かれ、そこには常に無垢が伴っています。その無垢とは、いま述べたように、真理を何も知らず、自分自身からは何も善を行なうことができないで、主からできることです――この信仰とその知覚がなくては、だれも天界から何も受けることができません。知恵の無垢は特にそのことの中にあります。

天界と地獄

279◀︎目次▶︎281

280  無垢は主により導かれることであり、自分自身により導かれることではないので、ここから、天界の中にいるすべての者は無垢の中にいます、なぜなら、そこにいるすべての者は主により導かれることを愛するからです。彼らは、自分自身を導くことはプロプリウムにより導かれることであり、プロプリウムは自分自身を愛することであって、自分自身を愛する者は他の者により導かれることを許さない、と知っているからです。
ここから、無垢の中にいればいるほど、それだけ天界の中に、すなわち、それだけ神的善と神的真理の中にいます、なぜなら、これらの中にいることは天界の中にいることであるからです。
それゆえ、天界は無垢にしたがって区別されます。最も低いまたは第一の天界にいる者は、最初または最も低い段階の無垢の中にいます。中間または第二の天界にいる者は、第二または中間の段階の無垢の中にいます。けれども、最内部または第三の天界にいる者は、第三または最内部の段階の無垢の中にいます。それゆえ、これらの者は天界の無垢そのものです、なぜなら、幼児が自分の両親により導かれるように、他の者にまさって主により導かれることを愛するからです。それでまた、神的な真理を主から直接に聞くと、あるいはみことばや説教によって間接に聞くと、直ちに意志に受け入れ、それを行ない、こうして生活に取り入れます。
ここから、彼らには低い天界の天使にまさる大きな知恵があります(270, 271番参照)。
それらの天使はこのようであるので、彼らに無垢をもたらす主の最も近くにいて、プロプリウムからも切り離されて、あたかも主の中で生きているかのようです。
彼らは外なる形では単純な者に見え、低い天界の天使の目の前には幼児のよう、そのように子どもに見えます。そしてまたそれほど賢明でないようですが、それでも天界の天使の最も賢明な者です。というのは、彼らは、自分自身からは自分たちに何も知恵はないこと、賢明であることはそのことを認めること――さらに自分たちの知っていることは、知らないことと比べれば、いわば無であることを知っているからです。彼らは、「このことを知り、認め、知覚することは、知恵への最初の段階です」と言っています。
さらにまた裸は無垢に対応するので、それらの天使は裸です(*3)


*3 最内部の天界のすべての者は無垢である(154, 2736, 3887)。
それゆえ、彼らは他の者に幼児のように見える(154)。
彼らは裸でもある(165, 8375, 9960)。
裸は無垢に属す(165, 8375)。
霊たちには、衣服を脱ぎ、自分の裸を示すことによって無垢を証明する習慣がある(165, 8375, 9960)。

天界と地獄

280◀︎目次▶︎282

281  私は天使と無垢について多くのことを語り、無垢はすべての善のエッセ(存在)であり、ここから善はその中に無垢があればあるほど、それだけ善であること、その結果、知恵は無垢により導かれれば導かれるほど、それだけ知恵であり、愛・仁愛・信仰も同様であり(*4)、ここから、だれもその者に無垢がないなら、天界に入ることができないことを知らされました――そのことが主により〔次のみことばで〕意味されています、

幼児(子ども)をわたしのところに来させなさい。止めてはなりません。天界の王国は、このような者のものです。まことに、あなたがたに言います。幼児(子ども)のように天界の王国を受け入れるのでなければ、だれも入ることはできません[マタイ19:14; 18:3]マルコ10:14, 15 ルカ 18:16, 17)。

そこの「幼児」によって、他の箇所のみことばのように、無垢が意味されます(*5)。さらにまた主により無垢の状態が述べられていますが(マタイ6:24, 25)、それは対応そのものによっています――善がその中に無垢を含めば含むほど善であることの理由は、すべての善は主からのものであり、無垢は主により導かれることを欲するからです。
さらにまた私は、無垢によらないなら、真理は善に、善は真理に結合することができないことも知らされました。ここからまた、天使は、彼の中に無垢がないなら天界の天使ではありません。なぜなら、ある者の中で真理が善と結合する以前に、その者の中に天界は存在しないからです――ここから善と真理の結合は天界の結婚と呼ばれ、天界の結婚は天界です。
さらにまた私は、真の結婚愛はその存在を無垢から導いていることを知らされました。善と真理の結合から、その中に二つの心(mens)が、すなわち、夫と妻の二つの心があるからです。その結合が降るとき、結婚愛の姿で現われます――なぜなら、夫婦は、彼らの心のように、互いに愛するからです。
ここから、結婚愛の中に幼児のようなまた無垢のような戯れがあります(*6)


*4 すべての愛の善と信仰の真理は、善と真理であるために、それ自体の中に(本質的に)無垢をもたなければならない(2526, 2780, 3111, 3994, 6013, 7840, 9262, 10134)。
無垢は善と真理の本質的なものである(2780, 7840)。
何らかの無垢がないなら、だれも天界の中に入れられない(4797)。
*5 ここには278番の*2と同じ記号が振られている。
*6 真の結婚愛は無垢である(2736)。
結婚愛は他の者が欲することを欲すること、このように相互に、交替に欲することである(2731)。
結婚愛の中にいる者は、いのちの最内部で一緒に住んでいる(2732)。
二つの心の結合があり、このようにそれらは愛から一つである(10168, 10169)。
真の結婚愛は、善と真理の結婚から起源と本質を得ている(2728, 2729)。
結婚のものがあるかどうか、善と真理の結合の観念から知覚をもつ天使的な霊について(10756)。
結婚愛は、善と真理の結合とまったく同様である(1904, 2173, 2508, 2729, 3103, 3132, 3155, 3179, 3180, 4358, 5807, 5835, 9206, 9207, 9495, 9637)。
それゆえ、みことばの中で「結婚」によって、天界の中にあるような、また教会の中になくてはならないような善と真理の結婚が意味される(3132, 4434, 4834)。

天界と地獄

281◀︎目次▶︎283

282  無垢は天界の天使のもとの善のエッセ(存在)そのものであるので、主から発出する神的善は無垢そのものであることが明らかです、なぜなら、その善は天使のもとに流入し、彼らの最内部に働きかけ、そして天界のすべての善を受け入れるように整え、適合させるものであるからです――幼児のもとでも同様です、主からの無垢の貫流によって、彼らの内的なものが形成されるだけでなく、さらにまた絶えず天界的な愛を受け入れるように整えられ、適合させられます。すでに述べたように、善の無垢はすべての善のエッセであるので、それは最内部に働くからです。
これらから、すべての無垢は主からであることを明らかにすることができます――ここから、主はみことばの中で小羊と言われています、なぜなら「小羊」は無垢を意味するからです(*7)
無垢は天界のすべての善の中の最内部のものであるので、それゆえまた、その無垢が心に働きかけるとき、それを感じる者は、このことは最内部の天界の天使が近づくことで起こりますが、自分が自分自身の支配下にないように、いわば取り去られるように見え、ここから、世のすべての快さと比べれば、その快さが何ら存在しないと思えるような快さを感じます――私はこのことを知覚したので、語っています。


*7 みことばの中の「小羊」は、無垢とその善を意味する(3994, 10132)。

天界と地獄, 未分類

282◀︎目次▶︎284

283  無垢の善の中にいるすべての者は、無垢に感動します。だれかが善の中にいればいるほど、それだけ感動します――しかし、無垢の善の中にいない者は、無垢に感動しません――それゆえ、地獄の中のすべての者は、まったく無垢に対立しています。無垢とは何かも知りません。それどころか、だれかが無垢であればあるほど、それだけ彼に危害を与えようと燃え立つような者です――ここから、彼らは幼児を見ることに耐えられません。見るとすぐに、傷つけようとする残酷な欲望で燃え上がります。
そのことから、人間のプロプリウムは、またそこからの自己愛は、無垢に対立していることが明らかです。なぜなら、地獄にいるすべての者は、プロプリウムの中に、またそこから自己愛の中にいるからです(*8)


*8 人間のプロプリウム(固有のもの)は、主よりも自分自身を、また天界よりも世を愛し、自分自身に比べて隣人を無とすることである。このように自己愛と世俗愛である(694, 731, 4317, 5660)。
悪い者は、無垢の臨在に耐えられないようにまでも、まったく無垢と対立している(2126

天界と地獄

283◀︎目次▶︎285

32 天界の平和の状態

284  天界の平和にいたことのない者は、天使たちが浴している平和とは何か知覚することができません。人間もまた身体の中にいるかぎり天界の平和を受けることはできません、人間の知覚は自然的なものの中にあるのでその平和を知覚することができないのです。
人間が受けるためには、その者は思考に関して身体から高揚され、引き出され、霊の中に置かれ、そのとき天使とともにいることができるようになる必要があります。
このようにして私は天界の平和を知覚したので、それを述べることができます。しかし、本質的にどんなものであるかは言葉にできません、人間の言葉はそれを表現するのに適当ではないからです。言葉では、神の中で満ち足りた者がもつ魂の安らぎと比較して、それがどんなものであるかを述べることができるだけです。

天界と地獄

284◀︎目次▶︎286

285  天界に二つの最も内なるものが、すなわち、無垢と平和があります。
最も内なるものと言われるのは、主から直接に発出するからです。
無垢から天界のすべての善があり、平和から善のすべての快さがあります。すべての善にはそれ自体の快さがあり、善と同じく快さは二つとも愛に属します、なぜなら、愛するものは善と言われ、快さとしても知覚されるからです――ここから、二つの最も内なるものである無垢と平和は、主の神的愛から発出して、天使を最内部から感動させることになります。
無垢が善の最も内なるものであることは、天界の天使の無垢の状態が述べられている直前の章の中に述べました。しかし、平和が無垢の善からの快さの最も内なるものであることは、今から説明します。

天界と地獄

285◀︎目次▶︎287

286  平和がどこからなのか最初に述べます。
神的平和は、主の神性そのものと神的人間性の結合から存在し、その方の中にあります。
天界の神的平和は、天界の天使との主の結合から、個別的には、それぞれの天使のもとの善と真理の結合から存在し、その方からのものです――これらが平和の起源です。
このことから、天界の平和は、そこのすべての者の善に至福をもって内部で働きかけている神性であり、したがってその平和から天界のすべての楽しさがあり、その本質の中に主と天界との、また主とそこのそれぞれの者との結合から、主の神的愛の神的楽しさがあることが明らかです――天使の中で主により知覚され、また主から天使により知覚されたこの楽しさが平和です。
ここから派生したものによって、天使にすべての幸運・快さ・幸福、すなわち、天界の楽しさと呼ばれるものがあります(*1)


*1 平和は主からなので、平和によって最高の意味で主が意味される。内意では、天界にいる者は平和の状態の中にいるので、天界が意味される(3780, 4681)。
天界の平和はそこの善と真理のすべての至福をもって内部で働きかける神性であり、これは人間に理解できないものである(92, 3780, 5662, 8455, 8665)。
神的平和は善の中にある、けれども、善のない真理の中にはない(8722)。

天界と地獄

286◀︎目次▶︎288

287  ここから平和の起源があるので、それゆえ、主は「平和の君」と呼ばれ、主は、「わたしから平和があり、わたしの中に平和がある」と言われます。さらに以下の箇所のように、天使は「平和の天使」、天界は「平和の住むところ」と言われます――

子が私たちに生まれ、息子が私たちに与えられ、その肩の上に主権がある。その方の名は、不思議な方、助言者、神、英雄、永遠の父、平和の君と呼ばれる。主権は増し加わり、平和は終わりがないイザヤ 9:6, 7)。
イエスは言われた、「わたしは、あなたがたに平和を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平和を与えます。世が与えるようにではなく、わたしは、あなたがたに与えます」ヨハネ 14:27)。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたが、わたしにあって平和を持つためですヨハネ16:33)。
エホバがご自分の顔をあなたに上げ、あなたに平和を与える民数記 6:26)。
平和の天使たちは激しく泣く。大路は荒れ果てているイザヤ 33:7, 8)。
義の働きは平和となる。…… わたしの民は平和な住まいに住むイザヤ 32:17, 18)。

[2]みことばの中の「平和」によって意味されるものが神的なまた天界の平和であることは、その言葉のでてくる他の箇所からもまた明らかにすることができます(例えば、イザヤ52:7; 54:10; 59:8 エレミヤ 16:5; 25:37; 29:11 ハガイ2:9 ゼカリヤ8:12 詩篇 37:37。また他の箇所に)。
平和は主と天界を意味し、天界の楽しさと善の快さもまた意味するので、それゆえ、「平和があなたがたにあるように」は、古代の挨拶であって、ここから今日でもまたそうです。主もまた、送り出された弟子たちに言われたので、このことは確かです、

あなたがたは、どの家に入っても、最初に、「この家に平和あれ」と言いなさい。もしそこに平和の子がいたなら、あなたがたの平和はその上にとどまりますルカ10:5, 6)。

主ご自身もまた、使徒たちに現われたとき言われています、

平和があなたがたにあるようにヨハネ 20:19, 21, 26)。

[3]さらにまた、エホバが「休息のかおりをかがれる」と言われていることによって、平和の状態が意味されます(例えば、出エジプト記 29:18, 25, 41。レビ記1:9, 13, 17; 2:2, 9; 6:8, 14; 23:12, 13, 18。民数記 15:3, 7, 13; 28:6, 8, 13; 29:2, 6, 8, 13, 16)。
「休息のかおり」によって天界的な意味で平和の知覚が意味されます(*2)
「平和」は主の中の神性そのものと神的人間性の結合を意味し、天界との結合また教会との結合を、そして天界の中のまたその方を受け入れる者の教会の中のすべてのものとの結合を意味するので、それゆえ、それらの記念に安息日が制定され、休息または平和から命名され、教会のものを表象する最も聖なるものでした。そしてそれゆえ、主はご自分を「安息日の主」と呼ばれました(*3)マタイ 12:8。マルコ 2:27, 28。ルカ 6:5)。


*2 みことばの中の「におい(かおり)」は、愛と信仰の性質にしたがった快いものあるいは不快なものの知覚を意味し、その性質について述べられている(3577, 4626, 4628, 4748, 5621, 10292)。
「休息のかおり」は、エホバについてであるなら、平和の知覚である(925, 10054)。
それゆえ、乳香・香・油・軟膏のにおい(かおり)は、表象するものとなった(925, 4748, 5621, 10177)。
*3  最高の意味で「安息日」は、主の中の神性そのものと神的人間性の結合を意味した。内意では、天界との、また教会との主の人間性の結合を、全般的には、善と真理の結合を、このように天界の結婚を意味した(8495, 10356, 10730)。
ここから、「安息日の休息」は、その時、主の休息とそれによって天界と地上に平和と救いがあるので、その結合の状態を意味した。また相対的な意味では、その時、人間に平和と救いがあるので、人間と主の結合である(8494, 8510, 10360, 10367, 10370, 10374, 10668, 10730)。

天界と地獄

287◀︎目次▶︎289

288  天界の平和は、天使のもとの善そのものに至福をもって最内部から働きかける神性であるので、自分の生活の善の中にあるときの心の快さを通してでなくては、また自分の真理に一致している真理を聞くときの快感を通してでなくては、またそれらの結合を知覚するときの心の快活さを通してでなくては、彼らに明らかに知覚にされることはありません。それでもこれらから、彼らの生活のすべての活動と思考の中に流入し、そこに楽しさとして現われ、外なる形の中にもまた現われます。
[2]しかし、平和は、性質と量に関して、無垢と歩みをともにするので、天界にいる者の無垢にしたがって天界の中で異なります。なぜなら、前に述べたように、無垢から天界のすべての善があり、平和から善のそのすべての快さがあるからです。
ここから、無垢と平和は善とその快さのように結合しているので、以前の章の中で天界の中の無垢の状態について言われたことと同様のことが言えることを明らかにすることができます、善はそれ自体の快さによって感じられ、快さはそれ自体の善から知られるからです。
このようであるので、最内部または第三の天界の天使は、無垢の第三または最内部の段階の中にいるので平和の第三または最内部の段階の中にいることが、また低い天界の天使は、劣る段階の無垢の中にいるので劣る段階の平和の中にいることが明らかです(前の280番参照)。
[3]善とその快さが一緒であるように、無垢と平和が一緒であることは幼児のもとに見ることができます。彼らは無垢の中に、さらにまた平和の中にいるからです。また平和の中にいるので、それゆえ、彼らのすべてのものは戯れに満ちています。
しかし、幼児のもとの平和は外なる平和であり、内なる平和は内なる無垢のように知恵の中でないなら与えられません。また知恵の中で与えられるので、善と真理の結合の中で与えられます、なぜなら、ここから知恵があるからです。
さらにまた天界の平和または天使の平和は、善と真理の結合から知恵の中にいて、ここから神の中に自分自身がいることに満足を覚える人間たちのもとに与えられます。しかし、世に生きる間、それは彼らの内的なものの中に深く隠れています、それでも、身体を残し、天界に入るとき現わされます、なぜなら、その時、内的なものが開かれるからです。

天界と地獄

288◀︎目次▶︎290

289  神的平和は、天界と主の結合から、また特定的にはそれぞれの天使のもとの善と真理の結合から存在するので、それゆえ、天使は、愛の状態の中にいる時、平和の状態の中にいます、なぜなら、その時、彼らのもとに善が真理と結合されるからです(天使の状態がときどき変わることは前の154-160番参照)。
再生する人間の場合も似ています。彼のもとに善と真理の結合が存在する時、それは特に試練の後に生じますが、その時、彼は天界の平和からの快い状態の中に来ます(*4)
この平和は、春の時の朝または夜明けのようです。その時、夜が過ぎ去って、太陽が昇ることにより、地のすべてのものは新たに生かされ、天から降ってくる露から、植物の香りがあたりにまき散らされ始め、そしてまた春のほどよい穏やかさにより、土地は肥沃となり、人間の心は快くなります。このことは、春の時の朝または夜明けが天界の天使の平和の状態に対応するからです(*5)155番参照)。


*4 再生する人間のもとの善と真理の結合は、平和の状態の中で行なわれる(3696, 8517)。
*5 天界の平和の状態は、地上の夜明けと春の状態のようである(1726, 2780, 5662)。

天界と地獄

289◀︎目次▶︎291

290  さらにまた私は天使と平和について語りました。私は、「世では国々の間で戦争や敵意がやんでいるとき、また人間たちの間で反目や不和がやんでいるとき、平和と呼ばれます。内なる平和は、心配事から離れた心の休養であって、特に物事がうまくいっているときの穏やかさや快さであると信じられています」と言いました――しかし、天使は、「心(animus)の安らぎ、また心配事から離れて、物事が成功しているときの穏やかさや快さは平和のように見えます、しかし、天界の善の中にいる者のもとにあるものでないかぎり、平和はその善の中にしか与えられないので、平和とは言えません。平和は主から彼らの最内部に流入し、彼らの最内部からその低いものの中に降り、流れ下り、〔内的な〕心(mens)の安らぎ、〔外的な〕心(animus)の静けさ、そこからの楽しさをもたらすからです。
けれども、悪の中にいる者のもとに平和は与えられません(*6)――確かに、彼らの思い通りに物事が続く時、休息・静けさ・快さのように見えます。しかし、それは外面的なものであって内面的なものではありません。内部には反目・憎しみ・復讐・残酷・多くの悪の欲望が燃え、さらに彼らの心(animus)は、自分に好意をもたない者を見ると直ぐにそれらの中へと駆り立てられ、恐怖のない時、それらの悪が突発するからです。ここから、彼らの快さは狂気の中に宿っています、しかし、善の中にいる者の快さは知恵の中に宿っています。その相違は地獄と天界の間のようです」と言いました。


*6 自己愛と世俗愛に属す欲望は、平和をまったく取り去る(3170, 5662)。
ある者は平和を騒動(不安)にし、そして平和に反するようなものにする(5662)。
悪の欲望が取り去られないなら、平和は与えられない(5662)。

天界と地獄

290◀︎目次▶︎292

33 人類と天界の結合

291  すべての善は主からであり、人間からは何もなく、それゆえ、だれも自分自身に何らかの善を自分自身のものとして帰してはならないことが、教会ではよく知られています。そしてまた、悪は悪魔からであることもよく知られています――ここから、教会の教えから話す者は、善く行動する者について、そしてまた敬虔に話し、教えを宣べ伝える者について、〝神により導かれている〟と語ります、けれども、悪く行動し、不敬に語る者については反対のことを言います。
このようなことは、人間に天界との結合がないなら、また地獄との結合がないなら、またそれらの結合が彼の意志と理解力とでないなら、ありえません。なぜなら、意志と理解力から身体は行動し、口は語るからです。
その結合がどんなものであるか、今から述べます。

天界と地獄

291◀︎目次▶︎293

292 それぞれの人間のもとに善霊と悪霊がいます――人間は善霊によって天界と、悪霊によって地獄と結合しています。
それらの霊は天界と地獄の間の中間にある霊たちの世界にいますが、その世界については特にあとで扱います。
それらの霊は人間のもとにやって来るとき、彼の記憶のすべてのものの中へ、ここから彼の思考のすべてのものの中へ入ります。悪霊は悪いものである記憶と思考の中へ入ります。けれども、善霊は善いものである記憶と思考の中へ入ります。
霊は人間のもとにいることをまったく知りません。しかし、人間のもとにいるとき、人間のものである記憶と思考のすべてのものを自分自身のものであると信じていて、その人間を見ることもありません、私たちの太陽系の中にあるものは彼らの視覚に入らないからです(*1)
霊が人間のもとにいることを知ることがないように、主により、できるかぎり最大に警戒されています。なぜなら、もし知るなら、人間たちと話すからです。その時、悪霊はその人間を滅ぼします。なぜなら、悪い霊は、地獄と結合しているので、魂に関してだけでなく、すなわち、信仰と愛に関してだけでなく、身体に関しても、人間を滅ぼすことを何よりもまさって望んでいるからです。
人間と話さないなら、これと異なります。その時、彼らは自分の考えているものが、また自分たちの間で話しているものも人間からであることを知りません。なぜなら、霊の間で話していることもまた人間からのものであり、それで、彼らは自分たちのものであると信じます。だれもが自分自身のものを大切にし、愛します――そのようにして、霊は〔知らないうちに〕人間を愛し、大切にするように保たれています。
私は、人間と霊の結合がこのようであることを、多年の絶え間のない経験から、これ以上よく知っていることはないほどによく知っています。


*1 それぞれの人間のもとに天使と霊がいて、彼らによって人間に霊界との伝達がある(697, 2796, 2886, 2887, 4047, 4048, 5846-5866, 5976-5993)。
人間は自分自身のもとに霊がいなくては生きることができない(5993)。
霊が人間に見えないように、人間も霊に見えない(5862)。
霊は、彼らが話している人間によらないなら、人間のもとの私たちの太陽系の中のものを何も見ることができない(1880)。

天界と地獄

292◀︎目次▶︎294

293  地獄と伝達している霊もまた人間と連結しています。人間はあらゆる種類の悪の中に生まれており、ここから彼の最初のいのちはそれらの悪以外のものではないからです。それゆえ、人間に彼自身のような性質をもつ霊が接合していないなら、その人間は生きることができません、それどころか自分の悪から導き出され、改心することもできません――それゆえ、悪い霊によって自分のいのちに中に保たれ、また善い霊によってそれから引き留められ、さらにまた両者によって均衡の中にいます。均衡の中にいるので、自分自身の自由の中にいて、悪から導き出され、善へと曲げられ、また彼に善が植え付けられることもできます。このことは彼が自由の中にいないなら、決して起こりえません。一つの側から地獄からの霊が、またもう一つの側から天界からの霊が働きかけ、人間がその真ん中にいないなら、彼に自由もありえません。
さらにまた、人間が遺伝の中に、ここから自分自身の中にいるかぎり、もし悪の中に、そしてまた自由の中にいることが許されないなら、人間には何もいのちはないこと、さらに、善へと強いられることはできないで、強制したものは定着しないこと、そのようにまた、人間が自由の中で受ける善は、彼の意志に植え付けられ、彼のプロプリウム(固有のもの)のようになることが示されました(*2)。これらのことから、人間に地獄との伝達と天界との伝達があります。


*2 人間は愛するものを自由に行なうので、すべての自由は愛と情愛に属す(2870, 3158, 8987, 8990, 9585, 9591)。
自由は愛に属すので、彼のいのち(生活)に属す(2873)。
自由からのものでないなら、何もプロプリウム(固有のもの)として見られない(2880)。
改心することができるために、人間に自由がなくてはならない(1937, 1947, 2876, 2881, 3145, 3146, 3158, 4031, 8700)。
そうでなければ、善と信仰の愛は人間に植え付けられることが、外観上は自分自身のものであるのように自分のものにすることができない(2877, 2879, 2880, 2883, 8700)。
強制から生じるものは何も人間に結合されない(2875, 8700)。
人間が強制から改心することができるなら、すべての者は改心させられる(2881)。
改心における強制は有害である(4031)。
強制の状態とは何か(8392)。

天界と地獄

293◀︎目次▶︎295

294 善霊との天界の伝達はどのようなものか、また悪霊との地獄の伝達はどのようなものか、またここから天界と地獄の伝達は人間に対してどのようなものかも述べておきます。
霊たちの世界にいるすべての霊に、善い者は天界と悪い者は地獄と、天界または地獄との伝達があります。
天界は社会に分かれ、同様に地獄も社会に分かれています。それぞれの霊が何らかの社会に所属し、またそこからの流入により存続し、したがって一つのものとして活動します――ここから、人間は霊と結合しているように、天界または地獄と、実際にそこの社会と結合していて、自分の情愛または自分の愛に関して、人間はその社会の中にいます。なぜなら、天界のすべての社会は善と真理の情愛にしたがって、また地獄のすべての社会は悪と虚偽の情愛にしたがって分かれているからです(天界の社会については前の41-45番、さらに148-151番参照)。

天界と地獄

294◀︎目次▶︎296

295  人間に結びついている霊は、情愛あるいは愛に関して、その人間自身であるような霊ですが、善い霊が主により人間に結びつけられ、悪い霊が人間自身により呼び出されます。
けれども、人間のもとにいる霊はその人間の情愛の変化にしたがって変化します。ここから、幼児期・少年期・青年期と壮年期・老年期でその霊は異なります――幼児期には、無垢の中にいる霊がそばにいて、この霊は最内部または第三の天界である無垢の天界と伝達しています。少年期には、知ることの情愛の中にいる霊がそばにいて、この霊は最も低いまたは第一の天界と伝達しています。青年期と壮年期には、真理と善の情愛の中に、またここから知性の中にいる者がそばにいて、この霊は第二または中間の天界と伝達しています。けれども老年期には、知恵と無垢の中にいる霊がそばにいて、この霊は最内部または第三の天界と伝達しています。
この接合は、主により、改心し、再生することのできる者のもとでなされます――けれども、改心しないで、再生することのできない者のもとでは異なります。これらの者にもまた善霊が結びつきます、その霊によってできるかぎり悪を押しとどめるためです。しかし、彼らは地獄と伝達する悪い霊と直接に結合していて、そこから彼らにはその人間自身のような霊がいます。もし、自分自身を愛し、あるいは利益を愛し、あるいは復讐を愛し、あるいは姦淫を愛する者であるなら、そうした者に似た霊がそばにいます。その人間の悪の情愛の中に、いわば住みついています。その霊は、善い霊によって悪を引き止められることができないほどに人間を刺激し、情愛を支配するほどに付着し、引き下がることもありません。
このように悪人は地獄と結合し、善人は天界と結合しています。

天界と地獄

295◀︎目次▶︎297

296  人間が主により霊を通して支配されるのは、人間は地獄のものである悪の中に、したがって神的秩序に完全に反するものの中に生まれているので、天界の秩序にいないからです。それゆえ、秩序の中に整えられなくてはなりませんが、霊を通して間接に整えられなくては、整えられることはできません。
もし人間が天界の秩序にしたがっている善の中に生まれていたなら異なっていたでしょう。その時、主により霊を通して支配されずに、秩序そのものによって、このように全般的な流入によって支配されたでしょう。
この流入によって人間は、思考と意志から活動の中へ発出するものに関して支配されています。その発出するものは話すことと行動です。話すことと行動は自然的な秩序にしたがって流れ出るので、それゆえ、人間に接合している霊はその人間の話すことと行動に共通なものを何ももちません。
動物もまた霊界からの全般的な流入によって支配されています、なぜなら、動物は動物自身のいのちの秩序の中にいて、動物に理性はないので、その秩序を歪曲させることも破壊することもできないからです(*3)
人間と獣の間の相違がどのようなものかは前に述べました(39番)。


*3 人間と獣との間には、人間は主によりその方へ高揚され、神性について考え、愛し、このように主に結合されることができ、ここから、永遠のいのちがある、けれども獣は異なっている、という相違がある(4525, 6323, 9231)。
獣はそれ自身の生活(いのち)の秩序の中にいる、またそれゆえ、それ自身の性質に適合するものの中に生まれている――けれども人間はこのように生まれていない、それゆえ、知的なものによって生活(いのち)の秩序に導き入れられなくてはならない(637, 5850, 6323)。
全般的な流入にしたがって、人間のもとで思考は話し方の中に、意志は振る舞いの中に落ち込む(5862, 5990, 6192, 6211)。
獣のいのちの中への霊界の全般的な流入について(1633, 3646)。

天界と地獄

296◀︎目次▶︎298

297  さらに人類と天界の結合に関しては、主ご自身が天界の秩序にしたがって、それぞれの人間のもとに、彼の最内部の中と同じく彼の最外部の中へ流入し、天界を受け入れるべきものへと整え、その最外部を最内部から支配し、同時にその最内部を最外部から支配して、このように彼のすべてと個々のものを結びつきの中に保たれることを知らなければなりません。
主のこの流入は直接の流入と呼ばれます。しかし、霊を通して起こる他の流入は間接の流入と呼ばれ、前者によって後者が存続します。
直接の流入は、主ご自身のものから、主の神的人間性からであり、人間の意志の中へ、意志を通して彼の理解力の中へ、このように人間の善の中へ、善を通して彼の真理の中への流入です。または同じことですが、愛の中へ、愛を通して彼の信仰の中への流入です、けれども逆ではありません、まして愛のない信仰の中へ、または善のない真理の中へ、または意志からのものでない理解力の中へではありません。
その神的流入は絶え間のないものであり、善い者のもとで善の中に受け入れられます、けれども、悪い者のもとでは受け入れられません。悪い者のもとでは、追い払われるか、窒息させられるか、あるいは歪曲させられます。ここから、悪い者に悪のいのちがあり、それは霊的な意味では死です(*4)


*4 主からの直接の流入があり、そしてまた霊界を通しての間接の流入もある(6063, 6307, 6472, 9682, 9683)。
主の直接の流入は、すべてのものの最も個々のものの中にある(6058, 6474-6478, 8717, 8728)。
主は最初のものと同時に最後のものの中へ流入される、どのように〔流入されるか〕(5147, 5150, 6473, 7004, 7007, 7270)。
主の流入は人間のもとの善の中へ、また善を通して真理の中へであり、その逆ではない(5482, 5649, 6027, 8685, 8701, 10153)。
主から流入するいのちは、人間の状態にしたがって、また受け入れにしたがって変化する(2888, 5986, 6472, 7343)。
悪い者のもとで、主から流入する善は悪に、真理は虚偽に変えられる。経験から(3642, 4632)。
悪とそこからの虚偽が妨げなければ妨げないほど、それだけ主から絶えず流入する善とそこからの真理が受け入れられる(2411, 3142, 3147, 5828)。

天界と地獄

297◀︎目次▶︎299

298  人間のもとにいる霊は、天界に結びついている霊と同じく地獄と結びついている霊も、その霊自身の記憶とそこからの思考から、人間のもとに流入することは決してありません、なぜなら、もしその霊自身の思考から流入するなら、人間はその霊に属すものが、自分のものであるとしかわからないからです(前の256番参照)。しかし、それでも彼らを通して人間のもとに天界から善と真理への愛に属すものである情愛が、また地獄から悪と虚偽に属すものである情愛が流入しています。そこで、人間の情愛が流入するそれらの情愛と一致すればするほど、それだけその人間により彼自身の思考に受け入れられます、なぜなら、人間の内的な思考は完全に彼の情愛または愛にしたがっているからです。しかし、一致しなければしないほど、それだけ受け入れられません――ここから、人間のもとに霊を通して思考は持ち込まれないで、善への情愛と悪への情愛だけが持ち込まれます、人間に自由があり、選択があるので、このように思考によって善を受け入れることと悪を退けることができることが明らかです。なぜなら、何が善かまた何が悪か、みことばから知っているからです――人間が情愛から思考に受け入れるものもまた自分のものとされます、けれども、情愛から思考に受け入れられないものは自分のものとされません。
これらから、天界から人間への善の流入がどんなものであるか、また地獄からの悪の流入がどんなものであるか明らかです。

天界と地獄

298◀︎目次▶︎300

299 人間の不安やゆううつ症と呼ばれる心(animus)の苦痛と内的な悲しみは、どこからなのかもまた知らされました。
〔霊たちの世界には〕最初の状態の中にいるので、まだ地獄と結合していない霊がいます。その霊については、このあと、「霊たちの世界」で述べます――彼らは胃の中の腐敗する食べ物のような未消化のものや有害なものを愛します。それらは彼らにとって快いものであるので、それゆえ、人間のそうしたもののところにこのような霊がいて、そのところで悪の情愛から互いに話し合っています。
彼らの会話での情愛がそこから人間のもとに流入し、もしその情愛がその人間の情愛と対立するものなら、彼にとって悲しみとゆううつな心配となります、けれども、もし適合するものなら、彼にとって喜びと快活さとなります。
その霊は胃の近くに現われ、ある者はその左に、ある者はその右に、ある者は下に、ある者は上に、また近くや遠くに、このように彼らの中にある情愛にしたがっていろいろなところに現われます。
心(animus)の不安はここからであることを、私は多くの経験から知らされ、確信しました。私は彼らを見、聞き、彼らから不安が起こるのを感じ、彼らと話し、彼らが追い払われると不安はやみ、彼らが戻ると不安が戻り、彼らの近づくことと遠ざかることにしたがって不安が増大し、減少するのを認めました。
ここから、自分に良心がないことから良心とは何か知らない者が、その苦痛を胃のせいにすることがどこからなのか、私に明らかとなりました(*5)


*5 良心をもたない者は、良心とは何か知らない(7490, 9121)。
良心とは何であるかを聞くとき、ある者は良心を嘲笑する(7217)。
ある者は良心が無価値であると信じ、ある者は身体の中の原因からまたは世の中の原因から苦痛をひき起す何らかの自然的な悲しみであると信じ、ある者は宗教的なものから一般の人々のもとの何らかのものであると信じる(206, 831, 950)。
真の良心・にせの良心・偽りの良心がある(1033)。
良心の苦痛は、不正・ふまじめによる、どんなものでも、人間が神に反し、隣人の善に反していると信じる悪による心の不安である(7217)。
神への愛の中に、隣人に対する仁愛の中にいる者に良心がある、けれども、これらの愛の中にいない者にはない(831, 965, 2380, 7490)。

天界と地獄

299◀︎目次▶︎301

300   人間と天界の結合は、人間と人間の結合のようなものではなく、人間の心(mens)の中の内的なものとの結合、したがって霊的なものとの、すなわち、内なる人との結合です――けれども、自然的なものとの、すなわち、彼の外なる人との対応による結合があります。その結合については、次章の「みことばによる人間と天界の結合」で扱うので、そこで述べます。

天界と地獄

300◀︎目次▶︎302

301   人類と天界の結合は、また天界と人類の結合は、一方がもう一方から存続するようなものであり、そのことも次章で述べます。

天界と地獄

301◀︎目次▶︎303

302  私は人類と天界の結合について天使と語りました。私は、「教会では、すべての善は神からであり、天使が人間のもとにいる、ということを言う人もいますが、それでも天使が人間と結合していることを信じる人は少ないです。まして天使が人間の思考と情愛の中にいることを信じる人はさらに少ないです」と言いました。
これらのことに天使は、「私たちは、世の中にこのような信仰があり、それでもこのように話すことを、また驚くことに、みことばがあって、天界について、また人間と天界と結合について教えている教会の内部で最も信じる者が少ないことを知っています。そのときそれでも、人間に接合する霊がいなければ人間は少しも考えることができないような結合が存在し、人間の霊的ないのちはここからのものに依存しています」と言いました。
この事柄について、彼らはその無知の理由を、「人間が、いのちの〝最初の存在(エッセ)〟と結びつかないで自分自身から生きていると信じていることです」、と言い、「この結びつきは天界を通して存在し、実際、もしこの結びつきが破られるなら、人間は直ちに死へ落ち込むにもかかわらず、このことを知りません。
もし人間が物事を本来のままに、すべての善は主から、またすべての悪は地獄からのものであることを信じるなら、その時、自分のもとの善を、功績を求めるものとしないし、悪は人間に転嫁されません。なぜなら、人間が考え、行なうすべての善の中で、主へと目を向け、流入するすべての悪はもとの地獄へと追い払われるからです。
しかし、人間は天界からの流入を、また地獄からの流入を信じないで、このことから、考え、意志するすべてのものは自分自身の中にある、ここから自分自身からのものである、と考えるので、それゆえ、人間は悪を自分のものとし、流入する善を功績で汚すのです」と言いました。

 

天界と地獄

302◀︎目次▶︎304

34 みことばによる人間と天界の結合

303  内的な理性から考える者は、すべてのものが媒介するものによって〝最初のもの〟と結びついていて、結びついていないならどんなものでも消滅してしまうことを認めることができます。彼らは考えるとき、どんなものでもそれ自体からは存続することができないで、すべてのものは〝最初のもの〟から存続すること、またそれ自体よりも前のものとの結びつきは、それ自体の動因と結果のようなものであり、動因がその結果から取り除かれるとき、結果は分解され、崩壊するからである、と知っているからです。
このように学者たちは考えたので、〝存続は絶え間のない存在である〟ことを認めて、そのように言いました。このように、すべてのものは〝最初のもの〟から存在し、それで、さらにまた絶え間なく存在します、すなわち、存続します。
しかし、それ自体よりも前のものと、したがってすべてのもののもとである〝最初のもの〟とそれぞれのものの結びつきがどんなものであるかは、簡潔に言うことができません、いろいろと異なっているからです。霊界と自然界に結びつきがあり、ここから、一般的に霊界の中のすべてのものと自然界の中のすべてのものに対応がある、とだけを言うことができます(その対応については103-115番参照)。なおまた天界のすべてのものと人間のすべてのものに結びつきがあり、ここから対応があります(そのことについても前の87-102)。

天界と地獄

303◀︎目次▶︎305

304  人間は、主との結びつきと結合を持ち、天界の天使とは単に交わりを持つように創造されています。
天使とは結合でなく、単に交わりを持つことは、人間は創造から心のものである内的なものに関して天使と似ているからであり、人間には天使のものと似ている意志と理解力があるからです。ここから、人間は神的な秩序にしたがって生きたなら、死後に天使となり、そのとき彼には天使の知恵に似たものがあります――それゆえ、人間と天界との結合が言われるとき、主との結合と天使との交わりが意味されます、なぜなら、天界は天使のプロプリウム(固有のもの)から天界ではなく、主の神性から天界であるからです――主の神性が天界をつくることは前に述べました(7-12番)。
[2]けれども、人間には天使にない他のものがあります、自分の内的なものに関して霊界にいるだけでなく、同時にまた外的なものに関して自然界の中にもいることです――自然界にある彼の外なるものは、自然的な記憶または外的な記憶のすべてのものであり、ここからの思考と想像に属すものです。全般的には、認識や知識とそれらの快さや快感、世から味わえるかぎりの身体の感覚に属すものであるさらに多くの快楽、さらにまた他に、感覚そのもの・話すこと・行動です――これらすべてのものもまた主の神的な流入がその中に終わる最終的なものです、なぜなら、その流入は中間で止まらず、その最終的なものへと進むからです。
これらから、人間の中に神的な秩序の最終的なものがあること、最終的なものであるので、それが土台や基礎であることが明らかです。
[3]前述のように、主の神的な流入は中間のもので止まらないので、その最終的なものにまで進みます。また通り過ぎる中間のものは天使の天界であり、最終的なものは人間のもとにあって、ばらばらなものは存在しないので、一方がもう一方から存続するような人類と天界の結びつきと結合があることがいえます、天界がなくては人類は鉤のない鎖のようになってしまい、人類のない天界は基礎のない家のようになってしまったでしょう(*1)


*1 何もそれ自体から存在しない、しかしそれ自体の前のものから、このように〝最初のもの〟から存在する。また、そのものから存在し、さらにまた存続し、存続することは絶え間なく存在することである(2886, 2888, 3627, 3628, 3648, 4523, 4524, 6040, 6056)。
神的秩序は途中で止まらない、しかし、最後のものの中で終わる。そして、最後のものは人間であり、このように神的秩序は人間のもとで終わる(634, 2853, 3632, 5897, 6239, 6451, 6465, 9215, 9216, 9824, 9828, 9836, 9905, 10044, 10329, 10335, 10548)。
内的なものは連続的な秩序で外なるものへ流入する、最外部または最後のものにまで流入する。さらにまた、そこに存在し、存続する(634, 6239, 6465, 9215, 9216)。
内的なものは同時的な秩序の中の最終的なものの中に存在し、存続する(5897, 6451, 8603, 10099)。
ここからすべての内的なものは〝最初のもの〟から〝最後のもの〟を通して、結びつきに保たれる(9828)。
ここから〝最初のものと最後のもの〟は、すべてと個々のものを、このように全体を意味する(10044, 10329, 10335)。
また、ここから最終的なものの中に強さと力がある(9836)。

天界と地獄

304◀︎目次▶︎306

305  しかし、人間は、自己愛と世俗愛によって、天界から自分の内的なものをそらし、それを世と自分自身へ向け、このように自分自身をもはや天界の土台や基礎として仕えないように遠ざけたことによって天界との結びつきを破ったので、主により天界にとって土台や基礎の代わりとなり、そしてまた天界が人間と結合する手段が備えられました。その手段がみことばです。
みことばがこのような手段としてどのように仕えるかは、『天界の秘義』の中に多く示されています。それらのすべては一つに集められて、「黙示録」の中の白い馬についての小著『白い馬』の中に、そしてまた『新しいエルサレムとその天界の教え』の付録の中に述べてあります。そこから、いくつかのものを左欄の「天界の秘義から」に示しておきます(*2)


*2 みことばは文字どおりの意味では自然的なものである(8783)。
その理由は、自然的なものは、その中に内的なものである霊的なものと天的なものが終わる最終的なものであり、これら内的なものはその最終的なものの上に、家がその土台の上にあるように存続するからである(9430, 9433, 9824, 10044, 10436)。
みことばがこのようなものであるために、それゆえ、対応そのものによって書かれている(1404, 1408, 1409, 1540, 1619, 1659, 1709, 1783, 8615, 10687)。
みことばは、文字どおりの意味ではこのようなものであるので、霊的なまた天界的な意味の容器として役立つ(9407)。
また、人間と同じく同時に天使にも適している(1769-1772, 1887, 2143, 2157, 2275, 2333, 2395, 2540, 2541, 2547, 2553, 7381, 8862, 10322)。
また、天界と地を結合している(2310, 2495, 9212, 9216, 9357, 9396, 10375)。
内意を手段として、みことばによって人間との主の結合がある(10375)。
みことばのすべてと個々のものによって結合があり、ここから、みことばはすべての文書にまさって驚くべきものである(10632-10634)。
主は、みことばが書かれた後、それによって人間と話される(10290)。
みことばがあり、それによって主が知られている教会は、みことばがなく、主が知られていない教会の外の者にとって、比べれば、いのちの源泉からのように、心臓と肺から生きる身体の残りのものにとって、人間の中の心臓と肺のようである(637, 931, 2054, 2853)。
地上の全教会は、主の前にひとりの「人間」のようである(7396, 9276)。
ここから、この地球に、みことばがあり、それによって主が知られている教会がなかったなら、ここの人類は滅びたであろう(468, 637, 931, 4545, 10452)。

天界と地獄

305◀︎目次▶︎307

306  私は天界から以下のことを知らされました。
最古代人には直接の啓示があり、彼らの内的なものは天界に向かっていたので、ここからその時、人間との主の結合があった――けれども、彼らの時代の後、このような直接の啓示はなくなった、しかし、対応によって間接の啓示があった。これらのすべての神礼拝はそれらの対応から成り立ったからである。そこから、その時代の教会は表象的な教会と呼ばれた。その時、彼らは、対応とは何か、表象とは何か、また地上にあるすべてのものは天界と教会の中の霊的なものに対応する、すなわち、同じことであるが、それらを表象することを知っていたからである。それゆえ、彼らの礼拝の外なるものであった自然的なものは、彼らに霊的に考える手段として、このように天使とともに考える手段として役立った。
対応と表象の知識が記憶から消された後、その時、みことばが書かれ、そのみことばのすべての言葉とその意味は対応するものであり、このように霊的な意味すなわち内意を含み、その意味の中に天使がいる。それゆえ、人間がみことばを読むとき、またそれを文字どおりの意味または外なる意味にしたがって知覚するとき、天使はそれを内意すなわち霊的な意味にしたがって知覚する。天使のすべての思考は霊的であるが、人間の思考は自然的であるからである。それらの思考は確かに異なって見えるが、それでも対応するので一つである。
ここから、人間が天界から遠ざかり、きずなを破った後、主により、みことばによって人間と天界の結合の手段が備えられたのである。

天界と地獄

306◀︎目次▶︎308

307  天界と人間が、みことばによってどのように結合されているか、みことばの箇所から説明します。 「黙示録」に、新しいエルサレムが次のことばで述べられています――

私は新しい天と新しい地を見た、最初の天と最初の地は過ぎ去った……。また……私は聖なる都エルサレムが……神より出て天界から降って来るのを見た……。都は正方形で、その長さは幅ほどの大きさであった。「天使」が葦で都を測ると十二千スタディオンであった。長さ、幅、高さは……等しかった。その城壁が測られ、百四十四キュビットであった。人間の尺度、それは天使の尺度である。……城壁の構造は碧玉からできていた。しかし都そのものは純金で、純粋なガラスに似ていた。城壁の基礎は……あらゆる宝石で飾られていた。……十二の門は十二の真珠であった。都の街路は純金で、あたかも透明なガラスのようであった21:1, 2, 16-19, 21)。

これらを読む人間は、それらを文字どおりの意味にしたがってしか理解しません、すなわち、目に見える天は地とともに破壊され、新しい天が存在するようになり、聖なる都エルサレムが新しい地の上に降り、その都はすべてその尺度に関して記述どおりになることです。
しかし、人間のもとにいる天使は、これらをまったく異なって理解します、すなわち、人間が自然的に理解する個々のものを霊的に理解します。
[2]彼らは「新しい天と新しい地」によって新しい教会を理解し、「神より出て天界から降って来る都エルサレム」によって主により啓示されたその教会の教えを理解します。等しくて、十二千スタディオンあった「長さ」、「幅」、「高さ」によって統一体としてその教えのすべての善と真理を理解し、その「城壁」によって守る真理を理解し、「人間の尺度、すなわち、天使の尺度であった城壁の百四十四キュビットの尺度」によって統一体としてその守るすべての真理とその性質を理解し、真珠からできていたその「十二の門」によって導き入れる真理を理解します。「真珠」もまたこのような真理を意味します。宝石からできていた「城壁の基礎」によってその教えの基礎となる知識を理解します。都とその街路ができていた「純粋なガラスに似た金」によって愛の善を理解します。教えはその真理とともにその善から透明です。
天使はこれらすべてをこのように知覚するのであって人間のように知覚するのではありません。人間の自然的な観念はこのように天使のもとの霊的な観念に移ります。そのとき天使は、みことばの文字どおりの意味について、例えば、新しい天と新しい地・新しい都エルサレム・その城壁・城壁の基礎について、そして寸法について何も知りません。
それでもやはり、天使の思考は、対応するので人間の思考と一つとなっています。話題としていることについて、その言葉には留意しないで、その意味だけに留意して聞く者にとって、その言葉とその意味のように、ほとんど一つとなっています。
[3]ここから、みことばによって天界はどのように人間と結合しているか明らかです。
さらに、例として、みことばから、

その日に、エジプトからアッシリアまで大路があり、アッシリアはエジプトに、エジプトはアッシリアに来る、そしてエジプト人はアッシリアに仕える。その日に、イスラエルは、エジプトとアッシリアとともに第三のものになり、地の真ん中の祝福となり、これを万軍のエホバは、「わたしの民エジプト人、わたしの手の働きアッシリア人、わたしの相続イスラエル」と言って、祝福されるイザヤ19:23-25)。

これらが読まれるとき、みことばの文字どおりの意味とその内意から、人間がどのように考え、天使がどのように考えるか明らかにすることができます――人間は、文字どおりの意味から、エジプト人とアッシリア人は主へと回心し、受け入れられ、イスラエル国民と一つになると考えます――しかし、天使は、内意にしたがって、霊的な教会の人間について考えます。その意味では、そこにその者が述べられていて、その霊的なものがイスラエルであり、自然的なものがエジプト人であり、真ん中にある理性がアッシリア人です(*3)
それでもその二つの意味は対応するので一つです。それゆえ、天使がこのように霊的に考え、人間がこのように自然的に考えるとき、ほとんど霊魂と身体のように結合しています。みことばの内意が霊魂であり、文字どおりの意味が身体です。みことばは、どこもこのようなものです――ここから、みことばが人間と天界の結合の手段であり、その文字どおりの意味が土台や基礎として役立つことが明らかです。


*3 みことばの中で「エジプト」と「エジプト人」は、自然的なものを、ここから記憶知を意味する(4967, 5079, 5080, 5095, 5160, 5799, 6015, 6147, 6252, 7355, 7648, 9340, 9391)。
「アッシリア」は、理性を意味する(119, 1186)。
「イスラエル」は、霊的なものを意味する(5414, 5801, 5803, 5806, 5812, 5817, 5819, 5826, 5833, 5879, 5951, 6426, 6637, 6868, 6868, 7035, 7062, 7198, 7201, 7215, 7223, 7957, 8234, 8805, 9340)。

天界と地獄

307◀︎目次▶︎309

309  みことばがない教会の外にいる者にもまた、みことばによる結合が存在します。なぜなら、主の教会は普遍的であり、主の神性を認め、仁愛の中に生きるすべての者のもとにあるからです。さらにまた、彼らは死後、天使により教えられ、神的真理を受け入れます(*4)。そのことについては、あとで「異教徒」についての章の中で述べます。
地上の普遍的な教会は、主の視野の中で、あたかも天界のようであり、ひとりの人間のようです(そのことについては前の59-72)。しかし、みことばが存在し、それによって主が知られている教会は、その人間の中の心臓や肺のようです。全身のすべての内臓と四肢は、心臓と肺からいろいろな派生物を通していのちを得ていることが知られています。したがって、みことばのある教会の外で生きる人間は、その人間の四肢を構成します。

みことばによって、遠く離れている者と天界が結合していることは、中心から周囲へ広がる光に比較することができます。みことばの中に神的光があって、そこに主が天界とともに現在されており、その現在から遠く離れた者もまた光の中にいます。もし、みことばがなかったなら、これと異なっていたでしょう。
これらのことは、前に示された天界の形と、その形にしたがってそこに交わりと伝達があることによって、さらに明らかにすることができます。
しかし、このアルカナは霊的な光の中にいる者に把握できるものであって、自然的な光の中だけにいる者には把握できません。なぜなら、霊的な光の中にいる者は無数のものをはっきりと見ますが、自然的な光の中にいる者はそれを見ないか、または一つの不明瞭なもののように見るからです。


*4 教会は、特に、みことばがあり、それによって主が知られているところに、このように天界から神的真理が啓示されているところに存在する(3857, 10761)。
主の教会は、全地球の中で自分自身の宗教にしたがって善の中に生きるすべての者のもとに存在する(3263, 6637, 10765)。
自分自身の宗教にしたがって善の中に生き、神性を認めるすべての者はどこにいても、主により受け入れられる(2589-2604, 2861, 2863, 3263, 4190, 4197, 6700, 9256)。
さらに、すべての幼児は、どこに生まれても〔主により受け入れられる〕(2289-2309, 4792)。

天界と地獄

308◀︎目次▶︎310

309. このようなみことばがこの地球に与えられてなかったなら、この地球の人間は天界から分離され、天界から分離されたなら、もはや理性的でなかったでしょう。人間の理性は天界の光の流入から存在するようになるからです。
さらにまたこの地球の人間は、他の地球の住民のように、直接の啓示を受け入れて、それによって神的な真理について教えられるような者ではありません(それについては別の小著で扱っています)、なぜなら、彼らは〔他の地球の住民〕よりもさらに世俗のものの中に、このように外なるものの中にいて、啓示を受け入れるものは内なるものなので、外なるものが受け入れても、真理は理解されないからです。
この地球の人間がこのようなものであることは、たとえ、みことばから天界について、地獄について、死後のいのちについて知っても、それでもそれらを心で否定する教会の中にいる者から明らかです。さらにまた彼らの間には、他の者にまさって博学であるとの名声を獲得し、そのことについて他の者よりもさらに賢明であると信じられている者がいます。

天界と地獄

309◀︎目次▶︎311

310   何度か、私は天使とみことばについて話し、「みことばはその文体が単純なために、ある者からは軽蔑されています。その内意についてはまったく何も知られていません。このことから、それほど多くの知恵がそこに隠れているとは信じられていません」と言いました。

天使は、「みことばの文体は、たとえ文字どおりの意味では単純に見えても、それでもそこに神的な知恵がすべての意味の中だけでなく、個々の言葉の中にも隠れているので、優秀さでは決して比較できるようなものはなく、その知恵が天界の中に輝き出ています」と言いました――彼らは、「この知恵が、神的真理であるので天界の光です。なぜなら、神的真理は天界の中で輝くからです(前の132番参照)。このことを言ってほしい」と私に望みました。
さらにまた彼らは、「このようなみことばなしに、あなたがたの地球の人間のもとに天界の光は何もなく、したがって人間と天界の結合もありません。なぜなら、天界の光が人間のもとに現存すればするほど、それだけ結合があり、それだけ人間にみことばを通して神的真理の啓示があるからです――みことばのその自然的な意味に対応する霊的な意味によって、その結合があることを人間が知らない理由は、この地球の人間が天使の霊的な思考や話し方は人間の自然的な思考や話し方と異なっていることについて何も知らないからです。また、それを知らないかぎり、内意が何か、ここからそれによってこのような結合が存在することができることもまったく知ることができません」と言いました。
さらにまた彼らは、「もし人間がこのような意味があることを知り、みことばを読むときその知識から考えるなら、それによって天使と似た観念の中に入るので、内的な知恵の中にやって来て、さらに天界と結合されます」と言いました。

天界と地獄

310◀︎目次▶︎312

35 天界と地獄は人類から存在する

311  天界と地獄は人類から存在することがキリスト教界にまったく知られていません――〝天使は始めから創造され、ここから天界も創造されており、悪魔またはサタンは光の天使であったが、反逆者となったので、自分たちの集団とともに投げ落とされ、そこから地獄ができた〟と信じられているからです。
このような信仰がキリスト教界にあることに、天使は大いに驚き、また天界について、そのことは教会の中の主要な教えであるのに、まったく何も知らないことに、さらに驚きました――このような無知が支配しているので、キリスト教界の者たちに天界と地獄について多くのことを啓示することが今や主の喜びであったこと、その啓示によって、終局に達した教会に日ごとに増大している暗やみを可能なかぎり追い散らすことを、天使は心から喜んでいます。
[2]それゆえ、彼らは、「全天界の中に始めから天使に創造された者はひとりもいません。地獄にも光の天使に創造されてから投げ落とされた悪魔はいません。しかし、天界と同じく地獄の中でも、すべての者は人類から存在し、天界の中には世で天界的な愛と信仰の中に生きた者が、地獄の中には地獄的な愛と信仰の中に生きた者がいます。地獄は全統一体として悪魔とサタンと呼ばれるものであり、後ろにある地獄には悪鬼と呼ばれる悪魔がいて、前部にある地獄には悪霊と呼ばれるサタンがいます」、このことを、私が彼らの口から〔直接に聞いた、と〕断言するよう望みました(*1)
[3]一方の地獄がどのようなものであり、またもう一方の地獄がどのようものであるかは、あとで述べます。
彼らは、「キリスト教界が天界にいる者について、また地獄にいる者について、このような信仰を受け入れたのは、みことばの何らかの箇所を文字どおりの意味だけにしたがって理解して、みことばからの本物の教えによって照らされ、説明されていないからです。本物の教えが道を照らさないかぎり、みことばの文字どおりの意味は、心をいろいろな方向にそらし、ここから、無知・異端・誤りが生じます」と言いました(*2)


*1 地獄はひとまとめにして、すなわち、地獄的なものはひとまとめして、悪魔とサタンと呼ばれる(694)。
世で悪魔であった者らは、死後、悪魔になる(968)。
*2 教会の教えは、みことばからでなくてはならない(3464, 5402, 6822, 10763, 10765)。
みことばは、教えなしに理解されない(9025, 9409, 9424, 9430, 10324, 10431, 10582)。
真の教えは、みことばを読む者にランプの明かりである(10400)。
本物の教えは、主からの照らしの中にいる者からでなくてはならない(2510, 2516, 2519, 9424, 10105)。
教えがなくて文字どおりの意味の中にいる者は、神的な真理について何も理解がない中にやって来る(9409, 9410, 10582)。
また、彼らは多くの誤りへ導かれる(10431)。
みことばからの教会の教えから教えられ、学ぶ者と、みことばの文字どおりの意味だけから教えられ、学ぶ者の間の相違はどのようなものか(9025)。

天界と地獄

311◀︎目次▶︎313

312.  教会の人間がこのように信じているさらなる理由は、〝最後の審判の時よりも前に、人間はだれも天界または地獄に行くことはない〟と信じているからです。最後の審判について受け入れられている見解は、〝その時、目の前のすべてのものが滅んで、新しいものが存在し、霊魂はその時、自分の身体の中に戻り、人間はその結合から再び生きる〟というものです――この見解は、〝天使は始めから創造された〟という天使についての信仰を含みます。なぜなら、世が終わるよりも前に、人間はだれも天界や地獄に行かないことが信じられるとき、天界と地獄は人類から存在することが信じられないからです。
[2]しかし、そのようでないことを人間が納得するために、私は天使との交わりを持ち、そしてまた地獄の中にいる者と話すようになり、このことが今や多くの年月の間、時々は朝から晩まで絶えず続き、このように天界と地獄について教えられることが与えられました。この理由は、教会の人間が、審判の時の復活について、そしてその間の霊魂の状態について、さらに天使や悪魔について、自分の間違った信仰の中にこれ以上とどまらないためです――その信仰は虚偽の信仰であるので、暗やみを含み、それらについて自己の知性から考える者のもとでは、疑いを、ついには否定をひき起します。なぜなら、彼らは心(cor)で、「どのようにして、これほど大きな天がこんなにも多くの星座とともに、また太陽と月とともに、破壊され、消滅することが可能なのか? どのようにして、その時、天から星が、それは地より大きいのに、地に落ちることができるのか? どのようにして、虫によって食い尽くされ、腐敗して滅び、すべての風で散らされた身体が、自分の霊魂へ再び集められることができるのか? その間、霊魂はどこにいて、身体にあった感覚がなくなってしまったとき、どんな状態であるのか?」と言い、他にも多くの同じようなことを言うからです。
[3]それらは、理解できないことなので信仰の中に入り込まないで、多くの者のもとで死後の霊魂のいのちについての信仰を、また天界と地獄についての信仰を、またそれらとともに教会の信仰に属するその他のものを破壊します。
彼らが信仰を滅ぼしたことは、「だれが天界から私たちのところに来て、そのようであると語ったか? 地獄とは何か? 存在するのか? 人間が永遠に火で苦しめられることとは何か? 審判の日とは何か? それは数世紀の間、むなしく期待されなかったか?」と言う者がいることから明らかです。その他にも多くのことが言われますが、それらはすべて否定です。
[4]そこで、世俗的なものから賢明であり、博学で学問があると呼ばれている者に多いことがよくありますが、このように考える者が、さらに信仰と心で単純な者を混乱させ、惑わせて、神・天界・永遠のいのちについて、またこれらから他のものについて、地獄の暗やみをひき起すことがないように、私の霊である内的なものが主により開かれ、こうしてかつていのちが身体の中にあったときに私がよく知っていたすべての者と死んだ後に語るようになりました。ある者とは数日の間、ある者とは数か月の間、ある者と一年の間です。また他の者と、十万人と言っても少ないくらいの、このように多くの者とです。それらの多くの者は天界の中に、また地獄の中にいました。
さらにまた、死んで二日後のある者たちと話し、私は、「今、あなたがたの埋葬のために、葬儀と葬式が行なわれています」と語りました。そのことについて彼らは、「われわれに世で役立つためのものであった身体は捨てるほうがよいであろう」と言いました。そして、「われわれは死んでいない。今や人間として以前のように等しく生きている。一つの世界からもう一つの世界へ移住しただけである。身体とその感覚の中に以前のようにいるので、また以前のように理解力と意志の中に、世であったような同じような思考と情愛、同じような感覚、また同じような願望の中にいるので、何かを失ったとは思っていない」と私が言うよう望みました。
[5]死から間もない大部分の者は、自分が人間として以前のように生きて、同じような状態の中にいるのを見るとき(なぜなら、死後、それぞれの者の最初のいのちの状態は、彼にとって世であったようなものであるからです。しかし、それは彼のもとで連続的に天界または地獄に変わります)、生きていることに新しい喜びで感動し、「このことを信じていなかった」と言います――自分たちの死後のいのち状態について、このような無知と盲目の中にいたことに大いに驚き、また、教会の人間が、地球全体の中ですべての者にまさってそれらについて光の中にいることができるのに、そのような状態の中にいることにさらに驚きます(*3)
その時、彼らは盲目と無知の理由をはじめて知ります。それは、世と身体である外なるものが、自分たちの心を占め、満たしたからであり、占め、満たすほど、それだけ天界の光の中に揚げられることができないで、教会の事柄を教えを超えて熟視することができないことです。身体的なものと世的なものが今日のように愛されるほど、〔教えを超えて〕さらに熟視を突き進めても、そこからはますます暗やみだけが流入するからです。


*3 今日、キリスト教界の中で、人間が死後、直ちに復活することを信じる者は少ない(「創世記」16章への序文、それと4622, 10758番)。しかし、最後の審判の時、目に見える世界が滅びるときに〔復活すると信じている〕(10595)。
このように信じられていることの理由(10595, 10758)。
それでも、人間は、死後、直ちに復活し、その時、すべてと個々のものに関して人間である(4527, 5006, 5078, 8939, 8991, 10594, 10758)。
死後に生きる霊魂は人間の霊であり、それは人間の中で人間そのものであり、そしてまた来世でも完全な人間の形である(322, 1880, 1881, 3633, 4622, 4735, 5883, 6054, 6605, 6626, 7021, 10594)――経験から(4527, 5006, 8939)――みことばから(10597)。
聖なる都の中で見られた死人によって(マタイ27:53)何が意味されるか、説明されている(9229)。
どのように人間は死から復活するか、経験から(168-189)。
復活後のその状態について(317-319, 2119, 5079, 10596)。
霊魂とその復活についての間違った見解(444, 445, 4527, 4622, 4658)。

天界と地獄

312◀︎目次▶︎314

313  キリスト教界の学者の非常に多くの者は、死後、自分たちが世でのように、身体の中に、衣服の中に、また家の中にいるのを見るとき驚き、また、死後のいのち・霊魂・霊・天界と地獄について考えたことを記憶の中に思い出すとき、恥に満たされ、「私たちの考えは愚かであった。単純な信仰を持つ者は私たちよりもはるかに賢明である」と言います。
このようなものを確信し、すべてのものを自然に帰した学者が調べられました。彼らの内的なものは完全に閉ざされて、外的なものが開かれており、このように目を天界へ向けないで、世へ、したがって目を地獄へ向けたことがわかりました。なぜなら、内的なものが開かれるほど、それだけ人間は天界へ目を向けます、しかし、内的なものが閉ざされて外的なものが開かれるほど、それだけ地獄へ目を向けるからです――というのは、人間の内的なものは天界のすべてのものを受け入れるために、また外的なものは世のすべてのものを受け入れるために形作られており、世を受け入れ、同時に天界を受け入れない者は、地獄を受け入れるからです(*4)


*4 人間の中で霊界と自然界は結合している(6057)。
人間の内なるものは天界の映像へ形作られている、けれども、外なるものは世の映像へ形作られている(3628, 4523, 4524, 6013, 6057, 9279, 9706, 10156, 10472)。

天界と地獄

313◀︎目次▶︎315

314 天界は人類から存在することは、天使の心(mens)と人間の心が似ていることからもまた明らかにすることができます。二つの心とも、理解し、知覚し、意志する能力を授けられています。二つとも、天界を受け入れるために形作られています。なぜなら、人間の心は天使の心と等しく賢明であるからです。しかし、世の中ではそれほど賢明ではありません、地的な身体の中にいて、その中でその霊的な心は自然的に考えるからです。けれども、その身体の束縛から解かれるときは異なり、その時、もはや自然的でなく、霊的に考え、霊的に考える時、自然的な人間には理解できないことや言葉にできないことを考え、したがって天使のように賢明です――これらから、人間の内なるものは、彼の霊と呼ばれ、その本質では天使であることが明らかです(*5)前の57番参照)。それは地的な身体から解放されるとき、等しく人間の形であり、天使の形です(天使が完全な形の人間であることは前の73-77番参照)。けれども、人間の内なるものが上方に開かれていないで、下方にだけ開かれている時、やはりそれは身体から解放された後、人間の形です、しかし、恐ろしくて、悪魔のような形です。なぜなら、上の天界に向けて目を向けることができないで、下の地獄に目を向けることしかできないからです。


*5 人間の中に天界と同数のいのちの段階があり、その段階は死後、彼の生活(いのち)にしたがって開かれる(3747, 9594)。
天界は人間の中にある(3884)。
愛と仁愛の生活に生きる人間たちは、自分自身の中に天使の知恵をもつが、その時、隠れている。死後、その知恵の中に入る(2494)。
主から愛と信仰の善を受ける者は、みことばの中で天使と言われる(10528)。

天界と地獄

314◀︎目次▶︎316

315. 神的な秩序について教えられる者は、さらにまた人間が天使になるように創造されていることを理解することができます。人間の中に秩序の最終的なものがあり(304)、その中に天界的なまた天使的な知恵に属すものが形作られることができ、回復され、増大されることができるからです。
神的秩序は、途中で、そこに最終的なものでない何らかのものをつくって立ち止ることは決してありません、それには十分さと完全さがないからです。最終的なものにまで進みます(*6)。しかし、その最終的なものの中にあるとき、形作って、そこに集められた手段によってそれ自体を回復させ、さらに先へ進みますが、それは生殖を通して行なわれます。それゆえ、最終的なものの中に天界の苗床が存在します。


*6 ここには304番の*1と同じ記号が振られている。

天界と地獄

315◀︎目次▶︎317

316. 主は霊に関してだけでなく、身体に関してもまた復活されたことは、主は、世におられたとき、ご自分の人間性全体を栄化された、すなわち、神的なものにされたからです。父からのものである霊魂は、それ自体から神性そのものであり、身体は霊魂に似たものにされ、すなわち、父に似たものにされ、このように神的なものにされたからです。ここから、主はどの人間とも似ないで、霊魂と身体のそれぞれに関して復活されたのです(*7)――さらにまた、主を見たとき、霊を見ていると信じた弟子たちに、主は次のように言われて、明らかにされています、

わたしの手とわたしの足を見なさい。それはわたしそのものです。わたしにさわり、見なさい、なぜなら、霊にはあなたがたがわたしに見るような肉と骨がないからですルカ 24:36-39)。

このことによって、霊に関してだけでなく、身体に関してもまた人間であられることをはっきりと示されたのです。


*7 人間は霊に関してだけ復活する(10593, 10594)。
主おひとりが身体に関しても復活された(1729, 2083, 5078, 10825)。

天界と地獄

316◀︎目次▶︎318

317 人間が死後も生き、世での自分の生活にしたがって、天界に、あるいは地獄に行くことが知られるように、私に死後の人間の状態について明らかにされました。そのことについては、このあとの「霊たちの世界」の中で順に述べます。

 

天界と地獄

317◀︎目次▶︎319

36 天界の異教徒、すなわち、教会外の人々

318 一般的な見解では、異教徒または異邦人と呼ばれる教会外に生まれた者は救われることができません。その理由は、みことばを持たないからです、そしてそのように主を知らず、主なしに何も救いはありません――しかしそれでも、主の慈悲は普遍的であるので、すなわち、個々の者に対するものであるので、このことだけから、彼らもまた救われる、と知ることができます。比較的に少ない教会内の者のように彼らもまた等しく人間に生まれています。主を知らないことは彼らの落ち度ではありません。
何らかの照らされた理性から考える者なら、だれも人間は地獄へ生まれていない、と知ることができます。主は愛そのものであられ、愛そのものであられる方はすべての者を救うことを望まれるからです――それゆえ、さらにまた、すべての者に宗教があるように、そしてそれによって神性を承認し、内的ないのちがあるように備えられました。なぜなら、宗教にしたがって生きることは内的に生きることであるからです。神性に目を向けるとき、神性に目を向ければ向けるほど、それだけ世に目を向けないで、外的な生活である世の生活から遠ざかるからです(*1)


*1 異教徒はキリスト教徒と等しく救われる(932, 1032, 1059, 2284, 2589, 2590, 3778, 4190, 4197)。
異教徒と教会外の人々の来世での運命について(2589-2604)。
教会は、みことばがあり、それによって主が知られているところに、特に存在する(3857, 10761)。
しかしそれでも、そこにみことばがあり、主が知られているところに生まれた者は、それゆえ、教会に属するのではなく、仁愛と信仰の生活を生きる者が教会に属する(6637, 10143, 10153, 10578, 10645, 10829)。
主の教会は、全世界の自分の宗教にしたがって善の中に生き、主を認めるすべての者のもとにあり、その者は主により受け入れられ、天界にやって来る(2589-2604, 2861, 2863, 3263, 4190, 4197, 6700, 9256)。

