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天界と地獄 481

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481. (iii) 愛が天界的で霊的である人間は天界へ行く、愛が天界的で霊的でなくて、身体的で世俗的である人間は地獄へ行くことは、私の見た天界に上げられた者から、また地獄に投げ込まれたすべての者から、私に明らかとなりました。
天界に上げられた者には、天界的で霊的な愛からの生活(いのち)がありました。けれども、地獄に投げ込まれた者には、身体的で世俗的な愛からの生活(いのち)がありました。
天界的な愛は、善・誠実・公正であるゆえに、善・誠実・公正を愛することであり、それらへの愛から、それらを行なうことです。ここから、彼らに善・誠実・公正の生活があり、それらは天界の生活です。
それらのためにそれらを愛し、それらを行なう、すなわち、それらに生きる者は、それらは主からのものであるので、主をもまたすべてにまさって愛します。それらは愛さなければならない隣人であるので、隣人もまた愛します(*5)
けれども、身体的な愛は、善・誠実・公正をそれら自体のためでなく、自分自身のために愛することです、それらによって名声・名誉・利益を獲得するからです。彼らは、善・誠実・公正の中に、主と隣人を見ないで、自分自身と世を見ており、欺瞞に快さを感じています。そして欺瞞からの善・誠実・公正は、悪・不誠実・不正であり、彼らが愛しているのは、善・誠実・公正の中にある悪・不誠実・不正です。
[2]愛はこのようにそれぞれの者の生活(いのち)を決定するので、それゆえ、すべての者は、死後、霊たちの世界にやって来ると直ぐに、どのような者であるか検査され、似た愛にいる者と結びつけられます。天界的な愛の中の者に、天界の者が、身体的な愛の中の者に、地獄の者が結びつけられます。
そしてまた、第一と第二の状態が過ぎ去った後は、もはや互いに見ず、互いに知りもしないように分離されます。それぞれの者が、心のものである内的なものに関してだけでなく、顔・身体のもの・話し方である外的なものに関してもまた、それぞれの者が外部でも自分の愛の似姿となるので、自分自身の愛となるからです。
身体的な愛にいる者は、粗野で、暗く、黒く、奇形に見えます。けれども、天界的な愛にいる者は、元気に満ち、明るく、輝いて、美しく見えます――アニムス(気質)と思考でもまた完全に異なっています。天界的な愛にいる者は、知性と知恵もあります。けれども、身体的な愛にいる者は、愚鈍で、いわば馬鹿者です。
[3]彼らの思考と情愛の内的なものと外的なものを眺めることが与えられるとき、天界的な愛の中にいる者は、内的なものが光のように、ある者の内的なものは炎のような光のように、また外的なものは虹のようにいろいろな美しい色に見えます――しかし、身体的な愛の中にいる者は、彼らの内的なものが、閉ざされているので、黒いもののように、内部で悪意のある欺きの中にいたある者の内的ものは暗い火のように見えます。けれども、外的なものはきたない色に見え、惨めな外観をしています(主が喜ばれるたびごとに、霊界で心(mens)とアニムスに属す内的なものと外的なものは見えるように示されます)。
[4]身体的な愛の中にいる者は、天界の光の中では何も見ません――天界の光は彼らに暗黒です。しかし、炭火からの光のようである地獄の光は、彼らに明るい光のようです。さらにまた天界の光の中で彼らの内的な視覚は、狂うほどにまでも暗くされ、それゆえ、彼らはそれを避け、洞窟やほら穴の中に、彼らのもとの悪からの虚偽にしたがって、奥深く隠れます――けれども、これに反して、天界的な愛の中にいる者は、天界の光の中へ、さらに内部へとやって来るほど、それだけ明るく、すべてのものを、そしてまたすべての美しいものを見ます。そしてそれだけ知性と知恵で真理を知覚します。
[5]身体的な愛の中にいる者は、天界の熱の中で決して生きることができません、なぜなら、天界の熱は天界的な愛であるからです、しかし、地獄の熱の中で生きることができ、その熱は自分に好意を持たない他の者に激怒する愛です。
他の者への軽蔑・敵意・憎しみが、その愛の快さです。それらの中にいるとき、自分自身のいのち(生活)の中にいます。善そのものから他の者に善を行なうこと、また善そのものために善を行なうこととは何かまったく知らないで、ただ悪から、また悪のために善を行なうことしか知りません。
[6]身体的な愛の中にいる者は、天界の中で呼吸することもできません――ある悪い霊が天界へ連れて行かれるとき、身もだえの中で苦しむ者のように、あえぎながら呼吸します。けれども、天界的な愛の中にいる者は、天界の内部にいればいるほど、それだけ自由に呼吸し、豊かに生きます。
これらから、天界的で霊的な愛は、その愛に天界のすべてのものが刻み込まれているので、人間のもとで天界であること、また天界的で霊的なものでない身体的で世俗的な愛は、その愛に地獄のすべてのものが刻み込まれているので、人間のもとの地獄であることを明らかにすることができます。
これらから、その者に天界的で霊的な愛のある者が天界へ行くこと、そしてその者に天界的で霊的なものがなく身体的で世俗的な愛のある者が地獄へ行くことが明らかです。


*5 主は、すべてにまさって愛されなくてはならないので、最高の意味で隣人である。しかし、主を愛することは主からのものを愛すること、このように善と真理を愛することである、主からのすべてのものの中に主がおられるからである(2425, 3419, 6706, 6711, 6819, 6823, 8123)。
主からの善と真理を愛することは、それらにしたがって生きることであり、このことが主を愛することである(10143, 10153, 10310, 10336, 10578, 10645)。
すべての人間、社会、さらに祖国や教会は、そして普遍的な意味で主の王国は、隣人である。またそれらに、それらの状態がどんなものかにしたがって善の愛から、善を行なうことが隣人を愛することである。このように、それに利益を図らなければならないそれらの善が隣人である(6818-6824, 8123)。
誠実という道徳的な善、公正という市民的な善もまた隣人である。誠実で公正な愛から誠実で公正に行動することは、隣人を愛することである(2915, 4730, 8121-8123)。
ここから、隣人に対する仁愛は人間の生活のすべてのものに広がっており、すべての職務とすべての働きの中で、善と公正を行なうこと、そして心から誠実に行動することは隣人を愛することである(2417, 8121, 8124)。
古代教会の中の教えは仁愛の教えであり、ここから彼らに知恵があった(2385, 2417, 3419, 3420, 4844, 6628)。