カテゴリー

天界と地獄 558 (2)

558 (1)◀︎目次▶︎559

558 (その2) 自己愛は隣人に対する愛と正反対であることは、その二つの愛の起源と本質から知ることができます。
自己愛の中にいる者のもとの隣人愛は、自分自身から始まります。「自分自身が隣人である」とだれもが言うからであり、その者を中心とするかのように、彼から、彼の愛による結合の程度にしたがって減少しながら、彼自身と一つとなっているすべての者へと進みます。その仲間づきあいから外れた者は、無価値と見なし、彼らと、また彼らの悪と対立する者は、どんな種類の賢明な者、あるいは正直な者、誠実または公正な者であっても、敵と見なします。
しかし、隣人に対する霊的な愛は主から始まり、その方を中心とするかように、その方から愛と信仰の性質にしたがって、その方に愛と信仰によって結合しているすべての者へと進みます(*3)
ここから、人間から始まる隣人愛と主から始まる隣人に対する愛は正反対であることが明らかです。前者は人間のプロプリウムからのものなので悪から発出します。しかし、後者は善から〔発出します〕、〔それは〕善そのものである主からのものであるからです。
さらにまた、人間からまたそのプロプリウムから発出する隣人愛は形体的(物質的)であること、しかし、主から発出する隣人に対する愛は天界的であることも明らかです。
一言でいえば、人間の中にある自己愛は、彼の頭をつくり、天界的な愛は彼の足をつくります。自己愛は天界的な愛の上に立ち、もし自分に仕えないなら、その愛を足で踏みにじります。
ここから、地獄に投げ込まれる者は、あお向けになって、頭を地獄へ向けて下にし、足を天界へ向けて上にして、投げ込まれるように見えます(前の548番参照)。


*3 隣人を愛することが何か知らない者は、それぞれの人間が隣人であり、働きを必要とするそれぞれの者によくしてやらなければならない、と考える(6704)。
そしてまた、それぞれの者が隣人であり、このように隣人に対する愛は自分自身から始まる、と信じている(6933)。
自分自身をすべてにまさって愛する者は、そのように自己愛に支配されている者は、隣人に対する愛もまた自分自身から始まっている(6710)。
しかし、それぞれの者が自分にとってどのように隣人であるか、説明される(6933-6938)。
しかし、キリスト教徒であり、すべてにまさって神を愛する者は、隣人に対する愛が主から始まる。主はすべてにまさって愛さなければならないからである(6706, 6711, 6819, 6824)。
隣人の相違は主からの善の相違と同じだけ多くあり、隣人の状態がどのようなものかにしたがってそれぞれの者に対して相違とともに善を行なわなければならず、これはキリスト教徒の思慮である(6707, 6709, 6711, 6818)。
その相違は無数にある。それゆえ、隣人とは何か知っていた古代人は、仁愛の実践を分類し、それらを名前で区別した。ここからいかなる観点から互いに隣人であるか、またどのようにそれぞれの者に思慮をもってよくしてやらなければならないかを知った(2417, 6628, 6705, 7259-7262)。
古代教会の中の教えは隣人に対する仁愛の教えであり、彼らの知恵はそこからであった(2417, 2385, 3419, 3420, 4844, 6629)。