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天界と地獄487

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487. それぞれ者の自然的な快いものが死後に変わる霊的な快いものは、何であり、どんなものかは、対応の知識からでしか知ることができません。
その知識により、全般的に、霊的なものが対応することのない何らかの自然的なものは存在しないこと、そしてまた特定的に、対応するものが何であり、どんなものかを教えられます。
そのために、その知識の中にいる者は、自分自身の愛を、またそれが広く支配している愛の中で、どのようであるかを知るだけで、自分の死後の状態を認め、知ることができます。すぐ前に言われたように、すべての愛がその広く支配している愛へ関係しています。
しかし、自分自身の支配愛を知ることは、自己愛の中にいる者には不可能です。自分自身のものを愛し、自分自身の悪を善と呼び、そして同時にその悪に賛同し、自分自身の悪を強化する虚偽を真理と呼ぶからです。しかしそれでも、もし欲するなら、賢明である他の者から、彼らは自分自身では見れないものを見るので、知ることができます。
しかし、このことも、賢明な者の教えをすべて蹴飛ばすような自己愛に捕らわれた者のもとでは起こりません。
[2]けれども、天界的な愛の中にいる者は、教えを受け入れ、生まれついた自分自身の悪を、その悪の中に導かれる時、真理から見ます、真理は悪を明らかにするからです。
だれでも善からの真理から、悪とその虚偽を見ることができます、しかし、だれも悪から、善と真理を見ることはできないからです――その理由は、悪からの虚偽は暗やみであり、またそれらに対応するからです。それゆえ、悪からの虚偽の中にいる者は、盲目の者のようであり、その者は光の中にあるものを見ないで、フクロウのようにそれを避けます(*1)
しかし、善からの真理は光であり、光に対応します(前の126-134番参照)。それゆえ、善からの真理の中にいる者は、見ており、目は開かれていて、光のものと暗やみのものを見分けます。
[3]これらのこともまた経験によって確信しました。
天界の中にいる天使は、自分自身の中に何度か生じる悪と虚偽を、また霊たちの世界の中で地獄と結びついている霊が入り込んでいる悪と虚偽を見、知覚します。しかし、霊自身は自分自身の悪と虚偽を見ることはできません。
自分自身のために行なわれないなら、何が天界的な愛の善か、何が良心か、何が誠実で公正か、主により導かれることが何であるか、わからないで、「存在しない、したがって無意味である」と言います。
これらのことが言われたのは、人間が自分自身を調べ、自分の快いものから自分の愛を認め、またここから、対応の知識から理解するかぎり、死後の状態または生活を知る、という目的のためです。


*1 みことばの中の「暗やみ」は、対応から虚偽を、そして「濃い暗やみ」または暗黒は、悪からの虚偽を意味する(1839, 1860, 7688, 7711)。
天界の光は悪い者には暗黒である(1861, 6832, 8197)。
地獄にいる者は、悪からの虚偽の中にいるので、暗やみにいると言われる、彼らについて(3340, 4418, 4531)。
みことばの中の「盲目の者」は、虚偽の中にいて、教えられることを欲しない者を意味する(2383, 6990)。