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天界と地獄489

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489. けれども、世の中で天界的な愛の中に生きた者のいのち(生活)の快いものは、天界の中にあるような、対応するものに変わります。それは天界の太陽から、そこからの光から存在し、その光によって、それ自体の内部にたくわえている神的なものが視覚に見られます――ここから、それらの見えるものは、天使の心のものである内的なものに働きかけ、そして同時に身体のものである外的なものに働きかけます――また主から発出する神的真理である神的光が、天界の愛によって開かれている彼らの心の中に流入するので、それゆえ、外部に彼らの愛の快さに対応するものを現わします。
天界で視覚に見られるものは、天使の内的なものに、すなわち、信仰と愛のものに、そしてここから彼らの知性と知恵のものに対応することは、「天界の中で表象するものと外観」(170-176番)が扱われた章の中に、また「天界の天使の知恵」(265-275番)が扱われた章の中に示してあります。
[2]最初に理由として言われた事柄を説明するために、経験からの例により、それらの事柄を確信するようにして始めたので、さらに私は、世で天界的な愛の中に生きた者のもとの自然的な快いものが変化していく天界の快いものについていくつか公けにすることにします。
内的な情愛から、すなわち真理そのものへの情愛から、神的真理とみことばを愛した者は、来世で光の中の、山のように見える高い場所に住み、永遠にそこの天界の光の中にいます――彼らは、世の夜のような、暗やみが何かを知りません。さらにまた春の温和の中で生きます。
彼らの視野には、いわば畑や作物、そしてまたぶどう畑が見られます。彼らの家の中では、個々のものが宝石のように輝き、窓を通して、純粋な水晶を通して見るかのようです――これらが彼らの視覚の快いものです、しかし同じこれらのものが、神的な天界のものに対応するものから、内的な快いものとなっています。なぜなら、彼らが愛したみことばからの真理は、作物・ぶどう畑・宝石・窓・水晶に対応するからです(*5)
[3]みことばからのものである教会の教えの事柄を直ちに生活に適用させた者は、最内部の天界にいて、他の者にまさって知恵の快いものの中にいます。対象の個々のものの中に神性を見ます。確かに彼らは対象を見ています、しかし、対応する神性が直ちに彼らの心の中に流入し、心を至福で満たし、彼らのすべての感覚はその至福によって情愛を感じています。ここから、彼らの目の前のすべてのものは、あたかも笑い、遊び、生きているかのようです(このことについては前の270番参照)。
[4]知識を愛し、その知識よって自分自身の理性を養い、同時に神性を認めた者は、彼らの知識からの快楽が、また理性からの快さが、来世で、善と真理の認識からのものである霊的な快さに変えられます。
彼らは庭園の中に住み、そこの中庭には美しく区切られた花壇と草地があり、その周囲に、並木道や遊歩道とともに木の列が見えます。木や花は、日々、変化します。すべての外観は全般的に彼らの心の快いものを現わし、個々別々なものの変化により常に快いものが新たにされます――神的なものに対応し、彼らに対応の知識があるので、常に新しい知識で満たされ、その知識によって彼らの霊的な理性は完全にされます。
彼らにこれらの快いものがあります――庭園・花園・草・木が、知識・認識・そこからの知性に対応するからです(*6)
[5]すべてのものを神性に帰し、自然は相対的に死であり、単に霊的なものに仕えるものとして眺め、そのことを確信した者は、天界の光の中にいます。そして彼らの目の前のすべてのものは、その光により透明となって見えます。その透明性の中で、光の変化の無数のものを眺め、それらを彼らの内なる視覚によっていわば直接に吸収します。ここから彼らは内的な快いものを知覚します。
彼らの家の中に見られるものは、いわばダイヤモンド製であり、それらの中にダイヤモンドに似た多彩な色があります。
「彼らの家の壁はいわば水晶製であり、このようにまた透明です。その中に天界の事柄を表象する形が、あたかも流れのようなものが、さらにまた絶え間のない変化をもって見えます。これらのことは、このような透明性が、主により照らされて、自然的な信仰と愛から陰が取り除かれた理解力に対応しているからです」と言われました。
天界にいた者から、「だれも目で見なかったものを見た」と言われ、神性を知覚して、伝達した者から、「だれも耳で聞かなかったものを聞いた」と言われるものは、このようなものや他の無数のものです。
[6]ひそかに行なわないで、市民生活で許されるかぎり、考えたものすべてが公けであるようにと望んだ者は、神的なものからの誠実で公正なものしか考えなかったので、天界の中でその顔は輝き、その光から顔の中に情愛と思考の個々のものが形となったかのように現われ、話し方と行動に関しては、いわば自分自身の情愛の似姿となっています。
ここから、他の者にまさって愛されています。
彼らが話すとき、顔をやや暗くしますが、しかし、話したあと、話したことと同じものを顔の中に、完全に同時に視覚に現わします。
彼らの周囲に存在するすべてのものもまた、彼らの内的なものに対応するので、他の者から、何を表象し、意味するか、はっきりと知覚されるような外観で存在します。
ひそかに行なうことが快かった者を遠くから避けます。彼らはヘビが這って逃げるように見えます。
[7]姦淫を極悪と見なして、貞淑な結婚愛の中に生きた者は、他の者にまさって天界の秩序と形の中に、ここからすべての美の中に、そして絶えず青春時代の花の中にいます――彼らの愛の快いものは、言い表わせないものであり、永遠に増大します。なぜなら、その愛の中へ天界のすべての快さと楽しさが流入するからです。その愛は主と天界との結合から、また主と教会との結合から下降し、全般的に善と真理の結合から下降しているので、その結合は全体的にも、またそれぞれの天使のもとで特定的にも、天界そのものです(前の366-386番参照)。
彼らの外なる快いものは、人間の言葉で記述されることができないようなものです。
しかし、これらの天界的な愛の中にいる者のもとの快いものに対応するものについて言われたことは、わずかなものです。


*5 みことばの中の「収穫物」は、善からの真理を受け入れることとその増加の状態を意味する(9294)。
「立っている作物(穀物)」は、受胎中の真理を意味する(9146)。
「ぶどう畑」は、霊的な教会とその教会の真理を意味する(1069, 9139)。
「宝石」は、善から透明である天界と教会の真理を意味する(114, 9863, 9865, 9868, 9873, 9905)。
「窓」は、内なる視覚である知力を意味する(655, 658, 3391)。
*6 「庭園」、「木立ち(杜)」、「楽園」は知性を意味する(100, 108, 3220)。
それゆえ、古代人は聖なる礼拝を木立ち(杜)の中で行なった(2722, 4552)。
「花」と「花園(花壇)」は、記憶知の真理と知識を意味する(9553)。
「草本」、「草」、「草地」は、記憶知の真理を意味する(7571)。
「木」は、知覚と知識を意味する(103, 2163, 2682, 2722, 2972, 7692)。