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天界と地獄356

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356 けれども、すべてのものを生活の役立ちに適用させ、同時に神性を認め、みことばを愛し、霊的で道徳的な生活を送り(それについては前の319)、認識と知識によって自分自身に知性と知恵を得た者にとって、知識は、賢明であるための、そしてまた信仰のものを強くするために仕える手段でした。彼らの心の内的なものは、光から透明となった白光りする炎のようであり、または青い色のようであり、ダイヤモンド・ルビー・サファイアのようであるのが知覚され、また見られ、これは知識から神性と神的な真理のための確信にしたがって透明でした。
真の知性と知恵は、霊界で見られるとき、このように現われます。その外観は、主から発出する神的真理である天界の光から得られており、その真理からすべての知性と知恵があります(前の126-133番参照)。
[2]その光の面は、その中に色のような多彩さが生じますが、心の内的なものです。自然の中にあるようなものによって、したがって知識の中にあるようなものによって、神的な真理をいろいろに確信することが、それらの多彩さを生んでいます(*7)――人間の内的な心(mens)は自然的な記憶の事柄を見つめて、そこから確信するものを、天界的な愛の火によっていわば精製し、抽出し、そして霊的な観念にまで純化するからです。このようであることを、人間は身体の中に生きる間は知りません。身体の中では霊的にも自然的にも考えます、しかし、その時、霊的に考えるものは把握しないで、自然的に考えるものだけを把握するからです。けれども、霊界に来ると、その時、世で自然的に考えたものは把握しないで、霊的に考えたものを把握します。このように状態が変化するのです。
[3]ここから、人間は認識と知識によって霊的になりますが、認識と知識は賢明になるための手段であって、信仰と生活で神性を認めた者だけが霊的になることが明らかです。
さらにまた、彼らは他の者にまさって天界に受け入れられ、他の者にまさって光の中にいるので、そこの中央にいる者の間にいます(43)――これらの者は、天界で知的な者と賢明な者であり、大空の輝きのように輝き、また星のように光を放ちます。しかし、そこの単純な者とは、神性を認め、みことばを愛し、霊的で道徳的な生活を送ったけれども、自分の心の内的なものを認識と知識によって耕さなかった者です。
人間の心(mens)は耕される土地のようなものです。

