カテゴリー

天界と地獄353

352◀︎目次▶︎354

353 偽りの知性と知恵とは、神性を承認しないすべてのものです。神性を認めないで、神性の代わりに自然を認める者は、どれほど世で学識があり、博学と信じられていても、すべてのものを身体の感覚から考え、まったく感覚的であるからです(*4)。彼らの学識は、世で目の前に現われるようなものを超えて上昇することがなく、それらを記憶の中に保ち、それらをほとんど物質的に眺めます。それでも同じ知識が真に知性ある者の理解力を形作るために役立ちます。
知識によって、いろいろな種類の実験に基づく知識、物理学・天文学・化学・機械学・幾何学・解剖学・心理学・哲学・国々の歴史、さらに文学・評論・言語などが意味されます。
[2]神性を否定する高位聖職者は、自分の思考を外なる人の感覚を超えて高揚させません。他の者が知識を眺めるのと同じように、みことばを眺め、みことばを照らされた理性的な心からの思考の対象または何らかの熟考の対象ともしません。このことの理由は、彼らの内的なものは、同時に内的なものに最も近い外的なものも、閉ざされているからです――閉ざされているのは、天界から後ろ向きになっており、天界へ目を向けることのできるもの、それは以前に言われたように、人間の心の内的なものですが、それをひっくり返しているからです。
ここから、何が真理と善か、それらが彼らにとって暗黒の中にあるので知ることができません、それでも、虚偽と悪は光の中にあります。
[3]しかし、感覚的な人間でも推論することができ、ある者は他の者以上に巧みで、鋭く推論します、しかし、彼らの知識によって確信した感覚の欺きから推論しています。またこのように推論できるので、さらにまた自分自身が他の者よりも賢明であると信じています(*5)
彼らの誤った推論を情愛によって燃え立たせている火は、自己愛と世俗愛の火です。
これらが偽りの知性と知恵の中にいる者であり、また主により「マタイ福音書」〔の次の箇所〕に、またもう一つの箇所に意味されている者です、

彼らは見ているが見ない、聞いているが聞かない、理解もしない13:13-15)。
知的な者と賢明な者に隠され、幼児たちに現わされた11:25, 26)。


*4 感覚は人間のいのちの最終的なものであり、その身体に付着し、こびりついている(5077, 5767, 9212, 9216, 9331, 9730)。
すべてのものを身体の感覚から判断を下して結論する者は、また目で見て手で触れないなら何も信じない者は、感覚的な人間と呼ばれる(5094, 7693)。
このような人間は、最外部の中で考え、内的に本質的に考えない(5089, 5094, 6564, 7693)。
彼の内的なものは、神的な真理を何も見ないように、閉ざされている(6564, 6844, 6845)。
一言でいえば、粗雑な自然的な光の中にいて、このように天界の光からのものを何も知覚しない(6201, 6310, 6564, 6598, 6612, 6614, 6622, 6624, 6844, 6845)。
それゆえ、内的には天界と教会のものに対立している(6201, 6310, 6844, 6845, 6948, 6949)。
教会の真理に反して自分自身を確信した学者は感覚的である(6316)。
感覚的な人間がどんなものか記述されている(10236)。
*5 感覚的な人間は、すべての知性を具体的な記憶からの話し方の中に置くので、鋭く、巧みに推論する(195, 196, 5700, 10236)。
しかし、感覚の欺きから推論する(5084, 6948, 6949, 7693)。
感覚的な人間は他の者にまさって詐欺的で悪意がある(7693, 10236)。
このような者は古代人により知識の木のヘビと呼ばれてきた(195-197, 6398, 6949, 10313)。