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天界と地獄400

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400 しかし、天界のある社会に近づくとき、自己愛と世俗愛の中にいる者の中にある快さは、彼らの欲望の快さであり、したがって天界の快さと完全に対立していることを知らなくてはなりません。
彼らは、天界にいる者の快さを奪い、取り去ることから自分自身の欲望の快さの中にやって来ます。
奪い、取り去ることがない時は異なります。その時、近づけば近づくほど、それだけ苦悶と悲しみがやって来るので、近づくことはできません。ここから、あえてそばに近づくことはまれです。
このこともまた多くの経験から知ることが与えられたので、それらからいくつか示します。
[2]世から来世に来た霊は、天界に入ることだけしか願いません。ほとんどすべての者は、〝天界とは入ることを許可され、受け入れられること〟でしかないと信じ、このことを本気で求めます――また願いもするので、それゆえ、最も低い天界のある社会へ導かれます。
自己愛と世俗愛の中にいる者は、その天界の最初の入り口にやって来るとき、痛みを感じ、自分自身の中に天界よりもむしろ地獄を感じるかのように内部で苦しめられ始めます。それゆえ、自分自身をそこから真っ逆さまに投げ落とし、自分自身の地獄の中にいると思えるまで休みもしません。
[3]さらにまた、このような者が、天界の楽しさとは何か知ることを望むこともたびたび起こりました。その楽しさが天使の内的なものの中にあることを聞いたとき、それが自分にも伝達されることを願いました。それゆえ、そのこともまた起こりました、なぜなら、天界または地獄の中にまだ来ていない霊は、願うと、もしそれが役立つなら、そのこともまた彼に与えられるからです。
伝達が起こると、苦しみのあまり、どのように身体を押さえつけたらよいかわからないほどに苦しめられ始めました。頭を足までも押し下げ、また自分自身を地へ投げつけ、そこにヘビのように自分自身を輪へとねじることが見られ、このことは内的な責め苦から起こりました。
天界の快さが、自己愛と世俗愛からの快さの中にいた者にこのような結果をもたらしたのです――その理由は、それらの愛は完全に対立しているからであり、対立するものが対立するものに働くとき、このような苦痛が生じます。また、天界の快さは内なる道を通って入り、対立した快さに流入するので、その快さの中にある内的なものを、後ろ向きに、このようにそれ自身と対立したものへとねじ曲げます。ここから、このような責め苦があります。
[4]対立するものであるのは、前に言われたように、主への愛と隣人に対する愛は自分自身のすべてものを他の者に伝達することを欲し、このことがその愛の快さであるからであり、自己愛と世俗愛は他の者からそれ自身のものを取り去り、自分自身へ運ぶことを欲し、このことができればできるほど、それだけ快さの中にいるからです。
これらのことからもまた、地獄が天界から分離していることはどこからであるか知ることができます、地獄の中にいるすべての者は、世で生きていたとき、自己愛と世俗愛から身体と肉の快さだけの中にいました、けれども、天界の中にいるすべての者は、世で生きていたとき、主への愛と隣人に対する愛から霊魂と霊の快さの中にいたからです。それらの愛は対立しているので、それゆえまた地獄と天界は完全に分離しています、実際に、地獄の中にいる霊はそこからあえて指一本すら突き出すことも、あるいは自分の頭を持ち上げることも決してしようとしないほどです。なぜなら、ほんの少しでも突き出し、持ち上げると、苦しめられ、拷問にかけられるからです――このこともまたしばしば見られました。