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天界と地獄 533

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533 そこで、天界の生活を送ることが信じられているほど困難でないことは、不誠実で不公平である何かを浮かべ、そのことへ自分の心(animus)が導かれるとき、ただ必要とされることが〝神的な戒めに反するので行なってはならない〟と考えることだけであることが今や明らかです。
もし、人間がこのように考えることに慣れ、慣れることから何らかの習慣を得るなら、その時、少しずつ天界と結合します。また天界と結合すればするほど、それだけ心の高いものが開かれます。またそれが開かれれば開かれるほど、それだけ何が不誠実と不公平であるか見ます。それらを見るほど、それだけ追い払うことができます。なぜなら、何らかの悪は、見られた後でなくては、追い払われることはできないからです。
この状態の中へ、人間は自由から入ることができます。なぜなら、だれが自由からこのように考えることができないでしょうか? しかし、導かれ始めれば、その時、主は彼のもとのすべての善に働きかけ、悪を見るようにされるだけでなく、それを欲しないように、ついにはそれを追い払うようにされます。
このことが主のみことばによって意味されています、

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いです(マタイ 11:30)

しかし、このように考えること、さらにまた悪に抵抗することの困難は、人間が意志から悪を行なうほど増大することを知らなくてはなりません。それだけ悪に慣れ、ついには悪を見ないようにまでもなり、その後、悪を愛するようになり、悪の愛の快さからその悪を許し、すべての種類のごまかしによって確信し、「許されること、善いことである」と言うからです。
しかし、このことは、青年時代に束縛がないかのように悪に突進し、そのとき同時に、心(cor)から神的なものを退ける者のもとに起こることです。