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天界と地獄352

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352 にせの知性と知恵とは、何が真理と善か、またここから虚偽と悪か、内的なものから見て、知覚することではなく、単に他の者から、「真理と善である、虚偽と悪である」と言われることを信じ、その後、それを確信することです。
彼らは、真理を真理からでなく、他の者から見るので、真理と同じく虚偽も把握し、信じ、それを真理のように見えるまで確信もします。確信されるものはどんなものでも真理の外観を着るからです。また確信されることのできないものは何もありません。
これらの者の内的なものは、下方からしか開かれていませんが、外的なものは確信するほどにまで開かれています。それゆえ、彼らが見るもととなる光は天界の光ではありません、世の光であり、自然的な光と呼ばれます――この光の中で虚偽は真理のように明るく見えることができ、それどころか、確信されるときには光り輝くことができます、けれども、天界の光の中で輝くことはありません。
これらの者の中では、多く確信した者が知性と知恵の少ない者であり、少ししか確信しなかった者が知性と知恵の多い者となります。
これらから、何がにせの知性と知恵か明らかです。
[2]しかし、少年期に教師から聞いて真理であると思い、もし自分自身の理解力から考える時である壮年期に、それらに固執しないで、真理を望み、その願望からそれらを探求し、見つけるとき、内的に感動させられる者は、この類いの者ではありません――これらの者は真理のために真理に情愛を感じるので、確信する前に真理を見いだします(*3)
[3]このことを例によって説明します。
霊たちの間で、「動物はその性質に調和するすべての知識の中に生まれているのに、どうして人間はその知識の中に生まれていないか」という会話がありました。またその理由が、「動物はそのいのちの秩序の中にいる、けれども、人間はその中にいない。それゆえ、彼は認識と知識によって秩序の中へ導き入れられなければならない――しかし、もし人間がすべてのものにまさって神を愛し、隣人を自分自身のように愛するという、いのちの秩序の中に生まれているなら、彼は知性と知恵の中に、またここから、知識がつけ加わるかぎり、すべての真理の信仰の中にも生まれているであろう」と言われました。
善霊は、このことを直ちに見て、そのようであることを真理の光だけから知覚しました。しかし、信仰のみを確信し、ここから愛と仁愛を脇へ退けた霊は、これを理解することができませんでした、彼らのもとの確信された虚偽の光が真理の光を暗くしたからです。


*3 知恵は、真理であるかどうかを確信する以前に、見ることと知覚することである、けれども、他の者から言われたことを確信することではない(1017, 4741, 7012, 7680, 7950)。
真理であるかどうかを確信する以前に、見ることと知覚することは、真理のためにまた生活のために真理に感動する者にだけ与えられる(8521)。
確信の光は自然的な光であり、霊的な光ではなく、悪い者のもとにもありうる感覚的な光である(8780)。
すべてのものは、虚偽もまた、真理のように見えるほどにも確信することができる(2477, 2480, 5033, 6865, 8521)。