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天界と地獄 420

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420.  みことばの何らかの箇所をその文字どおりの意味にしたがって理解して、天界は無辺でなく、小さいという見解をもつ者がいます――例えば、「貧しい者だけが、天界の中に受け入れられ、さらに、選ばれた者でないなら受け入れられない、教会内の者だけで、外の者は受け入れられず、主がとりなしをされた者だけが受け入れられる、天界は満たされると閉ざされ、その時も予定されている」とみことばに言われているからです。
しかし、彼らは、天界は決して閉ざされず、何らの時も予定されていないで、数も限られていないこと、また善と真理の生活の中にいる者が「選ばれた者」と呼ばれ,善と真理の知識をもたないけれども、それらを願う者が「貧しい者」と呼ばれ(*1)、それらの者が、その願いから「飢えている者」と呼ばれることを知りません(*2)
みことばの無理解から、天界が小さいという見解を受け入れた者は、天界が一つの場所にあり、そこにすべてのものが集まっているとしか知りません――そのときそれでも、天界は無数の社会から成り立っています(前の41~50番参照)――また、天界はそれぞれの者に直接の慈悲から与えられ、こうして、ただ意のままに入るのが許され、受け入れられるとしか知りません。主は慈悲から、だれでもご自分を受け入れる者を導かれ、主を受け入れる者とは愛と信仰の教えである神的な秩序の律法にしたがって生きる者であることも理解していません。また慈悲とは、世で幼児の時からいのちの最後の時まで、その後、永遠に主により導かれることを意味しています。
そこで、人間はだれもが天界へと生まれていて、世で天界を自分自身に受け入れる者は天界に受け入れられ、受け入れない者は締め出されることを知らなくてはなりません。


*1 選ばれた者は、善と真理の生活にいる者である(3755, 3900)。
慈悲について理解されているように、その慈悲から天界に選ばれ、受け入れられることはなく、生活にしたがって〔天界に選ばれ、受け入れられる〕(5057, 5058)。
主の直接の慈悲は存在しないが、間接のものは存在する。すなわち、主の戒めにしたがって生きる者は慈悲から世で絶えず導かれ、その後、永遠に導かれることである(8700, 10659)。
*2 みことばの中の「貧しい者」によって霊的に貧しい者が意味される。その者は真理について無知の中にいるが、それでも教えられることを願う者である(9209, 9253, 10227)。
彼らについて「飢えること」と「渇くこと」が言われ、それは善と真理の知識を願うことであり、それによって天界と教会の中へ導き入れられる(4958, 10227)。