知識について『天界の秘義』からの抜粋

人間は知識と認識を吸収しなければならない、それらによって考えることを学ぶからである。その後、何が真理と善か理解することを、最後に賢明になることを学ぶ(129, 1450, 1451, 1453, 1548, 1802)。
記憶知は最初のものであり、その上に人間の市民的や道徳的な生活と同様に霊的な生活が築かれ、基礎づけられる。記憶知は役立ちを目的として、そのために学ばれる(1489, 3310)。
認識は内なる人への道を開き、そしてその後、外なる人と内なる人を役立ちにしたがって結合する(1563, 1616)。
理性は知識と認識によって生まれる(1895, 1900, 3086)。
真理は認識そのものによるのではない、しかし、認識から、役立ちへの情愛によるものである(1895)。
[2]記憶知には神的な真理が入ることを許すものと入ることを許さないものがある(5213)。
空虚な記憶知は滅ぼされなければならない(1489, 1492, 1499, 1581)。
目的として自己愛と世俗愛をもち、〔これらを〕強化し、神と隣人に対する愛から引き離すものは空虚な記憶知である。このようなものは、その後、人間が天界から何も受けることができないほどにまでも内なる人を閉ざすからである(1563, 1600)。
記憶知は賢明になる手段であり、狂う手段である。それによって内なる人は開かれるかまたは閉じ込められ、このように理性は耕されるかまたは滅ぼされる(4156, 8628, 9922)。
[3]内なる人は、人間が目的として善の役立ちを、特に永遠のいのちを目指す役立ちを持つなら、記憶知によって開かれ、連続的に完成される(3086)。
その時、自然的な人の中にある記憶知は、霊的な人からの霊的なものと天界的なものに出会い、適合するものを養子にする(1495)。
その時、天界的ないのちの役立ちは、主により内なる人を通して、自然的な人の中にある記憶知から引き出され、精製され、高揚される(1895, 1896, 1900-1902, 5871, 5874, 5901)。
調和しないで対立する記憶知は、脇へ退けられ、追放される(5871, 5886, 5889)。
[4]内なる人の視覚は、外なる人の記憶知から、その愛に属すもの以外のものを呼び出さない(9394)。
内なる人の視覚のもとでは、その愛の属すものが真ん中に、また輝きの中にある、けれども、その愛に属さないものは脇に、また暗さの中にある(6068, 6084)。
適合する記憶知は、継続的に彼の愛に植え付けられ、いわば彼の中に住んでいる(6325)。
人間は隣人に対する愛の中に生まれたなら、知性の中に生まれたであろう。しかし、自己愛と世俗愛の中に生まれたので、まったくの無知の中に生まれている(6323, 6325)。
知識・知性・知恵は、神への愛と隣人に対する愛の息子である(1226, 2049, 2116)。
[5]賢明になること・理解すること・知ること・行なうことは別ものである。しかし、それでも霊的ないのち(生活)の中にいる者のもとで、秩序をもって続き、行なうことまたは行為の中に一緒に存在する(10331)。
知ること・認めること・信仰を持つこともまた別ものである(896)。
[6]外なる人または自然的な人にある記憶知は、世の光の中にある。けれども、信仰と愛に属し、このように、いのちを得た真理は、天界の光の中にある(5212)。
霊的ないのちを得ている真理は、自然的な観念によって把握される(5510)。
内なる人、すなわち、霊的な人から、外なる人、すなわち、自然的な人の中の記憶知の中へ霊的な流入がある(1940, 8005)。
記憶知は、内なる人のものである真理と善の容器であり、いわば器である(1469, 1496, 3068, 5489, 6004, 6023, 6052, 6071, 6077, 7770, 9922)。
記憶知は、いわば鏡であり、その中に内なる人の真理と善が映像のように見られる(5201)。
それらはその最後のものの中で一緒であるかのようにそこに存在する(5373, 5874, 5886, 5901, 6004, 6023, 6052, 6071)。
[7]流入は霊的であって物質的ではない、すなわち、内なる人から外なる人へ、このようにその記憶知の中へであり、外なる人から内なる人へ、このようにその記憶知から信仰の真理の中へではない(3219, 5119, 5259, 5427, 5428, 5478, 6322, 9110, 9111)。
原理は、みことばからのものである教会の教えの真理から導かれなくてはならず、それらが最初に認められなくてはならない、その時からは、記憶知に相談することが許される(6047)。
そのように、信仰の真理について肯定の中にいる者に、記憶知によってそれらを知的に確信することが許される、けれども、否定の中にいる者に許されない(2568, 2588, 4760, 6047)。
記憶知から説得されないなら、神的な真理を信じない者は、決して信じない(2094, 2832)。
記憶知から信仰の真理に入ることは秩序に反する(10236)。
そのことをする者は、天界と教会に属すものに関して気が狂う(128-130)。
彼らは悪の虚偽に陥る(232, 233, 6647)。
また来世で、霊的なものについて考えるとき、酔いどれのようになる(1072)。
さらに、彼らはどんなであるか(196)。
霊的なものは、記憶知を通してその中に入るなら把握することができないことを説明する例(233, 2094, 2194, 2203, 2209)。
学識のある多くの者は、霊的なもので単純な者よりも狂っている。その理由は記憶知からの否定的なものの中にいて、彼らの視覚の前に豊富にあるそれらを常に確信しているからである(4760, 8629)。
[8]記憶知から信仰の真理に反して推論する者は、感覚の欺きから推論するので鋭い。それはほとんど追い払うことができないので、とりこにし、納得させる(5700)。
感覚の欺きとは何か、どんなものか(5084, 5094, 6400, 6948)。
真理を何も理解しない者は、そしてまた悪の中にいる者も、信仰の真理と善について推論することができるが、それでも、それらを理解することができない(4214)。
知性とは、単に教義を確信することではなく、確信する前に、真理であるかないか、前もって知ることである(4741, 6647)。
[9]知識は、死後、何もなし遂げない。しかし、人間が知識を通して理解力と生活で汲み取ったものがなし遂げる(2480)。
それでも、すべての記憶知は、死後、残る。しかし、休止している(2476-2479, 2481-2486)。
[10]同じ記憶知が、悪い者のもとでは悪に適用されるので虚偽であり、善い者のもとでは善に適用されるので真理である(6917)。
悪い者のもとの記憶知の真理は、それが語られる時、どれほど真理のように見えても、それらの内部に悪があるので真理ではない(10331)。
[11]霊のもとの、知ろうとする欲望がどんなものか、その例(1974)。
知識・知性・知恵は霊的な食物であるので、天使のもとには、知ろう、賢明になろうとする願望が計り知れないほどある(3114, 4459, 4792, 4976, 5147, 5293, 5340, 5342, 5410, 5426, 5576, 5582, 5588, 5655, 6277, 8562, 9003)。
古代人の知識は対応と表象の知識であり、それらによって自分自身を霊的な思考の中へ導き入れた。しかし、それらの知識は今日では完全に消し去らされた(4749, 4844, 4965, 4965)。
[12]次の全般的なものが知られないなら、霊的な真理が理解されることはできない、すなわち――
(i)全世界の中のすべてのものは、何らかのものであるために、善と真理に、また両方の結合に関係し、このように愛と信仰に、またそれらの結合に関係する。
(ii)人間のもとに理解力と意志があり、理解力は真理の容器であり、意志は善の容器である。すべてのものが真理と善に関係し、その結合に関係しているように、すべてのものは人間のものとその二つのものに関係し、それらの結合に関係する。
(iii)内なる人と外なる人がいて、それらはそれら自身の間で天界と世のように区別される。それでも、人間が真の人間であるためには一つにならなくてはならない。
(iv)天界の光の中に内なる人が、世の光の中に外なる人がいる。天界の光は神的真理そのものであり、それからすべての知性がある。
(v)内なる人の中のものと外なる人の中のものの間に対応があり、ここから対応の知識によらなければそれらのものは見分けられないほど別の外観で見られる。

もしこれらや他の多くのものが知られないなら、霊的なまた天的な真理についての観念は、つじつまの合わないものを獲得して形作ることしかできない。このように自然的な人にある記憶知と認識は、これらの全般的なものがなくては、理性的な人に、知性とその増大のために少しも役立つことはできない。ここから、記憶知がどれほど必要なものであるか明らかである。


*7 極めて美しい色が天界の中に見られる(1053, 1624)。
天界の中の色はそこの光からであり、その光に変化と多彩さがある(1042, 1043, 1053, 1624, 3993, 4530, 4922, 4742, 4299)。
そのように、それらは善からの真理の外観であり、知性と知恵に属すようなものを意味する(4530, 4677, 4922, 9466)。