天界と地獄

318◀︎目次▶︎320

319   人間のもとに天界をつくるものが何かを知っている者なら、異邦人もキリスト教徒と等しく救われることを知ることができます、なぜなら、天界は人間の中にあり、自分の中に天界をもつ者は天界に来るからです。
人間の中の天界とは、神性を認めること、神性により導かれることです。すべての宗教の最初の主要なものは、神性を認めることです。神性を認めない宗教は宗教ではありません。すべての宗教は、どのように神性を礼拝しなければならないか教えています。礼拝は神に受け入れられるためのものです。このことが心に固く宿るとき、したがってこのことを欲すれば欲するほど、すなわち、このことを愛すれば愛するほど、それだけ主により導かれます。
異邦人はキリスト教徒と等しく道徳的な生活を送ることが、また彼らの多くの者はキリスト教徒よりもよい生活を送ることがよく知られています。
人間は道徳的な生活を、神のためかまたは世のために送ります。神のために送られる道徳的な生活は霊的な生活です。道徳的な生活と霊的な生活は、外なる形では似たものに見えます、しかし、内なる形ではまったく違います。一方は人間を救い、もう一方は救いません。なぜなら、神のために道徳的な生活を送る者は神により導かれます、しかし、世で人間のために道徳的な生活を送る者は自分自身により導かれるからです。
[2]しかし、 このことを例によって説明します――宗教に反し、そのように神性に反するという理由から、隣人に悪を行なわない者は霊的な源から悪を行なうことをつつしみます。しかし、単に法律を恐れるために、名声や名誉または利益が奪われるという理由から、このように自分自身と世のために、他の者に悪を行なわない者は自然的な源から悪を行なうことをつつしんでおり、彼は自分自身から導かれます。前者の生活は霊的です、けれども、後者の生活は自然的です――道徳的な生活が霊的である人間は自分自身の中に天界があります、しかし、道徳的な生活が単に自然的である人間は自分自身の中に天界がありません。その理由は、天界は上から流入し、彼の内的なものを開き、内的なものを通して外的なものへ流入するからです。けれども、世は下から流入し、外的なものを開きます、しかし内的なものを開きません。なぜなら、自然界から霊的なものへの流入はなく、霊界から自然的なものへの流入があるからです。それゆえ、もし同時に天界が受け入れられないなら、内的なものは閉じられます。
これらから、だれが自分自身の中に天界を受け入れ、だれが受け入れないか、明らかです。
[3]しかし、ある者の中にある天界の性質は、他の者の中にある天界の性質と似ていません。それぞれの中で、善の情愛にしたがって、またここから真理の情愛にしたがって異なります――神性のために善の情愛の中にいる者は神的真理を愛します、なぜなら、善と真理は互いに愛し、結合を欲するからです(*2)。それゆえ、異教徒は、たとえ世で本物の真理の中にいなくても、それでも来世で、愛からそれらを受けます。


*2 善と真理の間に結婚に似たものがある(1904, 2173, 2508)。
善と真理は結合への絶え間のない努力の中にあり、善は真理を、その結合を望んでいる(9206, 9207, 9495)。
善と真理の結合はどのように、まただれのもとに起こるか(3834, 3843, 4096, 4097, 4301, 4345, 4353, 4364, 4368, 5365, 7623-7627, 9258)。

天界と地獄

319◀︎目次▶︎321

320 世で自分自身の宗教にしたがって仁愛の善の中に生きた、ある異邦人の霊がいました。彼は、キリスト教徒の霊が信じなくてはならないことについて推論しているのを聞いたとき(霊は自分たちの間で人間以上に、はるかに十分に、また鋭く、特に善と真理について推論します)、このように論争することに驚き、 彼らに、「もし私が善良であるなら、私は真理であるものを善そのものから知ることができ、私の知らないものを受け入れることができる」とこのように教えて、「外観と偽りから推論されているので、それらを聞くつもりはない」と言いました。

天界と地獄

320◀︎目次▶︎322

321 道義をわきまえて、従順と従属の生活を送り、自分自身の宗教にしたがって相互の仁愛の中に生き、ここから何らかの良心を得た異邦人は、来世で受け入れられ、そこで注意深く配慮されて天使から信仰の善と真理を教えられます。このことは私が多くのことから教えられたことです。また、教えられているとき、彼らは控えめで、聡明で、賢く振る舞い、容易に真理を受け入れ、その真理で教え込まれます。さらにまた、信仰の真理に反し、追い払うべきものである虚偽の原理を、まして主に対する反感を、何も自分自身に形作りませんでした。キリスト教徒の多くの者のように、主について、〝主は普通の人間である〟といった観念を抱くこともありませんでした。異邦人は、神が人間になられ、そしてこのようにご自身を世に現わされたことを聞くとき、直ちにこのことを認め、「神は天と地の神であられ、また人類は神のものであるので、完全にご自分を現わされた」と言って、主を崇拝します(*3)
主がおられなくては救いがないことは神的真理です。しかし、このことは〝主によらなくては何も救いはない〟と理解してはなりません。
宇宙には多くの地球があり、そのすべては住民で満ちています。そこのほとんどの者が、主が私たちの地球で人間性をまとわれたことを知りません。しかしそれでも、彼らは神性を人間の形のもとに崇拝するので、主により受け入れられ、導かれています。このことについては、小著『宇宙間の地球』の中に見られます。


*3 異教徒の中にある善とキリスト教徒の中にある善の間の相違(4189, 4197)。
異教徒のもとの真理について(3263, 3778, 4190)。
異教徒のもとでは、内的なものは、キリスト教徒のもとのように、閉ざされることはできない(9256)。
自分自身の宗教にしたがって相互の仁愛の中に生きる異教徒のもとには、何ら仁愛の中に生きないキリスト教徒のもとにあるほどの雲は存在することができない。その理由(1059, 9256)。
異教徒は教会の聖なるものをキリスト教徒のように冒涜することができない、それらを知らないからである(1327, 1328, 2051)。
彼らはキリスト教徒を〔その〕生活ゆえに恐れる(2596, 2597)。
自分自身の宗教にしたがってよく生きた者は、天使により教えられ、容易に信仰の真理を受け入れ、主を認める(2049, 2595, 2598, 2600, 2601, 2603, 2861, 2863, 3263)。

天界と地獄

321◀︎目次▶︎323

322 キリスト教徒のように異邦人の間にも賢明な者と単純な者がいます。
私は彼らがどのような者であるか教えられるために、両者と時々、何時間も、何日間も話すことが与えられました。
しかし、今日では、賢明な者は、古代のように、特に古代教会の中のようには存在しません。古代教会とはアジアの世界を通して広がり、そこから宗教が多くの異教徒に広がった教会です。
彼らがどのような者であるか知るために、私はある者と親しく話すようになりました。
私のもとにある者がいましたが、昔、彼は賢人たちのひとりであり、学界で知られていました。私は彼といろいろなことについて話し、その者がキケロであると信じるようになりました。
私は彼が賢人であったことを知っていたので、知恵・知性・秩序・みことば、最後に、主について彼と話しました。
[2]知恵について、彼は、「生活に属す以外の他の知恵は存在しない。また知恵は生活以外の他の事柄について述べられることができない」と言い――知性について、「これは知恵からである」――秩序について、「秩序は最高の神からである。またその秩序の中で生きることは賢明で、知的である」と言い――みことばについては、私が預言者から何かを彼に読んで聞かせたとき、大いに喜び、特に、個々の名前が、また個々の言葉が内的なものを意味していることを最大に喜び、今日の学者たちがこのような研究を喜ばないことを非常に不思議がりました。
私は、彼の思考または心(mens)の内的なものが開かれていることをはっきりと知覚しました。
彼は、「聖なるものを知覚し、心の内なるものが耐えることができないほどに、感動させられるので、この場にいることができない」と言いました。
[3]最後に、彼と主について話しました。〝人間〟として生まれたこと、しかし、神から受胎し、母からの人間性を脱がれ、神的人間性を着られたこと、その方は全世界の支配者であられることです。
彼はこれらに答えて、「主について多くのことを知っていた」。またそのことを認めて、「もし人類が救われるならこれと異なる方法で行なわれることはできなかったであろう」と言いました。
その間に、ある悪いキリスト教徒がいろいろなつまずきの石〔考え〕を注ぎ込みました。しかし、彼は、「彼らは、いのちが身体の中にあったときふさわしくないようなものを吸収しており、このようなつまずきの石が追い払われてしまう前に、無知な者のように、真理を確信する思いを入れることはできないので、不思議ではない」と言い、それらのつまずきの石について気にしませんでした。

天界と地獄

322◀︎目次▶︎324

323 さらにまた、古代に生き、その時、賢人たちの間にいた他の者たちと話すようになりました。
最初、彼らは正面の方向に少し離れて見え、その場所から、彼らは私の思考の内的なものに、したがって多くのことに、十分に気づくことができました。彼らは一つの思考の観念から連続する全体を知り、それを知恵の喜ばしいもので快い表象するものとともに満たすことができました。
ここから彼らは賢人の間にいたことが知覚され、「古代人に属する者であった」と言われました。
そして、さらに近づいたとき――私は、みことばから何かを彼らに読んで聞かせましたが、彼らは最大に喜びました。私は彼らの喜びと快さそのものを知覚しましたが、それはおもに、彼らの聞いたみことばのすべてと個々のものが、天界的なものと霊的なものを表象し、表意するものであったからでした。
彼らは、「私たちが世で生きていた時代では、考え方、話し方、さらに書き方はこのようなものであった。またこのことは私たちの知恵が強く求めるものであった」と言いました。

天界と地獄

323◀︎目次▶︎325

324 けれども、今日の異邦人については、彼らはそれほど賢明ではなく、大部分の者は心(cor)が単純です。
しかしそれでも、彼らのうちで相互の仁愛に生きた者たちは来世で知恵を受けます――このことについて、一つか二つの例を示すことが許されています。
私が「士師記」第十七章と第十八章のミカについて、ダンの種族の者が、ミカの彫像とテラフィムを、それとレビ人を取り去ったことを読んだとき、いのちが身体の中にあったとき彫像を崇拝した異邦人の霊がいました。
ミカになされたこと、またダンの種族の者に持ち去られた彫像のためにミカが悲しんだことを心を傾けて聞いたとき、彼は悲しみに襲われ、感じる内的な悲しみのために、何を考えたらよいかほとんどわからないほどでした。その悲しみは知覚され、同時に彼の情愛の個々のものの中の無垢も知覚されました。
キリスト教徒の霊もまたいて、観察し、彫像の礼拝者がそれほど大きな慈悲と無垢の情愛に動かされることに驚きました。
その後、善い霊が彼に、「彫像を崇拝してはなりません。このことをあなたは人間なので理解することができます。また、彫像を超えて全天界と全地の創造者また統治者であられる神について考えなくてはなりません。その神は主です」と言って、話しました。
このことが言われたとき、彼の崇拝の内的な情愛を知覚することが与えられ、それが私に伝達されましたが、それはキリスト教徒のものよりもはるかに聖なるものでした。
このことから、「ルカ福音書」の主のことばにしたがって、異邦人は今日のキリスト教徒よりも容易に天界に来ることを明らかにすることができます――

その時、彼らは東と西から、また北と南から来て、神の王国の食卓の席に着きます。そして見よ、最初であった者が最後になり、最後であった者が最初になります13:29, 30)。

なぜなら、彼がいたその状態の中で、信仰のすべてのものが吸収され、それらを内的な情愛で受け入れることができるからです。彼のもとには愛のものである慈悲があり、その無知の中には無垢がありました。それらが現存するとき、信仰のすべてのものは、自発的であるかのように、楽しさとともに受け入れられます。
その後、天使の間に受け入れられます。

天界と地獄

324◀︎目次▶︎326

325 ある朝、離れたところから合唱が聞こえました。合唱隊の表象するものから、中国人であるとわかりました。それらが、ある種の毛深い山羊・キビの菓子・象牙のさじ、そのようにまた水に浮かぶ都といった観念を示したからです。
彼らは私のところに近づくことを願い、私に寄り添ったとき、自分たち自身の考えを打ち明けるために、私とだけになりたいと言いました。
しかし、「来客なのだから、私とだけいてはなりません、私とだけになりたいことに憤っている他の者がいます」と言われました。
彼らはその憤りを知覚したので、隣人に対して間違いを犯したのではないか、他人のものを何か自分自身に要求したのではないか、という思いに落ち込みました(来世ではすべての思考が伝達されます)。彼らの心の動揺が知覚されましたが、それは他の者を傷つけたかもしれないと認めることと、さらにそこからの恥、また他の一つの正直な感情でした。ここから、彼らが仁愛をもっていることが認められました。
間もなく私は彼らと話し、さらにまた最後に主について話しました――私が主をキリストと呼ぶとき、彼らにある種の嫌悪感があるのを知覚し、その原因が明らかにされました。彼らはキリスト教徒が自分たちよりも悪い生き方をすること、また仁愛の中にいないことを知っていたので、その嫌悪感を世からもってきたのです。しかし、私が単に主と呼ぶとき、彼らは内的に心を動かされました。
その後、天使により、キリスト教の教えは全世界中の他のすべての教えにまさって愛と仁愛を定めていること、しかし、それらにしたがって生きる者が少ないことを教えられました。
世で生きたとき、交際とうわさから、キリスト教徒が悪い生活を送っていることを知った異邦人がいました。その生活とは、例えば、姦淫・憎悪・けんか・酒びたり、それらのようなものの中に生きることであり、このようなものは彼らの宗教に反しているので、彼らに恐怖をひき起しました。
彼らは来世で他の者よりも信仰の真理を受け入れるのに臆病な者です。
しかし、天使から、キリスト教の教えと信仰そのものは、まったく別のものを教えていること、しかしその教えにしたがって生きる者は異邦人よりも少ないことを教えられます――そのことがわかるとき、彼らは信仰の真理を受け入れ、主を崇拝します、しかし、〔それは他の者よりも〕遅く〔です〕。

天界と地獄

325◀︎目次▶︎327

326 何らかの神を像または彫像のもとに崇拝した異邦人が来世に来た時、彼らがその神々または偶像に代わる者らのところへ導かれることはよくあることです、その理由は彼らの幻想を取り去るためです。彼らは、数日間、代わる者のもとにいた後で、そこから連れ去られます。
人間を崇拝した者もまた、時々、その人間のもとへ、あるいはそれに代わる者のもとへ導かれます。例えば、ユダヤ人の多くの者は、アブラハム、ヤコブ、モーセ、ダビデのもとへ導かれます。しかし、彼らが他の者のような人間であり、何の助けも与えることができないことに気づくとき、恥ずかしくなります。そして自分の生き方にしたがった自分自身の場所へ運ばれます。
天界の異教徒の間で、アフリカ人が最も愛されています。彼らは他の者よりも容易に天界の善と真理を受け入れるからです――特に、従順な者と言われることを欲しますが、信仰に忠実な者と言われることは欲しません。
彼らは、「キリスト教徒は信仰の教えを持っているので信仰に忠実な者と呼ばれることができる。しかし、私たちはそれらの教えを受けないかぎり、または、受けることができないかぎり、そう呼ばれることができない」と言っています。

天界と地獄

326◀︎目次▶︎328

327 私は古代教会の中にいたある者と話しました(古代教会と言われる教会は、洪水後に存在し、当時、多くの国を通して広がった教会です。すなわち、アッシリア・メソポタミア・シリア・エティオピア・アラビア・リビア・エジプト、ペリシテを通ってツロとシドンまで、それらにカナンの地を通ってヨルダン川を越えて広がった教会です(*4))。その時、彼らは来るべき主について知っており、信仰の善を教え込まれていたのですが、それでも背いて、偶像崇拝者となりました。
彼らは前方の左へ向かう暗い場所に、惨めな状態の中にいました。
彼らの話し方は、ほとんど理性的な思考がなく、一本調子の笛のようでした。
彼らは、「何世紀もの間そこにいて、そこから時々、他の者に何らかの卑しい役立ちで仕えるために連れ出される」と言いました。
彼らから、外面的には偶像崇拝者ではなくても、自己と世の崇拝者であり、心(cor)で主を拒んだので、内部では偶像崇拝者であるキリスト教徒の多くの者に、来世でどのような運命が待っているか、考えることができました。


*4 「創世記」第一章に記述されている最初の教会が、最古代の教会がこの地球上にあった。その教会はすべてにまさって天的であった(607, 895, 920, 1121-1124, 2896, 4493, 8891, 9942, 10545)。
彼らは天界の中でどんなものであるか(1114-1125)。
洪水の後、古代教会と呼ばれるいろいろな教会があった、それらについて(1125-1127, 1327, 10355)。
古代教会の人間は、どんなであったか(609, 895)。
古代教会は、表象的な教会であった(519, 521, 2896)。
古代教会のもとに、みことばがあった、しかし、それは失われた(2897)。
古代教会は、傾き始めたとき、どんなものであったか(1128)。
最古代教会と古代教会の間の相違(597, 607, 640, 641, 765, 784, 895, 4493)。
ユダヤ教会で命じられた法令・判決・律法は、部分的に、古代教会にあったものに似ていた(4288, 4449, 10149)。
主は、最古代教会の、そしてまた古代教会の神であられ、エホバと呼ばれた(1343, 6846)。

天界と地獄

327◀︎目次▶︎329

328 主の教会は全地球中に広がり、このように普遍的であること、またその中に自分自身の宗教にしたがって仁愛の善の中に生きたすべての者がいること、みことばがあり、それによって主が知られている教会は、教会の外の者にとって、人間の心臓と肺のようであり、それらからすべての身体の四肢と内臓は、形・位置・結合にしたがっていろいろと生きていること、これらは前に見られます(308)。

 

天界と地獄

328◀︎目次▶︎330

37 天界の幼児

329 ある者に〝教会内に生まれた幼児だけが天界に来て、教会外に生まれた幼児は天界に来ない〟という信念があります――その理由を、「教会内の幼児は洗礼を受け、洗礼によって教会の信仰に導かれるからである」と言っています。
しかし、彼らは、だれかに天界があり、信仰があるかは、洗礼によるのではないことを知りません。なぜなら、洗礼は、人間が再生しなくてはならないことと、教会内に生まれている者が、そこにみことばがあるので神的真理があり、それによって再生があり、そこに知られている主により再生されることができることの単なるしるしと記念であるからです(*1)
そこで、幼児のだれもが、どこに生まれても、あるいは教会内またはその外、あるいは敬虔な両親からまたは不信心な両親から生まれても、死ぬとき、主により受け入れられ、天界で教育され、そして神的秩序にしたがって教えられ、善の情愛を、またそれらを通して真理の思考を吹き込まれることを知らなくてはなりません。その後、知性と知恵が完成されるに比例して、天界に導き入れられ、天使となります。
だれでも理性から考える者なら、地獄へ生まれている者はいないで、すべての者は天界へ生まれていること、また地獄に来るのはその人間自身の責任です、しかし、幼児には、その時、責任のあるはずはないことを知ることができます。


*1 洗礼は、みことばからの信仰の真理を通しての主による再生を意味する(4255, 5120, 9088, 10239, 10386-10388, 10392)。
洗礼は、主が認められ、その方からの再生がある教会に属する人間であることのしるしである。そこには、みことばがあり、それからの信仰の真理があり、それによって再生がある(10386-10388)。
洗礼は信仰も救いも与えない、しかし、再生する者が信仰と救いを受けることを証しする(10391)。

天界と地獄

329◀︎目次▶︎331

330 死んだ幼児は、来世でも同じく幼児です。彼らに同じような幼児の心が、無知の中に同じような無垢が、すべての者に同じような優しさがあります――ただ天使になることのできる始まりの中にいるだけです、なぜなら、幼児は天使ではなく、天使となるからです。
世から去ったそれぞれの者は、自分自身の生活と同じような状態の中に、幼児は幼児の状態の中に、少年は少年の状態の中に、青年・成人・老人は、それぞれ青年・成人・老人の状態の中にいるからです、しかし、それぞれの状態は、その後、変化します。けれども、幼児の状態は無垢の中にいる他の者の状態にまさっており、彼らにはまだ実生活からの悪が根づいていません。そして無垢は天界のすべてのものが植え付けられることができるようなものです、なぜなら、無垢は信仰の真理と愛の善の容器であるからです。

天界と地獄

330◀︎目次▶︎332

331 来世の幼児の状態は世の幼児の状態よりも大いにまさります、なぜなら、彼らは地的な身体でなく、天使たちの身体に似たものを着ているからです。
地的な身体は、本質的に重苦しいものであり、最初の感覚と最初の運動を内的なまたは霊的な世界から受けないで、外的なまたは自然的な世界から受けます。それゆえ、世の幼児は、歩くこと・振る舞い・話すことを学ばなくてはなりません。視覚や聴覚のような感覚すら、用いることによって開かれなくてはなりません――来世の幼児は異なります。彼らは霊であるので、直ちに自分自身の内的なものにしたがって活動し、用いることなしに歩き、話します。しかし、思考の観念の中に区別がなされていないので、最初は情愛の一般的なものから話しますが、やがて観念もまた教えられます。このことは彼らの外的なものが内的なものと同質であるからです。
前に述べましたが(234-245)、天使の話し方は思考の観念によって多様に変化した情愛から流れ出ます。そのように幼児の話し方は情愛からの思考に完全に一致しています。

天界と地獄

331◀︎目次▶︎333

332 幼児は生き返るとすぐに、それは死後、直ちに起こりますが、天界に連れて行かれ、自分のいのちが身体の中にあったとき幼児をやさしく愛し、同時に神を愛した女性の天使に手渡されます。
彼女らは、世で母のようにやさしくすべての幼児を愛したので、彼らを自分自身の幼児のように受け入れ、幼児もまた生来の性質から彼女らを自分自身の母のように愛します――それぞれの女性のもとには、霊的な親心(ストルゲー)から望むだけの数の幼児がいます。
この天界は額の領域から正面の方向に、天使が主に目を向ける直線または視線の前方に見られます。その位置に天界があるのは、すべての幼児は主の直接の導きのもとにあるからです。さらにまた彼らのもとに第三の天界である無垢の天界が流入します。

天界と地獄

332◀︎目次▶︎334

333 幼児の性格はいろいろです。ある者は霊的な天使の性格、ある者は天的な天使の性格です。
天的な性格である幼児は、その天界の右に、霊的な性質の者は左に見られます。
天界である〝最大の人〟の中のすべての幼児は、目の領域の中にいます。左目の領域の中に霊的な性質の者が、右目の領域の中に天的な性質の者がいます。このことは、主は霊的な領域の中にいる天使に左目の前に、天的な領域の中にいる天使に右目の前に見られるという理由からです(前の118番参照)。
ここから、幼児は〝最大の人〟または天界の中の目の領域の中にいることが、さらにまた幼児は主から直接に見られ、その導きのもとにあることが明らかです。

天界と地獄

333◀︎目次▶︎335

334 幼児は天界でどのように教育されるかも、簡潔に述べておきます。
彼らは話すことを子育て女から学びます。彼らの最初の話し方は、単なる情愛の音声ですが、思考の観念が入ってくるほど、次第に明確に聞き取れるようになります。なぜなら、情愛からの思考の観念は、天使の話し方のすべてをもたらすからです(その事柄について234-245番の章参照)。
目の前に現われ、歓喜を与えるようなものが、すべては無垢から発出している彼らの情愛の中に、最初にしみ込みます。それらは霊的な起源からのものなので、それらの中に同時に天界のものが流入し、それらによって彼らの内的なものが開かれます。こうして日ごとに完成されます。
この最初の時期を過ごした後、他の天界に移され、そこで教師たちから教えられます――またこのようにさらに教えられます。

天界と地獄

334◀︎目次▶︎336

335 幼児は、特に彼らの性質に釣り合った表象するものによって教えられます。その表象するものがどれほど美しいか、また同時に内的なものから知恵に満ちているか、決してだれも信じることができません――このように彼らに善からその霊魂を得ている知性が次第にしみ込みます。
私は二つの表象するものを見ることが与えられ、ここに物語ることが許されています、それらからその他のことも結論することができるでしょう。
最初に、天使は墓から起き上がる主を、また同時にその方の人間性と神性の結合を表象しました。このことは、人間の知恵のすべてを超えるほどの賢明な方法で、また同時に幼児の無邪気な方法で行なわれました。
墓の観念もまた示しましたが、しかし、同時に主についての観念は、主であることがほとんど知覚されないように、遠く離れて、いわば遠方から示しました。墓には何らかの死の観念が内在するという理由で、このように遠ざけたのです。
その後、彼らは慎重に墓の中へ希薄な水のようにも見えるある種の気体を入れました、それによって、また適切な距離を置くことによっても、彼らは、洗礼の中の霊的ないのちを表わしました。
その後、私は、主が縛られた者のところへ降り、縛られた者とともに天界へのぼられること、またこのことがたとえようもない思慮と敬虔さで彼らにより表象されるのを見ました。そのことは幼児らしいやり方で、ほとんど見えないような、やや柔らかで最も繊細な綱を降ろし、それでもって主を引き上げたのですが、表象するものの中に常に霊的で天的でない何かが触れないようにとする聖なる恐れがありました。
他にも表象するものがあり、それらの中に、幼児の心(animus)に一致した遊びによるかのようなものがあり、それによって真理の思考と善の情愛の中に導かれました。

天界と地獄

335◀︎目次▶︎337

336 さらにまた彼らの理解力がどのように柔らかいものであるかを示されました。私が〝主の祈り〟を祈っていたとき、それらは私の思考の観念の中にその知的なものから流入しましたが、その流入はほとんど情愛のものだけであるかのように柔らかく穏やかであることが認められました。また同時に、その知的なものは主から開かれていることが認められました、なぜなら、それは主から彼らを流れ抜けるようなものであったからです。主もまた特に最内部から幼児の観念の中に流入されます、なぜなら、その観念はおとなのもとのように閉ざされていないからです。真理を理解するために、虚偽の原理によって、また善を受け入れるために、したがって知恵を受け入れるために悪の生活によっても閉ざされていません。
これらから、幼児は死後すぐに天使の状態にやって来ることはなくて、善と真理の知識を通して連続的に導き入れられること、このことは天界の秩序のすべてにしたがっていることを明らかにすることができます。なぜなら、彼らの性質のすべては最小のものすら主に知られており、それゆえ、彼らの性向のすべてと個々の細目にしたがって、善の真理と真理の善を受け入れるように導かれるからです。

天界と地獄

336◀︎目次▶︎338

337 幼児の性質に適合する楽しいものと快いものによって、すべてのものがどのように彼らにしみ込むかもまた私に示されました――というのは、幼児が胸と柔らかい腕に極めて快い、天界の色で輝く花輪をして、最高に着飾った服を着ているのを見ること、さらにまたかつて、女教師や娘たちと一緒に楽園のような庭園にいる幼児を見ることが与えられたからです。
その庭園の入り口から内部へ向かう道は、木々からではなく、月桂樹のような木の横枝を極めて美しく飾った並木道であり、その時、幼児と同じように装っているようでした。そして幼児が入ったとき、入り口の上の花が極めて喜ばしく輝きました。
ここから彼らの歓喜がどんなものか、さらに楽しいものと快いものによって無垢と仁愛の善の中へ導き入れられ、その楽しくて快い善が常に主から彼らにしみ込んでいることが明らかです。

天界と地獄

337◀︎目次▶︎339

338 来世でよくある伝達の方法によって、何らかの対象を見るときの幼児の観念がどんなものであるか、私に示されました。それは、あらゆるものが生きているようでした。ここから幼児の思考の個々の観念の中にいのちが内在します――地上の幼児も自分の遊びの中にいるとき、ほとんど似た観念にいることが知覚されました。なぜなら、まだ彼らは、おとなのように、〝いのちがないもの〟を考えないからです。

天界と地獄

338◀︎目次▶︎340

339 幼児が、天的な性質かあるいは霊的な性質をもっていることは前に言いました。
天的な性質の者は、霊的な性質の者から容易に見分けられます。前者は、穏やかに考え、話し、行動します。したがって主の中の善の愛からのものと他の幼児たちに対する善の愛からのものが流れている以外にほとんど何も現われません。しかし、後者はこのように穏やかにではなく、彼らのもとの個々のものの中に、ある種のはばたく翼のようなものが現われています。さらにまた、彼らの憤りや他のものからも明らかです。

天界と地獄

339◀︎目次▶︎341

340 多くの者は、「天界で幼児は幼児のままである。天使の間で幼児のようである」と思っています。
天使について無知である者は、その見解を教会の中のあちこちに天使が幼児として示されている像から確信しています――しかし、事実はまったく異なります。
知性と知恵が天使をつくります。幼児が知性と知恵をもたないかぎり、天使のもとにいても、天使ではありません。しかし、知性と知恵が形作られるとき、初めて天使になります――それどころか、私が驚いたことに、その時、幼児のようにではなく、おとなのように見えました。なぜなら、その時、もはや幼児の性質はなく、知性と知恵により、おとなの天使の性質をもっていたからです。
幼児が知性と知恵を完成されるほど、おとなのように、このように青年と若者のように見えることの理由は、知性と知恵は霊的な滋養物そのものであるからです(*2)。それゆえ、彼らの心に滋養物を与えるものは彼らの身体にも滋養物を与え、このことは対応からです、なぜなら、身体の形は内的なものの外なる形以外のものではないからです。
天界の中の幼児は青年の初期を超えて成長しないで、そこに永遠にとどまることを知っておくべきです。
このようであることを私が確かに知るために、天界の中で教育され、そこで成長した幼児と、さらにまた、ある者と幼児であった時に、またその後、その同じ者が若者になった時に話すことが与えられました。彼らから私は、ある年齢から他の年齢へ向かう彼らの人生の歩みを聞きました。


*2 霊的な食物は、知識・知性・知恵であり、したがってそれらのもととなる善と真理である(3114, 4459, 4792, 5147, 5293, 5340, 5342, 5410, 5426, 5576, 5582, 5588, 5655, 8562, 9003)。
ここから、霊的な意味で食物は主の口から出るすべてのものである(681)。
パンは全般的にすべての食物を意味するので、それゆえ、それは天的な、霊的なすべての善を意味する(276, 680, 2165, 2177, 3478, 6118, 8410)。
その理由は、それらは内なる人間の心に滋養物を与えるからである(4459, 5293, 5576, 6277, 8410)。

天界と地獄

340◀︎目次▶︎342

341 無垢は天界のすべてのものの容器であり、したがって幼児の無垢は善と真理の情愛のすべての面であることは、天界の中の天使たちの無垢について示された前のものから(276-283)、すなわち、自分自身ではなく主により導かれようと意志することが無垢であることから明らかにすることができます。したがって、人間は無垢の中にいればいるほど、それだけ自分のプロプリウム(固有のもの)から遠ざかり、だれでも自分のプロプリウムから遠ざかれば遠ざかるほど、それだけ主のプロプリウムの中にいます。主のプロプリウムは主の義(公正)と功績と呼ばれるものです。
しかし、幼児の無垢は、いまだ知恵のないものなので本物の無垢ではありません――本物の無垢は知恵です。なぜなら、だれでも知恵があればあるほど、それだけ主により導かれるから、すなわち同じことですが、だれでも主により導かれるほどそれだけ知恵があるからです。
[2]それで、幼児は、幼児の無垢と呼ばれる最初の外なる無垢から、知恵の無垢と呼ばれる内なる無垢へ導かれます。
彼らのすべての教育と進歩の終着点がこの無垢です。それゆえ、知恵の無垢に来るとき、それまでの間に面として役立っていた幼児の無垢がそれらに結合されます。
[3]幼児の無垢がどんなものか私に表象されました。それは、ほとんど生命のない木製のものが生きいきとされることによって、幼児の無垢が真理の認識(知識)と善の情愛によって完成させられることでした。その後、本物の無垢がどんなものか、極めて美しく活気に満ちた裸の幼児によって表象されました――というのは、最内部の天界にいて、このように主の最も近くにいる無垢そのものである者は、他の天使の目の前に裸の幼児たちとしか見えないから、なぜなら、楽園の中の最初の人間とその妻について書いてあるように(創世記 2:25)、無垢は恥ずかしがることのない裸によって表象されるからです。それゆえまた、彼らの無垢の状態が失われたとき、裸を恥ずかしがり、隠れました(3:07, 10, 11)。
一言でいえば、天使は知恵があればあるほど、ますます無垢です。また無垢であればあるほど、ますます幼児のように見えます。
ここから、みことばの中で「幼児期」は無垢を意味します(前の278番参照)。

天界と地獄

341◀︎目次▶︎343

342 幼児について、私は天使と、「彼らには、おとなのように実際の悪は何もないので、悪からは純粋ですか」と話しました。
しかし、次のように言われました。「彼らも同じように悪の中にいます、というよりも彼らもまた悪である以外に何ものでもありません(*3)――しかし、彼らは、すべての天使のように、主により悪から妨げられ、彼らにとって自分自身から善の中にいるように見えるほどにまでも善の中に保たれています――それゆえ、幼児は、天界でおとなになった後、自分自身について、自分のもとにある善は自分自身からのものであり、主からではないという虚偽の見解の中にいないように、遺伝から受け入れられ、彼らの中に残されている自分自身の悪の中にときどき送り返され、事実はそのとおりであることを知り、認め、信じるようにされます」。
[2]幼児で死に、天界で成長したある者もまた同じような見解の中にいました。彼はある王の息子でした――それゆえ、自分自身の生来の悪のいのちの中へ送り返され、その時、私は彼のスフェアから、彼が、他の者を支配しようとし、また姦淫を大したことではないと見なす性向を、両親からの遺伝による悪としてもっていることを知りました――しかし、彼は自分がこのような者であることを認めた後、再び以前にいた天使たちの間に受け入れられました。
[3]だれも遺伝悪のために来世で決して罰を受けることはありません、その悪は彼のものではなく、したがって彼がそのようであることは彼の責任ではないからです。しかし、彼自身のものである実際の悪のために、このように、自分自身の実際の生活によって遺伝悪からの悪をどれだけ自分のものにしたかによって罰を受けます。
おとなになった幼児が遺伝による自分自身の悪の状態に送り返されるのは罰を受けるためではなく、自分自身からは悪以外のものではないこと、また自分のもとの地獄から、主の慈悲により、天界に連れて行かれ、自分自身からでなく主の慈悲により天界にいることを知り、このように他の者の前で自分のもとにある善を誇らないためです。なぜなら、このことは相互愛の善に反しており、信仰の真理にも反しているからです。


*3 人間は、どれほど多くいても、そのプロプリウムは悪以外のものでないほどに、すべての種類の悪の中に生まれている(210, 215, 731, 874-876, 987, 1047, 2307, 2308, 3518, 3701, 3812, 8480, 8550, 10283, 10284, 10286, 10731)。
それゆえ、人間は生まれ変わらなければ、すなわち、再生しなければならない(3701)。
人間の遺伝悪は、自分自身を神よりも、世を天界よりも愛し、自分自身のためにならないなら、隣人を自分自身と比べて価値のないものとすることであり、このように自己愛と世俗愛である(694, 731, 4317, 5660)。
自己愛と世俗愛が主権を握るとき、それらの愛からすべての悪が存在する(1307, 1308, 1321, 1594, 1691, 3413, 7255, 7376, 7488, 7490, 8318, 9335, 9348, 10038, 10742)。
それらの悪は他の者への軽蔑・敵意・憎しみ・復讐・残酷・欺きである(6667, 7372, 7373, 7374, 9348, 10338, 10742)。
またこれらの悪からすべての虚偽がある(1047, 10283, 10284, 10286)。
それらの愛は、束縛がゆるめられるほど突進し、自己愛は神の王座にまでも突進する(7375, 8678)。

天界と地獄

342◀︎目次▶︎344

343 しばしば、私は、合唱隊にいた何人かの幼児と一緒だったことがあります。そのときまだまったく幼児らしかったので、その合唱隊の歌は、乱れた柔らかい音のもののように聞こえ、その後に成熟したときのように、まだ一つとなって聞こえませんでした。驚くことに、私のもとの霊がしきりに彼らに話をさせようとしました。このような欲望は霊に生得のものです――しかし、幼児は話すことを望まないで、ある種の憤りとともに抵抗したことが何度も観察されました――私はしばしばその拒否と嫌悪に気づきました。そして彼らと話す機会が与えられたとき、彼らはただ、「それはそのようではありません」と言いました。
私は、幼児の試練はこのようなものであり、それは彼らが虚偽と悪に抵抗するだけでなく、他の者から考え、話し、行動しないために、したがって主だけから以外に他の者から自分自身が導かれることを許さないことに慣れ、訓練されるためであることを教えられました。

天界と地獄

343◀︎目次▶︎345

344 これらの示されたことから、天界の中の幼児の教育がどんなものか明らかです。すなわち、真理の知性と善の知恵によって、無垢の内在する主への愛と相互愛である天使のいのちへ導入されることです。
しかし、地上の多くの者のもとで幼児の教育は、どれほど正反対のものであるか、次の例により明らかにすることができます。
私は大きな都会の街路で、子どもが互いにけんかしているのを見たことがあります。やじ馬が群がり集まって、これを大喜びで見ていました。私は「両親自身が幼い子どもをこのような取っ組み合いへ煽り立てている」と知らされました。
私の目を通してこれを見た善霊と天使は、このことに、特に両親が子どもをこのようなことへけしかけていることに、彼らは、「主から幼児に与えられたすべての相互愛とすべての無垢を、こうして最初期のうちに消滅させてしまい、幼児を憎しみと復讐へ導いています――その結果、自分の子どもを自分自身の熱意で、相互愛そのものである天界から締め出してしまいます。
それで、自分の子どもによかれと願う両親は、このようなことに用心しなければなりません」と言って、私がその恐怖に気づくほどの拒絶を示しました。

天界と地獄

344◀︎目次▶︎346

345 幼児期に死ぬ者とおとなで死ぬ者の相違がどんなものかも述べます。
おとなで死ぬ者は、地的で物質的な世界から獲得した面を自分自身に持ち、抱いています。
この面は彼らの記憶とその身体的な自然的な情愛です。これは不変のまま残り、活動は停止しますが、それでも、死後、彼らの思考の最終面として仕えます、なぜなら、その面の中に思考が流入するからです。
ここから、死後、人間がどのようなものであるかは、その面がどのようであり、そこにある理性的なものと、どのように対応するかによっています。
けれども、幼児期に死んで天界で教育される幼児は、このような面を持っていません、物質的な世界と地的な身体から何も得ていないので霊的な自然的な面を持っています――それゆえ、このように粗野な情愛とそこからの思考の中にいることはできません。なぜなら、彼らはすべてのものを天界から得るからです。
さらに、幼児は世で生まれたことを知りません。それで自分たちは天界で生まれたと信じています。そこから、善と真理の知識によって、また知性と知恵によって生じる霊的な出生以外の他の出生がどんなものか知りません。この霊的な出生から人間は人間であって、これは主からのものであるので、彼らは自分たちが主ご自身のものであることを信じ、またそのことを愛しています。
しかし、地上で成長する人間の状態でも、もし彼らが自己愛と世俗愛である身体的で地的な愛を遠ざけ、それらに代わって霊的な愛を受け入れるなら、天界の幼児の状態と同じように完全になることができます。

 

天界と地獄

345◀︎目次▶︎347

38 天界の賢明な者と単純な者

346 「ダニエル書」に、「知性のある者は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は永遠に星のようである」(12:3)と言われているので、天界の中の賢明な者のほうが単純な者よりも称賛を得ており、卓越しているであろう、と信じられています。しかし、「知性のある者」と「義とした者」によって何が意味されるか知っている者はわずかです。
一般の人々は、「その者とは教育のある者や学識のある者と呼ばれる者である。特に教会の中で教えてきて、他の者に教えや説教でまさった者、さらにその中でも多く者を信仰へ回心させた者である」と信じています。
すべてこのような者は、世では知性のある者と信じられていますが、しかしそれでも、もし彼らの知性が天界の知性でないなら、それらの言葉で言われている者は天界で知性のある者ではありません。その知性がどのようなものであるか、このすぐあとで述べます。

天界と地獄

346◀︎目次▶︎348

347  天界的な知性は内的な知性であり、世での何らかの称賛のためではなく、天界での何らかの称賛のためでもなく、真理そのもののための真理への愛から生まれるものであって、真理に深く感動し、真理を喜びます。
真理そのものに感動し、喜ぶ者は、天界の光に感動し、喜びます。天界の光に感動し、喜ぶ者は、神的真理にも感動し、喜びます。それどころか、主ご自身に感動し、喜びます、なぜなら、天界の光は神的真理であり、神的真理は天界の主であられるからです(前の126-140番参照)。
この光は、心(mens)の内的なものにしか入りません、なぜなら、心の内的なものはその光を受け入れるように形作られているからです。また入るときも同じく、その内的なものは感動し、喜びます。なぜなら、天界から流入し、受け入れられるものは何であれ、それ自体の中に快いものと楽しいものがあるからです――ここから、真理への本来の(本物の)情愛が存在し、それは真理のための真理への情愛です。
この情愛の中にいる者は、あるいは同じことですが、この愛の中にいる者は、天界の知性の中にいて、天界の中で大空の輝きのように輝きます――神的真理であるので天界の中のどこでも輝きます(前の132番参照)。そして対応から、天界の「ひろがり」は、天界の光の中にいる天使と同じく人間のもとの知的なものを意味します。
[2]しかし、世での称賛のために、あるいは天界での称賛のために真理への愛の中にいる者は、天界で輝くことができません、彼らは天界の光そのものを喜ばず、感動もしないで、世の光を喜び、感動します。世の光は天界の光がないなら暗黒そのものです(*1)――というのは、自分自身への称賛が目的であるので、そのことが優勢となっているからです。その称賛が目的であるとき、その人間はもっぱら自分自身に目を向け、真理を自分自身の称賛に仕える目的への単なる手段として、召使いと見なします。なぜなら、自分自身の称賛のために神的真理を愛する者は、神的真理の中に主を見ないで、自分自身を見るからです。そこで、理解力と信仰に属す自分の目の向きを、天界から世へ、主から自分自身へと変えます――ここから、このような者は世の光の中にいて、天界の光の中にはいません。
[3]これらの者は、外なる形の中で、このように人間の前で、天界の光の中にいる者のように、知性のある者や学識のある者と同じように見えます。その理由は、自己愛によりかきたてられていて、天界の情愛を持つふりをすることを教えられているので、同じように語り、ときどき外なる姿の中で賢明な者に見えるからです。しかしそれでも、天使の前には、内なる形でまったく別な者として見られます。
これらから、天界の中で大空の輝きのように輝く「知性のある者」によって特に何が意味されるか、いくらか明らかにすることができます――けれども、星のように輝く「多くの者を義とする者」によって特に何が意味されるか、今から述べます。


*1 世の光は外なる人のためのもの、天界の光は内なる人のためのものである(3222-3224, 3337)。
天界の光は自然的な光の中に流入し、自然的な人間は、どれだけ天界の光を受け入れるかによってそれだけ賢明である(4302, 4408)。
自然的な光と呼ばれる世の光から、天界の光の中にあるものは見られることができない、しかし、逆に〔天界の光から世の光の中にあるものは見られる〕(9755)。
それゆえ、世の光の中だけにいる者は、天界の光の中にあるものを知覚しない(3108)。
世の光は、天使には暗黒である(1521, 1783, 1880)。

天界と地獄

347◀︎目次▶︎349

348 「多くの者を義とする者」によって賢明である者が意味され、天界で善の中にいる者は賢明な者と呼ばれます。神的真理を直ちに生活の中に取り入れる者は、そこの善の中にいます――なぜなら、神的真理は生活に属すものになるとき善となるからです。それは意志と愛に属すものになり、何であれ意志と愛に属すものは善と呼ばれるからです――それゆえ、これらの者は賢明な者と呼ばれます、なぜなら、知恵は生活に属すものであるからです。
けれども、神的真理を直ちに生活に取り入れないで、最初に記憶に取り入れ、その後、そこから真理を取り出し、生活に適用する者は知性のある者と呼ばれます。
前者と後者が天界の中で、どのように、またどれほど異なっているかは、天界の天的な王国と霊的な王国の二つの王国について扱われている章に(20-28)、また三つの天界について扱われている章に(29-40)見ることができます。
主の天的な王国にいる者は、したがって第三または最内部の天界にいる者は、義(公正)を自分自身には何も帰さないで、すべてを主に帰すことから、正しい者と呼ばれています。天界で、主の義(公正)とは主からの善です(*2)。それゆえ、ここの彼らは「義とする者」によって意味されています。主が次のように言われている者もまた、これらの者です、

正しい者たちは、わたしの父の王国で太陽のように輝きますマタイ13:43)。

太陽のように輝くことは、主からの主への愛の中にいるからであり、その愛が「太陽」によって意味されています(前の116-125番参照)。さらにまた、彼らは愛の善を天界の太陽としての主から直接に受けているので、彼らのもとの光は炎のようであり、彼らの思考の観念は炎のようなものから得られています。


*2 主の功績と公正(義)は天界を支配している善である(9486, 9983)。
「正しい者」と「義とされた者」に主の功績と公正(義)が帰せられ、「不正な者」にはプロプリウム(固有のもの)の公正(義)と自分自身の功績がある(5069, 9263)。
公正(義)を自分自身に要求する者らは来世でどんなものであるか(942, 2027)。
みことばで、「公正(義)」は善について、「判断(審判)」は真理について言われ、ここから「公正(義)と判断(審判)を行なうこと」は善と真理を行なうことである(2235, 9857)。

天界と地獄

348◀︎目次▶︎350

349 世で知性と知恵を獲得したすべての者は、天界に受け入れられ、そのそれぞれの者が知性と知恵の質と量にしたがって天使となります――人間が自分自身に世で得たものは何であれ存続し、死後、自分自身のものとなり、増やされ、満たされるからです。しかし、真理と善への彼の情愛と願望の程度の範囲内であり、それを超えることはありません。情愛と願望がわずかであった者は、わずかに受けますが、それでも、その程度の範囲内でそれだけのものを受けることができます。けれども、情愛と願望の多い者は、多く受けます。情愛と願望の程度とは、満たされるまで中身を増やされる枡のようなものであり、それで大きい枡は多く満たされ、小さい枡は少なく満たされます――このようであることの理由は、情愛と願望のもとである愛が、それ自体に適合するものをすべて受けるからです。ここから愛があればあるほど、それだけ受けます。
このことが、次の主のことばによって意味されています、

持つ者にはだれにも、あり余るほど持つようにと与えられますマタイ13:12; 25:29)。
量りをよくして、押しつけられ、揺さぶられ、あふれるまでに、ふところに与えられますルカ 6:38)。

天界と地獄

349◀︎目次▶︎351

350 真理と善のために真理と善を愛したすべて者は天界に受け入れられます――それで、賢明な者と呼ばれる者は多く愛した者であり、単純な者と呼ばれる者はわずかに愛した者です。天界で、賢明な者は多くの光の中に、単純な者は少ない光の中にいて、それぞれの者が、善と真理への愛の程度にしたがっています。
真理と善のために真理と善を愛することは、それらを意志することとそれらを行なうことです、なぜなら、意志し、行なう者は愛しますが、意志しないで、行なわない者は愛さないからです――さらにまた、彼らは主を愛し、主から愛される者であり、善と真理は主からのものであるので、彼らの中にもまた、すなわち、善と真理の中にもまた、主はおられます。したがって、意志することと行なうことを通して自分自身のいのち(生活)の中に善と真理を受け入れた者のもとにもまた主はおられます。
さらにまた、人間は本質的に眺められるとき、善は彼の意志のもの、真理は彼の理解力のものであるので、その人間自身も善と真理以外のものではありません。人間がどのようなものであるかは、彼の意志と理解力がどのようなものであるかによっています――ここから、彼の意志が善から、理解力が真理から形作られれば形作られるほど、それだけ主から愛されることが明らかです。
主から愛されることは主を愛することでもあります、なぜなら、愛は相互的であり、主は愛される者に愛することを与えられるからです。

天界と地獄

350◀︎目次▶︎352

351 世では、教会とみことばの教えからあるいは知識から多くのことを知っている者は、他の者よりも内的にまた鋭く真理を知り、したがってさらに理解力があり、賢明であると信じられています。本人たちが自分自身についてそう信じています――しかし、何が真の知性と知恵か、何がにせの、また何が偽りの知性と知恵か、今から述べます。

[2]真の知性と知恵とは、何が善と真理か、またここから何が虚偽と悪か見て、知覚し、それらを正しく区別し、このことを熟考と内的な知覚から行なうことです。
それぞれの人間のもとに内的なものと外的なものがあります。内的なものは内なる人または霊的な人のものですが、外的なものは外なる人または自然的な人のものです。内的なものが形作られ、外的なものと一つになればなるほど、人間は見て、知覚します。
人間の内的なものは、天界でしか形作られることができません、しかし、外的なものは世で形作られます。
内的なものが天界で形作られるとき、そこにあるものが世からの外的なものに流入し、対応するように、すなわち、一つとなって働くように、それらを形作ります。このことがなされるとき、人間は内的なものから見て、知覚します。
内的なものが形作られるためのただ一つの方法は、人間が神性と天界に目を向けることです、なぜなら、今述べたように、内的なものは天界で形作られるからです。人間が神性へ目を向ける時、神性を信じ、すべての真理と善は、したがってすべての知性と知恵は、神性からであると信じます。神性を信じる時、神性から導かれることを欲します――このようにでないなら、人間の内的なものが開かれることはありません。
[3]その信仰の中にいて、その信仰にしたがった生活をしている人間は、理解することと賢明になることの力と能力の中にいます――しかし、知的な者と賢明な者になるために、多くのことを天界のものだけでなく、世のものもまた学んで獲得しなければなりません。みことばと教会から天界のものを、知識から世のものを学びます。人間が学んで獲得し、生活にあてはめればあてはめるほど、それだけ知的で賢明になります、なぜなら、理解力に属すものである内的な視覚と、意志に属すものである内的な情愛が完成されるからです。
この類いの単純である者は、内的なものが開かれていますが、霊的な、道徳的な、市民的な、自然的な真理によってはそれほど養われていません。これらの者は真理を聞くとき、それらを知覚しますが、それらを自分自身の中に見ません。けれども、この種の賢明である者は、内的なものが開かれているだけでなく、養われてもいます。これらの者は自分自身の中に真理を見て、知覚します。
これらから、何が真の知性と知恵か明らかです。

天界と地獄

351◀︎目次▶︎353

352 にせの知性と知恵とは、何が真理と善か、またここから虚偽と悪か、内的なものから見て、知覚することではなく、単に他の者から、「真理と善である、虚偽と悪である」と言われることを信じ、その後、それを確信することです。
彼らは、真理を真理からでなく、他の者から見るので、真理と同じく虚偽も把握し、信じ、それを真理のように見えるまで確信もします。確信されるものはどんなものでも真理の外観を着るからです。また確信されることのできないものは何もありません。
これらの者の内的なものは、下方からしか開かれていませんが、外的なものは確信するほどにまで開かれています。それゆえ、彼らが見るもととなる光は天界の光ではありません、世の光であり、自然的な光と呼ばれます――この光の中で虚偽は真理のように明るく見えることができ、それどころか、確信されるときには光り輝くことができます、けれども、天界の光の中で輝くことはありません。
これらの者の中では、多く確信した者が知性と知恵の少ない者であり、少ししか確信しなかった者が知性と知恵の多い者となります。
これらから、何がにせの知性と知恵か明らかです。
[2]しかし、少年期に教師から聞いて真理であると思い、もし自分自身の理解力から考える時である壮年期に、それらに固執しないで、真理を望み、その願望からそれらを探求し、見つけるとき、内的に感動させられる者は、この類いの者ではありません――これらの者は真理のために真理に情愛を感じるので、確信する前に真理を見いだします(*3)
[3]このことを例によって説明します。
霊たちの間で、「動物はその性質に調和するすべての知識の中に生まれているのに、どうして人間はその知識の中に生まれていないか」という会話がありました。またその理由が、「動物はそのいのちの秩序の中にいる、けれども、人間はその中にいない。それゆえ、彼は認識と知識によって秩序の中へ導き入れられなければならない――しかし、もし人間がすべてのものにまさって神を愛し、隣人を自分自身のように愛するという、いのちの秩序の中に生まれているなら、彼は知性と知恵の中に、またここから、知識がつけ加わるかぎり、すべての真理の信仰の中にも生まれているであろう」と言われました。
善霊は、このことを直ちに見て、そのようであることを真理の光だけから知覚しました。しかし、信仰のみを確信し、ここから愛と仁愛を脇へ退けた霊は、これを理解することができませんでした、彼らのもとの確信された虚偽の光が真理の光を暗くしたからです。


*3 知恵は、真理であるかどうかを確信する以前に、見ることと知覚することである、けれども、他の者から言われたことを確信することではない(1017, 4741, 7012, 7680, 7950)。
真理であるかどうかを確信する以前に、見ることと知覚することは、真理のためにまた生活のために真理に感動する者にだけ与えられる(8521)。
確信の光は自然的な光であり、霊的な光ではなく、悪い者のもとにもありうる感覚的な光である(8780)。
すべてのものは、虚偽もまた、真理のように見えるほどにも確信することができる(2477, 2480, 5033, 6865, 8521)。

天界と地獄

352◀︎目次▶︎354

353 偽りの知性と知恵とは、神性を承認しないすべてのものです。神性を認めないで、神性の代わりに自然を認める者は、どれほど世で学識があり、博学と信じられていても、すべてのものを身体の感覚から考え、まったく感覚的であるからです(*4)。彼らの学識は、世で目の前に現われるようなものを超えて上昇することがなく、それらを記憶の中に保ち、それらをほとんど物質的に眺めます。それでも同じ知識が真に知性ある者の理解力を形作るために役立ちます。
知識によって、いろいろな種類の実験に基づく知識、物理学・天文学・化学・機械学・幾何学・解剖学・心理学・哲学・国々の歴史、さらに文学・評論・言語などが意味されます。
[2]神性を否定する高位聖職者は、自分の思考を外なる人の感覚を超えて高揚させません。他の者が知識を眺めるのと同じように、みことばを眺め、みことばを照らされた理性的な心からの思考の対象または何らかの熟考の対象ともしません。このことの理由は、彼らの内的なものは、同時に内的なものに最も近い外的なものも、閉ざされているからです――閉ざされているのは、天界から後ろ向きになっており、天界へ目を向けることのできるもの、それは以前に言われたように、人間の心の内的なものですが、それをひっくり返しているからです。
ここから、何が真理と善か、それらが彼らにとって暗黒の中にあるので知ることができません、それでも、虚偽と悪は光の中にあります。
[3]しかし、感覚的な人間でも推論することができ、ある者は他の者以上に巧みで、鋭く推論します、しかし、彼らの知識によって確信した感覚の欺きから推論しています。またこのように推論できるので、さらにまた自分自身が他の者よりも賢明であると信じています(*5)
彼らの誤った推論を情愛によって燃え立たせている火は、自己愛と世俗愛の火です。
これらが偽りの知性と知恵の中にいる者であり、また主により「マタイ福音書」〔の次の箇所〕に、またもう一つの箇所に意味されている者です、

彼らは見ているが見ない、聞いているが聞かない、理解もしない13:13-15)。
知的な者と賢明な者に隠され、幼児たちに現わされた11:25, 26)。


*4 感覚は人間のいのちの最終的なものであり、その身体に付着し、こびりついている(5077, 5767, 9212, 9216, 9331, 9730)。
すべてのものを身体の感覚から判断を下して結論する者は、また目で見て手で触れないなら何も信じない者は、感覚的な人間と呼ばれる(5094, 7693)。
このような人間は、最外部の中で考え、内的に本質的に考えない(5089, 5094, 6564, 7693)。
彼の内的なものは、神的な真理を何も見ないように、閉ざされている(6564, 6844, 6845)。
一言でいえば、粗雑な自然的な光の中にいて、このように天界の光からのものを何も知覚しない(6201, 6310, 6564, 6598, 6612, 6614, 6622, 6624, 6844, 6845)。
それゆえ、内的には天界と教会のものに対立している(6201, 6310, 6844, 6845, 6948, 6949)。
教会の真理に反して自分自身を確信した学者は感覚的である(6316)。
感覚的な人間がどんなものか記述されている(10236)。
*5 感覚的な人間は、すべての知性を具体的な記憶からの話し方の中に置くので、鋭く、巧みに推論する(195, 196, 5700, 10236)。
しかし、感覚の欺きから推論する(5084, 6948, 6949, 7693)。
感覚的な人間は他の者にまさって詐欺的で悪意がある(7693, 10236)。
このような者は古代人により知識の木のヘビと呼ばれてきた(195-197, 6398, 6949, 10313)。

天界と地獄

353◀︎目次▶︎355

354 私は、世から去った後の学識ある多くの者と話すようになりました。ある者は極めて有名であり、また書かれたものによって文学界で名高い者でした。またそれほど名高くはありませんが、それでも深遠な知恵を抱いていた者もいました。
心で神性を否定した者は、どれほど口で神を公言しても、市民的な真理はほとんど、まして霊的な真理は何も理解することができないほど愚鈍になります――彼らの心の内部は黒く見えるほどに閉ざされていることが知覚され、見られました(霊界ではこのようなものが見られます)。こうして、彼らは天界からの何らかの光に耐えることができず、したがって天界から何らかのものが流入することを許容できません。
その黒さは、その中に彼らの内的なものが見られましたが、自分の学問の知識によって神性に反したことを確信した者のもとで、さらに黒く、さらに広がっていました。
このような者は、来世では、すべての虚偽をスポンジが水を吸い込むように快く受け入れ、すべての真理を骨製のばねが落ちてくるものをはねつけるように、はねつけます。さらにまた、「神性に反して、その代わりに自然を確信した者の内的なものは骨化する――彼らの頭もまた、鼻にまで達する黒檀からできたたこでおおわれているように見える」と言われています。これはもはや何の知覚もないことのしるしです。
このようである者は、沼沢のように見える泥沼の中に浸され、そこのところで彼らの虚偽が変化した幻想により悩まされます。
地獄の彼らの火は称賛と名声の欲望であり、その欲望から彼らは互いにののしり合います。地獄の熱望から時々、そこでは自分を神々として崇拝しない者を互いに苦しめ合います。
神性の承認によって天界の光を取り入れなかった世のすべての学問は、このようなものに変化します。

天界と地獄

354◀︎目次▶︎356

355 死後、霊界にやって来るとき、彼らが霊界ではこのようなものであることは、次のことからだけでも結論することができます。その時、自然的な記憶の中にあり、身体の感覚に直接に結合しているすべてのものは、例えばすぐ前に列挙された知識のようなものは、活動をやめ、そこからの理性的なものだけが、霊界で考え、話すことのために役立ちます――人間は自然的なすべての記憶をもっています、しかし、その記憶は世で生きた時のように、彼の熟視のもとにも思考の中にもやって来ることはなく、そこから何かを取り出りして、霊的な光の中へ持ち出すことは、その光に属すものではないので、できません。しかし、人間が身体の中で生きたとき知識から獲得した理性または知性は霊界の光と適合します。それゆえ、人間の霊が世で認識と知識によって理性的になっていればいるほど、身体から解放された後、それだけ理性的です。なぜなら、その時、人間は霊であり、身体の中で考えるものは霊であるからです(*6)


*6 記憶知は自然的な記憶に属し、それは人間が身体の中にいるときにある(5212, 9922)。
人間はすべての自然的な記憶を、死後、自分自身にもっている(2475)、経験から(2481-2486)――しかし、世でのようにその記憶から何かを取り出すことは、多くの理由のためにできない(2476, 2477, 2479)。

天界と地獄

355◀︎目次▶︎357

356 けれども、すべてのものを生活の役立ちに適用させ、同時に神性を認め、みことばを愛し、霊的で道徳的な生活を送り(それについては前の319)、認識と知識によって自分自身に知性と知恵を得た者にとって、知識は、賢明であるための、そしてまた信仰のものを強くするために仕える手段でした。彼らの心の内的なものは、光から透明となった白光りする炎のようであり、または青い色のようであり、ダイヤモンド・ルビー・サファイアのようであるのが知覚され、また見られ、これは知識から神性と神的な真理のための確信にしたがって透明でした。
真の知性と知恵は、霊界で見られるとき、このように現われます。その外観は、主から発出する神的真理である天界の光から得られており、その真理からすべての知性と知恵があります(前の126-133番参照)。
[2]その光の面は、その中に色のような多彩さが生じますが、心の内的なものです。自然の中にあるようなものによって、したがって知識の中にあるようなものによって、神的な真理をいろいろに確信することが、それらの多彩さを生んでいます(*7)――人間の内的な心(mens)は自然的な記憶の事柄を見つめて、そこから確信するものを、天界的な愛の火によっていわば精製し、抽出し、そして霊的な観念にまで純化するからです。このようであることを、人間は身体の中に生きる間は知りません。身体の中では霊的にも自然的にも考えます、しかし、その時、霊的に考えるものは把握しないで、自然的に考えるものだけを把握するからです。けれども、霊界に来ると、その時、世で自然的に考えたものは把握しないで、霊的に考えたものを把握します。このように状態が変化するのです。
[3]ここから、人間は認識と知識によって霊的になりますが、認識と知識は賢明になるための手段であって、信仰と生活で神性を認めた者だけが霊的になることが明らかです。
さらにまた、彼らは他の者にまさって天界に受け入れられ、他の者にまさって光の中にいるので、そこの中央にいる者の間にいます(43)――これらの者は、天界で知的な者と賢明な者であり、大空の輝きのように輝き、また星のように光を放ちます。しかし、そこの単純な者とは、神性を認め、みことばを愛し、霊的で道徳的な生活を送ったけれども、自分の心の内的なものを認識と知識によって耕さなかった者です。
人間の心(mens)は耕される土地のようなものです。

知識について『天界の秘義』からの抜粋

人間は知識と認識を吸収しなければならない、それらによって考えることを学ぶからである。その後、何が真理と善か理解することを、最後に賢明になることを学ぶ(129, 1450, 1451, 1453, 1548, 1802)。
記憶知は最初のものであり、その上に人間の市民的や道徳的な生活と同様に霊的な生活が築かれ、基礎づけられる。記憶知は役立ちを目的として、そのために学ばれる(1489, 3310)。
認識は内なる人への道を開き、そしてその後、外なる人と内なる人を役立ちにしたがって結合する(1563, 1616)。
理性は知識と認識によって生まれる(1895, 1900, 3086)。
真理は認識そのものによるのではない、しかし、認識から、役立ちへの情愛によるものである(1895)。
[2]記憶知には神的な真理が入ることを許すものと入ることを許さないものがある(5213)。
空虚な記憶知は滅ぼされなければならない(1489, 1492, 1499, 1581)。
目的として自己愛と世俗愛をもち、〔これらを〕強化し、神と隣人に対する愛から引き離すものは空虚な記憶知である。このようなものは、その後、人間が天界から何も受けることができないほどにまでも内なる人を閉ざすからである(1563, 1600)。
記憶知は賢明になる手段であり、狂う手段である。それによって内なる人は開かれるかまたは閉じ込められ、このように理性は耕されるかまたは滅ぼされる(4156, 8628, 9922)。
[3]内なる人は、人間が目的として善の役立ちを、特に永遠のいのちを目指す役立ちを持つなら、記憶知によって開かれ、連続的に完成される(3086)。
その時、自然的な人の中にある記憶知は、霊的な人からの霊的なものと天界的なものに出会い、適合するものを養子にする(1495)。
その時、天界的ないのちの役立ちは、主により内なる人を通して、自然的な人の中にある記憶知から引き出され、精製され、高揚される(1895, 1896, 1900-1902, 5871, 5874, 5901)。
調和しないで対立する記憶知は、脇へ退けられ、追放される(5871, 5886, 5889)。
[4]内なる人の視覚は、外なる人の記憶知から、その愛に属すもの以外のものを呼び出さない(9394)。
内なる人の視覚のもとでは、その愛の属すものが真ん中に、また輝きの中にある、けれども、その愛に属さないものは脇に、また暗さの中にある(6068, 6084)。
適合する記憶知は、継続的に彼の愛に植え付けられ、いわば彼の中に住んでいる(6325)。
人間は隣人に対する愛の中に生まれたなら、知性の中に生まれたであろう。しかし、自己愛と世俗愛の中に生まれたので、まったくの無知の中に生まれている(6323, 6325)。
知識・知性・知恵は、神への愛と隣人に対する愛の息子である(1226, 2049, 2116)。
[5]賢明になること・理解すること・知ること・行なうことは別ものである。しかし、それでも霊的ないのち(生活)の中にいる者のもとで、秩序をもって続き、行なうことまたは行為の中に一緒に存在する(10331)。
知ること・認めること・信仰を持つこともまた別ものである(896)。
[6]外なる人または自然的な人にある記憶知は、世の光の中にある。けれども、信仰と愛に属し、このように、いのちを得た真理は、天界の光の中にある(5212)。
霊的ないのちを得ている真理は、自然的な観念によって把握される(5510)。
内なる人、すなわち、霊的な人から、外なる人、すなわち、自然的な人の中の記憶知の中へ霊的な流入がある(1940, 8005)。
記憶知は、内なる人のものである真理と善の容器であり、いわば器である(1469, 1496, 3068, 5489, 6004, 6023, 6052, 6071, 6077, 7770, 9922)。
記憶知は、いわば鏡であり、その中に内なる人の真理と善が映像のように見られる(5201)。
それらはその最後のものの中で一緒であるかのようにそこに存在する(5373, 5874, 5886, 5901, 6004, 6023, 6052, 6071)。
[7]流入は霊的であって物質的ではない、すなわち、内なる人から外なる人へ、このようにその記憶知の中へであり、外なる人から内なる人へ、このようにその記憶知から信仰の真理の中へではない(3219, 5119, 5259, 5427, 5428, 5478, 6322, 9110, 9111)。
原理は、みことばからのものである教会の教えの真理から導かれなくてはならず、それらが最初に認められなくてはならない、その時からは、記憶知に相談することが許される(6047)。
そのように、信仰の真理について肯定の中にいる者に、記憶知によってそれらを知的に確信することが許される、けれども、否定の中にいる者に許されない(2568, 2588, 4760, 6047)。
記憶知から説得されないなら、神的な真理を信じない者は、決して信じない(2094, 2832)。
記憶知から信仰の真理に入ることは秩序に反する(10236)。
そのことをする者は、天界と教会に属すものに関して気が狂う(128-130)。
彼らは悪の虚偽に陥る(232, 233, 6647)。
また来世で、霊的なものについて考えるとき、酔いどれのようになる(1072)。
さらに、彼らはどんなであるか(196)。
霊的なものは、記憶知を通してその中に入るなら把握することができないことを説明する例(233, 2094, 2194, 2203, 2209)。
学識のある多くの者は、霊的なもので単純な者よりも狂っている。その理由は記憶知からの否定的なものの中にいて、彼らの視覚の前に豊富にあるそれらを常に確信しているからである(4760, 8629)。
[8]記憶知から信仰の真理に反して推論する者は、感覚の欺きから推論するので鋭い。それはほとんど追い払うことができないので、とりこにし、納得させる(5700)。
感覚の欺きとは何か、どんなものか(5084, 5094, 6400, 6948)。
真理を何も理解しない者は、そしてまた悪の中にいる者も、信仰の真理と善について推論することができるが、それでも、それらを理解することができない(4214)。
知性とは、単に教義を確信することではなく、確信する前に、真理であるかないか、前もって知ることである(4741, 6647)。
[9]知識は、死後、何もなし遂げない。しかし、人間が知識を通して理解力と生活で汲み取ったものがなし遂げる(2480)。
それでも、すべての記憶知は、死後、残る。しかし、休止している(2476-2479, 2481-2486)。
[10]同じ記憶知が、悪い者のもとでは悪に適用されるので虚偽であり、善い者のもとでは善に適用されるので真理である(6917)。
悪い者のもとの記憶知の真理は、それが語られる時、どれほど真理のように見えても、それらの内部に悪があるので真理ではない(10331)。
[11]霊のもとの、知ろうとする欲望がどんなものか、その例(1974)。
知識・知性・知恵は霊的な食物であるので、天使のもとには、知ろう、賢明になろうとする願望が計り知れないほどある(3114, 4459, 4792, 4976, 5147, 5293, 5340, 5342, 5410, 5426, 5576, 5582, 5588, 5655, 6277, 8562, 9003)。
古代人の知識は対応と表象の知識であり、それらによって自分自身を霊的な思考の中へ導き入れた。しかし、それらの知識は今日では完全に消し去らされた(4749, 4844, 4965, 4965)。
[12]次の全般的なものが知られないなら、霊的な真理が理解されることはできない、すなわち――
(i)全世界の中のすべてのものは、何らかのものであるために、善と真理に、また両方の結合に関係し、このように愛と信仰に、またそれらの結合に関係する。
(ii)人間のもとに理解力と意志があり、理解力は真理の容器であり、意志は善の容器である。すべてのものが真理と善に関係し、その結合に関係しているように、すべてのものは人間のものとその二つのものに関係し、それらの結合に関係する。
(iii)内なる人と外なる人がいて、それらはそれら自身の間で天界と世のように区別される。それでも、人間が真の人間であるためには一つにならなくてはならない。
(iv)天界の光の中に内なる人が、世の光の中に外なる人がいる。天界の光は神的真理そのものであり、それからすべての知性がある。
(v)内なる人の中のものと外なる人の中のものの間に対応があり、ここから対応の知識によらなければそれらのものは見分けられないほど別の外観で見られる。

もしこれらや他の多くのものが知られないなら、霊的なまた天的な真理についての観念は、つじつまの合わないものを獲得して形作ることしかできない。このように自然的な人にある記憶知と認識は、これらの全般的なものがなくては、理性的な人に、知性とその増大のために少しも役立つことはできない。ここから、記憶知がどれほど必要なものであるか明らかである。


*7 極めて美しい色が天界の中に見られる(1053, 1624)。
天界の中の色はそこの光からであり、その光に変化と多彩さがある(1042, 1043, 1053, 1624, 3993, 4530, 4922, 4742, 4299)。
そのように、それらは善からの真理の外観であり、知性と知恵に属すようなものを意味する(4530, 4677, 4922, 9466)。

天界と地獄

356◀︎目次▶︎358

39 天界の富める者と貧しい者

357 天界に受け入れられることについて、いろいろな意見があります。ある者は、貧しい者は受け入れられ、富める者は受け入れられないという意見を、ある者は、富める者も貧しい者も等しく受け入れられるという意見を、ある者は、富める者は自分の財産を放棄し、貧しい者のようにならないかぎり受け入れられないという意見を持っています。それぞれ者が、みことばから自分の意見を確信しています。
しかし、天界について富める者と貧しい者の間に違いを置く者は、みことばを理解していません。
みことばは、その内部では霊的なものですが、文字のものでは自然的です。それゆえ、みことばを霊的な意味にしたがわないで、文字どおりの意味だけにしたがってとらえる者は、多くのものの中で、特に、富める者と貧しい者について、誤ります。例えば、富める者が天界に入ることはラクダが針の穴を通るよりも困難であること、また次のように言われているので、貧しい者にとって貧しいゆえに容易であることです、

