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天界と地獄 531

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531 霊的な生活の律法・市民的な生活の律法・道徳的な生活の律法もまた、十戒の十の戒めの中に述べられています。最初の三つの中に霊的な生活の律法、続く四つの中に市民的な律法、最後の三つの中に道徳的な律法があります。
単に自然的な人間は、外なる形の中で、同じ戒めにしたがって、霊的な人間と完全に同じような生活をしています。なぜなら、同じように神的なものを礼拝し、礼拝所に入り、説教を聴き、信心深そうな顔をするからです。殺さず、姦淫を犯さず、盗まず、偽りの証言をせず、仲間の財産をだまし取りません――しかし、これらのことを見られるようにと、ただ自分自身のために、また世のために行なっています。
それでも、その同じ者が、内なる形の中では、外なる形の中で見られるのとはまったく正反対です。心では神的なものを否定しているので、礼拝中に偽善者を演じています。自分ひとりになって考えるとき、教会の聖なるものを、ただ単純な大衆を拘束するのに役立つだけのものと信じて、嘲笑します。
[2]ここから、完全に天界から切り離されており、それゆえ、彼は霊的な人間ではないので、道徳的な人間でも、市民的な人間でもありません。
なぜなら、たとえ殺さなくても、それでも自分に対立するだれをも憎み、憎しみから復讐に燃えるからです。それゆえ、市民法で、また恐れている外なる束縛で抑制されなかったなら、殺します。このことを望むので、絶えず殺しているといえます。
また、たとえ姦淫を犯さなくても、それでもやはり許されると信じているので、いつまでも姦淫者です。なぜなら、可能なかぎり、また機会が許されるたびごとに、姦淫を犯すからです。
同様に、たとえ盗まなくても、それでもやはり他の者の財産を望み、ごまかしと悪の策略は法に反しないと見なしているので、心では絶えず盗みを行なっています。
偽りの証言をしないことや他人の財産をむやみにほしがらないことである道徳的な生活の戒めに関しても同様です。
神的なものを否定し、宗教から何らかの良心をもたないすべての人間はこのようなものです。
このようなものであることは、外なるものを取り去られ、自分の内なるものへ入れられる来世で、彼らに似た者から明らかに見られます。その時、天界から分離しているので、地獄と一つのものとして活動します。それゆえ、そこにいる者と仲間になります。
[3]心で神的なものを認め、自分の生活の行為の中で神的な律法を眺め、十戒の最初の三つの戒めと等しく、残りの戒めにもしたがって生きた者たちは異なります。彼らは外なるものを取り去られて自分の内なるものの中へ入れられるとき、世にいたときよりも賢明です――自分の内なるものの中にやって来る時、神的なものの中に、したがって天界の中にいるので、陰から光の中へ、無知から知恵の中へ、悲しみの生活から幸福の中へやって来るかのようです。
これらのことを述べたのは、たとえ両者が似たような外なる生活を送ったにしても、一方がどんなものか、またもう一方がどんなものか知られるためです。