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天界と地獄129

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129. 主は天界の中で神的真理であられ、そこでは神的真理は光なので、それゆえ、みことばでは次の箇所のように、主は光と呼ばれ、同じく主からのすべての真理も光と呼ばれています――

イエスは言われた、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、やみの中を歩くことがなく、いのちの光を持ちます」(ヨハネ 8:12)。
わたしが世にいる間、わたしは世の光です(ヨハネ 9:5)。
イエスは……言われた……「まだしばらくの間、光はあなたがたとともにあります。あなたがたに光がある間に、歩きなさい。やみがあなたがたを捕えないように。……あなたがたに光があるとき、光を信じなさい、あなたがたが光の子どもであるために。……わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、やみの中にとどまらないためです」(ヨハネ 12:35, 36, 46)。
光は世に来た。しかし、人間たちは光よりもむしろやみを愛した(ヨハネ 3:19)。

ヨハネは主について、

これはまことの光です、それはすべての人間を照らします(ヨハネ 1:4, 9)。
暗やみに座っていた民は、偉大な光を見た。彼らに……死の陰に座っていた者たちに、光が昇った(マタイ 4:16)。
わたしは、あなたを民の契約として、異邦人の光として与える(イザヤ42:6)。
わたしは、あなたを異邦人の光として立てた。あなたが地の果てにまで、わたしの救いとなるためである(イザヤ 49:6)。
救われた国民は、その方の光の中を歩く(黙示録 21:24)。
あなたの光とあなたの真理を送り、それらで私を導いてください(詩篇 43:3)。

これらやまた他の箇所で、主は神的真理から光と呼ばれ、同じく、主からの真理そのものも光と言われています。
光は天界の中に太陽としての主から存在するので、それゆえ、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの前で変容されたとき、

その方の顔は太陽のように見られ、その方の衣は光のようで、雪のように輝き、白く光り、地のさらし屋が白くすることができないほどであった(マルコ9:3、マタイ17:2)。

主の「衣」がこのように見えたのは、衣が天界の中で主からのものである神的真理を表象したからでした――さらにまた、みことばで「衣」は真理を意味します(*4)。ここから、ダビデの書で言われています、

エホバよ、あなたは〝光を衣のように〟着られます(詩篇 104:2)。


*4 みことばの中で「衣服」は、善をおおうので、真理を意味する(1073, 2576, 5248, 5319, 5954, 9216, 9952, 10536)。
変容のときの主の衣は、その方の神的愛から発出する神的真理を意味した(9212, 9216)。