貧しい者は幸いです。天の御国は彼らのものだからです[マタイ 5:3]、ルカ6:20, 21)。

しかし、みことばの霊的な意味について知っている者は異なって考えます。彼らは、富める者であろうと貧しい者であろうと、天界は信仰と愛の生活を送ったすべての者のためにあることを知っています――けれども、みことばの中で「富める者」によってだれが、「貧しい者」によってだれが意味されるか、これから述べます。
私は天使と多くのことを話し、生活したことから、富める者は貧しい者と同様に容易に天界に来ることを、また人間は多くのものに富むゆえに天界から締め出され、貧困の中にいるゆえに天界に受け入れられるのではないことを確かなものとして知るようになりました。天界には富める者も貧しい者もいて、富める者の多くの者は貧しい者よりもさらなる称賛と幸福の中にいます。

天界と地獄

357◀︎目次▶︎359

358 前もって述べておくのがよいでしょう。人間は、狡猾さと悪の策略を用いないかぎり、与えられるだけの富を獲得し、財を蓄積することができます。豪奢に飲み食いすることも、その中に生きがいを置かないかぎり、できます。境遇にしたがって堂々とした邸宅に住むこと、他の人と同じように人と交わること、娯楽施設をしばしば訪れ、世俗の事柄について、おしゃべりすることができます。ふさぎこみ、嘆くような顔つきで、信心深そうに、頭を垂れて歩く必要はなく、機嫌よく、元気よくしていてよいし、情愛に動かされないかぎり、自分のものを貧しい者に与えなくてもよいのです――要するに、外なる形の中ではまったく世の人間のように生活することができます――そのことは人間が天界に来ることの何の妨げにもなりません、人間は、ただ自分自身の内部で神についてふさわしく考え、隣人に対して誠実に、正しく行動するだけで、天界に来ます。
人間は、彼の情愛と思考がどんなものか、すなわち、彼の愛と信仰がどんなものかによるからです。外部で行動するすべてのものは、内部のものからそのいのちを得ます。なぜなら、意志から行動し、思考から話すので、行動することは意志することであり、話すことは考えることであるからです。
それゆえ、みことばの中で、「人間は行為にしたがって裁かれ、働きにしたがって報われる」と言われていることによって、思考と情愛にしたがって裁かれ、報われることが意味されます。思考と情愛から、行為が存在し、行為の中にあるものが存在するからです。なぜなら、行為は思考と情愛がないなら何ものでもなく、そして完全に思考と情愛がどのようなものであるかによっているからです(*1)
ここから、人間の外なるものは何も行なわないで、内的なものが行ない、そこから外なるものがあることが明らかです。
例を上げます――法律を恐れ、名声が奪われ、そこから名誉または利益が奪われることを恐れるという理由だけで、誠実なことを行なって、他の者をだまさない者は、もしその恐れからの抑制がなくなるなら、すぐさま他の者をだまします。彼の思考と意志は欺瞞そのものですが、その行為は外なる形で誠実に見えます。彼は、不誠意と欺瞞が内部にあるので、自分自身の中に地獄があります――けれども、神に反すること、また隣人に反することであるという理由で、誠実なことを行ない、他の者をだまさない者は、他の者をだますことができても、だまそうとしません。彼の思考と意志は良心です。自分自身の中に天界があります。
両者の行為は、外なる形で似たものに見えます、しかし、内なるものでまったく異なっています。


*1 みことばの中にしばしば、人間が行為と働きにしたがって裁かれ、報いられることが言われている(3934)。
「行為」と「働き」によって、そこに外なる形の中の行為と働きは意味されず、内なる形の中のものが意味される。外なる形の中の善い働きは悪い者も行なうが、外なる形の中と同時に内なる形の中のものは善い者だけが行なうからである(3934, 6073)。
働きには、すべての行動のように、思考と意志に属すものである人間の内的なものから、それ自体のエッセ(存在)とエキシステレ(実在)があり、それ自体の性質がある、そこから発出するからである。それゆえ、内的なものがどのようなものであるかによって、働きもそのようなものである(3934, 8911, 10331)。
そのように、愛と信仰に関して内的なものがどのようなものであるかによる(3934, 6073, 10337, 10332)。
このように、働きは愛と信仰を含み、それらは結果の中に存在する(10331)。
それゆえ、行為と働きにしたがって裁かれ、報われることは、愛と信仰にしたがっている(3147, 3934, 6073, 8911, 10331, 10332)。
働きは自己と世に目を向けているかぎり善ではない、しかし、主と隣人に目を向けるかぎり善である(3147)。

天界と地獄

358◀︎目次▶︎360

359 人間はただ内部で神性を認め、隣人に親切であるなら、外なる形では他の者のように、地位や職務にしたがって、金持ちになり、ご馳走を食べ、立派な家に住み、立派なもの着て、快さや喜びを享受し、そして役割や商売のために世俗的な義務を果たし、世のことに、心と身体のいのちのために、生活することができるので、天界への道へ入ることは多くの者によって信じられているほど困難ではないことが明らかです。ただ一つの困難は、自己愛と世俗愛に抵抗し、支配されないように抑制することです、なぜなら、すべての悪はここからであるからです(*2)

信じられているほどに困難でないことは、次の主のことばによって意味されています、

わたしが柔和であり、心で謙虚であることを、わたしから学びなさい。そうすれば、あなたがたは魂に安らぎを見いだします。なぜなら、わたしのくびきは容易であり、わたしの荷は軽いからですマタイ11:29, 30)。

主のくびきが容易で、荷が軽いことは、人間が自己愛と世俗愛から湧き出る悪に抵抗すればするほど、それだけ主により導かれて、自分自身によって導かれないからです。その後、主は人間のもとにあるそれらに抵抗され、それらを遠ざけられます。


*2 すべての悪は自己愛と世俗愛からである(1307, 1308, 1321, 1594, 1691, 3413, 7255, 7376, 7490, 7488, 8318, 9335, 9348, 10038, 10742)。
それらは、他の者への軽蔑・敵視・憎しみ・復讐・残酷・欺瞞である(6667, 7370-7374, 9348, 10038, 10742)。
人間はこれらの悪の中に生まれている、そのようにそれらの中に彼の遺伝悪がある(694, 4317, 5660)。

天界と地獄

359◀︎目次▶︎361

360 私は、世で生きていた時、世を放棄し、ほとんど孤独の生活を送った者と死後に話しました。彼らは世俗の思いを取り除いて敬虔な瞑想に専心するために、そうしたのであり、こうして天界への道へ入ることを信じました――しかし、彼らは来世でゆううつな性質であり、自分と似ていない他の者を軽蔑し、自分が幸福に値すると信じて、他の者にまさって幸福を割り当てられないことに憤慨しています。他の者を思いやることもなく、天界と結合をもたらす仁愛の役立ちから自分自身を退けています。
彼らは他の者にまさって天界を望みます、しかし、天使がいるところに上げられるとき、不安をひき起し、天使の幸福を乱します。それゆえ、引き離されます。引き離されてから見捨てられた場所に行き、そこで世にいたときと似たような生活を送ります。
[2]人間は、世によらないなら、天界へと形作られることはできません。世に最終の結果があり、その結果の中にそれぞれの者の情愛が終結しなくてはなりません。情愛を社会の多くのものの中で働かせるかまたはそこの活動の中に注ぎ出されなければ、それは窒息させられて、ついには、人間はもはや隣人に目を向けないで、自分自身にだけ目を向けるようになります。
ここから、すべての働きと職務の中で公正と正義を行なうことである隣人に対する仁愛の生活は天界へ導きます。けれども、仁愛のない敬虔な生活は導かないことが明らかです(*3)――したがって、仁愛を実践し、そこからそのいのちが増大することは、人間が職業に就いていれば、それだけ与えられ、遠ざかれば、それだけ与えられません。
[3]そこで、このことについて経験から話します。
世で取引や商業の仕事をし、そのことによって富をなした多くの者が天界にいます。しかし、称賛される地位にいて、職務を通して富をなした者はそれほどいません。その理由は、これらの者は公正と正義を割り当てることで生じた利益と名誉を自分自身にもまた与え、自分自身と世を愛するようになり、そのことによって思考と情愛を、天界から遠ざけ、自分自身に向けたからです――なぜなら、人間が自分自身と世を愛し、すべてのものの中で自分自身と世に目を向けるほど、それだけ神性から自分自身を追い出し、天界から遠ざかるからです。


*3 隣人に対する仁愛は、すべての働きとすべての職務の中で善・公正(義)・正義を行なうことである(8120-8122)。
ここから、隣人に対する仁愛は、人間が考え、意志し、行なうすべてと個々のものに広がっている(8124)。
仁愛の生活のない敬虔な生活は何にも効力がない、しかし、敬虔な生活は仁愛の生活とともになるとき、すべてに益する(8252, 8253)。

天界と地獄

360◀︎目次▶︎362

361 天界の富める者の運命は、他の者にまさる富の中にいて、彼らのある者は、内部のすべてのものが金や銀からのように輝く宮殿の中に住んでいます。彼らには、生活に役立つすべてのものが豊富にあります。しかし、それらにはまったく心を置かないで、役立ちそのものに心を置いています。役立ちを明るさの中に、光の中にあるように見ますが、金や銀を暗さの中に、相対的に陰の中にあるように見ます――その理由は、世の中で役立ちを愛し、金や銀を単なる手段または道具のように愛したからです。天界では、役立ちそのものは、その善は金のように、その真理は銀のように輝きます(*4)
それで、彼らにとって世で役立ちがどのようなものであったかによって、富も、快さと幸福も、彼らにとってそのようなものとなります。
自分自身と自分に属す者の生活必需品を備えることのために、祖国のために、隣人のためにも、豊富であることを欲することは善の役立ちです。富める者は、貧しい者よりも、そのことに対して多くの方法で利益を与えることができます。また富める者となるために、心を怠惰な生活から遠ざけることができます。その怠惰な生活は有害です、なぜなら、その生活の中で人間は自分自身に植え付けられた悪から悪を考えるからです。
これらの役立ちは、それら自体の中に神性があるかぎり、すなわち、人間が神性と天界に目を向け、自分自身の善をそれらの中に置き、富の中に単なる役立つ善を見るかぎり、善のものです。


*4 すべての善には、役立ちからまた役立ちにしたがって、それ自体の快さがある(3049, 4984, 7038)。そしてまたそれ自体の性質があり、ここからどんな役立ちかによって、そのような善がある(3049)。
生活のすべての幸福と快さは役立ちからである(997)。
一般的に、生活とは役立ちの生活である(1964)。
天使の生活は愛と仁愛の善にあり、そのように役立ちを実行することにある(454)。
主からは、またここから天使からは、人間のもとの役立ちのための目的しか見られない(1317, 1645, 5844)。
主の王国は役立ちの王国である(454, 696, 1103, 3645, 4054, 7038)。
主に仕えることは役立ちを果たすことである(7038)。
すべての者は、果たす役立ちがどんなものかによって、そのような者である(4054, 6815)――説明されている(7038)。

天界と地獄

361◀︎目次▶︎363

362 けれども、神を信じないで、心(animus)から天界と教会のものであるものを退けた富める者の運命は反対です。彼らは地獄に、そこの汚物・悲惨・貧困の中にいます。目的として愛される富はこのようなものに変化します。富だけでなく、役立ちそのものもまた変化します。それらの役立ちは、放縦な生活を楽しみ、快楽にふけり、邪悪な行為を行なう心(animus)にさらに豊かさと自由を与えるためのものであるか、あるいは軽蔑する他の者の上に卓越するためのものです。
それらの富と役立ちは、それ自体の中に霊的なものが何もなく、地的なものがあるので、きたなくなります。というのは、富とその役立ちの中の霊的なものは、身体の中の霊魂のようであり、湿った土地の中の天界の光のようであって霊魂のない身体のように、天界の光のない湿った土地のように腐敗するからです。
これらの者は、富により惑わされ、天界から引き下ろされます。

天界と地獄

362◀︎目次▶︎364

363 それぞれの人間に、死後、彼の支配的な情愛または愛が残ります。その愛は永遠に根絶されません。人間の霊は完全に彼の愛のあるがままのものであるからです。ここにアルカナ(秘義)があります、霊と天使のそれぞれの身体は、彼のアニムス(気質)と心(mens)である内なる形に完全に対応した彼の愛の外なる形であることです――ここから、霊はどんなものであるか、顔つき・振る舞い・話し方から知られ、そしてまた、人間は自分のものでない顔つき・振る舞い・話し方を偽ることを学ばなかったなら、世で生きる間に、その霊に関してどんなものであるか知られます。
ここから、人間は、彼の支配的な情愛または愛があるがままに永遠にとどまることが明らかです。
十七世紀(千七百年)前に生き、その生活がその時代に書かれたものから知られる者と話すようになり、その時、今なお彼らが彼らにあった愛により導かれていることがわかりました。
ここからもまた、富への愛と富からの役立ちへの愛は、完全に世で得たのと同じようなものが、それぞれの者に永遠にとどまることが明らかです。そのときそれでも相違があって、善に役立てた者のもとで役立った富は、役立ちにしたがって快いものに変わり、悪に役立てた者のもとで役立った富は、汚物に変わります。その時もまた、悪に役立てた富を世で喜んだのと同様に、その汚物を喜びます。
その時に彼らが汚物を喜ぶことは、富から役立てた不潔な快楽や邪悪な行為が、また役立ちを目的としない富への愛である貪欲が、汚物に対応するからです。霊的な汚物とはこれ以外の何ものでもありません。

天界と地獄

363◀︎目次▶︎365

364 貧しい者は、貧しいゆえに天界に来るのではなく、生活ゆえに天界に来ます。
それぞれの者に、富んでいても貧しくても、彼の生活が伴います。
ある者のために、他の者よりも大きい特別な慈悲といったものはありません(*5)。善く生きた者は受け入れられ、悪く生きた者は退けられます。
さらに、貧しさもまた富と等しく人間を惑わし、天界から引き離します。
貧しい者たちの間に、自分の運命に満足しないで、多くのものを得ようとし、富が祝福であると信じる者がいます(*6)。それゆえ、富みを受けないとき、怒り、神的な摂理について悪く考え、他の者の財産をねたみます。さらに、彼らもまた機会が与えられるとき同じように他の者をだまし、同じように不潔な快楽の中に生きます。
しかし、自分の運命に満足し、自分の仕事に熱心で、勤勉であり、怠惰よりも労働を愛し、誠実に、忠実に行動すると同時に、その時、キリスト教徒の生活を送った貧しい者は異なります。
何度か、私は田舎から出てきた者や平民であった者と話したことがあります。その者は世で生きた時、神を信じ、自分の仕事で公正と正義を行ないました――彼らは真理を知る情愛の中にいたので、仁愛とは何か、信仰とは何かを求めました。世では信仰について多くのことを聞いたけれども、来世では仁愛について多くのことを聞いたからです。それゆえ、彼らに、「仁愛は生活に属すすべてのものであり、信仰は教えに属すすべてのものです。したがって、仁愛はすべての働きの中で公正と正義を意志し、行なうことですが、信仰は公正にまた正しく考えることです。信仰と仁愛は、教えとその教えにしたがった生活のように、すなわち、思考と意志のように、互いに結合します。信仰は、人間が公正に正しく考え、さらにまた意志し、行ない、そしてこのことが行なわれるとき仁愛となります。その時、二つでなく一つです」と言われました。
彼らはこのことをよく理解し、「世では、信じることは生活することでないなら、何なのかわからなかった」と言って、喜びました。


*5 直接の慈悲は存在しない、しかし、間接の慈悲は存在する。これは主の戒めにしたがって生きる者にあり、この者は慈悲から世で絶えず導かれ、そしてその後、永遠に導かれる(8700, 10659)。
*6 地位と富は真の祝福ではない。それゆえ、それらは善い者にも悪い者にもある(8939, 10775, 10776)。
真の祝福は、主から愛と信仰を受け、そのことによって主と結合することである、なぜなら、ここから永遠の幸福があるからである(1420, 1422, 2846, 3017, 3406, 3504, 3514, 3530, 3565, 3584, 4216, 4981, 8939, 10495)。

天界と地獄

364◀︎目次▶︎366

365 これらから、富める者と貧しい者も等しく、ある者は他の者と同じく、容易に天界に来ることが明らかです。
〝貧しい者は容易であるが、富める者はほとんどやって来ない〟と信じられているのは、みことばで、富める者と貧しい者の名前が挙げられている箇所が理解されていないからです。
そこの「富める者」によって霊的な意味では、善と真理の知識に富む者が、したがって、そこにみことばがある教会内の者が意味されます。また「貧しい者」によって、それらの知識を欠いていても、それでも望む者が、したがって、教会外の、そこにみことばがない者が意味されます。
[2]紫色と亜麻布の衣服を着ていて、地獄の中に投げ込まれた「富める者」によって、ユダヤ民族が意味されます。彼らは、みことばを持ち、そこから善と真理の知識に富んでいたので、富める者と呼ばれます――さらにまた「紫色の衣服」によって善の知識が、「亜麻布の衣服」によって真理の知識が意味されます(*7)――けれども、富める者の門前に投げ出されて、その食卓から落ちたパンくずで満ち足りることを望み、天使により天界へ連れて行かれた「貧しい者」によって異教徒が意味されます。彼らは善と真理の知識を持ちませんでしたが、それでもそれらを望みました(ルカ 16:19-31)。
盛大な宴会に呼ばれながらも辞退した「富める者」によってもユダヤ民族が意味されます。また彼らに代わって招待された「貧しい者」によって、教会外の異教徒が意味されます(ルカ 24:16-24)。
[3]主が次のように言われた富める者によってだれが意味されるでしょうか――

富める者が神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通るほうがもっとやさしいマタイ 19:24)。

そこの「富める者」によって霊的にも自然的にも両方の意味で富める者が意味されています。自然的な意味で富める者は、富が多く、それらに心を置く者です。しかし、霊的な意味では、認識と知識に富む者です、なぜなら、それらは霊的な富であるからです。またプロプリウム(固有のもの)の知性から天界と教会に属すものの中へ自分自身を導き入れることをそれらによって欲することは神的な秩序に反するので、「ラクダが針の穴を通るほうがもっとやさしい」と言われています。霊的な意味では「ラクダ」によって一般的に知識の細目と記憶知が意味され、「針の穴」によって霊的な真理が意味されるからです(*8)――みことばの文字どおりの意味で言われることによって、霊的な意味では何が意味されているか、そのことを教える知識が、この時まで開かれていないので、今日では「ラクダ」と「針の穴」によって意味されることが知られていません――みことばの個々のものに霊的な意味があり、自然的な意味があるからです。なぜなら、みことばは、世との天界の結合があるように、すなわち、人間との天使の結合があるように、その直接の結合がなくなった後に、霊的なものと自然的なものの対応そのものによって書かれたからです――ここから、「富める者」によって、そこでは特にだれが意味されているか明らかです。
[4]みことばの中の「富める者」によって、霊的な意味では真理と善の知識の中にいる者が、また「貧しい者」によって知識そのものが、それは霊的な富でもあることが意味されることは、いろいろな箇所から明らかにすることができます――(それらは、イザヤ書 10:12-14; 30:6, 7; 45:3。エレミヤ書17:3; 48:7, 50:36, 37; 51:13。ダニエル書 5:2-4。エゼキエル書26:7, 12; 27:1から終わりまで。ゼカリヤ書 9:3, 4。詩篇 45:12。ホセア書 12:9。黙示録 3:17, 18。ルカ福音 14:33。その他)。
また「貧しい者」によって霊的な意味では善と真理の知識を持たない者が、それでもそれらを望む者が意味されます(マタイ福音書 11:5。ルカ福音書 6:20, 21; 14:21。イザヤ書 14:30; 29:19; 41:17, 18。ゼパニヤ書 3:12, 13)。
これらすべての箇所については、『天界の秘義』(10227)の中で霊的な意味にしたがって説明してあります。


*7 「衣服」は、真理を、そのように知識を意味する(1073, 2576, 5319, 5954, 9212, 9216, 9952, 10536)。
「紫色」は、天的な善を意味する(9467)。
「亜麻布」は、天的な起源からの真理を意味する(5319, 9469, 9744)。
*8 みことばの中の「ラクダ」は、全般的に知識の細目と記憶知を意味する(3048, 3071, 3143, 3145)。
「刺繍された衣服」、「刺繍すること」とは何か、ここから「針」とは何か(6988)。
信仰の真理に記憶知から入ることは、神的秩序に反している(10236)。
そのことをする者は、天界と教会に属すものに関して気が狂う(128-130, 232, 233, 6047)。
また、来世で、霊的なものについて考えるとき、酔いどれのようになる(1072)。
さらに、どんなものであるか(196
記憶知によって入るなら、霊的なものは把握されることができないことを説明する例(233, 2094, 2196, 2203, 2209)。
霊的な真理から自然的な人のものの記憶知に入ることは許される、けれども、その逆は許されない。自然的なものの中への霊的な流入は存在する、けれども、霊的なものの中への自然的な流入は存在しないからである(3219, 5119, 5259, 5427, 5428, 5476, 6322, 9110, 9110)。
最初に、みことばと教会の真理が認められるべきである、その後、記憶知に相談することが許される、けれども、その逆ではない(6047)。

天界と地獄

365◀︎目次▶︎367

40 天界での結婚

366 天界は人類からなり、このことからそこの天使は両方の性をしています――創造から、女は男のための、男は女のための、このように一方はもう一方のためのものであるからです――この愛は両者に内在するので――地上と等しく、天界にも結婚があることがいえます――しかし、天界での結婚は、地上の結婚と大いに異なっています。
そこで、天界での結婚がどんなものか、また地上での結婚とどこが異なるか、どこが一致するか、今から述べます。

天界と地獄

366◀︎目次▶︎368

367 天界での結婚は、ふたりが一つの心(mens)へ結合することです。
その結合がどんなものであるか、最初に説明します。
心は二つの部分から成り立ち、その一つは理解力、もう一つは意志と呼ばれます。
これら二つの部分が一つとして働くとき、一つの心と言われます。
夫はそこの理解力と呼ばれる部分の役割を果たし、妻は意志と呼ばれる部分の役割を果たします。
内的なものであるこの結合が、身体のものである低いところへ降りたとき、それは愛として知覚され、感じられます――その愛が結婚愛です。
これらのことから、二つのものが一つの心へ結合することが結婚愛の起源であることが明らかです。天界では、これは一緒に住むことと呼ばれ、ふたりでなくてひとりであると言われます。それゆえ、天界で配偶者同士はふたりと呼ばれないで、ひとりの天使と呼ばれます(*1)


*1 今日では、結婚愛が何か、またどこからか、知られていない(2727)。
結婚愛は他の者が欲することを欲することであり、このようにお互いにまた交互に欲することである(2731)。
結婚愛の中にいる者は、いのちの最内部の中に一緒に住む(2732)。
二つの心の結合であり、このように愛から一つのようになっている(10168, 10169)。
なぜなら、霊的な愛である二つの心の愛は結合であるから(1594, 2057, 3939, 4018, 5807, 6195, 7081-7086, 7501, 10130)。

天界と地獄

367◀︎目次▶︎369

368 さらにまた、夫と妻の心の最内部にこのような結合が存在するのは、創造そのものから来ています。なぜなら、男は知的であるように、したがって理解力から考えるように生まれ、女は意志であるように、したがって意志から考えるように生まれているからです。さらにまた、このことはそれぞれの性向または生来の性質から、また形から明らかです――生来の性質からは、男は理性から行動しますが、女は情愛から行動します。形からは、男の顔はゴツゴツしていて、美しくなく、話し方は重々しく、身体は固いですが、女の顔は滑らかで、美しく、話し方は穏やかで、身体は柔軟です。
同様の違いが理解力と意志の間に、あるいは思考と情愛の間にあり、さらにまた真理と善の間も、信仰と愛の間も同様です。なぜなら、真理と信仰は理解力に属し、善と愛は意志に属すからです。
ここから、みことばの中で「若者」と「男」によって霊的な意味で真理の理解力が、そして「娘」と「女」によって善への情愛が意味されます。そしてまた教会は、善と真理への情愛から、「妻」そしてまた「娘」と呼ばれます。なおまた、善の情愛の中にいるすべての者が「処女」と呼ばれています(*2)例えば、黙示録 14:4) 。


*2 みことばの中で「若者」は、真理の理解力を、すなわち、知性を意味する(7668)。
「男」も同様である(158, 265, 749, 915, 1007, 2517, 3134, 3236, 4823, 9007)。
「女」は、善と真理の情愛を意味する(568, 3160, 6014, 7337, 8994)――なおまた教会も(252, 253, 749, 770)――そしてまた「妻」も(252, 253, 749, 770)。その相違ともに(915, 2517, 3236, 4510, 4822)。
「夫と妻」は、最高の意味では、主について、そして天界と教会とのその方の結合について言われる(7022)。
「娘(処女)」は善への情愛を意味する(3067, 3110, 3179, 3189, 6731, 6742)。そしてまた教会も(2362, 3081, 3963, 4638, 6729, 6775, 6788)。

天界と地獄

368◀︎目次▶︎370

369  男にも女にも、それぞれに理解力と意志が授けられています、しかしそれでも、男のもとでは理解力が優勢であり、女のもとでは意志が優勢であって、人間は優勢であるものにしたがっています。けれども、天界での結婚の中に、優勢なものは何もありません。妻の意志は夫のものでもあり、夫の理解力は妻のものでもあって、一方はもう一方のように、したがって相互に、交替に、欲し、考えることを愛するからです。ここから、彼らは一つものの中へと結合します。
この結合は実際の結合です、妻の意志は夫の理解力の中に入り、夫の理解力は妻の中に入るからです、また特に互いに顔と顔を眺めるときにこうなります。なぜなら、前にしばしば言われたように、天界の中に思考と情愛の伝達があり、夫と妻は互いに愛するので、さらにその伝達があるからです。
これらから、天界の中で結婚をつくり、結婚愛を生む心(mens)の結合がどんなものか明らかです。すなわち、それは自分のものが相手のものとなるように欲し、それを相互に欲することです。

天界と地獄

369◀︎目次▶︎371

370 私は天使から、「ふたりの配偶者たちがこのような結合の中にいればいるほど、それだけ結婚愛の中に、同時にそれだけ知性・知恵・幸福の中にいます。その理由は、すべての知性・知恵・幸福のもとである神的真理と神的善は、おもに結婚愛の中に流入するからです。したがって、結婚愛は同時に真理と善の結婚であるので、神的な流入の面そのものです。なぜなら、理解力と意志が結合しているように、真理と善もまた結合し、理解力は神的真理を受け入れ、さらにまた真理から形作られ、意志は神的善を受け入れ、そしてまた善から形作られるからです。人間が欲することは本人にとって善であり、理解することは本人にとって真理であるからです。ここから、理解力と意志の結合と言っても、あるいは真理と善の結合と言っても同じことです。
真理と善の結合が天使をつくり、そしてまた彼の知性・知恵・幸福をつくります。天使は、自分のもとで善が真理と結合し、真理が善と結合しているような、そのような存在であるからです。あるいは同じことですが、天使のもとで愛が信仰と結合し、真理が善と結合しているように、そのように天使です」と言われました。

天界と地獄

370◀︎目次▶︎372

371 主から発出している神性が、おもに結婚愛の中に流入することは、結婚愛が善と真理の結合から下っているからです。なぜなら、前に述べたように、理解力と意志の結婚と言っても、あるいは善と真理の結婚と言っても、同じものであるからです。善と真理の結合は、天界と地上のすべての者に対する主の神的な愛から起源を得ています。
神的愛から神的善が発出し、神的善は、天使により、また人間により神的真理の中で受け入れられます――真理だけが善の容器です。それゆえ、真理の中にいない者は、主と天界から何も受け入れることができません。それで、人間のもとで善が結合していればいるほど、それだけ人間は主と天界と結合しています。
そこでここから、これが結婚愛の起源そのものであり、それゆえ、その愛は神的な流入の面そのものです。
ここから、天界で、善と真理の結婚は天界の結婚と呼ばれ、みことばの中で、天界は結婚にたとえられ、そしてまた結婚と呼ばれています。主は「花婿」や「夫」と呼ばれ、天界は教会とともに「花嫁」や「妻」と呼ばれています(*3)


*3 真の結婚愛は、起源・原因・本質を善と真理の結婚から、このように天界から得ている(2728, 2729)。
結婚的なものがあるかどうか、善と真理の結合の観念から知覚をもっている天使的な霊について(10756)。
結婚愛は、善と真理の結合とまったく同様に振る舞う(1904, 2173, 2429, 2508, 3101, 3102, 3155, 3179, 3180, 4358, 5807, 5835, 9206, 9495, 9637)。
どのように、まただれのもとで、善と真理の結婚が行なわれるか(3834, 4096, 4097, 4301, 4345, 4353, 4364, 4368, 5365, 7623-7627, 9258)。
主からの善と真理の中にいる者でないなら、真の結婚愛が何か知らない(10171)。
みことばの中で「結婚」によって善と真理の結婚が意味される(3132, 4434, 4835 )。
真の結婚愛の中に主の王国と天界がある(2737)。

天界と地獄

371◀︎目次▶︎373

372 天使と人間のもとで結合している善と真理は、その時、善は真理に属し、真理は善に属すので、二つのものではなく、一つのものです――この結合は、人間が意志することを考え、考えることを意志するときのようなものです。その時、思考と意志は一つとなり、したがって一つの心(mens)となります。思考は意志が欲することを形作るかまたは形の中に示し、意志はそのことを喜ぶからです。ここからも、天界の中のふたりの配偶者たちはふたりと呼ばれないで、ひとりの天使と呼ばれます。
このこともまた次の主のことばによって意味されることです、

その方は初めから人を男と女に造られたことを、あなたがたは読んだのではありませんか?このために、人が父と母を後に残し、自分の妻と結びつき、ふたりは一つの肉となったのです。それゆえ、もはやふたりではなく、一つの肉です。それで、神が結び合わされたものを人が引き離してはなりません。……すべての者がこのことばを受け入れるのではありません、与えられている者に受け入れられますマタイ 19:4-6, 11、マルコ 10:6-9、創世記 2:24)。

ここに天使のいる天界の結婚が、同時に善と真理の結婚が述べられています。「神が結び合わされたものを人が引き離してはなりません」によって、善が真理から分離されてはならないことが意味されます。

天界と地獄

372◀︎目次▶︎374

373 そこで、これらから真の結婚愛がどこからであるか、知ることができます。すなわち、最初に結婚の中にいる者の心(mens)の中で形作られます。そこから身体の中に降り、導かれ、そして身体の中で愛として知覚され、感じられます。なぜなら、何でも身体の中で感じられ、知覚されるものは、理解力と意志からなので、彼の霊的なものから起源を得ているからです。理解力と意志が霊的な人をつくります。
霊的な人から身体の中に降るものは何であっても、それはそれ自体を身体の中で他の姿で示しますが、しかしそれでも、霊魂と身体のように、また原因と結果のように、類似と一致があります。そのことは〝対応〟について二つの章で言われ、示されたことから明らかにすることができます。

天界と地獄

373◀︎目次▶︎375

374 私は天使が真の結婚愛とその天界的な快さについて次のように述べるのを聞きました。神的善と神的真理である主の神性が天界の中で、ふたりの中で二つでなく一つであるようにまでも結合していることについて――彼は、「天界の中のふたりの配偶者たちは、それぞれがそれ自体の善とそれ自体の真理であるので、結婚愛であり、心(mens)と同様に身体に関しても結婚愛です。なぜなら、身体は心の像であり、その心に似たものに形成されたものであるからです」と言います。
ここから彼は、「神性が真の結婚愛の中にいるふたりの中に映し出されていること、全天界は主から発出する神的善と神的真理であるので、神性が映し出されているように天界にもまた映し出されていること、ここから、天界のすべてのものにその愛が全祝福と快さを伴って数を超越するほどに刻み込まれていること」を導き、その数を一万の一万倍を含意する言葉によって表現しました。
彼は、「教会の人間がこのことについて何も知らないことに驚かされます。そのときそれでも教会は地上における主の天界であり、天界は善と真理の結合です。教会内で、その外よりも多く、姦淫が行なわれ、また強められてもいることを考えるとき唖然とします。それでもそれらの快さは本質的に、霊的な意味では、そしてここから霊界では、悪と結合した虚偽への愛の快さ以外の何ものでもなく、その快さは、善と結合した真理への愛の快さである天界の快さとまったく対立しているので地獄の快さです」と言いました。

天界と地獄

374◀︎目次▶︎376

375 だれもが、互いに愛するふたりの配偶者は内的に結合していること、また結婚の本質的なものはアニムス(気質)または心(mens)の結合であることを知っています。
ここからもまた、アニムスまたは心にこのような結合があり、ふたりの間のこのような愛があることによって、アニムスまたは心が本質的にどんなものであるか、知ることができます――心はもっぱら真理と善から形作られます。なぜなら、全世界の中のすべてのものは、善と真理に、またそれらの結合に関係するからです。それゆえ、心の結合は、心が形成される真理と善がどのようであるかによって、完全にそのようなものとなります――その結果、本物の真理と善から形成される心の結合は、最も完全です。
善と真理以上にお互いに愛するものは何もないこと、それゆえ、その愛から真の結婚愛が降ること(*4)を知っておくべきです。
虚偽と悪もまた互いに愛し合います、しかし、この愛は、その後、地獄に変わります。


*4 天界も世も、全世界のすべてのものは善と真理に関係する(2452, 3166, 4390, 4409, 5232, 7256, 10122)。
また両方の結合に関係する(10555)。
善と真理の間に結合がある(1904, 2173, 2508)。
善は愛する、愛から真理を望む、それ自体とのその結合を望む。ここから永久に結合への努力がある(9206, 9207, 9495)。
真理のいのちは善からである(1589, 1997, 2572, 4070, 4096, 4097, 4736, 4757, 4884, 5147, 9667)。
真理は善の形である(3049, 3180, 4574, 9154)。
善と比べたときの真理は、パンと比べたときの水のようである(4976)。

天界と地獄

375◀︎目次▶︎377

376 結婚愛の起源について、今、述べられたことから、だれが結婚愛の中にいるか、だれがいないか、結論することができます――神的真理から神的善の中にいる者は結婚愛の中にいます。善と結合されている真理が本物であればあるほど、それだけ結婚愛はさらに本物です。
また、真理と結合しているすべての善は主からのものなので、主とその方の神性を認めないなら、だれも真の結婚愛の中にいないことがいえます。なぜなら、その承認がなくては主が流入されることはできず、人間のもとの真理に結合されることができないからです。

天界と地獄

376◀︎目次▶︎378

377 これらから、虚偽の中にいる者は結婚愛の中にいないこと、そして悪からの虚偽の中にいる者はまったくその中にいないことが明らかです。悪の中にいて、そこから虚偽の中にいる者のもとでは、心(mens)に属す内的なものもまた閉ざされています。それゆえ、その中に結婚愛の何らかの起源が存在することはできません。しかし、それらの内的なものの下方に、内なるものから分離した外なるまたは自然的な人間の中に、虚偽と悪の結合が存在し、その結合は地獄の結婚と呼ばれます。
地獄の結婚と呼ばれる悪の虚偽の中にいる者の結婚がどんなものか見ることが与えられました――互いの間で会話し、好色から結合します。しかし、内部では互いに対して、言い表わすことができないような致命的な憎しみを燃やしています。

天界と地獄

377◀︎目次▶︎379

378 結婚愛は異なる宗教にいるふたりの間にも存在しません。一方の真理はもう一方の善と調和しません、そして異なって調和しない二つのものから一つの心をつくることができないからです。それゆえ、彼らの愛の起源は霊的なものから何も得ていません。もし、彼らが一緒に住み、調和しているなら、単に自然的な理由からです(*5)
この理由から、天界での結婚は、似た善と真理の中にいるので〔同じ〕社会の内にいる者と結ばれますが、その社会の外の者とは結ばれません。
天界の〔同じ〕社会の内にいるすべての者は、似た善と真理の中にいて、外の者から異なっていることは、前に述べました(41番以降)。
このこともまたイスラエル民族のもとの部族内で、特に一族外の者とでなく内部の者と結婚することによって表象されています。


*5 宗教の異なる者の間の結婚は、内的なものの中に善と真理に似たものの結合がないために、許されない(8998)。

天界と地獄

378◀︎目次▶︎380

379 結婚愛はひとりの夫と多くの妻との間にもありえません。なぜなら、そのことは、二つの心から一つの心(mens)が形作られるというその霊的な起源を破壊し、したがって、善と真理の結合である内的なものの結合を破壊するからです。その愛の本質そのものはその結合からです。
ひとりよりも多くの者との結婚は、多くの意志に分割された理解力のようです。そして一つの教会でなく、多くの教会に帰属する人間のようです、こうして彼の信仰は何も生じないまでも取り去られるからです。
天使は、「多くの妻をめとることは神的な秩序にまったく反しています。またこのことを多くの理由から知っています。多くの者との結婚について考えると直ぐに、内なる至福と天界の幸福から引き離され、その時、自分たちのもとで善はそれ自体の真理から切り離されるので、酔いどれのようになることからも知っています。自分たちの心に属す内的なものは何らかの意図とともに思考だけからこのような状態にやって来るので、ひとりよりも多くの者との結婚は自分たちの内的なものを閉ざし、結婚愛に代わってみだらな愛が入り込むようになり、その愛が天界から連れ去ってしまいます。私たちはこのことをはっきりと知覚しています」と言いました(*6)
[2]彼らはさらに、「本物の結婚愛の中にいる者は少ないので、人間はこのことをほとんど悟りません。その愛の中にいない者は、その愛の中にある内的な快さについてまったく何も知らず、みだらな快さについてだけ知っています。その快さはしばらくの同棲の後、不快に変わります。しかし、真の結婚愛の快さは世で老年にまで持続するだけでなく、死後、天界の快さにもなり、その時、永遠に完成される内的な快さに満たされます」と言いました。
さらにまた、「真の結婚愛の祝福は数千も列挙することができますが、それらの一つも決して人間に知られていません。主からの善と真理の結婚の中にいない者は、理解力で把握することもできません」と言いました。


*6 夫は妻と一つになり、いのちの最内部でともに住まなければならず、一緒に天界のひとりの天使となるので、それゆえ、真の結婚愛はひとりの夫と多くの妻との間にありえない(1907, 2740)。
同時に多くの妻をめとることは神的な秩序に反している(10837)。
ひとりの夫とひとりの妻とでないなら結婚が存在しないことは、主の天界の王国にいる者により明らかに知覚されている(865, 3246, 9002, 10172)。その理由は、そこの天使は善と真理の結婚の中にいるからである(3246)。
イスラエル民族には、多くの妻をめとることが、また妻にめかけを付き添わせることが許された、けれども、キリスト教徒には許されない、その理由はその国民は内なるもののない外なるものの中にいたからであった。けれども、キリスト教徒は内なるものの中に、このように善と真理の結婚の中にいることができる(3246, 4837, 8809)。

天界と地獄

379◀︎目次▶︎381

380 一方の者がもう一方の者を支配する愛は、結婚愛を、またその天界の快さを完全に取り去ります。なぜなら、前に言われたように、結婚愛とその快さは一方の意志がもう一方にあることから成り立ち、またこのことが相互に交替に行なわれることにあるからです――結婚の中の支配の愛はこれを破壊します、なぜなら、支配する方はもう一方の者の中に自分の意志だけがあるようにと欲し、もう一方の者が相互に自分自身の中にあることは決して欲しないからであり、ここから相互的なものはなく、したがって、何らかの愛に属すものとその快さがもう一方の者に伝達することは、また相互に伝達することはありません。それでも、その伝達とそこからの結合が内的な快さそのものであり、それは結婚の中の祝福と呼ばれます。支配する愛により、この祝福は、またそれとともに結婚愛のすべての天的なものと霊的なものは、その存在することが知られないようにまでも、完全に消滅させられます。そしてつまらないものと思われているために、もしその愛について言われるなら、その祝福に言及するなら、嘲笑されるか、あるいは怒りを招きます。
[2]一方の者が意志するか、または愛するものを、もう一方の者もまた意志するか、または愛する時、両者に自由があります、なぜなら、すべての自由は愛のものであるからです。しかし、支配があるとき、そこに自由はありません――一方は奴隷です。支配する方もまた、支配する欲望に導かれているので、奴隷です。しかし、何が天界の愛の自由か知らない者は、このことをまったく悟りません。
それでも、結婚愛の起源と本質について前に述べたものから、支配が入り込めば入り込むほど、それだけ心は結合しないで分裂することを知ることができます――支配が征服し、征服された心は、何も意志がなくなるか、あるいは対立する意志があります。もし何も意志がないなら、愛もありません。もし対立する意志があるなら、愛の代わりに憎しみがあります。
[3]このような結婚の中に生きている者たちの内的なものは、どれほど外的なものが静けさを保つために押しとどめられ、鎮められても、ふたりの対立するものの間でよくあるように、互いに相手に対して衝突し、闘います。彼らの内的なものの衝突と闘争は、死後に現われます。多くの場合、彼らは出会い、その時、敵であるかのように、彼らの間でけんかし、互いに引き裂き合います――その時、自分自身の内的なものの状態にしたがって行動するからです。
私は何度か、彼らの闘争と引き裂き合いを見ましたが、そのあるものは復讐と残酷さに満ちていました。来世では、それぞれの者の内的なものは、自由の中に入れられ、外なるものや世での理由によって、もはや抑制されないからです。その時、それぞれの者は、内部があるがままの、そのような者であるからです。

天界と地獄

380◀︎目次▶︎382

381 ある者のもとに結婚愛のようなものが存在しますが、しかしそれでも、もし善と真理への愛の中にいないなら、結婚愛ではありません。その愛は多くの理由から結婚愛のように見えるのです、すなわち、家で仕えられるため、無事に、平穏にあるいは怠惰のうちに暮らすため、あるいは力が衰え、老いたとき、付き添ってもらうため、あるいは愛する子どもの世話のためです――ある者のもとでは、配偶者を恐れ、評判を悪くすることやもっと悪いことが起こることを恐れるために結婚を強いられています。ある者のもとでは、みだらなことを求めて結婚に入っています。
結婚愛は、配偶者の間でもまた異なります。一方のもとで、その愛が多少存在することがあり、もう一方の者のもとでは、ほとんどないかまたはまったくないことがあります。異なるので、一方が天界にいて、もう一方の者が地獄にいることもあります。

天界と地獄

381◀︎目次▶︎383

382 (その1) 最内部の天界の天使は、善と真理の結婚の中に、また無垢の中にもいるので、本物の結婚愛はその天界の中にあります。低い天界の天使もまた結婚愛の中にいます、しかし、どれだけ無垢の中にいるかによります、なぜなら、結婚愛はそれ自体の中に無垢の状態が見られるからです。それゆえ、結婚愛の中にいる配偶者たちの間に天界の快さがあります。彼らの心(animus)の前には、幼児の間にあるような、ほとんど無邪気ともいえる遊びに似たものがあります。彼らの心(mens)を楽しませないものは何もないからであり、天界がその楽しさとともに彼らのいのちの個々のものに流入するからです。
それゆえ、結婚愛は天界の中できわめて美しいものによって表象されます。
私はそれが白光りする雲に囲まれた言うに言われぬ美しい乙女によって表象されているのを見ました――「天界の中の天使には結婚愛からすべての美しさがあります」と言われました。
結婚愛からの情愛と思考は、赤めのうやルビーがきらめくかのような、ダイヤモンドのオーラによって表象され、これは心の内的なものを歓喜とともに感動させます。
一言でいえば、天界は結婚愛の中にそれ自体を表象しています、天使の天界は善と真理の結合であり、この結合が結婚愛をつくるからです。

382 (その2) 天界での結婚は、地上の結婚がほかにも子孫の生殖のためのものでもあるのに、天界に生殖はないことから、地上の結婚と異なります。子孫の生殖の代わりに、天界には善と真理の繁殖があります。
その生殖の代わりにこの繁殖があることは、前に示されたように、その結婚は善と真理の結婚であるからです、またその結婚の中で、すべてにまさって善と真理が愛され、その結合が愛されます。それゆえ、これらが天界での結婚から繁殖されるものです。
ここから、みことばの中で「出生」と「生殖」によって、善と真理のものである霊的な出生と生殖が意味されます。「母と父」によって、生み出すものである善と結合した真理が意味され、「息子と娘」によって、繁殖されるものである真理と善が、「婿と嫁」によって、これらの結合が意味され、さらにこのようなものとなっています(*7)
ここから、天界の中の結婚は、地上の結婚のようなものではないことが明らかです。天界の中に霊的な婚姻がありますが、それは婚姻と呼ばれてはならないで、善と真理の結婚からの心の結合です。けれども、地上では婚姻が存在します、なぜなら、霊だけでなく、肉の婚姻もまたあるからです――天界に婚姻はないので、それゆえ、そこのふたりの配偶者は夫や妻と呼ばれません、配偶者は二つの心(mens)が一つに結合しているという天使の観念から、互いに相手を自分のものを意味する言葉で呼んでいます。
これらから、主のことばにある婚姻について(ルカ 20:35, 36)、どのように理解したらよいか知ることができます。


*7 「妊娠」・「出産」・「出生」・「生殖」は、善と真理のもの、すなわち、愛と信仰のものであるような霊的なものを意味する(613, 1145, 1255, 2020, 2584, 3860, 3868, 4070, 4668, 6239, 8042, 9325, 10249)。
ここから「生殖」と「出生」は、信仰と愛による再生と再び生まれること(復活)を意味する(5160, 5598, 9042, 9845)。
「母」は、真理に関する教会を、そのように教会の真理も意味する。「父」は善に関する教会を、そのように教会の善も意味する(2691, 2717, 3703, 5581, 8897)。
「息子」は、真理への情愛を、そのように真理を意味する(489, 491, 533, 2623, 3373, 4257, 8649, 9807)。
「娘」は、善への情愛を、そのように善を意味する(489, 490, 491, 2362, 3963, 6729, 6775, 6778, 9055)。
「婿」は、善への情愛と仲間となっている真理を意味する(2389)。
「嫁」は、その真理と仲間となっている善を意味する(4843)。

天界と地獄

382◀︎目次▶︎384

383 天界で結婚がどのように行なわれるかもまた見ることが与えられました。
天界のどこでも、似ている者は仲間となり、異なる者は引き離されます。ここから、天界のそれぞれの社会は似た者たちから構成されます――似た者は似た者へと、自分自身からではなく、主から連れて行かれます(前の41, 43, 44番以降を参照)――同じように、配偶者は、彼らの心が一つに結合することのできる配偶者へと連れて行かれます。それゆえ、一目見て、互いに深く愛し、互いを配偶者と見なし、結婚に入ります。
ここから、天界のすべての結婚は、主おひとりからのものです。
祝宴もまた挙行され、それは多くの者が集まった中で行なわれます。その祝宴はそれぞれの社会で異なります。

天界と地獄

383◀︎目次▶︎385

384 地上の結婚は、人類の苗床であり、また天界の天使の苗床でもあり(なぜなら、前の章で示されたように「天界は人類から存在する」からです)、さらに霊的な起源から、すなわち、善と真理の結婚からのものであり、そして主の神性はおもにその愛の中に流入するので、それゆえ、天界の天使の前に最も聖なるものです。逆に、姦淫は結婚愛に対立しているので、彼らから神聖を汚すものとして見られます――なぜなら、天使は結婚の中に天界である善と真理の結婚を見るように、姦淫の中に地獄である虚偽と悪の結婚を見るからです――それゆえ、姦淫の言葉を聞くだけで、身を背けてしまいます。そのことが、人間が快さから姦淫を犯すとき彼に天界が閉ざされることの理由です。天界が閉ざされるので、もはや神性も、教会の信仰の何らかのものも認めません(*8)
私は、地獄にいるすべて者が愛に対立していることを、そこから発散されたスフェアから知覚するようになりました。そのスフィアは結婚を解消し、踏みにじろうとする絶え間のないコナトゥス(努力)のようです――そのスフェアから、地獄の中で支配している快さは姦淫の快さであること、また姦淫の快さは、天界をつくる結合である善と真理の結合を破壊する快さでもあることが明らかとなりました。ここから、姦淫の快さは天界の快さである結婚の快さに正反対の地獄の快さであることがいえます。


*8 姦淫は冒涜である(9961, 10174)。
姦淫する者に天界は閉ざされる(2750)。
姦淫の中に快さを知覚する者は、天界に来ることができない(539, 2733, 2747-2749, 2751, 10175)。
姦淫する者は無慈悲であり、宗教的なものがない(824, 2747, 2748)。
姦淫する者の考えは不潔である(2747, 2748)。
来世で、彼らは汚物を愛し、地獄のそのようなものの中にいる(2755, 5394, 5722)。
みことばの中の「姦淫」によって、善の不純化が意味され、「淫行」によって、真理の曲解が意味される(2466, 2729, 3399, 4865, 8904, 10648)。

天界と地獄

384◀︎目次▶︎386

385 いのちが身体の中にあったときの習慣から、独特な策略で私を悩ませ、このことを正直な霊によくあるような、いわば波のように動くいくぶん柔らかな流入によって行なった霊がいました。しかし、捕らえ、欺くための狡猾さやそれに似たものが、彼らの中にあることがわかりました。
ついに私は彼らのひとりと話し、「私は世で生きたとき、軍隊の司令官であった」と言われました。彼の思考の観念の中に好色があるのを知覚したので、私は結婚について、表象的なものとともに、意味を十分に、また瞬間に多くのことを表現する霊的な言葉で彼と話しました。
彼は、「身体の中で生きたとき、姦淫を大したこととは思わなかった」と言いました。
しかし、彼に、「姦淫は極悪です。たとえとりこにするような快さから、またそこからの確信から、むしろ許されるようなものに見えても、姦淫はそのようなものです」と言うことが与えられました。さらにまた、「このことを、結婚は人類の苗床であり、ここから天界の王国の苗床でもあり、それゆえ、決して踏みにじってはならず、聖なる思いを抱くべきものであることから知ることができます。なおまた、来世にいて、知覚の状態の中にいるので、結婚愛は主から天界を通って降ること、またその愛から、両親からのように、天界の支柱である相互愛が導かれることから知ることができます」と言いました。このことから、姦淫する者は、ただ天界の社会に近づくだけで、自分自身の悪臭に気づき、そこで自身自身を地獄へ向けて突き落とします――さらに、「あなたは少なくとも、結婚を踏みにじることは、神的な秩序と人間の秩序に、他にも多くのことに反しているので、神的な律法に反し、またすべての国の民法に反し、さらに理性の本物の光に反していることを知ることができたはずです」と言いました。
しかし、彼は答えて、「いのちが身体の中にあったとき、このようなことは考えなかった」と言い、このようであるかどうか、推論してみようとしました。しかし、彼に、「真理は推論することを許しません、推論は、快さに、したがって悪と虚偽に味方するからです。それで言われたことについて、それは真理なので、または、世で最もよく知られている〝他の者が自分自身に行なうことを欲しないことをだれも他の者に行なってはならない〟という原則からも、最初に、そのことについて考えなくてはなりません。また、もしだれかが、すべての結婚で最初にそうであったように自分自身の最愛の妻を、このような方法で欺いたなら、その時、そのことについて激しく怒った状態の中にいて、その状態から話すなら、自分自身も姦淫を嫌ったかどうか、そしてその時、あなたは才能が与えられているので、他の者よりも姦淫に反対し、そのことを地獄へと断罪するようにまでも確信したか、考えなくてはなりません」と言いました。

天界と地獄

385◀︎目次▶︎387

386 どのように結婚愛の快さが天界へ、また姦淫の快さが地獄へ進むか、私に示されました。
天界へ向かう結婚愛は、絶えず多くの至福と幸福へ前進しました。言語に絶する数え切れないものへ、その内部のさらに言語に絶する数え切れないものへ、最内部の天界または無垢の天界そのものまでに達するものであり、このことが最大の自由によってなされていました。なぜなら、すべての自由は愛から、したがって最大の自由は天界的な愛そのものである結婚愛からであるからです。
けれども、地獄へ向かう姦淫は、徐々に、そこに恐ろしいものと身震いするもの以外に何もない地獄へ進みました。
姦淫する者には、世での彼らの生活の後、このような運命が待っています。姦淫する者によって、姦淫の中に快さを感じ、結婚の中に快さを感じない者が意味されます。

 

天界と地獄

386◀︎目次▶︎388

41 天界での天使の職務

387 天界での職務は、列挙されることも特定的に述べられることもできないで、ただそれらについて何らかのものを一般的に言うことができるだけです。なぜなら、数え切れず、そしてまたそれぞれの社会は特有の役割を果たすので、社会の役割にしたがっていろいろなものがあるからです――なぜなら、 社会は善にしたがって分かれているように(前の41番参照)、そのように役立ちにしたがって分かれているからです。天界の中のすべての者のもとの善は活動している善であり、それは役立ちです。
それぞれの者はそこで役立ちを実行しています、なぜなら、主の王国は役立ちの王国であるからです(*1)


*1 主の王国は役立ちの王国である(454, 696, 1103, 3645, 4054, 7038)。
主に仕えることは役立ちを果たすることである(7038)。
来世のすべての者は役立ちを果たさなければならない(1103)。
悪い者と地獄の者もまた、しかし、どのように(696)。
すべての者は、果たす役立ちがどんなものかによって、そのような者である(4054, 6815)、説明されている(7038)。
天使の祝福は仁愛の善に、したがって実行する役立ちの中にある(454)。

天界と地獄

387◀︎目次▶︎389

388 地上のように天界に多くの統治があります――なぜなら、教会の統治があり、市民の統治があり、家庭の統治があるからです。教会の統治があることは、前の「神礼拝」(221-227)で言われ、示されたことから、市民の統治があることは、「天界の統治」(213-220)から、また家庭の統治があることは、「天使の住むことと住まい」(183-190)から、また「天界での結婚」(366-386)についてから明らかです――ここから、天界のそれぞれの社会の中に多くの職務と統治があることが明らかです。

天界と地獄

388◀︎目次▶︎390

389 天界の中のすべてのものは神的秩序にしたがって設けられ、その秩序はどこでも天使により統治によって守られています。知恵のある者により共通の善または役立ちが統治され、知恵の少ない者により個々の善または役立ちが統治され、順次このようになっています――神的秩序の中で役立ちが従属しているように、彼らもまた従属しています。
ここから、役立ちの尊厳(地位)にしたがって、それぞれの職務に尊厳(地位)が備わっています。
しかしそれでも、天使は自分自身に尊厳(地位)を要求しないで、〔尊厳(地位)の〕すべてを役立ちに与えます。役立ちとは提供する善であり、すべての善は主からのものであるので、それゆえ、すべてを主のものとします。
その理由で、自分自身のための名誉を〔先にし〕、ここから役立ちのための名誉について考えて、役立ちのためでなく、そこから自分自身のための名誉について考える者は、天界で何の役割も果たすことができません、目を主から背けて、後ろに向け、自分自身を第一にし、役立ちを第二とするからです。
役立ちが言われるとき、主もまた意味されます、なぜなら、直前に言われたように、役立ちは善であり、そして善は主からのものであるからです。

天界と地獄

389◀︎目次▶︎391

390 これらから、天界の中の従属がどんなものか結論することができます。すなわち、それぞれの者は役立ちを愛し、大切にし、尊ぶように、そのようにまたその役立ちを備えている人物を愛し、大切にし、尊びます。そしてまた、その人物は、役立ちを自分自身に結びつけないで、主に帰せば帰すほど、それだけ愛され、大切にされ、尊ばれます。それだけ賢明であり、それだけ、果たす役立ちを善から果たします。
霊的に愛し、大切にし、尊ぶことは、人物の中にある役立ちを愛し、大切にし、尊ぶこと以外の何ものでもありません。そして役立ちから人物への敬意があるのであって、人物から役立ちへの敬意があるのではありません。
人間を霊的な真理から眺める者もまたこのように眺めます。なぜなら、地位が高くても低くても、ある人間を他の人間と同様に見て、知恵の中にだけ相違を見るからです。知恵とは、役立ちを、したがって同胞市民・社会・祖国・教会の善を愛することです。
このことの中にもまた主への愛があります、役立ちの善であるすべての善は主からのものであるからです。隣人に対する愛もまた、隣人は同胞市民・社会・祖国・教会の中で愛されるべき善であるので、彼らに行われるべきものです(*2)


*2 隣人を愛することは人物を愛することではなく、彼のもとにある彼をつくっているもの(ex quo)を愛することである(5025, 10336)。
人物を愛する者は、彼のもとにある彼をつくっているものを愛さず、悪と善を等しく愛する(3820)――
また悪い者にも善い者にも等しく善を行なう、それでもそのとき悪い者に善を行なうことは善い者に悪を行なうことであり、隣人を愛することではない(3820, 6703, 8120)。
矯正するために、また悪い者により善い者が汚され、傷つけられないように、悪い者を罰する裁判官は隣人を愛している(3820, 8120, 8121)。
すべての人間と社会は、さらに祖国と教会は、そして全般的な意味で、主の王国は隣人である。またそれらの状態の性質にしたがって善の愛からそれらに善を行なうことは隣人を愛することである。このようにそれらの善が考慮されなくてはならない隣人である(6818-6824, 8123)。

天界と地獄

390◀︎目次▶︎392

391 天界の中のすべての社会は(前の41番以降に言われているように)善にしたがって分かれているので、役立ちにしたがって分かれています。善は活動している善または仁愛の善であり、それは役立ちです。
幼児の世話をすることを職務とする社会があり、幼児が成長するとき、彼らを教え、教育することを職務とする別の社会があり――世での教育から善い性質をもった少年と少女たちが天界にやって来たとき、同じく教え、教育する別の社会があり――キリスト教界の善い単純な者を、教え、天界への道へ導き、同様にいろいろな国民を教え、導く社会があります――世から新しくやって来た新参の霊を悪い霊の攻撃から守る社会があり――〝低い地〟〔513番参照〕にいる者のそばにいる社会もあります。また地獄にいる者のそばにいて、彼らが定められた限界を超えて相互に苦しめ合わないように抑制する社会もあり――さらにまた、死から生き返った者のそばにいる社会もあります。
一般的に、天使のそれぞれの社会は、人間を守り、悪の情愛とそこからの思考から引き出し、自由から受け入れるかぎり善の情愛を吹き込むために彼らのもとに遣わされます。そのことによってまた、可能なかぎり、悪の意図を遠ざけて、人間の行為または働きを支配します。
天使は、人間のもとにいるとき、いわば彼らの情愛の中に住んでいて、人間が真理からの善の中にいるかぎり、彼の近くにいます、けれども、そこから離れた生活(いのち)の中にいるかぎり、遠くにいます(*3)
しかし、天使のこれらの職務は、天使を通してなされる主の職務です、なぜなら、天使はそれらを自分自身からでなく、主から果たすからです――ここから、みことばの中で「天使」によって、その内意では天使が意味されないで、主の何らかのものが意味されます。またここから、みことばの中で天使たちは「神々」と言われています(*4)


*3 幼児のもとの、その後、少年のもとの、このように継続的にともにいる天使について(2303)。
人間は天使によって死から生き返らせられる。経験から(168-189)。
天使は地獄の中にいる者のもとに、互いに過度に苦しめ合わないように、遣わされる(967)。
来世にやって来る人間に対する天使の任務について(2131)。
霊と天使がすべての人間のもとにいて、人間は霊と天使を通して主により導かれる(50, 697, 2796, 2887, 2888, 5847-5866, 5976-5993, 6209)。
天使は悪い霊を支配している(1755)。*4 みことばの中の「天使」によって、主からの何らかの神性が意味される(1925, 2821, 3039, 4085, 6280, 8192)。
みことばの中で天使たちは、主から神的真理と神的善を受け入れることから「神々」と言われる(4295, 4402, 8192, 8301)。

天界と地獄

391◀︎目次▶︎393

392  天使のこれらの職務は彼らの全般的な職務ですが、それぞれの天使には特にその天使自身の寄与するものがあります。なぜなら、それぞれの全般的な役立ちは、手段の役立ち、補助の役立ち、仕える役立ちと呼ばれる数え切れないものから構成されているからです。その役立ちのすべてと個々のものは、神的秩序にしたがって整えられ、従属しており、一緒になって、全般的な善である全般的な役立ちをつくり、完成させています。

天界と地獄

392◀︎目次▶︎394

393 世でみことばを愛し、名誉または利益のためでなく、生活と自分自身と他の者の役立ちのためという願いから、そこに真理を捜し求めた者は、天界で教会の組織の中にいます。彼らは役立ちへの愛と願いにしたがって、天界の照らしと知恵の光の中におり、またその中へ天界にあるみことばからやって来ます。そのみことばは世の中のような自然的なものでなく、霊的なものです(前の259番参照)。
これらの者は、説教者の役目を果たし、そこの神的な秩序にしたがって、照らしからの知恵が他の者より秀でている者は上の位置にいます。
[2]世で祖国とその共通の善を自分自身よりも愛し、公正と正義への愛から公正と正義を行なった者は市民の組織の中にいます。
これらの者は、愛の願いから公正な法律を捜し求め、ここから知性ある者となっていればいるほど、それだけ天界の中のそのような役割を執行する能力の中にいて、さらにまた彼らに知性があればあるほど、ますますそれを執行する位置または段階にいます、またその時、その知性は共通の善のための役立ちの愛と等しい段階です。
[3]さらに天界の中には、おびただしいために数えられることができないような、そのように多くの役割と多くの統治、また多くの仕事があります。これと比較すれば、世の中には少ししかありません。
すべての者は、どれほど多くいても、役立ちへの愛から自分自身の仕事と労働の快さの中にいて、だれも自己のまたは利益への愛の中にはいません。すべての生活必需品は、彼らにただで与えられるので、生活のための利益への愛もありません。ただで住み、ただで着せられ、ただで食べます。
これらから、自分自身と世を役立ちよりも愛した者は、天界の中で何の居場所もないことが明らかです――なぜなら、自己の愛または自己の情愛は、世の生活の後に、それぞれの者に残り、永遠に根絶されることがないからです(前の363番参照)。

天界と地獄

393◀︎目次▶︎395

394 天界のそれぞれの者は対応にしたがって自分自身の仕事の中にいて、その対応は、仕事とでなく、それぞれの者の仕事の役立ちとの間の対応であり(前の112番参照)、対応はすべてのものにあります(106)。
天界で自分の役立ちに対応する職務または仕事についている者は、世でいたときと完全に似た状態の生活の中にいます、なぜなら、霊的なものと自然的なものは対応によって一つとして働くからです。それでも内的な生活である霊的な生活の中にいるので、内的な快さの中にいるという相違があり、ここから天界の幸福をさらに受け入れることができます。

 

天界と地獄

394◀︎目次▶︎396

42 天界の楽しさと幸福

395. 天界が何か、また天界の楽しさが何か、今日ではだれもほとんど知りません。
それらについて考えた者は、ほとんど観念ともいえないような、それほどに大雑把で粗雑なそれらについての観念を抱いています。
世から来世にやって来た霊から、私は、天界と天界の楽しさについてどのような概念をもっていたか最もよく知ることができました。なぜなら、世にいたときのように自分自身のままにされるとき、同じように考えるからです。
天界の楽しさが何か知られていないことの理由は、そのことについて考えた者が、自然的な人のものである外なる楽しさから判断を下して、内なる人または霊的な人が何か、したがってその快さと幸福が何かも知らなかったからです。それゆえ、もし霊的なまたは内なる快さの中にいた者から、天界の楽しさが何か、またそれがどんなものか言われたなら、理解することができなかったでしょう。知られていない観念の中に落ち込み、したがって知覚することもなく、それゆえ、自然的な人が退けるものとなるからです。
それでも、人間はその外なるまたは自然的なものを残して、内なるまたは霊的なものの中にやって来ることを、だれでも知ることができます。ここから、天界の快さは内なるまた霊的なものであり、外なるまた自然的なものでないこと、また内なるまた霊的なものなので、純粋で敏感なものであり、人間の霊魂または霊のものである内的なものに働きかけることを知ることができます。
これらのことだけからでも、だれでも、自分の快さがどのようなものかは、自分の霊にとってどのようなものが快かったかによる、と結論することができます。そして肉の快さと呼ばれる身体の快さは、それに比較すれば天界のものではありません――さらにまた、人間の霊の中にあるものは、身体を置き去りにして、死後に残ります、なぜなら、その時、人間霊〔人間的な霊〕が生きるからです。

天界と地獄

395◀︎目次▶︎397

396 すべての快さは愛から流れ出ます、なぜなら、人間は愛するものを快いと感じるからです。だれも別のところに快さはありません。ここから、快さは愛がどのようなものかによる、といえます。
身体のまたは肉の快さのすべては、自己愛と世俗愛から流れ出ており、ここから、肉欲とその快楽も存在します。けれども、霊魂のまたは霊の快さのすべては、主への愛と隣人に対する愛から流れ出ており、ここから、善と真理への情愛、そして内的な幸せも存在します。
前者の愛はその快さとともに肉からまた世から外なる道を通って、下にあるものから流入し、外的なものに働きかけます。けれども、後者の愛はその快さとともに主からまた天界から内なる道を通って、上にあるものから流入し、内的なものに働きかけます。
そこで、天界のそれらの二つの愛がどれだけ受け入れられ、どれだけ働きかけるかによって、それだけ霊魂のまたは霊のものである内的なものが開かれ、世から天界に目を向けます。けれども、世のそれらの二つの愛が受け入れられ、働きかけるほど、それだけ身体のまたは肉のものである外的なものが開かれ、天界から世に目を向けます。
愛が流入し、受け入れられるかぎり、同時にそれらの快さもまた、内的なものには天界の快さが、外的なものには世の快さが、流入します。すでに言われたように、すべての快さは愛のものであるからです。

天界と地獄

396◀︎目次▶︎398

397 天界それ自体を眺めるなら、天界には幸福と快さ以外のものがないほどに、本質的な快さで満ちています。主の神的愛から発出する神的善により、そこのすべての者のもとに全般的にまた個別的に天界がつくられるからです。そして神的愛は、すべての者の救いと幸福を、最内部からまた十分に意志することです――ここから、天界と言ってもあるいは天界の楽しさと言っても一つのものです。

天界と地獄

397◀︎目次▶︎399

398 天界の快さは、言い表わすことができませんし、数え切れません。しかし、その数え切れないものの何一つすら、身体または肉の快さだけの中にいる者は、前に言われたように、彼の内なるものは天界から世へ、このように後方へ目を向けるので、知ることも信じることもできません。なぜなら、完全に身体または肉の快さの中に、また同じことですが、自己愛と世俗愛の中にいる者は、名誉・利益・身体と感覚の快楽以外のものには何の快さも感じないからであり、それらは天界のものである内的なものの快さを、それらの存在が信じられないようにまでも消し、窒息させます。それゆえ、名誉と利益の快さから遠く離れた快さが存在すると言われるだけで大いに驚き、それらに代わって天界の快さは数え切れないものであって、特に名誉と利益のものである身体や肉の快さのようなものは、それらと比較されることができないと言われるなら、さらにもっと驚きます――ここから、なぜ天界の楽しさとは何か知られていないのか、その理由が明らかです。

天界と地獄

398◀︎目次▶︎400

399 天界の快さがどれほど大きいものであるかは、そこのすべての者には、自分自身の快さと幸運を他の者に伝達(共有)することが快いものであり、そのことだけから知ることができ、天界の中のすべての者はこのような者なので、天界の快さがいかに計り知れないものか明らかです。なぜなら、前に示されたように(268番)、天界の中のすべての者に個々の者との、また個々の者にすべての者との伝達があるからです。
このような伝達(共有)は、言われてきたように、主への愛と隣人に対する愛である天界の二つの愛から流れ出ます。これらの愛がその快さの伝達に仕えます――主への愛がこのようなものであるのは、主の愛はすべての者にご自分のすべてのものを伝達する愛であるからです、なぜなら、すべての者の幸福を願われるからです。その方を愛する個々の者の中に、主が彼らの中におられるので、同様の愛があり、ここから、天使の間に相互の快さの伝達があります。隣人に対する愛もまたこのようなものであることは、このあと見られます――それらから、それらの愛は快さの伝達に仕えるものであることを明らかにすることができます。
自己愛と世俗愛は異なります。自己愛は、すべての快さを他の者から引き離し、取り去り、自分自身へ運びます、なぜなら、自分だけがよいようにと欲するからです。世俗愛は、隣人のものが自分のものであることを欲します。それゆえ、これらの愛は、他の者のもとにある快さを破壊するものです。もし、伝達に仕えるものがあるなら、それは自分自身のためであり、他の者のためのものではありません。それゆえ、他の者と比べて、それらの快さが自分自身のもとにまたは自分自身の中にないなら、伝達に仕えるものではなく、破壊するものです。
自己愛と世俗愛は、それらが支配するとき、そのようなものであることを、しばしば生きた経験によって知覚するようになりました。
世で人間として生きたときこの愛の中にいた霊が近づくたびごとに、しばしば私の快さは退き、消えました。私に、「このような者が天界の何らかの社会に近づくだけで、彼らのいる段階に完全に一致して、その社会の中にある快さは減る。驚くべきことに、その時、その悪い者は自分自身の快さの中にいる」と言われました。
ここから、このような人間が身体の中にいたときの霊の状態がどんなものか明らかです、なぜなら、身体から分離した後も似たものであるからです。すなわち、他の者の快さまたは善を熱望し、ほしがり、そして獲得すればするほど、それだけ彼に快さがあったからです。
これらから、自己愛と世俗愛が天界の楽しさを破壊するものであり、したがって伝達に仕えるものである天界的な愛に完全に対立するものであることを知ることができます。

天界と地獄

399◀︎目次▶︎401

400 しかし、天界のある社会に近づくとき、自己愛と世俗愛の中にいる者の中にある快さは、彼らの欲望の快さであり、したがって天界の快さと完全に対立していることを知らなくてはなりません。
彼らは、天界にいる者の快さを奪い、取り去ることから自分自身の欲望の快さの中にやって来ます。
奪い、取り去ることがない時は異なります。その時、近づけば近づくほど、それだけ苦悶と悲しみがやって来るので、近づくことはできません。ここから、あえてそばに近づくことはまれです。
このこともまた多くの経験から知ることが与えられたので、それらからいくつか示します。
[2]世から来世に来た霊は、天界に入ることだけしか願いません。ほとんどすべての者は、〝天界とは入ることを許可され、受け入れられること〟でしかないと信じ、このことを本気で求めます――また願いもするので、それゆえ、最も低い天界のある社会へ導かれます。
自己愛と世俗愛の中にいる者は、その天界の最初の入り口にやって来るとき、痛みを感じ、自分自身の中に天界よりもむしろ地獄を感じるかのように内部で苦しめられ始めます。それゆえ、自分自身をそこから真っ逆さまに投げ落とし、自分自身の地獄の中にいると思えるまで休みもしません。
[3]さらにまた、このような者が、天界の楽しさとは何か知ることを望むこともたびたび起こりました。その楽しさが天使の内的なものの中にあることを聞いたとき、それが自分にも伝達されることを願いました。それゆえ、そのこともまた起こりました、なぜなら、天界または地獄の中にまだ来ていない霊は、願うと、もしそれが役立つなら、そのこともまた彼に与えられるからです。
伝達が起こると、苦しみのあまり、どのように身体を押さえつけたらよいかわからないほどに苦しめられ始めました。頭を足までも押し下げ、また自分自身を地へ投げつけ、そこにヘビのように自分自身を輪へとねじることが見られ、このことは内的な責め苦から起こりました。
天界の快さが、自己愛と世俗愛からの快さの中にいた者にこのような結果をもたらしたのです――その理由は、それらの愛は完全に対立しているからであり、対立するものが対立するものに働くとき、このような苦痛が生じます。また、天界の快さは内なる道を通って入り、対立した快さに流入するので、その快さの中にある内的なものを、後ろ向きに、このようにそれ自身と対立したものへとねじ曲げます。ここから、このような責め苦があります。
[4]対立するものであるのは、前に言われたように、主への愛と隣人に対する愛は自分自身のすべてものを他の者に伝達することを欲し、このことがその愛の快さであるからであり、自己愛と世俗愛は他の者からそれ自身のものを取り去り、自分自身へ運ぶことを欲し、このことができればできるほど、それだけ快さの中にいるからです。
これらのことからもまた、地獄が天界から分離していることはどこからであるか知ることができます、地獄の中にいるすべての者は、世で生きていたとき、自己愛と世俗愛から身体と肉の快さだけの中にいました、けれども、天界の中にいるすべての者は、世で生きていたとき、主への愛と隣人に対する愛から霊魂と霊の快さの中にいたからです。それらの愛は対立しているので、それゆえまた地獄と天界は完全に分離しています、実際に、地獄の中にいる霊はそこからあえて指一本すら突き出すことも、あるいは自分の頭を持ち上げることも決してしようとしないほどです。なぜなら、ほんの少しでも突き出し、持ち上げると、苦しめられ、拷問にかけられるからです――このこともまたしばしば見られました。

