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天界と地獄461

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48 死後、人間は世でもっていたすべての感覚・記憶・思考・情愛をもち、自分の地的な身体を除いて、何もあとに残さない

461 人間は自然界から霊的なものの中に移るとき、そのことは死ぬときに起こりますが、自分のすべてのものを、すなわち、人間自身にあるものを、自分の地的な身体を除いて、自分自身にもっていることが、多くの経験から私に明らかとなりました。
なぜなら、人間は霊界に、すなわち、死後の生活に入るとき、世でもっていたような身体の中にいるからです。外観に何も相違はありません、相違を感じないし、見えないからです――しかし、彼の身体は霊的なものであり、したがって地的なものから分離したもの、すなわち、清められたものです。霊的なものが霊的なものに触れ、見るとき、それは完全に自然的なものが自然的なものに触れ、見るときのようです。
ここから、人間は霊になったとき、世にあった自分の身体の中にいるとしか知りません、ここから死んだことも知りません。
[2]人間霊〔人間的な霊〕もまた世で享受した外なる感覚と内なる感覚のすべてを享受します。以前のように見、以前のように聞き、話し、また嗅ぎ、味わい、そして以前のように触れられるとき、触覚を感じます。さらにまた以前のように、願い、望み、欲し、考え、熟考し、感じ、愛し、意志します。知的な探究を楽しむ者は、以前のように読み、書きます――一言でいえば、人間は一つの生活からもう一つの生活へ、すなわち、一つの世界からもう一つの世界へ移るとき、ある場所から他の場所へ移るようなものであり、自分自身の中に人間が所有するようなすべてのものをもっています。そのように、地的な身体のものでしかないものの死の後、人間自身の何かが失われた、と言われることはできません。
[3]自然的な記憶もまた人間自身にあります。なぜなら、幼児期の最初から生活の終わりまで、世で聞き、見、読み、言い、考えたどんなものでもすべて保有するからです。しかし、記憶の中に内在する自然的な対象は、霊界で再現されることができないので、それらの対象から考えないときの人間の場合のように、休止します。しかしそれでも、主が喜ばれる時、再現されます。
けれども、この記憶について、また死後の状態について、すぐにあとで多くのことを述べます。
人間の死後の状態がこのようであることを、感覚的な人間は、感知しないので、まったく信じることができません。なぜなら、感覚的な人間は、霊的なものについてもまた自然的にしか考えることができないからです。それゆえ、感じないものを、すなわち、自分の肉眼で見、またその手で触れないものを、トマスについて書かれているように(ヨハネ 20:25, 27, 29)、「存在しない」と言います。
感覚的な人間がどんなものであるかは、前に述べました(267番とそこの*3)。