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天界と地獄364

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364 貧しい者は、貧しいゆえに天界に来るのではなく、生活ゆえに天界に来ます。
それぞれの者に、富んでいても貧しくても、彼の生活が伴います。
ある者のために、他の者よりも大きい特別な慈悲といったものはありません(*5)。善く生きた者は受け入れられ、悪く生きた者は退けられます。
さらに、貧しさもまた富と等しく人間を惑わし、天界から引き離します。
貧しい者たちの間に、自分の運命に満足しないで、多くのものを得ようとし、富が祝福であると信じる者がいます(*6)。それゆえ、富みを受けないとき、怒り、神的な摂理について悪く考え、他の者の財産をねたみます。さらに、彼らもまた機会が与えられるとき同じように他の者をだまし、同じように不潔な快楽の中に生きます。
しかし、自分の運命に満足し、自分の仕事に熱心で、勤勉であり、怠惰よりも労働を愛し、誠実に、忠実に行動すると同時に、その時、キリスト教徒の生活を送った貧しい者は異なります。
何度か、私は田舎から出てきた者や平民であった者と話したことがあります。その者は世で生きた時、神を信じ、自分の仕事で公正と正義を行ないました――彼らは真理を知る情愛の中にいたので、仁愛とは何か、信仰とは何かを求めました。世では信仰について多くのことを聞いたけれども、来世では仁愛について多くのことを聞いたからです。それゆえ、彼らに、「仁愛は生活に属すすべてのものであり、信仰は教えに属すすべてのものです。したがって、仁愛はすべての働きの中で公正と正義を意志し、行なうことですが、信仰は公正にまた正しく考えることです。信仰と仁愛は、教えとその教えにしたがった生活のように、すなわち、思考と意志のように、互いに結合します。信仰は、人間が公正に正しく考え、さらにまた意志し、行ない、そしてこのことが行なわれるとき仁愛となります。その時、二つでなく一つです」と言われました。
彼らはこのことをよく理解し、「世では、信じることは生活することでないなら、何なのかわからなかった」と言って、喜びました。


*5 直接の慈悲は存在しない、しかし、間接の慈悲は存在する。これは主の戒めにしたがって生きる者にあり、この者は慈悲から世で絶えず導かれ、そしてその後、永遠に導かれる(8700, 10659)。
*6 地位と富は真の祝福ではない。それゆえ、それらは善い者にも悪い者にもある(8939, 10775, 10776)。
真の祝福は、主から愛と信仰を受け、そのことによって主と結合することである、なぜなら、ここから永遠の幸福があるからである(1420, 1422, 2846, 3017, 3406, 3504, 3514, 3530, 3565, 3584, 4216, 4981, 8939, 10495)。