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天界と地獄267

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267  天使がこれほどの知恵を受けることができるのは、彼らの内的なものが開かれていて、すべてのものの完成が内的なものに向かって増大するように、知恵は彼らが開かれることにしたがって増大するからです(*2)
それぞれの天使のもとに三つの段階のいのちがあり、それらは三つの天界に対応しています(29-40番参照)。最初の段階が開かれている者は、最初の天界または最外部の天界の中にいます。第二の段階が開かれている者は、第二の天界または中間の天界の中にいます。けれども、第三の段階が開かれている者は、第三の天界または最内部の天界の中にいます――天界の天使の知恵はこれらの段階にしたがっています。ここから、最内部の天界の天使の知恵は、中間の天界の天使の知恵よりも計り知れないほど卓越し、中間の天界の天使の知恵は、最外部の天界の天使の知恵よりも計り知れないほど卓越しています(前の209, 210番参照、段階がどんなものかは38番参照)。
このような相違があるのは、高い段階の中にあるものは個々のものであり、低い段階の中にあるものは全般的なものであり、全般的なものは個々のものの容器であるからです。個々のものは全般的なものに対して、一つに対する千または万のようであり、低い天界の天使の知恵に対して高い天界の天使の知恵は相対的にこのようなものです。
しかし、低い天界の天使の知恵でもやはり同様に人間の知恵よりも卓越しています、なぜなら、人間は身体の中に、またその感覚的なものの中にいて、人間の身体の感覚的なものは最も低い段階の中にあるからです。
ここから、感覚的なものから考える者に、すなわち、感覚的な人間と呼ばれる者にどのような知恵があるか明らかです、すなわち、彼らは何らかの知恵の中にいないで、単なる知識の中にいます(*3)
けれども、思考が感覚的なものの上に高揚されている人間は異なり、内的なものが天界の光の中にまで開かれている者はさらに異なっています。


*2 人間は外なるものから内的な視覚へ高揚されればされるほど、それだけ光の中に、したがってそれだけ知性の中にやって来る(6183, 6313)。
実際の高揚がある(7816, 10330)。
外なるものから内的なものへの高揚は、もやから光の中へのようである( )。
外的なものは人間のもとでは神性からさらに遠く離れており、それゆえ、相対的に暗いものである(6451)。
そしてまた相対的に混乱したものである(996, 3855)。
内的なものは、神性にさらに近いので、さらに完全である(5146, 5147)。
内なるものの中には何千また何千ものものがあり、それは外なるものの中では一つの全般的なもののように見える(5707)。
ここから思考と知覚は、内的であるほどますます明らかなものである(5920)。
*3 感覚的なものは人間のいのちの最外部であり、彼の身体に付着し、こびりついている(5077, 5767, 9212, 9216, 9331, 9730)。
身体の感覚からすべてのものを判断し、結論する者は、また目で見、手で触れるもの以外に何も信じない者は、感覚的な人間と言われる(5094, 7693)。
このような人間は、外的なものの中で考え、本質的に内的に考えない(5089, 5094, 6564, 7693)。
彼の内的なものは、そこに霊的な真理を何も見ないように、閉ざされている(6564, 6844, 6845)。
一言でいえば、その者は粗雑な自然的な光の中にいる、またこのように天界の光からのものを何も知覚しない(6201, 6310, 6564, 6598, 6612, 6614, 6622, 6624, 6844, 6845)。
天界と教会に属すものに、彼は内的に対立する(6201, 6316, 6844, 6845, 6948, 6949)。
教会の真理に反するものを確信した学者は、このような者になる(6316)。
感覚的な人間は、他の者にまさって狡猾であり、悪意がある(7693, 10236)。
彼らは、鋭く、巧みに、しかし、形体的な記憶から推論し、その中にすべての知性を置く(195, 196, 5700, 10236)。
しかし、感覚の欺きから推論する(5084, 6948, 6949, 7693)。