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天界と地獄466

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466. それらの記憶がどんなものであるか、来世ではときどき、そこだけに出現する形によって見られます(そこでは視覚に多くのものが見られますが、それらは人間のもとでは、ただ観念の中だけに生じます)――来世では、外的な記憶は、たこのような外観によって見られ、内的な記憶は人間の脳の中にあるような髄質のように見られます。ここからもまた、どのようなものであるか知ることができます。
いのちが身体の中にあったとき記憶に属すものだけに専念し、このように自分の理性を発達させなかった者のたこは、固いものに見え、内部には腱のすじのようなものが見えます。
記憶を虚偽で満たした者のたこは、無秩序なものの堆積から、髪の毛のように毛むくじゃらに見えます。
自己愛と世俗愛のために記憶のものに専念した者は、くっつき合った塊りと骨化したものに見えます。
記憶知よって、特に哲学によって、神的なアルカナを洞察しようと欲し、それらによって確信する以前には信じることもない者は、彼らのもとで記憶は暗いものに見え、それは光線を吸収し、暗やみに変えるような性質をもっています。
狡猾な者や偽善者であった者は、彼らのもとに象牙のような固い骨が見られ、それは光線をはねかえします。
けれども、愛の善と信仰の真理の中にいた者にこのようなたこは見られず、彼らの内的な記憶は光線を外的なものへ、その記憶の対象または観念の中へ伝え、そこに光線はそれ自体の土台のようにまたはそれ自体の土地のように終結し、そしてそこに快適な容器を見つけます。なぜなら、外的な記憶は秩序の最後のものであり、そこに善と真理がある時、その中に霊的なものと天的なものが穏やかに終結しているからです。