天界と地獄

400◀︎目次▶︎402

401. 自己愛と世俗愛の中にいる人間は、身体の中に生きるかぎり、それらの愛から、またそれらの愛からの個々の欲望に快さを感じます――けれども、神への愛と隣人に対する愛の中にいる人間は、身体の中に生きるかぎり、それらの愛から、またそれらの愛からの善の情愛から、快さを明らかには感じていません、ただ幸福だけを感じていますが、それもほとんど気づくことのできないものです。快さは彼の内的なものの中にしまい込まれて、身体である外的なものによりおおわれており、また世の心配事によって弱められているからです――しかし、死後に状態はまったく変わります。自己愛と世俗愛の快さは、その時、地獄の火と呼ばれるようなものに変えられるので、痛々しく恐ろしいものに変わります。また時々、彼らの不純な欲望に対応した不潔なものときたないものに変わり、その時、驚くべきことに、彼らにとってそれらが快いのです。
しかし、世で神への愛と隣人に対する愛の中にいた者のもとにあった不明瞭な快さとほとんど知覚されることのできなかった幸福は、その時、天界の快さに変えられ、それらはあらゆる方法で知覚でき、感じられるものとなります。なぜなら、世で生きたとき内的なものの中に秘蔵物として隠されていたその幸福は、その時、現わされ、そして感覚の中に明らかなものとなって出てくるからです。その時、彼らは霊の中にいて、それらが彼らの霊の快さであったからです。

天界と地獄

401◀︎目次▶︎403

402. 天界のすべての快さは役立ちと結合しており、役立ちに内在します。役立ちは愛と仁愛の善であり、その中に天使がいるからです。それゆえ、だれにも、どのような役立ちへの情愛の中にいるかによって、そのような役立ちの中に、またそのような段階の役立ちの中にいて、そのような快さがあります。
天界のすべての快さが役立ちの快さであることは、人間のもとの身体の五つの感覚との比較から明らかにすることができます――それぞれの感覚にその役立ちにしたがって快さが与えられています。視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚にそれ自体の快さがあります。美や形から視覚に、調和する音から聴覚に、匂いから嗅覚に、味のあるものから味覚に快さがあります。
感覚の個々のものが遂行する役立ちについて、それを熟慮する者は知っています、対応を知る者はさらに多くのことを知っています。
視覚にこのような快さがあることは、内なる視覚である理解力に遂行する役立ちからです。聴覚にこのような快さがあることは、聞くことによって理解力と意志に遂行する役立ちからです。嗅覚にこのような快さがあることは、脳また肺に遂行する役立ちからです。味覚にこのような快さがあることは、胃に遂行する役立ちと、そこから全身に滋養物を与える役立ちからです。触覚の純粋で敏感な快さである結婚の快さは、その役立ちのためにこれらすべての役立ちにまさっています、それは人類を生み出し、天界の天使を生み出すことです。
これらの快さは、すべての快さが役立ちからのものであり、その役立ちにしたがっている天界の流入から、それらの感覚に内在します。

天界と地獄

402◀︎目次▶︎404

403. ある霊は、世で得た見解から、「天界の幸福は暇な生活にあり、その生活の中で他の者により仕えられることにある」と信じました。しかし、彼らは、「何らかの幸福は、休息し、そこから幸福を得るような生活には決してない」と言われました――このようにそれぞれの者が他の者の幸福を自分のためのものにしようと欲するなら、そのときだれにも幸福がありません。このような生活は、活動的ではなくて怠惰であり、そのうち鈍いものになります。そのときそれでも彼らは、〝活動的な生活でなくては幸福な生活は何もないこと、生活のその暇は元気回復のためだけのもの、元気よく自分の生活の活動に戻るためのものである〟と知ることができました。
その後、天使の生活が役立ちである仁愛の善を遂行すること、天使のすべての幸福は、役立ちから、役立ちにしたがって、役立ちの中にあることが多くのもので示されました。
〝天界の楽しさは、怠惰の中で永遠の楽しさを呼吸して、怠惰に生きるようなことの中にある〟という考えを持っていた者が恥じるようになるために、彼らにこのような生活がどんなものか知覚するようにされました。彼らに知覚された生活は、極めて悲しく、こうしてすべての楽しさが消えたものであり、少しすると、彼らはその生活を嫌い、吐き気を催しました。

天界と地獄

403◀︎目次▶︎405

404. 自分たちは他の者よりも学問があると信じた霊が、世で持っていた自分たちの信念について、「天界の楽しさは神をほめたたえ、祝うことだけにあり、それが活動的な生活である」と言いました。しかし、彼らに、「神をほめたたえ、祝うことは、そのような活動的な生活ではない。神もまた賛美と祝典を必要とされない。神は、役立ちを遂行することを、仁愛の善と呼ばれる善の働きを遂行することを望まれる」と言われました――しかし、彼らは仁愛の善の働きの中に天界の楽しさの何らかの観念をもつことができないで、そこに奴隷状態の観念しかもてませんでした。けれども、天使は、「仁愛の善の働きは内的な情愛から、言い表わすことのできない快さと結合しているので、極めて自由なものです」と証言しました。

天界と地獄

404◀︎目次▶︎406

405. 来世にやって来るほとんどすべての者は、地獄はだれにとっても似たものであり、天界もだれにとっても似たものであると思っています。それでも、どちらの場所にも無限の多様性と相違があり、ある者にとって他の者と完全に似た地獄は決してなく、完全に似た天界も決してありません。顔でさえ、他の者と完全に似た人間・霊・天使は決して存在しないのと同じです。
二つのものが完全に似ているかまたは等しい、と私が考えただけで、天使は、「すべてのものは多くのものが調和した一致から形作られ、どのように一致しているかによって、そのように一つとなっています」と言いながら、身震いしました。このように天界のそれぞれの社会が一つとなり、天界のすべての社会もまた一つとなっており、このことは主おひとりから愛によってなされています(*1)
同様に、天界の中の役立ちのすべてに多様性と相違があり、ある者の役立ちは他の者の役立ちと、したがって、ある者の快さも他の者の快さと、完全に似ていて、同一であることは決してありません――またさらに、それぞれの役立ちの快さは無数であり、同様に多様さも無数ですが、しかしそれでも、身体の中のそれぞれの四肢・器官・内臓の役立ちのように、互いに眺め合うような秩序の中で結合しています――さらに、それぞれの四肢・器官・内臓の中のそれぞれの管や繊維のように、それらすべてと個々のものは、他のものの中にそれ自体の善を、こうしてすべてと個々のものの中に、あらゆる善に目を向けるように形成されています――このように全体から、また個々のものから見て、それらは一つのものとして働いています。


*1  一つのものは、いろいろなものから成り立ち、ここから形と性質を、また調和と一致の性質にしたがって完全さを受けている(457, 3241, 8003)。
無限の多様性があり、ある者が他の者と同一であることは決してない(7236, 9002)。
同じく、天界の中でも(3744, 4005, 7236, 7833, 7836, 9002)。
ここから天界の中のすべての社会は、また社会の中のそれぞれの天使は、いろいろな善と役立ちの中にいるので、自分自身から互いに分かれている(690, 3241, 3519, 3804, 3986, 4067, 4149, 4263, 7236, 7833)。
主の神的愛はすべての者を天界の形に配列し、ひとりの人間であるように結合する(457, 3986, 5598)。

天界と地獄

405◀︎目次▶︎407

406. 私は、世から最近やってきた霊と何度か、永遠のいのちの状態について話して、「王国の主はだれか、統治とその統治の形態はどのようなものか知ることは重要です。世でも他の国に行く者にとって、その国の王がだれで、どんな王か、どのような統治か、またその王国の多くの事柄について知ることが最優先されるようなものです。永遠に生きることになるこの王国ではそれらを知ることがさらに重要です。
それで、天界を、そしてまた全世界を支配する者が主であられることを知らなくてはなりません、なぜなら、一方を支配する者はもう一方も支配するからです。したがって、今いる王国は、主のものであり、この王国の法律は永遠の真理であり、それらすべては、すべてにまさって主を、また自分自身のように隣人を愛するという律法に基づいています。それどころか、それで、もし天使のようでありたいなら、自分自身よりも隣人を愛することが必要です」と言いました。
[2]彼らがこれらのことを聞いたとき、いのちが身体の中にあったときにこれらのことを聞いたけれども信じなかったので、何も返事ができないで、天界の中にこのような愛があり、それぞれの者が自分自身よりも隣人を愛することがありうることに驚きました――しかし、「すべての善は来世で計り知れないほど増大する。物質的なものの中にあるので、いのちは身体の中で、隣人を自分自身のように愛することを超えて先に進むことができないようなものとなっている。しかし、これら〔物質的なもの〕から遠ざかる時、愛はさらに純粋になり、最後に天使の愛となり、それは隣人を自分自身よりも愛することである――なぜなら、天界の中で快さは他の者に善を行なうことであり、自分自身に善を行なうことには、もし、他の者のものになるように、このように他の者のためにでないなら、快さはない。そして、これが自分自身よりも隣人を愛することである」と知らされました。
[3]「世でもこのような愛がありうることを明らかにすることができる。例えば、配偶者が害われるよりもむしろ〔自分が犠牲となる〕死を選んだ者の結婚愛から、幼児が飢えるのを見るよりも飢えを受け容れた母のような、子どもたちに対する両親の愛から、また、友の代わりに危険を引き受けるといった誠実な友情から、また誠実さをまねて、好ましいものを贈り、よろしく、と言うような、礼儀正しい友情や見せかけの友情からである。そのとき、たとえ心からでなくても口で好ましいものをもたらしている。最後に、自分自身のためでなく、他の者のために、他の者に仕えることが楽しさであるといったような愛の性質からである」と言われました。
けれども、自分自身を他の者にまさって愛した者、身体のいのちの中で利益を欲しがった者は、これらのことを理解できませんでした。すべての者のうちで貪欲な者たちは最も理解できませんでした。

天界と地獄

406◀︎目次▶︎408

407. いのちが身体の中にあったとき他の者にまさって勢力があった者が、来世でまたも支配しようとする欲望を持ち続けました――彼に、「あなたは永遠である他の王国にいる。地上でのあなたの支配は死んだ。それで、だれも、善と真理にしたがって、また主の慈悲の中にいた世での生活にしたがって尊重される。さらに、この王国も地上のようであって、そこの富のために、また君主からの恩恵のために尊重される。ここでは、富は善と真理であり、また君主からの恩恵は慈悲であり、人間は世での自分の生活にしたがって主のもとの慈悲の中にいる。もし、これと異なって支配することを欲するなら、反逆者である。なぜなら、他の王国にいるからである」と言われました。
彼はこのことを聞いて恥じました。

天界と地獄

407◀︎目次▶︎409

408. 私は、天界と天界の楽しさは偉大であることにあると考えた霊と話したことがあります――彼らは、「天界では最小の者であることが最大の者である」と言われました。なぜなら、自分自身からは何もできず、賢明でなく、そして何かができることや賢明であることを欲しないで、主からこのようなことを欲する者が最小の者と言われるからです。このような最小の者が最大の幸福を持ち、最大の幸福を持っているので、ここから最大の者であることがいえます、なぜなら、こうして主からすべてのものが可能であり、すべての者にまさって賢明であるからです。
最も幸福でないなら、最大であるとは何なのでしょうか? なぜなら、力のある者が力によって、富む者が富によって求めるものが最も幸福であることであるからです。
さらに、「最大であろうとする目的のために最小であることを願うことに天界はない。というのは、その時、最大でありたいと思い、望むからである。しかし、〔最大であることは〕自分自身よりも他の者によくあるようにと心から欲し、報酬を得ようとの自分自身のための目的からでは少しもなく、愛から、他の者にその幸福のために仕えることにある」と言われました。

天界と地獄

408◀︎目次▶︎410

409. 天界の楽しさのものがその本質ではどんなものであるか、記述されることはできません。天使のいのちの最内部の中に、ここから彼らの思考と情愛の個々のものの中に、またこれらから話し方や行動の個々のものの中に存在するからです。
それは、快さと幸福を受け入れるために内的なものが十分に開かれ、解放されているようなものです。快さと幸福は個々の繊維へ、このように全体を通って広がります。そこから、その知覚と感覚は記述されることのできないようなものです。なぜなら、最内部から始まるものは最内部から導かれる個々のものの中に流入し、それ自体を外なるものへ向けて常なる増加をもって増殖するからです。
まだ天界へ高められていないので、その快さの中にいない善霊は、天使の愛のスフェアからそれを知覚するとき、いわば心地よい失神に陥るかのような快さに満たされます。
このことは天界の楽しさが何か知ることを願った者にときどき起こります。

天界と地獄

409◀︎目次▶︎411

410. ある霊もまた天界の楽しさが何か知ることを願いました。それゆえ、その楽しさについて、それ以上耐えることができないほどに知覚することが許されました。しかしそれでも、このことは伝達によって私に把握することが与えられたのですが、天使の楽しさではなく、天使の楽しさの最小のものでもほとんどなく、このようにほとんど冷たいような、微々たるものでしたが、それでも彼らの最内部の楽しさであったので、それを最も天界的なものと呼びました――ここから、天界の楽しさに段階があるだけでなく、ある者の最内部の楽しさは、他の者の最低のものまたは中間のものにも匹敵しないこと、さらに、だれかが天界の自分の楽しさの中にいて、自分自身の最内部の楽しさを受け容れるとき、さらに内なるものには耐えられず、彼に苦痛をひき起すものになることが明らかになりました。

天界と地獄

410◀︎目次▶︎412

411.  悪くはないある霊が、眠りの中へかのように静けさの中へ入り込み、こうして彼らの心の内的なものに関して、天界に移されました。なぜなら、霊は、その内的なものが開かれる前に天界に移され、そこの幸福について教育されることができるからです。

私は、彼らが半時間の間、休んでいたように見え、その後、彼らは以前にいた外なるものへ戻され、その時にまた、見たことを思い出しました。

彼らは、「天界の中の天使の間にいた。そこに驚くべくものを見て、知覚した。すべてのものは、金・銀・宝石からかのように輝き、驚嘆すべき形で、不思議に変化していた。天使は、外なるものそのものでなく、それらが表象するものを喜ぶ。それらは神的な、言葉にできない、無限の知恵を含むものであり、それらが彼らに楽しみであった。その他にも、数え切れないものを見て、知覚した。それらは、人間の言葉では一万分の一も決して表現することができない、物質的なものを含む観念の中に落ち込むこともない」と言いました。

天界と地獄

411◀︎目次▶︎413

412. 来世にやって来るほとんどすべての者は、天界の至福と幸福が何か知りません。内なる楽しさが何か、またどんなものか知らないで、身体的で世俗的な喜びと楽しさだけから知覚力を得ているからです――それゆえ、知らないものを無であると考えますが、それでもそのとき、身体的で世俗的な楽しさのほうが相対的に無です。

それゆえ、天界の楽しさが何かを知らない正直な者が、知り、認めるために、最初にすべてのものが想像を超えている楽園へ導かれます――その時、天界の楽園に到着したと思います、しかし、それは天界の真の幸福ではないことを教えられます。それゆえ、彼らに楽しさの内的な状態について、それらの最内部までも認めることを知覚することが与えられます――その後、平和の状態の中へ、それらの最内部にまでも、その時、「この状態はどのようにしても表現できないし、想像できるものでもない」と認めながら――最後に、無垢の状態の中へ、さらにまたそれらの最内部の感覚にまで連れて行かれます。

ここから彼らに、何が霊的なまた天界の真の善か、知ることが与えられます。

天界と地獄

412◀︎目次▶︎414

413.  しかし、天界と天界の楽しさが何か、またどんなものか知ることができるために、しばしば、また長い間、主により天界の楽しさの快さを知覚することが私に与えられました。それゆえ、生きた経験からなので、知っています、しかし、決して記述することができません――けれども、それらの観念だけでも得られるように、いくつか述べてみます。

無数の快さと楽しさの情愛があり、それらは一緒となったある全般的なものとして現われ、その全般的なものの中に、あるいはその全般的な情愛の中に、調和する無数の情愛が存在し、それらは最も全般的な知覚なので、知覚には、はっきりと区別されません。それでも、決して記述することができないような秩序で、無数のものが内在することを知覚することが与えられました。それらの無数のものは、天界の秩序から流れ出るようなものです。

このような秩序が、主体である者の把握力にしたがって、一つの最も全般的なものが現われ、知覚されるような方法で、情愛の個々のものまた最小のものの中にあります――一言でいえば、それぞれの全般的なものに、最も秩序ある形の中の無限のものが内在し、生き、働きかけないものは何もありません、それどころか、すべてのものは最内部からです、なぜなら、天界の楽しさは最内部から進み出るからです。

さらにまた、楽しさと歓喜は心臓からかのようにやって来て、それ自体を極めて柔らかに発散させながら、すべての繊維の最内部を通って、ここから繊維は、いわば楽しさと歓喜以外の何ものでもないような快さの最内部の感覚とともに、繊維の集まったものの中へ入ることを、またすべての知覚力と感知力も同様にここからであり、それらは幸福から生きているようであることを知覚しました――それらの楽しさに比べて身体の快楽の楽しさは、純粋で極めて穏やかなオーラと比べたときの粘っこくて刺激するほこりのようです。

私は、自分の楽しさのすべてを他の者に移すことを欲したとき、前のものよりも内的でさらに十分な快さがそれに代わって絶えず流入したことに気づきました。また私がこのことを欲すれば欲するほど、それだけ流入しました。私はこのことが主からであることを知覚しました。

天界と地獄

413◀︎目次▶︎415

414.  天界にいる者は、絶えずいのちの春へ進みます。数千年生きれば生きるほど、ますます快さと幸福の春へ進み、このことが増大しながら、愛と仁愛と信仰の前進と段階にしたがって永遠に続きます。

主への信仰と隣人に対する仁愛に、また夫と幸福な結婚愛に生きて、年取って衰弱して死んだ女性がいました。彼女は年を経てから後、さらにまたさらにと青春時代の若い花の盛りへ、かつて見て、知覚することのできたすべての美の観念を超える美へやって来ました。彼女の善良さと仁愛がそれらを形作り、それ自体に似たものを現わし、顔の個々のものから仁愛の快さと美が輝き出て、仁愛の形そのもののようでした。これを見たある者は、その美に唖然としました。

[2]天界で生きいきと見られる仁愛の形は、仁愛そのものであり、それが映し出し、映し出されるようなものであり、そのうえ天使全体が、特に顔が、いわば仁愛であるようなものであり、それが明らかに現われ、知覚されます。仁愛によって心の最内部のいのちそのものに働きかけているその形は、眺められるとき、言い表わすことができない美をしています。

一言でいえば、天界で年取ることは若返ることです。

主への愛と隣人に対する仁愛に生きた者は、来世で、このような形に、すなわち、そのような美になります。すべての天使は無数の変化とともにこのような形をしています。天界はこのような形の天使から存在します。

天界と地獄

414◀︎目次▶︎416

43 天界の無辺

415 主の天界が無辺であることは、前に述べ、示した多くのことから、特に、天界は人類から存在すること(前の311-317番参照)、〔その者は〕教会内に生まれた者だけでなく、その外に生まれた者(318-328番)――このようにこの地球の最初の出現から善の中に生きたすべての者から存在することから明らかにすることができます。
どれほど多くの人間がこの地球の全世界にいるか、だれでもこの地球の地方・領域・王国について何らかのものを知っている者は結論することができます。
計算を始める者は、どんな日にも数千に達する人間が、このように一年の内に何万ないし何百万に達する人間が死ぬことに気づきます。またこのことが最初の時からであり、それから何千年もの間があって、これらのすべての者が死後に霊界と呼ばれる来世にやって来たし、また常にやって来ています。
けれども、彼らのうち何人が天界の天使になったか、なるかは言うことができません。私は、「古代には非常に多くの者がいた。その時、人間たちは内的に、より霊的に考え、そしてここから天界の情愛の中にいたからである。しかし、続く時代では、それほど多くない、人間は時の経過につれて外的になり、より自然的に考え始め、ここから地的な情愛の中にいるからです」と言われました。
最初に、これらから、この地球の住民だけからでも天界が大きいことを明らかにすることができます。

天界と地獄

415◀︎目次▶︎417

416.  主の天界が無辺であることは、すべての幼児が、教会内に、あるいは教会外に生まれても、主により養子とされ、天使となり、その数が地球の全人類の四分の一あるいは五分の一に達すること、そのことだけから明らかにすることができます。
それぞれの幼児は、教会内にあるいは教会外に、敬虔な両親からあるいは不信心な者から、どこで生まれても、死ぬとき、主により受け入れられ、天界で教育され、神的秩序にしたがって善の情愛を、またそれらを通して真理の知識を教えられ、吹き込まれ、その後、知性と知恵が完成するに応じて、天界に導き入れられ、天使になることは、前に述べました(329-345)。そこで、創造の最初から今日の時代まで、幼児だけから存在するようになった天界の天使がどれほど大勢いるか、結論することができます。

天界と地獄

416◀︎目次▶︎418

417.  主の天界がどれほど無辺であるかは、私たちの太陽系の中で目の前に見られるすべての惑星は地球であり、さらに、その地球は宇宙に無数にあり、そのすべては住民で満ちていることからもまた明らかにすることができます。それらの地球について、そのことについては特に別の小著で扱っており、私はそこから次のものを引用します――
[2]多くの地球があり、それらの上に人間がいて、ここから霊と天使がいることは、来世では極めてよく知られています。なぜなら、そこにいて、真理への愛から、ここから役立ちを願うそれぞれの者は、他の地球の霊と語ることを許され、ここから世界の複数性について確信を与えられ、人類は一つの地球だけから存在しないで、無数の地球から存在することを教えられるからです。〔『宇宙間の諸地球』2番〕
[3]私は何度か、私たちの地球の霊とその事柄について話しました。また、「理解力を授けられている者なら、多くの地球があり、そこに人間がいることを多くのものから知ることができる。なぜなら、理性から、この地球を上回るような大きな惑星が存在し、それほどに大きな塊りが、太陽のまわりを単に動き回り、ゆっくりと進み、一つの地球をその光でわずかに輝かすためだけに創造された空虚な塊りのはずがなく、このようなもの以外に、そのさらに著しい役立ちが存在しなければならない、と結論することができるからである」と言われました。
神が宇宙を創造されたのは、人類が存在し、人類は天界の苗床であるので、ここから天界をつくる目的以外のためではない、と信じる者は、だれもがこのように信じなくてはなりませんが、その者は、地球があるところにはどこでも人間が存在するとしか信じることができません。
私たちの目の前に見えている惑星が地球であることは、この太陽系の範囲内なので、太陽の光を反射し、望遠鏡を通して調べると、炎から赤く輝く星のように見えないで、暗いものから多様になっている地球のように見えるので、このことから明らかに、地的な物質の物体であることを知ることができます。さらに私たちの地球と同様に、太陽のまわりを回り、黄道帯を進み、ここから年と、年の期間である春・夏・秋・冬をつくること、同様に、私たちの地球と等しくその軸のまわりを回転し、ここから、日、また、日の時間、すなわち、朝・昼・夕・夜をつくること、また他にも、それらのあるものは衛星と呼ばれる月を持っていて、それは私たちの地球のまわりの月のように、それ自体の球体のまわりを一定の時間でめぐっていて、また土星は、太陽から極めて遠く離れているので、大きな明るい帯も持っていて、それが多くの反射光を、その地球に与えていることからも知ることができます。
これらを知り、また理性から考える者のいったいだれが、これらは空虚な物体である、と言うことができるでしょうか? 〔『宇宙間の諸地球』3番〕
[4]私は霊と他にも話しました。宇宙の中に一つ以上の多くの地球があること、このことから、星空はこのように無辺であること、そしてこんなにも多く数え切れないそこの星のそれぞれは、その場所でまたはその太陽系の中で、いろいろな大きさで私たちの太陽に似ている太陽であることが人間により信じられることです――正しく熟考する者は、「このように無辺なその全体は創造の最終目的への手段でしかない、その目的は天界の王国であり、神性が天使や人間とともにその中で住むことができることである」と結論します。
というのは、目に見える宇宙は、すなわち、このように多数の太陽である数え切れない星に照らされた天は、地球が存在し、その地球の上に人間が、その人間から天界の王国が存在するための単なる手段であるからです。
これらから、理性的な人間は、一つの地球の人類のためだけの目的で、このように無辺な手段が作られたと考えることはとうていできません。
神性にとってこの無辺の手段が何の問題となるでしょうか? 数千それどころか数万の地球が存在し、すべてが住民で満ちても、無限であられる神性にとって、わずかなもの、ほとんど何ものでもありません。〔『宇宙間の諸地球』4番〕
[5]もっぱら知識を獲得することだけに専心した霊がいます、彼らはそのことだけで満足するからです。それゆえ、その霊に、あたりを巡り回り、この太陽系の外へもまた越えて他へ行き、知識を手に入れることが許されました。
この者は、「人間が住む地球はこの太陽系の中だけでなく、さらにまたその外に、星空に、莫大な数の地球がある」と言いました。彼らは水星からの霊です。〔『宇宙間の諸地球』6番〕
[6]計算が始められました。もし百万の地球が宇宙にあり、それぞれの地球に人間の数が三億、すなわち百万の三百倍で、六千年のうちに二百世代あって、それぞれの人間または霊に三立方キュービットの空間が与えられても、一つの合計に集められた人間あるいは霊の全数は、それでもこの地球の空間を満たさないで、惑星のまわりの一つの衛星の〔軌道がつくる〕空間もほとんど越えることがなく、〔その〕空間も宇宙の中で、ほとんど目に見えないほど小さいものです、なぜなら、衛星は肉眼の前にほとんど見えないからです。
このことが宇宙の創造者にとって何の問題となるでしょうか? もし全宇宙が満たされても創造者には十分ではありません、無限であられるからです。
このことについて私は天使と語りました。彼らは、「われわれは、創造者の無限大と比べて人類がわずかであることについて、同様の観念をもっている、しかしそれでも、われわれは空間からでなく、状態から考えている。また、われわれの観念にしたがって、地球の数がこれまでに考えることのできたと同じだけ無数に多くても、それでも主にとってまったくの無である」と言いました。〔『宇宙間の諸地球』126番の後半をやや変更〕
[7]「宇宙の中の地球」について、またその「住民」とそこからの「霊と天使」については、前述の小著の中に見られます。
そこには、主の天界は無辺であり、その全体が人類から成り立つこと、さらに私たちの主がどこでも天と地の神として承認されていることが知られる目的のために、私に現わされ、示されたものが述べてあります。

天界と地獄

417◀︎目次▶︎419

418.  主の天界が無辺であることは、天界が全統一体としてひとりの人間を映し出し、人間のもとのすべてと個々のものに対応することからもまた明らかにすることができます。その対応は決して満たされることができません、全般的に身体の個々の四肢・器官・内臓と対応があるだけでなく、その内部にある小さい内蔵と小さい器官の個々のものやすべてのものと、管や繊維とすら対応があるからです。またそれらとだけでなく、天界の流入を内的に受け入れる有機体の物質とも対応があり、ここから、人間にその心の働きに役立つ内的な活動が存在します、なぜなら、人間の中に内的に存在するものは何でも、物質である形の中に存在し、物質の中に主体として存在しないものは無であるからです。
これらのすべてのものの対応が、天界とあることは、例えば、人間のすべてのものと天界のすべてのものの対応について扱われている章(87-102)から明らかにすることができます。
この対応は決して満たされることができません、一つの四肢に対応する天使の仲間の数が多ければ多いほど、ますます天界は完全になるからであり、天界の中のすべての者の完全性は数の多いことにしたがって増大するからです。
天界の中で完全性が数の多いことにしたがって増大する理由は、そこのすべての者に一つの目的があり、そしてすべての者が一致してその目的を見るからです――この目的とは共通の善です。その共通の善が支配するとき、さらにまたその善から個々の善があり、善の個々のものから共通の善があります。このことは、主が天界の中のすべての者をご自分に向けさせられ(前の123番参照)、そのことによってご自分の中で一つであるようにされるからです。
多くの者の一致と同意は、特にこのような起源からであり、このようなきずなの中で、完全さを生み出すことは、だれでも少しばかり照らされた理性から、認め、知ることができます。

天界と地獄

418◀︎目次▶︎420

419.  さらにまた天界で人間の住んでいる範囲と住んでいない範囲を見ることが与えられ、私は、数万の地球が存在し、それぞれの地球に私たちの地球の人間ほどに多くの人間がいたとしても、住まれていない天界の範囲は永遠に満たされることができないほど大きかったことを見ました。(このことについても小著『宇宙間の諸地球について』168番参照)。

天界と地獄

419◀︎目次▶︎421

420.  みことばの何らかの箇所をその文字どおりの意味にしたがって理解して、天界は無辺でなく、小さいという見解をもつ者がいます――例えば、「貧しい者だけが、天界の中に受け入れられ、さらに、選ばれた者でないなら受け入れられない、教会内の者だけで、外の者は受け入れられず、主がとりなしをされた者だけが受け入れられる、天界は満たされると閉ざされ、その時も予定されている」とみことばに言われているからです。
しかし、彼らは、天界は決して閉ざされず、何らの時も予定されていないで、数も限られていないこと、また善と真理の生活の中にいる者が「選ばれた者」と呼ばれ,善と真理の知識をもたないけれども、それらを願う者が「貧しい者」と呼ばれ(*1)、それらの者が、その願いから「飢えている者」と呼ばれることを知りません(*2)
みことばの無理解から、天界が小さいという見解を受け入れた者は、天界が一つの場所にあり、そこにすべてのものが集まっているとしか知りません――そのときそれでも、天界は無数の社会から成り立っています(前の41~50番参照)――また、天界はそれぞれの者に直接の慈悲から与えられ、こうして、ただ意のままに入るのが許され、受け入れられるとしか知りません。主は慈悲から、だれでもご自分を受け入れる者を導かれ、主を受け入れる者とは愛と信仰の教えである神的な秩序の律法にしたがって生きる者であることも理解していません。また慈悲とは、世で幼児の時からいのちの最後の時まで、その後、永遠に主により導かれることを意味しています。
そこで、人間はだれもが天界へと生まれていて、世で天界を自分自身に受け入れる者は天界に受け入れられ、受け入れない者は締め出されることを知らなくてはなりません。


*1 選ばれた者は、善と真理の生活にいる者である(3755, 3900)。
慈悲について理解されているように、その慈悲から天界に選ばれ、受け入れられることはなく、生活にしたがって〔天界に選ばれ、受け入れられる〕(5057, 5058)。
主の直接の慈悲は存在しないが、間接のものは存在する。すなわち、主の戒めにしたがって生きる者は慈悲から世で絶えず導かれ、その後、永遠に導かれることである(8700, 10659)。
*2 みことばの中の「貧しい者」によって霊的に貧しい者が意味される。その者は真理について無知の中にいるが、それでも教えられることを願う者である(9209, 9253, 10227)。
彼らについて「飢えること」と「渇くこと」が言われ、それは善と真理の知識を願うことであり、それによって天界と教会の中へ導き入れられる(4958, 10227)。

天界と地獄

420◀︎目次▶︎422

霊たちの世界 と 人間の死後の状態

44 霊たちの世界とは何か

421. 霊たちの世界は天界ではなく、地獄でもなく、その二つのものの間の中間の場所または状態です――というのは、死後、人間は最初にそこにやって来て、その後、時が過ぎてから、世での自分の生活にしたがって、天界へ上げられるかあるいは地獄へ投げ込まれるからです。

天界と地獄

421◀︎目次▶︎423

422. 霊たちの世界は天界と地獄の間の中間の場所であり、そしてまた人間の死後の中間の状態です――中間の場所であることは、地獄が下にあり、天界が上にあることから、また中間の状態であることは、人間がそこにいる間まだ天界の中にも地獄の中にもいないことから、私に明らかとなりました。
人間のもとの天界の状態は彼のもとに善と真理の結合があることであり、地獄の状態は彼のもとに悪と虚偽の結合があることです。
人間霊〔人間的な霊〕のもとで善が真理と結合する時、前述したように、その結合が彼のもとに天界であるので、天界に行きます――けれども、人間霊のもとで悪が虚偽と結合する時、その結合が彼のもとに地獄であるので、地獄に行きます。
この結合は霊たちの世界で行なわれます、その時、人間は中間の状態にいるからです。
あなたが理解力と意志の結合と言っても、あるいは真理と善の結合と言っても、同じです。

天界と地獄

422◀︎目次▶︎424

423. ここで最初に、理解力と意志の結合について、そしてその結合が善と真理の結合と同じであることについていくつか述べておかなくてはなりません、その結合が霊たちの世界で行なわれるからです。
人間には理解力があり、意志があります。理解力は真理を受け入れ、それから形作られます。そして意志は善を受け入れ、それから形作られます。それゆえ、人間が理解し、そこから考えるものはどんなものでも〔人間は〕真理と呼び、人間が意志し、それから考えるものはどんなものでも〔人間は〕善と呼びます。
人間は理解力から考え、ここから真理であるものを、また善であるものを把握することができます。しかしそれでも、それを欲さないで、行なわないなら、それを意志から考えていません――それを欲し、意志から行なう時、それは理解力の中と同じく意志の中にあり、したがって人間の中にあります。なぜなら、人間は理解力だけでも、また意志だけでもつくられないで、理解力と意志が一緒になってつくられるからです。それゆえ、両方の中にあるものが人間の中にあり、彼のものとされます――理解力の中にだけあるものは確かに人間のもとにありますが、それでも彼の中にありません。彼の単なる記憶の事柄であり、記憶の中の知識の事柄であり、それが自分自身の外にあって、自分自身の中になくても、他の者とともにいるときそれについて考えることができます。このように、それについて話し、推論し、それにしたがって情愛と振る舞いを偽り装うこともできます。

天界と地獄

423◀︎目次▶︎425

424. 人間が理解力から考えることができ、それと同時に意志から考えないことができることは、改心することができるという目的のために備えられています。なぜなら、人間は真理によって改心され、真理は、前述したように、理解力に属すものであるから――というのは、人間は意志に関してすべての悪の中に生まれているからです。ここから、人間は自分自身からでは他の者に善を欲せず、自分自身にだけ善を欲します。自分自身にだけ善を欲する者は、他の者に生じる不幸を喜び、自分自身のために好都合なときはなおさら喜びます。なぜなら、他の者の所有物すべてを、名誉であれ、あるいは富であれ、奪って自分自身のものにしようとし、このことができればできるほど自分自身の中で喜ぶからです。
この意志が矯正され、改心されるために、真理を理解し、真理によって意志から湧き出る悪の情愛を支配することが人間に与えられています――ここから、人間は理解力から真理を考え、それらを話すことも、またそれらを行なうこともできます。しかしそれでも、真理を自分自身から、すなわち、心から、欲し、行なう以前に、真理を意志から考えることはできません――人間がこのようなものである時、理解力から考えるものは彼の信仰に属し、意志から考えるものは彼の愛に属します。それゆえ、その時、彼のもとで、信仰と愛は理解力と意志のように結合しています。

天界と地獄

424◀︎目次▶︎426

425. そこで、理解力に属す真理が意志に属す善と結合していればいるほど、したがって、人間が真理を欲し、ここからその真理を行なえば行なうほど、それだけ人間は自分自身の中に天界をもちます、なぜなら、前述のように、善と真理の結合が天界であるからです。しかし、理解力に属すものである虚偽が、意志に属すものである悪と結合すればするほど、それだけ人間は自分自身の中に地獄をもちます、なぜなら、虚偽と悪の結合が地獄であるからです。けれども、理解力に属す真理が意志に属す善と結合していなければ、それだけ人間は中間の状態にいます。
今日のほとんどの人間はそれぞれ、知識から、また理解力から真理を考えて、それらの真理を多く行なうか、あるいはわずかに行なうか、あるいは何も行なわないか、あるいは悪の愛とそこからの信念から、それらの真理に反して行なうような状態の中にいます。それゆえ、その者に天界かまたは地獄があるために、死後、最初に霊たちの世界に連れて行かれ、そこで天界に上げられることになる者に善と真理の結合が行なわれ、地獄に投げ込まれることになる者に悪と虚偽の結合が行なわれます。
なぜなら、天界でも地獄でも、分裂した心をもつことは、すなわち、理解することと意志することが別ものであることは、だれにも許されないで、意志することは理解し、理解することは意志しなければならないからです――それゆえ、天界では、善を意志する者は真理を理解し、地獄では、悪を意志する者は虚偽を理解しなくてはなりません――それゆえ、善い者のもとの虚偽は取り去られ、彼らの善に適合し、一致する善が与えられます。そして、悪い者のもとの真理は取り去られ、彼らの悪に適合し、一致する虚偽が与えられます。
これらから、何が霊たちの世界か明らかです。

天界と地獄

425◀︎目次▶︎427

426. 霊たちの世界には、すべての者が最初にそこに集まり、そこで調べられ、準備させられるので、おびただしい数の霊がいます。
そこの霊の存続期間は定まっていません。ある者は、そこに入るだけで〔滞在せずに〕、天界に上げられるか地獄に投げ込まれるかします。ある者は、そこに数週間だけとどまります。数年とどまる者もいます、しかし三十年を越えることはありません――存続期間の違いは、人間の内的なものと外的なものが対応するか対応しないかによって起こります。
しかし、人間がその世界の中である状態から他の状態にどのように連れて行かれ、準備させられるかは、このあと述べます。

天界と地獄

426◀︎目次▶︎428

427. 人間は死後、霊たちの世界にやって来るとすぐに、主により完全に区別されます――悪い者は直ちに地獄の社会に結びつけられます、世で支配愛に関してその社会にいたのです。そして、善い者は直ちに天界の社会に結びつけられます、愛・仁愛・信仰に関して世でもまたその社会にいたのです。
しかし、このように区別されても、それでもその世界の中で、いのちが身体の中にあったときの友や親しかった者は、願う時、特に妻と夫は、また兄弟と姉妹は、出会い、互いにいろいろなことを話し合います。
私は、父親が六人の息子と語り、彼らを認めたのを見ました。そして、自分の親類や友とともにいる他の多くの者を見ました。しかし、世での生活から性格(アニムス)が異なっていたので、しばらくしてから別れました。
しかし、霊たちの世界から天界へ、また地獄へ行く者は、似た愛からの似た性格(アニムス)の者でないかぎり、彼らはその後、もう互いに見ることも、互いに知り合うこともありません。
天界と地獄ではなく、霊たちの世界で、お互いを見ることの理由は、霊たちの世界にいる者は、ある状態から他の状態の中へと、いのちが身体の中にあったときと似た状態に導かれるからです。しかし、その後、すべての者は自己愛が支配している状態と似た不変の状態にされ、その中ではお互いを愛の類似性だけから知ります。なぜなら(前の41-50番に示されたように)、似ているものは結合し、似ていないものは分離するからです。

天界と地獄

427◀︎目次▶︎429

428. 霊たちの世界は、人間のもとで天界と地獄の間の中間の状態であるように、そのようにまた中間の場所です。下に地獄があり、上に天界があります。
すべての地獄はその世界に対して閉ざされています。ただ岩のような穴や割れ目によって、また側面にある裂け目によってだけ開かれています。それは許可なしにだれかが外に出ないように見守られていて、何かの必要から求められると許可されますが、そのことについてはこのあとで述べます――天界もまたあらゆる側が囲まれていて、天界の何らかの社会への通路も、狭い道を通る以外に開いていません、その入り口もまた見守られています。
それらの出口や入り口は、みことばの中で、天界と地獄の「門」や「入り口」と呼ばれるものです。

天界と地獄

428◀︎目次▶︎430

429. 霊たちの世界は、山と岩の間にあって、あちこちで入り込んだり、高くなったりしている谷間のように見えます。
天界の社会への門や入り口は見えないで、ただ天界へ準備された者にだけ見え、他の者には見つけられません。霊たちの世界から〔天界の〕それぞれの社会へ行く一つの入り口とその先に一つの道があり、それは上り道であり、多くに分かれています。
地獄への門や入り口も入ることになっている者以外には見えません。開かれる時、彼らに、うす暗くてすすで汚れたような洞穴が開いて、深淵へと斜めに下へ向かっているのが見え、そこに再び多くの入り口があります――その洞穴を通して、忌まわしくていやな悪臭が発散されており、善い霊は、いやでたまらず、その臭いから逃げ去ります、しかし、悪い霊は快いので欲しがります。なぜなら、世でそれぞれの者が自分自身の悪を喜んだように、死後、その者の悪に対応する悪臭を喜ぶからです。このことは、カラス・オオカミ・ブタのような捕食性の鳥や野獣に比較することができます、それらの動物は死肉や糞の臭いを認めると、飛びかかり、走り寄ります。
私は、ある者が天界から流れ出る発散気に打たれたとき、内部の苦痛からかのように彼が声高に叫ぶのを聞きました。そして、彼が地獄から流れ出る発散気に打たれたとき、静かになり、うれしくなりました。

天界と地獄

429◀︎目次▶︎431

430. それぞれの人間のもとにもまた二つの門があり、その一つは地獄に向けて、悪とそこからの虚偽に開いています。もう一つの門は天界に向けて、善とそこからの真理に開いています。
地獄の門は悪の中とそこから虚偽の中にいる者に開かれていて、上から隙間を通るほどの、いくらかの光が天界から流入し、その流入によって人間は考え、推論し、話すことができます。けれども、天界の門は善とそこからの真理の中にいる者に開かれています。
というのは、人間の理性的な心へ導く二つの道があるからです。高いあるいは内なる道は、それを通って主から善と真理がやって来ますが、低いあるいは外なる道は、それを通って地獄から悪と虚偽が忍び込みます。
理性的な心そのものは真ん中にあって、そこへそれらの道が向かっています。ここから、天界から光が入れば入るほど、それだけ人間は理性的です。けれども、入らないなら、どれほど自分自身が理性的に見えても、理性的ではありません。
さらにまた、人間に天界や地獄とどのような対応があるか知られるために次のことが言われました――
人間の理性的な心が形作られている間、その心は霊たちの世界に対応し、その心の上にあるものは天界に、下にあるものは地獄に対応する――天界に向けて準備されている者には、その上にあるものが開かれ、彼のもとへ流入する悪と虚偽に対して、その下にあるものは閉ざされる。しかし、地獄に向けて準備されている者には、その下にあるものが開かれ、彼のもとへ流入する善と真理に対して、その上にあるものは閉ざされる――ここから、前者は自分自身の上しか眺めることができない、すなわち、天界に目を向ける。後者は自分自身の下しか眺めることができない、すなわち、地獄に目を向ける。
自分自身の上を眺めることは、主に目を向けることです、その方は共通の中心であられるので、天界のすべての者がそこへ目を向けます――しかし、自分自身の下を眺めることは、主から後ろ向きに目を向けることです、地獄のすべて者はそこへ目を向け、向かいます(前の123, 124番参照)。

天界と地獄

430◀︎目次▶︎432

431. これまで、霊と呼んだ者は霊たちの世界にいる者を、しかし、天使と呼んだ者は天界にいる者を意味します。

天界と地獄

431◀︎目次▶︎433

45 それぞれの人間は自分の内的なものに関して霊である

432. 正しく熟考する者は、身体は物質的であるので〔身体が〕考えるのではなく、霊魂は霊的であるので〔霊魂が〕考えている、と知ることができます。
人間の霊魂は、その不滅について多くの者が書いていますが、彼の霊です。というのは、霊はそのすべてに関して不死であるからです。この霊もまた身体の中で考えるものです。なぜなら、霊は霊的なものであり、霊的なものは霊的なものを受け入れ、霊的に生きるからであり、そのことは考えることと意志することです。
そこで、身体の中に現われるすべての理性的ないのちは、霊的なものであり、身体に属すものではまったくありません――前に言われたように、身体は物質的であるからです。そして物質的なものは、身体に固有のものであり、霊に付加され、ほとんど霊に接合しています、その理由は、すべてのものが物質的であり、それ自体にいのちを欠いている自然界の中で、人間の霊が生きて、役立ちを実行することができるためです。
また、物質的なものは生きていないで、ただ霊的なものだけが生きているので、何であれ人間のもとで生きているものは彼の霊であり、身体は生きて動く力をもつ道具そのもののように、単に霊に仕えるものであることを明らかにすることができます――確かに、道具について、働く、動く、または打つ、と言われます、それでも、働き、動き、打つ者がその道具によってそうするのであって、道具が働き、動き、打つ、と信じることは感覚の欺きです。

天界と地獄

432◀︎目次▶︎434

433. 身体の中で生きていて、いのちから働き、感じるすべてのものは、もっぱら霊に属すものであり、身体に属すものは何もないので、霊は人間そのものであることがいえます。あるいは同じことですが、本質的に見られた人間は霊です、そしてまた人間と同じ形の中に見られます――なぜなら、何であれ人間の中で生き、感じるものは彼の霊であり、人間の中でその頭から足の裏まで、生きていないもの、感じないものは何もないからです。ここから、身体がその霊から分離されるとき、それは死と呼ばれますが、やはり人間は人間としてとどまり、生きています。
私は天界から、「死んだ者は、生き返る前に、棺台の上に横たわって、自分の冷たい身体の中でも考えています。その者は、自分が今なお生きている、としか知りません。しかし、身体に固有のものである物質のどんな小部分すら動かすことができないという相違があります」と聞きました

天界と地獄

433◀︎目次▶︎435

434. 人間は、主体(対象)がないなら、考えることも意志することもできません、実体(物質)は主体から、また主体の中にあります。実体(物質)的な主体なしに存在するようになると考えられるものは無です。
そのことは、人間が視覚の主体である器官がなくて見ること、聴覚の主体である器官がなくて聞くことができないことから知ることができます。視覚と聴覚はそれらの器官がなくては無であり、存在もしません。
このようにまた、内なる視覚である思考と内なる聴覚である知覚も、これらが実体の中に、また実体から存在しなかったなら、まったく存在しません、それらは器官の形であり、その主体です。
これらから、人間の霊は身体から分離されたとき、その身体の中にあったときのように、等しく形の中に、人間の形の中に存在して、等しく感覚器官と感覚を享受すること、また目のいのちのすべてのもの、耳のいのちのすべてのものは、一言でいうと、人間に属す感覚のいのちのすべてのものは、身体に属すものではなく、身体の中の、身体の最も個々のものの中の霊に属すものであることを明らかにすることができます。
ここから、霊は人間と等しく、見、聞き、感じ、身体から解放された後は、自然界の中でなく、霊界の中でそうします。霊が身体の中にあったとき自然的に感じたものは、付け加えられていた物質を通してでしたが、その時やはり、考え、意志する中で同時に霊的に感じていたのです。

天界と地獄

434◀︎目次▶︎436

435. これらのことを述べた理由は、本質的に見られた人間は霊であること、また自然的で物質的な世界での働きのためにその霊に付け加えられている身体は人間ではなく、その霊の単なる道具であることを理性的な人間に納得してもらうためです。
けれども、正しい推論は、多くの者には理解されないで、反対のものを確信した者により、感覚の欺きからの誤った推論によって疑わしいものに変えられてしまうので、経験から確信するほうが望ましいでしょう。
正反対のものを確信した者によくあることですが、「獣も同じように生き、感じ、このように獣にもまた人間と同じく霊的なものがある。それでもその霊的なものは身体とともに死ぬ」と考えています――しかし、獣の霊的なものは、人間の霊的なもののようではありません。人間には最内部のものがあり、その中に神性(神的なもの)が流入し、それ自体を高揚させ、そのことによってそれ自体に神性を結合させますが、獣にはそれがないからです。ここから獣に比べて、人間は、神について、天界と教会のものである神性について考え、その神性の中で神を愛し、こうしてその方と結合することができます。神性と結合できるものは、消し散らすことができません――しかし、神性と結合できないものは、消し散らされます。
獣と比べて、人間にある内的なものについては前に扱いました(39)。欺きに捕らえられ、知識の欠如そして知性が開かれていないために、多くの者にこれらのことについて理性的に結論することができないことが生じており、その欺きが追い払われることが重要であるので、再び思い出さなくてはならないことばがあります。
それらは次のものです――

「私は、三つの天界の天使について、あるアルカナ(秘義)を記します。段階について(このことについては38)理解しなかったので、以前にはだれの心の中にも入ってきたことのないものです。すなわち、それぞれの天使、そしてまたそれぞれの人間のもとに、最内部また最高の段階、または最内部のものもまたある種の最高のものがあり、その中に主の神性が最初にまたは最も近く流入して、そこから、そのもとに継続する秩序の段階にしたがって他の内的なものを配列することです。
この最内部のものまたは最高のものは、天使や人間へ入る〝主の入り口〟、そして彼らのもとのまさに〝主の住居〟そのもの、と呼ばれることができます。
この最内部のものまたは最高のものによって、人間は人間であり、獣から区別されます、なぜなら、獣にはないからです。
ここから、人間は、動物と異なって、心(mens)とアニムス(外的な心)に属す内的なものすべてに関して、主により、主ご自身へと上げられることが、その方を信じること、その方に愛を感じること、こうしてその方を見ること、また知性と知恵を受け入れること、また理性から話すことができます。永遠に生きることもまたここからです。
けれども、主により何がその最内部に配列され、備えられるかは、天使の思考を超えており、その知恵を上回っているので、天使のだれかの知覚の中へ、はっきりと流入することはありません」。〔これは39番です〕

天界と地獄

435◀︎目次▶︎437

436. 人間は自分の内的なものに関して霊であることは、私に多くの経験によって知ることが与えられており、もし私がそのすべてのものを提示するなら、よく言われるように、〝紙面を満たす〟でしょう。
私は霊として霊と話し、身体の中の人間として彼らと話しました。私が霊として彼らと話したとき、彼らは私が霊そのものであり、彼らのように人間の形をしているとしか知りませんでした。私が霊として話したとき、私の身体の物質は見えなかったので、私の内的なものがこのように彼らの前に見えたのです。

天界と地獄

436◀︎目次▶︎438

437. 人間が自分の内的なものに関して霊であることは、身体が分離した後、そのことは死ぬときに起こりますが、それでもその後、人間は以前のように生きることから明らかです。
このことを確信するために、いのちが身体の中にあったとき私がよく知っていたほとんどすべての者と話すことが私に与えられました。ある者とは数時間、ある者とは数週間および数か月、またある者とは数年間であり、このことの理由は特に、私が確信し、証言するためでした。

天界と地獄

437◀︎目次▶︎439

438. これらのことに付け加えることが許されています。それぞれの人間は、身体の中に生きている時でも、自分の霊に関して他の霊とともに、霊によって善い者は天使の社会の中に、また悪い者は地獄の社会の中にいること、それでもそのことを知らないこと、またその同じ社会に死後にやって来ることです。
このことはしばしば、死後、霊の間にやって来る者に言われ、示されました。
世に生きているとき、確かに、人間は霊の社会で霊として見られません、その理由は、そのとき自然的に考えているからです。けれども、身体から切り離されて考える者は、その時、霊の中にいるので、時々、霊の社会の中で見られ、見られるとき、そこにいる霊からはっきりと見分けられます、というのは、その者は瞑想しながら歩き、黙っていて、他の者を見もしないし、見てもいないようであるからです。そして何らかの霊がその者に話しかけると直ぐに消えます。

天界と地獄

438◀︎目次▶︎440

439. 人間は内的なものに関して霊であることが説明されるために、私は、人間が身体から導き出されるとき、どのようになるか、また霊により他の場所へ連れ去られるとき、どのようになるか、経験から語ることにします。

天界と地獄

439◀︎目次▶︎441

440. 最初のもの、すなわち、〝身体から導き出されること〟はこのようです――人間は、眠りと目覚めの中間のある状態に導かれ、その状態の中にいるとき、完全に目覚めているとしか知りません。すべての感覚は、視覚と同じく聴覚も、また驚くべきことに触覚も、最高に身体が目覚めているように目覚めています。それらはその時、身体が目覚めの中で存在することのできるどんな場合よりもさらに敏感です――その状態の中でもまた霊と天使が生きいきと見られ、聞かれ、また奇妙なことに、触れられ、その時、ほとんど、身体に属すものは何も介在しません。
「身体から導き出される」〔エゼキエル書 3:12, 13参照〕、「身体の中にあるいは身体の外にいるか知らない」〔コリントⅡ 12:2参照〕と言われているものは、この状態です。
私はこの状態の中に、私がただそれがどのようなものであるか、同時に霊と天使が、人間もまた、霊に関して、身体から導き出されている時、すべての感覚を享受していることを知るために、ただの三度か四度だけ入れられました。

天界と地獄

440◀︎目次▶︎442

441. もう一つのものである〝霊により他の場所へ連れ去られること〟について、生きいきとした経験によって、私に、それがどんなものであるか、またどのように行なわれるか示されました、しかし、このことはただの二度か三度だけでした。その経験を一つだけ示します。
都市の街路を、また平原を通って、歩きながら、その時、霊と話してもいましたが、私は自分がいつものように目覚めて、「見ている、間違えないで歩いている」としか知りませんでした。その間、私は、木立ち・川・宮殿・家・人間、また多くものを見ながら、幻の中にいました。
しかし、このように数時間、歩いた後で、突然、私は身体の視覚の中にいて、自分が他の場所にいることに気づきました。そのことに非常に驚き、私が、「霊により他の場所に連れ去られる」〔列王記Ⅰ18:12、19:8、使徒8:39参照〕と言われている者のような状態の中にいたことを認めました。なぜなら、この状態が続く時、道について、これが何マイルあったにしても何も考えず、時間についても、数時間あるいは数日であったにしても、考えることはないからです。疲労もまた少しも感じられません。さらにまたその時、自分自身の知らない道を通って、それでも定められた場所へ間違いなしに導かれます。

 

天界と地獄

441◀︎目次▶︎443

442. しかし、人間のこれらの二つの状態は、内的なものの中にいるときの、あるいは同じことですが、霊の中にいるときの状態であり、異常なものであって、教会内で知られているので、それがどんなものであるか私が知る目的のためにだけ、私に示されました。しかし、霊と話し、彼らのひとりであるかのように彼らとともにいることは、身体がまったく目覚めた中でも与えられ、このことが今では数年間も続いています。

天界と地獄

442◀︎目次▶︎444

443. 人間は自分の内的なものに関して霊であることは、前に「天界と地獄は人類から存在する」ことについて扱われているところに言われ、示されたものから(311-317)、さらに証明することができます。

天界と地獄

443◀︎目次▶︎445

444. 人間が自分の内的なものに関して霊であることは、その思考と意志に属すものに関して霊であることを意味します。これらは内的なものそのものであり、人間を人間であるようにするものであり、内的なものに関してどのようであるかによって、人間もそのようなものであるからです。

天界と地獄

444◀︎目次▶︎446

46 人間は死から生き返り、永遠のいのちの中へ入る

445. 身体がもはや霊界から存在する霊の思考と情愛に対応する機能を自然界で果たすことができない時、人間は死ぬと言われます。
これは肺の呼吸運動と心臓の収縮運動が止まるときに起こります。
しかし、それでも人間は死にません、世で彼に役立った身体から分離されるだけであり、人間自体は生きているからです。
人間自体が生きていると言われるのは、人間は身体からでなく霊から人間であるからであり、人間の中の霊が考え、その思考が情愛とともに人間をつくるからです。
ここから、人間は死ぬとき、単に一つの世界からもう一つの世界へ渡るだけのことが明らかです。
ここから、みことばの中で「死」は、その内意で、生き返りと、いのちの継続を意味します(*1)


*1 みことばの中の「死」は生き返りを意味する、人間は死んでも、そのいのちは存続するからである(3498, 3505, 4618, 4621, 6036, 6221)。

 

天界と地獄

445◀︎目次▶︎447

446. 呼吸と心臓の運動に霊の最内部からの伝達があります、その思考が呼吸に、愛に属す情愛が心臓に伝達されます(*2)。それゆえ、身体の中でこれらの二つの運動が止まるとき、直ちに分離があります。
肺の呼吸と心臓の鼓動である二つの運動は、きずなそのものであり、そのきずなが破られると、霊はそのままに残り、その時、身体は霊のいのちがないので、冷たくなり、腐ります。
霊の最内部からの伝達が人間の呼吸と心臓の運動にあることは、生命のすべての運動は、全般的にだけでなく、すべての部分でもまた、呼吸と心臓の運動によるからです(*3)


*2 心臓は意志に対応し、そのように愛に属す情愛にも対応し、肺の呼吸は理解力に、そのように思考に対応する(3888)。
ここから、みことばの中の「心臓(cor)」は、意志と愛を意味する(7542, 9050, 10336)。
「霊魂」は、理解力・信仰・真理を意味する。ここから「霊魂からと心(cor)から」は、理解力・信仰・真理から、また意志・愛・善からを意味する(2930, 9050)。
〝最大の人〟すなわち天界と、心臓や肺の対応について(3883-3895)。
*3 心臓の鼓動と肺の呼吸は全身を支配しており、相互にどこへでも流入している(3887, 3889, 3890)。

天界と地獄

446◀︎目次▶︎448

447. 人間の霊は、分離の後、身体の中にしばらくの間とどまりますが、心臓の全面的な停止よりも長く続くことはなくて、人間が死ぬ病気の状態にしたがって変化します。なぜなら、心臓の運動は、長い間続く者も、また長く続かない者もいるからです。
この運動がやむと直ぐに人間は生き返ります。しかし、このことは主おひとりにより行なわれます。
人間の霊を身体から連れ出すことと霊界へ導入することが生き返りによって意味され、このことは一般的に「復活(よみがえり)」と呼ばれます。
人間の霊が身体から分離されるのは心臓が止まるときよりも前でないことの理由は、心臓は愛のものである情愛に対応し、愛は人間のいのちそのものであり、愛からそれぞれに生命力の熱があるからです(*4)。それゆえ、この結合(*注)が続くかぎり、それだけの間、対応があり、ここから身体の中に霊のいのちがあります。


*注 この「結合」をS. Nobleは「運動」と読み替えています。
*4 愛は人間のいのちのエッセ(存在)である(5002)。
愛は霊的な熱であり、ここから人間の活力そのものである(1589, 2146, 3338, 4906, 7081-7086, 9954; 10740)。
情愛は愛の連続したものである(3938)。

 

天界と地獄

447◀︎目次▶︎449

448. どのように生き返りが行なわれるかは、私に言われただけでなく、生きいきとした経験からも示されました。どのようなものが行なわれるか私が十分に知るようにとの理由から、私はまさにそのことを経験しました。

天界と地獄

448◀︎目次▶︎450

449. 私は身体の感覚に関して無感覚の状態に、このようにほとんど死の状態の中へ導かれましたが、それでも思考とともに内的に完全ないのちにとどまりました。死から生き返る者に起こり、起こったことを私が知覚して、それらの記憶を保有するためにです。
私は、身体の呼吸がほとんど取り去られ、希薄で音を伴わない身体の呼吸と結合した霊のものである内的な呼吸が残っていることを知覚しました。
天的な王国は人間の心臓に対応するので、その時、はじめて心臓の鼓動に関してその王国と伝達が与えられました(*5)――さらにまた、私はそこからの天使を見ましたが、何人かは遠くにいて、ふたりが頭の近くに座りました。そこで、すべてのプロプリウム(固有のもの)の情愛は取り去られましたが、それでも、思考と知覚は残りました。
[2]私はこの状態の中に数時間いました。その時、私のまわりにいた霊は、私が死んでいると思って退きました。防腐処置を施した死体からのような芳香性の匂いも感じられました。なぜなら、天的な天使がいる時、死体からは芳香のようなものが感じられ、霊がこれを感じるとき、近づくことができないからです。このように、はじめて永遠のいのちへ導き入れられるときもまた、人間の霊から悪い霊は押しとどめられます。
頭のそばに座っていた天使は、黙っていて、単にその考えを私に伝達していました。その考えが受け取られるとき、天使は人間の霊が身体から連れ出せるような状態の中にあることを知ります。
彼らの思考の伝達は、私の顔を見ることによって行なわれました。天界の中ではこのように思考の伝達が行なわれるからです。
[3]どのように生き返りが行なわれるかを私が知り、記憶しているために、私に思考と知覚が残っていたので、私は、天使が最初に私の思考について、それはたいてい永遠のいのちについてですが、死ぬ者と似たものであるかどうか調べ、その思考の中に私の心(mens)を保とうと欲していることを知覚しました。
その後、「人間の霊は身体が息絶えるとき、それでも自分の最後の思考の中に保たれ、それから世で共通のあるいは支配していた自分の情愛からのものである思考へ戻ります」と言われました。
特に、私の心のものである内的なものが、このように私の霊が、吸引されること、身体から引き裂かれるようであったことを知覚し、感じることが与えられ、「これは主からなされ、ここから復活がなされます」と言われました。


*5 心臓は主の天的な王国に対応する、けれども、肺は主の霊的な王国に対応する(3635, 3886, 3887)。

天界と地獄

449◀︎目次▶︎451

450. 天的な天使は生き返る者のもとにいるとき、だれをも愛しているので、彼を置き去りにしません。しかし、その霊が天的な天使の交わりの中にいることがこれ以上できないようなものである時、その霊は彼らが去ることを望みます。そのことが起こるとき、主の霊的な王国から天使がやって来て、彼らによってその霊に光の享受が与えられます、なぜなら、以前には何も見ないで、ただ考えるだけであったからです――このことがどのように起こるかもまた示されました。
あたかも左の目の被膜を鼻の中隔(鼻柱)に向けて巻き取るかのようにしている天使が見られました、目を開け、見ることができるようにするためです。霊は、そのようになされるとしか把握しません、しかし外観です。
被膜を巻き取ることが見られるとき、ある輝くものが見えます、しかし、人間が目覚めるとき最初にまぶたを通して見る時のように、ぼんやりしたものです。私には、このぼんやりした輝きは天界の熱からのものに見えました。しかし、その後、「これには変化が伴っています」と言われました。
その後、あるものが顔から優しく巻き取られるのが感じられ、それがなされると、霊的な思考がもたらされます――それを顔から巻き取ることもまた外観です、なぜなら、そのことによって、自然的な思考から霊的な思考にやって来ることが表象されるからです。
天使は、生き返ることにより、愛から味わうもの以外に何らかの観念が生じないように、最高度の働きで用心し、その時、彼に霊であることを言います。
霊的な天使は、光の享受が与えられた新しい霊に、その状態の後で、望むあらゆる親切を常に行ない、来世にあるものについて、把握することができるかぎり教えます。
しかし、もし生き返った者が教えられることを欲しないようなら、その時、彼は天使の交わりから去ることを願います。しかしそれでも、天使は彼を置き去りにしないで、彼が自分自身を天使から引き離します。天使はだれをも愛し、親切にすること、教えること、天界に連れて行くことを何よりも望み、このことに彼らの最高の喜びがあるからです。
その霊が自分自身をこのように引き離すとき、善霊によって迎えられ、彼らとの交わりの中にいるとき、またも彼にあらゆる親切がなされます――しかし、もし彼の生活が世で、善の交わりの中にいることができないようなものであったなら、その時もまた、彼らから去ることを願い、このことが、世での彼の生活と完全に一致するような者と交わって、彼らのもとで自分自身の生活を見いだすまで、それだけ長く、何度もあります。その時、驚くべきことに、世で送ったのと同じような生活を送ります。

天界と地獄

450◀︎目次▶︎452

451. しかし、死後の人間のこの生活(いのち)の始まりは、数日間しか続きません。
けれども、その後、ある状態から他の状態へ、最終的に天界あるいは地獄へ、どのように連れて行かれるか、このあとで述べます。このこともまた多くの経験によって知ることが与えられました。

天界と地獄

451◀︎目次▶︎453

452. 私は、死の三日後に、ある者と話しましたが、その時、前に述べたこと(449, 450)が起こりました。さらにまた、世で私に知られていた三人の者と話し、私はその者たちに、「今、あなたがたの身体が埋葬され、葬式が準備されています」と語りました――私は、「あなたがたが埋葬されています」と言いました。そのことを聞くと、彼らはある種の驚きに襲われながらも、「私たちは生きている。世で自分たちに役立ったものを埋めるだけのことである」と言いました。
その後、彼らは、身体の中に生きたとき、死後にこのようないのちがあることを信じなかったことを、特に教会内のほとんどすべての者が信じなかったことを大いに不思議がりました。
身体の生活(いのち)の後、何らかの霊魂の生活(いのち)があることを世で信じなかった者は、自分自身が生きていることに気づくとき、大いに恥じます――しかし、死後の生活(いのち)がないと確信した者は、似た者たちと仲間になり、信仰の中にいた者から分離されます。そのような者の大部分は、神性もまた否定し、教会の真理を軽蔑するので、地獄のある社会と結び付けられます。ある者が自分の霊魂の永遠のいのちに反することを確信すればするほど、それだけ天界と教会に反することもまた確信するからです。

 

天界と地獄

452◀︎目次▶︎454

47 死後、人間は完全な人間の形をしている

453 人間の霊の形が人間であることは、すなわち、霊が形に関してもまた人間であることは、前に多くの章の中で示されたことから明らかにすることができます。特に、それぞれの天使は完全な形の人間であること(73-77)、それぞれの人間は自分の内的なものに関して霊であること(432-444)、天界の天使は人類から存在すること(311-317)の中で示されています。

 [2]このことは、人間は自分の霊から人間であり、身体からではないこと、身体の形は霊の形にしたがって霊に付け加えられたものであってその逆ではないことから、さらにはっきりと把握することができます。なぜなら、霊は自分の形にしたがって身体を着ているからです――それゆえ、人間の霊は、身体の細部に、それどころか最小のものに働きかけていて、霊により働きかけられない部分は、すなわち、その中で霊が働いていない部分は生きていないほどになっています。

そのようであることは、だれもが、思考と意志は、身体のすべてと個々のものを、その意向に協力しないものは何もなく、また協力しないものを身体の部分ではないように、またその中にいのちがないかのように投げ出してしまうようにして、完全に動かすことだけからも知ることができます――思考と意志は、人間の霊的なものに属し、身体には属していません。

[3]人間には、身体から解き放たれた後の霊が、また他の人間の中でも、霊が人間の形で見えないのは、身体の視覚の器官が、すなわち、その目が、世で生きているかぎり、物質的であるからです。物質的なものは物質的なものしか見ませんし、霊的なものは霊的なものしか見ません。それゆえ、目の物質的なものがおおわれて、〔その目の〕霊的なものと一緒に働くことが奪われる時、〔霊的な目が開かれて〕霊はその形の中に、人間の形の中に見られます。霊界にいる霊だけでなく、今なお他の者の身体の中にいる霊もまた見られます。

天界と地獄

453◀︎目次▶︎455

454. 霊の形が人間の形であることは、人間は霊に関して天界の形へ向けて創造されているからです。なぜなら、天界とその中の秩序のすべてのものは、人間の心(mens)に属すものの中に集められているからです(*1)。ここから、人間に知性と知恵を受ける能力があります。
知性と知恵を受ける能力と言っても、あるいは天界を受ける能力と言っても同じことです。そのことは、「天界の光と熱」(126-140)、「天界の形」(200-212)、「天使の知恵」(265-275)、天界はその形に関して全体と部分で人間を表わすことの章(59-77)の中に、またこのことは主の神的人間性そのものから天界とその形があることであり(78-86)、これらから明らかにすることができます。


*1 人間は、その中に神的な秩序のすべてのものが集められており、創造から形の中に神的秩序がある(4219, 4222, 4223, 4523, 4524, 5114, 5368, 6013, 6057, 6605, 6626, 9706, 10156, 10472)。
どれだけ人間が神的秩序にしたがって生きるかによって、それだけ来世で完全で美しい人間として見られる(4839, 6605, 6626)。

天界と地獄

454◀︎目次▶︎456

455. ここで言われたこれらのことは、理性的な人間なら理解することができます。なぜなら、原因の結びつきから、また秩序にある真理から見ることができるからです。しかし、理性的でない人間は、それらを理解しません。
理解しないことには多くの理由があります――そのおもなものは、彼が真理としている自分の虚偽に反しているので、それを欲しないことです。それゆえ、理解することを欲しない者は天界への道を自分の理性に閉ざしています。それでもやはり、その道は、意志が抵抗さえしなければ開かれることができます(前の424番参照)。
人間は欲しさえすれば、真理を理解し、理性的であることができます、そのことは、私に多くの経験によって示されました。
世で神性と教会の真理を否定し、自分自身にそれらに反したことを確信して、理性のない者となった悪い霊が、しばしば、神的な力によって、真理の光の中にいる者たちの方へ向けられました。その時、天使のように、すべてのものを理解し、真理であることを、またすべてのことを理解したことも告白しました。
しかし、自分自身に戻ると、彼らの意志に属す愛へ向きを変えると、すぐさま、何も理解しないで、正反対のことを話しました。
[2]さらにまた私は、地獄のある者が、「〔自分たちの〕行なっていることが悪であり、考えていることが虚偽であることを知り、認知している。しかし、自分たちの愛の快さに、したがって意志に抵抗できない。その意志が自分たちの思考を、悪を善のように見ることへ、虚偽を真理のように見ることへと導く」と言っているのを聞きました。
ここから、悪からの虚偽の中にいる者は理解することができ、したがって理性的であることができても、彼らは欲しないことが明らかになりました。彼らが欲しないことの理由は、彼らが真理よりも虚偽を愛したからであり、その虚偽は彼らがそれらの中にいる悪と一致するからです。
愛することと意志することは同じです。なぜなら、人間は意志するものを愛し、愛するものを意志するからです。
[3]人間は意志さえすれば理解することができるような状態にあるので、私に、教会と天界のものである霊的な真理が与えられ、さらにまた理性で確信するようになりました。この理由は、そのように、多くの者のもとで理性を閉ざしている虚偽が、理性的なものによって追い払われ、こうしておそらく少しは目が開かれるようにするためでした。なぜなら、霊的な真理を理性的なものによって確信することは、真理の中にいるすべての者に与えられているからです。
照らされた理性から、みことばの中に真理を見ないなら、だれが、みことばをその文字どおりの意味から理解するでしょうか?
そうでなければ、同じみことばから、こんなにも多くの異端はどこからでしょうか? (*2)


