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天界と地獄 532

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532 思考は意図にしたがって、すなわち、人間が意図するところへ、導かれ、向かうことをだれも知ることができます――思考は人間の内なる視覚であり、それは外なる視覚に似て、どこへ曲げられ、意図されても、そこへ向けられ、そこにとどまるからです。
そこで、内なる視覚、すなわち、思考が世へ向けられるなら、そこにとどまり、思考は世俗的なものになります。もし自分自身と自分の名誉に向けられるなら、物質的なものになります。けれども、天界へ向けられるなら、天界的なものになります。それゆえ、天界へ向けられるなら高揚され、自分自身に向けられるなら天界から引き戻され、物質的なものへ沈められます。世へ向けられるなら、やはり天界からそらされ、目の前にあるものへと散らされます。
[2]人間の愛は、意図をつくり、人間の内なる視覚または思考をその対象へ向けるものです。そのように、自己愛は自分自身と自分のものへ、世俗愛は世俗のものへ、また天界の愛は天界のものへ向けます――これらの対象から、人間の心(mens)のものである内的なものがどんな状態の中にあるか知られることができ、その時、彼の愛が認められます。すなわち、天界を愛する者の内的なものは天界へ向けて高揚され、そして上方に開かれます。世と自分自身を愛する者の内的なものは上方に閉ざされ、外部に向けて開かれます――ここから、心の高い領域が上方に閉ざされているなら、人間はもはや天界と教会のものである対象を見ることができず、その対象は彼のもとで暗黒の中にあり、暗黒の中にあるものは、否定されるかあるいは理解されないことを結論することができます。
ここから、すべてにまさって自分自身と世を愛する者は、彼らのもとで心の高い領域が閉ざされているので、心から神的真理を否定します。それらについて何かを記憶から話すにしても、それでも理解していません。さらにまた、それらを世俗的なものや物質的なものを眺めるようにしか眺めません――このようであるので、身体の感覚を通して入ってくるもの以外に心(animus)で何かを熟考することができないで、さらにまたそれらのものだけを楽しみます――それらのもの間には、多くの汚れた、わいせつな、冒涜的な、不埒なものがあり、取り去られることができません、前に述べたように、彼らのもとで、その心(mens)は上方に閉ざされているので、心の中への天界からの流入は存在しないからです。
[3]人間の内なる視覚または思考の方向を決める意図とは、彼の意志です。なぜなら、人間は意志するものを意図し、意図するものを考えるからです――それゆえ、天界を意図するなら、彼の思考はそこへ向けられ、その思考とともに彼の心(mens)全体が向けられ、こうしてその心は天界の中にあります――その後、ここから世にあるものを家の屋上からかのように自分の下に眺めます。ここから、心のものである内的なものが開かれている人間は、自分のもとの悪と虚偽を見ることができます、これらが霊的な心の下にあるからです。一方、内的なものが開かれていない人間は、自分の悪と虚偽を見ることができません、それらの中にいて、それらの上にいないからです。
これらから、人間の知恵はどこからか、またその狂気はどこからか、さらに、人間は死後、そこに意志することと考えることが残され、さらにその内的なものにしたがって行動し、話すとき、それらがどのようなものになるか結論することができます。
これらのこともまた述べたのは、人間が外的には他の者とどれほど似て見えても、内的にはどんなものであるか知られるためです。