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天界と地獄479

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479 (i) 人間は、死後、自分自身の愛あるいは自分自身の意志であることは、多くの経験から私に証明されました。
全天界は愛の善の相違にしたがって社会に分かれています。天界に上げられて天使となっているそれぞれの霊は、彼の愛がある社会へ導かれ、そこに来るとき、自分自身のもとへ、いわばそこに生まれた家へ来たかのようです。このことを天使は認めており、そこの自分に似た者たちと社会を形成します。
そこから出かけ、他のところへ来るとき、常にある種の抵抗があり、自分と似た者へ、このように自分自身の支配愛へ戻ろうと願う情愛があります。
天界の中の交わりは、このように行なわれます。
同様に地獄にもまた、天界に対立している愛にしたがって交わりがあります(天界を構成する社会があること、そしてまた地獄に社会があり、それらのすべてが愛の相違にしたがって別れていることは前の41-50番それと200-212番参照)。
[2]人間が、死後、自分自身の愛であることは、次のことからもまた明らかにすることができました。その者の支配愛と一つにならないものは、その時、遠ざけられ、いわば彼からそれらが取り除かれることです。善である者は、すべての不調和あるいは不一致のものが、彼から遠ざけられ、いわば取り除かれ、そのように自分自身の愛の中に導かれます。悪い者も同様ですが、しかし、悪い者には真理が、善い者には虚偽が、最後に、それぞれの者が自分自身の愛になるようにまでも取り除かれる、という相違があります。このことは第三の状態の中で人間霊になされますが、そのことについては、あとで述べます。
このことがなされる時、変わることなく自分の顔を自分自身の愛へ向けていて、どれほど向きを変えても、常にその愛が目の前にあります(前の123, 124番参照)。
[3]すべての霊は、自分自身の支配愛の中に保たれさえするなら、好むどんなところへも、導かれることができます。このようになることをどれほど知っていて、抵抗しようと思っても、抵抗することはできません。支配愛に反して、何かを行なうことができるかどうか、数多く試されました、しかし、むだでした――彼らの愛は縄かまたは綱のようであり、いわばそれによって縛りつけられ、それによって引っ張られ、それから解かれることはできません。
世の人間も同様であって、彼自身の愛が彼を導き、自分自身の愛を通して他の者により導かれます。けれども、霊になる時、外観に他の愛を見せて、自分のものでない愛を偽ることは許されないので、さらにそうなります。
[4]人間の霊がその者の支配愛であることは、来世でのすべての交わりから明らかにされています。なぜなら、だれかが他のある者の愛にしたがって行ない、話すほど、それだけその他の者は、機嫌のよい生きいきとした満足した顔つきで、全体が見られます、しかし、だれかがその者の愛に反して行ない、話すほど、それだけ彼の顔は、変わり、暗くなり、見えなくなり始め、ついには、そこにいなかったかのように全体が消えるからです。
このようなことは世では何ら存在することができないので、私はしばしば不思議でした――しかし、「同様のことが人間の中の霊で起こっている」と言われました。ある者が他の者と疎遠になるとき、もはやその者の視野の中にいないのです。
[5]霊が自分自身の支配愛であることは、それぞれの霊がその愛に一致するすべてのものを捕らえ、自分自身のものとし、そして一致しないすべてのものを投げ返し、自分自身から追い出すことから――それぞれの愛は海綿状のまた多孔性の木質のようであって、その植物的な生長に役立つような液体を吸収し、他のものをはねつけます。また、自分の食物を知っているすべての種類の動物のようであって、その性質に一致するものをほしがり、一致しないものを拒絶することからも明らかです――それぞれの愛はそれ自体のものから、悪の愛は虚偽から、善の愛は真理から養育されることを欲するからです。
何度か見ることがありましたが、それは、ある善い単純な者が、悪い者に真理と善を教えることを欲しました、しかし、その者たちは教えることから遠くへ逃げ去り、自分自身〔と似た者たち〕のところに来たとき、その愛に一致する虚偽を快楽とともに捕らえたこと――さらにまた、善霊が自分たちの間で真理について話したところ、居合わせた善い者はそれを望みとともに聞きました、しかし、同じく居合わせた悪い者はそれを聞かないかのように、何も注意を向けなかったことです。
霊たちの世界に道が現われます。あるものは天界へ、あるものは地獄へ、それぞれが、ある社会へ導く道です――善い霊は、天界へ導く道、自分自身の愛の善の中にある社会へ導く道以外の他の道へは行きませんし、他へ向かう道は見ません。しかし、悪い霊は、地獄へ導く道、自分自身の愛の悪の中にある社会へ導く道以外の他の道へは行きません。他へ向かう道は見ません、見ても入ろうとはしません。
霊界の中のこれらの道は、実在する外観であって、真理と虚偽に対応します。それゆえ、みことばの中の「道」は、それらを意味します(*4)
これらの証拠となる経験から、最初に理性から言われたことが、すなわち、それぞれの人間は死後、自分自身の愛と自分自身の意志であることが確信されます――意志と言われるのは、それぞれの意志そのものが彼の愛であるからです。


*4 「道」・「わだち」・「路地」・「街路」は、善へ導く真理を意味し、そのようにまた悪へ導く虚偽を意味する(627, 2331, 10422)。
「道を掃くこと」は、真理が受け入れられるように準備することである(3142)。
「道を知らせること」は、主についてであるとき、善へ導く真理を教えることである(10565)。
人間のプロプリウムからの悪は、他の者への軽蔑・敵意・憎しみ・復讐・残酷・欺きである(6667, 7370, 7373, 7374, 9348, 10038, 10742)。
人間のプロプリウムが支配すれば支配するほど、それだけ愛の善と信仰の真理は退けられるか、窒息させられるか、あるいはゆがめられる(2041, 7491, 7492, 7643, 8487, 10455, 10742)。
人間のプロプリウムは、彼のもとにある地獄である(694, 8480)。
人間がプロプリウムから行なう善は、善ではなく、本質的に悪である(8480)。