*2 みことばからの教会の教えの真理から、原理は導かれ、最初に承認されなくてはならず、その後、記憶知に相談することが許されている(6047)。
このように、記憶知によって理性的にそれらを確信することは信仰の真理について肯定の中にいる者に許される、けれども、否定の中にいる者には許されない(2568, 2588, 4766, 6047)。
霊的な真理から理性的に自然的な真理である記憶知の中に入ることは神的秩序にしたがっており、後者から前者へ入ることは神的秩序にしたがっていない。自然的なものの中への霊的な流入は存在する、けれども、霊的なものの中への自然的なまたは物質的な流入は存在しないからである(3219, 5119, 5259, 5427, 5428, 5478, 6322, 9109, 9110)。

天界と地獄

455◀︎目次▶︎457

456. 身体から解放の後、人間の霊が人間であり、似た形をしていることは、多年にわたる日々の経験によって私に明らかなものとなっています。なぜなら、私は千回も彼らを見、聞き、彼らと話し、また、このようであることを信じないことについて、世の中の人間によって、信じている者は学識のある者から単純な者のように見なされることについても話したからです。
霊たちは、このような無知が今なお世界の中で続くこと、教会内で最大に続いていることを心から悲みました。
[2]彼らは、「しかし、この信仰は特に学識のある者から広がった。彼らは霊魂について身体の感覚から考え、そこから霊魂について単なる思考のような観念であるとしか理解しなかった。そのとき霊魂は、その中に何らかの主体なしに、またそこから眺められるとき、何か飛び去りやすい純粋なエーテルのようなものであって、それは身体が死ぬとき、消散せざるをえないものである――しかし、教会では、みことばから霊魂の不滅が信じられているので、思考のようなものである何か生命力のあるものを付加し、しかしそれでも、人間にあるような感覚的な能力は再び身体と結合する以前には付加させなかった」と言いました。
この見解に基づいて、復活についての教えが、また最後の審判が行なわれる時、霊魂と身体の結合がなされるという信仰があります。ここから、だれかが、教えから、また同時に仮説から霊魂について考えるとき、それが霊であり、人間の形をしていることをまったく理解しなくなります。
付け加えれば、今日のほとんどの者は、霊的なものが何であるか知らず、ましてすべての霊や天使である霊的なものが何らかの人間の形をしていることを知りません。
[3]ここから、世からやって来るほとんどすべての者が大いに驚くことは、〔自分が〕生きていること、以前と等しく人間であり、見、聞き、話し、また自分たちの身体に以前のように触覚が授けられていること、まったく何も違わないことです(前の74番参照)――しかし、自分自身に驚くことがやんだ後、教会が死後の人間のこのような状態について、このように天界と地獄についても何も知らないことに驚きます。そのときそれでも、世で生きていた者がどれほど多くても、すべての者は来世にいて、人間として生きています。
さらにまた、これは教会の信仰の本質的なものであるので、なぜこのことが、幻によって人間に明らかにされなかったか不思議に思ったので、天界から彼らに、「このことをすることができる。なぜなら、主が喜ばれるとき、これ以上に容易であるものは何もないからである。しかし、それでも自分自身がそれらに反した虚偽の中にいて、これを確信した者は、たとえその者自身が見たとしても信じるようにならない。さらに、虚偽の中にいる者を、幻によって確信させることは危険である。こうして最初に信じ、またその後、否定し、このように、そのことが真理そのものを冒涜することになるからである。なぜなら、冒涜することは、信じてその後、否定することであるからである。真理を冒涜する者は、すべての地獄の中で、最低の、また最もきびしい地獄に押し下げられる (*3)」と言われました。
[4]この危険が次の主のことばによって意味されています、

主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心(cor)をかたくなにされた。彼らが目で見、心で理解し、回心し、わたしが彼らをいやすことがないためであるヨハネ 12:40)。

また虚偽の中にいて、やはり信じない者は、次のことばによって意味されます、

アブラハムは地獄の富んだ者に、「彼らにはモーセと預言者がある、彼らに聞くがよい」と言った。しかし、彼は、「いいえ、父アブラハム。もし、死んだ者からだれかが彼らのところに行くなら、回心させられます」と言った。しかし、アブラハムは彼に、「もし、彼らがモーセと預言者を聞かないなら、さらにまた、死んだ者からだれかが生き返っても、信じない」と言ったルカ 16:29-31)。


*3 冒涜は、人間のもとの善と悪の混合、なおまた真理と虚偽の混合である(6348)。
真理と善を、すなわち、みことばと教会の聖なるものを冒涜することは、最初にそれらを認め、そしてさらに、それらにしたがって生きるなら、そしてその後、信仰から去り、それら否定し、自分自身と世俗に生きる者にしかできない(593, 1008, 1010, 1059, 3398, 3399, 3898, 4289, 4601, 10284, 10287)。
もし、人間が心の悔い改めの後、以前の悪に戻るなら、それは冒涜であり、その時、その後の彼の状態は以前の状態よりも悪くなる(8394)。
聖なるものを認めなかった者、ましてそれを知らない者は、冒涜することができない(1008, 1010, 1059, 9188, 10284)。
異教徒は、教会外にいて、みことばを持たないので、冒涜することができない(1327, 1328, 2051, 2284)。
それゆえ、ユダヤ人に内的な真理は明かされなかった。なぜなら、もし明かされ、認められたなら、それを冒涜してしまったであろうから(3398, 3489, 6963)。
来世で冒涜者の運命は、すべてのうちで最悪である。彼らが認めた善と真理が存続し、悪と虚偽も存続し、密着するので、いのちが引き裂かれるからである(571, 582, 6348)。
それゆえ、主により、冒涜が生じないよう、最大に配慮されている(2426, 10287)。

天界と地獄

456◀︎目次▶︎458

457. 人間の霊が、最初に霊たちの世界に入るとき、そのことはその生き返りの後しばらくして起こりますが(そのことについては前に述べました)、世にいたときと似た顔をしていて、似た声で話します。その理由は、その時、自分自身の外的な状態の中にいて、依然として彼の内的なものがあらわになっていないからです――これが死後の人間の最初の状態です。
けれども、その後、顔は変化し、まったく別のものになり、彼の情愛または支配愛に似たものになります。彼の心のものである内的なものは世で、また彼の霊は身体の中でそのようなものであったのです。なぜなら、人間の霊の顔は、身体の顔とは非常に違っているからです。身体の顔は両親からのものです、しかし、霊の顔は彼の情愛からであり、その映像です。身体での生活の後、外的なものが取り除かれ、そして内的なものがあらわにされるとき、霊はその情愛の中へやって来ます。これが人間の第二 (*注)の状態です。
私は世から新しく来たある者を見たとき、その顔つきと話し方から彼らがわかりました、しかしその後に見たとき、彼らがわかりませんでした。善の情愛の中にいた者は、美しい顔で見られます、けれども、悪の情愛の中にいた者は、醜い顔で見られました――本質的に見るとき、人間の霊はその情愛以外のものではなく、その外なる形が顔であるからです。

さらにまた、顔が変化することの理由は、来世ではだれも自分自身のものでない情愛を装うことは、このように自分自身と反対のものである愛の顔をつけることは許されないからです。どれほど多くてもそこにいるすべての者は、考えることをそのまま話し、意志することをそのまま顔つきや振る舞いで示すような状態にされます。
それでここから、すべての者の顔はその情愛の形と似姿となっています。そしてここから、前に述べたように(427)、世で互いに知りあった者はすべて霊たちの世界でもまた互いに知り合います、けれども、天界で、また地獄でも知り合うことはありません (*4)


*4 顔は内的なものと対応するものに形作られている(4791-4805, 5695)。
心(mens)の情愛と顔や顔つきの対応について(1568, 2988, 2989, 3631, 4796, 4797, 4800, 5165, 5168, 5695, 9306)。
天界の天使のもとで、顔は心に属す内的なものと一つとなっている(4796-4799, 5695, 8250)。
それゆえ、みことばの中の「顔」は、心に属すものである内的なものを、すなわち、情愛と思考に属すものを意味する(1999, 2434, 3527, 4066, 4796, 5102, 9306, 9546)。
脳から顔への流入は時の経過の中でどのように変化したか、そのこととともに顔そのものは内的なものとの対応に関して〔どのように変化したか〕(4326, 8250)。

天界と地獄

457◀︎目次▶︎459

458. 偽善者の顔は他の者の顔よりも遅く変化します、その理由は、慣れることにより自分の内的なものを善の情愛で模倣する習慣を得たからです。それゆえ、長い間、美しくなくもないように見えます――しかし、彼らのもとの見せかけは連続的に取り去られ、そして心のものである内的なものがその情愛の形へと整えられるので、その後、彼らは他の者よりも醜くなります。
偽善者とは、天使のように話しますが、内部で自然だけを認め、このように神性を認めないで、ここから教会と天界のものを否定する者です。

天界と地獄

458◀︎目次▶︎460

459. それぞれの人間が、内的に神的真理を愛し、それらにしたがって生きるほど、死後の人間の形はそれだけ美しいことを知らなくてはなりません。なぜなら、それぞれの者の内的なものはその愛と生活にしたがって、開かれ、形作られるからです――それゆえ、情愛が内的なほどますます天界に一致し、ここからそれだけ顔は美しく、ここから、最内部の天界には最も美しい天使がいます、天的な愛の形をしているからです――けれども、外的に神的真理を愛し、こうしてそれらにしたがって外的に生きた者は、あまり美しくありません。なぜなら、外的なものだけが彼らの顔から輝き出て、内的な天界的な愛は外的なものを通して、したがって、天界の形がその本来のもののように光り貫いて、輝き出ていないからです。相対的に何か暗いものが、内的ないのちから生かされていないものが、彼らの顔から現われています。
一言でいえば、すべてのものの完全さは内的なものに向かって増大し、外的なものに向かって減少します、〔その〕完全さのように、美しさもまた増大し、減少します。
私は第三の天界の天使の顔を見ました。その顔は、どんな画家が自分のすべての技術をもってしても、彼らの顔の中に現われている光といのちの千分の一にも匹敵するような何らかの光を、決して自分の色に与えることできないようなものでした――しかし、最も低い天界の天使の顔なら、ある程度、匹敵する色を与えることができます。

天界と地獄

459◀︎目次▶︎461

460. 最後に、今までだれにも知られていないあるアルカナを与えます。それは、主から発出し、天界をつくるすべての善と真理は、人間の形であり、このことは全体と最大のものだけでなく、すべての部分と最小の部分でもそうであり、この形が主からの善と真理を受けるそれぞれの者に働きかけ、そして天界の中のそれぞれの者が受け入れにしたがって人間の形となっていることです。
ここから、天界は、全般的にまた個別的に、それ自体に似ていて、59番から86番までの四つの章の中で示されたように、全体・それぞれの社会・それぞれの天使は人間の形をしています。このことに、天使のもとの天界的な愛からのものである思考の最小のものも人間の形をしていることをつけ加えます。
このアルカナは、天界の光の中にあるので、人間の知性に受け入れられることはほとんどありません、けれども、天使の知性には、はっきりと受け入れられています。

 

天界と地獄

460◀︎目次▶︎462

48 死後、人間は世でもっていたすべての感覚・記憶・思考・情愛をもち、自分の地的な身体を除いて、何もあとに残さない

461 人間は自然界から霊的なものの中に移るとき、そのことは死ぬときに起こりますが、自分のすべてのものを、すなわち、人間自身にあるものを、自分の地的な身体を除いて、自分自身にもっていることが、多くの経験から私に明らかとなりました。
なぜなら、人間は霊界に、すなわち、死後の生活に入るとき、世でもっていたような身体の中にいるからです。外観に何も相違はありません、相違を感じないし、見えないからです――しかし、彼の身体は霊的なものであり、したがって地的なものから分離したもの、すなわち、清められたものです。霊的なものが霊的なものに触れ、見るとき、それは完全に自然的なものが自然的なものに触れ、見るときのようです。
ここから、人間は霊になったとき、世にあった自分の身体の中にいるとしか知りません、ここから死んだことも知りません。
[2]人間霊〔人間的な霊〕もまた世で享受した外なる感覚と内なる感覚のすべてを享受します。以前のように見、以前のように聞き、話し、また嗅ぎ、味わい、そして以前のように触れられるとき、触覚を感じます。さらにまた以前のように、願い、望み、欲し、考え、熟考し、感じ、愛し、意志します。知的な探究を楽しむ者は、以前のように読み、書きます――一言でいえば、人間は一つの生活からもう一つの生活へ、すなわち、一つの世界からもう一つの世界へ移るとき、ある場所から他の場所へ移るようなものであり、自分自身の中に人間が所有するようなすべてのものをもっています。そのように、地的な身体のものでしかないものの死の後、人間自身の何かが失われた、と言われることはできません。
[3]自然的な記憶もまた人間自身にあります。なぜなら、幼児期の最初から生活の終わりまで、世で聞き、見、読み、言い、考えたどんなものでもすべて保有するからです。しかし、記憶の中に内在する自然的な対象は、霊界で再現されることができないので、それらの対象から考えないときの人間の場合のように、休止します。しかしそれでも、主が喜ばれる時、再現されます。
けれども、この記憶について、また死後の状態について、すぐにあとで多くのことを述べます。
人間の死後の状態がこのようであることを、感覚的な人間は、感知しないので、まったく信じることができません。なぜなら、感覚的な人間は、霊的なものについてもまた自然的にしか考えることができないからです。それゆえ、感じないものを、すなわち、自分の肉眼で見、またその手で触れないものを、トマスについて書かれているように(ヨハネ 20:25, 27, 29)、「存在しない」と言います。
感覚的な人間がどんなものであるかは、前に述べました(267番とそこの*3)。

天界と地獄

461◀︎目次▶︎463

462. (その1) しかしそれでも、人間の霊界での生活と自然界での生活の間で、外なる感覚とその情愛と同様に内なる感覚とその情愛に関して、その相違は大きなものです。
天界にいる者は、世にいたときよりもさらに鋭敏に感じます、すなわち、見、聞き、さらにまた賢く考えます。世の光に数段階もまさる天界の光から見るからです(前の126番参照)。さらにまた地のものに数段階もまさる霊的な大気を通して聞くからです(235)。
これらの外なる感覚は、世のもやの暗さと比べて明るさのように、夕方のやみと比べて昼間の光のように相違しています――というのは、天界の光は、神的真理であるので、天使たちに、最も微細なものを認め、識別するような視覚を与えるからです。
[2]さらにまた、彼らの外なる視覚は内なる視覚に、すなわち、理解力に対応します。なぜなら、天使のもとで、ある者の視覚は一つとして働くように他の者に流入し、ここから彼らにそれほどに大きな鋭さがあるからです――そしてまた同様に、聴覚は彼らの知覚に対応し、それは理解力にも意志にも属します。ここから、話している音声と言葉の中に、彼の情愛と思考の最も微細なものを、その音声の中に情愛に属すものを、またその言葉の中に思考に属すものを認めます(前の234-245番参照)。しかし、天使のもとの残りの感覚は、視覚と聴覚ほどに鋭敏ではありません。その理由は、視覚と聴覚は彼らの知性と知恵に役立ちます、しかし残りの感覚は役立たないで、もし同じ程度に鋭敏であったなら、彼らの知恵の光と快さを取り去り、いろいろな欲望と身体のものである快楽の快さをもたらし、それらが強く働きかければかけるほど、それだけ理解力をくもらせ、弱めるからです。このことは世でもまた人間のもとに生じています。味覚や身体の触覚の誘惑におぼれるほど、その者は霊的な真理に関してそれだけ鈍く、愚かです。
[3]天界の天使の思考と情愛のものである内的な感覚もまた、世で彼らにあったよりもさらに鋭敏でさらに完全であることは、「天界の天使の知恵」の章の中で言われ、示されたことから明らかにすることができます(265-275)。
けれども、地獄の中にいる者の状態の相違については、世での彼らの状態と比べて、それもまた大きなものです。なぜなら、天界の天使のもとの外なるまた内なる感覚は完全ですぐれていますが、それほどに地獄の彼らのもとで感覚もまた不完全であるからです。しかし、後者の状態はあとで扱います

462. (その2) 人間が自分自身とともに世からの自分の記憶のすべてのものもまた持っていることが、多くの機会に示されました。私が見て、聞いた、それら多くのことについて、話しておく価値のあるものをいくつか順に述べます。
世で犯した自分の罪悪や破廉恥な行為を否定した者がいました。それゆえ、罪のない者であると信じられないように、すべてのものが明らかにされ、彼らの記憶から、彼らの最初の年齢のものから最後の年齢のものまで順に列挙されました――特に、姦淫と淫行でした。
[2]悪のたくらみで他の者を欺き、盗んだ者がいました。彼らの欺瞞と盗みもまた次々と数え上げられ、それらの多くは、世で彼ら以外には、ほとんどだれにも知られませんでした――当時、彼らの心(animus)を一緒になってそらせていたすべての考え・意図・快さ・恐れとともに、光の中で明らかにされたので、彼らはそれらの罪悪もまた認めました。
[3]わいろを受け取り、裁判から利得をなした者がいました――彼らは自分自身の記憶から同様に調べられ、それらから彼らの職務の最初の時のものから最後の時のものまで列挙されました。個々のものが量と質に関して、その時期、彼らの心の状態と意図とともに、彼らはこれらのすべてを同時に思い出し、視覚に示され、それらは数百以上でした。
驚くべきことですが、ある者には、これらのことが書かれている彼らの記憶の書そのものが開かれ、彼らの前で、ページからページへと読まれました。
[4]処女を性的な堕落へ誘った者、純潔を踏みにじった者がいました。同じような裁判に呼ばれ、彼らの記憶から個々のものが引き出され、繰り返されました。処女と女たちの顔そのものもまた、場所・会話・意図とともに、その場にいるかのように現われました。このことは、幻かのようにそのように突然と現われます。この出現は、数時間にもわたって何回も続きました。
[5]他の者を何ら尊重しないで侮辱する者がいました。私は、ある人物についての侮辱や中傷が、その言葉そのものとともに、また、その本人の前で、順に列挙されるのを聞きました。それらのすべては生み出され、同時に生きいきと現われます。それでも、その個々のものは、世で生きたとき彼により必死に隠されていたものです。
[6]欺きの口実のもとに親戚からその相続財産を奪った者がいました――彼もまた同じように納得させられ、裁かれましたが、驚くべきことに、彼らの間の手紙や伝票が、私に聞こえるように読まれ、「一つの言葉も失われていない」と言われました。
[7]さらにまた同じ者が、自分が死ぬ少し前に、隣人をひそかに毒で殺しました――このことは次のように明らかにされました。足元に穴を掘り出しているのが見られ、掘り出すうちに、墓からかのように男が出てきて、彼に、「おまえは私に何をしたのか?」と叫んだのです。
その時、その毒殺者はどのように親しく彼と語り、杯を差し出したか、さらに前もって何を考え、その後、何が起こったか、すべてのことがあらわにされました。これらが明らかにされ、地獄へと裁かれました。
[8]一言でいうと、すべての悪・犯罪・強盗・策略・陰謀は、それぞれの悪い霊に明らかにされ、そして彼らの記憶そのものから取り出され、納得させられます。すべての状況が見られるので、否定の余地もありません。
さらにまた、天使により見られ、調べられたある者の記憶から、私は、その者が心(mens)の内部で、ある日からある日へと何を考えたか、またこのことが誤りなしに、それらの日々、まさに彼の中にあったもののように思い出されたことを聞き、知りました。
[9]これらの例から、人間はすべての記憶を自分自身にもつこと――このように世で隠されていて、死後、現わされないものは何もないことを明らかにすることができます。またこのことは、次の主のことばにしたがって、多くの者の集まりの中でなされます、

しまい込まれていて、明らかにされないものはなく、隠されていて、知られないものはありません。それで、あなたがたが暗やみで言ったことが、光の中で聞かれ、耳の中で語ったことが……屋上で言い広められますルカ 12:2, 3)。

 

天界と地獄

462◀︎目次▶︎464

463. 死後、人間に自分の行為があらわにされる時、調べる役目を与えられている天使は、その顔を熟視します。それから、身体全体を隅から隅まで、一方の手の指から始めて、もう一方の手の指へ、このように全体へと調べを広げます。
私はどうしてこのことがなされるのか不思議でしたが――「思考と意志の個々のものが脳に刻み込まれているように、というのも、そこに個々のものの最初のものがあるからですが、このようにまた思考と意志のすべてのものがその最初のものから達する身体の全体に刻み込まれており、その最後のものとしてその中に終結しています。ここから、意志とそこからの思考から記憶の中に刻み込まれたものは、脳に刻み込まれているだけでなく、人間の全体にもまた刻み込まれて、身体の部分の秩序にしたがって、そこに秩序のうちに存在します」と言われました。ここから、悪い人間は自分自身の悪であり、善い人間は自分自身の善であるように、人間全体は自分自身の意志とそこからの思考の中にいるかのようなものであることが明らかです (*1)
これらからもまた、みことばの中の、人間の「いのちの書」〔「黙示録」20:12〕によって何が意味されるか明らかにすることができます。すなわち、行為も思考も、すべてのものは人間全体に刻み込まれていること、また記憶から呼び起こされるとき、本の中に読まれるように、霊が天界の光の中で見られるとき、似姿の中に見られるように現われることです。
これらに、私は、人間に死後も残る記憶について注目すべきことを付け加えます。そのことによって私は、記憶の中に入ったものは全般的なものだけでなく、最も個々のものもまた、残存し、決して消されないことを確信したのです。
世のように中に何か書かれている本が私に見られ、「それは書いた者の記憶から存在する。彼自身によって世で書かれたその本の中に欠けている言葉は何もない。このようにある者の記憶から、すべての最も個々のものが、さらに本人が世の中で忘れたことすら、引き出されることができる」と教えられました――その理由もまた言われました、すなわち、「人間に外なる記憶と内なる記憶がある。外なる記憶はその人間の自然的な記憶、そして内なる記憶はその人間の霊的な記憶である。人間が考え、意志し、話し、行ない、さらにまた聞き、見た個々のものは彼の内なる記憶、すなわち、霊的な記憶に刻み込まれている (*2)。そこにあるものは、同時に霊そのものに、その身体の四肢に刻み込まれているので、前に述べたように、決して消されない――このように、霊はその霊の意志の思考と行為にしたがって形作られる」。
私は、これらのことは背理のように見え、ここからほとんど信じられないことを知っています。しかしそれでも真理です。
それで、人間が自分自身の中で考えたこと、ひそかに行なったことが、死後も隠されていると信じてはなりません。その時、すべてと個々のものは、日の中で明るく照らされてはっきりと見られる、と信じなくてはなりません。


*1 善い人間・霊・天使は自分自身の善と自分自身の真理である、すなわち、その全体は彼の善と真理がどのようなものであるかによる(10298, 10367)。
その理由は、善は真理をつくり、真理は理解力をつくるからであり、意志と理解力は、人間・霊・天使のもとのすべてのいのちをつくるからである(3332, 3623, 6065)。
人間・霊・天使は自分自身の愛である、と言っても同じである(6872, 10177, 10284)。
*2 人間に二つの記憶がある、外的なものと内的なもの、すなわち、自然的なものと霊的なものである(2469-2494)。
人間は自分に内的な記憶があることを知らない(2470, 2471)。
内的な記憶は外的なものにどれほどまさるか(2473)。
外的な記憶の中にあるものは世の光の中にある。けれども、内的な記憶の中にあるものは天界の光の中にある(5212)。
人間が知的に理性的に考え、話すことができるのは、内的な記憶からである(9394)。
人間が考え、話し、行なった、また見て、聞いた、すべてと個々のものは内的な記憶に刻み込まれている(2474, 7398)。
その記憶は彼の「いのちの書」〔黙示録 20:12〕である(2474, 9386, 9841, 10505)。
内的な記憶の中に信仰のものとされた真理があり、愛のものとされた善がある(5212, 8067)。
習慣となり、生活のものとなったものは、そのことによって外的な記憶の中で消され、内的な記憶の中にある(9394, 9723, 9841)。
霊と天使は内的な記憶から話し、ここから彼らに普遍的な言語がある(2472, 2476, 2490, 2493)。
世の言語は外的な記憶のものである(2472, 2476)。

天界と地獄

463◀︎目次▶︎465

464. 外なるまたは自然的な記憶は、死後も、たとえ人間に内在するにしても、それでもやはりまったく自然的なものとしてそこにあり、来世で再生されません、しかし、自然的なものに対応によって接合している霊的なものが再生します。それでもそれは視覚に見られるとき、自然界の中で見られるものと完全に似た形をしています。なぜなら、天界に見られるすべてのものは、世の中でも同様に見られるからです。それでも、「天界の中で表象するものと外観」についての章で見られ、示されているように(170-176)、その本質は自然的ではなく霊的です。
[2]しかし、外なるまたは自然的な記憶は、自然に固有のものである物質的なものから、時間と空間から、またその他のものから得られるかぎり、世で彼に役立ったようには、霊には役立ちません。人間は世で、外なる感覚的なものから考えて、同時に内的なまたは理解力からの感覚的なものから考えなかったとき、霊的でなく自然的に考えたからです。けれども、来世で、霊が霊たちの世界にいる時、自然的でなく霊的に考えます。
霊的に考えることは、知的にまたは理性的に考えることです。
ここから、物質的であるものに関する外なるまたは自然的な記憶は、その時、休み、人間が物質的なものによって世の中で吸収し、正しい推論をしたものだけが役立ちます。
物質的であるものに関する外なる記憶が休むことの理由は、再現されることができないからです。霊と天使は彼らの心のものである情愛とここからの思考から話すので、それゆえ、天界の中の天使の話し方について、また人間との彼らの話し方について言われたこと(234-257)から明らかにすることができるように、彼らは情愛と思考に適合しないものを口に出すことができません。
[3]ここから、人間が世で言語によって、知識によって、どれだけ理性的になったかによって、それだけ死後、理性的であるのであって、どれだけ言語と知識を知っていたかによるのではまったくありません。
私は、世で、ヘブル語・ギリシア語・ラテン語のような古代語を知っていたことから学識のある者と信じられたけれども、それらの中に書かれていることによって自分自身の理性を養わなかった多くの者と語りました。〔彼らのうちの〕ある者はそれらの言語について何も知らなかったような単純な者に見え、ある者は愚鈍に見えました。しかしそれでも、彼らには他の者よりも賢明であるといったような高慢さが残っていました。
[4]私は、記憶を多くもつほど、それだけ人間は賢明であると世で信じていた者と、また多くのもので記憶を豊かにし、ほとんどそれらだけから話し、このように自分自身からでなく他の者から話し、記憶の事柄から何ら理性をつくり上げなかった者と語りました。
彼らのある者は鈍く、ある者は愚かでした。何らかの真理を、真理であるのかどうか、まったく何も理解しないで、自分自身を学識のある者と呼ぶ者らによって真理として見せびらかされたすべての虚偽をつかみ取りました。このようであるのかどうか、何も自分自身からは見ることができず、したがって、他の者の言うことを聞いたとき、まったく理性的でないからです。
[5]さらにまた私は、世で多くのことを、それどころか記憶知におけるすべての種類のことを書き、そのことによって世界中の多くの者から、学識ある者としての名声を得た者と語りました。
彼らのある者は、実際に真理について、「真理である」あるいは「真理でない」と推論することができました。ある者は、真理の光の中にいた者に向きを変えたとき、真理であることを理解しました、しかしそれでも、それらを理解したがりませんでした、そのために、自分自身の虚偽の中に、このように自分自身の中にいたとき、それらを否定しました。ある者は、無学な大衆よりも賢明ではありませんでした。書き上げ、書き写したような記憶知を通して、このようにいろいろな種類のもので、自分の理性を養った者もいました――けれども、教会の真理に反対し、記憶知から考え、その記憶知によって虚偽を自分自身に確信した者は、自分の理性を育てないで、単に推論する能力だけを育てました。その能力は世で推理力と信じられています、しかし、推理力から分離した能力です。それは好むものならどんなものでも確信する能力であり、すでに受け入れた原理から、また感覚の欺きから、真理でなく虚偽を見ることの能力です――このような者に真理を認めさせるようにすることは決してできません。真理は虚偽から見られることができませんが、虚偽は真理から見られることができるからです。
[6]人間の理性は庭園や花園に、耕地に似ています――記憶は土地であり、記憶知の真理と知識は種です。天界からの光と熱が生み出し、それらがなくては何も発芽しません――神的真理である天界の光が、そして神的愛である天界の熱が入るのを許されないなら、それらだけから存在する理性もまたそのようになります。
天使は、学識のある大部分の者が、すべてのものを自然に帰したこと、ここから、天界の光である真理の光から何の真理も見ることができないように、自分の心の内的なものを自分自身に閉ざしたことを最大限に悲しんでいます――それゆえ、誤った推論によって善い単純な者の間に虚偽を広め、惑わさないように、彼らは来世で推論する能力を奪われ、見捨てられた場所に送られます。

天界と地獄

464◀︎目次▶︎466

465. ある霊は、いのちが身体の中にあったときに知った多くのことを思い出さないことに憤慨し、最も楽しんだ快さを失うために悲しみました――しかし、彼に、「まったく何も失わない。すべてと個々のものを知っている。やって来た王国の中では、今やそこにいて、そのようなものを引き出すことは許されないが、その世界で何も役立たない、不明瞭で、暗く、物質的なものに、身体的なものに、自分自身の理性が以前のように浸されることもなく、今やはるかによく、完全に考え、話すことができることで十分である。今や永遠の生活の役立ちに貢献するどんなものでも持っている。このようでなければ、恵まれ、幸福になることはできない。したがって、この王国の中で、記憶の中の物質的なものが除去され、休止するとき、知性が滅びると信じることは無知に属する。それでも、心が人間の外的なものから、すなわち、身体に属す感覚的なものから導き出されれば出されるほど、それだけ霊的なものと天的なものへ高揚されることが事実である」と言われました。

天界と地獄

465◀︎目次▶︎467

466. それらの記憶がどんなものであるか、来世ではときどき、そこだけに出現する形によって見られます(そこでは視覚に多くのものが見られますが、それらは人間のもとでは、ただ観念の中だけに生じます)――来世では、外的な記憶は、たこのような外観によって見られ、内的な記憶は人間の脳の中にあるような髄質のように見られます。ここからもまた、どのようなものであるか知ることができます。
いのちが身体の中にあったとき記憶に属すものだけに専念し、このように自分の理性を発達させなかった者のたこは、固いものに見え、内部には腱のすじのようなものが見えます。
記憶を虚偽で満たした者のたこは、無秩序なものの堆積から、髪の毛のように毛むくじゃらに見えます。
自己愛と世俗愛のために記憶のものに専念した者は、くっつき合った塊りと骨化したものに見えます。
記憶知よって、特に哲学によって、神的なアルカナを洞察しようと欲し、それらによって確信する以前には信じることもない者は、彼らのもとで記憶は暗いものに見え、それは光線を吸収し、暗やみに変えるような性質をもっています。
狡猾な者や偽善者であった者は、彼らのもとに象牙のような固い骨が見られ、それは光線をはねかえします。
けれども、愛の善と信仰の真理の中にいた者にこのようなたこは見られず、彼らの内的な記憶は光線を外的なものへ、その記憶の対象または観念の中へ伝え、そこに光線はそれ自体の土台のようにまたはそれ自体の土地のように終結し、そしてそこに快適な容器を見つけます。なぜなら、外的な記憶は秩序の最後のものであり、そこに善と真理がある時、その中に霊的なものと天的なものが穏やかに終結しているからです。

天界と地獄

466◀︎目次▶︎468

467. 主への愛と隣人に対する仁愛の中にいる人間は、世で生きているとき、自分自身のもとに、また自分自身の中に、天使の知性と知恵をもっていますが、その内的な記憶の最内部に深く隠されていて、身体から去る前に、その知性と知恵は決して現われることができません。身体から去る時、自然的な記憶は眠り、内的な記憶に、その後、続いて、天使の記憶そのものに目覚めます。

天界と地獄

467◀︎目次▶︎469

468. どのように理性が発達することができるかもまた簡単に述べます。
本物の理性は、虚偽からでなく、真理から構成されます。虚偽からのものは理性ではありません。
三つの種類の真理、市民的なもの・道徳的なもの・霊的なものがあります。
市民的な真理は、王国の中の裁判に、また政治に、全般的にそこの公正と平等に関係します――道徳的な真理は、それぞれの人間の生活に、相対的に社会と交際に、全般的に誠実さと正しさに、そして特定的にすべての種類の美徳に関係します――しかし、霊的な真理は、教会と天界に、全般的に愛の善と信仰の真理に関係します。
[2]それぞれの人間のもとに、いのちの三つの段階があります(前の267番参照)――理性は市民的な真理によって第一の段階まで、道徳的な真理によって第二の段階まで、霊的な真理によって第三の段階まで開かれます。
しかし、これらの真理からの理性は、人間が真理を知ることではなく、真理にしたがって生きることによって、形作られ、開かれることを知らなくてはなりません。真理にしたがって生きることによって、霊的な情愛から真理を愛することが意味され、霊的な情愛から真理を愛することは、公正と平等を公正と平等ゆえに、誠実さと正しさを誠実さと正しさゆえに、そして善と真理を善と真理ゆえに愛することです。しかし、真理にしたがって生き、身体的な情愛から真理を愛することは、自分自身のために、自分自身の名声や名誉または利益のために、真理を愛することです――それゆえ、人間が身体的な情愛からそれらの真理を愛すれば愛するほど、それだけ理性的でなくなります。それらを愛さないで、自分自身を愛し、召使いが主人に仕えるように、真理は彼自身に仕えるからです。真理が奴隷となる時、真理は人間に入らないで、いのちの何らかの段階を、その最初のものさえも、開くことはなく、単に記憶の中に、物質的な形のもとに記憶知として住み、そこで身体的な愛である自己愛と結合します。
[3]ここから、どのように人間は理性的になるか明らかにすることができます。すなわち、天界と教会のものである善と真理への霊的な愛によって第三の段階まで、誠実さと正しさへの愛によって第二の段階まで、公正と平等への愛によって第一の段階まで、理性的になります。あとの二つの愛もまた、善と真理への愛から霊的なものになります、前者は後者に流入し、それらと結合し、それらの中にその顔のようなものを形作るからです。

天界と地獄

468◀︎目次▶︎470

469. 霊と天使は、人間と等しく記憶をもっています。彼らが聞き、見、考え、意志し、行なうものはどんなものでも、彼らのもとに存続し、そのことによって彼らの理性は絶えず養われ、このことは永遠に続くからです――ここから、霊と天使は、人間と等しく、善と真理への知識によって知性と知恵を完全にされます。
さらにまた多くの経験によって、私は霊と天使に記憶があることを知らされました――私は、彼らが考え、行なったすべてのものが、他の霊とともにいたとき、彼らの記憶から、公然とまた同じくひそかに、呼び起こされること、また、単純な善から何らかの真理の中にいた者が、知識によって知性を教え込まれ、その後、天界に上げられることを見たからです。
しかし、知らなくてはならないのは、世でいた善と真理の情愛の程度を超えてまで、知性が知識によって教えられないことです。霊と天使のそれぞれに、世で彼にあったような量と質の情愛が残り、その情愛はその後、満たすことによって完全にされ、さらにまたそのことが永遠に生じるからです。なぜなら、永遠に満たされないものは何もなく、すべての事柄は変えられることができ、そのように変化によって豊かにされ、したがって増大され、結実されるからです。どんなものでも善の事柄は、〝無限なる者〟から存在するので終わりはありません。
霊と天使が真理と善の知識によって知性と知恵を絶えず完全にされていることは、「天界の天使の知恵」(265-275)、「天界の異邦人と教会外の人々」(318-328)の章に、また「天界の幼児」(329-345)の章に見られます、このことは、世でいた善と真理への情愛の段階までであり、それを越えないことも扱いました(349)。

 

天界と地獄

469◀︎目次▶︎471

49 死後、人間は世で生活したように生きる

470 死後、それぞれの者に、その生活(いのち)が残ることは、みことばからキリスト教徒のだれにも知られています。なぜなら、そこの多くの箇所に、「人間は行為と働きにしたがって裁かれ、報いられる」と言われているからです――善から、また真理そのものから考える者はだれでもまた、「善く生きる者は天界に行く、悪く生きる者は地獄に行く」としか知りません。
しかし、悪の中にいる者は、自分の死後の状態が世での自分の生活にしたがっていることを信じようとしないで、特に病気であるときに起こることですが、「どのように生きたにしろ、生活から分離した信仰によって、天界はそれぞれの者に慈悲から与えられる」と考えています。

天界と地獄

470◀︎目次▶︎472

471 人間は行為と働きにしたがって裁かれ、報われることは、みことばの多くの箇所に言われています、そこからいくつかをここに示します――

人の子は自分の父の栄光のうちに、自分の天使たちとともにやって来る。その時、それぞれの者に、その働きにしたがって報いるマタイ16:27)。
主にあって死ぬ死者は幸いである。聖霊は言う。「しかり、彼らはその労働から休む……彼らの働きは彼らに続く」黙示録 14:13)。
わたしは、それぞれの者にその働きしたがって与える黙示録 2:23)。
私は、神の前に立っている死者を、小さい者と大きい者を見た。また、書物が開かれた。また、死者は書物の中に書かれたことに応じて、彼らの働きにしたがって裁かれた。……海はその中にいる死者を明け渡し、そして、死とハデスはその中にいる者を明け渡した。また、それぞれの者がその働きにしたがって裁かれた黙示録20:12, 13)。
見よ、わたしは来る……わたしの報酬は、わたしとともにあり、わたしがそれぞれの者にその働きにしたがって与えるためである黙示録 22:12)。
すべての者を……わたしのことばを聞いて、それを行なう者を、わたしは賢い人にたとえます……しかし、すべての者は、わたしのことばを聞いて……それを行なわない者は、愚かな人にたとえられますマタイ 7:24, 26)。
わたしに、「主よ、主よ」と言うすべての者が天の王国に入るのではありません、天界に入るのは、わたしの父の意志を行なう者です。その日、多くの者がわたしに、「主よ、主よ、私たちはあなたの名前によって預言し、あなたの名前によって悪鬼を追い出し、またあなたの名前の中に私たちは多くの力あるわざを行なったではありませんか」と言います。しかしその時、わたしは彼らに宣言します。「わたしはあなたがたを知らない、わたしから去れ、不法を働く者どもよ」マタイ 7:21-23)。
その時、あなたがたは言い始めます。「私たちは、あなたの前で食べ、飲み、私たちの街路で、あなたに教えていただいた」。しかし、〔主人は〕言います。「私はあなたがたに言います、あなたがたを知らない……不正を働く者たちよ」ルカ13:25-27)。
わたしは彼らの働きに応じて、彼らの手の行為に応じて、報いるエレミヤ 25:14)。
エホバは……その目を人間のすべての道の上に開かれている。それぞれに、その道にしたがって、その働きの実にしたがって、与えるためにエレミヤ 32:19)。
わたしは彼の道の上に訪れ、彼の働きを彼に返すホセア 4:9)。
エホバは、私たちの道に応じて、私たちの働きに応じて、私たちに行なわれるゼカリヤ 1:6)。

善の働きを行なった者が永遠のいのちに入り、悪の働きを行なった者が断罪される最後の審判について主が予言されているところに(マタイ 25:32-46)、その他にも、人間の救いと断罪について扱われている他の多くの箇所に、働き以外に何も取り上げられていません。
働きと行為は人間の外なる生活(いのち)であり、それらによって彼の内なる生活(いのち)がどんなものであるか示されることが明らかです。

天界と地獄

471◀︎目次▶︎473

472 しかし、行為と働きによって単に外なる形の中に現われるような行為と働きだけでなく、内なるものの中にあるようなものもまた意味されます。だれもが、すべての行為と働きは人間の意志と思考から発出することを知っているからです。なぜなら、そこから発出しないなら、自動人形や彫像から生じるような単なる運動となるからです――それゆえ、本質的に眺められた行為または働きは、その霊魂といのちを意志と思考から得ている単なる結果であり、結果の中の意志と思考でもあり、したがって、外なる形の中の意志と思考です。

ここから、行為または働きを生む意志と思考がどんなものであるかによって、行為と働きもそのようなものであることがいえます――思考と意志が善いものであるなら、その時、行為と働きは善いものです。けれども、思考と意志が悪であるなら、その時、行為と働きは、たとえ外なる形の中で同じように見えても悪です。
千の人間が同じように行なうことが、すなわち、同じような行為を示すことができます。外なる形に関してほとんど見分けることができないほど、それほど同じようにです。それでも、それぞれが本質的に見られたとき、同じではありません、意志が同じではないからです。
[2]仲間に、誠実にまた公正に行なうことを例にします――ある者は、自分自身と自分の名誉のために、誠実と公正であると見られようとする目的のために、彼らに誠実で公正に行なうことができます。第二の者は世と利益のために、第三の者は報酬と功績のために、第四の者は友情のために、第五の者は法律を恐れ、名声と職業を失うことを恐れるために、第六の者は他の者を自分の側に、悪の側にすら引き寄せるために、第七の者は欺くために、このように他の者に異なる理由で誠実にまた公正に行ないます――しかし、これらすべての行為は、たとえ善に見えても、なぜなら、仲間に誠実で公正に行なうことは善であるからです、それでも悪です、誠実と公正のために、それらを愛するためでなく、自分自身と世のために、それを愛するからです。誠実と公正は、召使いが主人に仕えるようにこの愛に仕えますが、主人は召使いが自分に役立たない時、さげすみ、追放します。
[3]誠実で公正なものへの愛から行なう者もまた、外なる形で同じように外観からは、仲間に誠実にまた公正に行ないます。彼らのある者は、みことばの中にこのように命じられているので、信仰の真理または従順から行ないます。ある者は、宗教的信念から、信仰の善または良心から行ない、ある者は、隣人の善を思いやらなくてはならないので、彼に対する仁愛の善から行ない、ある者は、主への愛の善から、善のために善を行なわなくてはならないので、このようにまた誠実と公正のために誠実と公正を行ないます。それらの誠実と公正は主からのものであるので、主から発出する神性がそれらの中にあるので、それらを愛します。ここからそれらは本質そのものの中に神性が見られます。
これらの行為と働きは内的に善であり、それゆえ、外的にもまた善です。なぜなら、前に言われたように、思考と意志がどんなものであるかによって、それらから発出する行為または働きはそのようなものであるからです。これらがなくては行為と働きはなく、いのちのない単なる運動です。
これらから、みことばの中の「働き」と「行為」よって何が意味されるか明らかです。

天界と地獄

472◀︎目次▶︎474

473 行為または働きは、意志と思考に属すので、それゆえ、愛と信仰にも属します。したがって、愛と信仰がどんなものであるかによって、そのようなものとなります――なぜなら、愛と言っても、あるいは人間の意志と言っても同じであり、信仰と言っても、あるいは人間の確固たる思考と言っても同じであるからです。なぜなら、人間は愛するものを、意志もするし、人間は信じるものを、考えもするからです――人間が信じるものを愛するなら、その時、それを意志し、愛するかぎりそれを行なうことができます。
意志は愛によって燃え上がり、思考は信仰の事柄の中で照らされるので、だれもが愛と信仰は人間の意志と思考に内在し、それらの外に存在しないことを知ることができます。それゆえ、賢明に考えることのできる者しか照らされることはなく、照らしにしたがって、真理を考え、真理を欲します、あるいは同じことですが、真理を信じ、真理を愛します(*1)


*1 秩序にしたがって存在している全世界の中のすべてのものは善と真理に関係するように、そのように人間のもとのすべてのものは意志と真理に関係する(803, 10122)。
その理由は、意志は善を受け入れるもの、理解力は真理を受け入れるものであるからである(3332, 3623, 5232, 6065, 6125, 7503, 9300, 9995)。
信仰は真理に属し、真理は信仰に属すので、真理と言っても、あるいは信仰と言っても同じことになる。そして愛は善に属し、善は愛に属すので、善と言っても、あるいは愛と言っても同じことになる(4353, 4997, 7179,10122, 10367)。
ここから、理解力は信仰を受け入れるもの、意志は愛を受け入れるものであることがいえる(7179, 10122, 10367)。
人間の理解力は神への信仰を受け入れることができ、意志は神への愛を受け入れることができるので、人間は信仰と愛で神と結合されることができ、愛と信仰で神と結合されることのできる者は、永遠に死ぬことがない(4525, 6323, 9231)。

 

天界と地獄

473◀︎目次▶︎475

474 しかし、意志が人間をつくるものであり、思考はただ意志から発出するかぎり、その程度にだけつくること、行為または働きはこの二つのものから発出すること、あるいは、同じことですが、愛が人間をつくるものであり、信仰はただ愛から発出するかぎり、その程度にだけつくること、行為または働きはこの二つのものから発出することを知らなくてはなりません――ここから、意志または愛が人間そのものである、といえます。なぜなら、発出したものは、発出するものに属すからです。発出することは、把握され、見られるように、適当な形の中に生み出され、示されることです(*2)
これらから、愛から分離した信仰とは何か、すなわち、それは何ら信仰ではなく、単なる知識であって、それ自体の中に何も霊的ないのちをもたないものであること、同様に、愛のない行為または働きとは何か、すなわち、それはいのちの行為または働きではなく、悪の愛と虚偽の信仰からのものが内在する、いのちの外観をもった死の行為または働きであることを明らかにすることができます。このいのちの外観が、霊的な死と呼ばれるものです。


*2 人間の意志は、愛または善の容器であるので、彼のいのちのエッセ(存在)そのものであり、理解力は、信仰または真理の容器であるので、ここからのいのちのエキシステレ(実在)である(3619, 5002, 9282)。
そのように、意志のいのちは人間の主要ないのちであり、理解力のいのちはここから発出する(585, 590, 3619, 7342, 8885, 9282, 10076, 10109, 10110)。
火あるいは炎から発出する光と同様である(6032, 6314)。
ここから、人間は意志とここからの理解力から人間であることがいえる(8911, 9069, 9071, 10076, 10109, 10110)。
それぞれの人間もまた、彼の意志の善とここからの理解力にしたがって、他の者から愛され、尊重される。よく意志し、よく理解する者は愛され、尊重され、そして、よく理解しても、よく意志しない者は退けられ、さげすまれるからである(8911, 10076)。
人間は死後もまた、彼の意志とここからの理解力を持ち続ける(9069, 9071, 9386, 10153)。
それゆえ、人間は死後、彼の愛とここからの信仰を持ち続け、信仰に属すものであっても、同時に愛に属さないものは、人間の中に存在せず、そのように人間に属すものではないので、その時、消滅する(553, 2364, 10153)。

 

天界と地獄

474◀︎目次▶︎476

475 さらに、人間全体は行為または働きの中に示されていること、人間の内的なものである意志と思考は、あるいは、愛と信仰は人間の外的なものである行為と働きの中に存在する以前に完備していないことを知らなくてはなりません。行為と働きは最後のものであり、それらの中に意志と思考が終結し、終結しないなら、限定されないようなもの、まだ存在しないようなもの、したがってまだ人間の中に存在しないようなものであるからです。

行なうことができるのに行なわないで、考え、意志することは、容器に閉じ込められた炎のようなものであり、それは消えます。そして砂地に投げられた種のようなものであり、生長しないで、その生殖力とともに滅びます。しかし、考え、意志し、そしてここから行なうことは、周囲に熱と光を与える炎のようなものです。また地中の種のようなものであり、それは木または花に生長し、存在するようになります。
意志しても、行なうことができるときに行なわないなら、意志しないことであり、そして、愛しても、できるときに善を行なわないなら、愛さないことであり、したがって、意志し、愛することを単に考えるだけのことであり、このように分離した思考であって、これは消え、散らされることを、だれでも知ることができます。
愛と意志は、行為または働きの霊魂そのものです。人間が行なう誠実と公正の中でその身体を形作ります。
霊的な身体は、あるいは人間の霊の身体は、別の出所からではありません、すなわち、人間は愛または意志から行なうもの以外の他のものから形作られることはありません(前の463番参照)。一言でいえば、人間のすべてのものは、またその霊のすべてのものは、その行為または働きの中に存在します(*3)


*3 内的なものは連続的に外的なものの中に、最外部または最後のものにまで流入し、そこに存在し、存続する(634, 6451, 6465, 9215, 9216)。
単に流入するだけでなく、最後のものの中に同時に存在するものもまた形作る。それをどのような秩序で(5897, 6451, 8603, 10099)。
ここからすべての内的なものは、結びつきの中に保持され、存続する(9828)。
行為または働きは最後のものであり、それらの中に内的なものがある(10331)。
それゆえ、行為または働きにしたがって報いられ、裁かれることは、愛と信仰に属すものであるすべてのものにしたがって、すなわち、人間の意志と思考にしたがって報いられ、裁かれることである。それらは人間の中にある内的なものであるからである(3147, 3934, 6073, 8911, 10331, 10332)。

 

天界と地獄

475◀︎目次▶︎477

476 そこでこれらから、死後、人間に残るいのち(生活)によって何が意味されるか明らかにすることができます。すなわち、それは本質的に人間の愛と信仰のすべてのものを含むので、単に潜在的な力の中だけでなく、行為の中に存在する愛とそこからの信仰であり、そのように行為または働きです。

天界と地獄

476◀︎目次▶︎478

477 支配愛が存在し、それは死後、人間に残り、永遠に変化することもありません。それぞれの者に多くの愛がありますが、しかしそれでも、すべての愛はその支配愛に関係し、支配愛と一つとなっています、すなわち一緒になって支配愛を構成しています。
支配愛と一致するすべての意志は、愛されるので、愛と呼ばれます。
これらの愛は内的なものと外的なものです――それらは直接にまた間接に結合しています。支配愛に近いもの、遠いもの、いろいろな方法で仕える愛があります。
それらは一緒に集められていわば王国を構成しています。このように人間のもとで秩序づけられています、それでも人間はこれらの秩序についてまったく何も知りません。しかし、そのあるものは来世で彼に明らかにされます、なぜなら、そこではそれらの秩序にしたがって彼の思考と情愛が広がっているからです。もし支配愛が天界の愛から構成されているなら、天界の社会の中へ広がります、しかし支配愛が地獄の愛から構成されているなら、地獄の社会の中へ広がります。
霊と天使たちのすべての思考と情愛が社会の中へ広がっていることは、「天界の天使の知恵」の章〔265-275番〕の中に、また「天界の形、その形にしたがってそこに交わりと伝達がある」の章〔200-212番〕の中に見られます。

天界と地獄

477◀︎目次▶︎479

478 しかし、今まで言われたことは、単に理性的な人間の思考に働きかけるものです。感覚にもまた把握されるように、そのことが説明され、確信される〔霊界での〕経験を示します――

第一、人間は、死後、自分自身の愛あるいは自分自身の意志である。
第二、 人間は、自分自身の意志または支配愛に関してどのようなものであるかにしたがって、永遠にとどまる。
第三、愛が天界的で霊的である人間は天界へ行く、愛が天界的で霊的でなくて、身体的で世俗的である人間は地獄へ行く。
第四、信仰は、天界的な愛からのものでないなら、人間に残らない。
第五、活動での愛は残る、したがって人間のいのちは残る。

天界と地獄

478◀︎目次▶︎480

479 (i) 人間は、死後、自分自身の愛あるいは自分自身の意志であることは、多くの経験から私に証明されました。
全天界は愛の善の相違にしたがって社会に分かれています。天界に上げられて天使となっているそれぞれの霊は、彼の愛がある社会へ導かれ、そこに来るとき、自分自身のもとへ、いわばそこに生まれた家へ来たかのようです。このことを天使は認めており、そこの自分に似た者たちと社会を形成します。
そこから出かけ、他のところへ来るとき、常にある種の抵抗があり、自分と似た者へ、このように自分自身の支配愛へ戻ろうと願う情愛があります。
天界の中の交わりは、このように行なわれます。
同様に地獄にもまた、天界に対立している愛にしたがって交わりがあります(天界を構成する社会があること、そしてまた地獄に社会があり、それらのすべてが愛の相違にしたがって別れていることは前の41-50番それと200-212番参照)。
[2]人間が、死後、自分自身の愛であることは、次のことからもまた明らかにすることができました。その者の支配愛と一つにならないものは、その時、遠ざけられ、いわば彼からそれらが取り除かれることです。善である者は、すべての不調和あるいは不一致のものが、彼から遠ざけられ、いわば取り除かれ、そのように自分自身の愛の中に導かれます。悪い者も同様ですが、しかし、悪い者には真理が、善い者には虚偽が、最後に、それぞれの者が自分自身の愛になるようにまでも取り除かれる、という相違があります。このことは第三の状態の中で人間霊になされますが、そのことについては、あとで述べます。
このことがなされる時、変わることなく自分の顔を自分自身の愛へ向けていて、どれほど向きを変えても、常にその愛が目の前にあります(前の123, 124番参照)。
[3]すべての霊は、自分自身の支配愛の中に保たれさえするなら、好むどんなところへも、導かれることができます。このようになることをどれほど知っていて、抵抗しようと思っても、抵抗することはできません。支配愛に反して、何かを行なうことができるかどうか、数多く試されました、しかし、むだでした――彼らの愛は縄かまたは綱のようであり、いわばそれによって縛りつけられ、それによって引っ張られ、それから解かれることはできません。
世の人間も同様であって、彼自身の愛が彼を導き、自分自身の愛を通して他の者により導かれます。けれども、霊になる時、外観に他の愛を見せて、自分のものでない愛を偽ることは許されないので、さらにそうなります。
[4]人間の霊がその者の支配愛であることは、来世でのすべての交わりから明らかにされています。なぜなら、だれかが他のある者の愛にしたがって行ない、話すほど、それだけその他の者は、機嫌のよい生きいきとした満足した顔つきで、全体が見られます、しかし、だれかがその者の愛に反して行ない、話すほど、それだけ彼の顔は、変わり、暗くなり、見えなくなり始め、ついには、そこにいなかったかのように全体が消えるからです。
このようなことは世では何ら存在することができないので、私はしばしば不思議でした――しかし、「同様のことが人間の中の霊で起こっている」と言われました。ある者が他の者と疎遠になるとき、もはやその者の視野の中にいないのです。
[5]霊が自分自身の支配愛であることは、それぞれの霊がその愛に一致するすべてのものを捕らえ、自分自身のものとし、そして一致しないすべてのものを投げ返し、自分自身から追い出すことから――それぞれの愛は海綿状のまた多孔性の木質のようであって、その植物的な生長に役立つような液体を吸収し、他のものをはねつけます。また、自分の食物を知っているすべての種類の動物のようであって、その性質に一致するものをほしがり、一致しないものを拒絶することからも明らかです――それぞれの愛はそれ自体のものから、悪の愛は虚偽から、善の愛は真理から養育されることを欲するからです。
何度か見ることがありましたが、それは、ある善い単純な者が、悪い者に真理と善を教えることを欲しました、しかし、その者たちは教えることから遠くへ逃げ去り、自分自身〔と似た者たち〕のところに来たとき、その愛に一致する虚偽を快楽とともに捕らえたこと――さらにまた、善霊が自分たちの間で真理について話したところ、居合わせた善い者はそれを望みとともに聞きました、しかし、同じく居合わせた悪い者はそれを聞かないかのように、何も注意を向けなかったことです。
霊たちの世界に道が現われます。あるものは天界へ、あるものは地獄へ、それぞれが、ある社会へ導く道です――善い霊は、天界へ導く道、自分自身の愛の善の中にある社会へ導く道以外の他の道へは行きませんし、他へ向かう道は見ません。しかし、悪い霊は、地獄へ導く道、自分自身の愛の悪の中にある社会へ導く道以外の他の道へは行きません。他へ向かう道は見ません、見ても入ろうとはしません。
霊界の中のこれらの道は、実在する外観であって、真理と虚偽に対応します。それゆえ、みことばの中の「道」は、それらを意味します(*4)
これらの証拠となる経験から、最初に理性から言われたことが、すなわち、それぞれの人間は死後、自分自身の愛と自分自身の意志であることが確信されます――意志と言われるのは、それぞれの意志そのものが彼の愛であるからです。


*4 「道」・「わだち」・「路地」・「街路」は、善へ導く真理を意味し、そのようにまた悪へ導く虚偽を意味する(627, 2331, 10422)。
「道を掃くこと」は、真理が受け入れられるように準備することである(3142)。
「道を知らせること」は、主についてであるとき、善へ導く真理を教えることである(10565)。
人間のプロプリウムからの悪は、他の者への軽蔑・敵意・憎しみ・復讐・残酷・欺きである(6667, 7370, 7373, 7374, 9348, 10038, 10742)。
人間のプロプリウムが支配すれば支配するほど、それだけ愛の善と信仰の真理は退けられるか、窒息させられるか、あるいはゆがめられる(2041, 7491, 7492, 7643, 8487, 10455, 10742)。
人間のプロプリウムは、彼のもとにある地獄である(694, 8480)。
人間がプロプリウムから行なう善は、善ではなく、本質的に悪である(8480)。

天界と地獄

479◀︎目次▶︎481

480. (ii)人間は、自分自身の意志または支配愛に関してどのようなものであるかにしたがって、永遠にとどまることもまた多くの経験によって証明されました。
二千年前に生き、その生涯が歴史に述べられていて、ここからよく知られた者と話すようになりました――彼らは、今なお彼ら自身と似ており、完全に記述されたような者たちであること、このように愛に関して、愛からまた愛にしたがって、彼らの生活があったことがわかりました。
他に、千七百年前に生き、歴史からもまたよく知られていた者がいました。また、四百年前、三百年前の者など、彼らともまた話すようになりました――同様の情愛が今なお彼らのもとで支配していることがわかりました。彼らの愛の快さが対応するそのようなものに変わった以外に、他の違いはありませんでした。
天使から、「支配愛からの生活は、だれもが自分自身の愛であるので、だれのもとでも決して永遠に変化しません。それゆえ、霊のもとの愛を変えることは、その者自身のいのちを奪うかまたは消すことです」と言われました。
その理由もまた言いました。すなわち、「人間は、死後、世でのように、もはや教えによって改心されることはできません。自然的な知識と情愛から成り立つ最外部の面が、その時、休止し、霊的なものでないので、開かれることはできないからです(前の464番参照)。その面の上に、心(mens)またはアニムス(気質)のものである内的なものが、家がその土台の上に休むように、休みます。ここから、人間は、彼の愛からの生活が世であったように、そのような生活を永遠に続けます」。
天使は、〝人間が、それぞれの者がその支配愛がどのようであるかによってそのような者となっていること〟を知らず、〝多くの者が、生活がどんなものであっても直接の慈悲から、信仰のみから救われると信じ、神的慈悲は間接的であること〟を知らないこと、〝主により、世と同様に、その後も永遠に導かれること、悪の中に生きない者は慈悲から導かれること、信仰は、主からのものである天界的な愛から発出する真理への情愛であること〟も知らないことに大いに驚きます。

天界と地獄

480◀︎目次▶︎482

481. (iii) 愛が天界的で霊的である人間は天界へ行く、愛が天界的で霊的でなくて、身体的で世俗的である人間は地獄へ行くことは、私の見た天界に上げられた者から、また地獄に投げ込まれたすべての者から、私に明らかとなりました。
天界に上げられた者には、天界的で霊的な愛からの生活(いのち)がありました。けれども、地獄に投げ込まれた者には、身体的で世俗的な愛からの生活(いのち)がありました。
天界的な愛は、善・誠実・公正であるゆえに、善・誠実・公正を愛することであり、それらへの愛から、それらを行なうことです。ここから、彼らに善・誠実・公正の生活があり、それらは天界の生活です。
それらのためにそれらを愛し、それらを行なう、すなわち、それらに生きる者は、それらは主からのものであるので、主をもまたすべてにまさって愛します。それらは愛さなければならない隣人であるので、隣人もまた愛します(*5)
けれども、身体的な愛は、善・誠実・公正をそれら自体のためでなく、自分自身のために愛することです、それらによって名声・名誉・利益を獲得するからです。彼らは、善・誠実・公正の中に、主と隣人を見ないで、自分自身と世を見ており、欺瞞に快さを感じています。そして欺瞞からの善・誠実・公正は、悪・不誠実・不正であり、彼らが愛しているのは、善・誠実・公正の中にある悪・不誠実・不正です。
[2]愛はこのようにそれぞれの者の生活(いのち)を決定するので、それゆえ、すべての者は、死後、霊たちの世界にやって来ると直ぐに、どのような者であるか検査され、似た愛にいる者と結びつけられます。天界的な愛の中の者に、天界の者が、身体的な愛の中の者に、地獄の者が結びつけられます。
そしてまた、第一と第二の状態が過ぎ去った後は、もはや互いに見ず、互いに知りもしないように分離されます。それぞれの者が、心のものである内的なものに関してだけでなく、顔・身体のもの・話し方である外的なものに関してもまた、それぞれの者が外部でも自分の愛の似姿となるので、自分自身の愛となるからです。
身体的な愛にいる者は、粗野で、暗く、黒く、奇形に見えます。けれども、天界的な愛にいる者は、元気に満ち、明るく、輝いて、美しく見えます――アニムス(気質)と思考でもまた完全に異なっています。天界的な愛にいる者は、知性と知恵もあります。けれども、身体的な愛にいる者は、愚鈍で、いわば馬鹿者です。
[3]彼らの思考と情愛の内的なものと外的なものを眺めることが与えられるとき、天界的な愛の中にいる者は、内的なものが光のように、ある者の内的なものは炎のような光のように、また外的なものは虹のようにいろいろな美しい色に見えます――しかし、身体的な愛の中にいる者は、彼らの内的なものが、閉ざされているので、黒いもののように、内部で悪意のある欺きの中にいたある者の内的ものは暗い火のように見えます。けれども、外的なものはきたない色に見え、惨めな外観をしています(主が喜ばれるたびごとに、霊界で心(mens)とアニムスに属す内的なものと外的なものは見えるように示されます)。
[4]身体的な愛の中にいる者は、天界の光の中では何も見ません――天界の光は彼らに暗黒です。しかし、炭火からの光のようである地獄の光は、彼らに明るい光のようです。さらにまた天界の光の中で彼らの内的な視覚は、狂うほどにまでも暗くされ、それゆえ、彼らはそれを避け、洞窟やほら穴の中に、彼らのもとの悪からの虚偽にしたがって、奥深く隠れます――けれども、これに反して、天界的な愛の中にいる者は、天界の光の中へ、さらに内部へとやって来るほど、それだけ明るく、すべてのものを、そしてまたすべての美しいものを見ます。そしてそれだけ知性と知恵で真理を知覚します。
[5]身体的な愛の中にいる者は、天界の熱の中で決して生きることができません、なぜなら、天界の熱は天界的な愛であるからです、しかし、地獄の熱の中で生きることができ、その熱は自分に好意を持たない他の者に激怒する愛です。
他の者への軽蔑・敵意・憎しみが、その愛の快さです。それらの中にいるとき、自分自身のいのち(生活)の中にいます。善そのものから他の者に善を行なうこと、また善そのものために善を行なうこととは何かまったく知らないで、ただ悪から、また悪のために善を行なうことしか知りません。
[6]身体的な愛の中にいる者は、天界の中で呼吸することもできません――ある悪い霊が天界へ連れて行かれるとき、身もだえの中で苦しむ者のように、あえぎながら呼吸します。けれども、天界的な愛の中にいる者は、天界の内部にいればいるほど、それだけ自由に呼吸し、豊かに生きます。
これらから、天界的で霊的な愛は、その愛に天界のすべてのものが刻み込まれているので、人間のもとで天界であること、また天界的で霊的なものでない身体的で世俗的な愛は、その愛に地獄のすべてのものが刻み込まれているので、人間のもとの地獄であることを明らかにすることができます。
これらから、その者に天界的で霊的な愛のある者が天界へ行くこと、そしてその者に天界的で霊的なものがなく身体的で世俗的な愛のある者が地獄へ行くことが明らかです。


*5 主は、すべてにまさって愛されなくてはならないので、最高の意味で隣人である。しかし、主を愛することは主からのものを愛すること、このように善と真理を愛することである、主からのすべてのものの中に主がおられるからである(2425, 3419, 6706, 6711, 6819, 6823, 8123)。
主からの善と真理を愛することは、それらにしたがって生きることであり、このことが主を愛することである(10143, 10153, 10310, 10336, 10578, 10645)。
すべての人間、社会、さらに祖国や教会は、そして普遍的な意味で主の王国は、隣人である。またそれらに、それらの状態がどんなものかにしたがって善の愛から、善を行なうことが隣人を愛することである。このように、それに利益を図らなければならないそれらの善が隣人である(6818-6824, 8123)。
誠実という道徳的な善、公正という市民的な善もまた隣人である。誠実で公正な愛から誠実で公正に行動することは、隣人を愛することである(2915, 4730, 8121-8123)。
ここから、隣人に対する仁愛は人間の生活のすべてのものに広がっており、すべての職務とすべての働きの中で、善と公正を行なうこと、そして心から誠実に行動することは隣人を愛することである(2417, 8121, 8124)。
古代教会の中の教えは仁愛の教えであり、ここから彼らに知恵があった(2385, 2417, 3419, 3420, 4844, 6628)。

 

天界と地獄

 

482. (iv) 信仰は、天界的な愛からのものでないなら、人間に残らないことは、もしそれらの事柄について私が見て、聞いたことが提示されるなら、一冊の本を満たすほどの多くの経験によって私に明らかにされました。
私は、天界的で霊的なものがなくて身体的で世俗的な愛の中にいる者には、まったく何も信仰がなく、与えられることもできず、自分自身の愛に仕えるので、ただ真理であることの知識または信念があるだけであることを証言することができます。
自分は信仰の中にいると思っていた者から多くの者が、信仰の中にいる者のところへ連れて来られました。そして〔彼らの間で〕伝達が与えられた時、自分たちに何も信仰がないことを知覚しました――また真理やみことばをただ信じるだけでは信仰ではなく、天界的な愛から真理を愛し、内的な情愛からそれを欲し、行なうことが信仰であると告白することもできました。
さらにまた、彼らが信仰と呼んだその信念は、ただ冬の光のようなものであることも示されました。その中には熱がないので、地上のすべてのものは凍るような寒さに縛られて不活発になり、雪の下に横たわります。それゆえ、彼らのもとの間違った信念の信仰の光は、天界の光線に打たれると直ぐさま消えるだけでなく、濃い暗黒のようにもなり、その中ではだれも、自分自身すら見えません。その時、同時に、内的なものは、まったく何も理解しないほどに暗くなり、ついには虚偽から狂います。
それゆえ、このような者のもとで、彼らがみことばと教会の教えから知り、自分たちの信仰であると言ったそれらのすべての真理は取り除かれ、それらに代わって、彼らの生活の悪と一致するすべての虚偽を教え込まれます。すべての者は自分自身の愛の中に、それらと一致する虚偽の中に入れられるからです――その時、彼らの中にある真理は、悪の虚偽に抵抗するので、憎まれ、退けられ、こうして捨てられます。
私は、天界と地獄の事柄についてのすべての経験から、「教えから信仰のみを告白し、生活に関しては悪の中にいたすべての者は地獄にいる」ことを証言できます。私は数千人もの地獄に投げ込まれる者を見ました、そのことについては小著『最後の審判と滅ぼされたバビロニア』の中で述べてあります。

天界と地獄

482◀︎目次▶︎484

483. (v) 活動での愛は残る、したがって人間のいのちは残ることは、今、示された経験から、前に言われた行為と働きについて、活動での愛は働きと行為であることから、結論としていえます。

天界と地獄

483◀︎目次▶︎485

484. すべての働きと行為は、道徳的で市民的な生活に属し、ここから誠実と正直に、さらに公正と公平に目を向けているものであることを知らなくてはなりません。

誠実と正直は道徳的な生活に、また公正と公平は市民的な生活に属します。
それらが行なわれるときの愛は、天界的かあるいは地獄的です――道徳的で市民的な生活の働きと行為は、天界的な愛から行なわれるなら天界的です。なぜなら、天界的な愛から行なわれるものは、主から行なわれ、主から行なわれるものは、すべて善であるからです。しかし、道徳的で市民的な生活の働きと行為は、地獄的な愛から行なわれるなら地獄的です。なぜなら、自己愛と世俗愛である愛から行なわれるものは、人間自身から行なわれ、人間自身から行なわれるものは、すべては本質的に悪であるからです。本質的に見られた人間は、すなわち、彼のプロプリウム(固有のもの)から見られるなら、悪以外の何ものでもないからです(*6)


*6 人間のプロプリウムは神よりも自分自身を、また天界よりも世を愛することである。そして自分自身と比べて隣人を無とすること、このように自己愛と世俗愛である(694, 731, 4317)。
このプロプリウム中に人間は生まれており、それは執拗な悪である(210, 215, 731, 874-876, 987, 1047, 2307, 2308, 3518, 3701, 3812, 8480, 8550, 10283, 10284, 10286, 10732)。
人間のプロプリウムから、すべての悪だけでなく、すべての虚偽もまたある(1047, 10283, 10284; 10286)。

 

天界と地獄

484◀︎目次▶︎486

50 それぞれの者のいのちの快いものは、死後、対応するものに変わる

485 支配する情愛または優勢である愛はそれぞれ者のもとに永遠に残ることは、前章に示しました。けれども、その情愛または愛の快いものは対応するものに変わることを、今や示さなければなりません。
対応するものに変えられるものによって、自然的なものに対応する霊的なものが意味されます。
霊的なものに変えられることは、人間は地的な自分の身体の中にいるかぎり自然界の中にいること、しかし、その身体を残した後、霊界にやって来て、霊的な身体を着ることから明らかにすることができます(天使さらにまた死後の人間は完全な人間の形であること、彼らの着ている身体は、霊的なものであることは前の73-77番、それと453-460番、自然的なものと霊的なものとの対応が何かは87-115番参照)。

