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天界と地獄399

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399 天界の快さがどれほど大きいものであるかは、そこのすべての者には、自分自身の快さと幸運を他の者に伝達(共有)することが快いものであり、そのことだけから知ることができ、天界の中のすべての者はこのような者なので、天界の快さがいかに計り知れないものか明らかです。なぜなら、前に示されたように(268番)、天界の中のすべての者に個々の者との、また個々の者にすべての者との伝達があるからです。
このような伝達(共有)は、言われてきたように、主への愛と隣人に対する愛である天界の二つの愛から流れ出ます。これらの愛がその快さの伝達に仕えます――主への愛がこのようなものであるのは、主の愛はすべての者にご自分のすべてのものを伝達する愛であるからです、なぜなら、すべての者の幸福を願われるからです。その方を愛する個々の者の中に、主が彼らの中におられるので、同様の愛があり、ここから、天使の間に相互の快さの伝達があります。隣人に対する愛もまたこのようなものであることは、このあと見られます――それらから、それらの愛は快さの伝達に仕えるものであることを明らかにすることができます。
自己愛と世俗愛は異なります。自己愛は、すべての快さを他の者から引き離し、取り去り、自分自身へ運びます、なぜなら、自分だけがよいようにと欲するからです。世俗愛は、隣人のものが自分のものであることを欲します。それゆえ、これらの愛は、他の者のもとにある快さを破壊するものです。もし、伝達に仕えるものがあるなら、それは自分自身のためであり、他の者のためのものではありません。それゆえ、他の者と比べて、それらの快さが自分自身のもとにまたは自分自身の中にないなら、伝達に仕えるものではなく、破壊するものです。
自己愛と世俗愛は、それらが支配するとき、そのようなものであることを、しばしば生きた経験によって知覚するようになりました。
世で人間として生きたときこの愛の中にいた霊が近づくたびごとに、しばしば私の快さは退き、消えました。私に、「このような者が天界の何らかの社会に近づくだけで、彼らのいる段階に完全に一致して、その社会の中にある快さは減る。驚くべきことに、その時、その悪い者は自分自身の快さの中にいる」と言われました。
ここから、このような人間が身体の中にいたときの霊の状態がどんなものか明らかです、なぜなら、身体から分離した後も似たものであるからです。すなわち、他の者の快さまたは善を熱望し、ほしがり、そして獲得すればするほど、それだけ彼に快さがあったからです。
これらから、自己愛と世俗愛が天界の楽しさを破壊するものであり、したがって伝達に仕えるものである天界的な愛に完全に対立するものであることを知ることができます。