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天界と地獄130

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130. 天界の中の光は霊的なものであり、その光が神的真理であることは、人間にもまた霊的な光があり、神的真理から知性と知恵の中にいるかぎり、彼にその光からの照らしがあることからもまた結論することができます――人間の霊的な光は彼の理解力の光であり、その対象は真理であって、それを秩序の中で分析的に整え、論証へと形作り、それらから連続的に物事を結論します(*5)
自然的な人は、理解力がこのようなものを見るのは真の光からであることを知りません、目でその光を見ないし、思考の中にも受け入れないからです――それでも、多くの者は霊的な光について知っており、そしてまた、それを自然的な光から区別してもいます。霊的でなく自然的に考える者は、自然的な光の中にいます――世だけに目を向け、すべてのものを自然に帰す者は、自然的に考えます。けれども、天界に目を向け、すべてのものを神性に帰す者は、霊的に考えます。
心を照らし、自然の光と呼ばれる光から明白に区別されたものが真の光であることを、私は何度も知覚し、見ました――私はその光の中に、内的に、段階を通して高揚されたことがあります。私が高揚されるにつれて、理解力は照らされ、以前には知覚しなかったものまでも知覚し、ついにこのような自然的な光からの思考では決して把握できなかったものまでも知覚しました。時々、私は、天界の光の中ではっきりと明確に知覚されたものが〔あとになって〕把握できないことにいら立ちました(*6)
理解力には光があるので、それゆえ、目について言えることと似たことが理解力についても言えます。例えば、知覚するとき、「見る、光の中にある」と言い、知覚しないとき、「それには暗いものや陰がある」と言い、また似たような多くのことが言えます。


*5 天界の光は人間の理解力を照らす。それゆえ、人間は理性的である(1524, 3138, 3167, 4408, 6608, 8707, 9128, 9399, 10569)。
理解力は真理を受け入れるものであるので、照らされる(6222, 6608, 10659)。
理解力は人間が主からの善の中の真理を受け入れるほど照らされる(3619)。
理解力は善からの真理がどのようなものであるかによってそのようなものであり、それらの真理から形作られる(10064)。
世からの光が視覚にあるように、天界からの光が理解力にある(1524, 5114, 6608, 9128)。
主からの天界の光は常に人間のもとにある。しかし、人間が善からの真理の中にどれだけいるかによってそれだけ流入する(4060, 4214)。
*6 人間は感覚的なものから高揚されるとき、穏やかな光の中へ、ついには天界の光の中へやって来る(6313, 6315, 9407)。
人間が知性の中へ高揚されているとき、実際に天界の光の中へ高揚されている(3190)。
私が世俗の考えから導き出されたとき、どれほど大きな光を受けたか(1526, 6608)。