天界と地獄

485◀︎目次▶︎487

486. 人間にあるすべての快いものは支配愛に属します、なぜなら、人間は愛するもの以外の他のものに何も快さを感じないからであり、こうしてすべてのものにまさって愛するものに最大の快さを感じるからです。
支配愛と言っても、あるいはすべてにまさって愛するものと言っても、同じです。
それらの快いものはいろいろあって、全般的に、支配愛と同数の、したがって人間・霊・天使と同数の、それだけ多くのものがあります。なぜなら、ある者の支配愛と他の者の支配愛はあらゆる点で似ていないからです。
ここから、ある者の顔が他の者と完全に似ていることは決してありません、なぜなら、顔はそれぞれ者の心(animus)の映像であり、霊界ではそれぞれの者の支配愛の映像であるからです。
それぞれの快いものは特定的にもまた無限に変化していて、ある快さとあらゆる点で似ているかまたは同じである他のものは存在しません。あるもの後に他のものが続いても、同じく、あるものが他のものと同時に存在しても、他のものと同じものは存在しません。
しかしそれでも、これらの快さは特定的にそれぞれの者のもとで支配愛である一つの愛に関係します、支配愛を構成し、それと一つになるからです。
同様に、すべての快いものは全般的に、広く支配している一つの愛に、天界では主への愛に、地獄では自己愛に関係します。

天界と地獄

486◀︎目次▶︎488

487. それぞれ者の自然的な快いものが死後に変わる霊的な快いものは、何であり、どんなものかは、対応の知識からでしか知ることができません。
その知識により、全般的に、霊的なものが対応することのない何らかの自然的なものは存在しないこと、そしてまた特定的に、対応するものが何であり、どんなものかを教えられます。
そのために、その知識の中にいる者は、自分自身の愛を、またそれが広く支配している愛の中で、どのようであるかを知るだけで、自分の死後の状態を認め、知ることができます。すぐ前に言われたように、すべての愛がその広く支配している愛へ関係しています。
しかし、自分自身の支配愛を知ることは、自己愛の中にいる者には不可能です。自分自身のものを愛し、自分自身の悪を善と呼び、そして同時にその悪に賛同し、自分自身の悪を強化する虚偽を真理と呼ぶからです。しかしそれでも、もし欲するなら、賢明である他の者から、彼らは自分自身では見れないものを見るので、知ることができます。
しかし、このことも、賢明な者の教えをすべて蹴飛ばすような自己愛に捕らわれた者のもとでは起こりません。
[2]けれども、天界的な愛の中にいる者は、教えを受け入れ、生まれついた自分自身の悪を、その悪の中に導かれる時、真理から見ます、真理は悪を明らかにするからです。
だれでも善からの真理から、悪とその虚偽を見ることができます、しかし、だれも悪から、善と真理を見ることはできないからです――その理由は、悪からの虚偽は暗やみであり、またそれらに対応するからです。それゆえ、悪からの虚偽の中にいる者は、盲目の者のようであり、その者は光の中にあるものを見ないで、フクロウのようにそれを避けます(*1)
しかし、善からの真理は光であり、光に対応します(前の126-134番参照)。それゆえ、善からの真理の中にいる者は、見ており、目は開かれていて、光のものと暗やみのものを見分けます。
[3]これらのこともまた経験によって確信しました。
天界の中にいる天使は、自分自身の中に何度か生じる悪と虚偽を、また霊たちの世界の中で地獄と結びついている霊が入り込んでいる悪と虚偽を見、知覚します。しかし、霊自身は自分自身の悪と虚偽を見ることはできません。
自分自身のために行なわれないなら、何が天界的な愛の善か、何が良心か、何が誠実で公正か、主により導かれることが何であるか、わからないで、「存在しない、したがって無意味である」と言います。
これらのことが言われたのは、人間が自分自身を調べ、自分の快いものから自分の愛を認め、またここから、対応の知識から理解するかぎり、死後の状態または生活を知る、という目的のためです。


*1 みことばの中の「暗やみ」は、対応から虚偽を、そして「濃い暗やみ」または暗黒は、悪からの虚偽を意味する(1839, 1860, 7688, 7711)。
天界の光は悪い者には暗黒である(1861, 6832, 8197)。
地獄にいる者は、悪からの虚偽の中にいるので、暗やみにいると言われる、彼らについて(3340, 4418, 4531)。
みことばの中の「盲目の者」は、虚偽の中にいて、教えられることを欲しない者を意味する(2383, 6990)。

天界と地獄

487◀︎目次▶︎489

488. それぞれの者のいのち(生活)の快いものが、死後、対応するものにどのように変わるかは、対応の知識から知ることができるといっても、しかし、その知識はまだ広まっていないので、ある私の経験した事柄を例にして、そのことについて明らかにしましょう。
悪の中にいるすべての者、教会の真理に反する虚偽を確信した者、特に、みことばを退けた者は、天界の光を避け、開口部が暗黒に見えるあなぐらの中へ、また岩の穴の中へ突進し、そこに隠れます。このことは、虚偽を愛し、真理を憎んだからです――なぜなら、このようなあなぐらや岩の穴は(*2)、さらに暗やみは、虚偽に(*3)、そして光は真理に対応するからです。彼らにはそこに住むことが快く、開けた平地に住むことは不快です。
[2]ひそかにたくらむこと、隠れて欺きをもくろむことが快かった者も同様です。これらの者もまた、あなぐらにいて、だれも互いに見えないような暗い部屋に入り、片隅で耳もとにささやいています。彼らの愛の快さはこのことに変わります。
学識ある者と呼ばれることだけを目的に知識を学んで、そのことによって理性を養わなかった者、また記憶の事柄を自慢することから快さを得た者は、砂地を愛し、平野や庭園よりもそれらを選びます。砂地はこのような研究に対応するからです。
[3]自分自身や他の者の教会の教義の事柄の中にいて、それを生活に何も適用しなかった者は、岩地を選び、岩の堆積の間に住み、耕された場所は、いやでたまらないので避けます。
すべてのものを自然に帰した者、またすべてのものを自己の思慮に帰し、いろいろな策略で名誉ある地位へ上り、富を得た者は、来世で、神の秩序の悪用である魔術の技巧を研究し、それらにいのちの最大の快さを覚えます。
[4]神的な真理を自分自身の愛に適用して虚偽化した者は、尿を好みます。尿がこのような愛の快いものに対応するからです(*4)
あさましいほどに貪欲であった者は、小部屋に住み、ブタの汚物を、また胃の中の不消化物から発散されるような悪臭を愛します。
[5]単なる快楽の生活を過ごし、ぜいたくに生き、食道と胃のほしいままにし、それらを最高によい生活であるかのように愛した者は、来世で排泄物と便所を愛します。その時、それらのものが彼らに喜ばしいのです。このような欲望は霊的な汚物であるという理由からです――きたないもののない清潔な場所は、彼らに不快であるので避けます。
[6]姦淫に快さを得た者は、すべてのものが汚れていて、きたない売春宿で時を過ごします。売春宿を愛して、貞淑な家庭を避けます。貞淑な家庭にやって来ると直ぐに失神状態に落ち込みます。彼らにとって結婚を切り裂くことよりも快いものは何もありません。
復讐の欲望にいて、そこから獰猛で残酷な性質を身につけた者は、死体を愛し、さらにまた、そのような地獄にいます。


*2 みことばの中の「穴」と「岩の裂け目」は、信仰の不明瞭なものと虚偽を意味する(10582)。「岩」は主からの信仰を(8581, 10580)――また「石」は信仰の真理を意味するからである(114, 643, 1298, 3720, 6426, 8609, 10376)。
*3 ここには四八七番の*1と同じ記号が振られている。
*4 真理を汚すことは尿に対応する(5390)。

天界と地獄

488◀︎目次▶︎490

489. けれども、世の中で天界的な愛の中に生きた者のいのち(生活)の快いものは、天界の中にあるような、対応するものに変わります。それは天界の太陽から、そこからの光から存在し、その光によって、それ自体の内部にたくわえている神的なものが視覚に見られます――ここから、それらの見えるものは、天使の心のものである内的なものに働きかけ、そして同時に身体のものである外的なものに働きかけます――また主から発出する神的真理である神的光が、天界の愛によって開かれている彼らの心の中に流入するので、それゆえ、外部に彼らの愛の快さに対応するものを現わします。
天界で視覚に見られるものは、天使の内的なものに、すなわち、信仰と愛のものに、そしてここから彼らの知性と知恵のものに対応することは、「天界の中で表象するものと外観」(170-176番)が扱われた章の中に、また「天界の天使の知恵」(265-275番)が扱われた章の中に示してあります。
[2]最初に理由として言われた事柄を説明するために、経験からの例により、それらの事柄を確信するようにして始めたので、さらに私は、世で天界的な愛の中に生きた者のもとの自然的な快いものが変化していく天界の快いものについていくつか公けにすることにします。
内的な情愛から、すなわち真理そのものへの情愛から、神的真理とみことばを愛した者は、来世で光の中の、山のように見える高い場所に住み、永遠にそこの天界の光の中にいます――彼らは、世の夜のような、暗やみが何かを知りません。さらにまた春の温和の中で生きます。
彼らの視野には、いわば畑や作物、そしてまたぶどう畑が見られます。彼らの家の中では、個々のものが宝石のように輝き、窓を通して、純粋な水晶を通して見るかのようです――これらが彼らの視覚の快いものです、しかし同じこれらのものが、神的な天界のものに対応するものから、内的な快いものとなっています。なぜなら、彼らが愛したみことばからの真理は、作物・ぶどう畑・宝石・窓・水晶に対応するからです(*5)
[3]みことばからのものである教会の教えの事柄を直ちに生活に適用させた者は、最内部の天界にいて、他の者にまさって知恵の快いものの中にいます。対象の個々のものの中に神性を見ます。確かに彼らは対象を見ています、しかし、対応する神性が直ちに彼らの心の中に流入し、心を至福で満たし、彼らのすべての感覚はその至福によって情愛を感じています。ここから、彼らの目の前のすべてのものは、あたかも笑い、遊び、生きているかのようです(このことについては前の270番参照)。
[4]知識を愛し、その知識よって自分自身の理性を養い、同時に神性を認めた者は、彼らの知識からの快楽が、また理性からの快さが、来世で、善と真理の認識からのものである霊的な快さに変えられます。
彼らは庭園の中に住み、そこの中庭には美しく区切られた花壇と草地があり、その周囲に、並木道や遊歩道とともに木の列が見えます。木や花は、日々、変化します。すべての外観は全般的に彼らの心の快いものを現わし、個々別々なものの変化により常に快いものが新たにされます――神的なものに対応し、彼らに対応の知識があるので、常に新しい知識で満たされ、その知識によって彼らの霊的な理性は完全にされます。
彼らにこれらの快いものがあります――庭園・花園・草・木が、知識・認識・そこからの知性に対応するからです(*6)
[5]すべてのものを神性に帰し、自然は相対的に死であり、単に霊的なものに仕えるものとして眺め、そのことを確信した者は、天界の光の中にいます。そして彼らの目の前のすべてのものは、その光により透明となって見えます。その透明性の中で、光の変化の無数のものを眺め、それらを彼らの内なる視覚によっていわば直接に吸収します。ここから彼らは内的な快いものを知覚します。
彼らの家の中に見られるものは、いわばダイヤモンド製であり、それらの中にダイヤモンドに似た多彩な色があります。
「彼らの家の壁はいわば水晶製であり、このようにまた透明です。その中に天界の事柄を表象する形が、あたかも流れのようなものが、さらにまた絶え間のない変化をもって見えます。これらのことは、このような透明性が、主により照らされて、自然的な信仰と愛から陰が取り除かれた理解力に対応しているからです」と言われました。
天界にいた者から、「だれも目で見なかったものを見た」と言われ、神性を知覚して、伝達した者から、「だれも耳で聞かなかったものを聞いた」と言われるものは、このようなものや他の無数のものです。
[6]ひそかに行なわないで、市民生活で許されるかぎり、考えたものすべてが公けであるようにと望んだ者は、神的なものからの誠実で公正なものしか考えなかったので、天界の中でその顔は輝き、その光から顔の中に情愛と思考の個々のものが形となったかのように現われ、話し方と行動に関しては、いわば自分自身の情愛の似姿となっています。
ここから、他の者にまさって愛されています。
彼らが話すとき、顔をやや暗くしますが、しかし、話したあと、話したことと同じものを顔の中に、完全に同時に視覚に現わします。
彼らの周囲に存在するすべてのものもまた、彼らの内的なものに対応するので、他の者から、何を表象し、意味するか、はっきりと知覚されるような外観で存在します。
ひそかに行なうことが快かった者を遠くから避けます。彼らはヘビが這って逃げるように見えます。
[7]姦淫を極悪と見なして、貞淑な結婚愛の中に生きた者は、他の者にまさって天界の秩序と形の中に、ここからすべての美の中に、そして絶えず青春時代の花の中にいます――彼らの愛の快いものは、言い表わせないものであり、永遠に増大します。なぜなら、その愛の中へ天界のすべての快さと楽しさが流入するからです。その愛は主と天界との結合から、また主と教会との結合から下降し、全般的に善と真理の結合から下降しているので、その結合は全体的にも、またそれぞれの天使のもとで特定的にも、天界そのものです(前の366-386番参照)。
彼らの外なる快いものは、人間の言葉で記述されることができないようなものです。
しかし、これらの天界的な愛の中にいる者のもとの快いものに対応するものについて言われたことは、わずかなものです。


*5 みことばの中の「収穫物」は、善からの真理を受け入れることとその増加の状態を意味する(9294)。
「立っている作物(穀物)」は、受胎中の真理を意味する(9146)。
「ぶどう畑」は、霊的な教会とその教会の真理を意味する(1069, 9139)。
「宝石」は、善から透明である天界と教会の真理を意味する(114, 9863, 9865, 9868, 9873, 9905)。
「窓」は、内なる視覚である知力を意味する(655, 658, 3391)。
*6 「庭園」、「木立ち(杜)」、「楽園」は知性を意味する(100, 108, 3220)。
それゆえ、古代人は聖なる礼拝を木立ち(杜)の中で行なった(2722, 4552)。
「花」と「花園(花壇)」は、記憶知の真理と知識を意味する(9553)。
「草本」、「草」、「草地」は、記憶知の真理を意味する(7571)。
「木」は、知覚と知識を意味する(103, 2163, 2682, 2722, 2972, 7692)。

天界と地獄

489◀︎目次▶︎491

490. これらから、すべての者の快いものは、死後、対応するものに変化すること、それでも愛そのものは、例えば、結婚愛・公正・誠実・善・真理への愛・知識と認識への愛・知性と知恵への愛、その他など、永遠に残っていることを知ることができます――流れがその源から流れ出るように、ここから流れ出るものは快いものであり、さらにまたそれは残存します。しかし、自然的なものから霊的なものへ上げられるとき、さらに高い段階へ上げられます。

 

天界と地獄

490◀︎目次▶︎492

51 人間の死後の最初の状態

491. 人間が天界あるいは地獄にやって来る以前に、死後に経験する三つの状態があります。
最初の〔第一の〕状態は外的な状態です。第二の状態は内的な状態です。第三の状態は準備の状態です――人間はこれらの状態を霊たちの世界で経験します。
けれどもこの状態を経験しない者もいて、その者は、死後、直ちに、天界に連れて行かれるか、あるいは地獄に投げ込まれます。
直ちに天界に連れて行かれる者は、世で再生し、こうして天界への準備をした者です――そのように、再生し、準備した者は、身体とともに不潔な自然的なものを捨てることだけが必要であって、彼らは直ちに天使により天界へ導かれます。私は、死の時の後、〔そのまま天界に〕上げられた者を見ました。
けれども、内部(内なるもの)に悪意があり、外部(外なるもの)で善良な外見をしていて、欺きの手段として善良さを利用して、そのように自分の悪意を欺きで満たした者は、直ちに地獄に投げ込まれます。私は何人かのこのような者が直ちに地獄に投げ込まれるのを見ました。最も狡猾だった者は、頭を下に、足を上にして投げ込まれました。また他の者は異なった仕方で投げ込まれました。
死後、直ちに洞窟に投げ込まれる者もいます。こうして霊たちの世界にいる者から分離され、そして時々、そこから連れ出され、またそこへ入れられたりします。これらの者は、市民〔として〕の口実のもとに隣人に悪意をもって実行した者です。
しかし、霊たちの世界に留め置かれ、そこで神的な秩序にしたがって天界かあるいは地獄へと準備される者と比べて、それらの者は少数です。

天界と地獄

491◀︎目次▶︎493

492  外的な状態である最初の状態については、人間は死後、直ちにその中へやって来ます。
それぞれの人間に、その霊に関して、外的なものと内的なものがあります――霊の外的なものは、それによって、霊は世で人間の身体を、特に、その顔つき・話し方・振る舞いを、他の者と交わるために適合させます。霊の内的なものは、それはその固有の意志とそこからの思考に属すものであって、それらは、顔つき・話し方・振る舞いに現れることはまれです。人間は幼年期から、友情・好意・誠実を装うこと、また自分の固有の意志の考えを隠すことに慣れているからです。ここから、内部(内なるもの)がどんな種類のものであっても、習慣から外部(外なるもの)では道徳的で市民的な生活を得ています。
この習慣から、人間は自分自身の内的なものをほとんど知らないこと、またそれに気づかないことも生じています。

天界と地獄

492◀︎目次▶︎494

493 死後の人間の最初の状態は、世での状態に似ています。その時、外部では同じようであって、顔つきも、話し方も、気質も、そのように道徳的で市民的な生活も似ているからです。
ここから、彼はその時、彼が出会ったものに、また生き返りのときに天使から、「今や霊です」と言われたこと(450)に留意しないなら、依然として世にいるとしかわかりません。
そのように、一つの生活からもう一つの生活へと続き、死は単なる移行です。

天界と地獄

493◀︎目次▶︎495

494 世での生活の後、〔霊たちの世界に〕新しく来た人間の霊はこのようであるので、それゆえ、その時、友から、また世の中でよく知った者から知られます。なぜなら、霊は近づくとき、そのことを、彼の顔つきや話し方からだけでなく、彼のいのちのスフェアからも知覚するからです。
来世ではだれでも他の者について考える時、思考の中で彼の顔が示されるだけでなく、同時に、彼の生活に属した多くのこともまた示されます。またこのことがなされるとき、他の者は呼ばれたかのように現われます。
霊界にこのようなことが存在するのは、そこでは思考が伝達され、そこに自然界の中のような空間がないことからです(前の191-199番参照)。
ここから、最初に来世の生活にやって来た時、そのすべての者は、自分の友・知人、そしてまた何らかの方法で知られた者から認められ、そしてまた互いに話し合い、その後、世での友情にしたがって交わります。
私は、世からやって来た者が自分の友を再び見て喜び、友たちも彼らがやって来て互いに喜んだことをたびたび聞きました。
結婚した配偶者たちが会い、相互に挨拶することは普通です。さらにまた一緒に滞在し、それは世で一緒に住んだことの快さにしたがって、長かったり、短かかったりします。しかしそれでも、天界的な愛からの心の結合である真の結婚愛により彼らが結合されなかったなら、ある程度の滞在の後、分離されます。
けれども、その者たちの心が互いの間で不一致であるなら、そして互いに内部で背き合っていたなら、敵意があからさまに突発し、時々はけんかにもなります。それでもやはり、第二の状態に入らないうちは分離されませんが、そのことについてはすぐあとで述べます。

天界と地獄

494◀︎目次▶︎496

495 〔霊たちの世界に〕新しく来た霊の生活は自然界での彼らの生活と似ているので、また彼らは死後の自分のいのち(生活)の状態について、天界と地獄についても、みことばの文字どおりの意味とそこからの説教で学んだこと以外に何も知らないので、それゆえ、身体の中にいて、世でもっていたすべての感覚をもっていることに、また似たものを見ることに驚いた後、天界がどんなものか、地獄がどんなものか、そしてどこにあるのか知りたいと願うようになります。
それゆえ、友から永遠の生活について教えられ、またいろいろな場所へ、いろいろな交わりの中へ連れて行かれます。ある者は都へ、また庭園や楽園へも連れて行かれますが、多くの場合、それらは荘厳なものです、これらのものが彼らの外なるものを楽しませるからです。
時々、死後の自分の霊魂の状態について、また天界と地獄について、いのちが身体の中にあったときにもっていた自分の思考に導かれることがあり、その時、自分たちがこのようなことにまったく無知だったことに、教会もまた無知であることに憤慨します。
ほとんどすべての者は、天界に行けるかどうか知ることを望みます――大部分の者は、〝世で道徳的で市民的な生活を送ったので天界に行ける〟と信じています。悪い者と善い者が似たような外なる生活を送り、同じように善を行ない、そして同じように礼拝所をしばしば訪れ、説教を聴き、祈っていることを思いません、また外なる行動や外なる礼拝は何もなさないで、内なるものがなすのであって、外なるものはそれらから発出するものであるということをまったく知りません。
数千人のうち、かろうじてひとりだけが、内なるものが何か、また人間の内なるものの中に天界と教会があることを知っています。意図と思考がどんなものであるかによって、外なる行動もそのようなものとなり、これらの中に愛と信仰があって、それらから存在することについては、なおさら知りません。また教えられても、考えることと意志することが重要であることがわからないで、話すことと行動することだけが重要であるとしかわかりません。
今日、キリスト教界から来世にやって来る者の大部分はこのようです。

天界と地獄

495◀︎目次▶︎497

496 それでも、善い霊により、どのようなものであるか調べられ、このことはいろいろな方法で行なわれます。この最初の状態の中で、悪い者は同じように真理を話し、善い者のように善を行なうからです。その理由は、前にも述べましたが、統治のもとで、また法律のもとで生きたので、外なる形の中で同じように道徳的に生きたからです。またそのことによって公正であり、誠実であるとの評判を得、心(animus)を捕らえ、こうして称賛される地位へ高められ、富も得ました。
しかし、悪い霊は善い霊から特に次のことによって見分けられます。悪い者は、外なるものについて言われることを熱心に聞きますが、教会と天界の真と善である内なるものはほとんど気にしません。これらのことを聞いても、留意することもなく、楽しくもありません――さらにまた次のことによっても見分けられます。ある方向へしばしば向きを変え、自分自身の意のままになるとき、そこへ向かう道を行きます。
その方向への方向転換から、またその道を通って進むことから、導く愛がどんなものであるか知られます。

天界と地獄

496◀︎目次▶︎498

497 世から到着するすべての霊は、天界のある社会に、あるいは地獄のある社会に結びつけられていますが、それは内的なものに関してだけです。けれども、内的なものは、外的なものの中にいるかぎり、だれにも明らかではありません。なぜなら、外部は内部をおおい、隠すからであり、内的な悪の中のいる者は特にそうです――しかし、その後、第二の状態にやって来るとき、明らかとなって現われます。その時、彼らの内的なものが開かれ、外的なものが眠るからです。

天界と地獄

497◀︎目次▶︎499

498 死後の人間の最初のこの状態は、ある者に数日間、ある者に数か月間、またある者に一年間続きますが、一年を越えることはまれです。個々の者に、外的なものと内的なものの一致と不一致にしたがって、違いがあります。
それぞれの者のもとで外的なものと内的なものは一つとして働き、対応しています――霊界では、考えることと意志することが話すことと行動すること異なっていることは許されません。そこではだれでも自分自身の情愛または愛の似姿でなくてはならず、それゆえ、内的なものがどのようなものであるかによって、外的なものもそのようでなくてはなりません。それゆえ、最初に霊の外的なものが、内的なものに対応する面として仕えるために、おおいをとられ、整えられなければならないのです。

天界と地獄

498◀︎目次▶︎500

52 人間の死後の第二の状態

499 人間の死後の第二の状態は内的なものの状態と呼ばれます。なぜなら、その時、彼の心(mens)に属すもの、すなわち、意志と思考に属す内的なものの中に入れられ、彼の最初の(第一の)状態の中にあった外的なものは眠るからです。
だれでも人間の生活に、その発言と行為に留意する者は、それぞれの者のもとに外的なものと内的なものが、すなわち、思考と意図の外的なものと内的なものがあることを知ることができます。
このことは次のことから知ることができます――市民的な生活の中にいる者は、他の者について、その者について聞き、知った評判からあるいは交際から考えます。それでも、〔その〕自分の考えにしたがって彼らと話すことはしません、またたとえ悪い者であっても、やはり彼らに礼儀正しく振る舞います。
このようであることは、偽り装う者やおべっか使いから、特によく知られます。彼らは、考え、意志することとはまったく異なって、話し、振る舞います。また、神・天界・魂の救い・教会の真理・祖国の善・隣人について、信仰と愛からのように話す偽善者から明らかです。そのとき、彼らは、それでも心で他のことを信じ、自分自身だけを愛しています。
[2]これらから、一つは外的な、もう一つは内的な、二つの思考があることを明らかにすることができます。外的な思考から話し、内的な思考から他のことを感じます。そしてこれら二つの思考は分離しています。なぜなら、それらの二つの思考は、内的なものが外的なものの中に流入し、そして何らかの方法で現われないように用心されているからです。
人間は創造から、内的な思考が外的な思考と対応によって一つとして働くように造られています。そしてまた、善の中にいる者のもとで一つとして働きます――なぜなら、彼らは善以外に考えず、善を語るからです――しかし、悪の中にいる者のもとで、内的な思考は外的なものと一つとして働いていません。なぜなら、彼らは悪を考え、善を語るからです――これらの者のもとで、秩序は逆転しています。なぜなら、彼らのもとでは善が外に、悪が内にあるからです。ここから、悪は善を、自分のしもべのように従属させ、自分の愛のものである目的を得るための手段として、自分に仕えさせるようにして、支配しています。
このような目的が、〔彼らが〕話し、行動することの善に内在するので、彼らのもとの善は、内的なものを知らない者のもとの外なる形の中でどれほど善のように見えても、善ではなく、悪に感染したものであることが明らかです。
[3]善の中にいる者のもとでは異なります――彼らのもとで、秩序は逆転していないで、善が内的な思考から外的なものの中に、こうして発言と行為の中に流入します。
この秩序の中に人間は創造されています――なぜなら、このように彼らの内的なものは天界の中に、そこの光の中にあるからです。天界の光は主から発出する神的真理であり、したがって、天界の中の主であるので(126-140番)、それゆえ、彼らは主により導かれます。
これらのことが言われたのは、それぞれの人間に内的な思考と外的な思考があること、それらは互いに別ものであることが知られるためです。思考が言われるとき、意志もまた意味されます。なぜなら、だれも意志なしに考えることはできないので、思考は意志からのものであるからです。
これらから、人間の外的な状態と内的な状態が何か明らかです。

天界と地獄

499◀︎目次▶︎501

500 意志と思考が言われるとき、意志によって、情愛と愛も、さらに情愛と愛に属すすべての快さと快楽も意味されます。これらはその主体に向かう意志と関係するからです。なぜなら、人間は意志するものを愛し、快さと心地よさを感じるからです。また逆に、人間は、快さと心地よさを感じるものを愛し、意志します――それでも、その時、思考によって、情愛と愛を思考によって確信するすべてのものが意味されます。なぜなら、思考は意志の形以外のものではないから、すなわち、人間の欲するものが光の中に現われるためのものであるからです。これらの形は、起源が霊界から導かれ、人間の霊に固有のものであるいろいろな理性的な分析によって示されます。

天界と地獄

500◀︎目次▶︎502

501 人間は、自分の内的なものに関してどのようであるかによって、完全にそのようなものであり、内的なものから分離した外的なものに関してどのようであるかによらないことを知らなくてはなりません。
その理由は、内的なものは人間の霊に属すものであり、彼の生活は、身体が霊から生きるので、その霊の生活であるからです。さらにまた、そのために人間は自分の内的なものに関してどのようであるかによって、そのように永遠にとどまります。
けれども、外的なものは、身体にもまた属するので、死後に分離され、それらは眠りにつき、外的なものから霊に付着しているものは、単に内的なものの面として役立ちます。このことは、前に死後の人間に残る記憶ついて扱われたところに示されています。
ここから、何が人間のプロプリウム(固有のもの)であり、何がプロプリウムでないか明らかです。すなわち、悪い者のもとで、彼らが思考の外的なものから話し、意志の外的なものから行なうすべてのものは、彼らのプロプリウムではありません。彼らのプロプリウムはその内的な思考と意志に属すものです。

天界と地獄

501◀︎目次▶︎503

502 外的な状態である最初の状態が過ぎ去った後、そのことについては前章で扱いましたが、人間霊は自分の内的な状態に、すなわち、意志の内的な状態とそこからの思考の内的な状態の中に入れられます。世で、自分自身から、自由にまた束縛なしに考えたとき、その中にいたのです。この状態の中へ世の中と同様に自分自身から知らないうちに落ち込みます。それは、自分の話すことに最も近い思考を引き戻したとき、すなわち、話すことのもとである内的な思考に向かい、その思考の中にとどまるときです。
それゆえ、人間はこの状態の中にいるとき、自分自身そのものの中に、自分のいのち(生活)そのものの中にいます。なぜなら、プロプリウムの情愛から自由に考えることは、人間のいのち(生活)そのものであり、自分そのものであるからです。

天界と地獄

502◀︎目次▶︎504

503 この状態の中で霊は自分の意志そのものから、したがって自分の情愛そのものから、すなわち自分の愛そのものから考え、その時、思考は意志と一つとなり、考えていないで、ほとんど意志しているようにしか見えないほどに一つです。
話すときもほとんど同様です。それでも、「意志の考えていることがありのままに出てしまわないだろうか」と恐れている者がいる、という相違があります。世での礼儀正しい生活から、そのこともまた彼の意志のものとなっているからです。

天界と地獄

503◀︎目次▶︎505

504 人間がどれほど多くても、すべての者は、死後、この状態の中に入れられます。その状態は彼らの霊のプロプリウム(固有のもの)であるからです。
人間が霊に関して交わりの中にあった前の状態がどのようなものであっても、その状態は彼のプロプリウムではありません。
前章の中で扱われたこの状態は、すなわち、人間が死後、その中に最初にいる外的な状態は、彼のプロプリウムではないことを、多くのことから明らかにすることができます。例えば、霊は考えるだけでなく、自分の情愛から話すことからです。なぜなら、彼らが話すことが情愛からであることは、「天使の話し方」(234-245番)の章の中で言われ、示されたことから明らかにすることができるからです。
さらにまた、人間は世でも、自分自身の内では同様に考えています。なぜなら、その時、自分の口から話すようには考えないで、ただそれらを見ただけで、一分間のうちに同時に多くのものを見て、その後、それらについて半時間以上もの間、話すことができるからです。
外的な状態は、人間のまたはその霊のプロプリウムでないことは、さらにまた次のことから明らかです――世で交わりの中にいる時、道徳的で市民的な生活の法律にしたがって話すこと、またその時、ある者が他の者を支配するように、内的な思考が、似つかわしさや体面の限度を越えないように、外的なものを支配します。
次のことからもまた明らかです。それは、人間が自分自身の内部で考えるとき、気に入られ、友情・好意・恩恵を獲得するために、どのように話し、行動すべきかを考え、このことがプロプリウムの意志からこのように行なわれないなら、それと異なる外来の方法で行なうことです。
これらから、霊がその中に入れられる内的な状態は、その霊のプロプリウムの状態であること、このようにまた世で生きたとき人間のプロプリウムの状態であることが明らかです。

天界と地獄

504◀︎目次▶︎506

505 霊が自分の内的な状態にいる時、その人間が世で本質的にどのようなものであったか、はっきりと明らかになります。その時、自分のプロプリウムから行動するからです。世で内的に善の中にいた者は、その時、理性的にまた賢明に、それどころか世にいたときよりも賢明に行動します。身体との結びつきから、ここからいわば雲のように間に置かれ、曇らせる世俗的なものとの結びつきから、解かれているからです。
けれども、世で悪の中にいた者は、その時、愚劣に、狂って行動します。自由の中にいて、抑制されないので、むしろ世にいたときよりも狂って行動します――というのは、世で生きたとき、外面上は健全であり、外面上のものによって理性的な人間を装ったからです。それゆえ、その外部が取り除かれるとき、彼の狂気があらわにされます。
外部で善良な人間を似せた悪い者は、主が言われるように、外部が輝き、磨かれていて、その内は、おおわれ、すべての種類の汚物が隠されている器にたとえられることができます、

あなたがたは白く塗った墓に似ています。その外側は美しく見えますが、中は死者の骨とあらゆる不潔なものでいっぱいです(マタイ23:27)

天界と地獄

505◀︎目次▶︎507

506 世で善の中に生き、良心から行動したすべての者は、神性を認めた者です。神的真理を愛し、特に、その真理を適用した者は、自分の内的な状態の中に入れられるとき、自分自身が、睡眠から目覚めの中にやって来た者のように、陰から光の中にやって来た者のように見えます。
さらにまた、天界の光から、このように内的な知恵から考え、また善から、このように内的な情愛から行動します――さらにまた、彼らの思考と情愛の中に、天界が以前には知らなかった内的な幸福と快さとともに流入します。なぜなら、彼らは天界の天使たちと伝達手段を持つからです。その時もまた、主を認め、その方を自分のいのち(生活)そのものから礼拝します。なぜなら、その時、直前に言われたように(505番)、自分の内的なものの状態の中に、自分のプロプリウムのいのちの中にいるからです。そしてまた、その方を自由から認め、礼拝します。なぜなら、自由は内的なものの情愛に属すからです。
こうして外なる聖性から去り、内なる聖性の中にもまたやって来ます。その中に真に礼拝そのものがあります。みことばの中の戒めにしたがってキリスト教徒の生活を送った者の状態はこのようなものです。
[2]しかし、世で悪の中に生き、何ら良心もなく、ここから神性を否定した者の状態はまったく正反対です。なぜなら、悪の中に生きたすべての者は、外なるものの中にいるとき、「私は否定することはなく、認めていた」とどれほど思っても、内部で本質的に神性を否定しているからです。それは、神性を認めることと悪に生きることは正反対であるからです。
来世で、自分自身の内的な状態にやって来るとき、その話しが聞かれ、行動が眺められるとき、愚か者のように見えるのは、このような者です。なぜなら、自分の悪の欲望から、邪悪なこと、他の者の軽蔑・嘲笑と冒涜・憎しみ・復讐へと突進するからです。彼らのある者は欺きをたくらみますが、それは人間のだれか内にこのような欺瞞と悪意に似たものがあることが、ほとんど信じられないくらいのものです――その時、彼らを世で制止し、抑制した外的なものから分離されているので、彼らの意志から考えたものにしたがって行動する自由の中にいるからです――一言でいえば、世で理性が彼らの内的なものの中になく、外的なものの中にあったので、推理力を奪われているのです――しかしそれでも、その時、自分自身が他の者よりも賢明そのものに見えます。
[3]このようであるので、それゆえ、この第二の状態にいるとき、時々、短い間、彼らの外的な状態の中に、またその時、内的な状態の中にいたときの自分たちの行動の記憶の中に入れられます。
その時、ある者は、恥じ、狂っていたことを認めます。ある者は恥じません。ある者は、その外的な状態の中に続いてとどまることが許されないことに憤慨します。しかし、その者に、もしこの状態に続いてとどまるならどのようなものとなるかが示されます。すなわち、ひそかに似たようなことに努め、外見上の善・誠実・公平によって、心と信仰で単純な者を惑わし、自分自身もまた全面的に滅ぼしてしまうことです。外的なものが燃え、ついには似た火が内的なものに燃え上がって、その火は彼らのいのちのすべてものを焼き尽くすからです。

天界と地獄

506◀︎目次▶︎508

507 霊がこの第二の状態の中にいるとき、彼らは世で本質的にどのようであったかが完全に見られ、そしてまた、ひそかに行なったことと話したことが公けにされます。なぜなら、その時、外なるものが制止しないので、〔世にいたときと〕似たことをあからさまに話し、似たことを行なおうと努力し、世でのように評判も恐れないからです――さらにまたその時、天使や善い霊にどのようなものであるか見られるために、自分たちの悪の多くの状態へ導かれます。
このように、主のことばにしたがって、隠されたものは明らかにされ、秘密はあばかれます、

おおわれているもので、暴露されないものはなく、隠されていて、知られないものはありません。……あなたがたが暗やみの中で言ったことが、光の中で聞かれ、小部屋の中であなたがたが耳の中に語ったことが、屋根の上で言い広められます(ルカ 12:2, 3)

また他の箇所に、

わたしはあなたがたに言います。人間が話した無益などんなことばでも、審判の日に、そのことについて、勘定書きを支払わなければなりません(マタイ12:36)

天界と地獄

507◀︎目次▶︎509

508 悪い者がこの状態の中でどんなであるか、わずかなもので述べられることはできません。なぜなら、その時、それぞれの者は自分の欲望にしたがって狂い、そしてそれらの欲望はいろいろであるからです。それゆえ、私はただいくつか特別なものを提示しましょう、それらから他のものを結論することができます。
すべてにまさって自分自身を愛し、職務や任務で自分自身の名誉に目を向けて、役立ちのために役立ちを果たさず、役立ちも楽しまず、しかし、名声のために、職務や任務によって他の者よりもさらに値すると評価され、このように自分自身の名誉の評判を喜んだ者は、この第二の状態にいるとき、他の者よりも愚鈍です。なぜなら、だれでも自分自身を愛するほど、それだけ天界から遠ざけられ、天界から遠ざけられるほど、それだけ知恵から遠ざけられるからです。
[2]けれども自己愛の中にいて、同時に詐欺的であり、自分自身を策略によって名誉へと高めた者は、最悪の者と仲間となり、神的な秩序の濫用である魔法の技術を学んで獲得し、それによって自分たちを尊敬しないすべての者を苦しめ、悩ませます。彼らは陰謀をたくらみ、憎しみを抱き、復讐に燃え立ち、自分たちに服従しないすべての者に激怒しようとします。悪意ある群衆がそれらすべてのものに賛同すればするほど、それだけ突進し、ついには、どのようにして天界に上るかを心の中で考えます、それを破壊するため、あるいはそこに神々として礼拝されるためです――彼らの狂気はそれほどに高ぶります。
[3]ローマカトリック教からやって来ているこのようであった者は、他の者よりも、さらに狂っています。自分たちの権限の下に天界と地獄があり、そして思いのままに罪を赦すことができる、という性質を抱いているからです。彼らは、すべての神性を自分自身に要求し、自分自身をキリストと呼びます。彼らの確信はこのようなものであって、例えば、それが流入するどこでも、心を混乱させ、苦しむほどの暗やみをひき起します――彼ら自身にとって、〔第一と第二の〕両方の状態はほとんど似ています、しかし、第二の状態の中では、理性がありません。
小著『最後の審判と滅ぼされたバビロニア』で、彼らの狂気について、そしてこの状態の後の彼らの運命について、特にいくつか述べてあります。
[4]創造を自然に帰し、神性を、したがって教会と天界のすべてのものを、たとえ口でなくても、心で否定した者は、この状態の中で似た者と互いに仲間となり、欺くことに力のある者をだれでも神と呼び、さらにまた神性の誉れとともに礼拝します。
私は、このような者が、集会の中で魔術師を崇拝し、自然について思いめぐらし、人間の形をした獣であるかのように愚かに振る舞っているのを見ました。彼らの間には、世で要職に任命された者が、また世で学識のある者や賢明な者と信じられた者もいました。
他の者は他の状態にいました。
[5]これらのわずかなものから、神性の承認によって、また信仰の生活によって、天界からの何らかの流入を受けなかったすべての者のように、その心が天界に向かって閉ざされている者の内的なものがどんなものであるか、結論することができます。
だれでも自分自身で、もし自分に法律と生命の恐れがなく、外なる束縛なしに行動することが許されるなら、どのようになるか判断することができます。その外なる束縛とは、名声を傷つけられないだろうか、名誉や利益、そこからの快楽を奪われないだろうかという恐れです。
[6]しかしそれでも、彼らの狂気は主により役立ちの限度を超えて突進しないように制限されます。なぜなら、このような者によっても、それぞれの役立ちが生じるからです。
善い霊は彼らの中に、何が悪か、またそれがどんなものか、もし主により導かれないなら人間がどんなものかを見ます――彼らによって似たような悪い者が集められ、善い者から分離されることもまた役立ちです。さらに、悪い者が外なるものの中に見せ、装った善と真理が彼らから取り去られ、自分の生活の悪の中に、悪からの虚偽の中に導かれ、こうして地獄へ向けて準備されることも役立ちです――
[7]なぜなら、だれも自分の悪の中に、そして悪からの虚偽の中にいる以前に、地獄にやって来ないからです。そこのだれにも、分割された心(mens)をもつことは、すなわち、あることを考え、話しながらも、他のことを意志することは許されません。そこの悪い者はだれでも、悪からそこの虚偽を考え、悪の虚偽から話します。その二つとも意志から、そのように自分のプロプリウムの愛から、その快さと心地よさからです。世でも、自分自身の霊の中のとき、すなわち、内的な情愛から考えた時、自分自身の中でそのように考えたのです。
その理由は、意志は人間そのものであり、意志から得ないかぎり思考はなく、そして、意志は人間の性質そのものまたは性格であるからです。それゆえ、自分自身の意志に、自分自身の性質または性格に、そしてまた自分自身の生活に戻されます、なぜなら、人間は生活によって性質を身につけるからです。人間は死後、世で生活によって自分自身に獲得したそのような性質にとどまり、それは悪い者のもとで、もはや思考または真理の理解力という方法では矯正され、変えられることはできません。

天界と地獄

508◀︎目次▶︎510

509 悪い霊はこの状態の中にいる時、あらゆる種類の悪に突進するので、しばしば、重く罰せられることがあります。
霊たちの世界に、多種多様の罰があります。世で、王あるいは召使いであったとしても、人物は何も考慮されません。
すべての悪はそれ自体に罰があり、悪と罰は結合しています。それゆえ、悪の中にいる者は、悪の罰の中にもいます――しかしそれでも、そこのだれも世の中で行なわれた悪のために罰を受けません、しかし、その時、〔霊たちの世界で〕行なう悪のために罰を受けます。
世で自分の悪のために罪を受けると言っても、あるいは、来世で行なう悪のために罪を受けると言っても、同じことであり、似たことです。だれでも死後、自分自身の生活に、こうして似た悪の中に戻るからです。なぜなら、人間は自分のいのちが身体の中にあったときどのようなものであったかによって、そのようなものであるからです(470-484番)。
罰せられるのは、この状態の中の悪を抑制する唯一の手段が罰を恐れることであるからです。本性から行動するので、もはや勧告・教育・法律や評判への恐れは何ら有効となりません。それで、その本性は、罰によらないなら、抑制されることも破壊されることもできません。
しかし、善い霊は、たとえ世で悪を行なったにしても、決して罰せられません。なぜなら、彼らの悪は戻らないからです。そしてまた、私は、彼らの悪は別の種類または性質であったことを知るようになりました。真理に反する目的からのものではなく、両親からの遺伝から彼らにあった悪からのものであり、心からものではなかったからです。その悪の中に、内なるものから分離した外なるものの中にいたとき、盲目の快さから駆り立てられたのです。

天界と地獄

509◀︎目次▶︎511

510 それぞれの者は、彼の霊が世でいた自分の社会にやって来ます。なぜなら、それぞれの人間は、自分の霊に関して地獄か天界の何らかの社会と、悪い者は地獄の社会に、善い者は天界の社会に、結合しているからです。死後、それぞれの者が自分の社会に戻ることは438番に見られます。霊はその社会へ連続的に導かれ、ついにそれに入ります。
悪い霊は、自分の内的なものの状態の中にいるとき、徐々に自分自身の社会へと向けられ、この状態の終わる前に、最終的にそれへ真っ直ぐに向かいます。この状態が終わる時、悪い霊自身が自分を自分自身と似た者がいる地獄の中に投げ込みます。
その投げ込むことは、あお向けになった者が頭を下に、足を上にして、落ち込むように見えます――このように見えることの理由は、正反対の秩序の中にいるからです、地獄のものを愛し、天界のものを退けたからです。
悪い者のうち、この第二の状態の中で、時々、地獄に入り、そしてまた出る者がいます。しかし、その時、これらの者は、完全に荒廃したときのように、あお向けに落ち込むようには見えません。
自分自身の霊に関して世にいた社会そのものもまた、自分自身の外的なものの状態の中で、彼らに示されます。そこから、いのちが身体の中にあったときもまた地獄の中にいたことを知るためです。しかしそれでも、地獄そのものの中にいる者と似た状態の中ではなく、霊たちの世界の中にいる者の状態と似たものの中にいたのです。それらの状態については、地獄にいる者の状態と比べて、あとで述べます。

天界と地獄

510◀︎目次▶︎512

511 この第二の状態の中で、悪い霊が善い霊から分離されます、なぜなら、最初の状態の中で一緒であるからです。霊が自分の外的なものの中にいる時は、世の中にいたように、そこでは悪い者は善い者と、善い者は悪い者と一緒であるからです――自分の内的なものの中に入れられたとき、また自分の本性または意志のままにされるとき、異なります。
悪い者は、善い者から、いろいろな方法で分離されます。全般的に、最初の状態の中で善の思考と情愛によって伝達があった社会へ運びまわされることによってです。こうして、外なる形によって、自分たちは悪ではなかった、と信じる〔ことのできそうな〕社会へ導き入れられます。
たいてい、広大な輪を通ってめぐることになり、そこのどこでも、善霊により〔その社会が〕本質的にどんなものであるか示されます――その時、それらの外観に、善い霊は身を背けます、また彼らが身を背けるように、悪い霊もまた彼らから身を背け、やがて行くことになる自分たちの地獄の社会がある方向へ、顔の向きを変えます。
他にも分離の方法は多くありますが、それらは割愛します。

天界と地獄

511◀︎目次▶︎513

53 人間の死後の第三の状態、それは天界へ行く者の教育の状態である

512 死後、人間の、すなわち、その霊の、第三の状態は教育の状態です。この状態は、天界へ行き、天使になる者にあるのであって、地獄へ行く者は教えられることができないので、この者にはありません。それゆえ、この者の第二の状態は第三の状態でもあって、その状態は、完全に自分自身の愛へ、したがって、それと似た愛の中にある地獄の社会へ向けられることで終わります。
このことが起こる時、その愛から欲し、考えます。その愛は地獄のものであるので、悪しか欲せず、虚偽しか考えません。これらが彼らの愛のものであるので、彼らの快いものです――そしてここから、以前に取り入れ、手段として自分の愛に役立てたすべての善と真理を退けます。
[2]しかし、善い者は第二の状態から、教育によって天界へと準備する状態である第三の状態へ導かれます――善と真理の思考によらないなら、そのように教育によらないなら、だれも天界へ準備されることができないからです。だれも教えられないなら、霊的な善と真理が何か、またそれらと正反対のものである悪と虚偽が何か、知ることができないからです。
公正と誠実と呼ばれる市民的また道徳的な善と真理が何かは、世で知ることができます。そこには市民の法律があって何が公正かを教えており、交際するとき、人間は道徳的な法にしたがって生きることを学び、それらのすべては誠実と正直に関係するからです――しかし、霊的な善と真理は、世からでなく、天界からしか教えられません。
確かに、みことばから、また、みことばからの教会の教えから知ることができます。しかしそれでも、人間がその心のものである内的なものに関して天界の中にいないなら、〔霊的な善と真理は〕生活(いのち)に流入することができません。また人間が天界の中にいる時、神性を認め、同時に正しく、誠実に行動します。みことばの中に、そのように行動しなければならないと命じられているからです。こうして、目的として、自分自身と世のためでなく、神性のために、正しく、誠実に生きます。
[3]しかし、このように行動することは、その前に教育されないなら、だれもできません。例えば、神が存在する、天界と地獄がある、死後の生活がある、すべてにまさって神を、また隣人を自分自身のように愛さなくてはならない、みことばは神的なものなので、みことばの中のものを信じなくてはならないことです。
これらの知識とその認知なしに、人間は霊的に考えることはできません。それらについての知識がなくては、それらを意志することもありません。なぜなら、人間は知らないものを考えることはできないし、考えないものを意志することはできないからです。
そこで、人間がそれらを考える時、天界が流入します、すなわち、主が天界を通して人間の生活(いのち)の中に流入します。なぜなら、意志の中に、それによって思考の中に、そしてその両方によって生活(いのち)の中に流入するからであり、ここから人間の生活(いのち)があるからです。
これらから、霊的な善と真理は、世からでなく、天界から学ばれ、教育の手段がないなら、だれも準備されることはできないことが明らかです。
[4]さらにまた、主はある者の生活(いのち)に流入すればするほど、それだけその者を教えられます。なぜなら、それだけ、真理を知る愛で意志を燃え立たせ、それらを知るためにそれだけ思考を照らすからです。これらのことが生じれば生じるほど、それだけ人間の内的なものが開かれ、それらに天界が植え付けられ、さらに、それだけ人間のもとの、道徳的な生活のものである誠実の中へ、また市民的な生活のものである公正の中へ、神性と天界的なものが流入し、それらを霊的なものにします。人間はその時、それらを神性のために行なうので、神性から行なっています――道徳的な、また市民的な生活のものである誠実と公正は、それらを人間がそれらの源泉から行なうので、霊的な生活(いのち)の結果そのものとなるからです。すべての結果はその有効な原因から得られます、なぜなら、原因がどのようなものかによって結果もそのようなものとなるからです。

天界と地獄

512◀︎目次▶︎514

513 教育は多くの社会の天使により、特に、北と南の地方にいる天使により行なわれます。なぜなら、それらの天使の社会は善と真理の知識から知性と知恵の中にあるからです。
教育の場所は北方にあり、いろいろあって、すべてと個々の者が自分の性質と受け入れる能力にしたがって教育されるために、そこでは天界の善の種類(属と種)にしたがって整えられ、区別されます――その場所は周囲に遠くまで広がっています。
教育されなければならない善い霊は、霊たちの世界で第二の状態を終えた後、そこへ主により導かれます――しかしそれでも、すべての者ではありません。なぜなら、世で教育された者は、世でもまた主により天界へと準備されていて、他の道を通って、天界へ導かれるからです。ある者は、死後、直ちに導かれ、ある者は、善霊と一緒にしばらく滞在した後に導かれます。その滞在中に、世の名誉や富から得た彼らの思考と情愛の極めて粗野なものは取り除かれ、こうして清められます――ある者は前もって荒廃させられ、それは〝低い地〟と呼ばれる足の裏の下の場所で行なわれます。その場所で、きびしいことを被る者がいます――これらの者は、虚偽を確信したけれども善の生活を送った者です。なぜなら、確信された虚偽は固くこびりついており、それらが追い散らされる前に、真理を見ること、したがって受け入れられることはできないからです。
しかし、荒廃について、またどのような方法で行なわれるかについては、『天界の秘義』の中に述べられており、左欄の注はその「抜粋」です(*1)


*1 荒廃は来世で行なわれる、すなわち、世からそこに到着する者は荒廃させられる(698, 7122, 7474, 9763)。
善良な者は虚偽に関して、そして悪い者は真理に関して荒廃させられる(7474, 7541, 7542)。
善良な者のもとでもまた、世で生きたときに引き寄せた地的なものと世俗的なものが剥ぎ取られるために、荒廃が行なわれる(7186, 9763)。
そのようにまた、悪と虚偽が取り除かれ、このように主により天界から善と真理の流入する場所が与えられ、それらを受け入れる能力が与えられるためである(7122, 9330)。
このようなものが取り除かれた後でないなら、それらは妨害し、天界の事柄と一致しないので、それ以前に天界に上げられることはできない(6928, 7122, 7186, 7541, 7542, 9763)。
天界に上げられる者は、このようにもまた準備される(4728, 7090)。
準備される前に天界にやって来ることは危険である(537, 538)。
荒廃を終えて、天界に上げられる者の照らしの状態と彼らの楽しさについて、彼らがそこに受け入れられることについて(2699, 2701, 2704)。
それらの荒廃が行なわれる領域は、〝低い地〟と呼ばれる(4728, 7090)。
その領域は地獄に囲まれた足の裏の下にある。それがどんなものか述べられている(4940-4951, 7090)。経験から(699)。
地獄とは何か、それは他のものよりも悩ませ、荒らす(7317, 7502, 7545)。
善良な者を悩ませ、荒らした者は、その後、彼らを恐れ、避け、退ける(7768)。
その悩ませることと荒廃は、付着した悪と虚偽にしたがっていろいろな方法で行なわれ、それらの質と量にしたがって続けられる(1106-1113)。
ある者は荒廃されることを進んで欲する(1107)。
ある者は恐怖によって荒廃させられる(4942)。
ある者は、世で行なった自分の悪から、世で考えた自分の虚偽から悩まされることによって。ここから良心の不安と苦痛がある(1106)。
ある者は霊的な捕囚によって。それは真理の無知と中断であるが、真理を知ろうとする願望と結合している(1109, 2694)。
ある者は眠りによって、ある者は目覚めているのと眠りの中間の状態によって(そのことについて)(1108)。
働きの中に功績を置く者は、木材を切る者のように見られる(1110)。
他の者はこれらと異なって、多くの変化とともに(699)。

天界と地獄

513◀︎目次▶︎515

514 教育の場所にいるすべての者は、彼らの間で区別されて住んでいます。なぜなら、個々の者は、自分の内的なものに関して、行くことになる天界の社会と結びついているからです。天界の社会は天界の形にしたがって配列されているので(200-212番)、そこの教育の場所もまたそのようになっています――それゆえ、その場所が天界から眺められるとき、小さい形の天界のように見えます。
そこでは縦に東から西まで、また幅では南から北へ広がっています。しかし、外観では、幅は縦よりも短く〔見えます〕。
配列は全般的に次のようです――
正面に、幼児のときに死に、青年期の最初の時期まで天界の中で育てられた者がいます。その者はその幼児期の状態の後、主により女教師たちのもとへ導かれ、教育されます。
彼らの後ろの場所に、成人してから死に、世で生活の善からの真理の情愛の中にいた者がいて、そこで教育されます。
けれども、その後に、ムハンマドの宗教に身をささげ、世で道徳的な生活を送り、唯一の神性を認め、主を預言者そのものとして認めた者がいます。ムハンマドが何ら助けを行なうことができないので、その者が彼から引き下がって、主に近づき、その方を礼拝し、その方に神性そのものを認める時、キリスト教を教育されます。
これらの者の後ろの北に、いろいろな異教徒のための教育の場所があります。彼らは世で自分の宗教と一致した善の生活に生き、ここから一種の良心を得て、そして公正と正直を行ないました。したがって、統治の法律のためではなく、遵守すべき聖なるものと信じられる宗教の律法のために行ない、行動で、その何も踏みにじらなかった者です――これらすべての者は、教育される時、〝主は目に見えないのではなく、人間の形のもとに見られる〟との思いを心に抱いていたので、主を認めることへと容易に導かれます――これらの者は数では他の者たちを上回っています。彼らのうち最良な者はアフリカから来ています。

天界と地獄

514◀︎目次▶︎516

515 しかし、すべての者が似た方法で、天界の似た社会から教育されるのではありません。
幼児期から天界の中で育てられた者は、宗教の虚偽からの虚偽を吸収していないし、その霊的な生活を世の中の名誉や富からの不純物で汚しもしなかったので、内的な天界の天使から教育されます。
成人してから死んだ大部分の者は、最も低い天界の天使により教育されます、これらの天使は内的な天界の天使よりも彼らに適合しているからです。なぜなら、これらの者は内的な知恵の中にいて、それらはまだ受け入れられていないからです。
しかし、イスラム教徒は、以前に同じ宗教の中にいて、キリスト教徒に回心した天使により教育されます。 異教徒もまた彼らの天使により教育されます。

天界と地獄

515◀︎目次▶︎517

516 そこのすべての教育は、みことばからの教えから行なわれ、教えのないみことばからは行なわれません。
キリスト教徒は、みことばの内意と完全に一致している天界の教えから教育されます。
他の者は、例えば、イスラム教徒や異教徒は、彼らの理解力に適当な教えから教育されます。その教えは天界の教えと次のことだけが異なっています。霊的な生活について、彼らの宗教の善の教義に一致する道徳的な生活から教えられることであり、世でその道徳的な生活から自分の生活を得ていたのです。

天界と地獄

516◀︎目次▶︎518

517 天界の中の教育は地上の教育とは異なっていて、その認識が記憶にとどまらないで、生活の認識であることです――なぜなら、霊的な記憶は彼らの生活の中にあるからです。彼らの生活に一致するすべてのもの受け入れ、吸収し、一致しないものは受け入れず、まして吸収しないからです。なぜなら、霊たちは情愛であり、ここからその情愛と似た人間の形の中にいるからです。
[2]このようであるので、役立ちの生活のために真理への情愛が常に吹き込まれています。主は、それぞれ者がその性格にふさわしい役立ちを愛するよう、彼らに備えられ、その愛もまた天使になることの希望によって高揚されるからです――天界のすべての役立ちは、彼らの祖国である主の王国のためのものである共通の役立ちに関係するので、すべての特殊なものと個々のものの役立ちは、どれだけその共通の役立ちをより近く、またより多く眺めるかによって、それだけすぐれたものとなっています。ここから、すべての特殊なものと個々のものの役立ちは、無数であり、善と天界です。それゆえ、それぞれの者のもとで真理の情愛が役立ちの情愛に一つのものとして活動するようにまでも結合されています――そのことによって役立ちの真理が植え付けられ、こうして彼らの学ぶ真理は役立ちの真理です。
このように天使的な霊は教育され、天界へと準備されます。
[3]役立ちにふさわしい真理の情愛は、いろいろな方法によってしみ込んでいますが、その方法の大部分は世の中で知られていません。それは特に、役立ちを表象するものよってしみ込んでいて、霊界では千もの方法で示され、心のものである内的なものから身体のものである外的なものへ、こうして全体に働きかけるような歓喜と快感をもって、霊に浸透しています。ここから霊は、いわばその役立ちとなります。
それゆえ、教育によって導かれて、自分の社会の中にやって来て、自分の役立ちの中にいるとき、自分の生活の中にいるのです(*2)
これらから、だれかを天界にやって来るようにするものは、外なる真理である認識ではなく、生活そのものであること、認識によって与えられた役立ちの生活であることを明らかにすることができます。


*2 すべての善には、その役立ちから、役立ちにしたがって、その快さがあり、そしてまたそれがどんなものか定まっている。ここから、どのような役立ちかによって、そのような善となっている(3049, 4984, 7038)。
天使の生活は、愛と仁愛の善から、したがって実行する役立ちから成り立つ(454)。
主により、ここから天使により、人間のもとに目的以外に眺められるものはなく、それは役立ちである(1317, 1645, 5854)。
主の王国は役立ちの王国である(454, 696, 1103, 3645, 4054, 7038)。
主に仕えることは役立ちを実行することである(7938)。
人間は、彼のもとの役立ちがどんなものであるかによって、そのようなものである(1568, 3570, 4054, 6571, 6935, 6938, 10284)。

天界と地獄

517◀︎目次▶︎519

518 学問があり、みことばや教会の教えから多くのことを知っていて、こうして賢明であり、知性があり、またその者について「大空の輝きのように輝き……星のようになる」(ダニエル書12:3)と言われていることを信じて、世での考えから、天界に行くことを、また他の者よりも受け入れられることを確信した霊がいました――しかし、彼らの思考〔認識?〕が記憶の中に住んでいるのか、あるいは生活(いのち)の中に住んでいるのか調べられました。
身体的なものと世俗的なものから分離した本質的に霊的な役立ちのために真理への本来の情愛の中にいた者は、教えられた後、天界の中に受け入れられ、その時、彼らに、何が天界の中で輝くものが何か知ることが与えられます。すなわち、役立ちの中で、神的真理は天界の光であり、役立ちは、その光の輝きを受けて、いろいろな輝きに変える面であることです。
けれども、認識がただ記憶の中だけに住んでいて、ここから真理について推論し、受け入れたものを原理として確信する能力を得た者は、確信の後、虚偽であっても真理のように見ました。彼らは何ら天界の光の中にいないで、それでも高慢からの信念の中にいたので、彼らにはたいてい、〝他の者より学問があり、したがって天界に行き、天使が自分たちに仕えることになる〟といったような知性が付着しています。それゆえ、彼らは自分自身の愚かしい信念から遠ざけられ、天使のある社会の中に導き入れられるために、最初の、または最外部の天界へ上げられました。しかし、入り口に行ったとき、天界の光の流入のために目が暗黒に包まれ、その後、理解力が混乱させられ、最後に、死にかけているようにあえぎ、また天界的な愛である天界の熱を感じるとき、内部で苦しめられ始めました――それゆえ、そこから投げ落とされ、その後、認識は天使をつくらないで、認識によって得られた生活そのものが天使をつくることを教えられました。認識は本質的に眺められたとき、天界の外部にあり、認識による生活は天界の内部にあるからです。

天界と地獄

518◀︎目次▶︎520

519 霊は、前述の場所での教育よって天界へと準備された後、多くのことが一緒に把握される霊的な観念の中にいるという理由から短時間のうちに行なわれることですが、その時、大部分の者が亜麻布からできているような輝いた天使の着物を着せられ、こうして上方の天界へと伸びている道へ導かれ、そこで守護天使に引き渡され、その後、他の天使により受け入れられ、社会の中に、そこの多くの幸せへ導き入れられます。
その後、主によりそれぞれの者は自分自身の社会へ導かれます。このことは、いろいろな道を通って、時々、遠回りの道を通って行なわれます。
彼らが通って導かれる道は、どんな天使も知らないで、主だけがご存知です。
彼らが自分の社会へやって来た時、その内的なものが開かれ、それらはその社会の中にいる天使の内的なものと一致しているので、それゆえ、すぐさま認められ、喜びをもって受け入れられます。

天界と地獄

519◀︎目次▶︎521

520 これらに、新参の天使が導き入れられ、これらの場所から天界へ通って行く道について、注目すべき出来事(メモラビリア)を付け加えます。
教育のそれぞれの場所から二つの方向へ向かう八つの道があります。〔二方向の道のうち〕一つは東へ向かって、もう一つは西に向かって上っています。
主の天的な王国に行く者は、東の道を通って導き入れられますが、霊的な王国に行く者は、西の道を通って導き入れられます。
主の天的な王国へと導く四つの道はオリーブの木といろいろな種類の果樹で飾られているのが見え、主の霊的な王国へと導く道は、ブドウ畑と月桂樹で飾られているのが見えます。
このことは対応によっています。ブドウ畑と月桂樹は、真理とその役立ちの情愛に対応し、オリーブの木と果実は善とその役立ちの情愛に対応するからです。

天界と地獄

520◀︎目次▶︎522

54 だれも直接の慈悲から天界へ行かない

521 天界について、天界への道について、さらに人間のもとの天界の生活について教えられていない者は、天界に受け入れられることは、〝主は自分たちのためにとりなしをされるという信仰の中にいる者に、単に慈悲から与えられる。したがって、入るのを許されるのはひとえに恵みからである〟という信念を抱きます。結果として、どれほど多くいても、すべての人間は、意のままに救われることになります。それどころか、〝地獄の中のすべての者もまた慈悲から救われる〟という信念を抱く者もいます。
しかし、彼らは人間ついて何も知りません。すなわち、人間はどのような生活をするかによって、完全にそのようなものであり、彼のその生活は、意志と理解力のものである内的なものに関してだけでなく、身体のものである外的なものに関しても、彼の愛がどのようなものであるかにより、身体の形は単に外なる形であり、その中に内的なものは結果としてそれ自体を現わし、ここから、人間全体はそれ自身の愛であることです(前の363番参照)。
また、身体はそれ自体からは生きていないで、その霊から生きており、人間の霊は彼の情愛そのものであること、彼の霊的な身体は人間の形の中の人間の情愛以外の何ものでもないこと、さらにまた死後、そのように現われることも知りません(前の453-460番参照)。
これらのことが知られないかぎり、人間は、〝救いは慈悲や恵みと呼ばれる神的な思し召し以外のものではない〟と信じてしまいます。

天界と地獄

521◀︎目次▶︎523

522 しかし、最初に神的慈悲を述べます。
神的慈悲は、すべての人類を救うための人類に対する純粋な慈悲です。そしてまた、それぞれの人間のもとに絶えず存在し、決してだれのもとからも去ることはありません。それゆえ、救われることのできる者は、だれでも救われます。
しかし、神的手段によらなければ、だれも救われることはできず、その手段は主により、みことばの中に啓示されています。神的手段は神的真理と呼ばれるものです――人間は救われることができるために、どのように生きたらよいか、これらのものから教えられます。
主は、それらによって人間を天界へ導き、それらによって天界の生活(いのち)を与えられます――主は、このことをすべての者のもとで行なわれます。しかし、悪をやめる者でないなら、天界の生活はだれにも与えられることができません、悪が妨害するからです。
そこで、人間が悪をやめればやめるほど、それだけ主は彼を純粋な慈悲から、ご自分の神的手段によって導かれ、このことは幼児期から世でその生活の終わりまで、またその後、永遠に続きます。
これらが、神的慈悲で意味されるものです。
ここから、主の慈悲は純粋な慈悲であり、直接の慈悲、すなわち、どんな生き方をしてきたにしても、すべての者を意のままに救われることではないことが明らかです。

天界と地獄

522◀︎目次▶︎524

523 主は秩序であられるので、決して秩序に反して何も行なわれません。
主から発出する神的真理は秩序をつくるものであり、そして神的真理は秩序の法則であり、その法則にしたがって、主は人間を導かれます。
それゆえ、直接の慈悲から人間を救うことは神的秩序に反しており、神的秩序に反していることは、神的なものに反しています。
神的秩序は人間のもとの天界であって、それを人間は自分のもとの神的真理である秩序の法則に反した生活によってゆがめてしまいました――人間は主により純粋な慈悲から、秩序の法則によって、その秩序の中へ戻され、戻されれば戻されるほど、それだけ自分の中に天界を受け入れ、天界を自分の中に受け入れる者は、天界にやって来ます。
ここから再び、主の神的慈悲は純粋な慈悲であって、直接の慈悲ではないことが明らかです (*1)


*1 主から発出している神的真理は、秩序が存在するもとであり、神的善は秩序の本質的なものである(1728, 2258, 8700, 8988)。
ここから、主は秩序であられる(1919, 2011, 5110, 5703, 10336, 10619)。
神的真理は秩序の法則である(2447, 7995)。
全天界は主によりその方の神的秩序にしたがって配列されている(3038, 7211, 9128, 9338, 10125, 10151, 10157)。
ここから、天界の形は神的な秩序にしたがった形である(4040-4043, 6607, 9877)。
人間が秩序にしたがって、そのように神的な真理にしたがって善の中に生きれば生きるほど、それだけ自分自身の中に天界を受け入れる(4839)。
人間はその中に神的秩序すべてのものが集められたものであり、創造から形において神的秩序である、その受け入れるものであるからである(3628, 4219, 4220, 4223, 4523, 4524, 5114, 5368, 6013, 6057, 6605, 6626, 9706, 10156, 10472)。
人間は善と真理の中に生まれていないで、悪と虚偽の中に、そのように神的秩序の中にでなく秩序に反したものの中に生まれている。ここから、無知そのものの中に生まれている。それゆえ、必然的に新たに生まれることが、すなわち、再生することが必要であり、そのことは秩序に戻されるようにと、主からの神的真理によってなされる(1047, 2307, 2308, 3518, 3812, 8480, 8550, 10283, 10284, 10286, 10731)。
主が人間を新たに形作られるとき、すなわち、再生させられるとき、彼のもとのすべてのものは秩序にしたがって、天界の形に配列される(5700, 6690, 9931, 10303)。
悪と虚偽は秩序に反している。それでもそれらの中にいる者は、主により、秩序にしたがってではなく、秩序から支配されている(4839, 7877, 10777)。
悪の中に生きる人間が、慈悲だけから救われることができるのは不可能である、このことは神的秩序に反するからである(8700)。

天界と地獄

523◀︎目次▶︎525

524 もし、人間が直接の慈悲から救われることができるなら、すべて者は、地獄にいる者もまた救われ、それどころか、地獄すら存在しません。主は、慈悲そのもの、愛そのもの、善そのものであられるからです。それゆえ、「すべての者を直接に救うことができ、しかも救わない」と言うことは神性そのものに反しています。
主は、すべての者の救いを望み、だれも地獄に落ちることを望まれないことは、みことばからよく知られています。

天界と地獄

524◀︎目次▶︎526

525 キリスト教界から来世にやって来る大部分の者は、直接の慈悲から救われるという信仰を抱いています、なぜなら、慈悲を切願するからです。しかし、調べられたとき、天界が何か、天界の楽しさが何か、まったく知らないで、天界に入ることは単に入るのを許されることであり、入れられた者は天界の楽しさの中にいると信じていたことがわかりました。
それゆえ、彼らに、「天界は主によりだれにも拒まれていない。もし願うなら、入れられ、さらにまたそこにとどまることができる」と言われます。
このことを願った者は、入ることを許されました。しかし、最初の入り口に来たとき、天使たちを包む愛である天界の熱のそよぎから、また神的真理である天界の光の流入から、自分自身の中に天界の楽しさに代わって地獄の責め苦に気づき、そのような心の苦悶に襲われ、その責め苦に打たれて、そこから真っ逆さまに自分自身を投げ落としました。
このように、生きた経験によって、だれにも天界は直接の慈悲から与えられることはできないことを教えられます。

天界と地獄

525◀︎目次▶︎527

526 私は時々、慈悲について天使と語り、「悪の中に生きた世の大部分の者は、他の者たちと、天界について、また永遠のいのちについて、天界に入ることはただ慈悲だけから入るのを許されることであるとしか知らないで、そのこと以外に話しません。また、信仰が唯一の救いの手段となることを信じている者は、特にそのことを信じています――なぜなら、彼らは自分の宗教の原理から生活に、生活をつくる愛の行為に、したがって主が人間に天界を植え付け、天界の楽しさを受け入れることができるようにする他の手段に目を向けないからです。このように実際にある介在的なものをすべて退けてしまい、その原理から必要とされ、定めていることは、父なる神が御子の執り成しによって心を動かされ、その慈悲だけから人間は天界にやって来る、と信じることです」と言いました。
[2]これらのことに、天使は、「信仰のみについて理解された原理から、そのような教義が必要とされ、帰結されることは知っています。その教義はその宗教の主要な部分であって、真理ではないので、その中へ天界からの光は何も流入することができず、ここから主、天界、死後の生活、天界の楽しさ、愛と仁愛の本質、全般的に善について、また真理とのその結合について、それゆえ、人間の生活について、どこからであるのか、またどのようなものであるのか、無知が存在し、その中に今日の教会があります。それでも、生活はだれのもとにも思考からは決して存在せず、意志から、意志からの行為から存在し、どれだけ思考が意志から得たものであるかによって、それだけ思考が存在し、したがって信仰は、愛から得たものでないかぎり、信仰ではありません」と言いました。
天使は、「その無知である者が、信仰のみは愛の起源をもたない信仰なので、単に知識であり、ある者のもとに〔信仰で〕ありえないこと、またある者のもとでは信仰を装う(前の482番参照)何らかの間違った信念であることを知らない」ことを悲しんでいます。間違った信念は人間の生活(いのち)の中になく、その外にあります、なぜなら、もし愛と密着しないなら人間から分離されるからです。
[3]さらに天使は、「人間のもとの救いの手段の本質的なものについてこのような原理の中にいる者は、自然的な光から、また視覚による経験からも知覚するので、直接の慈悲しか信じることができません。愛から分離した信仰は人間の生活をつくりません、悪の生活を送った者も同様に考え、自分自身に確信することができるからです。ここから、ただ死の時に、執り成しについて、またそれらによって慈悲について信頼から話すだけで、悪い者も善い者と等しく救われることができると信じられています」と言いました。
天使は、悪く生きた者が、直接の慈悲から、どんな方法でも信頼または信任から――すぐれた意味ではそれらによって信仰が意味されますが――今までだれも天界の中に受け入れられるのを見たことがないことを認めています。
[4]「アブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデ、そして使徒たちは、直接の慈悲から天界に受け入れられたのではないか」という質問に答えて、「そのようなことは彼らのだれにもなく、それぞれの者は、世での自分自身の生活にしたがって受け入れられます。彼らがどこにいるか知っており、そこでは、他の者よりも尊重されていません――みことばの中に彼らが名誉とともに記されているのは、彼らによって内意では主が意味されることがその理由です。「アブラハム、イサク、ヤコブ」によって、神性と神的人間性に関する主が、「ダビデ」によって、神的王に関する主が、「使徒たち」によって、神的真理に関する主が意味されています。みことばが人間により読まれているとき、彼らの名前は天界に入ってこないので、彼らについてまったく何も把握しません。しかし、彼らの代わりに、すぐ前に言われたように主を知覚します。それゆえ、天界の中にあるみことばの中に(それについては前の259番)、そのみことばは、世にあるみことばの内意であるので、どこにも彼らの名前は記されていません」と言いました*2。

