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天界と地獄288

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288  天界の平和は、天使のもとの善そのものに至福をもって最内部から働きかける神性であるので、自分の生活の善の中にあるときの心の快さを通してでなくては、また自分の真理に一致している真理を聞くときの快感を通してでなくては、またそれらの結合を知覚するときの心の快活さを通してでなくては、彼らに明らかに知覚にされることはありません。それでもこれらから、彼らの生活のすべての活動と思考の中に流入し、そこに楽しさとして現われ、外なる形の中にもまた現われます。
[2]しかし、平和は、性質と量に関して、無垢と歩みをともにするので、天界にいる者の無垢にしたがって天界の中で異なります。なぜなら、前に述べたように、無垢から天界のすべての善があり、平和から善のそのすべての快さがあるからです。
ここから、無垢と平和は善とその快さのように結合しているので、以前の章の中で天界の中の無垢の状態について言われたことと同様のことが言えることを明らかにすることができます、善はそれ自体の快さによって感じられ、快さはそれ自体の善から知られるからです。
このようであるので、最内部または第三の天界の天使は、無垢の第三または最内部の段階の中にいるので平和の第三または最内部の段階の中にいることが、また低い天界の天使は、劣る段階の無垢の中にいるので劣る段階の平和の中にいることが明らかです(前の280番参照)。
[3]善とその快さが一緒であるように、無垢と平和が一緒であることは幼児のもとに見ることができます。彼らは無垢の中に、さらにまた平和の中にいるからです。また平和の中にいるので、それゆえ、彼らのすべてのものは戯れに満ちています。
しかし、幼児のもとの平和は外なる平和であり、内なる平和は内なる無垢のように知恵の中でないなら与えられません。また知恵の中で与えられるので、善と真理の結合の中で与えられます、なぜなら、ここから知恵があるからです。
さらにまた天界の平和または天使の平和は、善と真理の結合から知恵の中にいて、ここから神の中に自分自身がいることに満足を覚える人間たちのもとに与えられます。しかし、世に生きる間、それは彼らの内的なものの中に深く隠れています、それでも、身体を残し、天界に入るとき現わされます、なぜなら、その時、内的なものが開かれるからです。