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天界と地獄365

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365 これらから、富める者と貧しい者も等しく、ある者は他の者と同じく、容易に天界に来ることが明らかです。
〝貧しい者は容易であるが、富める者はほとんどやって来ない〟と信じられているのは、みことばで、富める者と貧しい者の名前が挙げられている箇所が理解されていないからです。
そこの「富める者」によって霊的な意味では、善と真理の知識に富む者が、したがって、そこにみことばがある教会内の者が意味されます。また「貧しい者」によって、それらの知識を欠いていても、それでも望む者が、したがって、教会外の、そこにみことばがない者が意味されます。
[2]紫色と亜麻布の衣服を着ていて、地獄の中に投げ込まれた「富める者」によって、ユダヤ民族が意味されます。彼らは、みことばを持ち、そこから善と真理の知識に富んでいたので、富める者と呼ばれます――さらにまた「紫色の衣服」によって善の知識が、「亜麻布の衣服」によって真理の知識が意味されます(*7)――けれども、富める者の門前に投げ出されて、その食卓から落ちたパンくずで満ち足りることを望み、天使により天界へ連れて行かれた「貧しい者」によって異教徒が意味されます。彼らは善と真理の知識を持ちませんでしたが、それでもそれらを望みました(ルカ 16:19-31)。
盛大な宴会に呼ばれながらも辞退した「富める者」によってもユダヤ民族が意味されます。また彼らに代わって招待された「貧しい者」によって、教会外の異教徒が意味されます(ルカ 24:16-24)。
[3]主が次のように言われた富める者によってだれが意味されるでしょうか――

富める者が神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通るほうがもっとやさしいマタイ 19:24)。

そこの「富める者」によって霊的にも自然的にも両方の意味で富める者が意味されています。自然的な意味で富める者は、富が多く、それらに心を置く者です。しかし、霊的な意味では、認識と知識に富む者です、なぜなら、それらは霊的な富であるからです。またプロプリウム(固有のもの)の知性から天界と教会に属すものの中へ自分自身を導き入れることをそれらによって欲することは神的な秩序に反するので、「ラクダが針の穴を通るほうがもっとやさしい」と言われています。霊的な意味では「ラクダ」によって一般的に知識の細目と記憶知が意味され、「針の穴」によって霊的な真理が意味されるからです(*8)――みことばの文字どおりの意味で言われることによって、霊的な意味では何が意味されているか、そのことを教える知識が、この時まで開かれていないので、今日では「ラクダ」と「針の穴」によって意味されることが知られていません――みことばの個々のものに霊的な意味があり、自然的な意味があるからです。なぜなら、みことばは、世との天界の結合があるように、すなわち、人間との天使の結合があるように、その直接の結合がなくなった後に、霊的なものと自然的なものの対応そのものによって書かれたからです――ここから、「富める者」によって、そこでは特にだれが意味されているか明らかです。
[4]みことばの中の「富める者」によって、霊的な意味では真理と善の知識の中にいる者が、また「貧しい者」によって知識そのものが、それは霊的な富でもあることが意味されることは、いろいろな箇所から明らかにすることができます――(それらは、イザヤ書 10:12-14; 30:6, 7; 45:3。エレミヤ書17:3; 48:7, 50:36, 37; 51:13。ダニエル書 5:2-4。エゼキエル書26:7, 12; 27:1から終わりまで。ゼカリヤ書 9:3, 4。詩篇 45:12。ホセア書 12:9。黙示録 3:17, 18。ルカ福音 14:33。その他)。
また「貧しい者」によって霊的な意味では善と真理の知識を持たない者が、それでもそれらを望む者が意味されます(マタイ福音書 11:5。ルカ福音書 6:20, 21; 14:21。イザヤ書 14:30; 29:19; 41:17, 18。ゼパニヤ書 3:12, 13)。
これらすべての箇所については、『天界の秘義』(10227)の中で霊的な意味にしたがって説明してあります。


*7 「衣服」は、真理を、そのように知識を意味する(1073, 2576, 5319, 5954, 9212, 9216, 9952, 10536)。
「紫色」は、天的な善を意味する(9467)。
「亜麻布」は、天的な起源からの真理を意味する(5319, 9469, 9744)。
*8 みことばの中の「ラクダ」は、全般的に知識の細目と記憶知を意味する(3048, 3071, 3143, 3145)。
「刺繍された衣服」、「刺繍すること」とは何か、ここから「針」とは何か(6988)。
信仰の真理に記憶知から入ることは、神的秩序に反している(10236)。
そのことをする者は、天界と教会に属すものに関して気が狂う(128-130, 232, 233, 6047)。
また、来世で、霊的なものについて考えるとき、酔いどれのようになる(1072)。
さらに、どんなものであるか(196
記憶知によって入るなら、霊的なものは把握されることができないことを説明する例(233, 2094, 2196, 2203, 2209)。
霊的な真理から自然的な人のものの記憶知に入ることは許される、けれども、その逆は許されない。自然的なものの中への霊的な流入は存在する、けれども、霊的なものの中への自然的な流入は存在しないからである(3219, 5119, 5259, 5427, 5428, 5476, 6322, 9110, 9110)。
最初に、みことばと教会の真理が認められるべきである、その後、記憶知に相談することが許される、けれども、その逆ではない(6047)。