カテゴリー

天界と地獄351

350◀︎目次▶︎352

351 世では、教会とみことばの教えからあるいは知識から多くのことを知っている者は、他の者よりも内的にまた鋭く真理を知り、したがってさらに理解力があり、賢明であると信じられています。本人たちが自分自身についてそう信じています――しかし、何が真の知性と知恵か、何がにせの、また何が偽りの知性と知恵か、今から述べます。

[2]真の知性と知恵とは、何が善と真理か、またここから何が虚偽と悪か見て、知覚し、それらを正しく区別し、このことを熟考と内的な知覚から行なうことです。
それぞれの人間のもとに内的なものと外的なものがあります。内的なものは内なる人または霊的な人のものですが、外的なものは外なる人または自然的な人のものです。内的なものが形作られ、外的なものと一つになればなるほど、人間は見て、知覚します。
人間の内的なものは、天界でしか形作られることができません、しかし、外的なものは世で形作られます。
内的なものが天界で形作られるとき、そこにあるものが世からの外的なものに流入し、対応するように、すなわち、一つとなって働くように、それらを形作ります。このことがなされるとき、人間は内的なものから見て、知覚します。
内的なものが形作られるためのただ一つの方法は、人間が神性と天界に目を向けることです、なぜなら、今述べたように、内的なものは天界で形作られるからです。人間が神性へ目を向ける時、神性を信じ、すべての真理と善は、したがってすべての知性と知恵は、神性からであると信じます。神性を信じる時、神性から導かれることを欲します――このようにでないなら、人間の内的なものが開かれることはありません。
[3]その信仰の中にいて、その信仰にしたがった生活をしている人間は、理解することと賢明になることの力と能力の中にいます――しかし、知的な者と賢明な者になるために、多くのことを天界のものだけでなく、世のものもまた学んで獲得しなければなりません。みことばと教会から天界のものを、知識から世のものを学びます。人間が学んで獲得し、生活にあてはめればあてはめるほど、それだけ知的で賢明になります、なぜなら、理解力に属すものである内的な視覚と、意志に属すものである内的な情愛が完成されるからです。
この類いの単純である者は、内的なものが開かれていますが、霊的な、道徳的な、市民的な、自然的な真理によってはそれほど養われていません。これらの者は真理を聞くとき、それらを知覚しますが、それらを自分自身の中に見ません。けれども、この種の賢明である者は、内的なものが開かれているだけでなく、養われてもいます。これらの者は自分自身の中に真理を見て、知覚します。
これらから、何が真の知性と知恵か明らかです。