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天界と地獄390

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390 これらから、天界の中の従属がどんなものか結論することができます。すなわち、それぞれの者は役立ちを愛し、大切にし、尊ぶように、そのようにまたその役立ちを備えている人物を愛し、大切にし、尊びます。そしてまた、その人物は、役立ちを自分自身に結びつけないで、主に帰せば帰すほど、それだけ愛され、大切にされ、尊ばれます。それだけ賢明であり、それだけ、果たす役立ちを善から果たします。
霊的に愛し、大切にし、尊ぶことは、人物の中にある役立ちを愛し、大切にし、尊ぶこと以外の何ものでもありません。そして役立ちから人物への敬意があるのであって、人物から役立ちへの敬意があるのではありません。
人間を霊的な真理から眺める者もまたこのように眺めます。なぜなら、地位が高くても低くても、ある人間を他の人間と同様に見て、知恵の中にだけ相違を見るからです。知恵とは、役立ちを、したがって同胞市民・社会・祖国・教会の善を愛することです。
このことの中にもまた主への愛があります、役立ちの善であるすべての善は主からのものであるからです。隣人に対する愛もまた、隣人は同胞市民・社会・祖国・教会の中で愛されるべき善であるので、彼らに行われるべきものです(*2)


*2 隣人を愛することは人物を愛することではなく、彼のもとにある彼をつくっているもの(ex quo)を愛することである(5025, 10336)。
人物を愛する者は、彼のもとにある彼をつくっているものを愛さず、悪と善を等しく愛する(3820)――
また悪い者にも善い者にも等しく善を行なう、それでもそのとき悪い者に善を行なうことは善い者に悪を行なうことであり、隣人を愛することではない(3820, 6703, 8120)。
矯正するために、また悪い者により善い者が汚され、傷つけられないように、悪い者を罰する裁判官は隣人を愛している(3820, 8120, 8121)。
すべての人間と社会は、さらに祖国と教会は、そして全般的な意味で、主の王国は隣人である。またそれらの状態の性質にしたがって善の愛からそれらに善を行なうことは隣人を愛することである。このようにそれらの善が考慮されなくてはならない隣人である(6818-6824, 8123)。