*2 みことばの内意で「アブラハム」、「イサク」、「ヤコブ」によって、神性そのものと神的人間性に関する主が意味される(1893, 4615, 6098, 6185, 6276, 6804, 6847)。
アブラハムは天界の中で知られていない(1834, 1876, 3229)。
「ダビデ」によって、神的な王権に関する主が意味される(1888, 9954)。
十二使徒は、教会のすべてのもの、したがって信仰と愛に属すすべてのものに関する主を表象した(2129, 3354, 3488, 3858, 6397)。
ペテロは信仰に関する主を、ヤコブは仁愛に関する主を、ヨハネは仁愛の働きに関する主を表象した(3750, 10087)。
十二使徒が十二の王座に座り、イスラエルの十二部族を裁くことは、主が信仰と愛に属す真理と善にしたがって裁くであろうことを意味する(2129, 6397)。
みことばの中の人物や場所の名前は天界に入らないで、物事と状態に変化する。天界の中では名前を口にすることもできない(1876, 5225, 6516, 10216, 10282, 10432)。
さらにまた、天使は人物から抽象して考える(8343, 8985, 9007)。

天界と地獄

526◀︎目次▶︎528

527 世で天界の生活と反対の生活を送った者に、天界の生活を植え付けることは不可能であることを、多くの経験から証言することができます。
死後、神的な真理を天使たちから聞くとき容易にそれらを受け入れ、信じ、ここから生き方を変え、こうして天界に受け入れられることができる、と信じた者がいました――それで、そのことが非常に多くの者に、しかし、ただこれと似た信念の中にいた者だけに、試みられました。彼らにこのことが許された理由は、死後、悔い改めは存在しないことを知るためです。
彼らのうちのある者は、試みられたとき、真理を理解し、それらを受け入れるように見えました。しかし、すぐさま、自分自身の愛の生活(いのち)へ向きを変えたので、それらを退け、それどころか、それらに反して話しました――ある者は、それらを聞くことを望みもしないで、直ちに退けました――ある者は、世から得た愛の生活が、彼らから取り去られ、それに代わって天使の生活が、すなわち、天界の生活が注ぎ入れられることを望みました。このこともまた許しから彼らに行なわれました。しかし、彼らの愛の生活が取り去られたとき、もはや自分自身を抑制できないで、死んだように横たわりました。
これらから、また他の方法の経験から、正直で単純な者は、ある者の生活が死後、決して変えられることができないこと、悪の生活が善のものに、すなわち、地獄のものが天使のものに、移されることは決してできないことを教えられました。それぞれの霊は、頭からかかとまで彼の愛のようなもの、それゆえ、彼の生活のようなものであるので、この生活を反対のものに変えることは、完全にその霊を破壊することです。
天使は、地獄の霊を天界の霊に変えることよりも、フクロウをハトに、ミミズクをゴクラクチョウに変えることのほうが容易であると認めています。
人間が死後、世で彼の生活があったままにとどまることは、前の章で述べました(470-484番)。
今や、これらから、だれも直接の慈悲から天界に受け入れられることはできないことを明らかにすることができます。

天界と地獄

527◀︎目次▶︎529

55 天界へ導かれる生活を送ることは信じられているほど困難ではない

528 霊的な生活と呼ばれる天界へ導かれる生活を送ることは困難である、と信じる者がいます。その理由は、「人間は世を捨て、自分自身から身体のもの、肉のものと呼ばれる欲望を剥ぎ取り、霊的に生きなければならない」と聞かされたからです。彼らは、それらのことを、「世俗的なもの、特に富と名誉を退け、絶えず、神・救い・永遠の生活について深い瞑想のうちに生き、祈りと、みことばや信仰の本を読んで生活しなければならない」としか理解しません。これらのことが世を捨て、肉でなく霊に生きることであると考えます。
しかし、事実はまったく異なることを、私は多くの経験から、また天使たちとの会話から知るようになりました。それどころか、世を捨て、このように、霊に生きる者は、天界の楽しさを受け入れることのできないゆううつないのち(生活)をもってしまいます、なぜなら、それぞれの者に自分自身のいのち(生活)が残るからです。しかし、人間は天界の生活を受け入れるために、必ず、世で、そこの職務や仕事の中で生きなければなりません、またその時、道徳的で市民的な生活によって霊的な生活(いのち)を受けます。これ以外に、人間のもとに霊的な生活(いのち)が形成されることはできません、すなわち、人間の霊が天界へ準備されることはできません。
なぜなら、内なる生活をし、同時に外なる生活をしないなら、土台のない家に住むようなものであり、その家は、沈み続けるか、あるいは割れ目ができて口を開けるか、あるいは倒れるまでぐらつき続けるからです。

天界と地獄

528◀︎目次▶︎530

529 人間の生活が理性的な熟視によって眺められ、調べられるなら、三種類のもの、すなわち、霊的な生活・道徳的な生活・市民的な生活があり、それらの生活は別ものであることがわかります――なぜなら、市民的な生活をし、それでも道徳的でも霊的でもない生活をする人間がいるからです。また道徳的に生き、それでも霊的でない者がいます。市民的に同じく道徳的に生活し、同時に霊的に生きる者がいます。後者は天界の生活を送ります、けれども、前者は天界の生活から分離した世の生活を送る者です。
これらから最初に、霊的な生活は自然的な生活または世の生活から分離していないで、霊魂がその身体と結合しているように結合していること、もし分離されるなら、前に言われたように、土台のない家の中に住むことのようになることを明らかにすることができます。
道徳的で市民的な生活は、霊的な生活の活動原理(原動力)です、なぜなら、霊的な生活は善く意志することであり、道徳的で市民的な生活は善く行動することであるからです。もし、後者が前者から分離されるなら、霊的な生活は思考と話しの中だけにあり、意志は土台がないので離れ去ってしまいます。それでも、意志は人間の霊的なものそのものです。

天界と地獄

529◀︎目次▶︎531

530 天界へ導く生活を送ることが信じられているそれほど困難でないことは、今、次のことから知ることができます。
だれが、市民的で道徳的な生活を送ることができないでしょうか? なぜなら、だれもが幼年期からその生活に導かれ、世の生活からそれらを知るからです。だれもが、悪い者も善い者も等しく、その生活を送ります。なぜなら、だれが誠実と言われることを、だれが公正と言われることを欲しないでしょうか?
ほとんどすべての者は、外面での誠実と公正を、心から誠実で公正であるかのように見せ、誠実と公正そのものから行動するかのように行ないます――霊的な人間も同様に生きなければなりませんし、そのことを自然的な人間と同じく容易に行なうことができます、しかし、そこにはただ次の違いがあります。霊的な人間は神性を信じて、誠実に、公正に行ないますが、そのことを単に民法や道徳律にしたがって行なうだけでなく、神の律法にしたがって行ないます――なぜなら、彼は行動するとき、天界の天使と伝達しているので、神性について考えるからです。またそのことを行なえば行なうほど、天使と結合します。こうして本質的に霊的な人間と見なされる彼の内なる人が開かれます。
人間がこのようなものである時、知らないうちに、主により養子とされ、導かれ、そのとき道徳と市民の生活のものである誠実と公正を霊的な起源から行ないます。霊的な起源から誠実と公正を行なうとは、誠実と公正そのものから、すなわち、心から行なうことです。
[2]霊的な人間の公正と誠実は、外なる形で、自然的な人間のもとの、それどころか、悪い者と地獄の者のもとの公正や誠実とまったく似て見えます、しかし、内なる形で、まったく似ていません。
悪い者は、自分自身と世のためにだけ、公正に、誠実に行動するからです。それゆえ、もし、法律や罰を、さらに名声・名誉・利益・生命を失うことを恐れないなら、まったく不誠実に、不公正に行動し、神を、何らかの神的な律法を恐れないので、抑制する何らかの内なる束縛はありません。それゆえ、その時、できるかぎり、他の者をだまし、盗み、奪い、このことを快さから行ないます。
内部がこのようなものであることが、特に来世の似た者から見られます。そこでは、だれもが外なるものを取り去られ、内なるものが明らかにされ、最後にはそれらの中で永遠に生きます(前の499-511番参照)。その時、この者は外なる束縛がなくて行動するので、狂って行動し、誠実と公正を嘲笑します。その外なる束縛とは、前述のように、法律を恐れ、名声・名誉・利益・生命を失うことを恐れることです。
[3]しかし、神の律法のために、誠実に、公正に行動する者は、外なるものを取り去られ、内なるものに残されるとき、天界の天使と結合し、天使たちからその者に知恵が伝達されるので、賢明に行動します。
これらから今やはじめて、霊的な人間は、市民的で道徳的な生活では、内なる人に関して、すなわち意志と思考に関して神性と結合しているとき、自然的な人間とまったく同様に行動できることを明らかにすることができます(前の358-360番参照)。

天界と地獄

530◀︎目次▶︎532

531 霊的な生活の律法・市民的な生活の律法・道徳的な生活の律法もまた、十戒の十の戒めの中に述べられています。最初の三つの中に霊的な生活の律法、続く四つの中に市民的な律法、最後の三つの中に道徳的な律法があります。
単に自然的な人間は、外なる形の中で、同じ戒めにしたがって、霊的な人間と完全に同じような生活をしています。なぜなら、同じように神的なものを礼拝し、礼拝所に入り、説教を聴き、信心深そうな顔をするからです。殺さず、姦淫を犯さず、盗まず、偽りの証言をせず、仲間の財産をだまし取りません――しかし、これらのことを見られるようにと、ただ自分自身のために、また世のために行なっています。
それでも、その同じ者が、内なる形の中では、外なる形の中で見られるのとはまったく正反対です。心では神的なものを否定しているので、礼拝中に偽善者を演じています。自分ひとりになって考えるとき、教会の聖なるものを、ただ単純な大衆を拘束するのに役立つだけのものと信じて、嘲笑します。
[2]ここから、完全に天界から切り離されており、それゆえ、彼は霊的な人間ではないので、道徳的な人間でも、市民的な人間でもありません。
なぜなら、たとえ殺さなくても、それでも自分に対立するだれをも憎み、憎しみから復讐に燃えるからです。それゆえ、市民法で、また恐れている外なる束縛で抑制されなかったなら、殺します。このことを望むので、絶えず殺しているといえます。
また、たとえ姦淫を犯さなくても、それでもやはり許されると信じているので、いつまでも姦淫者です。なぜなら、可能なかぎり、また機会が許されるたびごとに、姦淫を犯すからです。
同様に、たとえ盗まなくても、それでもやはり他の者の財産を望み、ごまかしと悪の策略は法に反しないと見なしているので、心では絶えず盗みを行なっています。
偽りの証言をしないことや他人の財産をむやみにほしがらないことである道徳的な生活の戒めに関しても同様です。
神的なものを否定し、宗教から何らかの良心をもたないすべての人間はこのようなものです。
このようなものであることは、外なるものを取り去られ、自分の内なるものへ入れられる来世で、彼らに似た者から明らかに見られます。その時、天界から分離しているので、地獄と一つのものとして活動します。それゆえ、そこにいる者と仲間になります。
[3]心で神的なものを認め、自分の生活の行為の中で神的な律法を眺め、十戒の最初の三つの戒めと等しく、残りの戒めにもしたがって生きた者たちは異なります。彼らは外なるものを取り去られて自分の内なるものの中へ入れられるとき、世にいたときよりも賢明です――自分の内なるものの中にやって来る時、神的なものの中に、したがって天界の中にいるので、陰から光の中へ、無知から知恵の中へ、悲しみの生活から幸福の中へやって来るかのようです。
これらのことを述べたのは、たとえ両者が似たような外なる生活を送ったにしても、一方がどんなものか、またもう一方がどんなものか知られるためです。

天界と地獄

531◀︎目次▶︎533

532 思考は意図にしたがって、すなわち、人間が意図するところへ、導かれ、向かうことをだれも知ることができます――思考は人間の内なる視覚であり、それは外なる視覚に似て、どこへ曲げられ、意図されても、そこへ向けられ、そこにとどまるからです。
そこで、内なる視覚、すなわち、思考が世へ向けられるなら、そこにとどまり、思考は世俗的なものになります。もし自分自身と自分の名誉に向けられるなら、物質的なものになります。けれども、天界へ向けられるなら、天界的なものになります。それゆえ、天界へ向けられるなら高揚され、自分自身に向けられるなら天界から引き戻され、物質的なものへ沈められます。世へ向けられるなら、やはり天界からそらされ、目の前にあるものへと散らされます。
[2]人間の愛は、意図をつくり、人間の内なる視覚または思考をその対象へ向けるものです。そのように、自己愛は自分自身と自分のものへ、世俗愛は世俗のものへ、また天界の愛は天界のものへ向けます――これらの対象から、人間の心(mens)のものである内的なものがどんな状態の中にあるか知られることができ、その時、彼の愛が認められます。すなわち、天界を愛する者の内的なものは天界へ向けて高揚され、そして上方に開かれます。世と自分自身を愛する者の内的なものは上方に閉ざされ、外部に向けて開かれます――ここから、心の高い領域が上方に閉ざされているなら、人間はもはや天界と教会のものである対象を見ることができず、その対象は彼のもとで暗黒の中にあり、暗黒の中にあるものは、否定されるかあるいは理解されないことを結論することができます。
ここから、すべてにまさって自分自身と世を愛する者は、彼らのもとで心の高い領域が閉ざされているので、心から神的真理を否定します。それらについて何かを記憶から話すにしても、それでも理解していません。さらにまた、それらを世俗的なものや物質的なものを眺めるようにしか眺めません――このようであるので、身体の感覚を通して入ってくるもの以外に心(animus)で何かを熟考することができないで、さらにまたそれらのものだけを楽しみます――それらのもの間には、多くの汚れた、わいせつな、冒涜的な、不埒なものがあり、取り去られることができません、前に述べたように、彼らのもとで、その心(mens)は上方に閉ざされているので、心の中への天界からの流入は存在しないからです。
[3]人間の内なる視覚または思考の方向を決める意図とは、彼の意志です。なぜなら、人間は意志するものを意図し、意図するものを考えるからです――それゆえ、天界を意図するなら、彼の思考はそこへ向けられ、その思考とともに彼の心(mens)全体が向けられ、こうしてその心は天界の中にあります――その後、ここから世にあるものを家の屋上からかのように自分の下に眺めます。ここから、心のものである内的なものが開かれている人間は、自分のもとの悪と虚偽を見ることができます、これらが霊的な心の下にあるからです。一方、内的なものが開かれていない人間は、自分の悪と虚偽を見ることができません、それらの中にいて、それらの上にいないからです。
これらから、人間の知恵はどこからか、またその狂気はどこからか、さらに、人間は死後、そこに意志することと考えることが残され、さらにその内的なものにしたがって行動し、話すとき、それらがどのようなものになるか結論することができます。
これらのこともまた述べたのは、人間が外的には他の者とどれほど似て見えても、内的にはどんなものであるか知られるためです。

天界と地獄

532◀︎目次▶︎534

533 そこで、天界の生活を送ることが信じられているほど困難でないことは、不誠実で不公平である何かを浮かべ、そのことへ自分の心(animus)が導かれるとき、ただ必要とされることが〝神的な戒めに反するので行なってはならない〟と考えることだけであることが今や明らかです。
もし、人間がこのように考えることに慣れ、慣れることから何らかの習慣を得るなら、その時、少しずつ天界と結合します。また天界と結合すればするほど、それだけ心の高いものが開かれます。またそれが開かれれば開かれるほど、それだけ何が不誠実と不公平であるか見ます。それらを見るほど、それだけ追い払うことができます。なぜなら、何らかの悪は、見られた後でなくては、追い払われることはできないからです。
この状態の中へ、人間は自由から入ることができます。なぜなら、だれが自由からこのように考えることができないでしょうか? しかし、導かれ始めれば、その時、主は彼のもとのすべての善に働きかけ、悪を見るようにされるだけでなく、それを欲しないように、ついにはそれを追い払うようにされます。
このことが主のみことばによって意味されています、

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いです(マタイ 11:30)

しかし、このように考えること、さらにまた悪に抵抗することの困難は、人間が意志から悪を行なうほど増大することを知らなくてはなりません。それだけ悪に慣れ、ついには悪を見ないようにまでもなり、その後、悪を愛するようになり、悪の愛の快さからその悪を許し、すべての種類のごまかしによって確信し、「許されること、善いことである」と言うからです。
しかし、このことは、青年時代に束縛がないかのように悪に突進し、そのとき同時に、心(cor)から神的なものを退ける者のもとに起こることです。

天界と地獄

533◀︎目次▶︎535

534 かつて私に、天界へ導く道と地獄へ導く道が表象されました。
左の方向へ、すなわち北の方向へ伸びている広い道があり、それを行く多くの霊が見えました――しかし、隔てたところに、かなり大きな石が見られ、そこで広い道は終わっていました。
その石から続いて二つの道が、一つは左へ、もう一つは反対の右へ、分岐していました。
左へ伸びていた道は、狭く、すなわち細くて、西を通って南へ、こうして天界の光の中へ導くものでした。右へ伸びていた道は、幅広く、ゆったりしていて、地獄に向かって斜めに下方に導くものでした。
最初に、すべての者は道の分岐点にある大きな石まで同じ道を行くのが見られました。しかし、そこに来たとき、別れました。善い者は、左へ向きを変え、天界へ導かれる細い道に入りました。しかし、悪い者は、分岐点にある石が見えないで、その上に倒れ、傷つき、そして立ち上がったとき、急いで地獄へ伸びている右の広い道へ行きました。
[2]その後、私に、それらのことすべてが何を意味するか、説明されました――すなわち、善い者と悪い者の間で、見た目には何の相違も見られなかったので、彼らは一緒になって、彼らの間で友のように会話して、外なるものでは誠実で公正に、見た目には見分けられないので同じように生きる者が、多くの者が行く最初の広い道によって表象されたことです――悪い者が倒れ、そこからその後、地獄へと導く道へ向かった分岐点の石または隅の石によって、神的真理が表象されており、その真理は地獄へ目を向ける者から否定されます。同じその石によって、最高の意味では、主の神的人間性が意味されます――けれども、真理を、また同時に主の神性を認めた者は、天界へ導く道を通って行きました。
これらから再び、悪い者は善い者と等しく、外なるもので同じ生活を送ります、すなわち、こうして一方はもう一方と同様に容易に同じ道を行くことが明らかです。それでも、心(cor)から神性を認める者は、特に教会内で、主の神性を認める者は、天界へ導かれ、認めない者は、地獄へ行くことが明らかです。
[3]意図あるいは意志から発出する人間の思考は、来世で道によって表象されます――さらにまた、完全に意図の思考にしたがって、そこの外観に道が示され、そしてまた、だれもが意図から発出する自分の思考にしたがって歩いています。
ここから、霊がどんなものであるか、その思考がどんなものであるか、彼らの道から知られます――これらからもまた、次の主のみことばによって何が意味されるか明らかです、

狭い門を通って入りなさい。滅びへ導く門は広く、道はゆったりとしていて、それを通って歩く者は多いからです。……いのちへ導く道は細く、門は狭く、それを見いだす者はわずかです(マタイ7:13, 14)。

いのちへ導く道が細いのは困難であるからではなく、ここに言われているように、それを見いだす者がわずかであるからです。
広くて共通の道が隅で終わり、そこから二つの道が反対方向へ伸びていましたが、その隅に見られた石から、次の主のみことばよって何が意味されるか明らかです、

あなたがたは、〔次のように〕書かれていることを読んでいないのですか?「建てる者たちが捨てた石、それが隅の頭石になった」……だれでもその石の上に倒れる者は、こなごなにされます([マタイ21:42-44] ルカ20:17, 18)

「石」は神的真理を、「イスラエルの石」は神的人間性に関する主を意味します。「建てる者たち」は教会の者です。「隅の頭石」はその道の分岐点であり、「倒れること」と「こなごなにされること」は否定することと滅びることです(*1)。

*1 「石」は真理を意味する(114, 613, 1298, 3720, 6426, 8609, 10376)。
それゆえ、律法は石の板に刻み込まれた(10376)。
「イスラエルの石」は、神的真理と神的人間性に関する主である(6426)。

天界と地獄

534◀︎目次▶︎536

535 私は、敬虔で信心深く生きるために、世の職業から遠ざかった者と、来世で話し、さらにまた、自分自身をいろいろな手段で苦しめることが世を棄てて肉の欲望を抑制することであると信じたので、そのようにした者とも、来世で話すようになりました。しかし、彼らの大部分の者は、このことから悲しい生活を引き寄せてしまい、世の中でしか、なし遂げられることのできない仁愛の生活を自分自身から遠ざけたので、天使と仲間になることができませんでした。天使の生活は幸福からの喜ばしいものであり、仁愛の働きである善を行なうことにあるからです――さらに、世俗のものから引き離された生活を送った者は、功績を熱望し、ここから絶えず天界を望み、天界の楽しみについては報酬として考えて、天界の楽しさが何であるかをまったく知りません――彼らは、天使の間で、功績ではないその楽しさの中に入れられるとき、その楽しさは役立ちの実践と〔これを〕示すことであって、それを実行する善からの至福の中にいるのですが、その楽しさを〔自分たちの〕信念とは異質なものを見るかのように驚きます――彼らは、その楽しさを受け入れることができないので、立ち去り、世で似た生活を送った者と仲間になります。
[2]けれども、外面的に信心深く生きて、絶えず神殿で祈って、自分の魂を苦しめ、同時に常に自分自身について、こうして他の者たちにまさって尊重され、尊ばれ、ついには死後、聖徒と見なされると考えた者は、このようなことを自分自身のために行なったので、来世では天界にいません。神的真理を自己愛で汚し、自己愛に浸したので、彼らのある者は自分自身を神々であると考えるほどに狂っています。それゆえ、地獄の中のこのような者の間にいます。
欺きの地獄に、詐欺的で狡猾な者がいます。その者は外なる形でこのようなことを策略と欺瞞によって行ない、そのことによって一般の人々に自分たちには神の信心深さがあると信じ込ませたのです。
[3]このような者の多くは、ローマカトリック教の聖徒からです。彼らともまた話すようになり、その時、彼らの生活が世でどのようなものであったか、その後どのようなものであるか明らかに見られました。
これらのことを述べたのは、天界へ導く生活は世から切り離された生活ではなく、世での生活であること、仁愛の生活は世にだけに存在しますが、その仁愛の生活のない敬虔な生活は天界へ導かないことが知られるためです。仁愛の生活は、内的なものから、このように天界を起源として、すべての職務・仕事・働きで、誠実に、公正に行なうことです。人間が、神的な律法にしたがうことであるからと誠実で公正に行なうとき、この起源が彼の生活に内在します。
この生活は困難ではありません。しかし、仁愛の生活から切り離された敬虔な生活は困難です。しかもその生活は、天界へ導かれると信じれば信じるほど、それだけ天界から引き離されます(*2)


*2 仁愛の生活のない敬虔な生活は何も有効ではない、しかし、仁愛とともに、すべてのものに益する(8252, 8253)。
隣人に対する仁愛は、すべての働きとすべての職務の中で、善・公正・正義を行なうことである(8120-8122)。
隣人に対する仁愛は、人間が考え、意志し、行なうすべてと個々のものに広がっている(8124)。
仁愛の生活は主の戒めにしたがう生活である(3249)。
主の戒めにしたがって生きることは、主を愛することである(10143, 10153, 10310, 10578, 10645)。
本物の仁愛は、内的な情愛からのものであり、ここからの快さのものであるので、功績的ではない(2371, 2380, 2400, 3816, 3887, 6388-6393)。
人間は、彼の仁愛の生活が世の中でどのようであったかによって、死後、そのような生活を続ける(8256)。
天界の至福は主から仁愛の生活の中に流入する(2363)。
だれも、ただ善を考えることだけによって天界に入れられない、しかし、同時に善を意志し、行なうことによって入れられる(2401, 3459)。
善を行なうことが、善を意志し、善を考えることと結合しないなら、救いはなく、内なる人は外なる人と結合もしない(3987)。

天界と地獄

535◀︎目次▶︎537

56 主は地獄を支配されている

536 これまで、天界について述べたどこでも(特に、2-6番で)、主は天界の神であられること、したがって天界のすべての統治は主のものであることを示しました――また、地獄に対する天界の関係、天界に対する地獄の関係は、二つの対立するものの間で、相互にそれ自体に反して働くもののようであり、その作用と反作用から結果として均衡が生じるので、すべてのものはその均衡の中で存続し、それゆえ、すべてと個々のものが均衡の中に保たれるために、一方を支配する者はまたもう一方も支配することが必要です。なぜなら、もし同一の主が地獄からの攻撃を制限し、そこの狂気を抑制しないなら、均衡は失われ、均衡とともに全体も滅びるからです。

天界と地獄

536◀︎目次▶︎538

537 しかし、ここで最初に均衡について述べておきます。
二つのものが相互に反して働き、一方が働きかけ、駆りたてれば駆りたてるほど、それだけもう一方が反応し、抵抗するとき、どちらの側にも等しい内在的な力があるので、どちらの側にも何も力がなく、その時、どちらの側も第三のものによって自由に働きかけられることがよく知られています。なぜなら、同等の対立から二つのものに何も力がない時、第三のものの力が、何も対立するものがないかのように、すべてのものに容易に働きかけるからです。
[2]このような均衡が天界と地獄の間にあります。一方の力がもう一方の力と同等な強さの身体をもつふたりが闘うようなときの均衡ではなくて、霊的な均衡です。すなわち、真理に対する虚偽、善に対する悪の均衡です。地獄からは絶えず悪からの虚偽が吹き込み、天界からは絶えず善からの真理が吹き込んでいます。
[3]人間が自由に、考え、意志するようにしているものは、この霊的な均衡です――なぜなら、人間が考え、意志するものは何でも、悪とそこからの虚偽に関係するか、または善とそこからの真理に関係するからです。したがって、その均衡の中にいるとき、自由に、地獄からの悪とそこからの虚偽が入るのを許すかまたは受け入れます、あるいは天界からの善とそこからの真理が入るのを許すかまたは受け入れます。
主は、天界と同じく地獄を、二つとも支配されるので、それぞれの人間はこの均衡の中に保たれます。
けれども、神的力により人間から悪と虚偽が取り除かれ、善と真理がもたらされないで、なぜ、人間が均衡によってこの自由の中に保たれるのかは、このあとの章の中で述べます。

天界と地獄

537◀︎目次▶︎539

538 何度か、私は地獄から流れ出る悪からの虚偽のスフェアを知覚することが与えられました――それはすべての善と真理を滅ぼそうとし、それができないことの怒りと激怒のようなものに結合したずっと続く努力(コナトゥス)のようでした。特に、主の神性を絶滅し、破壊する努力(コナトゥス)でしたが、このことはその方からすべての善と真理があるからです。
けれども、天界から善からの真理のスフェアが知覚され、ここから均衡がありました。
この天界から、スフェアは主おひとりからのものであると知覚されましたが、それでも天界の中の天使からのように見えました――主おひとりからであり、天使からでないことは、天界のそれぞれ天使は、善と真理が何ら自分自身からのものではなく、すべてのものは主からであることを認めているからです。

天界と地獄

538◀︎目次▶︎540

539 霊界のすべての力は善からの真理のものであり、決して悪からの虚偽のものではありません。
すべての力は善からの真理のものであることは、天界の中の神性そのものが神的善と神的真理であり、すべての力が神性にあるからです。
決して悪からの虚偽のものではないことは、すべての力は善からの真理のものであり、悪からの虚偽の中に善からの真理のものは何もないからです。
ここから、すべての力は天界にあって、地獄には決してありません。天界のだれもが善からの真理の中にいて、地獄のだれもが悪からの虚偽の中にいるからです――なぜなら、だれも、善からの真理の中にいないうちに、天界に入ることは許されず、悪からの虚偽の中にいないうちに、地獄に投げ込まれこともないからです(このようであることは、死後の人間の第一、第二、第三の状態が述べられている章の491-520番――すべての力は善からの真理のものであることは、天界の天使の力が述べられている章の228-233番参照)。

天界と地獄

539◀︎目次▶︎541

540 それでこのことが天界と地獄の間の均衡です。
霊たちの世界の中にいる者は均衡の中にいます、なぜなら、霊たちの世界は天界と地獄の真ん中にあるからです。そしてここから、世のすべての人間もまた似た均衡の中に保たれています。なぜなら、世の人間は主により霊たちの世界にいる霊を通して支配されているからであり、そのことは、あとの章の中で述べます。
主が、天界も地獄も二つとも支配し、そして二つとも統制されないなら、このような均衡は存在することができません。そうでなければ、悪からの虚偽が満ちあふれ、天界の最も低いところにいる善良で単純な者がその影響を受け、天使よりも容易にゆがめられてしまい、このように均衡は失われ、均衡とともに人間のもとの自由も失われます。

天界と地獄

540◀︎目次▶︎542

541 地獄は、天界と同様に社会に分かれ、そしてまた天界にある社会と同数の多くの社会に分かれています。なぜなら、天界のそれぞれの社会はそれと正反対の社会を地獄の中にもち、このことは均衡のためであるからです。
しかし、地獄の社会は、天界の社会が善とそこからの真理にしたがって区別されているので、悪とそこからの虚偽にしたがって区別されています。
それぞれの善に正反対の悪があり、それぞれの真理に正反対の虚偽があることは、あるものはその正反対のものとの関係なしに存在しないこと、また正反対のものから、どんなものであるか、またその中の段階が知られること、またここからすべての知覚と感覚があることから知ることができます。
それゆえ、主は、天界のすべての社会がその正反対のものを地獄の社会の中にもち、それらの間に均衡があるように、常に配慮されています。

天界と地獄

541◀︎目次▶︎543

542 地獄は、天界と同数の多くの社会に分かれているので、それゆえまた、天界と同数の多くの地獄があります。なぜなら、天界のそれぞれの社会は、小さい形の天界であり(前の51-58番参照)、このように地獄のそれぞれの社会は小さい形の地獄であるからです。
全般的に三種類の天界があるので、それゆえ、全般的に三種類の地獄があります。最内部または第三の天界に対立している最も下の地獄、中間または第二の天界に対立している中間の地獄、そして最外部または第一の天界に対立している上部の地獄です。

天界と地獄

542◀︎目次▶︎544

543 けれども、地獄は主によりどのように支配されているかもまた簡潔に述べます。
地獄は一般に天界からの神的善と神的真理の全般的な流れ込みによって支配され、それによって地獄から流れ出る全般的なコナトゥス(努力)が抑制され、制限されています。また、それぞれの天界から、またはそれぞれの天界の社会からの特別な流れ込みにもよっています。
地獄は個別的に天使によって支配され、その天使に、地獄を視察し、そこの狂気と騒動を抑制することが与えられています。時々、天使は地獄に送られることもあり、そこに臨在することで狂気と騒動を抑制します。
けれども、全般的に地獄の中にいるすべての者は、恐怖によって支配されています。ある者は、世から植え付けられ、今なお定着している恐怖によっています。しかし、これらの恐怖は十分ではなく、また少しずつ去ってしまうので、罰の恐怖によって支配され、そのことによって特に悪を行なうことから抑制されます。 そこの罰は多種多様であり、悪にしたがって穏やかなものや重いものがあります。
多くの場合、ずるさと策略でまさる悪意ある者が彼らの上に置かれ、罰とここからの恐怖によって、従順と隷属を保つことができます――これらの統治者は自分自身に規定された限界をあえて超えることをしません。
地獄にいる者の暴力と激怒を制限する唯一の手段は罰の恐怖であって、他の手段は存在しないことを知るべきです。

天界と地獄

543◀︎目次▶︎545

544 世ではこれまで、「地獄を支配するある悪魔がいて、その悪魔は光の天使として創造された、しかし、その後、反逆を行ない、自分の仲間とともに投げ落とされた」と信じられてきました。
このように信じられたのは、みことばの中に、悪魔とサタン、それとまた魔王〔明けの明星、イザヤ14:12参照〕の名前が挙げられ、みことばが文字どおりの意味にしたがって理解されたからです。それでも、「悪魔」と「サタン」によって、そこでは地獄が意味されます。「悪魔」によって、背後にあって、悪の悪鬼と呼ばれる最悪の者の地獄が意味されます。また「サタン」によって、前面にあって、悪い霊と呼ばれるそれほど悪質でない者の地獄が意味されます。また「魔王」によって、自分の支配を天界にまで伸ばす者であるバベルまたはバビロニア(バビロン)からの者が意味されます。
地獄を服従させる悪魔がいないことは、地獄にいるすべての者が天界の中にいるすべての者のように、人類からであること(311-317番参照)、またそこのだれもが、世で神性に反対したような悪魔であり、創造の始めからこの時代まで無数にいることからもまた明らかです(これらについては前の311, 312番参照)。

天界と地獄

544◀︎目次▶︎546

57 主はだれも地獄へ投げ込まれない、霊が自分自身を投げ込む

545 〝神は人間から顔を背け、ご自分から人間を退け、地獄に投げ込み、悪のために人間に対して怒る〟という見解を強く持つ者がいます。さらに超えて、〝神は人間を罰し、人間に悪を行なう〟という見解を持つ者もいます。みことばの文字どおりの意味から、そこに似たことが言われていることから、この見解を確信しています。
みことばの文字どおりの意味を解説する霊的な意味は、まったく別のことを言っていて、みことばの霊的な意味からのものである教会の本物の教えは、別のことを教えていることを知りません。すなわち、神はだれからも顔を背けず、ご自分から人間を退けず、ある者を地獄へ投げ込まず、怒ってもおられないことです(*1)
さらにまた、みことばを読むとき、心を照らされるだれもが、神は善そのもの、愛そのもの、慈悲そのものであられることから、このことを知覚し、善そのものであられる方はだれかに悪を行なうことができないこと、愛そのものと慈悲そのものであられる方はご自分から人間を退けることができないことを知覚します。慈悲と愛の本質そのものに反し、そのように神性そのものに反するからです。
それゆえ、照らされた心から考える者は、みことばを読むとき、神は決してご自分を人間から背けられないこと、ご自分を人間から背けられないので、善・愛・慈悲から人間を扱われること、すなわち、人間の善を望み、愛し、哀れみを示されることをはっきりと知覚します。
ここからもまた、このようなことが言われているみことばの文字どおりの意味は、その中に霊的な意味がしまい込まれており、その文字どおりの意味は人間の把握に適し、最初の段階の全般的な観念にしたがっているものであって、霊的な意味にしたがって解釈されなければならないことを知っています。


*1 みことばの中で怒りと憤りは主に帰せられている、しかし、人間のもとにある。罰せられ、断罪されるとき、人間にはこのように見えるので、このように言われている(5798, 6997, 8284, 8483, 8875, 9306, 10431)。
悪もまた主に帰せられている、そのときそれでも主からは善以外の何ものもない(2447, 6071, 6991, 6997, 7533, 7632, 7679, 7926, 8227, 8228, 8632, 9306)。
なぜ、このようにみことばの中に言われているのか(6071, 6991, 6997, 7643, 7632, 7679, 7710, 7926, 8282, 9010, 9128)。
主は純粋な慈悲と柔和である(6997, 8875)。

天界と地獄

545◀︎目次▶︎547

546 照らされている者は、さらに進んで、善と悪は二つの正反対のもの、天界と地獄のように正反対のものであり、すべての善は天界から、すべての悪は地獄からであること、また主の神性が天界をつくるので(7-12番)、主からは善しか人間のもとに流入しないこと、地獄からは悪しか流入しないこと、このように主は人間を絶えず悪から引き出し、善へ導かれ、地獄は人間を絶えず悪へ導き入れることを知っています。
もし人間が二つのものの間にいないなら、人間に何らかの思考も、何らかの意志も、まして何らかの自由も、何らかの選択もありません。これらすべてのものは善と悪の間の均衡から人間にあるからです――それゆえ、もし主がご自分を背け、人間に悪だけを残されるなら、もはや人間は人間のままではいられません。
これらから、主は善とともに人間のもとに、善い者と等しく悪い者のもとに流入されるとき、そこには悪い人間を絶えず悪から引き出し、善い人間を絶えず善へ導かれるという相違があります。このような相違は、人間は容器であるので、人間のもとにあることが明らかです。

天界と地獄

546◀︎目次▶︎548

547 これらから、人間は地獄から悪を行ない、天界から善を行なうことを明らかにすることができます――しかし、人間はだれも自分自身から行なうと信じているので、それゆえ、行なう悪は、自分自身のものであるかのように彼に付着しています。ここから、悪の原因は人間自身にあって、決して主にあるのではありません。
人間のもとの悪は人間のもとの地獄です。なぜなら、悪と言っても、あるいは地獄と言っても、同じことであるからです。
さて、悪の原因は人間自身にあるので、それゆえ、さらにまた彼は自分自身を地獄の中に引き入れ、それは主ではありません。人間が自分自身の悪の中にいることを欲さなければ、その悪を愛さなければ、それだけ、主は、人間を地獄から解放しようとされ、人間を地獄に引き入れることはされません。
人間の意志と愛のすべては、死後、彼のもとに残ります(470-484番)。世で悪を欲して、愛する者は、同じ悪を来世で欲し、愛して、その時、もはやこのことから引き出されないことを自分自身に許します――ここから、悪の中にいる人間は、地獄に結びつけられていて、また実際に自分の霊に関してはそこにいて、そして死後、自分自身の悪があるところ以外の居場所を決して願いません――それゆえ、死後、人間はまさに自分自身を地獄に投げ込むのであって、主ではあられません。

天界と地獄

547◀︎目次▶︎549

548 このことがどのように生じるか、なおまた述べます。
人間が来世に入る時、最初、天使により迎えられ、天使は彼にすべての親切を行ない、そしてまた彼と、主・天界・天使の生活について話し、彼に真理と善を教えます――しかし、その時は霊となっている人間が、世で確かに知り、しかし、心で否定するかまたは軽蔑したようなものであったなら、その時、いくらか話した後、その者は天使から去ることを願い、そのこともまた求めます。そのことに天使が気づくとき、天使は彼を残して去ります。
彼は、他の者といくらか交わった後、ついに、自分自身の悪と似た悪の中にいる者と仲間となります(前の445-452番参照)――そのことが起こるとき、主から自分自身をそらし、世ですでに結合していた地獄へ顔を向けます。そこには、似た悪の愛の中にいる者がいます。
これらから、主はすべての霊を、天使によって、そしてまた天界からの流入によって、ご自分に引き寄せられることが明らかです。しかし、悪の中にいる霊は、完全に抵抗し、いわば綱によるかのように、主から自分自身を引き離し、自分自身の悪により、このように地獄により引かれます。そして引かれ、悪の愛により従うことを欲するので、自由から自分自身を地獄の中へ投げ込むことが明らかです。
このようであることは、地獄についてもっている観念から、世では信じられることができません。それどころか、来世でも、地獄の外にいる者の目の前でなければ見られません、けれども、自分自身をそこへ投げ込む者は見ません――というのも、自発的に自分自身から入るからです。また、悪への強烈な愛から入る者は、頭を下に、足を上にして、仰向けになって投げ入れられるように見えます。
この外観から、地獄に投げ込まれるのは神的な力によるかのように見られます(これらの事柄について多くのものが前の574番に見られます)。
これらから今や、主はだれも地獄へ投げ込まれず、それぞれの者が自分自身を、世で生きるときだけでなく、死後、霊の間に来たときもまた投げ込むことを知ることができます。

天界と地獄

548◀︎目次▶︎550

549 主が、ご自分の神的本質である善・愛・慈悲から、すべての人間に同じように働きかけることのできない理由は、悪とそこからの虚偽が立ちふさがり、その方の神的流入を弱めるだけでなく、退けもするからです。
悪とそこからの虚偽は、太陽と人間の目の中間に入り込み、光の照らしと明るさを取り去る黒い雲のようです。それでも太陽は立ちふさがる雲を絶えず散らそうと努めています。なぜなら、その雲の背後に存在し、活動していて、その間、はっきりしない光を人間の目の中へ、いろいろな回り道によって、送り込むからです。
霊界も同様です――そこの太陽は主と神的愛であり(116-140番)、そこの光は神的真理です(126-140番)。そこの黒い雲は悪からの虚偽であり、そこの目は理解力です。
そこではだれかが悪からの虚偽の中にいればいるほど、それだけ彼のまわりに、悪の程度にしたがって、このような黒くて濃い雲があります。
この比較から、主は絶え間なくそれぞれの者のもとに臨在されています、しかし、異なって受け入れられていることを知ることができます。

天界と地獄

549◀︎目次▶︎551

550 悪霊は霊たちの世界でひどく罰せられますが、それは罰によって悪の実行を抑制するためです。このこともまた主からのように見えます。
しかしそれでも、そこの罰は、決して主からではなく、悪そのものから存在します。なぜなら、悪にはそれ自体の罰が分離されることができないように結合しているからです――地獄の連中は悪を行なうこと、特に、罰を加え、苦しめること以上に願い、愛することは何もなく、また主により守られていない者のだれにも、悪を行ない、罰を加えるからです。それゆえ、だれかが悪の心から悪を行なう時、そのことによって主からのすべての保護を退けるので、このような悪を行なう地獄の霊がその者に突進し、罰します。
このことは、世の悪とその罰から、ある程度、説明されることができます。
そこの法律はそれぞれの悪に罰を規定しているので、そこでもまた結びついているからです。それゆえ、悪へ突き進む者は、悪の罰へもまた突き進みます。
ただ、世の悪は隠されることができます、けれども、来世では隠されないという相違があります。
これらから、主は決して悪を行なわれないこと、またこのことは世と同様であることを明らかにすることができます。すなわち、王も、裁判官も、法律も、罪が罰せられる原因ではありません、悪を行なう者の悪の原因ではないからです。

天界と地獄

550◀︎目次▶︎552

58 地獄の中にいるすべての者は、自己愛と世俗愛からの悪と虚偽の中にいる

551 地獄の中にいる者はすべて、悪とここからの虚偽の中にいます、そして、そこのだれも、悪の中にいるのと同時に真理の中にいることはありません。
世の悪い者の大部分は、教会の真理である霊的な真理を知っています。それらを幼児期から学び、その後、説教から、みことばを読むことから、そしてその後、それらから話してきたからです。また、ある者は、心からのキリスト教徒であることを他の者が信じるように装いました。真理からの情愛の見せかけをもって話すこと、また霊的な信仰からかのように誠実に行動することを知ったからです――しかし、その者は、自分自身の中でそれらに反したことを考え、市民の法律のためだけでなく、名声・名誉・利益のためという自分の考えにしたがって、悪の実行を慎みましたが、そのすべての者は、心で悪であり、霊に関してではなく、身体に関してだけ、真理と善に属すものの中にいます。それゆえ、来世で彼らの外なるものが取り除かれるとき、まったく悪と虚偽の中にあって、何らかの真理と善に属すものの中になかった彼らの霊に属す内なるものがあらわにされます。それで、真理と善は、彼の記憶知として記憶の中だけにあり、ここからそれらを取り出し、話すときに、霊的な愛と信仰からのように善を偽り装ったことが明らかです。
このような者は、自分の内なるものの中へ、その結果、自分の悪の中へ入れられる時、もはや真理を話すことができないで、悪から話すので、虚偽だけを話します。なぜなら、悪から真理を話すことは不可能であり、その時、霊は自分自身の悪と悪から発出する虚偽以外の何ものでもないからです。
悪霊はそれぞれ、地獄に投げ込まれる前に、この状態にされます(前の499-512番参照)。このことは、「真理と善に関する荒廃」と言われます(*1)。荒廃とは、内なるものの中へ、このように霊のプロプリウム(固有のもの)の中へ、すなわち、霊そのものの中へ入れられること以外の何ものでもありません(これらについてもまた前の425番参照)。


*1 悪い者は、地獄へ投げ入れられる前に真理と善に関して荒廃させられ、それらを取り去られて、自分自身から地獄の中へ運ばれる(6977, 7039, 7795, 8210, 8232, 9330)。
主は彼らを荒廃されない、しかし、彼らが自分自身を荒廃させる(7643, 7926)。
すべての悪はそれ自体の中に虚偽をもつ、それゆえ、悪の中にいる者は、虚偽の中にもまたいる、それでもそのことを知らない者がいる(7577, 8094)。
悪の中にいる者は、自分自身から考えるとき、虚偽しか考えることができない(7437)。
地獄の中にいるすべての者は悪からの虚偽を話す(1695, 7351, 7352, 7357, 7357, 7689)。

天界と地獄

551◀︎目次▶︎553

552 死後、人間がこのようなものである時、もはや最初の状態の中にいたような霊人間〔人間的な霊〕ではなく(そのことについては前の491-498番)、真に霊です。なぜなら、真に霊である者は、彼の心(animus)のものである内なるものに対応する顔と身体をしていて、それらは彼の内なるものの型または像である外なる形であるからです。
前に述べた第一と第二の状態を終わったあとの霊はこのようなものです――それゆえ、その時、目で眺められるとき、顔からだけでなく、身体からも、そしてその後、話し方と振る舞いから、直ちに、どのようなものであるか認められます。またその時、自分自身の中にいるので、〔自分と〕似た者がいるところ以外の他のところにいることはできません。
[2]霊界では情愛とそこからの思考は、すべての点で伝達するので、それゆえ、霊は自分自身と似た者のところへ、自分の情愛とその快さから、いわば自分自身から運ばれます。むしろ自分自身をそこへ向けるのです。なぜなら、こうして自分自身の生活を吸い込む、すなわち、自由に自分の呼吸をするからです、しかし、他のところへ向けるとき、そうではありません。
霊界では、他の者との伝達は顔の方向転換にしたがって起こること、またそれぞれの者の面前に常に自分の愛と似たものの中にいる者がいること、またこのことは身体をどの方向に変えてもそうなっていることを知らなくてはなりません(前の151番参照)。
[3]ここから、地獄のすべての霊は、主を後ろにして、世の太陽の代わりに、また月の代わりにそこにある暗黒のものと暗やみのものへと向きを変えます。しかし、天界のすべての天使は、天界の太陽として、天界の月としての主へ自分を向けています(前の123, 143, 144, 151番参照)。
それで、これらから、地獄の中にいるすべての者は、悪とそこからの虚偽の中にいること、また、自分自身の愛へ向っていることが明らかです。

天界と地獄

552◀︎目次▶︎554

553 天界の何らかの光の中で眺められた地獄の中のすべての霊は、それ自身の悪の形で見られます。だれもが自分自身の悪の像であるからです、なぜなら、それぞれの者のもとで内的なものと外的なものは一つとして働き、内的なものは、顔・身体・話し方・振る舞いである外的なものの中にそれ自体が見られるように示すからです。このように、どんなものであるか、目で認められます。
全般的に、他の者への軽蔑の形、自分を尊ばない者に対する脅迫の形をしています。いろいろな種類の憎しみの形、いろいろな種類の復讐の形をしています。内的なものからの狂暴さと残酷さが、それらを通して透かして見えます――しかし、他の者が彼らをほめ、尊び、礼拝するとき、彼らは、顔をしかめますが、快さからうれしそうに見えます。
[2]それらの形のすべてがどのように見えるかを、手短に述べることはできません、あるものは他のものに似ていないからです。ただ似た悪の中に、またそこから地獄の似た社会の中にいる者には、共通の類似があり、その共通の類似する面から〔いろいろなものが〕派生してくるように、そこの個々の顔には、ある類似したものが見られます。
全般的に、彼らの顔は恐ろしいものであり、死体のようにいのちを欠いています。ある者の顔は黒く、ある者の顔は、たいまつの火に似ています。ある者の顔には、吹き出物・静脈瘤・醜い潰瘍があります。顔の見えない者も多くて、そこには代わりに、髪の毛または骨のようなものが見えます。ある者は、歯だけが現われます。彼らの身体もまた怪物のようです。その話し方は、怒りまたは憎しみまたは復讐からかのようです、なぜなら、だれもが自分自身の虚偽から話し、自分自身の悪から声を出すからです――一言でいえば、すべての者は自分の地獄の像となっています。
[3]地獄そのものが全般的にどんな形であるか、〔私に〕見ることは与えられていません。次のことだけが言われました。全天界は一つの統一体としてひとりの人間を表わすように(59-67番)、全地獄は一つの統一体としてひとりの悪魔を表わすこと、また、ひとりの悪魔の像として示されることができることです(前の544番参照)。
しかし、特定的に地獄が、すなわち地獄の社会が、どんな形であるかは、しばしば見ることが与えられました。なぜなら、地獄の門と呼ばれる開口部に、多くの場合、怪物が見られ、それがたいてい、内部にいる者の形を表象しているからです――同時に、そこにいる者の狂暴さもまた、恐ろしいものとぞっとするものによって表象されますが、それらを述べることは省略します。
[4]しかし、地獄の霊は、天界の光の中でこのようなものに見えるのであって、自分たちの間では人間のように見えることを知っておくべきです。天使の前で見られるようには、自分たちの間で醜くないのは、このこともまた主の慈悲からです――しかし、それらの外観は欺きです、なぜなら、天界から何らかの光が入るとすぐに、彼らの人間の形は本質的な性質である怪物に変化するからです。その性質についてはすぐ前に述べました。なぜなら、天界の光の中で、すべてのものは本質的に存在するままに見られるからです。
ここからもまた、彼らは天界の光を避け、そして自分自身の光の中に逃げ込みます。その光は、炭火からの光のようであり、またあるところでは、燃える硫黄からの光のようです。しかしまた、この光は、そこに天界から何らかの光が流入するとき、暗黒そのものに変わります。
ここから、地獄は暗黒と暗やみの中にある、と言われ、「暗黒と暗やみ」は、地獄の中にあるような悪からの虚偽を意味します。

天界と地獄

553◀︎目次▶︎555

554 地獄の霊の怪物のような形を眺めることから(それらは〔すぐ前に〕述べたように、すべての者は、他の者への軽蔑の形を、自分に敬意を払わず、尊ばない者に対する脅迫の形を、さらに自分に好意をもたない者に反する憎しみと復讐の形をしています)、すべての者は全般的に自己愛と世俗愛の形であることが明らかです。また特定の形で存在する悪は、それら二つの愛から起源を得ています。
天界から私に言われ、また多くの経験から証明もされたことですが、それらの二つの愛、すなわち、自己愛と世俗愛は地獄を支配し、地獄をつくっています。そして、主への愛と隣人に対する愛は天界を支配し、天界をつくっています。地獄の愛であるそれらの二つの愛は、そして天界の愛であるそれらは二つの愛は、真正面から対立しています。

天界と地獄

554◀︎目次▶︎556

555 最初、私は、自己愛と世俗愛がこのように悪魔的であり、その愛の中にいる者が外見ではこのように怪物であることがどこからなのか、不思議に思いました。世では自己愛についてほとんど考慮せずに、自尊心と呼ばれる外なるものの中での心(animus)の高まりが、これは視覚に見えるので、これだけが自己愛であると信じられています。さらに自己愛は、このように現われないので、世では活力の火であると信じられています。そこから人間は職を求めることへ、また役立ちを果たすことへとかきたてられ、その中に名誉と栄光を見ないなら、人間の心は不活発になります。
彼らは、「他の者により、または他の者の心の中で、称賛され、尊敬されないなら、何らかの価値のあること、役立つこと、また注目すべきことを、だれが行なうのか? また、栄光と名誉のための、結果として自分自身のための、愛の火からでないなら、どこからなのか?」と言います。ここから、本質的に眺められるとき、自己愛は地獄を支配し、人間のもとで地獄をつくる愛であることが世では知られていません。
このようなので、私は、自己愛とは何か、その後、その愛からすべての悪とそこからの虚偽が湧き出ることを最初に述べます。

天界と地獄

555◀︎目次▶︎557

556 自己愛は、ただ自分にだけよいようにと欲し、自分のためでないなら他の者によいように、また決して、教会・祖国、または何らかの人間の社会によいようにとは欲しません。そのようにまた、自分自身の名声・名誉・栄光のためになるときだけ、それらによくしようとします。役立ちを果たすとき、役立ちの中に自分自身の名声・名誉・栄光のためになるものを見つけないなら、心の中で、「何の関係があるのか?なぜこのことをするのか? ここから何が私に得られるのか?」と言い、こうしてやめてしまいます。
ここから、自己愛の中にいる者は、教会も、祖国も、社会も、何らかの役立ちも愛さないで、自分自身だけを愛することが明らかです。彼の快さは単に自己愛の快さです。愛からやって来る快さが人間の生活をつくるので、それゆえ、彼の生活は自分自身のための生活です。そして自分自身のための生活は人間のプロプリウム(固有のもの)からの生活であり、本質的に眺められた人間のプロプリウムは悪以外の何ものでもありません。
自分自身を愛する者は、自分自身のものもまた愛します。それらは特定的には彼の子と孫であり、全般的には、自分自身のものと呼ぶ彼と一つとなっているすべてのものです。それらを愛することは、自分自身を愛することでもあります、なぜなら、それらを自分自身の中に、またそれらの中に自分自身があるかのように眺めるからです。
自分自身のものと呼ぶものの中に、彼を称賛し、尊び、礼拝するすべて者も含まれます。

天界と地獄

556◀︎目次▶︎558

557 天界的な愛との比較から、自己愛がどんなものであるか、明らかにすることができます。
天界的な愛は役立ちのために役立ちを、すなわち、善のために善を愛することであり、人間は、教会・祖国・人間の社会・仲間の市民にその役立ちを果たします。すべての役立ちとすべての善は、神からのものであり、また愛さなければならない隣人であるので、このことは神を愛し、隣人を愛することであるからです。
しかし、自分自身のためにそれらを愛する者は、それらが自分自身に仕えるので、彼はそれらを召使い以上には愛しません――ここからいえることは、自己愛の中にいる者は、教会・祖国・人間の社会・仲間の市民が自分に仕えることを欲し、彼自身がそれらに仕えることを欲しないで、自分をそれらの上に、自分の下にそれらを置くことです。
ここから、ある者が自己愛の中にいればいるほど、それだけ天界から遠ざかります、天界的な愛から遠ざかるからです。

天界と地獄

557◀︎目次▶︎558 (2)

558(その1) さらに、ある者が役立ちと善を愛することである天界の愛の中にいて、教会・祖国・人間の社会・仲間の市民のためにそれらの愛を実践するとき、心が快さに満たされていればいるほど、それだけ主により導かれています。その愛は主の中にあり、主からのものであるからです――しかし、ある者が役立ちと善を自分自身のためになし遂げる自己愛の中にいればいるほど、それだけ自分自身により導かれます。
自分自身によって導かれれば導かれるほど、それだけ主によって導かれません――ここからもまたいえることは、だれでも自分自身を愛するほど、それだけ自分自身を神性から、こうして天界から遠ざけることです。
自分自身によって導かれることは、自分自身のプロプリウムによって導かれることです。そして、人間のプロプリウムは悪以外の何ものでもありません。なぜなら、その悪は遺伝悪であり、それは主よりも自分自身を、そして天界よりも世を愛するからです(*2)
人間は行なう善の中で自分自身に目を向けるたびごとに、それだけ自分のプロプリウムに、このように自分の遺伝悪の中に入れられます。なぜなら、自分自身から善へでなく、善から自分自身へ目を向けるからです。それゆえ、善の中に神的な映像ではなく、自分自身の映像を示します。
このようであることを、私はさらにまた経験によって確信しました。
天界の下の北と西の中間の地域に住んでいる悪い霊がいます。その者は、正直な霊をそのプロプリウムへ、こうしていろいろな種類の悪の中へ引き入れる技術に熟練しています。あからさまな称賛と敬意によって、あるいは善良な霊の情愛をひそかに自分自身へと向けることによって、彼らを自分自身についての思考の中に引き入れます――このことをやり遂げればやり遂げるほど、それだけ正直な霊の顔を天界から背かせ、それだけ彼らの理解力を暗くし、彼らのプロプリウムから悪を呼び出します。


*2 人間が両親から遺伝により得ているプロプリウムは、執拗な悪以外の何ものでもない(210, 215, 731, 876, 987, 1047, 2307, 2308, 3518, 3701, 3812, 8480, 8550, 10283, 10284, 10286, 10731)。
人間のプロプリウムは、神よりも自分自身を、天界よりも世を愛することであり、自分自身と比べて隣人を自分のためにならないなら無とし、このように自分自身にだけ行ない、こうして自己愛と世俗愛である(694, 731, 4317, 5660)。
すべての悪は、主権をもつとき、自己愛と世俗愛から出てくる(1307, 1308, 1321, 1594, 1691, 3413, 7255, 7376, 7488, 7488, 7489, 8318, 9335, 9348, 10038, 10742)。
それらは、他の者への軽蔑・敵意・憎しみ・残酷・欺きである(6667, 7370, 7374, 9348, 10038, 10742)。
また、これらの悪から、すべての虚偽が湧き出る(1047, 10283, 10284, 10286)。

天界と地獄

558 (1)◀︎目次▶︎559

558 (その2) 自己愛は隣人に対する愛と正反対であることは、その二つの愛の起源と本質から知ることができます。
自己愛の中にいる者のもとの隣人愛は、自分自身から始まります。「自分自身が隣人である」とだれもが言うからであり、その者を中心とするかのように、彼から、彼の愛による結合の程度にしたがって減少しながら、彼自身と一つとなっているすべての者へと進みます。その仲間づきあいから外れた者は、無価値と見なし、彼らと、また彼らの悪と対立する者は、どんな種類の賢明な者、あるいは正直な者、誠実または公正な者であっても、敵と見なします。
しかし、隣人に対する霊的な愛は主から始まり、その方を中心とするかように、その方から愛と信仰の性質にしたがって、その方に愛と信仰によって結合しているすべての者へと進みます(*3)
ここから、人間から始まる隣人愛と主から始まる隣人に対する愛は正反対であることが明らかです。前者は人間のプロプリウムからのものなので悪から発出します。しかし、後者は善から〔発出します〕、〔それは〕善そのものである主からのものであるからです。
さらにまた、人間からまたそのプロプリウムから発出する隣人愛は形体的(物質的)であること、しかし、主から発出する隣人に対する愛は天界的であることも明らかです。
一言でいえば、人間の中にある自己愛は、彼の頭をつくり、天界的な愛は彼の足をつくります。自己愛は天界的な愛の上に立ち、もし自分に仕えないなら、その愛を足で踏みにじります。
ここから、地獄に投げ込まれる者は、あお向けになって、頭を地獄へ向けて下にし、足を天界へ向けて上にして、投げ込まれるように見えます(前の548番参照)。


*3 隣人を愛することが何か知らない者は、それぞれの人間が隣人であり、働きを必要とするそれぞれの者によくしてやらなければならない、と考える(6704)。
そしてまた、それぞれの者が隣人であり、このように隣人に対する愛は自分自身から始まる、と信じている(6933)。
自分自身をすべてにまさって愛する者は、そのように自己愛に支配されている者は、隣人に対する愛もまた自分自身から始まっている(6710)。
しかし、それぞれの者が自分にとってどのように隣人であるか、説明される(6933-6938)。
しかし、キリスト教徒であり、すべてにまさって神を愛する者は、隣人に対する愛が主から始まる。主はすべてにまさって愛さなければならないからである(6706, 6711, 6819, 6824)。
隣人の相違は主からの善の相違と同じだけ多くあり、隣人の状態がどのようなものかにしたがってそれぞれの者に対して相違とともに善を行なわなければならず、これはキリスト教徒の思慮である(6707, 6709, 6711, 6818)。
その相違は無数にある。それゆえ、隣人とは何か知っていた古代人は、仁愛の実践を分類し、それらを名前で区別した。ここからいかなる観点から互いに隣人であるか、またどのようにそれぞれの者に思慮をもってよくしてやらなければならないかを知った(2417, 6628, 6705, 7259-7262)。
古代教会の中の教えは隣人に対する仁愛の教えであり、彼らの知恵はそこからであった(2417, 2385, 3419, 3420, 4844, 6629)。

天界と地獄

558◀︎目次▶︎560

559 さらにまた、自己愛は次のようなものです。彼らが抑制をゆるめられるなら、すなわち、法律やその罰の恐れ、また名声・名誉・利益・職・いのちを奪われることの恐れである外なる束縛が取り去られるなら、ついには地球上の全地だけでなく、さらにまた全天界を、そして神性そのものまでも支配しようとし、彼に限界または終わりは何もないほどにまでも、突進します。このことは、世では前述の束縛が彼を抑制するので、たとえ世の前に明らかではなくても、自己愛の中にいるそれぞれの者の中に隠されています。
そのようであることは、だれもが、このような抑制や束縛のない、力ある者や王たちに見ています。彼らは、成功するかぎり突進し、属州や国を征服し、際限もなく力と栄光を熱望します。
やはりそのようであることは、今日のバビロンから、さらにはっきりと明らかです。バビロンは支配権を天界に伸ばし、主の神的なすべての力を自分自身に移し、絶えずさらなるものを望んでいます。
このような者は、死後、来世にやって来るとき、神的なものと完全に対立し、天界と対立し、地獄に味方します(小著『最後の審判と滅ぼされたバビロニア』参照)。

天界と地獄

559◀︎目次▶︎561

560 すべての者が自分自身だけを愛し、他の者は自分と一つとならないかぎり愛さないような者の社会を思い描いてみなさい。あなたに、彼らの愛が略奪者同士の間の愛のようなものでしかないことがわかるでしょう。その者は、一緒に行動するかぎり、互いにキスし、友と呼びます。しかし、一緒に行動しないなら、また彼らの支配権を拒否するなら、突進して、みな殺しにします。
もし、彼らの内的なもの、すなわち、彼らの心が調べられるなら、敵意ある憎しみでいっぱいであり、互いに対立し、すべての公正と誠実を、また神性を心から嘲笑し、無価値なもののように拒絶しているのがわかります。
このことはこのあとで述べられる地獄の中の彼らの社会から、さらに明らかになります。

天界と地獄

560◀︎目次▶︎562

561 自分自身をすべてにまさって愛する者の思考と情愛である内的なものは、自分自身と世へ向けられていて、このように主と天界から背を向けています。
ここから、すべての種類の悪に取りつかれ、神性が流入することができません。神性は流入するとすぐに、自分自身についての思考に浸され、汚され、そしてまた彼らのプロプリウムからのものである悪を注ぎ込みます。
ここから、これらすべての者は来世で、主から後ろ向きになって暗黒のものを眺めます。それは世の太陽の代わりにそこに存在し、主である天界の太陽と正反対に対立しています(前の123番参照)。「暗黒」もまた悪を意味し、「世の太陽」は自己愛を意味します(*4)


*4 「世の太陽」は自己愛を意味する(2441)。
その意味で、「太陽崇拝」によって、天界的な愛と主に対立するものを崇拝することが意味される(2441, 10584)。
「熱くなる太陽」は増大する悪の欲望である(8487)。

天界と地獄

561◀︎目次▶︎563

562 自己愛の中にいる者の悪は、全般的に、他の者への軽蔑・ねたみ・自分自身に賛同しないすべての者に対する反目・そこからの敵意・いろいろな種類の憎しみ・復讐・狡猾・欺き・無慈悲、そして残酷です。また宗教の事柄に関しては、神性への軽蔑、そして教会の真理と善である神的なものへの軽蔑だけでなく、それらに対する怒りです。その怒りもまた人間が霊になるとき憎しみに変わります。そしてその時、それらを聞くことに耐えられないだけでなく、神性を認め、礼拝するすべての者に対して憎しみを燃え上がらせます。
私は、世で勢力があり、自分自身を過度に愛した者と話したことがあります。彼は、神性について言われるのを聞くとき、特に主について言われるのを聞くとき、その怒りから、殺意に燃え上がるような、それほどの大きな憎しみをかきたてられました。
彼はまた、自分の愛への抑制がゆるめられるとき、自己愛から絶えず天界を攻撃することができるような悪魔そのものであることを欲しました。
このこともまた、ローマカトリック教からの多くの者が、来世で、主にすべての力があること、そして自分たちに何も力ないことを認めるとき、その者らが熱望することです。

天界と地獄

562◀︎目次▶︎564

563 西の地方の南に向けて、ある霊が私に見られました。その者は、「世で自分たちは高い地位にあり、他の者よりも称賛され、他の者を支配するに値していた」と言いました。
彼らは、天使により内部がどのようなものであるか調べられました。世での自分の役目では、役立ちに目を向けず、自分自身に目を向け、こうして役立ちでは自分自身を優先させたことがわかりました。けれども、その者は他の者の上に置かれること求め、熱烈に要求したので、仕事上、重要な事柄について相談役である者の間にいることが与えられました。しかし、扱われている仕事について何も注意を傾けること、事柄を内面的、本質的に見ることができず、物事をその役立ちから話さないで、プロプリウムから話し、また、えこひいきから意のままに行なうことを望んでいることが認められました。それゆえ、その職務からはずされ、他のところで自分自身で役目を探すように、捨て置かれました。
そこでさらに遠く西の地方に進み、その場所のあちこちで受け入れられましたが、しかし、どこでも、彼らは、「自分自身について、また自分自身からでないなら、何の事柄についても考えていない」と言われました。このように愚鈍であり、単に身体的で感覚的な霊のようなものです――それゆえ、どこへ行っても追放されました。
時を経てから、彼らが窮地に追いやられ、施しを求めているのが見られました。
ここからもまた、自己愛の中にいる者は、どれほどその愛の火から世では賢く語るように見られても、それでもその語ることは単なる記憶からであり、何らかの理性の光からではないことが明らかです。それゆえ、来世で、もはや自然的な記憶の事柄が再現されることが許されないとき、他の者よりもさらに愚鈍であり、またこのことは彼らが神性から分離されているという理由によります。

天界と地獄

563◀︎目次▶︎565

564 支配には二種類あります。一つは隣人に対する愛の支配であり、もう一つは自己愛の支配です。
これら二つの支配はその本質で完全に対立しています。
隣人に対する愛から支配する者は、すべての者に善を欲し、役立ちよりも、したがって他の者に仕えること以上に愛するものは何もありません(他の者に仕えることによって、教会の者であれ、あるいは祖国の者、社会の者、あるいは仲間の市民であれ、他の者の善を欲することと役立ちを果たすことが意味されます)――このことが彼の愛であり、彼の心の快さです。
彼はまた、他の者にまさって高位へ高められれば高められるほど、それだけ喜びます、けれども、それは高位のためではなく、その時、重要な段階で果たすことのできる多くの役立ちのためです。
このような支配が天界にあります。
[2]しかし、自己愛から支配する者は、他の者には何も善を欲せず、自分自身にだけ欲します――役立ちを果たしますが、自分自身の名誉と栄光のためであって、それらが彼にとって唯一の役立ちです――他の者に仕えても、それは自分自身が仕えられ、尊ばれ、支配するという目的のためです――高位を求めるのは、祖国や教会に果たさなくてはならない善のためではなく、卓越や栄光の中に、またここから自分の心の快さの中にいるためです。
[3]支配の愛もまた、世での生活の後、それぞれの者に残っています。隣人に対する愛から支配した者には、天界での支配もまたゆだねられますが、その時、彼らが支配するのではなく、彼らの愛する役立ちが支配します。また、役立ちが支配するとき、主が支配されます。
しかし、世で、自己愛から支配した者は、世での生活の後、地獄にいて、そこの卑しい奴隷です。
私は、世で自己愛から支配した権力者が最も卑しい者の間へと追い払われ、彼らのうちのある者がそこの便所の中にいるのを見ました。

天界と地獄

564◀︎目次▶︎566

565 けれども、世俗愛については、その中にそれほど多くの悪が含まれていないので、それは自己愛ほどには天界的な愛と対立しない愛です。
世俗愛は、どんな術策をもってしても他の者の富を自分のものにしようと欲し、心を富に置くことであり、また世で自分が霊的な愛から、したがって天界から、主から引き返し、連れ去られるままにすることです。
しかし、この愛は多種多様です。
名誉をだけを愛し、その名誉を高めたいために、富への愛があります。富を得るために、名誉と高位への愛があります――いろいろと世で楽しむという役立ちのために、富への愛があります。富だけのための富への愛があり、そのような愛は貪欲です――等々。
その富のための目的のことを、役立ちと呼んでいます。そして目的が、すなわち、役立ちが、その愛自体がどんなものであるか定めています。なぜなら、富のための目的がどのようなものであるかによって、愛はそのようなものであり、残りのものは手段のように愛に仕えるからです。

天界と地獄

565◀︎目次▶︎567

59 地獄の火とは何か、歯ぎしりとは何か

566 みことばの中で、地獄の中にいる者に、永遠の火と歯ぎしりついて言われていますが、それが何か、今までほとんどだれにも知られていません。その理由は、みことばの中にあるそれらについて、その霊的な意味を知らないで、物質的に考えたからです――それゆえ、「火」によって、ある者は物質的な火を、ある者は全般的に拷問を、ある者は良心の呵責を、ある者は悪い者たちに恐れを引き起こすために、ただこのように言われたのだと理解しました――そして「歯ぎしり」によって、ある者はそのようなきしり音を、ある者はこのような歯の打ち合う音が聞こえるときの単なる恐怖感のようなものであると理解しました。
しかし、みことばの霊的な意味を知っている者は、「永遠の火」とは何か、また「歯ぎしり」とは何か知ることができます。なぜなら、みことばはその内部で霊的なものであるので、みことばの中のそれぞれの言葉に、またそれぞれの言葉の意味に、霊的な意味が内在するからです。そして霊的なものは、人間は自然界の中にいて、そこにあるものから考えるので、人間の前には自然的にしか表現されません。
それで、悪い人間が自分の霊に関して死後、やって来て、あるいは霊界の中にいる彼の霊が苦しむ「永遠の火」と「歯ぎしり」とは何か、これから述べます。

