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天界と地獄278

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278  知恵の無垢は、内なるものなので本物の無垢です。なぜなら、心(mens)のものそのもの、したがって意志のものとここから理解力のものそのものであるからです。それらの中に無垢があるとき、知恵もまたあります、なぜなら、知恵はそれらに属すからです。
ここから天界で、「無垢は知恵の中に宿り、天使に無垢があればあるほど、それだけ天使は知恵の中にいる」と言われます――このようであることを天使は、無垢の状態の中にいる者が、自分自身に何も善を帰さないで受けたものすべてを主に帰することによって、自分自身により導かれるのではなくその方により導かれることを欲することよって、確信しています。彼らは、善を愛し、そのようにそれを欲し、行なうことは主を愛すること、真理を愛することは隣人を愛することであることを知り、知覚しているので、善であるものすべてを愛し、真理であるものすべてを喜びます。少しであろうと多くであろうと、自分自身のものに満足して生活しています。役立てば役立つほど、それだけ受けることを知っていて、役立ちが少ない者には少しのものが、役立ちが多い者には多くのものが与えられており、何が自分に役立つか知らないで、主だけが永遠のいのちを目的としたものを知られ、それをすべて備えられると知っているからです――
[2]ここから、将来についても心配していません。将来についての心配を、〝明日のための心配〟と呼んで、「いのちの役立ちに必要でないものを奪われるかまたはこのようなものを受けないことによる悲しみです」と言っています――仲間に対して決して悪の目的から行動しないで、善・公正・誠実から行動します。彼らは、悪の目的から行動することを狡猾と呼び、無垢にまったく反しているので、これをヘビの毒のように避けます。
主から導かれることほど彼らが愛するものは何もなく、また受けたものはすべてその方により受けたとしているので、それゆえ、自分自身のプロプリウムから遠ざかっています、自分自身のプロプリウムから遠ざかるほど、それだけ主が流入します。ここから、みことばによろうと説教によろうと、主から聞くことを記憶の中に蓄えないで、直ちにそれに従います、すなわち、意志し、行ないます。彼らの記憶がそのまま意志です。
彼らの大部分は、外なる形の中で単純な者に見えますが、内なるものの中では賢明で分別のある者です。彼らは主により〔次のみことばで〕意味される者です、

蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさいマタイ10:16)。

無垢はこのようなものであり、知恵の無垢と呼ばれます。
[3]無垢は、それ自体に何も善を帰さないで、すべての善を主に帰し、このように主から導かれることを愛するので、ここから善と真理をすべて受け入れ、そのことから無垢には知恵があります。それゆえ、人間は、幼児のとき外なる無垢の中に、しかし、老人になったとき内なる無垢の中にいて、前者の無垢によって後者の無垢の中にやって来て、後者の無垢から前者の無垢の中に戻るように、このように創造されています――それゆえ、人間は老人になるとき、身体もまた縮小し、新たに幼児のようになります、しかし、分別のある幼児であり、そのように天使となります。なぜなら、分別のある幼児はすぐれた意味で天使であるからです。
ここから、みことばの中で「幼児」は無垢を、「老人」は無垢がある賢明な者を意味します(*2)


*2 みことばの中の「幼児」によって無垢が意味される(5608)。「乳児」によっても意味される(3183)。
老人によって賢明な者が意味され、抽象的な意味で知恵が意味される(3183, 6524)。
人間は、老年に向かうほど幼児のようになり、その時、無垢が知恵の中にあり、そして、その状態で人間は天界に移り、天使になるように創造されている(3183, 5608)。