天界と地獄

566◀︎目次▶︎568

567 熱には二つの起源があります――一つは主である天界の太陽、もう一つは世の太陽です。
天界の太陽または主からの熱は、霊的な熱であり、その本質は愛です(前の126-140番参照)。けれども、世の太陽からの熱は、その本質は愛ではなく、霊的なまたは愛の熱の容器として仕えるものです。
愛はその本質で熱であることは、愛から心(animus)が、またここから身体が、その段階と性質にしたがって熱くなることから、このことは人間のもとで冬でも夏でも明らかにすることができます。さらにまた、血が熱くなることもからも明らかにすることができます。
世の太陽から存在する自然的な熱が、容器として霊的な熱に仕えることは、その霊的な熱から霊をかきたてられ、その補助として働く身体の熱から、特に、すべての種類の動物の春と夏の熱から明らかです。その時、その動物たちはその愛の中へ、毎年、戻ります――
[2]自然的な熱がそのことを行なうのではなく、その熱は、霊界から流入する熱を、その動物の身体が熱を受け入れるように適応させるのです。なぜなら、霊界は、原因が結果へ流入するように、自然界へ流入するからです。
自然的な熱がそれらの愛を生み出すと信じる者は、大いに欺かれています。なぜなら、霊界が自然界の中へ流入し、自然界が霊界の中へ流入するのではないからです。すべての愛は、いのちそのもののものであるので、霊的です――
[3]さらに、霊界の流入なしに何らかのものが自然界に存在すると信じる者もまた欺かれています。なぜなら、霊的なものからしか、自然的なものは存在しないし、存続もしないからです――植物界の対象物もまた、そこからの流入から、その発芽を得ています。春と夏のときに存在する自然的な熱は、ただ種をその生来の形の中で、伸び、開くように、霊界からの流入がそこに原因として働くように、適応させています。
これらのことを示したのは、霊的なものと自然的なものの二つの熱があること、また、霊的な熱は天界の太陽から、自然的な熱は世の太陽から存在し、流入とその後の共同作用が世で目の前に見える結果を示していることが知られるためです(*1)


*1 自然界の中へ霊界からの流入がある(6053-6058, 6189-6215, 6307-6327, 6466-6495, 6598-6626)。
動物のいのちの中へもまた流入がある(5850)。
植物界の対象の中へもまた流入がある(3648)。
その流入は神的秩序にしたがって活動する絶え間のない努力である(6211番末尾)。

天界と地獄

567◀︎目次▶︎569

568 人間のもとの霊的な熱は、前に言われたように、その本質では愛であるので、彼のいのちの熱です。みことばの中で、この熱は「火」によって意味され、主への愛と隣人に対する愛は「天界の火」によって、自己愛と世俗愛は「地獄の火」によって意味されています。

天界と地獄

568◀︎目次▶︎570

569 地獄の火である愛は、天界の火である愛と同じ起源から、すなわち、天界の太陽である主から存在します。しかし、受け入れる者より、地獄のものになります――なぜなら、霊界からのすべての流入は、受け入れにしたがって、すなわち、流入する形にしたがって変化するからです。〔そのことは〕世の太陽からの熱や光と異なりません――そこからの熱は、木の植えられた所や花壇に流入して植物の生長を生み出し、喜ばしい、ここちよい香りを引き出します。しかし、同じ熱が、廃絶物や死体に流入して腐敗を生み出し、ひどくて、腐った臭いを引き出します――同様に、同じ太陽からの光が、ある対象の中に美しくて快い色を生み出し、他の対象の中に醜くて不快なものを生み出します。
愛である天界の太陽からの熱や光も同様です――熱あるいは愛が、善良な人間や霊のもとにまた天使のもとに流入するように、善の中に流入するとき、彼らの善が実を結びます。しかし、悪い者のもとに流入するとき、反対の結果が生じます。なぜなら、悪は善を窒息させるか、あるいはそれを歪めるからです――同じく、天界の光は、善の真理の中に流入するとき、知性と知恵を与えます。けれども、悪からの虚偽の中に流入するとき、そこでいろいろな種類の狂気と幻想に変わります。
このように、どこでもその受け入れにしたがっています。

天界と地獄

569◀︎目次▶︎571

570 地獄の火は、自己愛と世俗愛であるので、その愛からのものであるすべての欲望もそのようなものです。欲望はその絶え間のない愛であるので、人間はこれを絶えず熱望するからです。そしてまた快さでもあります、なぜなら、人間は愛するかまたは欲するものを得るとき、快さを覚えるからです。この源泉以外に、人間の心(cor)の快さはありません。
それで、地獄の火は、それらの二つの愛を起源として湧き出るかのような欲望と快さです。
それらの悪は、他の者への軽蔑、自分に好意をもたない者に対する反目と敵意であり、ねたみ・憎しみ・復讐、これらからの残忍と残酷です。また神性に関しては、その否定であり、ここから教会のものである聖なるものへの軽蔑・あざけり・冒涜であり、それらは、人間が霊になるとき、それらに対する怒りと憎しみに変わります(前の562番参照)。
また、これらの悪は絶えず、敵とする者を滅ぼし、殺害しようとし、その者への憎しみと復讐に燃えます。それゆえ、彼らのいのちの快さは滅ぼし、殺害することを欲することです。このことが可能でないなら、危害を加え、傷つけ、残酷に振る舞うことを欲します。
[2]これらが、みことばの中で悪い者と地獄について述べられているところで「火」によって意味されることであり、その確証のために、みことばからいくらかの箇所をここに引用します――

だれもが偽善者で悪意のある者であり、すべての口が愚かなことを話している。……なぜなら、悪意が火のように燃え、いばらとおどろが食い尽くし、森の茂みを燃やし、煙の高まりとなってのぼる。……民は火の食べ物となり、男はその兄弟を赦さない(イザヤ9:17-19)。
わたしは天と地にしるしを与える。それは血、火、煙の柱である。太陽は暗やみに変わる(ヨエル2:30, 31)。
地は燃えるピッチになる。夜も昼も消されず、永遠に、その煙はのぼる(イザヤ34:9, 10)。
見よ……炉のように燃える日が来る。すべて高ぶる者、またすべて悪意を行なう者は切り株となる。来ようとしている日は彼らを燃やす(マラキ 4:1)。
バビロンは……悪魔の住まいとなった。……その焼かれる煙を見て、叫んだ。……煙は永久にのぼる(黙示録18:2, 18; 19:3)。
深淵の穴を開いた、すると穴から大きな炉の煙のような煙があがり、太陽と空気は穴の煙から暗くなった(黙示録 9:2)。
馬の口から火と煙と硫黄が出た。これらにより……火と煙と硫黄により、人間の三分の一が殺された(黙示録 9:17, 18)。
獣を崇拝する者は……神の怒りの杯に混ざりもののないぶどう酒の混ざった神の怒りのぶどう酒を飲む。そして火と硫黄で苦しめられる(黙示録 14:9, 10)。
第四の天使が自分の鉢を太陽に注いだ。太陽に火による熱で人間を焼くことが与えられた。そこで人間は大きな熱で焼かれた(〔黙示録〕16:8, 9)。
火と硫黄で燃える池へ投げ込まれた(黙示録 19:20; 20:14, 15; 21:8)。
よい実を結ばない木は、すべて切り倒され、火の中に投げ込まれます(マタイ3:10、ルカ3:9)。
人の子はご自分の御使いたちを遣わします。彼らはその方の国から、すべてのつまずきとなるもの、それと不正を行なう者たちを集めます。そして彼らを火の炉の中に送ります(マタイ13:41, 42, 50)。
王は左の者たちに言う。「私から離れよ、呪われた者ども。悪魔とその使いたちに用意された永遠の火へ入れ」(マタイ 25:41)。
永遠の火の中へ……ゲヘンナの火の中へ送られる。そこでは、彼らの〔うじ〕虫は死なず、火は消えない(マタイ 18:8, 9、マルコ 9:43-49)。
地獄の中の富んでいる者はアブラハムに、「炎の中で苦しめられている」と言った(ルカ 16:24)。

これらの中で、また他の多くの箇所で、「火」によって自己愛または世俗愛のものである欲望が意味され、そこからの「煙」によって悪からの虚偽が意味されています。

天界と地獄

570◀︎目次▶︎572

571 自己愛と世俗愛からのものである悪を行なう欲望が、「地獄の火」によって意味され、このような欲望は地獄の中のすべての者にあるので(これまでの章参照)、それゆえ、地獄が開かれるとき、火災でよくあるような、煙と一緒になった火のようなものもまた見られます。自己愛が支配する地獄からは濃い火が、世俗愛が支配する地獄からは炎が見られます。
けれども、閉ざされるとき、そこに火は見えませんが、代わってそこに、煙から濃くなった暗いようなものが見えます――それでも、火はその内部で燃えていることが、そこから出てくる熱からわかります。その熱は、火災の後に燃えているような、あるところでは熱くなっている炉からのような、また他のところでは浴室の温かさからのようなものとなっています。それでもその熱さが人間のものに流入するとき、欲望をかきたて、悪い者のもとでは憎しみと復讐を、病人のもとでは狂気をかきたてます。
前述の愛の中にいる者には、自分の霊に関して、さらにまた身体の中で生きたとき、それらの地獄に結び付けられているので、このような火あるいは熱があります。
しかし、地獄にいる者は火の中にいないで、火は外観であることを知らなくてはなりません。そこの彼らは何かが燃えることを感じないで、ただ以前、世にあったような熱を感じるだけであるからです。
火が見られるのは、対応からです。なぜなら、愛は火に対応するからです――霊界の中で見られるすべてのものは、対応するものにしたがって見られます。

天界と地獄

571◀︎目次▶︎573

572 その地獄の火または熱は、天界から熱が流入するとき、きびしい寒さに変わり、その時、そこにいる者は氷のように冷たく感じる熱病に襲われたかのように震え、そしてまた内部で苦しめられることを理解しておくべきです。このことの理由は、彼らが完全に神性と対立していて、神的な愛である天界の熱が自己愛である地獄の熱を消し、それとともに彼らのいのちの火を消すからです。そこからこのような寒さとここからの身震い、そしてまた苦痛があります。
その時、そこには暗黒もまた生じ、そこから愚かさと心の不明瞭があります。
しかし、このことが起こるのはまれであり、そこに攻撃が過度に増大し、鎮められるときだけです。

天界と地獄

572◀︎目次▶︎574

573 地獄の火によって自己愛から流れ出る悪を行なおうとするすべての欲望が意味されるので、ここから同じ火によって地獄の中にあるような責め苦もまた意味されます――なぜなら、その愛からの欲望は、自分を尊敬し、崇め、礼拝しない他の者を傷つけようとする欲望であるからです。ここからの怒りを、また怒りから憎しみと復讐を得れば得るほど、それだけその欲望は彼らに対して残酷に振る舞うものとなります――このような欲望が社会の中のそれぞれの者に内在していて、そこに法律に対する恐れそして名声・名誉・利益・いのちを奪われることに対する外なる束縛が抑制されない時、それぞれの者は自分自身の悪から他の者へ突進し、欲するかぎり、さらに支配し、他の者を自分の支配に服従させます。服従しない者に対しては、快さから残酷に振る舞います。
この快さは、同じような段階の支配する快さと完全に結合しています、傷つけようとする快さには、前に言われたように、その愛の悪のものである反目・ねたみ・憎しみと復讐が内在するからです。
すべての地獄はこのような社会です。それゆえ、そこのそれぞれの者は心で他の者に対する憎しみを抱き、憎しみからできるかぎりの残酷の中へと突入します。
これらの残酷とそこからの責め苦もまた地獄の火によって意味されます。なぜなら、欲望の結果であるからです。

天界と地獄

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574 前に、悪霊は自分自身を自発的に地獄へ投げ込むことを示しました(548番)――それゆえ、地獄にこのような拷問があるにもかかわらず、どこからそのことが起こるかもまた簡単に述べておきます。
どんな地獄からも欲望のスフェアが発散されていて、地獄の者はその欲望の中にいます。
このスフェアが似た欲望の中にいる者により知覚されるとき、彼は心(cor)から働きかけられ、快さに満たされます。なぜなら、欲望とその快さは一つとなっているからです。ある者が望むものは、彼にとって快いものであるからです――ここから、霊は自分からそこへ向きを変え、心(cor)の快さからそこへ行こうと望みます。なぜなら、そこにこのような拷問があることを、まだ知らず、知っていても、それでもそこへ行こうと望むからです。霊界では、だれも自分の欲望に抵抗することができないからです。欲望は彼の愛のものであり、愛は彼の意志のものであり、意志は彼の性質のものであり、だれもがそこではその性質から行動するからです。
[2]そこで霊は、自発的にまたは自分自身の自由から自分の地獄へ到着し、そして入ります。その時、最初は友たちの間にやって来たように信じていて、親しげに受け入れられます。しかし、このことはただ数時間だけしか続きません。その間に、〔その霊に〕どのような欺きがあり、ここからどのような値打ちがあるか調べられます――調べられてから、彼を攻撃することが始まり、このことは、いろいろな方法で、連続的にさらに鋭く、さらに激しくと、地獄のさらに内部へ、さらに深くへ導くことによって行なわれます――なぜなら、地獄ではさらに内部へ、またさらに深くへ行くほどますます、霊はさらに悪質であるからです。
[3]攻撃の後、彼に対して罰によって残酷に振る舞うことが始まり、このことは奴隷とされるときまで続きます。
しかし、そこではだれもが最大の者であること欲し、他の者に対して憎しみに燃えるので、そこには絶えず反乱の動きが存在し、ここから新しい攻撃があります。このようにある場面は他の場面に変わります。それゆえ、奴隷とされた者は、ある新しい悪魔が他の者を服従させるために、その働きを実行するようにと解放されます。その時、服従せず、指図に従わない者は、再びいろいろな方法で拷問され、絶えずこうしたことが行なわれます。
このような責め苦が地獄の火と呼ばれる地獄の責め苦です。

天界と地獄

574◀︎目次▶︎576

575 けれども、歯ぎしりは、虚偽の間の、したがって、虚偽の中にいる者の間の、絶え間のない論争と闘争であり、他の者への軽蔑・反目・嘲笑・あざけり・冒涜ともまた結合していて、それらもまたいろいろな種類の引き裂きとなって激しく出てきます。だれもが自分自身の虚偽を真理と呼んで、そのために戦うからです。
これらの論争と闘争は、その地獄の外で歯ぎしりのように聞こえます――そしてまた真理が天界からそこに流入するとき歯ぎしりに変化します。
それらの地獄の中に、自然を認め、神性を否定したすべての者が、さらに深いところには、そのことを確信した者がいます。
彼らは、天界からの光を何ら受け入れることができず、ここから自分自身の内部に何も見ることができないので、それゆえ、その大部分の者は身体からの感覚的な者であり、目で見て、手で触れるもの以外に何も信じません――ここから、感覚の欺きのすべてが彼らにとって真理であり、ここからもまた論争します。
彼らの論争が歯ぎしりのように聞こえるのはこのことからです。なぜなら、霊界の中のすべての虚偽はギーギーときしり、歯は自然界の中の最外部のものに、そしてまた人間のもとの身体の感覚的なものである最外部のものに対応するからです(*2)(地獄に歯ぎしりがあることは、マタイ 8:12; 13:42, 50; 22:13; 24:51; 25:30。ルカ 13:28参照)。


*2 歯の対応について(5565-5568)。
感覚的なだけであり、霊的な光の何らかのものをほとんど持たない者は歯に対応する(5565)。
みことばの中の「歯」は、感覚による感知力を意味し、それは人間のいのちの最外部のものである(9052, 9062)。
来世で、歯ぎしりは、〝自然がすべてであり、神性は無である〟と信じる者からのものである(5568)。

天界と地獄

575◀︎目次▶︎577

60 地獄の霊の恐るべき悪意と策略

576 霊が人間よりもどのように優秀であるか、だれでも内的に考え、自分の心(msens)の働きについて何らかのことを知る者なら、見て、把握することができます――人間は、半時間のうちに口に出し、文書で表現することができるよりも多くのものを、自分の心で一分間のうちに考え、展開し、結論することができるからです――ここから、人間は自分の霊の中にいる時、したがって霊となるとき、どれほどまさるか明らかです。なぜなら、霊が考えるのであって、身体は霊がその考えを話すかまたは書くことを表現するものであるからです。
ここから、死後、天使となる人間は、世で生きたときの知性と知恵と比較すれば、言葉にできないほどの知性と知恵の中にいます。その霊は、世で生きたとき、身体に結び付けられ、その身体によって自然界にいたからです。それゆえ、その時、霊的に考えたことが、相対的に、全般的で、粗雑で、あいまいなものである自然的な観念に流入しますが、霊的な思考のものである無数のものを、その観念は受け入れないで、世で心配事からのものである暗いもので包む込んでしまいます。
霊が身体から解放され、自分自身の霊の状態の中にやって来るときは異なります。そのことは、自然界から彼自身の霊界へ移るとき、起こります。
その時、思考と情愛に関して、その状態は以前の状態と比べて計り知れないほどまさり、その者は、「それで、明らかである」と言うでしょう。
ここから、天使は言葉にできず、表現できないもの、したがって、自然的な人間の思考の中に入ることができないようなものを考えています。それでも、それぞれの天使は人間に生まれ、人間として生き、そしてその時、自分自身が他の同じ人間よりも賢いことを見ていませんでした。

天界と地獄

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577 天使のもとに知恵と知性があるのと同じ程度に、地獄の霊のもとにもそれだけ悪意と欺きがあります――身体から解放されるとき、人間の霊は自分自身の善の中または悪の中にいるので、事情は似ているからです。天使の霊は自分の善の中に、地獄の霊は自分の悪の中にいます。なぜなら、しばしば以前に言われ、示されたように、それぞれの霊は自分自身の愛であるので、自分自身の善かあるいは自分自身の悪であるからです。
それゆえ、天使の霊が自分の善から考え、意志し、話し、行動するように、地獄の霊も自分の悪からそのようにします。悪そのものから考え、意志し、話し、行動することは、悪の中にあるすべてのものからそうするのです。
[2]身体の中に生きたときは異なります。その時、人間の霊の悪は、それぞれの人間にある法律・利益・名誉・名声からの束縛の中に、またそれらを失う恐れから束縛の中にいました。それゆえ、その霊の悪は、その時、突発して、本質的にどのようなものであるか明らかにすることができません――さらにまた、その時、人間の霊の悪は、外面的な正直・誠実・公正、それと真理と善への情愛で、まわりをおおわれ、包まれて横たわっていて、人間が世のためにそのように口先で装い、ふりをし、それらの下に、このように秘められ、やみの中に隠れされています。自分の霊の中にこれほどの悪意と欺きがあること、したがって自分の中に、悪魔がいることを彼自身がほとんど知らないほどです。死後、彼の霊が自分自身の中に、自分自身の性質にやって来るとき、そのような性質の悪魔になります。
[3]その時、まったく信じられないような悪意が明らかにされます。
悪そのものから数千もの悪意がその時、突発します。それらの中にはまた、何らかの言語による言葉で表現することができないようなものもあります。どのようなものであるか、多くの経験によって私に知り、知覚することが与えられました。私は、主により、霊に関して霊界に、同時に身体に関して自然界にいるようになったからです。
私は以下のことを証言することができます。彼らの悪意はほとんど数千のうちの一つすら述べることのできないほどのものであること――もし主が人間を守られないなら、どんな場合でも地獄から解放されることはできないこと、なぜなら、人間のそれぞれの者のもとには、天界からの天使がいるのと同じく地獄からの霊もまたいるからです(前の292, 293番参照)。もし人間が神性を認めないなら、もし信仰と仁愛の生活を生きないなら、主は人間を守ることができないこと、なぜなら、そうしなければ、主から自分自身を背け、地獄の霊へ向かい、こうして自分の霊に関して同じような悪意に浸されるからです――
[4]それでも人間は、霊との交わりから自分自身に適用し、あたかも引き寄せているような悪から、絶えず主により導き出されています。もし、良心である内なる束縛によってでないなら――神性を否定するなら良心は受け入れられません――やはりそれでも前に言われたような外なる束縛によってです。それらの束縛とは、法律とその罰の恐れ、そして利益を失い、名誉や名声を奪われることの恐れです。
確かに、このような人間は、自分の愛の快さによって、またそれらを失うことと奪われることの恐れによって、悪から導き出されることができます。しかし、霊的な善の中に引き寄せられることはできません。なぜなら、これらの〔霊的な善の〕中に引き寄せられれば引き寄せられるほど、それだけ、彼自身のもとで、説得し、こうしてだまそうとする目的で、善・誠実・公正を装い、偽って、策略や欺きを考えるからです。この欺くことは、彼の霊の悪を増し加え、悪を形成し、そして自分の性質の中にあるような悪にしてしまいます。

天界と地獄

577◀︎目次▶︎579

578 自己愛からの悪の中にいた者、また同時に自分の内部で欺きから行動した者は、すべての者のうちで最悪です。欺きが思考と意図の深くに入り、それらを毒で害い、こうして人間の霊的ないのちのすべてを破壊するからです。
彼らの大部分は、地獄の中の後ろにいて、悪鬼と呼ばれます。そしてそこの彼らの快さは、自分自身を目立たせないようにして、他の者のまわりを幽霊のように飛び回り、ひそかに悪を加えることであり、悪をマムシの毒のようにまき散らしています――彼らは他の者よりもひどく苦しめられます。
狡猾ではなく、悪意ある欺きにとらわれもしなかったけれども、それでも自己愛からの悪の中にいた者もまた、地獄の中の後ろにいますが、それほど深いところではありません。
けれども、世俗愛から悪の中にいた者は地獄の中の前方にいて、〔悪〕霊と呼ばれます――この者は、自己愛からの悪の中にいる者のような悪の中にいません、すなわち、そのような憎しみと復讐の中にはいません、したがって彼らにそのような悪意や欺きはありません。それゆえ、彼らの地獄もまた、穏やかなものです。

天界と地獄

578◀︎目次▶︎580

579 悪鬼と呼ばれる者にどのような悪意があるか、経験によって知るようになりました。
悪鬼は、思考でなく、情愛に働きかけ、流入します――獣を森の中で犬のようにかぎ出し、情愛を把握します。善良な情愛を把握すると、不思議にも本人の快さによってそれらを導き、そらせて、たちまち悪へと変えます。そしてこのことを、他の者が何も気づかないように、このようにひそかに、何かが思考の中に入り、こうして明らかにされることのないように巧みに用心して、このように悪質な技巧で行ないます。
人間のもとでは、後頭部の下に居座っています。
これらの者は、世では他の者の情愛の快さまたは欲望によってその心(animus)を導き、説きつけ、欺いてその心を捕らえた人間でした。
しかし、彼らは主により、何らかの改心の望みがあるすべての人間への接触を妨げられています。彼らは人間のもとで良心を破壊するだけでなく、その遺伝悪をかきたてることができるような者であるからです。かきたてられなければ、その遺伝悪は深く隠されています――それゆえ、人間がその悪の中へ導き入れられないように、主はこの地獄が完全に閉ざされているよう配慮されています。それで、死後、このような性質の人間が来世にやって来るとき、彼は直ちに彼らの地獄に投げ入れられます。
さらにまた、欺きと策略について眺められるとき、彼らはマムシのように見えます。

天界と地獄

579◀︎目次▶︎581

580 地獄の霊にはどのような悪意があるか、その極悪な技巧から明らかにすることができます。その技巧は、それらを列挙するだけで一冊の本を、それらを記述するなら数多くの本を満たすほど多くのものがあります。
それらの技巧のほとんどすべてのものは世で知られていません。

第一の種類は、対応の濫用に関係します。
第二のものは、神的な秩序の最後のものの濫用に関係します。
第三のものは、向きを変えることや眺めることよって、また自分自身でなく他の霊によって、また自分自身から送り出すことによって、思考や情愛の伝達や流入に関係します。
第四のものは、幻想による作用に関係します。
第五のものは、自分自身の外へ投げ出し、そのことから、身体のある以外の他の場所に居合わせることに関係します。
第六のものは、見せかけ・間違った信念・うそに関係します。

悪人の霊は、自分の身体から解放されるとき、自分自身から、これらの技巧の中へとやって来ます。その時、彼の悪い性質に内在していたものの中にいることになるからです。
これらの技巧によって地獄の中で互いに苦しめ合っています。
しかし、見せかけ・間違った信念・うそによって生じるものを除いて、これらすべての技巧は世で知られていません、私はそれらのものを特定してここで述べたくありません、理解されないし、極悪なものであるからです。

天界と地獄

580◀︎目次▶︎582

581 責め苦が地獄の中で主により許されている理由は、そうでなければ、悪は抑制され、服従されることができないからです。
悪を抑制し、服従させ、地獄の集団を束縛の中に保つ唯一の手段は、罰への恐れです。他の手段は存在しません。なぜなら、罰と責め苦への恐れがないなら、悪は狂暴へと突進し、法律や罰のない地上の王国のように、すべてのものは追い散らされるからです。

天界と地獄

581◀︎目次▶︎583

61 地獄の外観、位置、数の多いこと

582 霊界に、すなわち、そこに霊と天使がいる世界の中に、自然界と、すなわち、人間がいる世界の中のものと似たものが見られます。外なる見かけでは何も相違がないほどに似ています。
そこには平野が見え、山・丘・岩、そしてそれらの間に谷が見えます。ほかにも水、地上にあるような他の多くのものが見えます。
しかしそれでも、それらのすべてのものは霊的な起源から存在しています。それゆえ、霊と天使の目の前に見え、人間は自然界の中にいるので人間の目の前には見えません。霊的なものは霊的な起源から存在するものを見、自然的なものは自然的な起源から見ます。
それゆえ、人間は、霊の中にいることが与えられないなら、また死後、霊になるときでないなら、霊界の中にあるものを決して自分の目で見ることができません――逆に、天使と霊もまた、自分たちと話すことが与えられている人間のもとにいないなら、自然界の中のものをまったく見ることができません。人間の目は自然界の光を受け入れるのに適し、天使と霊の目は霊界の光の受け入れるのに適しているからです。それでもその両方の目は外観では完全に似ています。
霊界がこのようなものであることを、自然的な人間は把握することができません。まして、自分の身体の目で見るもの、自分の手で触れるものしか信じず、よって、視覚と触覚を通して取り入れます――それらから考えます。それゆえ、その思考が物質的であって、霊的でない感覚的な人間は決してできません。
このような類似が霊界と自然界にあるので、それゆえ、人間は、死後、同じ世界の中にいて、そこに生まれ、そこから出てきたとしか思いません。その理由からもまた、「死は、ある世界から似たような別の世界への単なる移動」と呼ばれています(このような類似が両方の世界にあることは前に「天界の中で表象するものと外観」について扱われているところ170~176番参照)。

天界と地獄

582◀︎目次▶︎584

583 霊界の高いところに天界があり、そこの低いところに霊たちの世界があり、それらの下に地獄があります。
天界は、霊たちの世界にいる霊に、彼らの内的な視覚が開かれていないなら見られません――それでも、ときどき、薄霧のようにまたは白く輝く雲のように見えます。その理由は、天界の天使は知性と知恵に関して内的な状態の中にいるからであり、このように霊たちの世界にいる者の上方に見られます。
けれども、平野や谷にいる霊は、お互いに見ています。しかしながら、そこに分離があるとき、そのことは自分自身の内的なものの中に入れられるとき起こりますが、その時、悪い霊は善い霊を見ません。けれども、善い霊は悪い霊を見ることができます、しかし、彼らから身を背けます。そして、背く霊は目に見えなくなります。
けれども、地獄は閉ざされているので見えません。門と呼ばれる入り口だけが、似た者を入れるために開かれるとき見えます。
すべての地獄への門は霊たちの世界から開かれていて、天界から開かれている門はありません。

天界と地獄

583◀︎目次▶︎585

584 地獄は、山や丘や岩の下にも、平野や谷の下にも、どこにでもあります。
山や丘や岩の下にある地獄への開き口または門は、目には岩の隙間や割れ目のように見え、あるものは幅が広くて大きく、あるものは狭くて細く、その大多数はゴツゴツしています。そのすべては、覗き込むと、暗く、黒ずんで見えます――しかし、その中の地獄の霊は、石炭の火からのような明るさの中にいます。彼らの目はその明るさを受け入れるのに適しています。このことの理由は、世の中で生きた時、神的真理に関して、それを否定して暗黒の中に、また虚偽に関して、それを肯定していわばその光の中にいたからです。そこから彼らの目の視覚はこのように形作られます――ここからもまた、天界の光は彼らにとって暗黒です。それゆえ、自分の洞穴から出るとき、何も見えません。
これらのことから、人間は神性を認め、天界と教会のものを自分自身のもとに確信すればするほど、それだけ天界の光の中にやって来ること――神性を否定し、天界と教会のものに対立するものを自分自身のもとに確信すればするほど、それだけ地獄の暗黒の中にやって来ることが極めて明らかです。

天界と地獄

584◀︎目次▶︎586

585 平野や谷の下にある地獄への開き口または門は、いろいろな種類の外観を見せています――あるものは、山や丘や岩の下にあるものに似ています。あるものは洞穴やほら穴のようであり、あるものは大きな裂け目や沼地、あるものは湿地、あるものは水たまりのようです。
そのすべてはおおい隠されていて、悪い霊が霊たちの世界から投げ込まれるときでないなら、開かれません――そして開かれるとき、火事のとき空中に見られるような、煙とともに火のようなものが、あるいは煙のない炎のようなものが、あるいは燃えている炉からのようなすすが、あるいは霧や濃い雲ようなものが出てきます。
「地獄の霊は、これらのものを見ないし、感じない」と言われました。それらの中にいるとき、自分の空気の中にいるように、そのように自分のいのちの快さの中にいるからです。このことの理由は、彼らは悪と虚偽の中にいて、その悪と虚偽に対応するからです。すなわち、火は憎しみと復讐に、煙とすすはそれらからの虚偽に、炎は自己愛の悪に、そして霧と濃い雲はそこからの虚偽に対応しています。

天界と地獄

585◀︎目次▶︎587

586 さらにまた、地獄を覗き込み、内部がどのようであるか見ることが私に与えられました。なぜなら、主が喜ばれるとき、上にいる霊と天使は、おおうもので妨害されることなく、最も低いものにまで視覚を及ばせ、どのようなものであるか調べることができるからです――私にもまた、このようにその中を覗き込むことが与えられました。
外観では、ある地獄は、ゴツゴツした岩山の中の洞窟やほら穴に見え、内部へと伸びて、そこからまた深い所へ斜めあるいは垂直に向かっています。
ある地獄は、外観では、森の中の獣の巣や岩穴に似たものに見えました。
あるものは、鉱山にあるような丸天井の洞穴やあなぐらに似て、それには下方に向かう穴がありました。
大多数の地獄は三つの部分からなっています。上のものは、そこにいる者は悪の虚偽の中にいるので、内部が暗黒に見えます。けれども、下のものは、そこにいる者は悪そのものの中にいるので、火のかたまりに見えます。なぜなら、暗黒は悪の虚偽に、火は悪そのものに対応するからであり、内的に悪から行動した者は地獄のさらに深いところに、けれども、外的に行動した者は、それは悪の虚偽からですが、あまり深くないところにいるからです。
ある地獄は、火事の後の家や都市のがれきのように見え、地獄の霊はそれらの中に住み、隠れています。
穏やかな地獄は、粗末な小屋のように見え、路地や街路とともに都市の姿をして隣接しているものもあります。その家々の中の内部には地獄の霊がいて、そこでは、けんか・反目・むち打ち・衣服の引き裂き合いが絶えません。街路や路地では強奪や略奪が行なわれます。
ある地獄は売春宿だけであり、あらゆる種類の汚物と排泄物で満ち、きたならしく見えます。
さらにまた暗い森があって、地獄の霊はその中を獣のように歩きまわります。そこにはまた地下の洞穴があり、他の者から追いかけられている者はその中へ逃げ込みます。
不毛で砂だらけの荒野もあり、そのあるところには洞穴のあるゴツゴツした岩山があり、あるところには小屋があります――最大の処罰を受けた者は、特に、世で他の者をだます技巧と欺きに努め、考案した者は、地獄からそれらの荒野へ追い出されます。彼らの最後の生活はこのようなものです。

天界と地獄

586◀︎目次▶︎588

587 特定の地獄の位置については、だれも、それどころか、天界の天使も知ることはできないで、主だけが知られています。しかし、それらの全般的な位置はそれらの方位から知られます――天界のように、地獄は方位に関して区別され、霊界の中の方位は愛にしたがって決定されるからです。天界の中のすべての方位は太陽としての主から始まり、それは東です。地獄は天界に対立するので、それらの方位は正反対ものから、したがって西から始まります(これらについては「天界の中の四方位」の章 141~153番参照)。
[2]ここから、西方の地獄は、すべてのもののうちで最悪な、最も恐るべきものであり、東から遠く離れれば離れるほど、段階的、連続的に、それだけ悪く、恐るべきものです。
これらの地獄の中に、世で自己愛の中に、そしてここから他の者への軽蔑の中に、また賛同しなかった者に対する敵意の中に、さらにまた自分たちを崇めず、礼拝しない者に対する憎しみと復讐の中にいた者がいます――そこの最も遠く離れたところには、いわゆるカトリック教からの者であって、そこで神々として礼拝されることを望み、ここから人間の霊魂〔の救い〕や天界での自分たちの権能を認めないすべての者に対して憎しみと復讐を燃やした者がいます。
彼らの気質(animus)は似ています、すなわち、世であったような自分たちに対立した者に対する憎しみと復讐に似た気質をしています――彼らの最大の快さは残酷に振る舞うことです。しかし、来世でこの快さは彼ら自身へ向けられます。なぜなら、彼らの地獄の中では、互いに自分の神的な権能を取り去る者に対し怒り狂っているからです。西の方向は、それらの地獄で満ちています(これらについて小著『最後の審判と滅ぼされたバビロニア』で多くのことを述べておきました)。
[3]けれども、その方位の中で地獄がどのように配列されているかは、その最も残虐な種類のものは北方に、残虐さの少ないものは南方に向かう側にあることだけしか知ることができません。このように地獄の残虐さは北方から南方へ向かって、また東に向かって徐々に減少します――東には、傲慢であり、神性を信じなかった者がいます。しかしそれでも、西方の深い所にいる者のような憎しみと復讐の中に、欺きの中にはいませんでした。
[4]今日では、東方に地獄はありません。そこにいた者は、西方の前面に移されました。
北方と南方には地獄がたくさんあります――それらの中に、世に生きた時、世俗愛の中に、ここからいろいろな種類の悪の中にいた者がいます。それらの悪は、反目・敵意・盗み・狡猾・貪欲・無慈悲です。最悪の種類の地獄は北方にあり、穏やかなものは南方にあります。その恐るべき性質は、西方に近づくほど、また南方から遠ざかるほど増大し、東方に向かって、また南方に向かって減少します。
西方にある地獄の後ろに暗い森があり、その中を悪意のある霊が獣のように歩きまわっています。北方の地獄の後ろも同様です。
けれども、南方の地獄の後ろには荒野があり、そのことについてはすぐ前に扱いました。これらが地獄の位置についてです。

天界と地獄

587◀︎目次▶︎589

588 地獄の数が多いことについて――地獄は、天界の中の天使の社会と同じだけ、それだけ多くあります、天界の社会のそれぞれに地獄の社会が対応するからです。
天界の社会が無数であり、すべては愛・仁愛・信仰の善にしたがって区別されていることは、「天界はそれらの社会から成る」の章の中に(41~50番)、また「天界の無辺」の章に(415~420番)述べておきました。
[2]それで、善に対立する悪にしたがって区別されている地獄の社会も同様です。
それぞれの悪には、それぞれの善のように、無限の多様性があります。
このようであることは、それぞれの悪である軽蔑・反目・憎しみ・復讐、欺き、また他の同様なものについて単純な観念しかもたない者にはわかりません――しかし、それらの悪のそれぞれにはこのように多くの特殊な相違が含まれ、また再びこのように多くの特殊な個々の相違が含まれ、それらを列挙するなら一冊の本では足りないことを知らなければなりません。
地獄は、それぞれの悪の違いしたがって整えられ、区別されており、このように整えられ、区別されるものは何もないほどです。
ここから、全般的、特定的、個別的に、地獄は悪の相違にしたがって、あるものは他のものに近くに、あるものは他のものから離れて、無数であることを明らかにすることができます。
[3]地獄の下にもまた地獄があります――ある地獄の伝達手段は通行によって、多くの地獄の伝達手段は発散物によっていて、このことは他の種類の悪との親族関係に完全にしたがっています。
私は、地獄が、すべての山・丘・岩の下に、そしてまたすべての平野や谷の下にあり、それらの下で長く、広く、深く広がることから、地獄の数がどれほど大きいものか知るようになりました。一言でいえば、天界全体そして霊たちの世界全体は、あたかも、それらの下に連続して地獄が掘り出されるようなものです。
これらが地獄の数が多いことについてです。

天界と地獄

588◀︎目次▶︎590

62 天界と地獄の間の均衡

589 何らかのものが存在するために、すべてのものの均衡がなくてはなりません。
均衡なしに、活動と反動はありません。なぜなら、均衡は一つが働きかけ、もう一つが反応する二つの力の間にあるからです――等しい作用と反作用からの静止が均衡と呼ばれます。
自然界の中のすべてと個々のものの中にもまた均衡があります。一般的な形では、大気そのものの中にあり、その上のものが作用し、圧するかぎり、その下のものは反作用し、抵抗します。
自然界の中では、熱と冷たさ、光と陰、乾燥と湿気の間にもまた均衡があります。加減された中間の状態が均衡です。
世の三つの界、すなわち、鉱物界・植物界・動物界のすべての対象の中にもまた均衡があります。なぜなら、それらの中に均衡がなければ、何も存在し、存続しないからです。一つの側から働きかけ、もう一つの側から反応している努力(コナトゥス)のように、どこでも存在します。
[2]すべての存在あるいはすべての結果は均衡の中で生じます、すなわち、一方の力が働きかけ、もう一方が働きかけられるままにすること、あるいは働きかける一方の力が流入し、もう一方が受け入れ、適当に譲ることによって生じます。
自然界の中で、働きかけることと反応することは、力または努力(コナトゥス)と呼ばれます。しかし、霊界では、働きかけることと反応することは、いのち(生活)と意志と呼ばれます。そこのいのち(生活)は生きている力、意志は生きているコナトゥスであり、均衡そのものは自由と呼ばれます。
そこで、霊的な均衡、すなわち、自由は、一方の側から働く善ともう一方の側から反応する悪の間に、または一方の側から働きかける悪ともう一方の側から反応する善との間に存在し、存続します――
[3]働きかける善と反応する悪の間の均衡は善い者のもとにあります、しかし、働きかける悪と反応する善の間の均衡は悪い者のもとにあります。
霊的な均衡が善と悪の間にあることは、人間の生活のすべては善と悪に、そして意志が容器であることに関係するからです。
均衡は真理と虚偽の間にもあります。しかし、このことは善と悪の間の均衡によります。
真理と虚偽の間の均衡は光と陰の間の均衡のようであり、植物界の対象は光と陰の中に熱と冷たさがどれだけ存在するかによって、それだけ働きかけられています――光と陰自体は何も働きかけません、しかし、それらを通して熱が働きかけることは、冬の時と春の時の同じ光と陰から明らかにすることができます。
真理と虚偽を光と陰と比べたのは対応からです。なぜなら、真理は光に、虚偽は陰に、熱は愛からの善に対応するからです。そしてまた、霊的な光は真理であり、霊的な陰は虚偽であり、霊的な熱は愛からの善です(このことについては「天界の光と熱」が扱われている章126-140番参照)。

天界と地獄

589◀︎目次▶︎591

590 天界と地獄の間に絶え間のない均衡があります。
地獄から悪を行なおうとするコナトゥスが絶えず発散し、上昇しており、天界から善を行なおうとするコナトゥスが絶えず発散し、下降しています。
天界の間と地獄の間の中間にある霊たちの世界がその均衡の中にあることは、前に述べました(421-431番)。
霊たちの世界がその均衡の中にあるのは、すべての人間は、死後、最初に霊たちの世界に入り、そこで世の中でいたのと似た状態の中に保たれるためです、そこに最高度の均衡が存在しないなら、そのことは起こりえません。というのは、そこで世でいたような自分の自由のままにされ、そのことによってすべての者はどのようであるか調べられるからです。
霊的な均衡とは、(直前の589番に言われているように)人間と霊のもとでは自由です。
それぞれの者の自由がどんなものであるかは、そこからの情愛と思考の伝達を通して、天界の天使によって知られます。またそのことは、天使的な霊の視覚の前に、霊たちの行く道によって見られます。
善い霊である者は、天界へ向かう道を行きます。しかし、悪い霊は地獄へ向かう道を行きます。
実際にその世界の中で道が見えます。そのことがまた、みことばの中の「道」が善へ導く真理を、また正反対の意味では悪へ導く虚偽を意味する理由です――ここからまた、みことばの中の「行くこと」、「歩くこと」、「旅立つこと」は生活の前進を意味します。
私はしばしば、このような道を、そしてまた、その道を情愛とそこからの思考にしたがって、霊が自由に移動し、歩くのを見ることが与えられました。

天界と地獄

590◀︎目次▶︎592

591 地獄から絶えず悪が発散し、上昇しており、天界から絶えず善が発散し、下降していることは、霊的なスフェアがそれぞれの者を取り囲んでいて、そのスフェアが情愛とここからの思考の生活(いのち)から流れ出て、わき出ているからです。またこのような生活(いのち)のスフェアがそれぞれの者から流れ出るので、ここから天界のそれぞれの社会からも流れ出て、地獄のそれぞれの社会からも流れ出ており、結果として、一緒となったすべてのものから、すなわち、全天界と全地獄から流れ出ています。
善が天界から流れ出るのは、そこのすべての者は善の中にいるからです。悪が地獄から流れ出るのは、そこのすべての者は悪の中にいるからです。
天界からの善はすべて主からです、なぜなら、天界にいるすべての天使たちは自分自身のプロプリウムを押しとどめられ、善そのものである主のプロプリウムの中に保たれるからです。しかし、地獄にいるすべての霊は、自分自身のプロプリウムの中におり、それぞれの者のプロプリウムは悪でしかありません。悪でしかないので、地獄です。
これらから、天界の天使が保たれ、地獄の霊が保たれる均衡は、霊たちの世界の均衡のようではないことを明らかにすることができます。
天界の天使の均衡は、どれだけ善の中にいることを欲したか、すなわち、どれだけ世の中で善の中に生きたか、そのようにまた、どれだけ悪を退けたかです――けれども、地獄の霊の均衡は、どれだけ悪の中にいることを欲したか、すなわち、どれだけ世の中で悪の中に生きたか、そのようにまた、どれだけ心(cor)と霊で善と対立したかです。

天界と地獄

591◀︎目次▶︎593

592 主が天界と同じく地獄も支配されないなら、何らかの均衡は存在しません。また均衡がないなら、天界と地獄は存在しません。全世界の中の、すなわち、自然界と同じく霊界の中の、すべてと個々のものは均衡から存続するからです。
そのようであることは、理性的なすべての人間が知覚することができます――一方の側だけに優位を与え、もう一方の側からは何も抵抗がないとしたら、両方とも滅ばないでしょうか?
もし善が悪に対して反応し、その暴動を常に抑制しないなら、霊界の中はこのようになります。主がご自分でこのことを行なわれないなら、天界と地獄とは滅び、このこととともに人類は滅びます――主がご自分でこのことを行なわれないなら、と言ったのは、天使と同じく霊、また人間も、それぞれの者のプロプリウムは悪でしかないからです(前の591番参照)。それゆえ、天使と霊は、地獄から絶えず発散する悪に決して抵抗することができません、すべての者はプロプリウムから地獄へ向かうからです。
これらから、 主おひとりが天界と同じく地獄を支配されないなら、決して救いがないことが明らかです。
さらに、すべての地獄は一つとして活動します、なぜなら、天界の中で善が連結しているのように、悪は地獄の中で連結しているからです。そして、天界に対し、また天界の中のすべてのものに対して反抗する地獄の中に無数にあるすべてのものに抵抗することは、主ご自身から発出する神性でないなら、できることではありません。

天界と地獄

592◀︎目次▶︎594

593 天界と地獄の間の均衡は、天界に入る者と地獄に入る者の数にしたがって、減じ、増し、このことは毎日、数千も生じています――このことを知り、認めること、また釣り合いへと調整し、等しくすることは、天使のだれにもできません、主おひとりがおできになります――なぜなら、主から発出する神性が遍在し、何がどこに傾くか、どこでも見られているからです。天使はただ自分の近くにあるものだけを見ており、自分の社会の中で何が起こっているか自分自身ですら気づいていません。

天界と地獄

593◀︎目次▶︎595

594 天界と地獄の中で、そこにあるすべてと個々のものがそれ自体の均衡の中にあるように、どのようにすべてのものが秩序づけられているか、天界と地獄について、前に言われ、示されたことからから、ある程度、明らかにすることができます。すなわち、天界のすべての社会は、善とそれらの種類にしたがって、また地獄のすべての社会は悪とそれらの種類にしたがって、最大に秩序づけられ、分けられています。また、天界のそれぞれの社会の下に地獄の社会が対応する反対の位置にあり、その対応する正反対のものから結果として均衡が生じています。それゆえ、主により、天界の社会の下の地獄の社会が優勢とならないように、常に備えられています。また優勢になり始めるなら、いろいろな手段によって抑制され、均衡の正しい関係にされます。
これらの手段は多いので、それらからほんのいくつかだけに言及します。
ある手段は、主の強力な現在(臨在)に関係します。あるものは、一つのまたは多くの社会が他の社会とさらに固く伝達し、結合することに、あるものは、あふれる地獄の霊を砂漠の中に投げ出すことに、あるものは、ある地獄から他の地獄へある者を移動させることに、あるものは、地獄の中にいる者を秩序づけることに関係します、そのこともまたいろいろな方法で行なわれます。あるものは、ある地獄を濃くて粗雑なおおうものの下に隠すことに、また、さらに深いところに下げることに関係します。他にもあり、さらにまた、それらの地獄の上の天界の中で行なわれる方法もあります。
これらのことが言われたのは、何らかの方法が知覚されるためです。それは、どこでも善と悪の間に均衡があり、したがって天界と地獄の間に均衡があるようにと、主だけが備えられていることです。なぜなら、このような均衡の上に、天界のすべての者と地上のすべての者の安全が基礎づけられるからです。

天界と地獄

594◀︎目次▶︎596

595 地獄は絶えず天界を襲い、破壊しようと努力していること、また、主は天界にいる者をそのプロプリウムからのものである悪から妨げ、ご自分からのものである善の中に保って、絶えず天界を守られていることを知らなくてはなりません。
しばしば、私は地獄から流れ出ているスフェアを知覚するようになりました。それは、主の神性を、こうして天界を破壊しようとするコナトゥスのスフェアそのものでした――さらにまた何度か、地獄から何か泡立つものが知覚されました。それらは浮かび上がり、破壊しようとするコナトゥスでした。
けれども、逆に、天界は決して地獄を襲いません。なぜなら、主から発出する神的なスフェアは、すべての者を救おうとする永続するコナトゥスであるからです。また、地獄の中にいるすべての者は、悪の中にいて、主の神性に対立し、救われることができないので、それゆえ、地獄の中で、相互に激しくぶつかり合い過ぎないよう、可能であるかぎり、攻撃が支配され、残酷さが抑制されています。そのこともまた、神的な力の無数の手段によって生じています。

天界と地獄

595◀︎目次▶︎597

596 二つの王国があり、すなわち、天的な王国と霊的な王国があり、天界はそれらに分かれています(それらについて前の20-28番参照)。
同様に、地獄に二つの王国があり、それらに分かれています。その一つの王国は天的な王国と反対の位置に、もう一つは霊的な王国と反対の位置にあります。
天的な王国と反対の位置にあるものは、西方にあり、そこにいる者は悪鬼と呼ばれます。しかし、霊的な王国と反対の位置にあるものは、北方と南方にあり、そこにいる者は〔悪〕霊と呼ばれます。
天的な王国の中にいる者はすべて、主への愛の中にいて、その王国と反対側の地獄にいる者はすべて、自己愛の中にいます――しかし、霊的な王国の中にいる者はすべて、隣人に対する愛の中にいて、その王国と反対側の地獄にいる者はすべて、世俗愛の中にいます。
ここから、主への愛は自己愛と、同様に隣人に対する愛は世俗愛と対立していることが明らかです。
主の天的な王国と反対側の地獄から、霊的な王国の中にいる者に向かって何かが流れ出ないよう、主により常に備えられています。なぜなら、もしこのことが起こるなら、霊的な王国は滅びるからです。その理由は前に述べました(578, 579番)。
これらは二つの全般的な均衡であり、それらは主により常に固く守られています。


*1 みことばの中の「旅立つこと」は「行くこと」と同様に生活での前進を意味する(3335, 4375, 4554, 4585, 4882, 5493, 5605, 5996, 8181, 8345, 8397, 8417, 8420, 8557)。
主とともに「行くこと」と「歩くこと」は、霊的ないのちを受け入れること、その方とともに生きることである(10567)。
「歩くこと」は生きることである(519, 1794, 8417, 8420)。
*2 霊的なスフェアは、いのちのスフェアであって、それはそれぞれの人間・霊・天使から流れ出、湧き出て、彼らを取り囲む(4464, 5179, 7454, 8630)。
それは彼らの情愛と思考のいのちから流れ出る(2489, 4464, 6206末尾)。
霊がどのようなものであるかは、隔たっていても彼らのスフェアから知られる(1048, 1053, 1316, 1504)。
悪からのスフェアは善からのスフェアに対立している(1695, 10187, 10312)。
そのスフェアは天使たちの社会に、善の質と量にしたがって遠く広がる(6598-6613, 8063, 8794, 8797)。
また、地獄の社会の中に、悪の質と量にしたがって(8794)。
*3 人間のプロプリウムは悪以外のものではない(210, 215, 731, 874-876, 987, 1047, 2307, 2308, 3518, 3701, 3812, 8480, 8550, 10283, 10284, 10286, 10732)。
人間のプロプリウムは彼のもとの地獄である(694, 8480)。

天界と地獄

596◀︎目次▶︎598

63 人間は天界と地獄の均衡によって自由の中にいる

597 前に、天界と地獄の間の均衡について扱われ、その均衡は天界からの善と地獄からの悪の間の均衡であること、したがって霊的な均衡であり、その本質は自由であることを示しました。
霊的な均衡がその本質では自由であることは、善と悪の間の、また真理と虚偽の間の均衡であり、これらは霊的なものであるからです――それゆえ、善または悪を意志し、真理または虚偽を考え、そして他のものよりもあるものを選べることは自由であり、ここで述べるのはそのことについてです。
この自由は主によりそれぞれの人間に与えられており、決して取り去られません。主からのものであるので、その起源から、確かに、人間のものでなく主のものです。しかしそれでも、人間に、いのちとともに、自分自身のものであるかのように与えられています。このことの理由は、人間が改心し、救われることができるためです。なぜなら、自由なしに、改心と救いはないからです。
だれでも、理性的に熟慮すれば、人間の中に悪くまたは善く、誠実にまたは不誠実に、公正にまたは不正に考える自由が、そしてまた、善く、誠実に、公正に、話し、行動することができる自由があること、しかし、外なるものを抑制の中に保つ霊的で、道徳的で、市民的な法律のために、悪く、不誠実に、不正に、話し、行動することはできないことを知ることができます。
これらのことから、考え、意志する人間の霊が自由の中にあることは明らかです。したがって、話し、行動するものである人間の外なるものは、前述の法律にしたがっていないなら、自由の中にはありません。

天界と地獄

597◀︎目次▶︎599

598 人間は自由がないなら、改心することができません、すべての種類の悪の中に生まれているからです。それでも救われることができるためには、それらの悪は遠ざけられなければなりません――もしそれらの悪を自分自身の中に見て、認め、その後、それらを望まないで、最後には退けないなら、遠ざけられることはできません。その時になって、初めて遠ざけられます。
このことは、人間が悪と同じく善の中にいないなら、行なわれることができません。なぜなら、善から悪を見ることができますが、悪から善を見ることはできないからです。
人間が考えることのできる霊的な善を、彼は幼児期から、みことばを読むことと説教から、そして道徳的で市民的な善を世での生活から学びます。
このことが、なぜ人間が自由の中にいなくてはならないか、その第一の理由です。
[2]もう一つの理由は、愛のものである情愛からなされるものでないなら、何も人間のものとされないことです――他の何らかのものが入ることができますが、しかし、思考の中へであって、それを超えて意志の中には入りません。人間の意志の中にまで入らないものは、彼のものとなりません。なぜなら、思考はそれ自身のものを記憶から得ます、しかし、意志は生活そのものから得るからです。
意志からでないもの、すなわち、同じものですが、愛のものである情愛からでないものは、何ら自由なものではありません――何であれ、意志するかまたは愛するものを、人間は自由に行なうからです――ここから、人間の自由と、彼の愛のものまたは意志のものである情愛は一つです。そこで、人間が真理と善に働きかけられることができるように、すなわち、それらを愛し、こうしてそれらが彼のプロプリウム(固有のもの)のようになるために、人間に自由があるのです。
[3]一言でいえば、何であれ自由のうちに人間のもとに入るものでなくては、彼の愛にまたは意志に属すものではないので、残りません。人間の愛または意志に属すものでないものは、彼の霊に属するものではありません。というのは、人間の霊のエッセ(存在)は、愛または意志であるからです。
人間は愛するものを意志するので、愛あるいは意志と言われます。
これらが、人間は自由の中にないなら、改心することのできない理由です(しかし、人間の「自由について」多くのことは、あとの『天界の秘義』から引用した箇所の中に述べてあります)。

天界と地獄

598◀︎目次▶︎600

599 改心するようにとの理由から、人間は自由の中にいます。それゆえ、人間は自分の霊に関して天界と地獄に結合しています。
それぞれの人間のもとに、地獄からの〔悪〕霊、天界からの天使がいるからです――地獄からの霊によって人間は自分自身の悪の中にいます、けれども、天界からの天使によって主からの善の中にいます――このように、霊的な均衡の中に、すなわち、自由の中にいます。
それぞれの人間に、天界からの天使が、また地獄からの霊が付き添っていることは「人類と天界の結合」の章に述べました(291-302番)。

天界と地獄

599◀︎目次▶︎601

600 人間は天界や地獄と直接的に結合しているのではなく、霊たちの世界にいる霊を通して間接的に結合していることを知らなくてはなりません。人間とともにいるこれらの霊は、だれも地獄や天界そのものから直接にやって来ているのではありません――人間は、霊たちの世界にいる悪霊を通して地獄と、そこにいる善霊を通して天界と結合しています。
このようであるので、それゆえ、霊たちの世界は天界と地獄の間の真ん中にあり、そこに均衡そのものがあります。
霊たちの世界が天界と地獄の間の真ん中にあることは、「霊たちの世界について」の章(421-431番)に、また、そこに天界と地獄の間の均衡そのものがあることは、直前の章(589-596番)に述べました。
これらから、今や人間に自由があるのはどこからか、明らかです。

天界と地獄

600◀︎目次▶︎602

601 さらに、人間に接合している霊について、いくつか述べておきましょう。
ある社会全体が、その社会から送り出された霊によって、他の社会と、そしてまた他の社会のどこにいようともそのうちのある者と伝達をもつことができます。
この霊は、多くの者の「派遣霊」と呼ばれます。
天界や地獄の社会と人間の結合の場合も同様であり、そのことは霊たちの世界から人間に接合している霊によっています(これらについてもまた『天界の秘義』から引用した最後の箇所に述べてあります)。

天界と地獄

601◀︎目次▶︎603

602 最後に、死後のいのちについて、天界から人間のもとへ流入から存在する生来のものについて述べておくべきでしょう。
世で信仰の善の中に生きた庶民である単純な者がいました――彼らは世にいたときと似た状態にされました。このことは、主が許されるとき、だれにもなされることです。その時に、人間の死後の状態について、どのような観念をもっていたか示されました。
彼らは、自分たちは世で知的であった者に、「世での生活の後の自分の魂についてどう考えているか」と質問され、「魂が何であるか、知らない」と答えました。
さらに、「死後の自分の状態について何を信じているのか」と質問され、「霊として生きると信じている」と答えました。
その時、「霊についてどのような信念を持っているか」と質問され、「人間である」と答え、「どこからこのことを知っているのか」と質問され、「そうであるから、そうであると知っている」と答えました。
知的であった者は、「このような信仰が単純な者にあったこと、自分たちにないことに驚いた」と言いました。
ここから、天界と結合しているそれぞれの人間に、死後の自分のいのちについて生来のものがあることが明らかです。
この生来のものは、天界からの流入から、すなわち、主により天界を通して、霊たちの世界から人間に接合している霊によるもの以外のものではありません。生来のものは、人間の霊魂についてつくられた原理やいろいろな確信によって考える自由を消滅されなかった者のもとにあります〔このことも述べておくべきでしょう〕。その原理や確信とは、「霊魂とは純粋な思考である、あるいは何らかの生気に満ちた原理である」と言って、その座を身体の中に捜すことです。そのときそれでも、霊魂は人間のいのち以外のものではなく、霊は人間そのものであり、世で持ってまわった地的な身体は単なる装備品であって、人間そのものである霊はそれによって自然界に適して行動します。

天界と地獄

602◀︎目次▶︎自由について

603 この著作の中で、〝天界〟・〝霊たちの世界〟・〝地獄〟について言われたことは、霊的な真理を知る快さの中にいない者にとって不明瞭であっても、その快さの中にいる者にとって明確であり、真理のために真理の情愛の中にいる者、すなわち、真理であるゆえに真理を愛する者にとって最も明らかであるに違いありません――何であれ愛されるものは、光とともに心の観念の中に入ってくるからです。特に、真理が愛されるとき、そうです。すべての真理は光の中にあるからです。

天界と地獄

603◀︎目次▶︎流入について

人間の自由、流入、伝達を行なう霊について『天界の秘義』からの抜粋

自由について

人間は愛することを自由に行なうので、すべての自由は愛に属し、情愛に属す(2870, 3158, 8987, 8990, 9585, 9591)。
自由は愛に属すので、それぞれの者のいのちである(2873)。
自由からのものでないなら、プロプリウム(固有のもの)のように見えるものは何もない(2880)。
天界の自由と地獄の自由がある(2870, 2873, 2874, 9589, 9590)。

[2]天界の自由は天界の愛に属す、すなわち、善と真理への愛に属す(1947, 2870, 2872)。
善と真理への愛は主からのものであるので、自由そのものは主により導かれることである(892, 905, 2872, 2886, 2890-2892, 9096, 9586, 9587, 9589-9591)。
人間は主により再生を通して天界の自由の中へ導かれる(2874, 2875, 2882, 2892)。
再生されることができるために、人間に自由があることが必要である(1937, 1947, 2876, 2881, 3145, 3146, 3158, 4031, 8700)。
そうでなければ、善と真理への愛が人間に植え付けられることはできず、そして外見上は、人間に自分のものであるようにして自分のものとされることができない(2877, 2879, 2880, 2888)。
強制の中で生じるものは何も人間に結合されない(2875, 8700)。
もし人間が強制から改心されることができるなら、すべての者は救われる(2881)。
改心での強制は有害である(4031)。
自由からのすべての礼拝は礼拝である、けれども、強制からのものはそうではない(1947, 2880, 7349, 10097)。
悔い改めは自由の状態の中でなされなくてはならず、強制の状態の中で生じるものに効果はない(8392)。
強制の状態、それは何か(8392)。

[3]人間に善が備えられるようにと、自由から理性的に行動することが与えられている。それゆえ、人間は悪もまた考え、欲する自由の中にいる、そしてまた法律が禁じないかぎり、行なう自由の中にいる(10777)。
人間は、改心するために自由の中にいるようにと主により天界と地獄の間に、このように均衡の中に保たれる(5982, 6477, 8209, 8987)。
自由の中で植え付けられたものは残る、けれども、強制の中で植え付けられたものは残らない(9588)。
それゆえ、だれにも決して自由は取り去られない(2876, 2881)。
主はだれも強制されない(1937, 1947)。
自分自身を強制することは自由からである、けれども、強制されることはそうではない(1937, 1947)。
人間は悪に抵抗するために自分自身を強制しなければならない(1937, 1947, 7914)。
そしてまた、善を自分自身からのように行なわなければならない、しかしそれでも〔善を行なうのは〕主からであることを認めなければならない(2883, 2891, 2892, 7914)。
試練の闘いの中で勝利する人間には、その時、人間は〔悪に〕抵抗することを内的に考えるので、さらに力強い自由があるが、それでもそのようには見えない(1937, 1947, 2881)。

[4]地獄の自由は、自己愛と世俗愛により、それらの欲望により導かれることである(2870, 2873)。
地獄の中にいる者は、他の自由を知らない(2871)。
天界が地獄から遠く隔たっているように、それだけ天界の自由は地獄の自由から遠く隔たっている(2873, 2874)。
自己愛と世俗愛により導かれることである地獄の自由は、自由ではなく、隷属である(2884, 2890)。
隷属は地獄により導かれることであるからである(9586, 9589-9591)。

天界と地獄

自由について◀︎目次▶︎派遣霊について

流入について

[5]人間が考え、意志するすべてのものは流入する。経験から(904, 2886-2888, 4151, 4319, 4320, 5846, 5848, 6189, 6191, 6194, 6197-6199, 6213, 7147, 10219)。
人間が物事を観察し、考え、分析的に結論することができるのは流入からである(4319, 4320, 5288)。
もし霊界からの流入が人間から取り去られるなら、人間は一瞬も生きることができない。経験から(2887, 5849, 5854, 6321)。
主から流入するいのちは、人間の状態にしたがって、受け入れにしたがって変化する(2069, 5986, 6472, 7343)。
主から流入する善は悪い者のもとで悪に、そして真理は虚偽に変化する。経験から(3642, 4632)。
悪と虚偽が妨害しなければしないほど、それだけ絶えず主から流入している善と真理を受け入れる(2411, 3142, 3147, 5828)。

[6]すべての善は主から、そしてすべての悪は地獄から流入する(904, 4151)。
今日、人間はすべてのものが自分自身の中に存在し、自分自身から存在すると信じているが、それでも流入しているのであって、このことを、すべての善は主から、すべての悪は地獄から存在することを教える教会の教えの事柄から知らなければならない(4249, 6193, 6206)。
しかし、もし人間がその教えの事柄を信じるなら、その時、悪を自分自身に自分のものとしないし、善も自分自身のものとしない(6206, 6324, 6325)。
もしすべての善は主から流入し、すべての悪は地獄から流入すると信じるなら、どれほど人間の状態は幸福であるか(6325)。
天界を否定する者、あるいはそれについて何も知らない者は、そこから何らかの流入があることを知らない(4322, 5649, 6193, 6479)。
流入とは何か、比較による説明(6128, 6190, 9407)。

[7]いのちのすべては、いのちの「最初の源泉」から流入する。ここからであり、そのように主から絶えず流入するからである(3001, 3318, 3337, 3338, 3344, 3484, 3619, 3741-3743, 4318-4320, 4417, 4524, 4882, 5847, 5986, 6325, 6468-6470, 6479, 9276, 10196)。
流入は霊的であって、物質的ではなく、したがって流入は霊界から自然界の中へであり、自然界から霊界へではない(3219, 5119, 5259, 5427, 5428, 5477, 6322, 9110)。
流入は内なる人を通して外なる人へ、すなわち、霊を通して身体の中へであり、逆ではない。人間の霊は霊界にいて、身体は自然界にあるからである(1702, 1707, 1940, 1954, 5119, 5259, 5779, 6322, 9110)。
内なる人は霊界の中にいる、外なる人は自然界の中にいる(978, 1015, 3628, 4459, 4523[?] 4524[?] 6057, 6309, 9701-9709, 10156, 10472)。
人間のもとの外なるものから内なるものへの流入があるように見える、それは〔感覚の〕欺きである(3721)。
人間のもとの理性的なものの中へ、またそれを通して記憶知の中への流入がある、その逆ではない(1495, 1707, 1940)。
流入の秩序はどんなものか(775, 880, 1096, 1495, 7270)。
主から直接の流入があり、そしてまた霊界あるいは天界を通して間接の流入がある(6063, 6307, 6472, 9682, 9683)。
主の流入は人間のもとの善の中へ、善を通して真理の中へである、けれども、その逆ではない(5482, 5649, 6027, 8685, 8701, 10153)。
善は主からの流入を受け入れる能力を与える、けれども善のない真理は与えない(8321)。
思考の中に流入するものは何も害さないが、意志の中に流入するものは、人間に自分のものとされるので、害する(6308)。

[8]全般的な流入が存在する(5850)。
それは秩序にしたがって活動する絶え間のない努力(コナトゥス)である(6211)。
動物のいのちの中へその流入がある(5850)。
そしてまた植物界の対象物の中へある(3648)。
さらにまた全般的な流入にしたがって、人間のもとの思考は話し方の中へ、意志は行動と振る舞いの中に落ち込む(5862, 5990, 6192, 6211)。

天界と地獄

流入について◀︎目次

派遣霊について

[9]霊たちの社会から他の社会へ、このように他の霊へ送り出される霊は、派遣霊と言われる(4403, 5856)。
来世での伝達は、このような送り出される霊によって行なわれる(4403, 5856, 5983)。
派遣霊として送り出されて仕える霊は、自分自身から考えないで、送り出す者から考える(5985-5987)。
これらの霊について多くのこと(5988, 5989)。

〔『天界と地獄』おわり〕

天界と地獄

001◀︎目次▶︎あとがき

スヴェーデンボリ略歴 Emanuel Swedenborg (1688~1772)

スヴェーデンボリは、スウェーデンの司教イェスパー・スヴェドベリ〔父〕と鉱山の所有者の一族出身のサラ・ベーム〔母〕の息子でした。ウプサラ大学で学んだ後、スヴェーデンボリはヨーロッパを広く旅行することでさらに学び続けました。その多くの時をロンドンで過ごし、グリニッジ天文台のフラムスティード〔同天文台の初代台長〕を訪れたこともあります。
彼はウプサラ大学の天文学と数学の教授職を提示されましたが、それよりもスウェーデン「鉱山局」での職〔臨時監査官〕を選びました。このほうが国にさらに大きな貢献ができると思ったからです。彼はまた貴族院の議席も与えられています。

彼はスウェーデンの鉱山工業が遅れていると知り、多年にわたりこれを最新のものにしようと励みました。こうする中で、彼は科学と工業の多くの分野を学び、当時、利用できる多くの技術をすばやく吸収しています。自分自身で出版し始めて、彼の『原理論(Principia)』また『鉄』や『銅』についての論文は、広い範囲で尊重されるようになりました。

四十、五十代からはその徹底的な研究を哲学や心理学へ広げています。
彼は霊魂の座を見つけ出すことに関心を持ち続けましたが、しかしついに、科学によってでは自分の探し求める答えは与えられないであろうと悟りました。
彼はヘブル語と聖書を学ぼうと感じ、いろいろな様式で「創世記」についての注解を書いています。
同じ頃、夢の意味に気づき始め、その後、霊的な経験をもちました。

それらの経験により霊的に目覚めた異常な状態へ導かれますが、彼はこれを神の許しであったと主張しています。彼は、ある種の恒常的な「臨死体験」ともいえるものによって、「来世」を二十年間以上にわたって経験することを許されました。
「聖書」を読んでいる間に、彼はその中にある象徴的な意味に気づかされています。彼は科学的な研究をしたときのように、それを経験したものとしてすべてのことを記録し、ここからの成果として『天界の秘義』、『天界と地獄』といった、また彼が「天使的な知恵」と呼んだ『神の愛と知恵』、『結婚愛』といった数多い神学著作を得ています。

これらの著作は当時の学術的交流のための標準的な言語であるラテン語で書かれました。そのころ自由に出版できる国はオランダとイギリスだけでした。それでそれらの著作は最初にそこ〔アムステルダムとロンドン〕で出版されています。

八十四歳のときロンドンで亡くなりました。

(この略歴はスヴェーデンボリ協会の機関誌『聞き、見たこと』に掲載されています)

 

天界と地獄

001◀︎目次▶︎スヴェーデンボリ略歴

あとがき

1749~1756年、スヴェーデンボリは最初の神学著作『天界の秘義』を毎年一巻ずつ8年間連続で出版した2年後の1758年に、ロンドンで五つの著作を出版しました(著者70歳)。
それらは『天界と地獄』(De Coelo et ejus mirabilibus, et de Inferno, ex auditis et visis『天界とその驚くべきことについて、また地獄について、聞いたことと見たことから』))『新しいエルサレムとその天界の教え』『最後の審判』『白い馬』それと『宇宙間の諸地球』です。

これらの著作は、大作『天界の秘義』の中の「驚くべきこと」から集めた題材を一つの主題に編集したものであり、どの著作にも『天界の秘義』の参照箇所が付いています。特に本書『天界と地獄』では分量がきわめて多くて、ある意味で「驚くべきこと」の「索引」といえるものとなっています。

ラテン語で書かれた本書は20年後の1778年に最初の英訳がトマス・ハートリー師の編集によりなされて出版され、それ以来、多くの英語版やまた他言語による訳が発行されてきました。

わが国では1910年、英訳からの重訳が鈴木大拙によりなされ、この書によりスヴェーデンボリが広く日本に紹介されました。以来、いくつかの版が発行されています。中でも1962年発行の柳瀬芳意による訳書は現在までも長く版を重ねています。

その柳瀬訳も約五十年を経ました。その間もスヴェーデンボリについてのさまざまな研究は進んでおり、中でもラテン語辞書編者であり、古代文字の解読にも成功したジョン・チャドウィック博士によるスヴェーデンボリの語彙に関する業績は多大です。

そのジョン・チャドウィックの語彙を全面的に取り入れ、ここで新たに『天界と地獄』をラテン原典から訳しました。訳出する上では、直訳に近いものにするだけでなく、何よりも著者の論理に沿った「忠実な訳」を心がけました。さらに新訳語だけでなく文体や読みやすさなども工夫してみました。

この新訳がスヴェーデンボリを深く学ぶ上で、その役に立ち、また「天界と地獄」を知ることで、人生そのものをとらえ直すきっかけとなるなら、訳者にこれにまさる喜びはありません。

1810年、スヴェーデンボリの著作を出版し、広めるための最初の組織「スヴェーデンボリ協会」がロンドンで発足しました。今年がその二百周年にあたります。前述のように、翻訳書を通して日本にスヴェーデンボリが紹介されたのがちょうど百年前であり、これは百周年を記念する事業の一つでもありました。この節目の時を祝して、この新訳が出版されたことに、またその出版のために新組織がつくられたことに、そして何よりも主の恵みに感謝いたします。

     2010年9月 鈴木之